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2024年12月24日火曜日

Mr.建築家ー前川国男というラディカリズム(前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,1996年10月)(布野修司建築論集Ⅲ収録

 Mr.建築家・・・前川國男というラディカリズム

布野修司

 

 プロローグ

 生前の前川國男にたった一度だけ合ったことがある。同時代建築研究会[i]1(一九七六年~一九九一年)の結成当初、仲間たちと日本の近代建築の歴史を生きてきた大御所に話を聞く機会を集中して持った。山口文象、竹村新太郎、浜口隆一、高山栄華、前川國男、土浦亀城・・・と、戦前戦中期の建築界の動向をめぐって次々に話を聞いて回ったのである。戦後50年を迎えた今振り返ると実に貴重な体験であったと思う。ただ、前川國男の場合、内容については印象が薄い。ほろ苦い、気恥ずかしさのみが思い出される。

 東京麻布の国際文化会館の一室であった。研究会の主旨とインタビューのテーマについて口を開いた途端、いきなり、質問が飛んできたのである。

 「君たちの言う、近代建築とは何か、まず説明して下さい。」

 一瞬、口頭試問を受けているような錯覚に陥った。最初に口を開いた手前、僕が答える羽目になった。しどろもろである。

 「近代建築とは、一般的には、鉄とガラスとコンクリートを素材とする四角い箱形の、ジャングルジムのようなラーメン構造による建築形式、いわゆるインターナショナル・スタイル(国際様式)の建築をいいます。でも、僕らは近代建築を単にスタイルの問題と考えているわけではありません。近代建築は、産業社会のあり方と密接に関わりがあり、建築の工業生産化を基本原理にしています。土地土地で固有のつくられ方をしてきた建築のあり方と近代建築は異なり、どこでも同じようにつくられることを理念とするわけで、建築の標準化、部品化を前提とします。近代建築は、工業生産化によって、安く大量の建築を人類のために供給することを理念としてきました。近代建築とは、要するに・・・・と僕は考えています。」

 実際は、よく覚えていないのであるが、以上のようなことをたどたどしく答えたように思う。

 「まあ、大体、いいでしょう。」

 合格点はそこそこもらえたらしい。門前払いは喰わなかったのである。冒頭の先制攻撃に怯んでしまったのであろう、前川國男との二時間足らずの初対面の記憶は薄い。

 ただ、「近代建築とは何か」と問いかける声だけは今も強烈に耳に残っている。

 

  日本の近代建築家=前川國男

 前川國男の建築家としての軌跡は、そのまま日本の近代建築の歴史である。少なくとも、その歴史と重なっている。日本の近代建築の歴史を一人の建築家を軸にして書くなどということは普通できるわけではない。他に挙げるとすれば、丹下健三、あるいは西山夘三が考えられるぐらいであろうか。磯崎新が、最初の四半世紀(       )を堀口捨己に、次の四半世紀(       )を丹下健三に、そして、その後を宮内康に、それぞれ代表させるユニークな歴史観を示している[ii]2けれど、普通は時代時代で代表的な建築家と作品を挙げるやり方がオーソドックスだろう。

 しかし、前川國男の場合、特権的である。前川國男とMID(                            )同人、丹下健三も含めた前川シューレを考えるとその流れは日本の近代建築の滔々たる主流である。前川國男はそれほど偉大な建築家であった。「前川國男は、おそらく誰しもが認めるように、日本近代建築の精神的支柱であった」と原広司はいう[iii]3。その評価は定まっているといっていい。

 日本の近代建築の成立時期をどう見るかは議論のあるところであるが、およそ、日本の近代建築運動の先駆けとされる日本分離派建築会の結成(一九二〇年)から「白い家」と呼ばれたフラットルーフ(陸屋根)の住宅作品が現れ出す一九三〇年代後半にかけて成立したと見ていい。普通、日本の近代建築史というと明治維新から書き起こされるのであるが、明治・大正期は、近代建築受容の基盤整備の時代であった。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその瞬間に建築家としてデビューし、その実現の過程を生きたのである。

 一九三〇年にコルビュジエのもとから帰国して以降、前川國男は全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」、「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、わかりやすくは、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けたからである。この前川國男の軌跡は、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。そして、その軌跡をもって、日本の近代建築の受容が確認できると歴史に書かれている。

 前川國男は、堀口捨己ら分離派の世代より一〇才年下であり、そうした意味では日本の近代建築の第二世代である。しかし、日本の近代建築が全面開花するのは戦後のことである。そして、戦後建築を主導したのが前川國男と丹下健三、そのシューレである。振り返ってみて、日本の近代建築の黄金時代というと、一九五〇年代、そして一九六〇年代である。建築ジャーナリズムの歴史を追ってみれば明かである。また、日本建築学会賞などの受賞歴がその輝かしい存在を示している。戦後建築の流れのその中心には、常に前川國男がいたのであった。

 

 前川國男の「暗い谷間」

 前川國男が最後までフラットルーフの国際様式によってコンペに挑み続けたというのは事実ではない。また、日本ファシズム体制に抗し続けた非転向の建築家であったというのは神話にすぎない。前川國男が侵略行為に決して荷担しなかった、というのも神話にすぎない。まして、戦争記念建築の競技設計へ参加しなかった、というのは史実に反する。その歴史は必ずしも栄光にのみ満ちた歴史ではないのである。もっともらしく語られる物語はこうだ。

 敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(一九三七年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペでは、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。

 この時期を前川國男の「暗い谷間」といい、その掘り下げを主張し続けるのが宮内嘉久である[iv]4。また、当時既に、浜口隆一が「日本国民建築様式の問題」(『新建築』 一九四四年)を書いて、日本の近代建築のはらんだ問題を指摘していたこともよく知られている。「日本的建築様式の問題」、「戦争記念建築の問題」によって、日本における近代建築の潮流が危殆に瀕し、多くの建築家が近代建築思想を放棄し、脱落したという見方は一般にも共有されているところである。

 日本ファシズム期における建築家の問題は、井上章一の『戦時下日本の建築家』[v]5が焦点を当てている。コンクリートの躯体の上に日本の伝統的な建築の屋根を乗せる帝冠様式の問題を軸に、忠霊塔(一九三九年)と大東亜記念営造計画(一九四二年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(一九四三年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題とするのである。

 井上章一が全体として主張しようとするのは、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペに相次いで一等入選することによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は日本のファシズム建築様式ではないこと、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないこと、さらに、戦時体制下における帝冠様式をモダニズム以後をめぐるものと位置づけポストモダン建築の源流とすることなどである。

 ドイツ、イタリアに比べれば、日本のファシズム体制が建築の表現に関する限り脆弱であったことはその通りであると言っていい。ただ、日本的表現の問題、日本建築様式の問題が建築家の意識の問題としてはファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは無視されてはならないと思う。また、それにも関わらず、日本の建築家が全体として日本ファシズム体制に巻き込まれていたというのもその通りである。ただ、なぜ、そのことをことさら強調するのか、という意図について異和感が残る。さらに、ファシズム体制を建築様式の問題としてのみ問うのにも不満が残る。特に、ポストモダンの源流が戦時体制下の帝冠様式にあるということになると、日本の建築モダニズムは移植される以前に超えられていたことになる。日本の近代(産業)社会のあり方との関係で近代建築のあり方を問う前川の視点からすると余りに乱暴である。前川國男における日本回帰の問題は、もう少し掘り下げられる必要がある。

 前川の戦前期の全論考は、ほとんど「伝統と創造」、そして「様式」をめぐって展開されているのだ。平良敬一は、単なるモダニストではない前川國男における日本的感性を論ずる[vi]6。また、大谷幸夫は、前川國男における伝統と近代の葛藤、あるいは調和を問う[vii]7。

 問題は、より一般的に、建築における「日本的なるもの」である。日本趣味、東洋趣味、日本建築様式である。日本の近代建築の搖籃期におけるモダニズムとリアリズム、インターナショナリズムとナショナリズムの相克が、建築における「日本的なるもの」をめぐる一貫するテーマとしてある。前川國男が引き受けようとしたのは、まさにその問題であったのではないか。そうした意味では、前川國男の、ひいては日本の近代建築の原点は、この「暗い谷間」にこそあると思う。僕らは、今猶、建築の一九三〇年代の問題を引きづっているのだ。

 単にスタイルの問題として日本のモダニズム建築のの皮相さをあげつらうことは、日本の近代建築がはらんだ根っこの問題を無化することになる。前川國男のモダニズムは、ひいては日本のモダニズム建築は果たしてそんな薄っぺらなものであったのか。前川國男が拘ったのは単なる勾配屋根ではない。単なるスタイルの問題ではない。「私の・・・主張せんとする所は決して所謂「屋根の有無」と云った枝葉な問題ではない」[viii]8のである。

 

 「ホンモノ建築」・・・前川國男のリアリズム

 前川國男の戦時体制下における、ひいては一生を賭けての闘いは、一体何に対する闘いであったのか。

 「負ければ賊軍」[ix]9以下一連の文章を読んでみればいい。怒りが行間に満ちている。この怒りは、単に若さに特有なものなのであろうか。そうではあるまい。言葉にはただならぬ力強さ、迫力がある。前川國男の闘いを、少なくとも、コンペをめぐる建築界の主導権争いや利権争い、閥や世代やコネの世界の下世話な物語に封じ込めてはならないであろう。

 前川國男には近代建築の理念についての確信があった。堀口捨己が、一九三〇年代には、茶室や草庵など日本的なるものへの傾斜を深めていったことを思うと前川國男の確信は際だっているといっていい。この確信はどこからくるのか。

 コルビュジエのアトリエでの経験が決定的であったことは間違いない。前川國男がパリに到着し、初出勤した日にコルビュジエは、竣工したばかりのガルシェのシュタイン邸(一九二七年)を見せたという。また、滞在した二年の間にサヴォワ邸(一九三〇~三一年)の設計が行われる。サヴォワ邸に象徴される近代建築の鮮烈な理念とイメージは、建築の向かうべき方向を確信させたに違いないのである。

 しかし、一方、その日本における実現のプロセスについてのとてつもない困難さが同時に意識されていた。如何に近代建築の理念を定着し、現実化するかこそが最初から問題であった。

 「負ければ賊軍」において、怒りが向けられているのは単に「東洋趣味」、「日本趣味」を旨とするコンペの規定だけではない。「負ければ賊軍」においてアジテーションの矛先は、むしろ、コンペに参加しない戦わない同世代の仲間に向けられている。ありとあらゆる機会を捉えて戦うべきだ、執務に縛られた建築家にとって「設計競技は今日の処唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識があった。コンペは手段であって目的ではないのである。

 彼の根底には、「如何に高慢な建築理論も理論は結局理論に過ぎぬではないか」[x]10という思いがあった。「足を地につけた」「執拗な粘り」が出発点から問題であった。

 「欧米の新建築家の驥尾に附して機能主義建築合理主義建築とやらを声高に叫んだ建築はあった。之を目して小児病的狂熱と罵った建築家もあった。然し此等の建築と四つに取り組んで死ぬ程の苦しみをした建築家のあった事を未だ知らない。」[xi]11

 前川國男は、死ぬ程の苦しみを引き受けようとしたのであった。前川國男の目指したのは、「平凡極まりない」「ホンモノ建築」であった。しかし、その実現は当初より容易なことではなかった。「わが国における建築技術が、いまだ近代的技術の域に達しておらぬ」し、「建築構造學、さらに建築構造学を基礎づける建築本質認識の学としての本来的な建築学の未完成が横たわる」し、・・・、要するに、日本は「建築の前夜」[xii]12なのである。

 「ホンモノ建築(の完成するのは:筆者補注)は結局社会全体にホンモノを愛する心の醸成された時である。すなわち社会全体がホンモノとなって足を地につけた有機体として活動する時である。思えば遥かな途である。」[xiii]13

 確かに、「ホンモノ建築」実現の途は、前川國男が自ら予見していたように、その一生かけても余りある遥かな途であった。

 

 「世界史的国民建築」・・・伝統と創造

 「ホンモノ建築」という概念こそ、近代建築家のものである。近代社会と建築のあり方について、また、建築の構造材料、技術と建築様式のあり方について、「正しい」、「ホンモノ」の関係、普遍的原理があるというのが前川の確信であった。

 ところが、前川國男は、やがて「日本精神の伝統は結局「ホンモノ」を愛する心であったではないか。」[xiv]14という。ここに、日本建築の伝統とモダニズムの受容をめぐるひとつの解答がある。すなわち、日本建築の伝統の中に近代建築の理念、原理、すなわち「ホンモノ」の原理を見る、そうした主張がここにある。

 「渡来して百年にも満たざる此新構造を用いて如何にして二千年の歴史を持つ日本木造建築の洗練さをその形式の上から写し得るであろうか」と、前川は「我々は日本古来の芸術を尊敬すればこそ敢えて似非非日本建築に必死の反対をなし」た。建築というのは、時代時代の構造材料に「一大関係を有って生まれ出でたもの」である[xv]15。前川國男にとって、重要なのは、「一にも二にも原理の問題」[xvi]16であった。浜口隆一によれば、問題はスタイルではなく、フォルムということになる。

 日本趣味、東洋趣味を条件として規定した戦前期のいくつかのコンペが象徴するように、しばしば建築表現の問題は様式(スタイル)の問題として争われる。国際様式か、帝冠様式か、というのはわかりやすい図式である。しかし、日本における近代建築の受容がスタイルの問題としてのみ議論されるところに大きな限界があった。わかりやすく言えば、木造住宅で陸屋根(フラーットルーフ)の四角な形をつくるといったことが行われてきたのである。こうした日本における近代建築受容の問題点は、戦後間もなく書かれた浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社 一九四七年)においても的確に触れられているところだ[xvii]17。

 日本においては近代建築が日本の地盤から自然に生まれたものでなく、ヨーロッパから移植されたものであり、ヨーロッパの近代建築家にとっては結果の位置にある問題に過ぎないものが、日本の近代建築家にとっては、制作にあたっての前提の位置にある問題であったこと、その結果、技術水準とスタイルにおける国際性のみを満足させるような課題のみを意識的に選んで制作することになった。

 スタイルを問題にする限り、戦中期の戦争記念建築のコンペにおける日本の伝統建築の屋根形式の採用は近代建築家にとっての屈辱であり、敗北である。浜口は、そのことにおいて日本の近代建築の潮流は、ほとんど「瀕死」の状態にたちいたったという。しかし、完全に死滅したというわけにはいかない。モニュメンタリズムには荷担したけれど様式建築(帝冠様式)には反対し続けた建築家として、丹下、前川を擁護しようとする。彼らはスタイルではなく、フォルムそのものを問題としたのであり、最後の一線は死守されたというのである。

 前川國男にとって、近代技術による新しい建築様式の建設が一大テーマであった[xviii]18。従って、木造建築についてはそう価値を置かない。「「木材」の如き自然材に依存する限り、本来的な意味に於ける近代的工業生産は當然成立し難い」[xix]19というのである。しかし、構造材料と様式の関係についての前川國男の原理的理解によれば、木造の自邸や木造であることを条件にした「在盤谷日本文化会館」の伝統的「民家」や「神明造り」の表現の採用は、必ずしも、節を曲げたことにはならないだろう。しかし、前川が次のように言う時、それは転向のひとつの形であったとみていい。すなわち、そこでは、近代建築の普遍原理が「日本原理」に無媒介的に結びつけられるのである。

 「我等の祖先が木と草とで或いは紙を加え漆喰を用いて雨を凌ぎ風を防いだあの素朴な「日本原理」に従って我等の技術を神妙に地道に衒気もなく駆使して行かねばならぬ。」

 より一般的には、桂離宮に近代建築の理念を見いだすといった形の転移がある。インターナショナルなものの日本への定着というヴェクトルから、日本的なもののなかに合理性を、ナショナルなもののなかにインターナショナルなものをみるヴェクトルへの転移がある。

 前川國男の建築観を伺う上で、戦前期における最も重要な論文は、「覚え書ーーー建築の伝統と創造について」[xx]20であろう。そこで、意匠、表現あるいは様式という建築の形の問題を基本的に文化の表現の問題として捉える前川は「創造は深く伝統を生きる事であり、伝統を生かす事は亦創造に生きる事の真相がこれであろう」といっている。そして、問題は、如何なる伝統に歴史的地盤を選ぶかである。そこでキーワードとされるのが「世界史的国民建築」であった。「世界史的国民建築」とは何か。国民建築様式の問題は、今猶解かれていない。建築の創造と伝統をめぐる前川の問いは今日猶開かれたままである。

 

 ラディカル・ラショナリズム

  敗戦によって、日本に近代建築が根づいていく条件が生まれる。そして、戦後復興、そして講和による日本の国際社会への復帰から高度成長期への離陸が始まる過程において、日本の近代建築は具体的な歩みを開始した。前川國男が、戦後建築の出発の当初から、その中心に位置して、近代建築の理念の日本への定着というプログラムを主導していったことは、その軌跡をみれば一目瞭然である。

 組立住宅「プレモス」は戦後建築の第一歩である。その試みは戦後建築の指針をいち早く具体的な形で示すものであった。焼け野原の新宿に建った「紀伊国屋書店」(一九四七年)は戦後建築の歴史の第一頁に挙げられる。その巨大な足跡は、誰もが認めるところである。「日本相互銀行」(一九五二年)、「神奈川県立音楽堂・図書館」(一九五四年)、「国際文化会館」(一九五五年)、「福島県教育会館」(一九五六年)、「晴海高層アパート」(一九五八年)、「世田谷区民会館」(一九五九年)、「京都会館」(一九六〇年)と続く作品群は、戦後建築の始まりにおいて光彩を放っている。建築の一九五〇年代を日本の近代建築の黄金時代と呼びうるとしたら、その栄光の大半は前川國男のものである。

 前川國男の一九五〇年代を特徴づけるのがテクニカル・アプローチである。下関市庁舎の競技設計の際に書かれた「感想」[xxi]21には、近代建築の三つの発展段階について触れられている。日本の近代建築は、未だ西欧のレヴェルには及ばない。折衷主義への闘いの第一段階を経て、第二段階の技術的取り組みの段階にあるにすぎないというのが、戦前からの前川の認識であった。「技術的諸問題への真正面的なぶつつかり、そうしたぶつつかりの只中でデザインする」、それがテクニカル・アプローチである。

 そして、さらに建築の生産全体の構造を常に問題とする視点がある。戦後の工業化住宅の先駆「プレモス」の試みがそれを象徴している。前川は、全世界、全環境を根源的に問題とする姿勢を持ち続ける。

 「一本の鋲を持ちうるにも一握のセメントを持ちうるにも国家を社会をそして農村を思わねばならぬ。」[xxii]22

 「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げと云いたいのである。」[xxiii]23

  前川國男は、こうしてとてつもない課題を近代建築家の覚悟として引き受け実践しようとしていたのである。

 日本の建築をとりまく風土には常に根源的な懐疑が向けられてきた。「国立国会図書館」のコンペをめぐる建築の著作権の問題、設計料ダンピングの問題、「東京海上火災ビル」をめぐる美観論争等々、建築界に内在する諸問題について毅然とした態度をとり続けたのが前川國男である。前川國男が建築家の鏡として多くの建築家の精神的支柱であり続けたのはそれ故にである。

 建築家の職能の確立は、なかでも終始一貫するテーマであった。その困難な課題について、繰り返し発言がなされる。「白書」[xxiv]24、「もう黙っていられない」[xxv]25、「中絶の建築」[xxvi]26などを読むと、現実への批判精神は衰えることはなかったことがわかる。その建築家論は、「今もっともすぐれた建築家とは、何も作らない建築家である」[xxvii]27という位相まで突き詰められたものだ。前川國男は、全ての根を問い続けるラディカリズムを一生失わなかったのである。

 

 未成の近代

 前川國男が無くなったのは一九八六年六月二六日のことだ。享年八一歳。その一生は、丁度一九四五年の敗戦を真ん中にして、前後四〇年となる。

 戦後五〇年を経て、時代は大きく推移した。鉄とガラスとコンクリートの四角な箱形の、国際様式の近代建築が日本列島のそこら中を覆ってしまった。近代建築の理念を実現するという、前川國男のシナリオは予定の通りり実現したのであろうか。

 半世紀の時間の流れは大きい。日本の社会の変転は目まぐるしいものがあった。産業社会の成熟があり、国際社会においては有数の経済大国になった。そうしたなかで、少なくとも建築技術の発展にはめざましいものがあった。建築生産の近代化、合理化、工業化の流れは直線的に押し進められてきたように見える。だとすれば、戦後建築の物語は既にそのシナリオ通りの結末を迎えつつあると言えるだろうか。

 しかし、前川國男にとって、おそらく建築の近代は未成のままであった。その近代建築の理念を支えた素朴な理想主義は常に日本的風土において妥協を強いられ続けてきたと言っていいからである。戦後まもなく、建築と社会をめぐるありうべき姿についての確信は、戦後社会の変転の過程で、次第に希薄化していったように見える。文章には、深い絶望が滲むようになる。

 工業化、合理化、都市化を押し進めてきた産業社会の論理が建築のあり方を大きく支配することによって、素朴なヒューマニズムを基礎にする理想主義は色褪せたものに映り始める。現実に力をもつのは、経済原理であって、産業化の論理である。建築家の自由な主体性の必要性をいかに力説し、その理念をいかに高く掲げようと現実はその理想を裏切り続ける。また、日本の建築界を支配する独特の構造も一向に変わらないという問題も大きい。設計料ダンピング、疑似コンペ、ゼネコン汚職、重層下請構造、・・・依然と少しも変わらない体質が建築界にはあるではないか。前川國男の初心、戦後建築の初心に照らす時、その物語は今猶未完であるのみならず、もしかするとふりだしにおいて足踏みを続けているのかもしれないのである。

 いずれにせよ、戦後建築の歴史は、半世紀という単純な時間的長さからいっても、既にその帰趨を見極める時に達している。前川國男の死は、既に、確実に一つの時代の終焉を告げていた、とみるべきだろう。それとともに痛切に意識されるのは、戦後建築の物語の風化であり、形骸化である。前川國男は、それほど偉大な存在であった。

 前川國男の死の三ヶ月程前、東京都新都庁舎の設計者に丹下健三が決まった。一九八〇年代初頭、「ポストモダンに出口はない」と建築のポストモダニズム批判を口にしていた、前川とともに日本の戦後建築をリードしてきたスターが、明らかにゴシック様式を思わせる歴史様式を採用して見せたことはスキャンダラスなことであった。それは、日本の近代建築の記念碑なのか、あるいは墓碑なのか。

 そのデザインは、近代建築の究極的な表現と言っていい超高層の無機的で単調なデザインを乗り越え、建築におけるシンボリズムの復権を意図するもののように見える。思い起こすべきは、「大東亜建設記念営造計画」である。丹下健三が一つの円環を閉じるように歴史様式へ再び回帰して見せたことは、時代の転換を否が応でも意識させることである。

 戦後建築の物語の終焉をやはり確認すべきなのであろう。

 

 エピローグ

 一九九四年から一九九五年にかけて、「神奈川県立音楽堂・図書館」の保存・建て替え問題が建築界の大きな問題になった[xxviii]28。曲折があった末、図書館は取り壊し、音楽堂は徹底改修というのが今の所の神奈川県の判断である。ただ、今後どう議論が深まり、どのように運動が展開するかは予断を許さない。

 神奈川県立図書館・音楽堂問題は一九五四年の竣工だから、四〇年の時の経過がある。前川の作品に限らず、戦後まもなくから一九五〇年代にかけて建てられた建築が相次いで耐用年限を迎えつつあり、戦後建築の時代の終焉を否応なく感じさせる。そして、それとともに戦後モダニズム建築の歴史的評価が大きなテーマとなるのは自然なことである。神奈川県立図書館・音楽堂の保存・建て替え問題のはらむ問題は、その空間の物理的な生死を超えたところにある。その作者である、前川国男の建築観、建築思想もまた生きた思想として同時に問われる必要がある。そしてさらに、戦後建築の50年が問われる必要がある。戦後建築は最低の鞍部で超えられてはならない。

 前川國男の一生を賭けた物語をどう引き受けるのかは、既に若い世代の問題である。前川國男のいう近代建築とは何か。前川國男の作品と論考は繰り返し読まれるべきだ。しかし、そのことと、前川國男を近代日本の生んだ、最も良心的な建築家として崇め奉り、神話化することとは無縁のことだ。言葉だけの理想はいらない。「足を地につけた」「執拗な粘り」こそ、前川國男の出発点であった。そして、全ての根を問うラディカリズムがその真骨頂である。

 最後に、前川國男の初心を引き継ぐ指針をひとつだけ繰り返そう。

 「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」

 



[i]1 宮内康、堀川勉、布野修司の三人を核として一九七六年一二月結成。当初、昭和建築研究会と称した。一九九一年一〇月宮内康死去で閉会。成果として、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室 一九八一年)、『現代建築』(新曜社 一九九二年)がある。

[ii]2 磯崎新 「戦後建築の陽画と陰画」、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、一九九五年

[iii]3 原広司 「戦後日本の近代化と前川國男」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[iv]4 宮内嘉久、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[v]5 井上章一、『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』、朝日新聞社、一九九五年

[vi]6 平良敬一、「前川國男における日本的感性」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[vii]7 大谷幸夫、「拙を守り真実を求めて」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[viii]8 前川國男、「1937年巴里萬國博日本館計画所感」、『国際建築』、    年 月号

[ix]9 前川國男、「負ければ賊軍」、『国際建築』、    年 月号

[x]10 前掲 註 

[xi]11 前川國男、「主張」、『建築知識』、     

[xii]12 前川國男、「建築の前夜」、『新建築』、一九四二年四月号

[xiii]13 前掲 註 

[xiv]14 前掲 註 

[xv]15 前掲 註 

[xvi]16 前川國男、「今日の日本建築」、『建築知識』、一九三六年一一月号。

[xvii]17 拙著、『戦後建築論ノート』「第三章 近代化という記号 一 ヒューマニズムの建築」、相模書房、一九八一年

[xviii]18 前川國男、「新建築様式の積極的建設」、『国際建築』一九三三年二月号

[xix]19 前掲 註  

[xx]20 前川國男、「覚え書」、『建築雑誌』、一九四二年一二月号

[xxi]21 『建築雑誌』、一九五一年五月号

[xxii]22 前掲 註  

[xxiii]23 前掲 註  

[xxiv]24 『新建築』、一九五五年七月号

[xxv]25 『建築雑誌』、一九六八年一〇月号

[xxvi]26 『毎日新聞』、一九七二年一月一〇日   

[xxvii]27 『建築家』、一九七一年春号

[xxviii]28 拙稿、「戦後建築50年の問いー「戦後モダニズム建築」をめぐるプロブレマティーク」、『建築文化』、一九九五年一月号


2024年12月21日土曜日

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,解説、而立書房,1996年10月

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,199610



解説

         

 一九三〇年四月、コルビュジェのアトリエでの満二年の留学を終えて帰国した前川國男は、八月、A・レーモンド設計事務所に入所する。二五歳であった。入所前、「明治製菓」の公開設計競技(コンペ)に一等当選。建築家としてのデビューを果たす。一二月、「第2回新建築思潮講演会」に招かれ、「3+3+3=3×3」と題した講演を行う(『国際建築』 一九三〇年一二月)。前川國男の最初の公的発言の記録である。そして、次の年、「東京帝室博物館」公開コンペに敗れ、最初の文章「敗ければ賊軍」(『国際建築』 一九三一年六月号)が書かれる。「日本趣味」、「東洋趣味」を基調とすることを規定した戦前期の数々のコンペに敢然と近代建築の理念を掲げて戦いを挑み続けた前川國男の「華麗な」軌跡の出発を象徴する文章である。

 前川國男が本格的に建築家としての活動を開始する一九三〇年は日本の近代建築の歴史にとって記憶さるべき年である。まず、近代建築運動史に記憶される、新興建築家連盟の結成、即崩壊という事件がある。また、鉄筋コンクリート造、鉄骨造の構造基準及び共通仕様書が整備されるのが一九三〇年である。近代建築展開の技術的基盤は既に用意されていた。一九三〇年代後半には、「白い家」と呼ばれるフラットルーフの四角い箱型の住宅作品が現れ、日本への近代建築理念の定着が確認されるのであるが、まさにその過程とともに前川は活動を開始したのであった。そしてまた、それは、新興建築家連盟の結成、即崩壊という日本の近代建築運動の挫折あるいは屈折を出発時点において予めはらんだ過程でもあった。

 日本の近代建築運動は、一九二〇年の日本分離派建築会(堀口捨己、石本喜久治、山田守、森田慶一、滝沢真弓)の結成に始まるとされる。前川國男が一五歳の年だ。逓信省の下級技師を中心とする創宇社(山口文象、海老原一郎、竹村新太郎ら)の結成(一九二三年)が続き、メテオール(今井兼二ら)、ラトー(岸田日出刀ら)といった小会派が相次いで結成された。その様々な運動グループの流れを一括して、いわば大同団結しようとしたのが新興建築家連盟である。

  新興建築家連盟の結成の中核となったのは創宇社のグループである。分離派のいわば弟分として出発した創宇社は、当初、展覧会など分離派と同じスタイルで活動を展開するのであるが、やがて、その方向を転換させる。いわゆる、「創宇社の左旋回」である。分離派のメンバーが東京帝国大学出身のエリートであったのに対して、逓信省の下級技師を中心とした創宇社メンバーは、「階級意識に目覚め」、社会主義運動への傾斜を強めるのである。無料診療所、労働者住宅といったテーマのプロジェクトにその意識変化を見ることができるとされる。

 前川國男が東京帝国大学工学部建築学科に入学した一九二五年、治安維持法が公布され、卒業してシベリア鉄道経由でパリへ向かった一九二八年三月、共産党員の大量検挙、三・一五事件が起こっている。騒然とする時代の雰囲気の中で、創宇社は第一回新建築思潮講演会を開く(一九二八年一〇月)。創宇社は、分離派に対して距離をとり、その芸術至上主義を批判する。それを明確に示すのが、谷口吉郎の「分離派建築批判」(一九二八年)である。谷口吉郎は、市浦健、横山不学らとともに前川國男のクラスメイトであった。

 しかし、時代は必ずしも若い世代のものとはならない。一九三〇年一〇月結成された新興建築家連盟は、わずか二ケ月で活動を停止したのである。読売新聞の「建築で「赤宣伝」」の記事(一二月一四日)がきっかけである。こうして、戦前期における日本の建築運動はあえなく幕を閉じたのであった。デザム、建築科学研究会、青年建築家連盟等々小会派の運動は続けられるのであるが、建築界の大きな流れとはならない。また、日本建築工作連盟も組織されるのであるが、翼賛体制のなかで全く質を異にする団体であった。

 そうした過程で、前川國男は、A.レーモンド事務所での仕事の傍ら、設計競技を表現のメディアとして選択する。既に、パリのコルビュジェのもとから、「名古屋市庁舎」のコンペ(一九二九年)に応募していたのであるが、全てのコンペに応募するというのが選びとった方針である。「執務に縛られた」建築家にとって「設計競技は今日のところ唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識が前川にはあった。

 「東京帝室博物館」以降も、「明治製菓銀座店」(一等入選 一九三二年)、「第一相互生命館」(落選 一九三三年)、「東京市庁舎」(三等入選 一九三四年)と続いたコンペへの参加は、A.レーモンドと衝突して独立した一九三五年以降も初志一貫して続けられる。そして、「在盤谷日本文化会館」公開コンペ(一九四三年)において、前川國男ははじめて寝殿造の伝統様式を汲む大屋根を採用するに到る。「東京帝室博物館」以降、日本的な表現、いわゆる「帝冠併合様式」に抵抗し続けてきて、ついに前川は挫折した。「在盤谷日本文化会館」案は、前川國男の転向声明である、というのが一般的な評価である。

 こうして、戦前期における日本の近代建築の歴史は、「日本的なるもの」あるいは日本の伝統様式、「帝冠併合様式」あるいは様式折衷主義に対する果敢な闘争そして挫折という前川國男のコンペの歴史を軸にして、わかりやすい見取り図として既に書かれている。ひとつの神話となっているといってもいい。しかし、その挫折の様相は、前川國男のテキストに即して掘り下げられる必要がある。

 前川國男の二五歳から四〇歳に当たる一五年戦争期は、激動の時代である。前川國男建築設計事務所の設立以降、日中戦争の全面化とともにとともに仕事は大陸で展開されるようになる。「大連市公会堂」公開コンペ(一等、三等入選)が一九三八年、一九三八年八月には上海分室が、一九四二年には奉天分室が開設される。

 一方、この間、丹下健三、浜口ミホ、浜口隆一が入所、戦後建築の出発を用意する人材が入所する。前川國男の引力圏の中で、「大東亜建設記念営造計画」(一九四二年)、「在盤谷日本文化会館」に相次いで一等当選した丹下健三の鮮烈なデビューがあり、浜口隆一の大論文「日本国民建築様式の問題」(一九四四年)書かれた。

 一九四五年、五月二五日、空襲で事務所も自宅も焼失する。設計図や写真等一切の記録を失って前川國男は敗戦を迎えることになる。

 

         

 敗戦直後、結婚。新しい日本の出発とともにプライベートにも新生活が開始された。しかし、とても新婚生活とはいかない。目黒の自宅は、四谷に現事務所ビルが竣工する一九五四年まで、十年、事務所兼用であった。

 戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、建築家としても敗戦に打ちひしがれる余裕など無かった。まずは、戦時中(一九四四年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」(工場生産の木造組立住宅のことであり、プレファブのPRE、前川のM、構造担当の小野薫のO、供給主体であった山陰工業のSをとって、命名された)に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法(トロッケン・モンタージュ・バウ)」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの戦後の先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。

 前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品のひとつと目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは一九四七年のことである。

 一九四七年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の六月である。

 戦後復興期から一九五〇年代にかけての戦後建築の流れについては、いくつかの見取り図が描かれている。わかりやすいのはここでも建築運動の歴史である。戦後まもなく、国土会、日本建築文化連盟、日本民主建築界等のグループが結成され、NAUへと大同団結が行われる。しかし、NAUがレッドパージによって活動を停止すると、小会派に分裂していく・・・。そして、一九六〇年の安保を契機とする「民主主義を守る建築会議」を最後に建築運動の流れは質を変えてしまう。

  興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場は基本に置かれるのである。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった一九四七年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド                             )同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。MID同人は、翌年、雑誌『PLAN』を1号、2号と発行している。創刊の言葉にはその意気込みが示されている。そして、『PLAN』=計画という命名が近代建築家としての計画的理性への期待を示していた。

 もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。一九四七年から一九五一年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。

 建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(一九四八年 前川三等入選)の不明瞭さ(一等当選を出さず審査員が設計する)が示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(一九五六年)の住民の建設参加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、五期会結成(一九五六年六月)に参加することになる。NAU崩壊以後の建築運動のひとつの核は前川の周辺に置かれていたのである。

 しかし、敗戦から五〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。

 一九五二年には、「日本相互銀行本店」が完成する(一九五三年度日本建築学会受賞)。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、一九五四年に竣工する(一九五五年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。この戦後モダニズム建築の傑作の保存をめぐって、建築界を二分する大きな議論が巻き怒ったのは一九九三年から九五年のことである。また、一九五五年、坂倉準三、吉村順三とともに「国際文化会館」を設計する(一九五六年度日本建築学会賞受賞)。さらに、「京都文化会館」(一九六一年度日本建築学会賞受賞)、「東京文化会館」(一九六二年度日本建築学会賞受賞)と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然なのである。

 前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(一九五五年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、一九五九年には、日本建築家協会会長(~一九六二年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。

 

Ⅲ         

 一九六〇年代、前川國男は堂々たるエスタブリッシュメントであった。一九六〇年、前川國男は五五歳である。

 しかし、一方、時代は若い世代のものとなりつつあったとみていい。一九六〇年代、日本の建築界の大きな軸になったのは、丹下健三であり、メタボリズム・グループの建築家たち(菊竹清訓、大高正人、槙文彦、黒川紀章)であった。

 丹下健三の場合、一九四〇年代の二つのコンペ(「大東亜建設記念営造計画」「在盤谷日本文化会館」)に相次いで一等入選し、戦前期に既に鮮烈なデビューを果たしていたのであるが、実質上のデビューは戦後である。「広島ピースセンター」公開コンペ(一九四九年)の一等当選、そして「東京都庁舎」指名コンペ(一九五三年)の一等当選がそのスタートであった。とりわけ、「広島ピースセンター」は戦後建築の出発を象徴する。「大東亜建設記念営造計画」のコンペからわずか七年の年月を経ていないこともその出発の位相を繰り返し考えさせる。A.ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアーが戦後二度と建築の仕事をする機会を与えられなかったことに比べると、彼我の違いは大きい。大東亜共栄圏の建設を記念する建造物と平和を希求する建造物のコンペに同じ建築家が当選するのである。一人の建築家の問題というより、日本建築界全体の脆弱性が指摘されてきたところだ。

 それはともかく、戦後建築をリードしていく役割は若い丹下に移行していったとみていい。建築ジャーナリズムの流れをみると、一九五〇年代後半からは丹下を軸にして展開していく様子がよくわかる。例えば、伝統論争において、縄文か弥生か、民家か数寄屋か、作家主義か調査主義かといった様々なレヴェルのテーマが交錯するのであるが、丹下  白井、丹下  西山、丹下  吉武といった構図のように丹下は常に中心に位置するのである。

 丹下にとって、日本の伝統は決して後ろ向きのものではない。創造すべきものである。日本の伝統建築でも、民家は問題ではない。伊勢や桂のもつ近代的な構成、プロポーションを鉄筋コンクリートで表現すること、新しい技術で近代的な構成原理を表現し、新しい伝統を創り出していくことが丹下の関心である。

 それに対して、前川國男の場合、日本建築の伝統そのものについての意識は薄い。伝統と創造をめぐる普遍原理に関心があり、究極的に日本に近代建築を実現することが最後まで課題であったように見える。ただ、「京都文化会館」、「東京文化会館」から「紀伊国屋書店」、「埼玉会館」(一九六六年)かけて、その作風の変化が見られる。いわゆる「構造の明快性から空間へ」という変化だ。技術的には「打ち込みタイル」の時代が始まる。

 ここでも、丹下が東京都庁舎、香川県庁舎を経て、「代々木国際競技場」や「山梨文化会館」など構造表現主義へと向かうのと対比的である。打ち放しコンクリートの仕上げが難しい。そこで技術的な検討が積み重ねられてきて生み出されたのが「打ち込みタイル」である。技術に対する感覚は全く異なっていると言っていい。

 六〇年代の前川にとって、また、日本の建築界にとって大きなテーマとなったのが、「東京海上火災本社ビル」をめぐる「美観問題」である。一九六五年初頭に依頼を受けた「東京海上火災本社ビル」の設計は、都庁の高度制限によって難航する。そして、当初計画案を変更して(高さを低くして)ようやく竣工したのはようやく一九七四年のことである。

 この「美観論争」には、様々な要素が複雑に絡んでいる。第一に、「東京海上火災本社ビル」が皇居前の丸の内に位置することだ。暗黙の「皇居を覗かれては困る」というコードがあった。第二に、行政指導についての法的な根拠の問題があった。第三に、今日に言う景観問題、高さや色をめぐる問題があった。すなわち、基本的には都市と建築の問題である。建設の、あるいは表現の自由と権力、規制の問題を象徴的に明るみに出したのである。

 この「美観論争」は必ずしも明快な総括がなされているわけではない。今日同じような景観問題が繰り返されているからである。

 近年の京都におけるJR京都駅や京都ホテルの問題のように、景観問題は建築の高さをめぐって争われる。あるいは、超高層建築の是非をめぐって争われる。その原型が「東京海上火災本社ビル」をめぐる問題にある。「高層ビルこそ資本の恣意に対する最大の抑制、そして社会公共に対する最大の配慮にもとづいて計画されたものだ」、なぜなら、「あえて工費上、またいわゆる事業採算上の利点を抑制して」、「敷地面積の三分の二を自由空間として社会公共に役立てる」からである。

 今日の公開空地論である。ここでも、前川國男ははるかに先駆的であったといっていい。しかし、景観問題とはもとより公開空地をとればいいという問題ではない。前川國男の反論にはさらに多くの論点が含まれていた。それにも関わらず、「東京海上火災本社ビル」におけるこの高さに関わるロジックのみが高層ビル擁護の根拠として再生産され続けているのである。

 一九六八年、六三才、前川國男は、日本建築学会大賞の第一回受賞者に選ばれる。「近代建築の発展への貢献」が受賞理由である。戦後建築のリーダーとして当然の評価であった。

 しかし、この頃から、前川の口調にはどこかとまどいや苛立ちが感じられるようになる。受賞の際に書かれた文章は「もう黙っていられない」と題される。「近代建築の発展への貢献」というけれど怪しい、人間環境は悪化の一途をたどっている、よい建築が生まれることはますます難しくなる、建築界には連帯意識が欠如している、といった悲観的なトーンが全体に漂う。基調は、「自由な立場の建築家」の堅持であり、その不易性である。

 前川國男には職能確立のための状況は六〇年代末において厳しくなりつつあるという認識があった。知られるように、六〇年代を通じて建築界で大きな論争が展開される。設計施工分離か一貫かという問題である。建築士法における兼業の禁止規定に関わる歴史的問題だ。その大きな問題が、審査委員長として関わった「箱根国際観光センター」のコンペでも問われた。「設計施工分離」の方針が受け入れられないのである。しかし、興味深いことに、前川は「本来設計施工一貫がよいはず」と書く。今日に至るまで、この問題も掘り下げられていない。

  

Ⅳ         

 一九六八年から一九七〇年代初期にかけて、「戦後」を支えてきた様々な価値が根底から問われる。ひとことでいえば「近代合理主義」批判の様々な運動が展開されたのであった。世界的に巻き起こった学生運動がその象徴だ。前川國男は、日大闘争渦中の自主講座に参加し、理解と共感を示したという。

 その前川國男の「いま最もすぐれた建築家とは、何もつくらない建築家である」(『建築家』 一九七一年春)という名言は時代を象徴する。精神の自由を失った建築家が如何に多いことか。「自由な立場の建築家」の理念を失ってつくることは、前川國男にとって耐え難いことであった。

 苛立ちから絶望へ、文章には悲観的なトーンが目立ち始める。前川國男自身が様々な事件に巻き込まれたことも大きいのであろう。ひとつは一〇年にも及んだ「東京海上火災本社ビル」の問題があった。自発的に高さを削るということで決着したのが一九七〇年九月、竣工は一九七二年である。また、「箱根国立国際会議場」が結局は実現しないという結末も大きなダメージであった。

 しかし、前川國男は、近代建築家としての基本的姿勢を変えることはなかったように思う。「合理主義の幻滅ー近代建築への反省と批判」(一九七四年)は、タイトルだけを読むと、前川の転換を示すように思える。しかし、合理主義を捨てたわけではない。むしろ、「捨てられない合理主義」の立場がそこで宣言されていることは見逃されてはならない。「近代の経済的合理主義よりも次元の一段高い合理主義の論理を見出す「直感力」を鍛えることが一番大切なことだと思われます」という合理主義の位相の理解がポイントである。「直感力」といっても、合理主義に対して「非合理」性を対置しようと言うのではない。「科学的思考」に対する「神話的思考」という言葉も提出されるのであるが、「直感の中にある合理性」を日常的な合理性の感覚というと平たく解釈しすぎるであろうか。少なくとも、産業社会を支える経済合理主義の論理ではなく、社会生活を支える正当性の問題として、合理主義の論理は考えられ続けてきたように見える。

 一九六〇年代末から一九七〇年代にかけて、建築ジャーナリズムは近代建築批判のトーンを強める。『日本近代建築史再考ー虚構の崩壊』(新建築臨時増刊 一九七四年一〇月)、『日本の様式建築』(一九七六年六月)に代表されるような、近代建築史の再読、様式建築の再評価の試みが盛んに展開され出すのである。すぐさま現れてきたのは、装飾や様式を復活しようという流れだ。今振り返れば、皮相なリアクションであった。しかし、そうした趨勢とともに日本の近代建築をリードしてきた前川國男の影は薄くなっていったことは否めない。

 日本における近代建築批判の急先鋒となったのは、例えば、長谷川尭である。その『神殿か獄舎か』(一九七二年)は、建築家の思惟を「神殿志向」と「獄舎志向」に二分し、「神殿志向」の近代建築家を徹底批判する。主要なターゲットは、前川國男であり、丹下健三であった。長谷川尭が評価するのは、豊多摩監獄の設計者である後藤慶二のような建築家である。あるいは商業建築に徹してきた村野藤吾のような建築家である。掬い取ろうとするのは「昭和建築」=近代合理主義の建築に対する「大正建築」である。

人民のために、大衆のために、あるいは人類のためにというスローガンを唱えながら、常に自らを高みにおいて、何ものかのため、究極には国家のために「神殿」をつくり続けるのは欺瞞だ。その舌鋒は、当然のように建築家という理念そのものにも向けられる。プロフェッションとしての、すなわち、神にプロフェス(告白)するものとしての建築家、あるいはフリーランスのアーキテクト、あらゆる権力や資本から自由で自律的な建築家のイメージは幻想ではないか。何処にそんな建築家が存在しているのか。口先だけで綺麗ごとをいう。建築家はそもそも獄舎づくりではないか。

 「獄舎づくり」と「自由な立場の建築家」の間には深く考え続けるべきテーマがある。「獄舎づくり」であることを自覚することは、現実を支配する諸価値をアプリオリに前提することなのか。一方で、「獄舎づくり」の論理はコマーシャリズムの世界に一定の根拠を与えて行ったようにみえるからである。装飾や様式の復活といった、後に、ポストモダン・ヒストリシズムと呼ばれた諸傾向を支持したのはコマーシャリズムなのである。

 一方、七〇年代に入って、日本において近代建築批判を理論的にリードすることになったのは、『建築の解体』(一九七五年)を書いた磯崎新であった。その近代建築批判としての、引用論、手法論、修辞論の展開は、建築を自立した平面に仮構することによって組み立てられている。すなわち、近代建築が前提としてきたテクノロジーとの関係、社会との関係を一旦は切断しようとしたのであった。建築をテクノロジーや社会などあらゆるコンテクストから切り離すことに置いて、古今東西あらゆる建築は等価となる。思い切って単純化して言えば、あらゆる地域のあらゆる時代の建築の断片、建築的記号やイコン、様式や装飾を集めてきて組み合わせる、そうした「分裂症的折衷主義」に理論的根拠を与えたのが磯崎新であった。これまたポストモダン・デザインの跳梁ばっこに根拠を与えたことは否定できないのである。 

 こうして、前川國男は、『神殿か獄舎か』と『建築の解体』という全く対極的な近代建築批判に挟撃されることになる。ただ、『神殿か獄舎か』が上梓された同じ年に、「中絶の建築」が書かれていることは想起されていい。「今日の建築家は新製品新技術の情報洪水の中から取捨選択に忙殺され、しかもその最終選択に確信をもち得ず、ついに一箇の「デザイナー」になり下がって現代の芸術とともに「中絶」の建築への急坂を馳せ下ろうとしている。・・・・「中絶」の建築は「中絶」の都市を生み、「中絶」の都市は、「流民のちまた」として廃棄物としての「人生」の堆積に埋もれていく他はないであろう。」。

 一九八六年六月二六日、前川國男は逝った。享年八一歳。その後まもなく、バブル経済がポストモダニズム建築の徒花が狂い咲こうとは夢にも思えなかったにちがいない。前川國男の死の意味が冷静に問えるようになったのはバブルが弾け散ってしまってからである。

    

2024年12月10日火曜日

タウン・イン・タウン 、現代のことば、京都新聞、1996

 

タウン・イン・タウン            008

 

布野修司

 

 国際交流基金アジアセンターの要請で、この六月末、インドネシア科学院(LIPI)のワークショップ(国際会議)「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」に出席してきた。一週間の間、ジャカルタに滞在しながら、オランダ、フランス、オーストラリア、シンガポール、タイ、フィリピン、そしてインドネシアの参加者と東南アジアの都市をめぐって議論した。考えさせられることの実に多いワークショップであった。

 ジャカルタは、今、シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風の高層ビルが林立する。頂部だけ様々にデザインされ、新しいジャカルタの都市景観を生み出している。日本の設計事務所、建設会社もその新たな都市景観の創出に関わっている。一方、ホテルの窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポン(都市集落)の風景が拡がる。都心に聳える超高層の森と地面に張りつくカンポンの家々は実に対比的である。

 そうしたジャカルタのど真ん中、かってのクマヨラン空港の跡地に、興味深い開発計画が進行中であった。「タウン・イン・タウン(都市の中の都市)」計画と呼ばれる。

 現場に参加者全員で見に行った。その計画理念は、都心のリゾートタウンといったらわかりやすいだろうか。バーズ・サンクチュアリも設けられ、自立型ニュータウンが目指されている。大都市のど真ん中に都市がつくられる、そのコンセプト自体は実にユニークである。

 しかし、参加者の関心は超高層集合住宅が林立する中心街区よりも、別の一角に向けられた。広大な敷地に建設が始まったばかりであるが、中に実際に人々が住み始めた地区があるのである。一見何気ない五階建ての集合住宅が並ぶだけなのであるが、活気があって、実に生き生きと空間が使われている。もともとそこに住んでいた人々のための街区である。そこはもともとジャカルタ原住民であるバタウィ人の土地で、現在でも住民の一五パーセントはバタウィ人である。

 一階には店舗が入り、二階以上の住居部分は厨房やトイレ居間が共用の共同住宅になっている。また、家内工業が各種行われ、コミュニティの様々な活動が生き生きと組織されている。カンポンの人々を追い立てるのではなく、そのまま住み続けることができるように最大限の努力が払われているように思えた。

 次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。しかし、眼から火の出るような思いをさせられた。日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛んだ。「これは日本のサテライト・タウンなのかい」。


2024年12月7日土曜日

講演:京都エコハウスモデルへむけて,日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割,京都健康住まい研究会,19991029

 講演:京都エコハウスモデルへむけて,日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割,京都健康住まい研究会,19991029


京都エコハウスモデルにむけて

 日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割

                                          京都大学大学院工学研究科

                   生活空間学専攻 地域生活空間計画講座

                                布野修司

 

●略歴      

1949年 島根県出雲市生まれ/松江南校卒/1972年 東京大学工学部建築学科卒

1976年 東京大学大学院博士課程中退/東京大学工学部建築学科助手

1978  東洋大学工学部建築学科講師/1984年  同   助教授 

1991  京都大学工学部建築系教室助教授

 

●著書等

         『戦後建築論ノート』(相模書房 1981

                  『スラムとウサギ小屋』(青弓社 1985

                  『住宅戦争』(彰国社 1989

         『カンポンの世界ーージャワ都市の生活宇宙』(パルコ出版199107

         『見える家と見えない家』(共著 岩波書店 1981

                  『建築作家の時代』(共著 リブロポート 1987

         『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(共著 現代企画室)

         『建築計画教科書』(編著 彰国社 1989

         『建築概論』(共著 彰国社 1982

         『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(彰国社  199106

         『現代建築』(新曜社)

         『戦後建築の終焉』(れんが書房新社 1995

         『住まいの夢と夢の住まい アジア住居論』(朝日選書 1997

         『廃墟とバラック』(布野修司建築論集Ⅰ 彰国社 1998

         『都市と劇場』(布野修司建築論集Ⅱ 彰国社1998

         『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ 彰国社1998)          等々

 

 

○主要な活動

 ◇ハウジング計画ユニオン(HPU) 『群居』

 ◇建築フォーラム(AF)  『建築思潮』

 ◇サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)

 ◇研究のことなどーーーアジア都市建築研究会

 ◇木匠塾 

 ◇中高層ハウジングプロジェクト

 ◇建築文化・景観問題研究会

 ◇京町屋再生研究会

 ◇

 ◇

●主要な論文     

 『建築計画の諸問題』(修論)

  『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(博論)

 Considerations on Housing System based on Ecological Balance in the Region, The 8th  EAROPH International Congress  JAKARTA  1982

 The Regional Housing Systems in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS 1991

京都エコハウスモデルにむけて 日本の住宅生産と「地域ビルダー」の役割

 

Ⅰ 日本の住宅生産

      概要

    ①国民経済と住宅投資 ②住宅建設戸数の動向 ③住宅需要の動向

    ④住宅所有関係の動向 ⑤住宅種別の建設動向 ⑥工務店事業所及び従業員数

    ⑦建設関係技能者 ⑧建築士と建築士事務所 ⑨木材需給⑩建材 ⑪工具

  2  地域特性

    ①住宅着工動向 ②木造率 ③プレファブ化率 ④住宅関連業種

  3  国際比較

 

Ⅱ 住宅生産者社会の構造

 

 1 住宅供給主体と建設戸数

 2 住宅生産者社会の地域差

 3 工務店の類型と特性

 

 

 Ⅲ 日本の住宅をめぐる問題点 論理の欠落ーーー豊かさ?のなかの貧困

   ◇集住の論理  住宅=町づくりの視点の欠如 建築と都市の分離

           型の不在 都市型住宅   家族関係の希薄化

   ◇歴史の論理  スクラップ・アンド・ビルドの論理

          スペキュレーションとメタボリズム価格の支配 住テクの論理

          社会資本としての住宅・建築・都市

   ◇多様性と画一性  異質なものの共存原理

           イメージの画一性 入母屋御殿

            多様性の中の貧困 ポストモダンのデザイン

           感覚の豊かさと貧困  電脳台所

   ◇地域の論理 大都市圏と地方

          エコロジー

   ◇自然と身体の論理:直接性の原理

          人工環境化 土 水 火 木

            建てることの意味

   ◇生活の論理「家」の産業化 住機能の外化 住まいのホテル化

          家事労働のサービス産業代替 住宅問題の階層化

          社会的弱者の住宅問題

 

 

 Ⅳ 京都で考えたこと

 

   京町家再生

 

   京都グランドヴィジョン

 

   祇園祭と大工   マイスター制度とものづくり大学

 

 

 Ⅴ 京都エコハウスモデルに向けて

        21世紀の集合住宅

         三つの供給モデル

 

    エコ・ハウス・・・・ナチュラル・ハウス・・・

 

        スラバヤ・エコ・ハウス





パッシブ・クーリング 冷房なしで居住性向上 

 ミニマム熱取得  マキシマム放熱

ストック型構法

 長寿命(スケルトン インフィル) リニューアブル材料 リサイクル材料(地域産出材料)

創エネルギー

 自立志向型システム(Autonomous House) PV(循環ポンプ、ファン、共用電力) 天井輻射冷房

 自立志向型給水・汚水処理システム 補助的ソーラー給湯

ごみ処理 コンポスト

 

 大屋根  日射の遮蔽

 二重屋根

 イジュク(椰子の繊維)利用

 ポーラスな空間構成 通風 換気 廃熱

 昼光利用照明

 湿気対策 ピロティ

 夜間換気 冷却 蓄冷

 散水

 緑化

 蓄冷 井水循環

 スケルトン インフィル

 コレクティブ・ハウジング

 中水 合併浄化槽

 外構 風の道            

    積層形式における共有空間

    歴史の原理:ストック 街並み景観

   フローからストックへ

 

     地域性の原理・・・地域住宅生産システムの展望:

    直接性の原理

    循環性の原理

   環境共生

   自律性の原理・・・


京の風土と町にふさわしいエコ・サイクル・ハウスの提言

 

 はじめに

 日本の住宅生産の動向、その問題点をめぐって論ずべき点は多いが、決定的なのは一貫する住宅供給の論理が不在であり、地球環境時代における住宅のプロトタイプについて必ずしも明確になっていないことである。豊かさの中の論理の欠落について列挙すれば、少なくとも以下の点が指摘できる。 

  ◇集住の論理の欠落:住宅供給=町づくりという視点がない。建築と都市計画がつながっておらず、都市型住宅としての集住のための型がない。

 ◇歴史の論理の欠如:スクラップ・アンド・ビルド(建てて壊す)論理がこれまで支配的であり、歴史的ストックを維持管理する思想がなかった。住宅供給は住テクの論理によって支配され、社会資本としての住宅・建築・都市という視点が欠けている。

 ◇異質なものの共存原理の欠如:日本の住宅は極めて多様なデザインを誇るように見えて、その実、画一的である。生活のパターンは一定であり、従って間取りは日本全国そう変わらない。文化的な背景を異にする人々と共生する住空間が日本には用意されていない。

 ◇地域の論理の欠如:住宅は本来、地域毎に固有な形態、原理をもっていた。地域の自然生態、また、社会的、文化的生態によって規定されてきたといってもいい。その固有の原理を無化していったのが産業化の論理である。また、住宅問題は、大都市圏と地方では異なる。住宅の地域原理を再構築するのが課題となる。

 ◇自然と身体の論理の欠如:産業化の論理が徹底する中で、住宅は建てるものではなく買うものとなっていった。また、人工環境化が押し進められた。住宅は工業生産品としてつくられ、その高気密化、高断熱化のみが追求されることによって、住空間は人工的に制御されるものと考えられてきた。結果として、住空間は、土、水、火、木・・・など自然と身体との密接な関わりを欠くことになった。

 ◇生活の論理「家」の産業化:問題は単に住宅という空間の問題にとどまらない。住機能の外化、住まいのホテル化家事労働のサービス産業代替、住宅問題の階層化、社会的弱者の住宅問題など家族と住宅をめぐる基本的問題がある。

 

 エコ・サイクルハウスの理念

 これからの住宅供給のあり方について、以上を踏まえて、いくつかの基本原理が考えられる。

 ◇長寿命構法、ストック型構法(スケルトン・インフィル分離)

 まず、フローからストックへという流れがある。すなわち、建てては壊すのではなく、既存の建物を維持管理しながら長く使う必要がある。日本全体で年間150万戸建設された時代には住宅の寿命は30年と考えられたが、少なくとも百年は持つ住宅を考えておく必要がある。そのためには建築構法にも新たな概念が必要である。住宅の部位、設備など耐用年限に応じて取り換えられるのが基本で、大きくは躯体(スケルトン)と内装(インフィル)、さらに外装(クラディング)を分離する。また、再利用可能な材料、部品(リニューアブル材料 リサイクル材料を採用する。

 ◇地域型住宅:地域循環システム

 地域の風土に適合した住宅のあり方を模索するためには、地域における住宅生産システムを再構築する必要がある。具体的には地域密着型の住宅生産組織の再編成、地域産材の利用など住宅資材の、部品の地域循環がポイントである。

 ◇自立志向型システム(Autonomous House

 循環システムは個々の住宅においても考えられる必要がある。特に、廃棄物、汚水などを外部に極力出さないことが大きな方針となる。自立志向型給水・汚水処理システム、ごみ処理用コンポストなどによって、住宅内処理が基本である。

 ◇自然との共生

 個々の住宅内での循環系システムの構築に当たってはふたつの方向が分かれる。いわゆるアクティブとパッシブである。しかし、省エネルギー、省資源を考える場合、パッシブが基本となる。具体的には冷暖房なしで居住性を向上させるのが方針である。ミニマム熱取得、 マキシマム放熱が原理となる。通風をうまくとる。また、太陽光発電、風力発電など創エネルギーも重要となる。さらに、天井輻射冷房などの考え方も導入される。

 

 エコ・サイクル・ハウス・テクノロジー

 以上のような原理は各地域の状況に合わせて考えられる必要があり、それぞれにモデルがつくられる必要がある。インドネシアのスラバヤでモデル集合住宅を建設した経験がある。北欧など寒い国には既に多くのモデルがあるが、問題は暑い地域である。地球環境全体を考えるとより重要なのは暑い地域の住宅モデルである。スラバヤは、日本と無縁のように見えるかもしれないが、大阪、京都の夏と同じ気候である。採用した考え方、技術を列挙すれば以下のようになる。大屋根による日射の遮蔽、二重屋根、イジュク(椰子の繊維)の断熱材利用、ポーラスな空間構成、通風、換気、廃熱、昼光利用照明、湿気対策のためのピロティ、夜間換気、冷却、蓄冷、散水、緑化、蓄冷、井水循環。こうした考え方は、基本は京都でも同じである。一般的にエコ・ハウス・テクノロジーを列挙すれば次のようになる。

 ◇自然(地・水・火・風・空)利用:風力エネルギー、風力利用:通風腔・外装システム:自然換気システム、壁体膜:太陽熱利用、断熱、蓄熱、昼光利用、昼光制御、昼光発電、地熱利用、PV(循環ポンプ、ファン、共用電力)

 ◇リサイクル・資源の有効利用:建築ストックの再生:地域産材利用、雨水・中水利用:廃棄物利用・建材、古材、林業廃棄物、間伐材利用、産業廃棄物:廃棄物処理 、コンポスト、合併浄化槽、土壌浄化法

 

 京都エコ・サイクル・ハウス・モデルへ向けて

 具体的な京都エコ・サイクル・ハウス・モデルについては、いくつかの条件設定が必要である。京都の住宅需要に即した提案でなければ画餅に終わる可能性がある。

 まず考えられるのは町家モデルである。これも二つあって、ひとつは新町家というべきモデルであり、ひとつは既存の町家の改造モデルである。いずれも伝統的町家を評価した上で、新たな創意工夫が必要である。「京都健康住まい研究会」の提案は町屋モデルの提案である。町家を新たに建設する機会はそうあるわけではないが、既存の町家の改造は大きな需要がある。

 もうひとつ是非とも必要なのは集合住宅モデルである。立地によって、また、供給主体によってモデルは異なるが、それぞれのケースにモデルが必要である。スケルトンについては、O型 柱列型 column、 A型   壁体スケルトン wall、B型 地盤型スケルトン baseを一般に区別できる。供給主体についても、地主単一の場合、複数の場合で異なる。

 しかし、いずれにしろ、スケルトンーインフィル分離、オープンシステム、居住者参加、都市型町並み形成、環境共生は鍵語である。

 

 

 

布野修司関連文献

■単著

①スラムとウサギ小屋,青土社,単著,1985128

②住宅戦争,彰国社,単著,19891210

③カンポンの世界,パルコ出版,単著,1991725

④住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,単著,199710

⑤廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,単著,1998510(日本図書館協会選定図書)

⑥裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説、建築資料研究社,単著,2000310

■編著

⑦見知らぬ町の見知らぬ住まい,彰国社,編著,1990

⑧建築.まちなみ景観の創造,建築・まちなみ研究会編(座長布野修司),技報堂出版,編著,19941(韓国語訳 出版 技文堂,ソウル,19982)

⑨建都1200年の京都,布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社,編著,1994

⑩日本の住宅 戦後50, 彰国社,編著,19953

■共著

⑪見える家と見えない家,叢書 文化の現在3,岩波書店,共著,1981

■訳書

⑫布野修司:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,監訳書,19973


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...