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2024年8月19日月曜日

世紀末建築の行方:戦後50年と阪神・淡路大震災,建築年報,日本建築学会,199602

 世紀末建築の行方:戦後五〇年と阪神・淡路大震災          

 

 敗戦から阪神・淡路大震災への戦後五〇年

 戦後五〇年の節目に当たる一九九五年は、日本の戦後五〇年のなかでも敗戦の一九四五年とともにとりわけ記憶される年になった。阪神・淡路大震災とオウム事件。この二つの大事件によって、日本の戦後五〇年の様々な問題が根底的に問い直されることになったのである。加えて、年末からは「住専問題」(不良債権問題)が明るみに出た。日本の都市と建築を支えてきたものが大きく揺さぶられ続けたのが一九九五年であった。

 建築界は、阪神・淡路大震災で明け暮れた。この間の「建築家」の対応は様々にまとめられている。今たまたま、大部の報告書『兵庫県南部地震の被害調査に基づいた実証的分析による被害の検証』*1があるのであるが、この一冊だけからも、大変な災害であったことが再確認できると同時に、多くの「建築家」が大震災をそれぞれ自らの大きな課題として取り組んできたことがうかがえる。

 一方、大震災から時が流れるにつれ、時間の経過に伴う感慨も沸いてくる。最早、大震災は遠い過去のものとなりつつあるように思えてしまう。既に三月二〇日の地下鉄サリン事件以降、オウムの事件が日本列島を席巻し、被災地は置き去られた感はあった。オウム事件関連の裁判が進行していくのであるが、生々しさは加速度を増して消えていく。

 大震災の最大の教訓は、実は、人々は容易に震災を忘れてしまうことではないか。

 もちろん、大震災の投げかけた意味が一貫して問い続けられたことは疑いはない。また、これからも問い続けられていくであろう。大震災が、この五〇年の建築や都市のあり方を根底的に考え直させる、それほど大きな事件であったことは論をまたないところだ。阪神・淡路大震災をめぐっては、様々な議論の場に関わり、何度か思うところを記録する機会があった*2。また、戦後五〇年ということで、戦後建築の歴史を振り返り、まとめ直す機会があった*3。それを基礎に、建築の戦後五〇年を振り返ってみよう。

 

 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。そんなことがあっていいのか、というのは別の感慨として、とにかく地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。

 水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、あるいはコントロールしているとつい考えがちなのであるが、とんでもない。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。自然の力を忘れてしまっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てる。本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるからそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 それにしても、関西には地震はこない、というのはどんな根拠に基づいていたのか。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったことか。また、知っていても、結果的にいかに甘く見ていたか。

 一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きいのである。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされたのであった。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した建築界の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきではないか。

 

 フロンティア拡大の論理・・・「文化住宅」の悲劇・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程を見てつくづく感じるのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちがいる。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。これほどまでに日本社会は階層的であったのか。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことだ。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数知れない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったのである。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。神戸市の、企業経営の論理を取り入れた都市経営の展開は、自治体の模範とされた。しかし、その裏で、また、結果として、都心の整備を遅らせてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたのである。

 

 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市はひたすら肥大化してきた。移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着ではなかったか。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、一体どうなっていたのか。東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。遷都問題がかってないほどの関心を集めはじめたのは当然といえば当然のことである。

 阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることはすぐさま明らかになった。インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったのである。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通に限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要なのである。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像を超えた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかった。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 産業社会の論理・・・地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然と見ているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながったのである。

 今回の大震災における最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになった、という自虐的な声を聞いた。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高い程問題は大きかったのである。

 産業化の論理こそ、戦後社会を導いてきたものである。その方向性が容易に揺らぐとは思えないけれど、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。しかし、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 建築の分野でも被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、ヴォランティアの果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とはいない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組みのなかで、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えていくことになるであろう。

 

 最適設計の思想・・・建築技術の社会的基盤・・・ストック再生の技術

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。建築界に関わるわれわれ全てが深く掘り下げる必要がある。最悪なのは、専門外だから自分とは無縁であるという態度である。問題なのは社会システムであると、自らの依って立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想を超える地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきなのである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったのである。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも不思議である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきではなかったか。

 

 仮設都市・・・スクラップ・アンド・ビルド・・・サテイアン 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。しかし、それ以前に、われわれの都市は廃棄物として建てられているのではないか、という気もしてくる。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせただけではないか。

 阪神・淡路大震災の前には全ての建築の問題が霞むのであるが、一九九五年の建築界を振り返って、ひとつの事件として挙げるべきものは東京都市博覧会(都市博)の中止である。近代日本の百年、都市計画は博覧会を都市開発の有力な手段にしてきた。仮設の博覧会のためにインフラストラクチャーを公共団体が整備し、博覧会が終わると民間企業が進出して都市開発を行う。戦後も大阪万博以降、各自治体が様々なテーマで繰り広げる博覧会にその手法は踏襲されてきた。博覧会型都市計画は、果たして、その命脈を断たれることになるであろうか。いずれにせよ、建築界にとって戦後五〇年が大きな区切りの年になったことは間違いない。

 戦災復興から高度成長期へ、日本の建築界はひたすら建てることのみを目指してきたように見える。住宅の総戸数が世帯数を超え、オイルショックにみまわれた七〇年代前半を経ても、そのスクラップ・アンド・ビルドの趨勢は揺るがなかった。都市計画も成長拡大政策が基調であった。また、巨大プロジェクト主義が支配的であった。

 都市博が「東京フロンティア」と名づけられていたことは象徴的である。フロンティアの消滅が意識されるからこそ、フロンティアが求められたのである。

 しかしそれにしても、オウム真理教のサティアンと呼ばれる建築物も戦後建築の五〇年の原点と到達点を示しているようで無気味であった。そこにあるのは経済的合理性のみの表現である。あるいは何の美学もない間に合わせのバラック主義である。そこでは建築や街並み、周辺の景観など一切顧慮されていないのである。仮設の建物のなかで、全く我が侭に、自らの魂の救済のみが求められている。

 

 変わらぬ構造

 大震災によって何が変わったのか、というと、今のところ、何も変わらなかったのではないか、という気がしないでもない。震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはないのである。そのインパクトが現れてくるまでには時間がかかるだろう。しかしそうは思っても、果たして何かが変わっていくのかどうか疑問が湧いてくる。

 建築家、都市計画プランナーたちはヴォランティアとして、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるであろう。

 しかし、そうした試みによって新しい動きが見えてきたかというと必ずしもそうでもない。復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生み、容易にまとまりそうにないのである。そして、大震災の教訓が復興計画にいかに生かされようとしているのか、というと心許ない限りである。都市計画を支える制度的な枠組みは揺らいではいないし、立案された復興計画をみると、大復興計画というべき巨大プロジェクト主義が見えかくれしている。フロンティア主義は変わらないのであろうか。

 関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。復興過程の袋小路を見ていると、震災が来ようと来まいと、基本的な問題点が露呈しただけであるように見える。問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。どこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのではないか。だとすると、ずっと問われているのは戦後五〇年の都市と建築のあり方なのである。

 バブルが弾けて、ポストモダンの建築は完全にその勢いを失った。デコン(破壊)派と呼ばれた殊更に傾いた壁やファサード(正面)を弄んできた建築表現の動向も大震災の破壊の前で児戯と化した。建築表現は世紀末へ向けてどう変化していくのか。

 このところCAD表現主義とでもいうべき、コンピューターを駆使することによって可能になった形態表現が目立つ。新しいメディアによって新たな建築表現が試みられるのは当然である。しかし、CADによる形態操作の生み出す多様な表現はすぐさま飽和状態に達する予感がないでもない。建築はヴァーチャルな世界で完結はしないからである。

 

 都市(建築)の死と再生

 今度の大震災がわれわれにつきつけたのは都市(建築)の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にわれわれがみたのは滅亡する都市(建築)のイメージと逞しく再生しようとする都市(建築)のイメージの二つである。都市(建築)が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないだろう。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市(建築)の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。それはしかし、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後五〇年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。

 スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 そして、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。

 果たして、日本の都市はストックー再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。

 表現の問題として、都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性を見い出す契機になるのかどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となる筈だ。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。

*1 研究代表者 藤原悌三 一九九六年三月

*2  拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』四号、一九九六年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、一九九六年二月号など

*3 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、一九九五年









 

2024年4月2日火曜日

記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆か,建築文化,彰国社,198605

記念碑か、それとも墓碑か、あるいは転換の予兆か

 

 今日(四月七日)、東京都が新宿西口の超高層ビル街(新宿新都心一四五号地)に建設予定の新都庁舎設計競技の最終審査結果が公表された。大方の予想どおり、丹下健三案の入選である。今、眼の前に九案それぞれの説明書が積まれている。膨大な量である。指名コンペであり、審査も非公開であったため、この間の経緯は一般には計り知れなかったのであるが、また早々と丹下本命説、出来レース(疑似コンペ)のうわさが流れ、建築界一般の関心は低かったといっていいのであるが、指名各社(者)によって、それぞれの作品にすさまじいエネルギーが投入されたこと、今回のコンペが実に熱気を孕んだものであったことを、眼の前の資料は物語っている。残念ながら、この膨大な資料に丹念に眼を通す時間がない。また、この間の経緯について、マスコミを通じた情報以上のものをもっているわけではないのであるが、求められるままに、ここでは今回のコンペが孕む問題について、あるいはその印象について、走り書きしてみようと思う。

 今回のコンペがいささかスキャンダラスなのは、入選者である丹下健三が、コンペの実施のはるか以前から、この新庁舎の建設のプログラムに深くコミットしてきたということが背景にある。丹下自身の言によれば、「二〇年来の野心」ということになるのであるが、さかのぼれば、現在の東京都庁舎の設計のときからそのかかわりは深い。また、決定的なのは、現知事との関係である。選挙参謀(確認団体の責任者)を努めたことが示すように、その昵懇の間柄は周知の事実である。公正なコンペ実施が危惧されたは、故ないことではない。審査員の一人である菊竹清訓によってその危惧が表明され、むしろ特命のほうがすっきりするといった指摘がなされたのは、建築界一般の空気を反映したものであったといよう。取り壊しが予定される戦後建築の傑作東京都庁舎の設計者でもあり、数々の名作を残してきた日本の近代建築のチャンピオンである丹下健三に、その集大成として記念碑的作品を期待するとしても表向きそう異論は出なかったかもしれない。

 指名コンペとなったのは、東京都の設計者選定制度に基づけば筋であろう。しかし、それにしても、わずか三ヵ月余りでこの大プロジェクトをまとめるうえで、丹下健三があらかじめ大きなプラス・ハンデを与えられていたことは否めない。もし、公平さを本当に期すとすれば、むしろ丹下は指名から外れ、審査員に回ったほうがすっきりすることはいうまでもないことである。いかに公正に審査が行われようとも、丹下当選の場合、出来レースの疑いが消えないのは仕方のないことである。「大方の予想」の根拠は、以上のようなものであろう。丹下健三にとっては、勝っても、負けても、痛くない(?)腹をさぐられる、またその力量を問われる、これまでにない厳しいコンペであった。歴史的な判断を下す審査員も、同様である。

 しかし、今回のコンペの孕む問題は、必ずしもそうした次元にあるわけではない。新都庁舎は自治体のシティ・ホールとしては、世界最大級の規模である。競技要項が「世界に冠たる大都市東京のシティ・ホール」をうたい上げるように、それは大東京の貌ともなり、ひいては日本の貌ともなる。設計者は誰であれ、東京の貌として、また日本という国家の貌として、どのような表現がありうるのかこそが問われているのである。東京都民にとっては、このプロジェクトは淀橋浄水場の跡地計画としての新宿新都心計画の総仕上げのプロジェクトであり、それと同時に、少なくともこれからの半世紀は東京の中心であり続ける新都心の形が決定される大きなプロジェクトである。この都心の移動は、東京という都市にとって大きな歴史的な意味をもつはずである。問われているのは、大都市東京のこれからを方向づける中心のイメージなのである。

 そうした一般の関心とともに問われているのは、これからの日本の建築のあり方である。殊に、丹下健三と共に指名を受けた磯崎新の参加によって、否が応でもそうした関心は掻きたてられる。

 「ポスト・モダニズムに出口はない」と言い放って近代建築家としての姿勢を矜持する丹下健三と、ラディカルに近代建築批判を展開し、ポストモダン建築のイデオローグでもある磯崎新の対決は、単なる野次馬的興味にとどまらない。また、すでに超高層を手掛け新宿新都心に形を与えてきたことにおいて、およそその作品の方向は予想されるとはい、単なるオフィス・ビルではなく東京の貌としてのシティ・ホールという課題に対して、大手設計事務所各社がどのような解答を与えるかも、今後の日本の建築の方向性を占ううえで興味深いはずである。近代建築の記念碑なのか、あるいは、その墓碑なのか。折しも、今年は建築学会創立一〇〇周年である。日本の近代建築の歩みを振り返るそうした年でもある。モダンかポストモダンかという形での単純な議論は問題となりえないにせよ、この間の建築のポストモダンをめぐる議論が審査の背景となるはずであり、いずれにせよ、結果はそうした議論へと投げ返されることになるであろう。少なくとも私にとって、今回の東京都新都庁舎のコンペめぐる問いと興味はおよそ以上のようなものであった。結果はどうか。議論はまさに今、始まろうとしているのである。

 いくつか思いつくことを記してみよう。予想どおり提示された九つの作品の間には、多くの争点があった。その最大の争点を仕掛けたのは、これまた予想どおり磯崎新であったようである。その設計概要の冒頭、基本理念はいきなりこうきり出されている。「超高層は採用しない。網目状格子となったスーパーブロックの新しい建築型に基づく。これが私たちの結論的な提案である」と。実に挑発的である。しかし、決して奇を衒ったり、斜めに構えたり、アイロニカルな提案なのではない。堂々と真っ向からの挑戦である。超高層ではなく、むしろ、それを横に寝かし、低く(二三階)押さえた提案をめぐって、その作品自体の検討以前に、審査委員会において激しい議論が展開されたであろうことは想像に難くないところである。磯崎案は、コンペの“暗黙の前提”を根本的に問いただしているからである。

 超高層を否定する磯崎案の論拠は、大きく二つある。一つは、東京都の行政組織あるいは業務形態を分析した結果、それが一元的な樹状構造ではなく、リゾーム状の「錯綜体」構造をなしており、超高層という形態に決定的になじまないという論拠である。もう一つは、シティ・ホールのもつ公共性、倫理性から、各財閥がその覇を競うかのような高さ競争に参画すること(磯崎の言葉によれば、「商業活動に基づく高さ競争をひきおこしている超高層に仲間入りすること」)は問題であり、むしろ、シティ・ホールの概念の根源的な解釈に立ち返るべきであるという論拠である。磯崎は超高層は「東京都民の感情的反発を買うことになろう」というブラフ(?)もかけている。

 こうした超高層を否定するある意味では素朴な主張は、まずはそれこそ素朴に議論されていいはずである。一号地のアトリウムを低く押さえ、周辺環境との調和に配慮を示した日本設計案も、素朴に高さの問題を提示している。ヒューマンスケールを超え、人工環境化した超高層にどう自然を取り込むか、それをどうヒューマナイズするかは、それを全面的にテーマとした日本設計に限らず、一つの大きなテーマであったといえるであろう。

 行政組織の問題についても、そもそも移転の大きな理由の一つが現都庁舎が分散していることにあった以上、行政機能をどう集約化するかはあらかじめ一つの争点であったといっていい。磯崎案とは全く対照的に、参考案であるが超高層一棟案を示した日建設計案も、そうした争点を提示するものである。

 しかし、超高層が否かという提起は、具体的にはコンペの前提条件である現実の法・制度そのものを問わざるをえない。磯崎案がラディカルに問いかけているのは、超高層を前提とした法・制度そのものであり、結局、敗因となったのも法・制度へのささやかな(と見える)違いである。問題は、新宿新都心特定街区における建築協定である。無論、磯崎案もそれを無視したわけではない。むしろ、それを前提としたうえで、新しい建築型を提示しようとしたのであった。首都の都心という特殊解であるが故に、それを都市建築の一般的なあり方として提示することは議論があろう。しかし、結果的に磯崎案が否定されたのは、公道使用といった違反犯のレヴェルではなく、新宿新都心計画そのものを全体的に否定する契機を、その提案が含んでいるからである。

 それとは全く別の位相で、やはり建築協定は大きな問題であった。もともと都の所有地であり、三敷地を一体化して使用できる条件があったとすれば、各案は全く異なったものとなったはずである。ことに、公開空地の設定による容積率のやりとりが現実のものとなりつつあるだけに(それ自体は大きな問題を孕んでいるといわねばならない)、単純な現行制度の適用による判断は、特にコンペの場合常に問題となるにせよ、一つの問題である。環境全体をグローバルにとらえたうえでの、前向きの判断があってしかるべきである。そうした意味では、奇しくも一致して五号地を、将来への対応を含めて空地として残した日本設計、日建設計の両案は、その背後にどのような思惑があるにせよ注目されていいであろう。

 審査報告書から察するに、上記二つの案は議論を生んだものの、最終段階ではあらかじめ省かれたようである。超高層はやはり前提であった。すでに林立する超高層群と、そう異和のない素直な山下設計案が丹下案の対抗として選ばれていることが、それを示している。だとすれば、決め手となるのは何か。配置計画など全体構成をめぐって細かな議論はあろう。しかし、最終的には「象徴性」である。

 競技要綱も真っ先にいうのであるが、丹下健三も東京都シティ・ホールの設計に当たり、冒頭にそっくりそのまま「二一世紀に向けて発展する東京の自治と文化のシンボルとなり、国際都市東京のシンボルとなるものであることを目標にしてまいりました」と繰り返している。「外に表現された象徴性に偏重することを避け、むしろ内に向けた空間性を重視している」と評された磯崎案は、ここでも丹下案に対するアンチテーゼとなっている。

 しかし、問題はここからである。なぜ、丹下健三は、無意識にであれ、意識的にであれ、明らかにゴシック建築の様式を思わせる表現を選び取ったのか。高さを競い合ったゴシック建築と超高層を、単純に重ね合わせたというわけではあるまい。歴史的な様式を直接参照する意識があったとは思えない。しかし、すぐさま「まるでノートルダム寺院のよう」と一般に許されたことが示すように、その「象徴性」がゴシック建築の権威の象徴性と結びつけられることは、予想されたはずである。

 明らかに丹下健三は、その方向性を転換させたといっていい。丹下自身は、その転換を「工業化社会から情報化社会への移行」に伴うものとして意識するのであるが、ここで示された位相は、建築のポストモダニズムが主張する「象徴性の回復」の位相とそう隔たってはいない。「内外からの単調さを避けて、横尾の窓、縦長の窓、あるいは格子窓などを内部機能に応じて用いることによって、江戸以来の東京の伝統的な形を想起させる」という手法と意識は、明らかにそうである。少なくとも、かつての伝統論の位相とは違う。また、「構造表現主義」的作品のシンボリズムの位相とも異なっていよう。同じように、「象徴性」を十分に意識し、エレベーター・シャフトをシンメトリーに配して、都市の門としてのシンボル性を強調した坂倉案と比較してみると、その位相の差異ははっきりしはしないか。

 日本の建築は、その歴史を大きく変える、そうした予感がこの丹下案にはある。いずれにせよ、議論はこれからである。歴史に残る議論であるだけに、それをしっかりと記録しておくことには大きな意味があるはずである。