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2024年12月21日土曜日

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,解説、而立書房,1996年10月

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,199610



解説

         

 一九三〇年四月、コルビュジェのアトリエでの満二年の留学を終えて帰国した前川國男は、八月、A・レーモンド設計事務所に入所する。二五歳であった。入所前、「明治製菓」の公開設計競技(コンペ)に一等当選。建築家としてのデビューを果たす。一二月、「第2回新建築思潮講演会」に招かれ、「3+3+3=3×3」と題した講演を行う(『国際建築』 一九三〇年一二月)。前川國男の最初の公的発言の記録である。そして、次の年、「東京帝室博物館」公開コンペに敗れ、最初の文章「敗ければ賊軍」(『国際建築』 一九三一年六月号)が書かれる。「日本趣味」、「東洋趣味」を基調とすることを規定した戦前期の数々のコンペに敢然と近代建築の理念を掲げて戦いを挑み続けた前川國男の「華麗な」軌跡の出発を象徴する文章である。

 前川國男が本格的に建築家としての活動を開始する一九三〇年は日本の近代建築の歴史にとって記憶さるべき年である。まず、近代建築運動史に記憶される、新興建築家連盟の結成、即崩壊という事件がある。また、鉄筋コンクリート造、鉄骨造の構造基準及び共通仕様書が整備されるのが一九三〇年である。近代建築展開の技術的基盤は既に用意されていた。一九三〇年代後半には、「白い家」と呼ばれるフラットルーフの四角い箱型の住宅作品が現れ、日本への近代建築理念の定着が確認されるのであるが、まさにその過程とともに前川は活動を開始したのであった。そしてまた、それは、新興建築家連盟の結成、即崩壊という日本の近代建築運動の挫折あるいは屈折を出発時点において予めはらんだ過程でもあった。

 日本の近代建築運動は、一九二〇年の日本分離派建築会(堀口捨己、石本喜久治、山田守、森田慶一、滝沢真弓)の結成に始まるとされる。前川國男が一五歳の年だ。逓信省の下級技師を中心とする創宇社(山口文象、海老原一郎、竹村新太郎ら)の結成(一九二三年)が続き、メテオール(今井兼二ら)、ラトー(岸田日出刀ら)といった小会派が相次いで結成された。その様々な運動グループの流れを一括して、いわば大同団結しようとしたのが新興建築家連盟である。

  新興建築家連盟の結成の中核となったのは創宇社のグループである。分離派のいわば弟分として出発した創宇社は、当初、展覧会など分離派と同じスタイルで活動を展開するのであるが、やがて、その方向を転換させる。いわゆる、「創宇社の左旋回」である。分離派のメンバーが東京帝国大学出身のエリートであったのに対して、逓信省の下級技師を中心とした創宇社メンバーは、「階級意識に目覚め」、社会主義運動への傾斜を強めるのである。無料診療所、労働者住宅といったテーマのプロジェクトにその意識変化を見ることができるとされる。

 前川國男が東京帝国大学工学部建築学科に入学した一九二五年、治安維持法が公布され、卒業してシベリア鉄道経由でパリへ向かった一九二八年三月、共産党員の大量検挙、三・一五事件が起こっている。騒然とする時代の雰囲気の中で、創宇社は第一回新建築思潮講演会を開く(一九二八年一〇月)。創宇社は、分離派に対して距離をとり、その芸術至上主義を批判する。それを明確に示すのが、谷口吉郎の「分離派建築批判」(一九二八年)である。谷口吉郎は、市浦健、横山不学らとともに前川國男のクラスメイトであった。

 しかし、時代は必ずしも若い世代のものとはならない。一九三〇年一〇月結成された新興建築家連盟は、わずか二ケ月で活動を停止したのである。読売新聞の「建築で「赤宣伝」」の記事(一二月一四日)がきっかけである。こうして、戦前期における日本の建築運動はあえなく幕を閉じたのであった。デザム、建築科学研究会、青年建築家連盟等々小会派の運動は続けられるのであるが、建築界の大きな流れとはならない。また、日本建築工作連盟も組織されるのであるが、翼賛体制のなかで全く質を異にする団体であった。

 そうした過程で、前川國男は、A.レーモンド事務所での仕事の傍ら、設計競技を表現のメディアとして選択する。既に、パリのコルビュジェのもとから、「名古屋市庁舎」のコンペ(一九二九年)に応募していたのであるが、全てのコンペに応募するというのが選びとった方針である。「執務に縛られた」建築家にとって「設計競技は今日のところ唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識が前川にはあった。

 「東京帝室博物館」以降も、「明治製菓銀座店」(一等入選 一九三二年)、「第一相互生命館」(落選 一九三三年)、「東京市庁舎」(三等入選 一九三四年)と続いたコンペへの参加は、A.レーモンドと衝突して独立した一九三五年以降も初志一貫して続けられる。そして、「在盤谷日本文化会館」公開コンペ(一九四三年)において、前川國男ははじめて寝殿造の伝統様式を汲む大屋根を採用するに到る。「東京帝室博物館」以降、日本的な表現、いわゆる「帝冠併合様式」に抵抗し続けてきて、ついに前川は挫折した。「在盤谷日本文化会館」案は、前川國男の転向声明である、というのが一般的な評価である。

 こうして、戦前期における日本の近代建築の歴史は、「日本的なるもの」あるいは日本の伝統様式、「帝冠併合様式」あるいは様式折衷主義に対する果敢な闘争そして挫折という前川國男のコンペの歴史を軸にして、わかりやすい見取り図として既に書かれている。ひとつの神話となっているといってもいい。しかし、その挫折の様相は、前川國男のテキストに即して掘り下げられる必要がある。

 前川國男の二五歳から四〇歳に当たる一五年戦争期は、激動の時代である。前川國男建築設計事務所の設立以降、日中戦争の全面化とともにとともに仕事は大陸で展開されるようになる。「大連市公会堂」公開コンペ(一等、三等入選)が一九三八年、一九三八年八月には上海分室が、一九四二年には奉天分室が開設される。

 一方、この間、丹下健三、浜口ミホ、浜口隆一が入所、戦後建築の出発を用意する人材が入所する。前川國男の引力圏の中で、「大東亜建設記念営造計画」(一九四二年)、「在盤谷日本文化会館」に相次いで一等当選した丹下健三の鮮烈なデビューがあり、浜口隆一の大論文「日本国民建築様式の問題」(一九四四年)書かれた。

 一九四五年、五月二五日、空襲で事務所も自宅も焼失する。設計図や写真等一切の記録を失って前川國男は敗戦を迎えることになる。

 

         

 敗戦直後、結婚。新しい日本の出発とともにプライベートにも新生活が開始された。しかし、とても新婚生活とはいかない。目黒の自宅は、四谷に現事務所ビルが竣工する一九五四年まで、十年、事務所兼用であった。

 戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、建築家としても敗戦に打ちひしがれる余裕など無かった。まずは、戦時中(一九四四年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」(工場生産の木造組立住宅のことであり、プレファブのPRE、前川のM、構造担当の小野薫のO、供給主体であった山陰工業のSをとって、命名された)に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法(トロッケン・モンタージュ・バウ)」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの戦後の先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。

 前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品のひとつと目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは一九四七年のことである。

 一九四七年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の六月である。

 戦後復興期から一九五〇年代にかけての戦後建築の流れについては、いくつかの見取り図が描かれている。わかりやすいのはここでも建築運動の歴史である。戦後まもなく、国土会、日本建築文化連盟、日本民主建築界等のグループが結成され、NAUへと大同団結が行われる。しかし、NAUがレッドパージによって活動を停止すると、小会派に分裂していく・・・。そして、一九六〇年の安保を契機とする「民主主義を守る建築会議」を最後に建築運動の流れは質を変えてしまう。

  興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場は基本に置かれるのである。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった一九四七年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド                             )同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。MID同人は、翌年、雑誌『PLAN』を1号、2号と発行している。創刊の言葉にはその意気込みが示されている。そして、『PLAN』=計画という命名が近代建築家としての計画的理性への期待を示していた。

 もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。一九四七年から一九五一年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。

 建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(一九四八年 前川三等入選)の不明瞭さ(一等当選を出さず審査員が設計する)が示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(一九五六年)の住民の建設参加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、五期会結成(一九五六年六月)に参加することになる。NAU崩壊以後の建築運動のひとつの核は前川の周辺に置かれていたのである。

 しかし、敗戦から五〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。

 一九五二年には、「日本相互銀行本店」が完成する(一九五三年度日本建築学会受賞)。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、一九五四年に竣工する(一九五五年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。この戦後モダニズム建築の傑作の保存をめぐって、建築界を二分する大きな議論が巻き怒ったのは一九九三年から九五年のことである。また、一九五五年、坂倉準三、吉村順三とともに「国際文化会館」を設計する(一九五六年度日本建築学会賞受賞)。さらに、「京都文化会館」(一九六一年度日本建築学会賞受賞)、「東京文化会館」(一九六二年度日本建築学会賞受賞)と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然なのである。

 前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(一九五五年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、一九五九年には、日本建築家協会会長(~一九六二年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。

 

Ⅲ         

 一九六〇年代、前川國男は堂々たるエスタブリッシュメントであった。一九六〇年、前川國男は五五歳である。

 しかし、一方、時代は若い世代のものとなりつつあったとみていい。一九六〇年代、日本の建築界の大きな軸になったのは、丹下健三であり、メタボリズム・グループの建築家たち(菊竹清訓、大高正人、槙文彦、黒川紀章)であった。

 丹下健三の場合、一九四〇年代の二つのコンペ(「大東亜建設記念営造計画」「在盤谷日本文化会館」)に相次いで一等入選し、戦前期に既に鮮烈なデビューを果たしていたのであるが、実質上のデビューは戦後である。「広島ピースセンター」公開コンペ(一九四九年)の一等当選、そして「東京都庁舎」指名コンペ(一九五三年)の一等当選がそのスタートであった。とりわけ、「広島ピースセンター」は戦後建築の出発を象徴する。「大東亜建設記念営造計画」のコンペからわずか七年の年月を経ていないこともその出発の位相を繰り返し考えさせる。A.ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアーが戦後二度と建築の仕事をする機会を与えられなかったことに比べると、彼我の違いは大きい。大東亜共栄圏の建設を記念する建造物と平和を希求する建造物のコンペに同じ建築家が当選するのである。一人の建築家の問題というより、日本建築界全体の脆弱性が指摘されてきたところだ。

 それはともかく、戦後建築をリードしていく役割は若い丹下に移行していったとみていい。建築ジャーナリズムの流れをみると、一九五〇年代後半からは丹下を軸にして展開していく様子がよくわかる。例えば、伝統論争において、縄文か弥生か、民家か数寄屋か、作家主義か調査主義かといった様々なレヴェルのテーマが交錯するのであるが、丹下  白井、丹下  西山、丹下  吉武といった構図のように丹下は常に中心に位置するのである。

 丹下にとって、日本の伝統は決して後ろ向きのものではない。創造すべきものである。日本の伝統建築でも、民家は問題ではない。伊勢や桂のもつ近代的な構成、プロポーションを鉄筋コンクリートで表現すること、新しい技術で近代的な構成原理を表現し、新しい伝統を創り出していくことが丹下の関心である。

 それに対して、前川國男の場合、日本建築の伝統そのものについての意識は薄い。伝統と創造をめぐる普遍原理に関心があり、究極的に日本に近代建築を実現することが最後まで課題であったように見える。ただ、「京都文化会館」、「東京文化会館」から「紀伊国屋書店」、「埼玉会館」(一九六六年)かけて、その作風の変化が見られる。いわゆる「構造の明快性から空間へ」という変化だ。技術的には「打ち込みタイル」の時代が始まる。

 ここでも、丹下が東京都庁舎、香川県庁舎を経て、「代々木国際競技場」や「山梨文化会館」など構造表現主義へと向かうのと対比的である。打ち放しコンクリートの仕上げが難しい。そこで技術的な検討が積み重ねられてきて生み出されたのが「打ち込みタイル」である。技術に対する感覚は全く異なっていると言っていい。

 六〇年代の前川にとって、また、日本の建築界にとって大きなテーマとなったのが、「東京海上火災本社ビル」をめぐる「美観問題」である。一九六五年初頭に依頼を受けた「東京海上火災本社ビル」の設計は、都庁の高度制限によって難航する。そして、当初計画案を変更して(高さを低くして)ようやく竣工したのはようやく一九七四年のことである。

 この「美観論争」には、様々な要素が複雑に絡んでいる。第一に、「東京海上火災本社ビル」が皇居前の丸の内に位置することだ。暗黙の「皇居を覗かれては困る」というコードがあった。第二に、行政指導についての法的な根拠の問題があった。第三に、今日に言う景観問題、高さや色をめぐる問題があった。すなわち、基本的には都市と建築の問題である。建設の、あるいは表現の自由と権力、規制の問題を象徴的に明るみに出したのである。

 この「美観論争」は必ずしも明快な総括がなされているわけではない。今日同じような景観問題が繰り返されているからである。

 近年の京都におけるJR京都駅や京都ホテルの問題のように、景観問題は建築の高さをめぐって争われる。あるいは、超高層建築の是非をめぐって争われる。その原型が「東京海上火災本社ビル」をめぐる問題にある。「高層ビルこそ資本の恣意に対する最大の抑制、そして社会公共に対する最大の配慮にもとづいて計画されたものだ」、なぜなら、「あえて工費上、またいわゆる事業採算上の利点を抑制して」、「敷地面積の三分の二を自由空間として社会公共に役立てる」からである。

 今日の公開空地論である。ここでも、前川國男ははるかに先駆的であったといっていい。しかし、景観問題とはもとより公開空地をとればいいという問題ではない。前川國男の反論にはさらに多くの論点が含まれていた。それにも関わらず、「東京海上火災本社ビル」におけるこの高さに関わるロジックのみが高層ビル擁護の根拠として再生産され続けているのである。

 一九六八年、六三才、前川國男は、日本建築学会大賞の第一回受賞者に選ばれる。「近代建築の発展への貢献」が受賞理由である。戦後建築のリーダーとして当然の評価であった。

 しかし、この頃から、前川の口調にはどこかとまどいや苛立ちが感じられるようになる。受賞の際に書かれた文章は「もう黙っていられない」と題される。「近代建築の発展への貢献」というけれど怪しい、人間環境は悪化の一途をたどっている、よい建築が生まれることはますます難しくなる、建築界には連帯意識が欠如している、といった悲観的なトーンが全体に漂う。基調は、「自由な立場の建築家」の堅持であり、その不易性である。

 前川國男には職能確立のための状況は六〇年代末において厳しくなりつつあるという認識があった。知られるように、六〇年代を通じて建築界で大きな論争が展開される。設計施工分離か一貫かという問題である。建築士法における兼業の禁止規定に関わる歴史的問題だ。その大きな問題が、審査委員長として関わった「箱根国際観光センター」のコンペでも問われた。「設計施工分離」の方針が受け入れられないのである。しかし、興味深いことに、前川は「本来設計施工一貫がよいはず」と書く。今日に至るまで、この問題も掘り下げられていない。

  

Ⅳ         

 一九六八年から一九七〇年代初期にかけて、「戦後」を支えてきた様々な価値が根底から問われる。ひとことでいえば「近代合理主義」批判の様々な運動が展開されたのであった。世界的に巻き起こった学生運動がその象徴だ。前川國男は、日大闘争渦中の自主講座に参加し、理解と共感を示したという。

 その前川國男の「いま最もすぐれた建築家とは、何もつくらない建築家である」(『建築家』 一九七一年春)という名言は時代を象徴する。精神の自由を失った建築家が如何に多いことか。「自由な立場の建築家」の理念を失ってつくることは、前川國男にとって耐え難いことであった。

 苛立ちから絶望へ、文章には悲観的なトーンが目立ち始める。前川國男自身が様々な事件に巻き込まれたことも大きいのであろう。ひとつは一〇年にも及んだ「東京海上火災本社ビル」の問題があった。自発的に高さを削るということで決着したのが一九七〇年九月、竣工は一九七二年である。また、「箱根国立国際会議場」が結局は実現しないという結末も大きなダメージであった。

 しかし、前川國男は、近代建築家としての基本的姿勢を変えることはなかったように思う。「合理主義の幻滅ー近代建築への反省と批判」(一九七四年)は、タイトルだけを読むと、前川の転換を示すように思える。しかし、合理主義を捨てたわけではない。むしろ、「捨てられない合理主義」の立場がそこで宣言されていることは見逃されてはならない。「近代の経済的合理主義よりも次元の一段高い合理主義の論理を見出す「直感力」を鍛えることが一番大切なことだと思われます」という合理主義の位相の理解がポイントである。「直感力」といっても、合理主義に対して「非合理」性を対置しようと言うのではない。「科学的思考」に対する「神話的思考」という言葉も提出されるのであるが、「直感の中にある合理性」を日常的な合理性の感覚というと平たく解釈しすぎるであろうか。少なくとも、産業社会を支える経済合理主義の論理ではなく、社会生活を支える正当性の問題として、合理主義の論理は考えられ続けてきたように見える。

 一九六〇年代末から一九七〇年代にかけて、建築ジャーナリズムは近代建築批判のトーンを強める。『日本近代建築史再考ー虚構の崩壊』(新建築臨時増刊 一九七四年一〇月)、『日本の様式建築』(一九七六年六月)に代表されるような、近代建築史の再読、様式建築の再評価の試みが盛んに展開され出すのである。すぐさま現れてきたのは、装飾や様式を復活しようという流れだ。今振り返れば、皮相なリアクションであった。しかし、そうした趨勢とともに日本の近代建築をリードしてきた前川國男の影は薄くなっていったことは否めない。

 日本における近代建築批判の急先鋒となったのは、例えば、長谷川尭である。その『神殿か獄舎か』(一九七二年)は、建築家の思惟を「神殿志向」と「獄舎志向」に二分し、「神殿志向」の近代建築家を徹底批判する。主要なターゲットは、前川國男であり、丹下健三であった。長谷川尭が評価するのは、豊多摩監獄の設計者である後藤慶二のような建築家である。あるいは商業建築に徹してきた村野藤吾のような建築家である。掬い取ろうとするのは「昭和建築」=近代合理主義の建築に対する「大正建築」である。

人民のために、大衆のために、あるいは人類のためにというスローガンを唱えながら、常に自らを高みにおいて、何ものかのため、究極には国家のために「神殿」をつくり続けるのは欺瞞だ。その舌鋒は、当然のように建築家という理念そのものにも向けられる。プロフェッションとしての、すなわち、神にプロフェス(告白)するものとしての建築家、あるいはフリーランスのアーキテクト、あらゆる権力や資本から自由で自律的な建築家のイメージは幻想ではないか。何処にそんな建築家が存在しているのか。口先だけで綺麗ごとをいう。建築家はそもそも獄舎づくりではないか。

 「獄舎づくり」と「自由な立場の建築家」の間には深く考え続けるべきテーマがある。「獄舎づくり」であることを自覚することは、現実を支配する諸価値をアプリオリに前提することなのか。一方で、「獄舎づくり」の論理はコマーシャリズムの世界に一定の根拠を与えて行ったようにみえるからである。装飾や様式の復活といった、後に、ポストモダン・ヒストリシズムと呼ばれた諸傾向を支持したのはコマーシャリズムなのである。

 一方、七〇年代に入って、日本において近代建築批判を理論的にリードすることになったのは、『建築の解体』(一九七五年)を書いた磯崎新であった。その近代建築批判としての、引用論、手法論、修辞論の展開は、建築を自立した平面に仮構することによって組み立てられている。すなわち、近代建築が前提としてきたテクノロジーとの関係、社会との関係を一旦は切断しようとしたのであった。建築をテクノロジーや社会などあらゆるコンテクストから切り離すことに置いて、古今東西あらゆる建築は等価となる。思い切って単純化して言えば、あらゆる地域のあらゆる時代の建築の断片、建築的記号やイコン、様式や装飾を集めてきて組み合わせる、そうした「分裂症的折衷主義」に理論的根拠を与えたのが磯崎新であった。これまたポストモダン・デザインの跳梁ばっこに根拠を与えたことは否定できないのである。 

 こうして、前川國男は、『神殿か獄舎か』と『建築の解体』という全く対極的な近代建築批判に挟撃されることになる。ただ、『神殿か獄舎か』が上梓された同じ年に、「中絶の建築」が書かれていることは想起されていい。「今日の建築家は新製品新技術の情報洪水の中から取捨選択に忙殺され、しかもその最終選択に確信をもち得ず、ついに一箇の「デザイナー」になり下がって現代の芸術とともに「中絶」の建築への急坂を馳せ下ろうとしている。・・・・「中絶」の建築は「中絶」の都市を生み、「中絶」の都市は、「流民のちまた」として廃棄物としての「人生」の堆積に埋もれていく他はないであろう。」。

 一九八六年六月二六日、前川國男は逝った。享年八一歳。その後まもなく、バブル経済がポストモダニズム建築の徒花が狂い咲こうとは夢にも思えなかったにちがいない。前川國男の死の意味が冷静に問えるようになったのはバブルが弾け散ってしまってからである。

    

2024年12月10日火曜日

タウン・イン・タウン 、現代のことば、京都新聞、1996

 

タウン・イン・タウン            008

 

布野修司

 

 国際交流基金アジアセンターの要請で、この六月末、インドネシア科学院(LIPI)のワークショップ(国際会議)「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」に出席してきた。一週間の間、ジャカルタに滞在しながら、オランダ、フランス、オーストラリア、シンガポール、タイ、フィリピン、そしてインドネシアの参加者と東南アジアの都市をめぐって議論した。考えさせられることの実に多いワークショップであった。

 ジャカルタは、今、シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風の高層ビルが林立する。頂部だけ様々にデザインされ、新しいジャカルタの都市景観を生み出している。日本の設計事務所、建設会社もその新たな都市景観の創出に関わっている。一方、ホテルの窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポン(都市集落)の風景が拡がる。都心に聳える超高層の森と地面に張りつくカンポンの家々は実に対比的である。

 そうしたジャカルタのど真ん中、かってのクマヨラン空港の跡地に、興味深い開発計画が進行中であった。「タウン・イン・タウン(都市の中の都市)」計画と呼ばれる。

 現場に参加者全員で見に行った。その計画理念は、都心のリゾートタウンといったらわかりやすいだろうか。バーズ・サンクチュアリも設けられ、自立型ニュータウンが目指されている。大都市のど真ん中に都市がつくられる、そのコンセプト自体は実にユニークである。

 しかし、参加者の関心は超高層集合住宅が林立する中心街区よりも、別の一角に向けられた。広大な敷地に建設が始まったばかりであるが、中に実際に人々が住み始めた地区があるのである。一見何気ない五階建ての集合住宅が並ぶだけなのであるが、活気があって、実に生き生きと空間が使われている。もともとそこに住んでいた人々のための街区である。そこはもともとジャカルタ原住民であるバタウィ人の土地で、現在でも住民の一五パーセントはバタウィ人である。

 一階には店舗が入り、二階以上の住居部分は厨房やトイレ居間が共用の共同住宅になっている。また、家内工業が各種行われ、コミュニティの様々な活動が生き生きと組織されている。カンポンの人々を追い立てるのではなく、そのまま住み続けることができるように最大限の努力が払われているように思えた。

 次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。しかし、眼から火の出るような思いをさせられた。日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛んだ。「これは日本のサテライト・タウンなのかい」。


2024年12月7日土曜日

講演:京都エコハウスモデルへむけて,日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割,京都健康住まい研究会,19991029

 講演:京都エコハウスモデルへむけて,日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割,京都健康住まい研究会,19991029


京都エコハウスモデルにむけて

 日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割

                                          京都大学大学院工学研究科

                   生活空間学専攻 地域生活空間計画講座

                                布野修司

 

●略歴      

1949年 島根県出雲市生まれ/松江南校卒/1972年 東京大学工学部建築学科卒

1976年 東京大学大学院博士課程中退/東京大学工学部建築学科助手

1978  東洋大学工学部建築学科講師/1984年  同   助教授 

1991  京都大学工学部建築系教室助教授

 

●著書等

         『戦後建築論ノート』(相模書房 1981

                  『スラムとウサギ小屋』(青弓社 1985

                  『住宅戦争』(彰国社 1989

         『カンポンの世界ーージャワ都市の生活宇宙』(パルコ出版199107

         『見える家と見えない家』(共著 岩波書店 1981

                  『建築作家の時代』(共著 リブロポート 1987

         『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(共著 現代企画室)

         『建築計画教科書』(編著 彰国社 1989

         『建築概論』(共著 彰国社 1982

         『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(彰国社  199106

         『現代建築』(新曜社)

         『戦後建築の終焉』(れんが書房新社 1995

         『住まいの夢と夢の住まい アジア住居論』(朝日選書 1997

         『廃墟とバラック』(布野修司建築論集Ⅰ 彰国社 1998

         『都市と劇場』(布野修司建築論集Ⅱ 彰国社1998

         『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ 彰国社1998)          等々

 

 

○主要な活動

 ◇ハウジング計画ユニオン(HPU) 『群居』

 ◇建築フォーラム(AF)  『建築思潮』

 ◇サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)

 ◇研究のことなどーーーアジア都市建築研究会

 ◇木匠塾 

 ◇中高層ハウジングプロジェクト

 ◇建築文化・景観問題研究会

 ◇京町屋再生研究会

 ◇

 ◇

●主要な論文     

 『建築計画の諸問題』(修論)

  『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(博論)

 Considerations on Housing System based on Ecological Balance in the Region, The 8th  EAROPH International Congress  JAKARTA  1982

 The Regional Housing Systems in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS 1991

京都エコハウスモデルにむけて 日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割

 

Ⅰ 日本の住宅生産

      概要

    ①国民経済と住宅投資 ②住宅建設戸数の動向 ③住宅需要の動向

    ④住宅所有関係の動向 ⑤住宅種別の建設動向 ⑥工務店事業所及び従業員数

    ⑦建設関係技能者 ⑧建築士と建築士事務所 ⑨木材需給⑩建材 ⑪工具

  2  地域特性

    ①住宅着工動向 ②木造率 ③プレファブ化率 ④住宅関連業種

  3  国際比較

 

Ⅱ 住宅生産者社会の構造

 

 1 住宅供給主体と建設戸数

 2 住宅生産者社会の地域差

 3 工務店の類型と特性

 

 

 Ⅲ 日本の住宅をめぐる問題点 論理の欠落ーーー豊かさ?のなかの貧困

   ◇集住の論理  住宅=町づくりの視点の欠如 建築と都市の分離

           型の不在 都市型住宅   家族関係の希薄化

   ◇歴史の論理  スクラップ・アンド・ビルドの論理

          スペキュレーションとメタボリズム価格の支配 住テクの論理

          社会資本としての住宅・建築・都市

   ◇多様性と画一性  異質なものの共存原理

           イメージの画一性 入母屋御殿

            多様性の中の貧困 ポストモダンのデザイン

           感覚の豊かさと貧困  電脳台所

   ◇地域の論理 大都市圏と地方

          エコロジー

   ◇自然と身体の論理:直接性の原理

          人工環境化 土 水 火 木

            建てることの意味

   ◇生活の論理「家」の産業化 住機能の外化 住まいのホテル化

          家事労働のサービス産業代替 住宅問題の階層化

          社会的弱者の住宅問題

 

 

 Ⅳ 京都で考えたこと

 

   京町家再生

 

   京都グランドヴィジョン

 

   祇園祭と大工   マイスター制度とものづくり大学

 

 

 Ⅴ 京都エコハウスモデルに向けて

        21世紀の集合住宅

         三つの供給モデル

 

    エコ・ハウス・・・・ナチュラル・ハウス・・・

 

        スラバヤ・エコ・ハウス





パッシブ・クーリング 冷房なしで居住性向上 

 ミニマム熱取得  マキシマム放熱

ストック型構法

 長寿命(スケルトン インフィル) リニューアブル材料 リサイクル材料(地域産出材料)

創エネルギー

 自立志向型システム(Autonomous House) PV(循環ポンプ、ファン、共用電力) 天井輻射冷房

 自立志向型給水・汚水処理システム 補助的ソーラー給湯

ごみ処理 コンポスト

 

 大屋根  日射の遮蔽

 二重屋根

 イジュク(椰子の繊維)利用

 ポーラスな空間構成 通風 換気 廃熱

 昼光利用照明

 湿気対策 ピロティ

 夜間換気 冷却 蓄冷

 散水

 緑化

 蓄冷 井水循環

 スケルトン インフィル

 コレクティブ・ハウジング

 中水 合併浄化槽

 外構 風の道            

    積層形式における共有空間

    歴史の原理:ストック 街並み景観

   フローからストックへ

 

     地域性の原理・・・地域住宅生産システムの展望:

    直接性の原理

    循環性の原理

   環境共生

   自律性の原理・・・


京の風土と町にふさわしいエコ・サイクル・ハウスの提言

 

 はじめに

 日本の住宅生産の動向、その問題点をめぐって論ずべき点は多いが、決定的なのは一貫する住宅供給の論理が不在であり、地球環境時代における住宅のプロトタイプについて必ずしも明確になっていないことである。豊かさの中の論理の欠落について列挙すれば、少なくとも以下の点が指摘できる。 

  ◇集住の論理の欠落:住宅供給=町づくりという視点がない。建築と都市計画がつながっておらず、都市型住宅としての集住のための型がない。

 ◇歴史の論理の欠如:スクラップ・アンド・ビルド(建てて壊す)論理がこれまで支配的であり、歴史的ストックを維持管理する思想がなかった。住宅供給は住テクの論理によって支配され、社会資本としての住宅・建築・都市という視点が欠けている。

 ◇異質なものの共存原理の欠如:日本の住宅は極めて多様なデザインを誇るように見えて、その実、画一的である。生活のパターンは一定であり、従って間取りは日本全国そう変わらない。文化的な背景を異にする人々と共生する住空間が日本には用意されていない。

 ◇地域の論理の欠如:住宅は本来、地域毎に固有な形態、原理をもっていた。地域の自然生態、また、社会的、文化的生態によって規定されてきたといってもいい。その固有の原理を無化していったのが産業化の論理である。また、住宅問題は、大都市圏と地方では異なる。住宅の地域原理を再構築するのが課題となる。

 ◇自然と身体の論理の欠如:産業化の論理が徹底する中で、住宅は建てるものではなく買うものとなっていった。また、人工環境化が押し進められた。住宅は工業生産品としてつくられ、その高気密化、高断熱化のみが追求されることによって、住空間は人工的に制御されるものと考えられてきた。結果として、住空間は、土、水、火、木・・・など自然と身体との密接な関わりを欠くことになった。

 ◇生活の論理「家」の産業化:問題は単に住宅という空間の問題にとどまらない。住機能の外化、住まいのホテル化家事労働のサービス産業代替、住宅問題の階層化、社会的弱者の住宅問題など家族と住宅をめぐる基本的問題がある。

 

 エコ・サイクルハウスの理念

 これからの住宅供給のあり方について、以上を踏まえて、いくつかの基本原理が考えられる。

 ◇長寿命構法、ストック型構法(スケルトン・インフィル分離)

 まず、フローからストックへという流れがある。すなわち、建てては壊すのではなく、既存の建物を維持管理しながら長く使う必要がある。日本全体で年間150万戸建設された時代には住宅の寿命は30年と考えられたが、少なくとも百年は持つ住宅を考えておく必要がある。そのためには建築構法にも新たな概念が必要である。住宅の部位、設備など耐用年限に応じて取り換えられるのが基本で、大きくは躯体(スケルトン)と内装(インフィル)、さらに外装(クラディング)を分離する。また、再利用可能な材料、部品(リニューアブル材料 リサイクル材料を採用する。

 ◇地域型住宅:地域循環システム

 地域の風土に適合した住宅のあり方を模索するためには、地域における住宅生産システムを再構築する必要がある。具体的には地域密着型の住宅生産組織の再編成、地域産材の利用など住宅資材の、部品の地域循環がポイントである。

 ◇自立志向型システム(Autonomous House

 循環システムは個々の住宅においても考えられる必要がある。特に、廃棄物、汚水などを外部に極力出さないことが大きな方針となる。自立志向型給水・汚水処理システム、ごみ処理用コンポストなどによって、住宅内処理が基本である。

 ◇自然との共生

 個々の住宅内での循環系システムの構築に当たってはふたつの方向が分かれる。いわゆるアクティブとパッシブである。しかし、省エネルギー、省資源を考える場合、パッシブが基本となる。具体的には冷暖房なしで居住性を向上させるのが方針である。ミニマム熱取得、 マキシマム放熱が原理となる。通風をうまくとる。また、太陽光発電、風力発電など創エネルギーも重要となる。さらに、天井輻射冷房などの考え方も導入される。

 

 エコ・サイクル・ハウス・テクノロジー

 以上のような原理は各地域の状況に合わせて考えられる必要があり、それぞれにモデルがつくられる必要がある。インドネシアのスラバヤでモデル集合住宅を建設した経験がある。北欧など寒い国には既に多くのモデルがあるが、問題は暑い地域である。地球環境全体を考えるとより重要なのは暑い地域の住宅モデルである。スラバヤは、日本と無縁のように見えるかもしれないが、大阪、京都の夏と同じ気候である。採用した考え方、技術を列挙すれば以下のようになる。大屋根による日射の遮蔽、二重屋根、イジュク(椰子の繊維)の断熱材利用、ポーラスな空間構成、通風、換気、廃熱、昼光利用照明、湿気対策のためのピロティ、夜間換気、冷却、蓄冷、散水、緑化、蓄冷、井水循環。こうした考え方は、基本は京都でも同じである。一般的にエコ・ハウス・テクノロジーを列挙すれば次のようになる。

 ◇自然(地・水・火・風・空)利用:風力エネルギー、風力利用:通風腔・外装システム:自然換気システム、壁体膜:太陽熱利用、断熱、蓄熱、昼光利用、昼光制御、昼光発電、地熱利用、PV(循環ポンプ、ファン、共用電力)

 ◇リサイクル・資源の有効利用:建築ストックの再生:地域産材利用、雨水・中水利用:廃棄物利用・建材、古材、林業廃棄物、間伐材利用、産業廃棄物:廃棄物処理 、コンポスト、合併浄化槽、土壌浄化法

 

 京都エコ・サイクル・ハウス・モデルへ向けて

 具体的な京都エコ・サイクル・ハウス・モデルについては、いくつかの条件設定が必要である。京都の住宅需要に即した提案でなければ画餅に終わる可能性がある。

 まず考えられるのは町家モデルである。これも二つあって、ひとつは新町家というべきモデルであり、ひとつは既存の町家の改造モデルである。いずれも伝統的町家を評価した上で、新たな創意工夫が必要である。「京都健康住まい研究会」の提案は町屋モデルの提案である。町家を新たに建設する機会はそうあるわけではないが、既存の町家の改造は大きな需要がある。

 もうひとつ是非とも必要なのは集合住宅モデルである。立地によって、また、供給主体によってモデルは異なるが、それぞれのケースにモデルが必要である。スケルトンについては、O型 柱列型 column、 A型   壁体スケルトン wall、B型 地盤型スケルトン baseを一般に区別できる。供給主体についても、地主単一の場合、複数の場合で異なる。

 しかし、いずれにしろ、スケルトンーインフィル分離、オープンシステム、居住者参加、都市型町並み形成、環境共生は鍵語である。

 

 

 

布野修司関連文献

■単著

①スラムとウサギ小屋,青土社,単著,1985128

②住宅戦争,彰国社,単著,19891210

③カンポンの世界,パルコ出版,単著,1991725

④住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,単著,199710

⑤廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,単著,1998510(日本図書館協会選定図書)

⑥裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説、建築資料研究社,単著,2000310

■編著

⑦見知らぬ町の見知らぬ住まい,彰国社,編著,1990

⑧建築.まちなみ景観の創造,建築・まちなみ研究会編(座長布野修司),技報堂出版,編著,19941(韓国語訳 出版 技文堂,ソウル,19982)

⑨建都1200年の京都,布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社,編著,1994

⑩日本の住宅 戦後50, 彰国社,編著,19953

■共著

⑪見える家と見えない家,叢書 文化の現在3,岩波書店,共著,1981

■訳書

⑫布野修司:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,監訳書,19973


2024年12月4日水曜日

ダイニング・キッチンからnLDKへ、早川和男編:講座 現代居住全5巻 第2巻 家族と住居,東京大学出版会1996年7月

 早川和男編:講座 現代居住全5 2 家族と住居,東京大学出版会19967


12.ダイニング・キッチンからnLDKへ

 

 核家族の器

  戦後日本の住宅のモデルとなったのが「51c型」住宅である。いわゆる2DKの原型である。51cとは、1951年の公営住宅の標準プラン(間取り)abcのうち、cのタイプ(吉武泰水・鈴木成文)を意味するi。「51c型」の計画にあたっては以下の3点がテーマであった。①小住宅でも寝室は2部屋以上確保すべきである。②食寝分離のために少なくとも朝食がとれるような台所とする。③バルコニーや行水や洗濯のできる場所、物置、水洗便所といった生活を支える部分の重視。「51c型」住宅が歴史に記録されるのは、そのプランにおいて、日本の戦後(近代)住宅の象徴となるダイニング・キッチン(DK)が生み出されたからである。

 ダイニング・キッチンと戦後の日本人の生活は密接に関わる。ひとつには女性の立場の変化を象徴する。戦前の住宅では台所は裏側に隠されていて、そこで働く女性も家族の中では裏方であり社会的にも表にたつことは稀であった。ダイニング・キッチンの導入により、台所が生活の表舞台に現れることになる。核家族を基本とする住居には女中部屋がなくなり、女性の社会進出を促す生活スタイルが、家事の軽減を図るために間取りの変化を要求したのである。また、高度経済成長を支えた労働力の編成の問題として考えると、核家族の器として2DKは産業社会のニーズに応え、大いなる貢献したことになる。

 

 台所革命

 台所が食堂と並んで明るい位置に配置されたことは大きな革命である。そして、1950年のステンレス流し台の登場は2DK公団住宅にさらなる魅力を付加した。それまでの流し台はコンクリートに御影石のかけらを入れて磨き上げた人研ぎ流しであった。あるいは、タイル張りであり、トタンであった。住宅公団(1955年設立)による住宅建設とステンレス流し台の生産普及は同時進行であるii。当初、椅子式生活に慣れないことを考慮してダイニング・キッチンには食事用テーブルが備え付けられていた。「ステンレス流し台」と「食事用テーブル」はダイニング・キッチンには欠かせない要素として定着していくのである。ブームは「団地族」という言葉まで生んだ。2DK公団住宅での生活は、サラリーマンの憧れであった。ダイニング・キッチンを新しい生活の象徴として扱い、そこに積極的にモダンリビングのイメージを重ね合わせようとした意図があったのであるiii

 ダイニングとキッチンの一体化から誕生したダイニング・キッチンは、後にリビングが加わることで、家庭生活の中心的地位を確立していく。その過程で、台所に電化製品が次々に導入される。冷蔵庫、電子レンジ等調理器具だけでなくテレビが持ち込まれ、ダイニングには本棚が並んだ。ダイニング・キッチンは南面するよう計画されていて家族が必然と集まるように、そう仕向けられていた。ダイニング・キッチンは茶の間の役割も担うことになる。

 

 nLDK家族

 ダイニング・キッチンと4.5畳と6畳の二部屋からなるこの小住宅(2DK)のプランを生み出したのが食寝分離論(西山夘三)である。狭くても食事の場所と就寝の場所は分ける。そのために食堂が台所と一緒になってもやむを得ない。朝はダイニング・キッチンで簡単に食事をして夫婦共に働きに出かける、そんな家族像が戦後日本の出発点である。

 その後の展開もわかりやすい。戦後復興から高度経済成長期にかけて住宅の規模は拡大していく。食寝分離が保証された後は公私室の分離が目指される。リビングの誕生である(2LDK)。そして次は、個室の確保が目指される。1960年を過ぎた頃、3DKとか3LDKが日本の標準住宅となった。興味深いのは、この形式が農家住宅にも一気に普及していったことである。こうして日本の住宅と言えばnLDKという記号になる。

 nLDKとは核家族n人の住居である。今でも住宅の立地と形態(集合住宅か戸建住宅か)を知って、nLDKと聞けば、家族の形はイメージできる。驚くべき画一化であるといっていい。しかし、それだけ家族のかたちも一定であったのである。nLDKという空間形式が家族のかたちを表現した。だから日本の戦後家族はnLDK家族なのである。

 高齢化、少子化、女性の社会進出、熟年離婚・・・等々、家族を取り巻く環境はこの間大きく変化しつつある。そうした流れの中で総じて家族のかたちは多様化しつつある。家族の基礎である男女(個人と個人)の結びつき(婚姻)が急速に流動化しつつあるのである。家族は個人化しつつある、といってもいい。はっきりしているのは、高齢単身も含め独身期間が長期にわたり、単身居住が増えることである。

 この家族のゆらぎに対して、どのような居住空間を用意すべきか。予め言えるのは、多様な家族形態を受け入れる空間が日本にはほとんど用意されていないことである。

 

i 鈴木成文「住まいにおける計画と文化」

ii 公団仕様のステンレス流し台は1956年、浜口ミホらによって共同開発された。

iii ⅰに同じ

 

2024年11月25日月曜日

しまね景観賞 審査表、島根県、1996

 

メテオプラザ

布野修司

 

 隕石の落ちたというハプニングを積極的に町おこしに生かしたいということもあって、また、隠岐島への玄関口であるということもあって、通常の機能を超えた象徴的な表現が強く求められた建築作品である。公開ヒヤリング方式の設計競技(コンペティション)によって設計者が選ばれたのであるが、その際、周辺の漁港の風景に調和的に連続する案とこの実施案とが最終的に残り、議論となった。最終的に象徴性を最大限に表現するこの作品が選定されたのであるが、決め手となったのは隠岐への行き帰りに必ず眼にする海側からの景観である。

 景観というのは、時に、新しく創り出されるものである。また、敢えて自然と対立する表現としてすぐれた景観が成立する場合もある。記憶に残る景観創出の新しい意欲的な試みとして大いに評価したい。

 

 

羽須美村立羽須美中学校

 

 山間に建てられたしっとりと落ちついた中学校である。指名コンペ方式で選定され実施された作品だという。校庭に面して設けられた緩やかにカーブした二層の回廊がやわらかな雰囲気を醸し出している。打ち放しのコンクリートの仕上げが主体である中に、木材が使用されているのも効果的で、柔らかな空間の印象を与えるのに寄与しているように思えた。周囲の景観に溶け込む秀作である。 

  ただ、落ちついた雰囲気の中庭に対して校庭側の色彩の扱いが少し中途半端で徹底しないように個人的には思った。すなわち、青、赤、黄色、緑といった原色が鉄骨部分に塗られるのであるが、そう効果があがっていないように思えたのである。色を絞るか、面積をもう少し増やすか、少しものたりないのである。景観を考える上で色彩は難しい。生成(きなり)の色が日本人の感覚に合うというのであるが、もう少し、大胆に色を使う例があってもいいとも思う。

 

2024年11月5日火曜日

話題の本06、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607

話題の本

紹介者    布野修司 京都大学工学部助教授 地域生活空間計画学専攻


006

⑭色と欲 現代の世相1

上野千鶴子編

小学館

1996年10月

1600円

 帯に「爛熟消費社会は日本人の生活と心をどのように変えたか」とある。現代の世相シリーズ全8巻の第1巻。左高信編『会社の民俗』(第2巻)小松和彦編『祭りとイベント』(第5巻)色川大吉編『心とメディア』(第9巻)とラインアップにある。本書の冒頭には家をめぐる欲望に関して、三浦展「欲望する家族」山本理顕「建築は仮説に基づいてできている」山口昌伴「台所戦後史」の3論文がある。山本理顕論文は世相を斬るというより真摯な住居論である。

 

⑮東南アジアの住まい

ジャック・デュマルセ 西村幸夫監修 佐藤浩司訳

学芸出版社

1993年

1854円

 オックスフォード大学出版局のイメージ・オブ・アジアシリーズの一冊。東南アジアの住居については、評者は20年近く調査研究を続けているけれど、なかなかいい本がない。そうした中で本書は手頃な一冊。R.ウオータソンの「生きている住まい」をアジア都市建築研究会で訳したのであるが、近々ようやく刊行される、という。

 

⑯群居41号 特集=イギリスー成熟社会のハウジングの行方

布野修司編

群居刊行委員会(tel 03-5430-9911

1996年11月

1500円

  評者が編集長を務める。1982年12月に創刊準備号を出して、細々と刊行を続けている。最新号は、イギリス特集。フローからストックへというけれど、そのモデルとしてイギリスに焦点を当てた。安藤正雄、菊地成朋、野城智也、瀬口哲夫等々イギリス通のベストの執筆陣を組んだ。



2024年11月4日月曜日

話題の本05、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199611

 005

⑬数寄屋の森 和風空間の見方・考え方

中川武監修

丸善株式会社

1995年3月

3200円

 数寄屋とは何か。本書は中谷礼仁をキャップとする早稲田大学中川研究室の若い建築学徒のその問いに対する回答である。数寄屋名作選(1章)から入り、まず歴史が解説される(2章)。読者はおよそ数寄屋なるものの歴史を手に入れることができる。続いて、近代編(3章)素材編(4章)がきて、現在編(5章)で締めくくられる。中心となるのは京都のフィールドワークをもとにした素材編である。数寄屋の基礎用語、構成要素、年表など付録もつけられている。

⑭居住空間の再生

早川和男編 講座 現代居住3

東京大学出版会

1996年9月

3914円

 居住空間の再生と題されているが、扱われているのはインナーシティの問題だけではない。要するに居住空間が全体的に衰退してきたという認識から、その再構築をどう具体化するかがテーマである。居住空間再生の担い手をどう考えるかがひとつの焦点である。

⑮建築の前夜 前川國男文集

前川國男文集編集委員会

而立書房

1996年10月

3090円

 前川國男といえば、日本の近代建築をリードし続けた巨匠である。ちょうど10年前に亡くなった。本書はその文章を可能な限り集めた文集である。近代建築家としていかに悩みが大きかったか文章の端々から伝わってくる。巻頭に「MR.建築家ーーー前川國男というラジカリズム」という文章を書かせていただき、各時期の解説をさせて頂いた。「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」という一節が耳にこびりついている。

 

 



2024年11月3日日曜日

話題の本04、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199609

04


⑩住生活と住教育

奈良女子大学住生活学研究室編

彰国社

1993年

2400円

 

 この7月、奈良女子大学の大学院に集中講義に招かれる機会があって、今井範子先生から頂いた。扇田信先生の古稀の記念論集で、奈良女子大学で先生に教えを受けられた諸先生が執筆されている。今井先生は「”動物と暮らす”住生活」を書かれている。かねがね、ペットの飼えるマンションを、と思っているのであるが、鳴き声がうるさいと裁判ざたになったわが東京のマンションを思い出してうんざりする。女性執筆陣の中で”白(国)二点”が、西村一朗、高口恭行両先生の論考である。

 

⑪ファミリー・トライアングル

神山睦美+米沢慧

春秋社

1995年

2369円

 

 著者二人の対談集。米沢慧さんは郷土の先輩という縁もあって面識がある。『都市の貌』『<住む>という思想』『事件としての住居』などがある。ものにはならかったのであるが、東京論のために東京を一緒に歩き回った経験がある。神山睦美氏には、『家族という経験』がある。僕とほぼ同世代である。その二人が、それぞれの家族体験をもとに「高齢化社会」の行方をめぐって重厚な議論が展開される。ファミリー・トライアングルとは、職場、住居、家族のトライアングルを背景とする、家族の関係(三角形)を意味する。

 

⑫家の姿と住む構え

納得工房+GK道具学研究所

積水ハウス

1994年

2500

 

 納得工房訪れたことのない人は是非行ってみてほしい。京阪奈丘陵、関西文化学術研究都市のハイテック・リサーチ・パークにある。様々な体験ができる。GK道具学研究所は、山口昌伴先生に率いられる。ユニークな集団による、納得のすまいづくりあの手この手が披露されている。「女性でも建物でも、まっ正面から見るなんてことは滅多にない」といったポイントが多数、イラスト・写真とともにぎっしりつまる。


 

2024年11月2日土曜日

話題の本03、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199610

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⑦⑧講座現代居住 全5巻 「1 歴史と思想」(大本圭野・戒能通厚編)

 「2 家族と住居」(岸本幸臣・鈴木晃編)

編集代表 早川和男

東京大学出版会

1996年6、7月

3914円(1,2巻共)

 

 「豊かさの中の住宅貧乏」とでも言うべき、日本の現代居住の様々な局面をグローバルな視点から問う総合講座。多分野にわたる数多くの専門家が執筆。現在、2巻まで刊行されており、以下、 「3 居住空間の再生」、「4 居住と法・政治・経済」、「5 世界の居住運動」と続刊予定。第1巻は、総論において、居住をめぐる今日的問題を明らかにし、基本的な視座を述べた上で、居住をめぐる理念、思想、政策の歴史と諸問題を論ずる。さらに、具体的な問題として、ホームレス問題、巨大都市問題、国土計画、地球環境問題など、現代的論点を考察している。

 第2巻は、現代家族の揺らぎ、女性の社会進出、高齢化、少子化など家族と居住空間の関係を論じる。布野も「2 世界の住居形態と家族」を執筆している。

 

⑨コートヤード・ハウジング

S・ポリゾイデス/R・シャーウッド/J・タイス/J・シュールマン 有岡孝訳

住まいの図書館出版局

住まい学体系075

1996年4月

2600円

 

 1982年にカリフォルニア大学出版会から初版が出され、1992年にプリンストン建築出版から再版されたものの翻訳である。副題に「L.A.の遺産」と小さくあるように、原題には「in Los Angeles」がついている。ロスアンジェルスの中庭式(集合)住宅(コートヤードハウス)を対象にした、南カリフォルニア大学グループの都市の類型学研究の成果である。しかし、コートヤード・ハウスは、古今東西、都市型住宅の形式としてどこにも見られるものであり、本書の議論は広く応用可能である。スパニッシュ・コロニアルの中庭式集合住宅の成立の過程を学びながら、地域に固有な都市型住宅のあり方を考えることができるのではないか。


2024年11月1日金曜日

話題の本02、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199608

 02

④ヒルサイドテラス白書

槙文彦+アトリエ・ヒルサイド編著

住まいの図書館出版局

住まい学体系071

2600円

1995年12月

 「ヒルサイドテラス」とは、東京は代官山に建つ集合住宅である。近くに同潤会の代官山アパートが建つのであるが、戦前戦後を通じて、このヒルサイドテラスもまた、建築家による集合住宅としてその評価は高い。第一期のAB棟(1968年)が建設がなされて以降、第六期のFGN棟(1992年)まで、槙文彦と元倉真琴をはじめとするその若い仲間たちが継続的に設計に携わってきた。本書はその記録集である。

 

⑤住宅の近未来像

巽和夫・未来住宅研究会編

学芸出版社

3296円

1996年4月

  近未来実験集合住宅「NEXT21」(大阪ガス)を実現した関西グループを中核とする未来住宅研究会の住宅論集である。具体的には、関西ビジネスインフォーメーション(KBI)主催の研究会がもとになっており、住様式、家族、集住、テニュア、居住地、エコロジーをキーワードに主論と特論から構成されている。

 

⑥家事の政治学

柏木博

青土社

2200円

1995年10月

  デザイン批評を基盤として幅広く評論活動を展開する気鋭の評論家による家事労働論。もちろん、住居論としても読める。「キッチンのない住宅」「家事はロボットにおまかせ」など、魅力的な目次が並ぶ。しかし、必ずしもそこに未来の住宅についてのヒントがあるといった類の本ではない。住宅という容器のなかの出来事をじっくり考える本である。A



2024年10月31日木曜日

話題の本01、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607

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 今回から本欄を担当することになりました。ご挨拶代わりに(厚かましくも)まずは自分の著書編著を紹介させて頂きます。

 

 ①布野修司編、『日本の住宅 戦後50年 21世紀へ 変わるものと変わらないものを検証する』、彰国社、19953

 戦後50年を振り返って、これからの日本の住宅のあり方を展望する。50人の建築家の50の住宅作品を選定。また、地域に根ざした建築家50、日本の家づくり、まちづくりグループ50を掲載。建築家の作品を通しての住宅戦後史の試みには限界があるけれど、様々な視点での論考を含む。特に、戦後の住宅文献50は参考になる。

 

 ②布野修司、『住宅戦争』、彰国社、1989年。

 住まいにとっての豊かさとは何か、というのがサブタイトル。受験戦争という言葉があるのに住宅戦争という言葉がないのはおかしい。日本人の一生が如何に住宅(の取得)に縛られているかを考える。F氏の住宅遍歴として著者自らの住宅遍歴を振り返るほか、山口百恵など有名人の住宅選択についても詳述している。

 

 ③布野修司編、『見知らぬ町の見知らぬ住まい』、彰国社、1990

 100人の筆者に100の住まいを紹介してもらう。日本の住宅はどこかワンパターンじゃないか、世界にはもっと楽しい住まいがあるんじゃないかというのがテーマ。100人に頼むと同じような事例が出て来るんじゃないかと思いきやすべて違う例が出てきた。住宅というのはそれぞれ違うのが当たり前なのである。



2024年8月28日水曜日

職人大学の創立に向けて,建設専門工事業者の社会的地位の向上と「職人大学」の創立,日刊建設工業新聞,19961115

 職人大学の創立に向けて,日刊建設工業新聞,19961115

 

建設専門工事業者の社会的地位の向上と「職人大学」の創立 

布野修司(京都大学助教授)

 

 「職人大学」の設立を目指す国際技能振興財団(KGS)が労働省の認可を受け、日比谷公会堂で盛大に設立大会が行なわれたのは、四月六日のことであった。母胎となったのは、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)である。その設立は一九九〇年十一月だから、小さな産声をあげてからほぼ五年の月日が流れたことになる。

 サイト・スペシャルズとは、サイト・スペシャリスト(現場専門技能家)に関する現場のこと全てをいう。職人、特に屋外作業を行う現場専門技能家の地位が不当に低く評価されている。その社会的地位の向上を実現するために「職人大学」をつくろう、と立ち上がったのが小野辰雄国際技能振興財団副会長をはじめとする専門工事業の皆さんであった。

 SSF設立当初からそのお手伝いをしてきたけれど、建設業界のうんざりするような体質にとまどうことも多かった。しかし、そうした中で頼もしく思うのは専門工事業の力である。とりわけSSFを支えてきた専門工事業の皆さんには頭が下がる。ゼネコンが川上志向を強め現場離れして行く中で、現場の技術を保有するのは専門工事業である。その未来に大いに期待したい。

 ゼネコンは管理技術のみに特化して空洞化しつつある。その実態を明らかにしたのが「職人問題」ではなかったか。建設産業を支えてきた職人が切り捨てられていく。誰が職人を育てるのか。問題は、日本の学歴社会の全体、産業界の編成全体に関わる。SSFは当初、精力的にシンポジウムを開催した。ドイツ、アメリカ、イギリスから職人、研究者を招いて国際シンポジウム行った。ヨーロッパのマイスター制度などに学ぶためにドイツへ調査に出かけてもいる。職人養成のためのシステムのみならず、職人育成のためのソーシャル・カッセ(社会基金)の役割、その仕組みに注目すべきものがあると考えたからである。

 SSFは真摯な議論の場であり続けた。どんな「職人大学」をつくるのか。自前の大学をつくりたい、これまでにない大学をつくりたい。大学の建築学科にいると嫌というほどその意味はわかる。今の制度的枠組みの中では限界が大きいのである。すなわち、普通の大学だと必然的に座学が中心になる。机上の勉強だけで、職人は育てることはできないではないか。とにかく構想だけはつくろう、ということで、いろいろなイメージが出てきた。本部校があって、地域校がいる。建築は地域に関わりが深いのだから、一校だけではとても間に合わない。さらに働きながら学ぶことを基本とするから、現場校も必要だ。

 しかし、議論だけしてても始まらない。それで生まれたのがSSFスクーリング(実験校)である。一週間から十日合宿しながら「職人大学」をやってみようというわけである。職長クラスの参加者を募った。何が問題なのか、どういう教育をすればいいのか、手探りするのが目的であった。ヴェテランの職長さんの中から「職人大学」の教授マイスターを発掘するのも目的であった。

 SSFの実験校は既に移動大学である、というのが僕の見解である。しかし、世の中いろいろとタイミングがある。SSFが飛躍する大きなきっかけになったのは、KSD(中小企業経営者福祉事業団)との出会いである。産業空洞化が危惧される中で、優れた職人の後継者の育成を怠ってきたのは誰か。その提起を真摯に受けとめたのが国会議員の諸先生方にもいた。参議院に中小企業特別対策委員会が設置され、「職人大学」設立は大きな関心を集め出すことになった。しかし、「職人大学」設立への運動は今始まったばかりである。専門工事業に限らず、建設産業界全体の取り組みが問われている。問題は、建設業界を支える仕組みなのである。


 

2024年8月26日月曜日

いい建築と悪い建築,日経アーキテクチャー,19960408

  いい建築と悪い建築

布野修司

 

 いらない建築などはない。あるのはいい建築と悪い建築だけである。

 どんな建築であれ、建てられるからにはいる建築である。たとえ悪い建築であっても、最低、それを建てる設計者や施工者や部品メーカーにとってはなにがしかの利益をもたらすのであるから、いる建築である。

 建てない方がいい、あるいは別の建築を建てた方がいい、というのであれば枚挙に暇がない。というより、ほとんど全ての建築がそうだ。稀に、人里離れたところに、要するに開発に取り残されて建ち続けた建物が傑作ということになる。

 いい建築とは何か。いい悪いは見方による、などとは言わない。そういうと、いるいらないも見方によるということになる。

 いい建築とは壊されない建築である。壊されない建築なんかありうるのか。永久に壊れない建築は物理的にはあり得ないけれど、原理的には方法が3つだけある。ひとつは永遠につくり続ける方法である。永遠に未完であればいい。式年造替による形式保存の方法も入れてもいい。もうひとつは最初から壊れたものをつくればいい。廃墟価値の理論だ。そして、最後はつくらないことである。つくらない建築は壊れることはない。すなわちいらない建築である。

 しかしそれでも建築家であればつくるのであるから、いらない建築はないのである。つくるのであれば、ただひたすらいい建築をつくればいい。いらないと言われてもどうにか使える、壊すと言われてもなんとか再生できるそんな建築が求められる時代が来ていると思う。

2024年8月19日月曜日

世紀末建築の行方:戦後50年と阪神・淡路大震災,建築年報,日本建築学会,199602

 世紀末建築の行方:戦後五〇年と阪神・淡路大震災          

 

 敗戦から阪神・淡路大震災への戦後五〇年

 戦後五〇年の節目に当たる一九九五年は、日本の戦後五〇年のなかでも敗戦の一九四五年とともにとりわけ記憶される年になった。阪神・淡路大震災とオウム事件。この二つの大事件によって、日本の戦後五〇年の様々な問題が根底的に問い直されることになったのである。加えて、年末からは「住専問題」(不良債権問題)が明るみに出た。日本の都市と建築を支えてきたものが大きく揺さぶられ続けたのが一九九五年であった。

 建築界は、阪神・淡路大震災で明け暮れた。この間の「建築家」の対応は様々にまとめられている。今たまたま、大部の報告書『兵庫県南部地震の被害調査に基づいた実証的分析による被害の検証』*1があるのであるが、この一冊だけからも、大変な災害であったことが再確認できると同時に、多くの「建築家」が大震災をそれぞれ自らの大きな課題として取り組んできたことがうかがえる。

 一方、大震災から時が流れるにつれ、時間の経過に伴う感慨も沸いてくる。最早、大震災は遠い過去のものとなりつつあるように思えてしまう。既に三月二〇日の地下鉄サリン事件以降、オウムの事件が日本列島を席巻し、被災地は置き去られた感はあった。オウム事件関連の裁判が進行していくのであるが、生々しさは加速度を増して消えていく。

 大震災の最大の教訓は、実は、人々は容易に震災を忘れてしまうことではないか。

 もちろん、大震災の投げかけた意味が一貫して問い続けられたことは疑いはない。また、これからも問い続けられていくであろう。大震災が、この五〇年の建築や都市のあり方を根底的に考え直させる、それほど大きな事件であったことは論をまたないところだ。阪神・淡路大震災をめぐっては、様々な議論の場に関わり、何度か思うところを記録する機会があった*2。また、戦後五〇年ということで、戦後建築の歴史を振り返り、まとめ直す機会があった*3。それを基礎に、建築の戦後五〇年を振り返ってみよう。

 

 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。そんなことがあっていいのか、というのは別の感慨として、とにかく地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。

 水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、あるいはコントロールしているとつい考えがちなのであるが、とんでもない。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。自然の力を忘れてしまっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てる。本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるからそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 それにしても、関西には地震はこない、というのはどんな根拠に基づいていたのか。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったことか。また、知っていても、結果的にいかに甘く見ていたか。

 一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きいのである。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされたのであった。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した建築界の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきではないか。

 

 フロンティア拡大の論理・・・「文化住宅」の悲劇・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程を見てつくづく感じるのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちがいる。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。これほどまでに日本社会は階層的であったのか。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことだ。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数知れない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったのである。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。神戸市の、企業経営の論理を取り入れた都市経営の展開は、自治体の模範とされた。しかし、その裏で、また、結果として、都心の整備を遅らせてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたのである。

 

 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市はひたすら肥大化してきた。移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着ではなかったか。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、一体どうなっていたのか。東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。遷都問題がかってないほどの関心を集めはじめたのは当然といえば当然のことである。

 阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることはすぐさま明らかになった。インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったのである。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通に限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要なのである。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像を超えた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかった。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 産業社会の論理・・・地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然と見ているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながったのである。

 今回の大震災における最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになった、という自虐的な声を聞いた。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高い程問題は大きかったのである。

 産業化の論理こそ、戦後社会を導いてきたものである。その方向性が容易に揺らぐとは思えないけれど、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。しかし、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 建築の分野でも被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、ヴォランティアの果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とはいない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組みのなかで、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えていくことになるであろう。

 

 最適設計の思想・・・建築技術の社会的基盤・・・ストック再生の技術

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。建築界に関わるわれわれ全てが深く掘り下げる必要がある。最悪なのは、専門外だから自分とは無縁であるという態度である。問題なのは社会システムであると、自らの依って立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想を超える地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきなのである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったのである。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも不思議である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきではなかったか。

 

 仮設都市・・・スクラップ・アンド・ビルド・・・サテイアン 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。しかし、それ以前に、われわれの都市は廃棄物として建てられているのではないか、という気もしてくる。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせただけではないか。

 阪神・淡路大震災の前には全ての建築の問題が霞むのであるが、一九九五年の建築界を振り返って、ひとつの事件として挙げるべきものは東京都市博覧会(都市博)の中止である。近代日本の百年、都市計画は博覧会を都市開発の有力な手段にしてきた。仮設の博覧会のためにインフラストラクチャーを公共団体が整備し、博覧会が終わると民間企業が進出して都市開発を行う。戦後も大阪万博以降、各自治体が様々なテーマで繰り広げる博覧会にその手法は踏襲されてきた。博覧会型都市計画は、果たして、その命脈を断たれることになるであろうか。いずれにせよ、建築界にとって戦後五〇年が大きな区切りの年になったことは間違いない。

 戦災復興から高度成長期へ、日本の建築界はひたすら建てることのみを目指してきたように見える。住宅の総戸数が世帯数を超え、オイルショックにみまわれた七〇年代前半を経ても、そのスクラップ・アンド・ビルドの趨勢は揺るがなかった。都市計画も成長拡大政策が基調であった。また、巨大プロジェクト主義が支配的であった。

 都市博が「東京フロンティア」と名づけられていたことは象徴的である。フロンティアの消滅が意識されるからこそ、フロンティアが求められたのである。

 しかしそれにしても、オウム真理教のサティアンと呼ばれる建築物も戦後建築の五〇年の原点と到達点を示しているようで無気味であった。そこにあるのは経済的合理性のみの表現である。あるいは何の美学もない間に合わせのバラック主義である。そこでは建築や街並み、周辺の景観など一切顧慮されていないのである。仮設の建物のなかで、全く我が侭に、自らの魂の救済のみが求められている。

 

 変わらぬ構造

 大震災によって何が変わったのか、というと、今のところ、何も変わらなかったのではないか、という気がしないでもない。震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはないのである。そのインパクトが現れてくるまでには時間がかかるだろう。しかしそうは思っても、果たして何かが変わっていくのかどうか疑問が湧いてくる。

 建築家、都市計画プランナーたちはヴォランティアとして、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるであろう。

 しかし、そうした試みによって新しい動きが見えてきたかというと必ずしもそうでもない。復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生み、容易にまとまりそうにないのである。そして、大震災の教訓が復興計画にいかに生かされようとしているのか、というと心許ない限りである。都市計画を支える制度的な枠組みは揺らいではいないし、立案された復興計画をみると、大復興計画というべき巨大プロジェクト主義が見えかくれしている。フロンティア主義は変わらないのであろうか。

 関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。復興過程の袋小路を見ていると、震災が来ようと来まいと、基本的な問題点が露呈しただけであるように見える。問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。どこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのではないか。だとすると、ずっと問われているのは戦後五〇年の都市と建築のあり方なのである。

 バブルが弾けて、ポストモダンの建築は完全にその勢いを失った。デコン(破壊)派と呼ばれた殊更に傾いた壁やファサード(正面)を弄んできた建築表現の動向も大震災の破壊の前で児戯と化した。建築表現は世紀末へ向けてどう変化していくのか。

 このところCAD表現主義とでもいうべき、コンピューターを駆使することによって可能になった形態表現が目立つ。新しいメディアによって新たな建築表現が試みられるのは当然である。しかし、CADによる形態操作の生み出す多様な表現はすぐさま飽和状態に達する予感がないでもない。建築はヴァーチャルな世界で完結はしないからである。

 

 都市(建築)の死と再生

 今度の大震災がわれわれにつきつけたのは都市(建築)の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にわれわれがみたのは滅亡する都市(建築)のイメージと逞しく再生しようとする都市(建築)のイメージの二つである。都市(建築)が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないだろう。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市(建築)の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。それはしかし、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後五〇年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。

 スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 そして、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。

 果たして、日本の都市はストックー再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。

 表現の問題として、都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性を見い出す契機になるのかどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となる筈だ。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。

*1 研究代表者 藤原悌三 一九九六年三月

*2  拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』四号、一九九六年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、一九九六年二月号など

*3 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、一九九五年