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2022年8月18日木曜日

追悼・宮内康 『寄せ場』、1991

 追悼・宮内康

                                             布野修司

 

 建築家、宮内康が逝った。一九九二年一〇月三日、午後八時。享年五五才。

 宮内康といえば、「日本寄せ場学会」の会員であれば、あるいは本誌の読者であれば、さらに山谷の労働者諸君であればもちろんご存じであろう。山谷労働者福祉会館の設計者であり、その企画から竣工に至るまでなくてはならぬ建築家であった。また、「寄せ場」の現実を真正面から見つめ続ける建築家であった。僕らはまたしても偉大な友人を、リーダーを失ったことになる。実に悲しい。

 五月一二日の入院以来、経過を知らされていたものにとっては、遠からずこの日が来ることは予感もし、覚悟していたことであったが、それにしても早すぎる。若すぎる。残念である。

 

 宮内康さん(本名は、康夫、康(こう)は言うなればペンネーム。何故か、本人自ら「康」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。)は、神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。東京大学の建築学科、吉武・鈴木研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、あるいは、原広司、香山寿夫らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動がその母胎になっている。しかし、僕のみるところ、康さんがオーソドックスな建築家になることを志した形跡はない。

 何故、建築を選んだのか、今にして思うと残念なのであるが、本人に聞いたことが無い。僕の知る限り、康さんは、建築を狭い限定した枠組みで語るのを極度に嫌った。一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めるのであるが、「建築」じゃないんだ、「時代」を語りたいんだ、というのが口癖であった。僕自身は、「同建」の結成からのつきあいなのであるが、少なくとも、建築を空間的にも時間的にもより広大な視野から捉え直す意味をことあるごとに康さんから学んだように思う。

 考えてみれば、康さんの建築界におけるデビューは「建築批評」であった。その批評あるいは建築論の展開は、六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だったと思う。また、続いて、六八年が、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だったと思う。その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。六〇年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』(井上書院)である。

 『怨恨のユートピア』は、多くの若い建築家や学生に読まれた。もちろん、建築の分野に限らないのであるが、宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新の『空間へ』、原広司の『建築に何が可能か』、長谷川尭の『神殿か獄舎か』と並んで僕らの必読書となったのである。

 何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、必ずしもアジテーターであったわけではない。文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など僕らの想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。

 建築批評家としてみると、宮内康の著作は決して多くない。単行本としては『風景を撃て』(相模書房)があるだけである。様々なメディアに書き続けられた原稿は第三の建築論集として纏められる機会を失ったのである。後は、同時代研究会編の『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室)など共著となる。同じく、同時代建築研究会編の『現代建築』(新曜社 近刊)が生前上梓できなかったのはいかにも残念であった。

 六八年において、社会変革へのラディカリズムと建築との絶対的裂け目を確認したのだ、と、「アートとしての建築」へと赴いたのが、あるいは「建築」を自律した平面に仮構することによって「建築」の表現に拘り続けたのが磯崎新であり、原広司である。それに対して、裂け目を認めようとせず、全く新たな建築のあり方を深いところで考え続けてきたのが宮内康である。もっと書いて欲しい、という期待は常に宮内康に注がれ続けたのであるが、もとよりその作業は容易なことではなかったように思う。

 極めて、大きかったのは、理科大との裁判闘争である。その経緯については、記録集『鉄格子の大学から』もあるし、『風景を撃て』にも詳しい。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。彼は、その後のかなりの時間を救援連絡会議の事務局を引き受けることにおいて割くことになるのである。

 建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。イメージは、梁山泊である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。議論を肴に酒を飲むのが何よりも好きであった。また、そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。

 作品はもちろん数多い。住宅が多いのであるが病院や事務所など妙に味のある作品を残している。この作品という言い方を康さんは嫌ったが宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。つい最近発表された「数理技研 オープンシステム研究所」も康さんらしい。近年の代表作といっていい出来映えを示している。天井輻射冷暖房を取り入れるなど他に先駆けた工夫もある。

 しかし、振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないか。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対する異議申し立てになっているのである。康さんは結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。

 そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが一目見て絶賛したのも、共感する臭いを一瞬のうちに感じとったからであろう。

 建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。しかし、遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。おそらく、宮内康にとって初の受賞ではないか。しかし、これまた間に合わなかった(一一月一九日受賞式)。つくづく、不運である。

 遺作になったのが、七戸町立美術館(青森県)である。無念ながら、その完成を待たずに逝くことになった。かなり大きな公共建築の仕事であり、事務所の経営も軌道に乗り始めた矢先の死であった。ただ、少なくともその完成までは、その遺志を継ぎながら、宮内康建築工房は運営されつづける予定である。                          

                               合掌

   

 


 

2022年8月10日水曜日

建築現象の全的把握を目指して: 吉武計画学の過去・現在・未来?、建築雑誌、2003?

 建築現象の全的把握を目指して:

吉武計画学の過去・現在・未来?

 

布野修司(京都大学大学院)

 

吉武計画学とはいったい何か、その成果は如何に継承され、また、今後どう展開しようとしているのか。ありきたりの追悼文ではなく、その総括を、というのが編集部の依頼である。筆者は、東京大学吉武研究室最後の大学院生であった。ともにその学の成立を担った青木正夫・鈴木成文両先生以下綺羅星のごとく並ぶ諸先輩ではなく指名をうけたのは世代的に距離があるからである。また、ともに建築計画学の成立に大きな役割を果たした西山(夘三)スクールの拠点であった京都大学に奉職していることもある。とてもその任にあらずとは思うけれど、吉武計画学の継承発展は日々のテーマである。その総括をめぐっては筆者も編集に携わった『建築計画学の軌跡』(東京大学建築計画研究室編、1988年)があり、それ以上の新たな資料を得たわけではないが、以下は、いずれ書かれるべき吉武泰水論のためのメモである。

吉武計画学がスローガンとしたのは「使われ方の研究」である。ベースには西山夘三の「住まい方の研究」がある。西山の住宅調査の手法を不特定多数の利用する公共的空間に拡大しようとしたのが吉武計画学である。使用者(労働者)の立場に立って、という視点は戦後民主主義の流れに沿ったものであった。

第2に、吉武計画学を特徴づけるとされるのは「施設縦割り研究」である。また、「標準設計」である。吉武計画学の成立を中心で支えた研究会LV(エル・ブイ)のごく初期に、住宅、学校、病院、図書館といった公共施設毎に情報を集め、それぞれに集中する専門家を育てる方針が出されている。「標準設計」は、「型計画」の帰着でもあるが、戦後復興のために要請される公共建築建設の需要に応えるためにとられた研究戦略であった。また、各施設について多くの専門家が育つことによって一大スクールが形成されることとなった。

第3に、吉武計画学には「平面計画論」というベースがある。つけ加えるとするともうひとつ「生活と空間の対応」に着目し平面を重視した。素朴機能主義といってもいいが、その平面計画論には、人体にたとえて、骨格として建築構造、循環系としての環境工学に対して、その他の隙間を支える空間の論理を組立てたいという、すなわち建築計画という分野を学として成立させたいという意図があった。吉武先生の学位論文は知られるように規模計画論である。数理に明るいという資質もあるが、まずは論理化しやすい規模算定が選択されたのであった。しかし、その最初の調査が銭湯の利用客に関する調査であったことは記憶されていい。

以上のような吉武計画学の成果はやがて「建築設計資料集成」という形でまとめられる。体系化以前の段階では、フール・プルーフ(チェックリスト)にとどまるのもやむを得ない、というのがその立場であった。

吉武計画学の展開に対して批判が出される。ひとつは「作家主義」か「調査主義」か、という問いに要約されるが、創造の論理に展開しうるのかという丹下研究室による批判である。また、あくまでも「設計」に結びつく研究であることを主張する吉武研究室に対して、性急に設計に結びつける以前に、縦割り研究には地域計画が抜けているという西山研究室の批判である。そして、研究室内部からの空間論の提出である。さらに、吉武計画学には建築を組み立てる建築構法さらには建築生産に関わる論理展開が欠けている。いずれも調査、研究、設計、計画の全体性に関わる吉武計画学の限界の指摘である。筆者が研究室に在籍した1970年代初頭に既に、上記のような限界は明らかであった。オープンスクールの出現や様々な複合施設の登場に対して縦割り研究や制度を前提にしての使われ方研究の限界は充分意識されていた。

まず確認したいのは、戦後の出発点で行われた調査が、銭湯調査を含めて今日でいう都市調査を含んでいることである。都市のあり方を明らかにする中で公共施設のあり方が探られようとしたのであって、逆ではない。縦割り、標準設計、資料収集は時代の産物であり、少なくとも最終目的ではなかった。

また、当初から求められたのは単なるチェックリストではなく、空間と人間の深い次元における関わりである。読まされたのは専ら文化人類学や精神分析、現存在分析に関する書物であった。読書会を組織するように命じられたのだが、わずかな人数の会に毎週熱心に出席された。後に夢の分析に繋がる関心は既にあり、文学作品による空間分析もわれわれに既に課されていた。建築に関わる諸現象の本質をどう捕まえるかという関心は当初から一貫していたという強い印象がある。

調査はどうやるんですか?といういかにもうぶな質問に、「とにかく一日中現場にいなさい、そして気のついたことは何でもメモしなさい。あらゆるデータは捨てては駄目です」、という言葉が今でも耳に残っている。

 

 

 

 

 

京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987  日本建築学会賞受賞(1991)』など。

 

2021年4月4日日曜日

追悼 宮内康、建設通信新聞、1992 1027

 追悼 宮内康、建設通信新聞、1992 1027

追悼・宮内康                                                布野修司


 一九九二年一〇月三日の深夜、『住宅建築』の立松久昌さんから電話があった。「宮内死んだ」。「残念でした」。口をついて出た言葉は意外にクールであった。五月一二日の入院以来、経過を知らされ、遠からずこの日が来ることを予感し、覚悟していたからかもしれない。しかし、日毎に無念さが増してくる。享年五五才。早すぎる。若すぎる。残念である。

 宮内康さんとは、一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めて以来のつきあいである。研究室の先輩なのであるが、歳が一回り下ということもあって、それ以前に、研究や設計活動に関したつき合いはなかった。当時コアスタッフのひとりとして関わっていた『建築文化』のシリーズ「近代の呪縛に放て」で、原稿依頼をしたのが最初の出合である。

 その後、十数年にわたって、康さんの側に居て実に多くを学んだ。建築へのラディカルな視点を、議論のスタイルを、文章の書き方を、そして、酒の飲み方を。碁だけはついに落第だったのだけれど、・・・。

 「設計工房」、「AURA設計工房」そして「宮内康建築工房」、康さんのいる場所は、いつも学校であり塾であった。梁山泊のイメージが常に康さんにあったように思う。康さんは、その資質において生まれながらにして教師であり、先生だったのだと僕は思う。

 康さんの人生にとって、最も大きかったのは、理科大闘争であった。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康さんは大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断であった。実に不幸であった。

 いずれしっかりした宮内康論を用意しなければならない。宮内康さんに直接教えを受けた者のそれは義務でもある。『怨恨のユートピア』(井上書院)を繰り返し読もう。何よりも言葉が鮮烈である。宮内康さんは、最後までラディカルな建築家として生き続けたのであるが、文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など僕らの想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。『風景を撃て』(相模書房)もまた座右の書にしよう。時代との鮮烈な闘いがそこにある。

 同時代建築研究会による『現代建築』(新曜社 近刊)が生前上梓できなかったのはいかにも残念であった。いずれにせよ、誰かが『怨恨のユートピア』を書き続ける必要があろう。宮内康さんは居て貰わないと困るのである。

 建築家として代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないかと僕は思う。寿町、釜ケ崎と続けて、「寄せ場」三部作になればいい、というのが康さんの希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対する異議申し立てになっている。康さんは最後まで異議申し立ての建築家だった。

 遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。しかし、間に合わなかった(一一月一九日受賞式)。つくづく、不運である。

 遺作になったのが、七戸町立美術館(青森県)である。無念ながら、その完成を待たずに逝くことになった。ただ、少なくともその完成までは、その遺志を継ぎながら、宮内康建築工房は運営されつづける予定である。                                                               合掌