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2021年4月4日日曜日

現代建築家批評21  建築コスモロジーの遺伝子  渡辺豊和の建築理論

 現代建築家批評21 『建築ジャーナル』20099月号

現代建築家批評21 メディアの中の建築家たち


建築コスモロジーの遺伝子 

渡辺豊和の建築理論

 

「平和な時代の野武士たち」と呼ばれた日本のポストモダンの潮流は、これまでメディアの中の建築家たちの歴史を振り返ってみてきたように、あくまで「ポスト」モダンの模索の潮流であって、「アンチモダン」ではなかった。そして、皮相な「アンチモダン」、すなわち、装飾や歴史的様式の表層的あるいは部分的復活を主張するだけの「ポストモダン・ヒストリシズム」は、すぐさま、ファッションとして回収され、勢いを失うことになった。

冒頭に述べたように、日本でポストモダニズムの建築理論を最も真摯につきつめようとしたのが渡辺豊和である。引用論、手法論、修辞論を基礎にした磯崎新のスマートなポストモダン建築論と比べると、いささか粗いかもしれない。しかし、説得力も迫力もある。磯崎の場合、ポストモダニズム建築批判の逆風が吹き荒れ出すと、結局の所「大文字の建築」を持ち出さざるを得なくなる。しかし、渡辺の場合、もとより依拠したのは「建築」の本来的ありかたであり、その始源であった。

 

『建築を侮蔑せよ、さらば滅びん』

「ポストモダニズム15年史」という副題のこの一書は唯一建築評論の書であるが、その根源の思いがそのタイトルに示されている。渡辺豊和にとって、建築のポストモダンとは、建築の根源を取り戻すことなのである。

丹下健三への5つの質問を含む「ポストモダニズムに出口はある」[i]は、ポストモダニズムのテーマとして、「ポップカルチャーへの復帰参入」「構造から形態への移行」「都市現象の形象化」「容器から象徴へ」「テクノロジーよりエコロジー」「エコロジーよりコスモロジー」を挙げている。4半世紀を経て読み返して、猶、説得力がある。

「かつて建築は宇宙の写し鏡であったように、ポストモダニストの建築も宇宙の写し鏡とならなければならない」

自然そのものを天与のものとし、そのみだらな改変を警告する理論としてエコロジーを評価しながらも、「地球も生物も人間もすべての存在が宇宙の摂理の中に統一されていると見なすコスモロジー」が必要であり、「ポストモダニズムの目指すものは理性が一方的に優越したモダニズムを超え、感性を解放する本来的生命の躍動建築空間の創出にあるのだ」という。出発点において、はるかに遠くを見通していたのである。

 

 建築と言語

「語って語って語り抜き、なおかつ語り得ない針の穴のほどの「ある何か」に私達は本来賭けるべきなのだ」[ii]と渡辺豊和はいう。渡辺豊和の建築理論の出発点は、建築の意味を問うこと、建築と言語の関係を問うことであった。

処女論集である私家版『現代建築様式論』[iii]1971)は、いかにも初々しくたどたどしい。しかし、その初心は鮮明である。出発点は、建築批評が単なる印象批評にとどまりつづけており、建築創作の力になっていないということである。

建築を批評するためには、建築の意味を解明する必要があり、言葉とそれが対象とする建築空間の相関性を明らかにする必要がある。一方、近代機能主義運動の構成理論は、空間の意味を欠いてきた。建築空間が意味として捉えられる様式と形式の問題をとりあげるのは、独立したばかりの渡辺豊和にとって切実な課題であった。

依拠したのは、言語論であり、意味論、記号論である。70年代初頭、建築記号学への関心は一般的に高まりつつあったように思う[iv]。もちろん、渡辺豊和には記号論をそのまま借用するといった構えはないが、言語への関心、意味論、記号論に基づく方法論はその後も一貫し、後に学位請求論文(『記号としての建築』(昭堂)/『空間の深層』(芸出版社)1998)としてまとめられることになる。

冒頭取り上げられるのが原広司の「有孔体」の理論と「浮遊の思想」である。そして、最後も原広司そして磯崎新をめぐって締めくくられている。何度か触れてきたけれど、当時、原広司の『建築に何が可能か』の影響力は圧倒的であった。原広司は2歳年上、磯崎は7歳年上、同世代の建築家をル・コルビュジェ、アルヴアアルト、ジェームズ・スターリングが全く同等に扱われているのが印象的である。ライバルと目していたのである。

印象的なのは、具体的に取り上げられる建築作品が全て西洋建築史から選ばれていることである。そして、シナン[v]の4つのモスクが3頁にわたって取り上げられていることである。さらに、現代建築を除くと日本建築には一切触れられないことである。

 

 空間変容術

『和風胚胎』を読むと、「もし私が研究者であるのなら日本語の構造と伝統的な日本建築の構造との比較によって、日本建築のいまだ探り得ない深い意味を発掘することに一生を賭けるでありましょう」[vi]と書いていたのを思い出す。しかし、「しかし私は実作者です」と続けていたのが渡辺豊和である。

その最初の作品は、「コルビュジェ+アアルト」(サヴォア邸とセイナッツァロ役場の合体、ショーダン邸とクルトゥーリ・タロの合体)であった。『SD』に文章を持ち込んだら編集長の平良敬一に「建築家なら何かプロジェクトを持ってきなさい」と言われたというエピソードが残っている。やはり文章が先であったのである。称するに「空間変容術」、「オリジナリティ信仰に対する痛烈な皮肉」「模倣と剽窃のすすめ」である。

建築の意味を読み解くことが、なぜ、「空間変容術」に結びつくのか。

「コルビュジェ+アアルト」のルール[vii]をみると、誰にでもできるというものでもないことはすぐわかる。設計演習の課題としては一級である。

空間を合体させることによって新たな空間を生み出す方法は実にわかりやすい。その方法は、磯崎の引用論、手法論、修辞論、折衷論(ラディカル・エクレクティシズム)とは位相が違う。渡辺豊和によれば、『現代建築様式論』でもくろんだのは、この空間変容術をつくりあげるための建築様式の基礎的な段階での模索であった[viii]

 「超一流建築家の作品を合体するのであるから、凡策ができるわけがない。しかも、もとの建築ともまったく様相の異なるものが立ち現れるはずである。それでいて、もとの建築のままでもある。」

 比喩が面白い。典型的モンゴリアンの日本人とコーカソイドの白人が混血して生まれる子が、母とも似、父とも似るのに、父母はまったく違った人種である、というのである。これは、歴史の読み方とも共通しているのである。

 「コルビュジェ+アアルト」の後に実現するのが「1・1/2」である。パンテオンの「本歌取り」「換骨奪胎」である。

 

 学位請求論文

 初期の傑作「神殿住居地球庵」(1987)、日本建築学会賞受賞の「神村民体育館」(1987)で建築家としての地位を確立した後、1990年代になると、代表作となる「秋田体育館」「加茂町文化ホール」などを設計する一方で、また、古代史に関わる著作も旺盛に続ける中で、渡辺豊和は、建築理論をまとめることになる。1991年、秋田市体育館の指命コンペで当選し、設計を開始したのと時を同じくして書き出し、5年の月日がかかった。

秋田市体育館のコンペをめぐっては当選が無視されかねない事態が発生し、広く建築界の支援をもとめる手伝いをしたことを思い出すが、竣工する頃には、「この(秋田市体育館の)建築形態は最先端のデザイン傾向からは大きく乖離しているに違いないという妙な自信というか確信があった」のだという。何故か。「私の方法は明らかに正統なるポストモダニズムであるからである」。

「ポストモダニズムは終わっていないばかりか、21世紀前半こそ、その真価が問われる時代である、マイケル・グレイブスのような表層ポストモダニズムが終わっただけで、思想としてのポストモダニズムはこれからだ、私はポストモダニズムの建築理論書を書くべきであったが、その努力をおろそかにしてしまった」という思いが、渡辺豊和を駆り立てたのである。

400字詰め原稿用紙で1000枚を超える論文「記号としての建築」は、学位請求論文として東京大学に提出され、博士(工学)の学位が授与される(1998)。主査は藤森照信。授与した方も提出した方も快挙と言っていい。

学位請求論文の前半の原論部分をまとめたのが『記号としての建築』であり、後半の応用編をまとめたのが『空間の深層』である。

 

 物語としての建築

 論文はー冒頭にブルーモスクそしてハギア・ソフィアが取り上げられる!ー、建築と言語をめぐって説き起こされる。すなわち、基本的には『現代建築様式論』と同じである。能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)、ラングとパロールといった言語学の概念が的確に導入され、より精緻に、また豊富な事例に即して展開されるのである。

例えば、ロマネスクそしてゴシックの様式をラング・パロールの対概念によって実にわかりやすく説かれている。また、建築における所記と能記をめぐって、機能、平面、構造、材料など建築技術、形態、そして設計図の関係がこれまたわかりやすく説明される。注目すべきなのは、言語から設計図への置換である。「対馬豊玉町立文化の郷」について、具体的に設計プロセスが明らかにされている。

さらに様式形成のメカニズムとして、建築における意味伝達のメカニズムが整理され、ゴシックからバロックへの様式変遷が図式化される。そしてここでもシナンにおける様式完成過程が扱われている。

以上の原論に続いて、本論(応用編)が展開されるが、まず問題にされるのが「世界の切り分け」である。人は、言語によって世界を認識(切り分ける(言分け))し、建築することによって世界を切り分ける。その空間の差異化の諸相がまず考察される。

建築は建立される場所とそれをとりまく環境、すなわち(外部)世界を截然と区画し、かつ世界に対して立地場所を異化する。その立地の意味を、地形の切り分け、地理の切り分け、風景の切り分けの3節に分けて図式化するのである。渡辺豊和の建築作品は往々にして、自立的完結的と思われるが、扱われるのは、投入堂、法隆寺、厳島神社、日光東照宮、タージ・マハル、アルハンブラ、・・・いずれもモニュメンタルな建築である。

続いて、本論の中核として、統合の単位と体系が論じられる。記号論で言えば、統辞論のレヴェルである。「様式とコード」を問題にする中で、再び、ロマネスクとゴシックが扱われる。建築が様々な諸要素を組み建てることによって成り立つが故に、要素間の関係によって成り立つ様式についてはスムースである。ユニークなのは、R.バルトの『物語の構造分析』を下敷きにしながら、建築を物語として捉えるところにある。しかし、僕も考えたことがあるけれど、文字によるリニアな世界の構造を三次元の空間に当てはめるのは容易ではない。 

 

 空間の深層

 そこで渡辺豊和が映画そして演劇の手法である(「場面展開の構造と技法」)。論文の展開としては慧眼だと思う。空間において出現する場面(シーン)を建築家は期待するのである。映画は2次元平面+時間の表現である。しかも音も光も大きな要素である。オーバーラップやモンタージュといった手法は、建築の手法の一環でもある。

 しかし、以上のように渡辺豊和の建築理論をなぞってきて、しっくりしないのも正直なところである。失礼ながら、緻密すぎるとは言わないまでも整然としすぎているのである。

 そこで用意されているのが最終章「記号深化のメカニズム」である。空間の経験は、容易に言語化できない、あるいは、言語の構造に還元できないのである。サルトリアンを自称する渡辺豊和は、ここで記号の身体化を論じ、すなわち記号の現象学を振り返っている。そして、「様式の解体」を主張したりしている。

しかし一方、最大の関心を向けるのは、元型の空間である。人類の脳の無意識の層、あるいは記憶の中に埋め込まれた、C.G.ユングのいう元型、あるいはG.バシュラールのいう原風景のような元型の空間を、渡辺豊和は、毛綱毅曠とともに、所与のものと考える。

「空間の元型がもしあるとするならば森や海のような触知的具象空間か白雪を頂く高山鋭鋒の純視覚的超越(抽象)空間に大別される」というのであるが、渡辺豊和がより関心をもつのは、おそらく、C.G.ユングのいうマンダラの幾何学的形態、さらにプラトン立体のような抽象空間の方である。具体的に建築の典型としての4つの型を挙げている、

パンテオン、パルテノン、ピラミッド、そしてミースの諸作品(レイクショア・ドライブ・アパート、イリノイ工科大学クラウンホール、・・・)である。こうした乱暴な要約だと、実に単純であり、なんだ、ということになりかねないが、元型、典型、様式の関係を追求すべきだというのがその建築理論の中核なのである。

渡辺作品の鍵を握るのは以下のような視点である。

意味の高次化のためには空間は入れ子構造をとる。空間の意味は高次化とともに複雑になる。入れ子構造を逆に解体することによって建築の元型が明らかになる。

渡辺豊和がどうしても実現したいと思っている作品が、平面、立面2面が全く同じ形をした3重の入れ子構造をした建築である。毛綱毅曠の「反住器」を超えたいのだという。

 

 建築のマギ

 「1・1/2」以降の具体的な作品[ix]をめぐっては、『建築のマギ(魔術)―批判から技法へ―』(2000年)がわかりやすい。大判で、渡辺豊和作品集の趣もある。ただ、以上のような建築理論に基づいて、整然と解説されているのではない。同時代の建築家の諸作品との距離などが素直に語られていて興味深い。また、建築を学ぶ学生のためのテキストとして書かれているから、設計演習の学生作品なども収録されていて楽しめる。実現しなかったプロジェクトも含めて、創作意欲溢れる力強い作品ばかりである。

 作品の流れを追うと、もう10年以上実作がない。リタイアの歳になったと言えばいえるけれど、建築家は生きている限り建築家である。建築家仲間でよく口にされるのは、「F.L.ライトを見よ!」である。落水荘にしても60歳を超えての作品なのである。

 渡辺豊和に実作の機会が少なくなったのは、大きな時代の流れである。曰く「真のポストモダニスト」だからである。ポスト「ポストモダニズム」の時代に主流となったのは、ネオ・モダニズムの潮流である。

渡辺は、「1920年代のロシア・アヴァンギャルドの挫折を悼むとも言うべきデコンストラクティビズムはまだしも、明らかに1950年代の焼き直し洗練化にすぎないネオ・モダニズムの世界的盛行は唾棄すべき流行現象としか私の眼には映じない。要するにこれは停滞を美化する集団自己欺瞞にすぎないのではないか。しかも地球を覆う恐るべき退廃と無気力である。」という。

 「歴史の叙述を続けているのは隠されて目に見えなかったもの、闇のそこに潜むものに照明をあて明るみにひきだす作業が真実面白いからである。私は建築家としてもまったく同じ心境で建物を設計し実現させてきた。世界に類型のないものをつくりだしたくてやってきたし実行した。」

 渡辺豊和のこの意欲は衰えることはないと思う。また、その遺伝子は、若い世代に引き継がれていくのだと思う。

 



[i] 『新建築』、198312月号

[ii] 『地底建築論』序。

[iii] 1有意味化への契機、2建築(形態)の記号性、3形式化への過程、4現代建築の意味論の4章からなる。

[iv] いささかおこがましいが、僕が少し遅れて書いた修士論文『建築計画の諸問題』(1974年)に「環境読解の方法」という章を設けている。同じように依拠したのは記号論(記号学)である。

[v] シナン

[vi] 『地底建築論』序

[vii] ルールは、コルビュジェの建築をアアルトの建築に内包すること(①)、コルビュジェのプラン(②)と外壁(③)は原則として変えないこと、アアルトの外壁は出来るだけ残す(④)など7つ挙げられる。

[viii] 「『現代建築様式論』でもくろんだのは、この空間変容術をつくりあげるための建築様式の基礎的な段階での模索であった」『建築のマギ(魔術)』p10

[ix] 1974 6月    吉岡112
1977
9月    テラスロマネスク桃山台
1980
1月    サンツモリビル
1980
3月    杉山

1982
3月    西脇市立古窯陶芸館 (兵庫県西脇市
1982
4月    アメリカ村三角公 (大阪中央区)
1987
3月    藤田<神殿住居地球庵>
1987
3月    神村民体育館 (歌山県神村)
1989
10月    立八条小校体育館および八条公民館 (兵庫県
1990
9月    ウッディパル余呉森文化交流センター (滋県余呉町)
1990
12月    対馬玉町文化の郷 (長崎県玉町)
1992
6月    角館町立西長校 (秋田県角館町)
1994
4月    秋田体育館 (秋田
1994
12月    加茂町文化ホール (島根県加茂町)
1995
3月    黒滝村森のこもれびホール (奈
県黒滝村)
1996
5月    上湧別町郷土資館 (海道上湧別町)
1996
9月    黒滝外ステージ (奈県黒滝村)
1997
2月    神戸2100「庭羅都」 (自主研究及び製作)
1997
2月    西成ユートピア化地区計画 (共同製作)
1998
2月    再生平安京(京都グランドヴィジョン国際設計競
) (京都
1999
12月   メッカ巡者用合施設計画(国際コンペ)(サウジアラビア)
2001
6月~  インド、グジャラート州ジャムナガール震災復興住宅設計 (JJSKS<NGO>、天理大おやさと研究所)

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