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2024年9月25日水曜日

『京都げのむ』と『建築雑誌』あるいは『都邑通信』, GAJapan 2002 0201

GAJapan 2002

『京都げのむ』と『建築雑誌』あるいは『都邑通信』

 

布野修司

 

 昨年、京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL:http://www.kyoto-cdl.com)という京都のまちづくりに関わる組織を発足させ(20011月)、『京都げのむ』という雑誌を創刊した(1014日)。平行して日本建築学会の会誌の編集委員長に就任することとなり(61日)、今年の1月号から2年間、24号、『建築雑誌』の編集に携わることになった。編集部からの注文は、「建築雑誌というあるエスタブリィッシュした名門の全国規模の(でも、一つの業界内部の)メディアと京都CDLの新しい、挑戦的な、またある種地域的な雑誌に同時に関わられて」、一体なにを考えているのか、ということである。

 メディアということであれば、1850号続けた『群居』に区切りをつけて『都邑通信』(http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/funo_lab/)という雑誌も創刊した(2001128日)ばかりだ。また、京都大学では『Traverse---新建築学研究』(20006月創刊:  http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/TRAVERSE.html/)の編集委員でもある。編集好きなのかもしれないけれど、何も特別なことをしているつもりはない。様々な次元で考えることがあり、動くことがあり、それを記録しておきたいと思うだけだ。

個々のメディアの目指すところの詳細はそれぞれのウエッブ・サイトに委ねたい。『建築雑誌』については、1月号にその基本的スタンスを書いた。また、編集長日誌(http://news-sv.aij.or.jp/jabs/)を見ていただければ何を考えて編集しているのかお分かり頂けると思う。瓢箪から駒で、全頁カラー化が実現した経緯もそこにある。

京都CDLは、簡単に言えば、タウン・アーキテクト制のシミュレーションであり実践である。各チーム(大学の研究室)がそれぞれ地区を担当し、毎年ウォッチングし、提案を競う。それを記録するのが『京都げのむ』である。基本的に若い仲間の手に編集権がある。京都にとってかけがえのない遺伝子を発見し維持したいという思いがその命名に示されている。

半年ほど編集委員会で議論を重ねた末に1月号の特集テーマは「建築産業に未来はあるか」となった。日本の建築生産の仕組みが今こそ問われているときはないという判断がある。そして、日本の建築界が大きく転換しつつあることと京都CDLの動きは無縁ではない。というより、日本の建築家の職能の行方(生き延びる道)を鋭く直感するが故の京都CDLの運動なのである。

見るところ建築ジャーナリズムは軒並み元気がない。要するに面白くない。不況で建築作品に力がなく、広告が経るのだから仕方がない、と言うなかれ。常にテーマはあり、やることは山ほどある。どんな時代であれ、時代の根を記録すべきだし、建築の方向をめぐって議論を先導すべきである。

はっきりしているのは、建設投資が国民総生産の2割を占めるそんな時代は最早あり得ないことだ。先進諸国をみても明らかなようにそれは半減してもおかしくない。そして、スクラップ・アンド・ビルドではなく、建築ストックの再利用、維持管理が主体となっていくことも明らかである。地球環境全体の問題が大きく主題化され、省資源、リサイクルなど既に大きなテーマになりつつあるところだ。そして、建築家の多くは地域社会との結びつきを強めて行かざるを得ないことも見えている。だから、タウン・アーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)であり、まちづくりなのだ。そして、もうひとつ挙げるとすれば、海外だろう。地球を広く見渡せば、まだまだ日本の建築家を必要とする多くの地域がある。すなわち、維持管理、まちづくり、国際化は日本の建築家のめざすべき方向に関わる3つの分野である。

そして、それ以前に建築界全体に求められることがある。歴史的に問われ続けてきた建築産業の体質が最終的に問われているのだ。公共事業に対する説明責任、設計そして施工に関わる業務発注の適正化、建築家の資格、報酬、保険、・・・要するに、建築界をめぐってテーマは目白押しなのである。建築ジャーナリズムは時代を遙かに透視する作品(言説、活動)を視ているかどうか、どう組織できるかが勝負であろう。

『建築雑誌』は従って特集テーマに困ることはない。学会、会長の掲げる方針をこなすのでも大いに忙しい。『京都げのむ』の方も、具体的な地域で何が起こっているかを記録するだけで大変である。例えば、都市再生の大合唱は果たして何を意味するのか。不況だというのに、京都の都心にマンションが林立している。考える事はいくつもあって、住んでいる場所を問うのが原点となる。『都邑通信』では、京都について一冊ものするつもりで、連載を開始したところである。

  

2024年7月30日火曜日

住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

  住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

住宅建築400号記念

そして、『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈

布野修司

 

前川国男(19869月)、大江宏(19896月)、天野太郎(19911月)、宮内康(199212月)、吉村順三(19977月)、三浦周治(19988月)、宮脇檀(19991月)、林雅子(20013月)、大島哲蔵(200210月)、藤井正一郎(20048月)、小井田康和(200610月)、石井修(200711月)、村田靖夫(20071月)を追悼し、自ら宮嶋圀夫(878月)、増沢洵(199012月)、浜口隆一(19953月)、みねぎしやすお(19985月)、神代雄一郎(20015月)、そして立松久昌(200311月)と6人の追悼文を平良さんは400号のうちに書いている。「戦後建築」を懸命に生きてきた人たちが次々に亡くなる中で、平良さんの健在が頼もしい。101号から200号まで編集長を務めた立松久昌さんがいないから、余計そう思う。建築ジャーナリズムが「消滅」してしまった現在、『住宅建築』は数少ない救いである。平良さんが編集長に復帰(20065月~)して、『住宅建築』は、やっぱり平良さんの雑誌なんだ、とつくづく思う。少なくとももう100号は平良さんに続けて欲しい。

『住宅建築』には、19844月号に「住まいにとって豊かさとは何か」を書かせて頂いたのが最初である。「戦後建築の初心」に戻って、「建築家は住宅に取り組むべきだ」と、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和と四人で『群居』創刊号を出したのが丁度一年前であった。手作りのワープロ雑誌であり、比べるのも烏滸がましいが、『群居』は、2000年、50号まで出し続けて力尽きた(平良さんにアドヴァイスも受けたが、2000部で始めた雑誌はその予言通りじり貧になった)。

その後、「原点としての住宅-「大きな物語」の脱構築のために」(198811月)「「方丈庵」夢-原点としてのローコスト住宅」(199012月)など『群居』で考えたことを書かせて頂き、『住宅戦争 住まいの豊かさとは何か』(彰国社)をまとめることができた。創刊200号記念特大号には、京都に移ったばかりであったが、「座談会:200号まで来た」(布野修司・益子義弘+平良敬一・立桧久昌・植久哲男:199111月)には呼んで頂いた。

「建築思潮」という名前を貸して頂いた『建築思潮』創刊号(1992年)―これも5号(1998年)で終息してしまった―で「戦後ジャーナリズム秘史」と題してロング・インタビューを行ったことがあるが、その最後に平良さんは次のように言っている。

「僕は、建築家を主体とした歴史というより、ヴァナキュラーなものに興味がある。ポストモダンという中でも、ヴァナキュラーなものが取り上げられるでしょう。僕は、あれだけは大変興味ある。・・・・既成の、正統な建築史のフレームは、今崩壊しつつある。崩壊しつつある時にポストモダンがでてきたと僕は思う。それは一種の危機の表現だ。建築家だって増えてるでしょう。大衆化してる。前川、丹下どころじゃなくて何万人もいる。何万人か、何十万人か、建築や施工に携わる人たちがいるなかで、そういう人たちがどういう世界をつくるかというのに僕は興味がある。・・・」僕は、最近、ヴァナキュラーなものの本ばっかりやってる。おもしろいんだよ。戦後50年代のセンスはなかなか変わらないよ。二十代の経験は大事だよね。」

『住宅建築』は、はっきりと、現代のヴァナキュラーな世界とその(再)構築を目指している。キーワードは、地域であり、職人であり、技能であり、集落であり、・・・・・・・。平良さんは「批判的地域主義」ともいう。平良さんはこの間太田邦夫先生や鈴木喜一さんと一緒に随分世界を歩いている。『住宅建築』の大きな魅力のひとつは、「集落への旅」である。「日本の集落」(19761983年)、「中国民居(ミンチイ)・客家(ハッカ)のすまい」など「中国民居」のシリーズ(1987年~)から近年の「アジアの集落-その暮らしと空間」(2007年2月~)まで大きな軸になっている。また、「身近な歴史の再発見」「時代を超えて生きる」といった歴史を、近代を見直すシリーズが心強い。さらに、大工棟梁、職人、技能への視線が縦糸として通っている。そして、毎号紙面に登場する設計者とその作品群がひとつのワールドをつくりあげてきた。

「運動体としての『住宅建築』」(20056月号)と平良さんはいう。そして、神楽坂建築塾など若い人たちと協働することに熱心である。『国際建築』『新建築』『建築知識』『建築』『SD』『都市住宅』『店舗と建築』『造形』と戦後建築の歴史を刻む名編集長として知られる平良さんの最後で最長の雑誌が『住宅建築』である。その行き着いた地平は極めて重要である。この運動体のネットワークをどこまで拡げることができるかは、『住宅建築』とともに、建築界の大きな課題であり続けている、と思う。