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2021年4月4日日曜日

追悼 宮内康、建設通信新聞、1992 1027

 追悼 宮内康、建設通信新聞、1992 1027

追悼・宮内康                                                布野修司


 一九九二年一〇月三日の深夜、『住宅建築』の立松久昌さんから電話があった。「宮内死んだ」。「残念でした」。口をついて出た言葉は意外にクールであった。五月一二日の入院以来、経過を知らされ、遠からずこの日が来ることを予感し、覚悟していたからかもしれない。しかし、日毎に無念さが増してくる。享年五五才。早すぎる。若すぎる。残念である。

 宮内康さんとは、一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めて以来のつきあいである。研究室の先輩なのであるが、歳が一回り下ということもあって、それ以前に、研究や設計活動に関したつき合いはなかった。当時コアスタッフのひとりとして関わっていた『建築文化』のシリーズ「近代の呪縛に放て」で、原稿依頼をしたのが最初の出合である。

 その後、十数年にわたって、康さんの側に居て実に多くを学んだ。建築へのラディカルな視点を、議論のスタイルを、文章の書き方を、そして、酒の飲み方を。碁だけはついに落第だったのだけれど、・・・。

 「設計工房」、「AURA設計工房」そして「宮内康建築工房」、康さんのいる場所は、いつも学校であり塾であった。梁山泊のイメージが常に康さんにあったように思う。康さんは、その資質において生まれながらにして教師であり、先生だったのだと僕は思う。

 康さんの人生にとって、最も大きかったのは、理科大闘争であった。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康さんは大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断であった。実に不幸であった。

 いずれしっかりした宮内康論を用意しなければならない。宮内康さんに直接教えを受けた者のそれは義務でもある。『怨恨のユートピア』(井上書院)を繰り返し読もう。何よりも言葉が鮮烈である。宮内康さんは、最後までラディカルな建築家として生き続けたのであるが、文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など僕らの想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。『風景を撃て』(相模書房)もまた座右の書にしよう。時代との鮮烈な闘いがそこにある。

 同時代建築研究会による『現代建築』(新曜社 近刊)が生前上梓できなかったのはいかにも残念であった。いずれにせよ、誰かが『怨恨のユートピア』を書き続ける必要があろう。宮内康さんは居て貰わないと困るのである。

 建築家として代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないかと僕は思う。寿町、釜ケ崎と続けて、「寄せ場」三部作になればいい、というのが康さんの希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対する異議申し立てになっている。康さんは最後まで異議申し立ての建築家だった。

 遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。しかし、間に合わなかった(一一月一九日受賞式)。つくづく、不運である。

 遺作になったのが、七戸町立美術館(青森県)である。無念ながら、その完成を待たずに逝くことになった。ただ、少なくともその完成までは、その遺志を継ぎながら、宮内康建築工房は運営されつづける予定である。                                                               合掌





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