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2021年4月14日水曜日

現代建築家批評31 「主題の不在」という主題   磯崎新の時代 1968-89

 現代建築家批評31 『建築ジャーナル』20107月号

現代建築家批評31 メディアの中の建築家たち


「主題の不在」という主題 

 磯崎新の時代 1968-89[i]

 

1931年生まれの磯崎新は、1970年代、80年代、90年代は自らの40歳代、50歳代、60歳代にそのまま重なる。磯崎自身、時代の転換は10年単位に意識され、例えば、10年毎に危機に陥り、挫折を繰り返してきたという。

60年代、70年代の始まりの頃には肉体的にダウンした。それは肉体的な危機でもあった。80年代は、90年代の始まりには方法的にダウンした。仕事のやり方が転換した」[ii]

続けて、60年代:システム、70年代:メタフォア、80年代:ナラティブ、90年代:フォルムなどと自らの関心と軌跡を10年毎に説明しようとしたりしている。しかし、上述のように、決定的なのは1968年という閾である。

磯崎は、1968-1970)において、「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見てしまった」と振り返る。「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい」また「デザインを放棄する、あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」というのが総括であった(『建築の解体』)。

若い建築家たちは、この磯崎の結論を前川國男の「いま最も優れた建築家とは、何もつくらない建築家である」[iii]という発言と共に受け止めた。実際、建築から離脱していった、あるいは離脱せざるを得なかった多くの建築学生たちがいる。

建築の解体

磯崎が選択したのは、「デザイン」であり、「芸術(アート)としての建築」である。「反芸術」もまた「芸術」である、という「芸術消滅不可能性の原理」(宮川淳)が予め想起されていたのかもしれない。しかし、前提として、既成の「建築」、すなわち「芸術としての建築」は一旦は解体されなければならない。磯崎新が目論んだのは、「建築」をあらゆる頸木―時間的序列(歴史)、社会的コンテクスト(場所)、様式、テクノロジー―から切断し、自立した平面に仮構することであった[iv]

『建築の解体』(美術出版社)が上梓されるのは1975年であるが、その基になった原稿は、1960年代末から既に『美術手帖』誌に連載されていたものだ。1968年に大学に入学した僕らは、本の形になる前にコピーして読んだ。H.ホライン、アーキグラム、チャールス・ムーア、セドリック・プライス、C.アレグザンダー、R.ヴェンチューリ、スーパースタジオ、アーキズーム、当時の最先端の建築家の仕事についての情報源、虎の巻であった。

磯崎自身にとっては、「建築の解体」の連載を続けることは、自らの「分裂」状況、「ダブルバインド」状況を回避するための必死の作業であった。そして、実際、60年代における同世代の作家たちの拡散的な作業を、いわゆる<建築>の概念の否定、拡張(他領域言語の導入、建築の概念の全環境への拡張)と<近代建築>の規範(インターナショナル・スタイルと機能主義的方法)の解体の相互に連関する二重の解体作業として位置づけ、それを症候群として整理することで、自らの方向を見定めることになるのである。

この連載の第一回にも書いたけれど、僕の『戦後建築論ノート』(1981)(『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(1995))は、第一章を「建築の解体―建築における一九六〇年代―」と題する。メタボリズムのイデオローグ川添登の『建築の滅亡』(1960)と磯崎新の『建築の解体』の間に「近代建築」批判の方向性を見出そうとした論考[v]である。繰り返し書くように、ターゲットはメタボリズムである。そして、関心は、磯崎新とメタボリズムの関係であり、その間の距離である。

1978年の磯崎論において次のように書いた。

「磯崎とメタボリズムとの関係は、磯崎を捉える上で欠かすことのできない視点である。何よりも、彼は、メタボリズムとの距離を自己確認のための最大の尺度としてきたのであり、メタボリズムへの批判、際の測定を専ら梃子としてきたと言いうるからである。そして、その関係は、われわれにとって、それ以上の意味をもっている。何故なら、その同相性(共有されていたもの)において、建築における60年代の位相を、その異相性(差異)において70年代の建築の位相を捉えることがとりあえずできるからである。」

手法:引用と暗喩

 磯崎新が、最初の突破口としたのは手法である。『手法が』が上梓されるのは1979年であるが、「何故「手法」なのか」[vi]「手法について」[vii]は、早くも1972年に書かれている。

 手法といっても、磯崎がまず依拠したのは、正方形とか円形という純粋な幾何学的形態、三次元に拡張すればプラトン立体を様々に-切断、射影、布石、転写、増幅、梱包、応答-操作する、そういうレヴェルの手法である。

磯崎が切り開いた幾何学的形態の操作を手法とする諸作品は、やがて「○△□」などと称され(レッテルが貼られ)、ポストモダンのフォルマリズムの流れに位置づけられることになる。純粋幾何学形態については、磯崎は後に、プラトン立体とともに、重源の「五輪塔」を持ち出し、宇宙の構成原理(コスモロジー)との関係を強調することになる。

 もちろん、磯崎は振り返って理論武装をはかる。16世紀のマニエリストたちのマニエラ、ロシア・フォルマリズムにおける「異化」、M.フーコーの「レーモン・ルーセル」論における手法などが援用される。磯崎は「そのうち勝手に「手法論」と呼んでいたことの内実が広義のフォルマリズムであることが理解できはじめた」[viii]と振り返るが、当初は、「形式主義的方法」「脱イデオロギー論的な技術主義」といった評価に反撥しながら、「手法が要請する物体や空間の異化作用が明確な違反を指向しているならば、それ自体としてアクチュアルな意味をもちかつ機能する」と自信に満ちて語っていた。拘るのは「違反」であり「アクチュアリティ」である。そして、磯崎の手法論は、引用論、記号論、修辞論[ix]によって補強されることになる。

 磯崎新のフォルマリズムは、同時に現れてきたコンテクスチュアリズム(文脈主義)にはっきりと対立することになる。すなわち、あらゆる関係を切断して建築を自立した平面に仮構するということは、都市を根拠とすることも峻拒されなければならない。「都市からの撤退」である。

磯崎新は、オイルショックで建設活動が縮退するなかで「北九州市立美術館」「北九州市立中央図書館」「群馬県立近代美術館」「富士見カントリークラブハウス」などを次々と実現してみせた。1970年代は圧倒的に「磯崎時代」である。対照的に、丹下健三は日本国内でほとんど仕事がなく、1960年代の方法のままに中東の石油産油国に出かけて行くことになった。また、磯崎の組み立てる言説空間の庇護の下で、多くの若い建築家たちがデビューしていくことになる。

建築の1930年代

「モデルは溶けました。何でもありです。時間も前後に入り乱れることが普通になりますし、東/西、中心/周縁といった空間分割による位置基準も失われてしまいます。「主題の不在」です。」と磯崎は振り返る。しかし、当初から新たな方向は模索されていたように思う。

 『建築の解体』は、多様な方法を追いかけながら埋めることのできない巨大な空洞につきあたった感がある、と結ばれている。そして、巨大な空洞とは、主題の不在という主題であり、異なったヴェクトルをもった様々な活動は中心の空洞に向かい合うことを避けられなくなりつつある、と引き取られていた、のである。

 磯崎の<切断>は、もともとその一瞬のみにおいて意味をもつ、そんな仮説でしかない。1978年の磯崎新論で次のように書いた。

「磯崎新の新たなフォルマリズムは、きわどいバランスの上に構築されていたと言えるであろう。それは、これまで<建築>が語られてきたコンテクストを一瞬、<切断>することにおいてのみ成立し得たからである。それは仮構された平面(別のディスクールの仮説作業)であった。それは例えば<二重底>の論理によって裏打ちされていたものではなかったか(吉本隆明+磯崎新「都市を変えられるかー1971」『美術手帖』19718月)。それは本質的に、「建てることではじめて建築家である」という先入観を放棄した地点からのみ組み立てうる論ではなかったか。観念が物質化されるときに受ける歪み、物質の中に刻印される観念の影、フォルムのリアリティ、おそらく様々な問いが、中心の空洞に向き合う作業の過程で反芻されねばならないはずである」。

そして続けて、磯崎新自身が、建築表現のあり方として、≪生≫の表現としてのS.ロディアの「ワッツ・タワー」、≪論理≫の表現としてのヴィトゲンシュタインの「ストロンボウ邸」、≪技術≫の表現としてのB.フラーのジオデシック(測地線)・ドームに触れている[x]ことを引きながら、磯崎自身は「『建築における1930年代』(鹿島出版会1978年)の中で、モダニズムとリアリズムのコンフリクトの過程を、日本のコンテクストにおいて確認しながら、イデオロギーとしての「日本的なるもの」を主題化しつつあることを示唆している」と書いた。

手法論を展開する一方で、磯崎は、先輩建築家たちの戦時中の活動に焦点を当てたインタビューを行う。そして『建築の1930年代/系譜と脈絡』という一冊をまとめている。

同時代建築研究会(昭和建築研究会、197612月設立)は、当時、全く同じように、15年戦争期に焦点を当てて、多くの先達たち-山口文象、竹村新太郎、前川國男、高山栄華、浜口隆一、土浦亀城、神代雄一郎、鬼頭梓、平良敬一、藤井正一郎、川添登、宮内嘉久、稲垣栄三・・・-にインタビューを続けていた。そして、『建築の1930年代』に導かれるように、『神殿か獄舎か』で磯崎新をばっさり斬っていた長谷川堯と磯崎新が初めて同席するシンポジウムを仕掛け[xi]、その議論を含めて、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)をまとめる。

このころ、「近代の呪縛に放て」のシリーズで『建築文化』の編集部に通っていて、「磯崎新の現在」という特集(『建築文化』19789月)企画のために、磯崎アトリエを初めて訪れた記憶がある。そして、シンポジウムの縁で、お茶の水の自宅でのパーティに宮内康らとともに招かれ、磯崎自ら湯がいたパスタを頂いたことがある。1930年代に全ての主題は孕まれているという認識は共有されていたように思う。

分裂症的折衷主義

 磯崎の軌跡は、1980年代に入って次の段階を迎える。第一に、手法論から引用論へと進化させた方法を結晶化した「つくばセンタービル」(1983)を完成させるのである。振り返って、「つくばセンタービル」は、日本のポストモダン建築の先駆とされ、磯崎新の代表作とされる。実際、「つくばセンタービル」によって、磯崎新は、「何でもあり」のポストモダン状況に首謀者として巻き込まれることになった。磯崎自身も『週刊本 ポストモダン原論』(1985年)を書いて、その潮流に乗ることになる。キャッチフレーズは「分裂症的折衷主義(スキゾフレニック・エクレクティシズム)」である。

「主題の不在」という「主題」を主題化したのであり、「主題の不在」を主唱したのではない。「建築の解体」において問うたのは「建築における近代性(モダニテ)」であって、「ポストモダニズムの建築」を喧伝したのではない。デコンストラクションが問題であってデコンストラクティビズムには責任はない、全て誤解だ、と磯崎は繰り返し弁解することになる。しかし、手法論、引用論で武装し、あらゆるものが等価であるという言説を組立て、「つくばセンタービル」を実現させた影響力は大きかった。

第二に、1980年代に入って海外の活動が開始された。「ザ・パラディアム」(1985)、そして「ロサンゼルス現代美術館(MOMA)」(1987)の設計がジャンピング・ボードになった。その経緯は建築界ではよく知られているが、「私の履歴書」は一回(21)を割いている。設計を始めたのは19811月から終了する839月までにおよそ30の案を提出し、建設委員会・運営委員会にあやうく提案を拒否される寸前で、一般ジャーナリズムの擁護によって救われるのである。磯崎は、続いてバルセロナ・オリンピックの屋内競技場「パラウ・サン・ジョルディ」(1990)の設計者に選ばれ、押しも押されもせぬ世界的建築家となる。 

国家とポストモダニズム建築:筑波センタービル

つくばセンタービル」をめぐっては、自らありとあらゆる批評(「つくばセンタービル論争」)を組織して『建築のパフォーマンス』[xii]がまとめられている。僕もそこにインヴォルブされているが、当時竣工した大江宏の「国立能楽堂」、黒川紀章の「国立文楽劇場」、芦原義信の「国立歴史民俗博物館」、あるいは「第二国立劇場」のコンペ(1984)、さらに「科学技術博」(1985)も含めて論じた文章(「国家とポストモダニズム建築」[xiii])の中で磯崎新の「都市、国家、そして<様式>を問う」[xiv]をめぐって、次のように書いている。

「磯崎新の「つくばセンタービル」における国家と様式をめぐる自らの設問への解答は、しかしながら、いささか奇妙なものである。なぜなら、問いへの解答をできうる限り回避することによって解答しようというものだからである。」

国家と様式をめぐる問いに対する歴史的な解答をすべて拒否し、しかも現在、明確な像としては存在しない国家のあり方を確認した上で、なおかつ、その国家をシンボライズし、記念する様式とは何かを問おうとしたのが「つくばセンタービル」における磯崎である。結果として選択しようとしたのは、「決して明確な像が結び得ないような、常に横滑りし、覆り、ゆらめきだけが継続する様式」であり、「単一なイメージに全体が支配されつくされないように断片に断片を重ね、相互に軋轢を起こさせ、裏切らせ、縫合させること」であった。

「つくばセンタービル」を「中心が見えない。それでも中心がある。これが日本の天皇制の構造だ」と言ったのが浅田彰である。1990年代の10年、磯崎は浅田彰とともに、建築と哲学を問うAny会議を組織することになる。

宙づりにされた近代建築批判

 1980年代には、さらに「東京都新庁舎」のコンペがある。黒川紀章がマスメディを使って激しく丹下健三批判を繰り返したこともあって、建築界の権力闘争かと大きな関心を集めた。結果として、丹下健三の日本への帰還を祝すことになるコンペの顛末をめぐっては、最近、平松剛が『磯崎新の『都庁』 戦後日本最大のコンペ』(文藝春秋2008年)出した。

 「新都庁舎」について僕は、請われるままに『朝日新聞』に5回ほど短い解説[xv]を載せ、「記念碑かそれとも墓碑か、あるいは転換の予兆か」という評論を書いた[xvi]。今でも不思議だけれど、磯崎の中層案が炙り出した「新都庁舎」の孕む様々な問題について、誰も書かなかった。建築界からの声、批評はほとんどなかった。

 新都庁舎の設計者が丹下健三に決定するとともに前川國男が逝った(1986626日)。享年81歳、その一生は、敗戦を真ん中にして丁度前後40年となる。新都庁舎をめぐって政権交代はなかったけれど、世代交代を印象づけることになった。磯崎新は、1988年に「くまもとアートポリス」をスタートさせる。多くの若い建築家たちがその仕組みの中から育っていくことになる。そして、1980年代半ばから1990年代初頭にかけて[xvii]、日本列島をバブル経済の波が襲う。外人建築家が日本列島を席巻し、ポストモダニズム建築の徒花が咲き乱れることになった。

1989年にベルリンの壁が崩壊する。奇しくも日本でも昭和から平成へ元号が変わる。ベルリンの壁の崩壊はソ連邦の崩壊(1991年)につながっていくことになる。20世紀を通じた革命、社会主義国家の建設という「大きな物語」は終焉することになった。磯崎新は、1968年から89年までを「歴史の落丁」と呼ぶ。

振り返ってみると、「歴史の落丁」の時代こそが磯崎の時代であったような気がしないでもない。以降、磯崎新の相対的地位は低下したように思える。バブル経済によるポストモダニズム建築の跋扈が大きい。また、本連載で取り上げてきた「建築の解体」以後の世代がチャンスを得て刺激的な作品を実現し始めるのである。

個人的にも、「MOMA」、「つくばセンタービル」「東京都新庁舎」以降、「茶の水スクエアカザルスホール)」(1987)「武蔵丘陵カントリークラブ」「東京グローブ座」(1988)あたりから磯崎新が消えていった感じがある。僕は既に「住宅」をベースに都市あるいは建築を思考し始めており、『群居』を石山修武、大野勝彦、渡辺豊和らと開始していたからである。また、アジアのフィールドへのめり込みつつあったからである。

しかし、思い起こすのは全くもって時代が読めていなかったことである。黒川紀章が「東京湾埋立計画」を発表し、丹下健三もまた「東京計画1986」などという「東京計画1960」を中途半端に再現したような計画案を提出するのである。メタボリズムの復活であり、東京改造の狂騒はまるで黄金の1960年代の復活であった。近代建築批判という課題は宙吊りにされ続けてきたのである。

体制を立て直しながら書いたのが「ポストモダン都市・東京」[xviii]である。東京が世界都市として日本列島を離陸したのが1980年代後半である。アジアの発展途上地域の都市も、異様な展開を始めていた[xix]


[i] 磯崎新プロジェクト

19701972 大分県医師会館新館 大分県 Built

19711974 群馬県立近代美術館 群馬県 Built

1972    コンピューター・エイディッド・シティー計画 千葉県 Unbuilt

19721974 北九州市立美術館 福岡県 Built

19731974 北九州市立中央図書館 福岡県 Built

19731974 富士見カントリークラブ クラブハウス 大分県 Built

19741975 秀巧社ビル 福岡県 Built

1975    川原湯計画案 群馬県 Unbuilt

19751977 西日本総合展示場 福岡県 Built

19761978 神岡町役場 岐阜県 Built

19781980 NEG大津工場福利厚生施設 滋賀県 Built

19781983 福岡相互銀行本店増築 福岡県 Built

19791983 つくばセンタービル 茨城県 Built

1979    サウジアラビア外務省庁舎国際設計競技 リヤド、サウジアラビア Unbuilt

19801982 利賀山房 富山県 Built

1980    テーゲル港区計画国際設計競技 ベルリン、ドイツ Unbuilt

19811986 ロス・アンジェルス現代美術館 カリフォルニア、アメリカ Built

19811986 ビョルンソン・ハウス/スタジオ カリフォルニア、アメリカ Built

1982    利賀村野外劇場 富山県 Built

19821984 西脇市岡之山美術館 兵庫県 Built

19821986 ベルリン集合住宅 ベルリン、ドイツ Built

19831990 サンジョルディ・スポーツ・パレス 1992年バルセロナ・オリンピック屋内競技場 バルセロナ、スペイン Built

19831985 パラディアム ニューヨーク、アメリカ Built

19841987 お茶の水スクエアA館カザルスホール 東京都 Built

1985    フェニックス市行政センター国際設計競技 アリゾナ、アメリカ Unbuilt

1985    サフォーク郡裁判所総合庁舎設計競技 ニューヨーク、アメリカ Unbuilt

19851986 東京都新都庁舎計画設計競技 東京都 Unbuilt

19861987 武蔵丘陵カントリー倶楽部 クラブハウス 埼玉県 Built

1986    ダニエル・タンプロン財団美術館 バルボンヌ、フランス Unbuilt

1986    フランクフルト民族学博物館増築設計競技 フランクフルト、ドイツ Unbuilt

19861992 東京造形大学 東京都 Built

19861992 ブルックリン美術館・増改築計画、ジェームズ・スチュアート・ポルシェックと共同設計 ニューヨーク、アメリカ Built

19861990 水戸芸術館 茨城県 Built

19871989 レイク相模カントリークラブ クラブハウス 山梨県 Built

19871990 北九州国際会議場 福岡県 Built

19871988 ハラ・ミュージアム・アーク 群馬県 Built

1987    パタノスター地区再開発計画国際設計競技 ロンドン、イギリス Unbuilt

19871989 ボンド大学図書館、管理棟、人文科学棟 クイーンズランド、オーストラリア Built

19871991 ティーム・ディズニー・ビルディング フロリダ、アメリカ Built

19881989 東京キリスト教学園チャペル 千葉県 Built

19881996 パラフォルス・レクリエーション施設 パラフォルス、スペイン Built

19881989  EXPO’90国際花と緑の博覧会 水の館 大阪府 Built

19881995 JR上野駅再開発計画案 東京都 Unbuilt

1988    ストラスブール旧屠殺場開発計画国際競技 ストラスブール、フランス Unbuilt

19881990  EXPO’90国際花と緑の博覧会 国際陳列棟 大阪府 Built

19891991 富山県立山博物館/遥望館・展示館 富山県 Built

1989    ネクサスワールド・ツインタワー計画案 福岡県 Unbuilt

19891990 JR九州由布院駅舎 大分県 Built

1989    東京新美術館プロポーザル 東京都 Unbuilt

19891990 サンセバスチャンK地区再開発計画設計競技 サンセバスチャン、スペイン Unbuilt

[ii] 「システムが自走した」<日本の夏196064こうなったらやけくそだ!>展カタログ、水戸芸術館現代美術センター、1997年。『反回想Ⅰ』所収。

[iii] 『建築家』、1971年春号、日本建築家協会

[iv] 磯崎新「デザインの刻印」特集「日本近代建築史再考/虚構の崩壊」『新建築』臨時増刊197410

[v] 60年代への喪歌」『建築文化』197710

[vi] a+u19721月号

[vii] 『新建築』19724月号

[viii] 「『手法が』の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p264

[ix] 『建築の修辞』美術出版社1979『建築の地層』彰国社 1979

[x] 岩波講座『文学』1「文学表現とはどのような行為か」所収

[xi] 1930年代の建築と文化」(磯崎新+長谷川堯+植田実+宮内康)赤坂公会堂、1979年。

[xii] 磯崎新編『建築のパフォーマンス <つくばセンタービル>論争 PARCO picture backs』(パルコ出版) 1985

[xiii] 『建築文化』19844月号

[xiv] 『新建築』198311

[xv] 私の新都庁舎論1~5  解説,朝日新聞,198612

[xvi] 『建築文化』彰国社,198605

[xvii] 景気循環の観点からは、198612月から19912月までの43か月(51ヶ月)間を指すのが通説。

[xviii] 『早稲田文学』19987月『イメージとしての帝国主義』青弓社1990

[xix] 「メガ・アーバニゼーション」『アジア新世紀8 構想』,岩波書店,青木保編,2003年。Shuji Funo: Tokyo: Paradise of Speculators and Builders, in Peter J.M. Nas(ed.), Directors of Urban Change in Asia, Routledge Advances in Asia-Pacific Studies, Routledge, 2005

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