現代建築家批評18 『建築ジャーナル』2009年6月号
現代建築家批評18 メディアの中の建築家たち
ブリコラージュ・開放系技術・未見の形
石山修武の建築手法
石山修武とは一体何ものか。
研究室内に突如「町づくり支援センター」をつくって各地の物産を売買する「雑貨商」になったりする[i]。もともと、流通をベースとしてD-D方式を業としようとしたのだから、商人のセンスがあるのかも知れない。気仙沼では「貯金箱」をつくったり、「ひろしまハウス」では募金活動をしたり、勧進聖の趣もある。書くことに執着するところは、「作家」と言えばぴったりくるが、書くことのほとんど全てはものをつくることに関わっている。「作家」が何か別に職業を持っているというのではないのである。
稀代の仕掛け人、アジテーター、組織者、運動家であることは疑いない。本人はいずれのレッテルも拒否するであろう。
本人は、「建築家」というだろう。世間的には「教育者」である。ただ、自らをオーソドックスな建築家と思っていないことは言うまでもない。「ぼくのポジショニングだけははっきりしています。多勢に無勢のたとえでいえば、無勢の方で少数派」「ぼくは主流とか、本流というのは徹底的に侮蔑しますからね。」
大学教授になって丁度20年、その仕事を集大成するかのような建築展「建築が見る夢」(2008年6月28日~8月17日)が開催された。「石山修武と12の物語」ということで「ひろしまハウス」そして「世田谷村」以降、世界各地で計画しつつある12のプロジェクトを紹介する。「世田谷村」に収斂するどころか。石山修武はますます意気軒昂である、というところか。美術館をそのまま仕事場にするなど、実に石山らしい。
ただ、その構図、すなわち、石山の仕事場とその仕事が世田谷美術館に収まっている構図がなんとなくすっきりするようにも思える。
「現代っ子ミュージアム」(宮崎、1999年)をそれと知らずにたまたま訪れて(漆喰壁がズリ落ちて下地が剥き出しになっていたのにはウヘェーと思ったが)、その作品が売られていることを知った。石山修武のドローイングには独特の味があり魅力がある。「電脳化石神殿窟院群」なるエッチング集もある。このところ、出かける旅は「スケッチ旅行」と称される。「芸術家」というと本人は嫌がるかも知れないけれど、ある境地に達しつつあるのではないか[ii]。
石山修武は、その生き方そのものを露出し続ける「表現者」なのである。本人も言う。「世田谷村での私の生活は私の表現活動ではないかと気が付き始めたのである」。
「ひろしまハウス」というモデル
「グアダラハラ計画」「チリ建国200年祭計画」など南米にそのネットワークは広がりつつあるが、石山は、建築を志して以降、アジアに拘ってきた。専らアジアを歩き回って、「アジアの街角で」といった連載をし[iii]、「アジア建築としての日本建築」「ビルディング・トゥギャザーの町」[iv]といった文章を書いている。
「いまでもそうだけど、僕は意固地なところがあったから、ボスポラス海峡は渡らないと決めていたんです。ヨーロッパなんてクソでもない、ヨーロッパの近代建築は見ないと決めていた。どうしてわからないけどそう決めたんです。」[v]
ヨーロッパ建築ゼミナールの団長としてヨーロッパに行っている(1984年)から、ボスポラス海峡を渡らないとか、近代建築をみないと決めたというのは嘘である。しかし、アジアに拘り続けてきたことは事実である。
いまのところ海外で実現した唯一の作品もプノンペンの「ひろしまハウス」である。1994年の広島アジア大会を契機とする「ひろしま・カンボジア市民交流会」の活動に石山が賛同して以降の経緯はここでは省くが、「ひろしまハウス」は、大きな美しい物語として語りうる。石山修武はここでは本音を語っているように思える。
「「ひろしまハウス」は原爆投下によって20世紀を象徴する悲劇の一つに遭遇した広島市の市民の皆さんとの共同によって生み出された。・・・大きな共感と使命感を持って取り組んだ。あり得るやもしれぬ市民社会の理想のモデルを一つ端的に表現できたと考える。建築表現とは獲得すべき社会モデルを物質を介して形にする事だ。」
ここで石山が行ったのは、鉄筋コンクリートの躯体の設計である。傾いだ柱と仏足跡を抽象化したバタフライ屋根が石山らしい。壁の煉瓦は、ヴォランティアのツアー参加者によって思い思いに積まれた。仏足跡にカンボジア寺院風の屋根を架けたのはウナロム寺院テップ・ボーン大僧正の命である。
「ミャンマー仏教文化センター計画」は政変で中断しているらしいが、石山はカトマンズ盆地のキルティプルを次のターゲットにしつつある。そこで目指すのは、セルフビルドの集団化、組織化!である。
ジープニーの部品システム
マニラのフリーダム・トゥー・ビルド(F to B)を案内した時(1983年)のことは前に少しだけ書いた。驚いたのは、石山修武の眼である。風景が全て部品に見えているのである。広告や車、住宅の屋根や開口部、眼にするもの全てからその流通経路を読んでしまう。風景を読むこと、それはフィールド・スタディの基本であることを後になって学ぶのであるが、当時は石山の商人感覚のように思えていた。
その時、石山が異常に興味をもったのがジープニーである。その時買ったジープニーの本は僕も大事に持っている。ジープを改造した小型の乗り合いバスであるが、実にけばけばしく飾り立てられている。日本の「トラック野郎」のトラック、パキスタンなどアジア・ハイウエイの長距離バスなども同じように派手派手しい。「望風楼」あるいは「つくしんぼ保育園」に即してであるが「建築はジープニーのごとく」[vi]と石山は書く。「典型的なTOKYOの住宅地の風景の中では、・・・ジープニーのごとく・・・満艦飾が望ましい。・・・ギザギザ、ジャラジャラ、ガンガン、バリバリと、建築物は各種の変テコリンな屋根飾りで飾り立てたのである」
このギザギザ、ジャラジャラ、ガンガン、バリバリ・・・というのは石山のデザインに一貫する。
しかし、ジープニーが教えるのは勝手気ままな装飾にだけあるのではない。注目すべきはそのシステムである。ジープニー工場に行こうと引っ張って行かれたのであるが、そこは単なるリサイクル工場であった。何の装飾もないブリキのジープニーが新鮮であった。飾り立てられるのは路上であって、運ちゃんが部品を買って思い思いに改造するのである。
この躯体―装飾システムは、スケルトン-インフィル・システム、コア・ハウス・システムに通ずるものである。「ひろしまハウス」はその延長にある。
素材
世田谷美術館の展覧会のカタログには、石山修武のこれまでの作品から10の作品が収録されて、中谷礼仁が解説を書いている。この10作品に「ひろしまハウス」と「世田谷村」を加えれば、現在までの代表作となるのだろう。10の中には、伊豆松崎町のまちづくりとして10数のプロジェクトが含まれている。また、Wikipediaで石山修武の項目を見ると、あるいは石山の著作を読めば、ほぼ全てのプロジェクトを知ることが出来る。主だったものを拾うと、「ネクサスワールド」(1991年)、観音寺(1996年)、松島さかな市場(1997年)、鳴子早稲田桟敷湯(1998年)、東京都北区清掃工場(1998年)、星の子愛児園(2002年)などがさらにある。
根っからのシステム嫌いであるから、躯体や素材に一貫する拘りがあるようには思えない。鉄(コルゲート・パイプ)、木(卵形ドーム)、土・漆喰(伊豆の長八美術館)と徐々に扱う素材とヴォキャブラリーを増やしてきた感がある。「リアス・アーク美術館」では、航空機用のジュラルミンまで自家薬籠中のものとする。
「わたしの建築はときに多様な形態を組み合わせるが、それよりも素材の組み合わせに特色があるように思う」[vii]
確かに、石山の生み出す独特な形と装飾は、フォルマリックな操作によるものではない。素材の本性が石山の感性と職人の手業と混ざり合って引き出されてくるようなプロセスがある。しかも、アルミニウム、木、土、紙、ガラス、鉄・・・と実に多様である。素材と素材の組み合わせ、激突の処理に妙がある。
工業製品を前提としてきた石山が次のようにいうのはひとつの結論である。
「建築の未来は素材のもつ時間性の中にもその可能性を見ていくことになるだろう。すべての素材は大地から得られるものだ。それはまた大地に帰してやるのが一番なのだ。ありとあらゆる素材の故郷である大地を傷めつけてはいけない。ゴミとして大地を傷めぬ素材を見直すべきだろう。」[viii]
鉄も錆びて大地に帰る。問題は地中もっと深くから掘り出される素材である。
ブリコラージュ
「現場の声を訊け」、「モノづくりの現場から」、石山修武が拘るのが現場である。原型としてのセルフビルドは、基本的には現場で調達可能な素材(地域産材)をもとにし、人間の身体能力(手業)に依拠するのであるから、現場が出発点となるのは当然である。また、建築が本来「地」のものであり、具体的な敷地を前提として成立するのだとすれば、現場から全てを発想するのは全ての建築家にとって当然である。
現場から発想する場合、全く新たな建築生産システムを持ち込むか、その現場に蓄積されている建築生産システムを前提とするか、で異なる。コルゲート・パイプの住宅、フラードーム、セキスイハイムは前者であり、現場との関係では異質なシステムを持ち込むことにおいては同じであり、それが受け入れられて、地域の生産システムを形成することもある。場合によれば、コルゲート・パイプ住宅の建ち並ぶ町ができることになる。もうひとつは、地域のコンヴェンショナルな建築生産システムを利用することになるが、石山の場合も、福岡の「ネクサスワールド」の集合住宅(1991年)のように、特に一定の規模以上になれば、在来の工法をベースとすることになる。
大きな問題は、近代的建築生産システムが地域の建築生産システムをずたずたにしていることであり、逆に世界中の建築生産システムが、少なくとも部品・材料のシステムのレヴェルでは利用可能であることである。
石山の現場で組み立てる手法は、「その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作る」まさにブリコラージュというのに相応しいと思う。ブリコラージュする職人をブリコルールbricoleurという。手元の辞書を引くと「ある物を寄せ集めて物を作る人であり、創造性と機智が必要とされる。また雑多な物や情報などを集めて組み合わせ、その本来の用途とは違う用途のために使う物や情報を生み出す人である。端切れから日用品を作り出す世界各国の普通の人々から、情報システムを組み立てる技術者まで、ブリコルールとされる人々の幅は広い。」などとある。元々「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語 に由来する言葉でもある。
「世田谷村」というシステム
阪神・淡路大震災を契機として、石山は「ライトインフラストラクチャー」ということを考え出す。すなわち、災害時あるいは難民キャンプを想定して、最小限の、また、軽い、機動性のある(移動可能な)、インフラストラクチャー(基幹構造物)を考案するのだという。具体的なイメージとして提出されているのは、「使い捨てサニタリー」(ペーパートイレ)、「エネルギーコア(エンジン)」「コンテナ病院」などである。
また、「開放系技術」ということを言い出す。
「“技術”というのは自分の中に全部ある。例えば建築技術はゼネコンの側にだけあるんじゃなくて、ゼネコンよりサブコンのほうがいい状態の技術はあると思うけれども、さらに、それを個人の側に引き寄せて自分自身の手元になるべくもっているというのがよい」
問いは、全体と個をめぐって一貫していると言っていい。英語に訳すとすれば、「インディヴィジュアル・テクノロジー」が最適かもしれないといい、「あるいはもっと端的にオープンテクノロジーか」ともいう。
さらに、「個々人の個別技術への注視とその体系化を目指そうと言い換えてもよい。端的に言ってしまえば個々人の身の回りの環境は、それぞれの個人が考案し、つくるのがよく、そのための技術こそがもっと考案され、開発されるべきだ」といい、「世田谷村」の建設現場がそのための実験場だという。
われわれは、「世田谷村」に石山修武の行き着いた最終的な解答を見ることが出来る。未見の形が新たな生産システムを産む、というのでは明らかにない。「世田谷村」という建築・まちづくりのシステムが開放系として呈示されるのである。
第一に、ここには構造躯体システムについての一般的解答がある。ル・コルビュジエのドミノ・システムとバックミンスター・フラーの吊り構造を共に利用し、最小限の部材で多層の床をつくりだすひとつのシステムが提案されている。また、風力発電機、ソーラーバッテリー、住宅用エンジンなど様々なエネルギー変換装置が組み込まれるシステムが提案されている。さらに、間仕切り、収納、家具、サニタリー、キッチン、証明、・・・など生活部品がデザインされている。多くの部品を世界中から寄せ集められ、それを転用するのはこれまで通りであるが、逆に、「世田谷村」で制作された生活部品、開発された技術が他で利用されることが前提とされている。
全てが石山修武という個人に集中するシステムをどう開いていくか、開放系技術がどう社会化され、根付き、継承されていくかが最後の勝負ということである。
しかし、一方で、「未見の形」に拘り続ける石山がいるような気がしないでもない。石山は、しきりに「夢」という言葉を使う。世田谷美術館の展覧会のタイトルは『建築がみる夢』であり、『夢のまたゆめハウス』(筑摩書房、1998年)という著書もある。この点、同じく、ヴァナキュラーな技術に拘りながら、未だ人類が見たことのない建築を作りたいという藤森照信の「建築少年の夢」と共振するものがあるのだろう。
ここまで書いてきて、石山修武の軌跡も理論も手法も全て一体化していてとても切り離せないことがよくわかる。著書は全て金太郎飴といっていいけれど、新たな経験と表現が記録されていく。揺れを指摘することは出来るけれど、核はぶれてはいない。
石山の存在そのもの、石山の生き方そのものが表現なのである。
住むことと建てること、生きることが「世田谷村」では一体化する。
「絵を描いたり、文学したり、芸術らしき作品風を制作したりだけが表現なのではない。屁をこいたり、家族といさかいをしたり、無為の虚無に沈んだりの日常の、それこそ他愛ない限りを尽くす生活が人間の至上の表現なのではないか、もしかしたらの、真理らしきものの入口にようやくにして到達したのである。」[ix]
[i] 『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』 (デジタルハリウッド出版局、1999年)
[ii] 「銅板画や絵はひと山当ててやろうと血走った眼で始めたわけではない。気がついたらやり始めていた。けれども純粋な表現衝動からでもなさそうだ。・・・・」(『建築がみる夢』pp.40-41)
[iii] 『室内』1984年、隔月。
[iv] いずれも、『「秋葉原」感覚で住宅を考える』所収。
[v] 槻橋修編「石山修武」『旅。建築の歩き方』(彰国社、2006年)。
[vi] 「望風楼」『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.87-88
[vii] 「素材との出会い」『石山修武考える、動く、建築が変わる』(TOTO出版、1999年)pp.201-203
[viii] 同上。『石山修武考える、動く、建築が変わる』(TOTO出版、1999年)
[ix] 『建築がみる夢』(講談社、2008年)P137
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