『中東オリエント事典』 2020
【コラム】現代建築家、ザハ・ハディード
その名は、実現されることなく終わった東京オリンピック2020の主会場「新国立競技場」の建築設計競技の最優秀案の設計者として知られる。その斬新なイメージは、東京へのオリンピック誘致に少なからぬ貢献をしたと思われるが、予定建設価格の超過、プログラムそのものの曖昧さ、実施主体と決定過程の不明朗さ等々の理由で、監修者として決まっていた実施過程からもザハ・ハディドは排除される不幸な結果となった。その死去は、「新国立競技場」をめぐるトラブルで心労が重なったためともされる。悲劇のヒロインとなったザハ・ハディドであるが、特に若いころは実現しない設計案がほとんどで「アンビルドの女王」と呼ばれてきた。
モスル出身の政治家ムハンマド・アル・ハジ・フサイン・ハディドと美術家ワジハ・アル・サブジを父母としてバクダードに生まれた。。父は、左翼リベラル集団アル・アハリ(1932年)の設立者のひとりであり、イラク共和国(第一共和政)で財務大臣を務めた。ベイルートのアメリカン大学で数学を学んだ後、1972年にロンドンのAAスクールに入学、国際的に名の知られる建築家レム・コールハウスらに建築を学んだ。1980年に英国籍を得て、ロンドンにザハ・ハディド・アーキテクツ事務所を設立する。
ザハの名が知られるようになったのは、香港の「ピーク・レジャー・クラブ」のコンペである(1983)。しかし、この作品も事業者が倒産したために実現せず、その後10年余りも「アンビルド」が続いたが、ニューヨーク近代美術館のP.ジョンソンらがキュレーターを務めた『脱構築主義者建築展』(1988年)で注目を集め、フランク・ゲーリーなどとともに、ポスト・モダンの建築の一派をなす「デコンストラクテイヴィズム」の旗手と見なされるようになる。
21世紀に入ると、ザハの作品は、次々に実現されていくことになる。アジアにも「広州大劇院」(2010)などがある。その作品が実現可能となった背景には、その「新奇な」デザインを要望するグローバル企業がクライアントとして出現したことがある。そして何よりも、三次元3D CADからBIMへ展開してきたコンピューター技術の進歩がある。すなわち、単に多様な形を生み出す段階から実際に部材、部品まで一貫して製造、組立、施工するシステムが完成したことがある。ザハ・ハディド・アーキテクツは、建築エンジニアリングでも世界最先進の設計事務所となるのである。[布野修司]
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