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2025年12月21日日曜日

書評/五十嵐太郎編 『地方で建築を仕事にする 日常に目を開き,耳を澄ます人たち』 学芸出版社(2016年9月5日)コミュニティ・アーキテクト,アーキテクト・ビルダー,そして地域建築工房の行方? 2017/01/13 | WEB版『建築討論』011号:2017年春(1月ー3月)http://touron.aij.or.jp/2017/01/3446

 書評/五十嵐太郎編 『地方で建築を仕事にする 日常に目を開き,耳を澄ます人たち』 学芸出版社(201695日)コミュニティ・アーキテクト,アーキテクト・ビルダー,そして地域建築工房の行方? 2017/01/13 | WEB版『建築討論』011号:2017年春(1ー3月)http://touron.aij.or.jp/2017/01/3446


『建築討論』011号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 書評, 11号:2017号(1-3月)




 

Book Review

コミュニティ・アーキテクト、アーキテクト・ビルダー、そして地域建築工房の行方?

Whereabouts?: Communiti Architect, Architect Builder, Architectural Studio in the Region

五十嵐太郎編『地方で建築を仕事にする 日常に目を開き、耳を澄ます人たち』学芸出版社、201695

 

編者である五十嵐太郎が冒頭の短い「まえがき」に書いているけれど、「メディアはほとんど東京一極集中である」。五十嵐は、東京で建築を学んだけれど、名古屋で3年、仙台で11年教鞭をとることで「日本地図の見え方が大きく変わった」、「3.11の後、東京の建築家の支援プロジェクトはメディアで華々しく紹介されるのに、地元だからこそできる現地の建築家の粘り強く、手厚い行動がほとんどとりあげられない状況」に疑問を抱いた、という。出雲で18年、東京で22年、京都・滋賀で24年居を構え、アジアを飛び回ってきた僕も、かねがねそう思っている。このITCの時代にと思うけれど、メディアの視点が東京に据えられ、そこから発信されているのだから構造はかわらない。

かく言う『建築討論』も日本建築学会のメディアということで敷居が高い、と思う。双方向のメディアを目指しているけれど、わざわざ投稿して、あれこれ東京(中央)目線で批評されるのはたまったものじゃない。実は、各地に50人ほどのレポーターをお願いしているのだけれど、忙しい時間を使って、レポートをするのは相当エネルギーがかかる。ただ、『建築討論』には、最低限、活動や議論を半永久的に記録するアーカイブ機能がある。本書のような原稿が積み重ねられればいいなあと、初心を確認した次第である。姉妹編である、前田茂樹編著『海外で建築を仕事にする』、福岡孝則編著『海外で建築を仕事にする2』も、本メディアにも欲しい企画である。編集者の視点には大いに共感するところである。

 

 本書には1615組の仕事がそれぞれ自身によって綴られている。ただそれだけである、と言えば、それだけである。編者によって、それぞれの仕事が比較されたり、ランク付けされたり、あるフレームの中に位置づけられたりするわけではない。「互いに切磋琢磨し、知見を蓄積・共有し、向上していくために、批評や評価基準が必要になるだろう。この本がその足掛かりになれば、幸いである。」、「建築の空間体験や周辺の環境は、メディア向けの写真だけではすべて伝わらないし、また建築家のはなしを聞いてみないとわからないことが少なくない」、「日本全国津々浦々に、彼らのような建築家が増えたら未来はそう悪くないかもしれない」というだけである。

 

 

 本書を僕に紹介してくれたのは執筆者の一人である魚谷繁礼である。京都大学布野研究室出身で学生の頃から知っていて、今でもフノーゲルズのメンバーだから、A-Cupで毎年顔を合わせてもいる。守山市立図書館(隈研吾設計)の建設委員会の機会に京都五条の事務所を訪問、「ところでどんな仕事をしているの」と聞いたら、いささかムッとした顔で「これ読んでください」と差し出されたのが本書であった。タイトルが「特殊解ではない、社会的な提案を孕む建築」とやけに力みかえっている。いかにも布野研らしいと苦笑いしたが、13年の真摯な京都での取り組みがよくわかる。京都を拠点とする布野研出身の建築家としては、魚谷繁礼のパートナーである正岡みわ子の他、森田一弥、岩崎泰、山本麻子(アルファヴィル、竹口健太郎と共同主催)などもいる。

京都コミュニティ・デザイン・リーグ(CDL)、近江環人コミュニティ・アーキテクトなどで、地域を拠点とする建築家のあり方を考えてきたから、また、若い人の仕事を知りたいと思っているから、本書は願ったり叶ったりであった。引き込まれるように読んだ。面識があったのは、魚谷の他、最年長の芳賀沼整、最年少の辻琢磨、合わせて3人であった。

それぞれの仕事については、是非、本書を手に取ってもらいたい。それぞれに魅力的で可能性に満ちた仕事ぶりである。

ひとつ感じるのは、学んだ研究室(指導教官)、修行を積んだ場所のもつ力が大きい、ということである。もちろん、建築という制度的な枠組みを前提とした話ではない。「建築学」や「建築学科」がすぐれた建築家を育てるわけではない。結局は「建築家」になりたいという本人の意志が重要だということであるが、それを受け止める人、そして場所、環境が大きいということである。片岡八重子の場合、短大を卒業して不動産建設会社に就職し、大学の夜間に編入学、卒業して一級建築士の資格を取り、生まれ故郷とは別の地域に腰を据えて活動する。ものすごいエネルギーだと思う。

 

佐藤欣裕も、野球部で練習に明け暮れ「建築のまとまった建築の勉強をしていない」。祖父が大工で、父が工務店をしていたという環境が大きいというべきか。佐々木徳貢著『バウビオロギー 新しいエコロジー建築の流れ』という一冊の本が方向を導いたというのもドラマチックである。島津臣志もサッカーに明け暮れていたというが、現場で育ったといえるだろうか。徳島唯一の2500人の村を拠点とするのも、僕らに勇気がもらえる。将来の展開が楽しみである。兵庫生まれで、彼について沖縄にわたった蒲池史子は未だ修行中といえるだろうか。しかし、西山夘三とか清家清とかいう名前が出てくるのはタダモノではない。水野太史の場合、建築学科に入学したけれど、休学していきなり設計を始めたのだから、ほとんど独学といってもいい。その力技には感心する。蟻塚学にしても、専らアトリエ事務所のオープンデスクで育ったと言えるのではないか。東京で建物を100個設計するより、青森で100個設計する方が意義は大きい、というのもその通りである。

「建築」の雰囲気のなかで育つという意味では、水谷元もそうである。父は水谷穎介。本書で知って感慨深かった。僕は1991に京都大学に赴任したのであるが、その晩年、渡辺豊和さんと一緒に何度か大阪で酒席をともにしたことがある。大学の建築学科は中退したというが、息子が建築家となり、水谷スクールがそれを見守るというのはいい構図である。能古島を拠点にするのもそれらしい。島といい、村といい、離島寒村での「建築家」のあり方に、原初の「建築家」を見たいと思う。

父親が温泉を掘り当てたという岡昇平も、土木学科を卒業した上で建築を目指した変わり種と言えば変わり種である。まちぐるみ旅館にしよう、という発想が面白い。それに生まれ故郷で「にやにやしながら暮らす」というのがいい。

辻琢磨は「僕が浜松から学んだこと」というが、地域に学ぶ、現場に学ぶ、そして育つというのが共通であろうか。

 

もうひとつ思うのは、おそらく編集の視点がそうだからだと思うけれど、女性と地域社会との関係、夫婦ペアの協力関係が鍵になっているということである。片岡八重子がまさにそうであるが、東京のスター建築家の事務所から札幌に転じた丸田絢子の場合、「気鋭の若手として、メディアでも取り上げられる存在だったのに」、友達一人いないところから出発せざるを得なかった、地域との関係が深まっていくその過程がたくましい。「型」を学んで「型」を破るという、あらたな方向も見定められつつある。齊田武亨・本瀬あゆみのコンビは2拠点をうたう「カッコいい」スタイルである。しかも、女性が東京にいて男性が地方にいるパターンである。岩月美穂は共に学びともにスターアーキテクトのアトリエでともに働いたパートナー栗原健太郎と共同事務所を経営するが、拠点とするのは岩月の生まれ育った町である。芳賀沼整の「はりゅうウッドスタジオ」で修行したという藤野高志は地元の高崎に帰って独立したけれど、ぽっかり仕事がなくなって離婚もしたという。

要するに、家族のあり方、地域との関係のあり方が「建築家」としての生き方として問われるのであり、それをそれぞれに語るのが本書である。

書き起こす時、何をしているか、から始まって、一枚の風景写真が差しはさまれる、編集のゆるやかな共通フォーマットが統一感を与えている。

 

 

 

2025年9月18日木曜日

市浦健、尾島俊雄、郭茂林、岸田日出刀、高山英華、坪井善勝、西山夘三、浜口隆一、早川和男、林昌二、前川國男、武藤清、山下寿郎:朝日新聞社編:現代日本 朝日人物事典,朝日新聞社, 1990年

 朝日新聞社編:現代日本 朝日人物事典,朝日新聞社, 1990

市浦 健 いちうらけん

 1904.01.241981.XX.XX 日本の公共住宅の設計を主導した建築家。東京都生まれ。1928年東京帝国大学(工学部)を卒業。戦前期には住宅営団にあって、戦後は日本住宅公団を指導する建築家として、日本の住宅問題に取り組んだ。建築の合理化、合理主義の建築を主唱した日本の近代建築のパイオニアのひとりである。昭和初期に、W.グロピウスの提案するトロッケン・モンタージュ・バウ(乾式構造)による組立住宅を逸早く設計、住宅生産の工業化、プレファブ住宅の先駆者でもある。団地やニュウタウンの計画や集合住宅の作品が中心で、公団のY字形の平面をしたスターハウスはその代表作のひとつである。(布野修司)

 

尾島俊雄 おじまとしお

 1937.XX.XX~ 建築学者。都市環境工学。富山県生まれ。1960年早稲田大学(理工学部)を卒業。65年講師、69年助教授を経て、74年早稲田大学教授。建築環境工学の分野から、都市環境そのものを対象とする都市環境工学の分野を切り開いた先駆者として知られる。また、東京の改造計画や地下空間の利用など、都市環境についての積極的提言も行なっている。大都市問題について比較文明論的な視点での研究を展開するなど、都市環境に対するアプローチはグローバルである。大阪万国博、つくば科学博の会場設計、多摩センター地区等の基幹施設の基本設計も手がけている。著書に『熱くなる大都市』、『絵になる都市づくり』、『東京大改造』などがある。(布野修司)

 

郭 茂林 かくもりん

 1921.08.07~  建築家。台北市生まれ。1940年台北工業を卒業。戦後まもなく、東京大学工学部建築学科吉武泰水研究室にあって、「木造総合病院試案」(1950年)、「成 小学校」(51年)、また2DKのモデルとなった「51C型公営住宅標準プラン」(51年)などを設計、公共建築のあり方に大きな影響を与えた。その後、独立し、KMG建築事務所を開設、多くの作品を手掛けている。1962年から1969年まで三井不動産の建築顧問をつとめ、日本最初の超高層建築「霞が関ビル」(1968年)の設計にあたった。また、この作品とともに「新宿三井ビル」(1975)でも日本建築学会賞を授賞している。(布野修司)

 

岸田 日出刀 きしだひでと 

  1899.02.061965.05.03 建築家、芸術院会員。福岡県生まれ。1920年東京帝国大学(工学部)を卒業。1929年に東大教授となり、59年に退官するまで建築界を指導する立場にあって活躍した。前川国男、丹下健三、吉武泰水など多くのすぐれた人材を世に送りだしたことで知られる。代表作は、東大安田講堂(26年)である。また、『オットー・ワグナー』(27年)、『過去の構成』(29年)、『ナチス独逸の建築』(40年)など多数の著作がある。オットー・ワグナーを逸早く日本に紹介し、日本の近代建築を方向づける役割を果たしたことが特筆される。47年から48年にかけて、日本建築学会長を務めた。(布野修司)

 

高山 英華 たかやまえいか   

 1910.XX.XX~  都市計画家。東京生まれ。1934年東京帝国大学(工学部)卒業。助教授を経て、XX年教授、62年に都市工学科を創設し、同学科教授、71年退官まで東京大学にあって、都市計画の分野をリードした。東京大学名誉教授。建築学の分野として都市計画が位置づけられるのは、1930年代以降のことであるが、その先駆けとして活躍した。戦前期には、大同や新京の都市計画など、植民地において、近代的な都市計画のモデルとなる仕事をなしている。「大同都邑計画覚書」、「新京都市計画案覚書」などの論文が残されている。戦後は、各地の復興計画にまず取り組んでいる。その論文「空間計画における時間的問題」は、その指針を与えるものとして評価された。また、その後、首都圏総合計画や新宿副都心の計画や各地のニュータウン計画など、重要な都市計画のほとんどに関わって、都市計画行政を指導してきた。特に、「高蔵寺ニュータウン」の計画においては、日本のニュータウン計画の基本となる理念、手法を提示した。都市計画関連の法制度の制定にも、各種審議員として関わっている。その間、多くの研究者、プランナーを育てている。都市工学科の創設は、その大きな功績である。戦後まもなく結成された(47年)建築運動組織、新建築家集団(NAU)の会長を務めた。また、6567年には、日本建築学会会長を務めている。(布野修司)

 

坪井 善勝 つぼいよしかつ        18

 1907.XX.XX~  建築構造学者。構造デザイナー。東京生まれ。1932年東京帝国大学(工学部)卒業。和歌山県営繕技師、九州大学技師を経て、41年?、東京帝国大学第二工学部教授、XX年、東京大学生産技術研究所教授。

 「矩形板に関する研究」で40年日本建築学会賞授賞。日本のシェル構造研究の第一人者である。また、すぐれた構造デザイナーとして、数々の作品を残している。東京オリンピックの諸施設など、60年代以降、シェル構造の建造物が日本でも数多く実現されるのであるが、その大きな功績とされる。特に、丹下健三との共同設計はよく知られる。「国立屋内総合競技場」、「東京カテドラル」、「万博お祭り広場」など、その主要作品のほとんどに関わっており、作品でも多くの賞を授賞している。

 

西山 夘三 にしやまうぞう

 1911.03.01~  建築学者。住宅問題、住宅・地域・都市計画。大阪生まれ。1933年京都帝国大学(工学部)を卒業。石本建築事務所、住宅営団、京都大学営繕課を経て、46年京都大学助教授、以後京都大学にあって、その庶民住宅に関する研究を基礎に日本の建築界に大きな足跡を残した。京都大学名誉教授。87年日本建築学会大賞授賞。京都大学学生時代のデザム、戦前の青年建築家連盟、戦後の新日本建築家集団(NAU)などを組織し、リードした建築運動家として知られる。また、建築評論に健筆をふるい、その発言は一貫して建築界に大きな影響力をもってきた。著作は、『西山夘三著作集』全四巻、『日本のすまい』全三巻、『日本の住宅問題』、『住み方の記』など多数にのぼる。とりわけ、戦後まもなく書かれた『これからのすまい』は、戦後の日本のすまいのありかたについての大きな指針となった。戦後住居の象徴となったダイニング・キッチンは、その食寝分離論によって生み出されたものである。(布野修司)

 

浜口 隆一 はまぐちりゅういち       

 1916.XX.XX~  建築評論家。東京生まれ。1938年、東京帝国大学(工学部)卒業。3843年、大学院で建築理論、近代建築史を研究、その間、前川國男に師事する。論文「国民建築様式の諸問題」で、評論家としてデビュー。48年、東京大学第二工学部助教授。近代建築の規定をめぐる論争などで建築ジャーナリズムの中心的存在となる。58年に東京大学を退職し、建築評論家としての自立を目指した。戦後を代表とする建築評論家のひとりである。『浜口隆一評論集』など著書、編著は多数。特に、戦後まもなくの『ヒューマニズムの建築ー日本近代建築の反省と展望』は、戦後建築の指針を示す書として広く読まれた。(布野修司)

 

早川 和男 はやかわかずお             

 1931.XX.XX~  建築学者。住宅問題。奈良県生まれ。1955年京都大学(工学部)を卒業。住宅問題、住宅計画の第一人者である西山夘三に師事。日本住宅公団、建設省建築研究所を経て、1978年神戸大学教授。日本住宅会議事務局長。「住宅は人権である」をスローガンに、住宅運動を展開する行動する研究者として知られる。その舌鋒は、政府の住宅政策の無策を追求して激しい。日本住宅会議を設立組織し、インタージャンルな研究活動も展開している。著書は、『空間価値論』、『住宅貧乏物語』、『土地問題の政治経済学』、『日本の住宅革命』、『新・日本住宅物語』など多数。(布野修司)

 

林 昌二 はやししょうじ          18    

 1928.09.23~  建築家。東京生まれ。1953年、東京工業大学(工学部)を卒業。同年より、大手の設計事務所である日建設計に勤務。組織事務所を代表する建築家のひとりとして活躍してきた。建築ジャーナリズムでの発言も多く、現実派のオピニオン・リーダーとしても知られる。1970年代半ば、超高層建築など巨大建築は是か否かという「巨大建築論争」が戦わされるのであるが、「社会が建築をつくる」という立場から、巨大建築擁護の論陣を張った。著書には『建築に失敗する方法』などがある。「ポーラ五反田ビル」(71年)で日本建築学会賞授賞。作品として、「三愛ドリームセンター」(60年)、「パレスサイドビル」(64年)、「日本IBMビル」(71年)、「日本プレスセンタービル」(76年)などがある。(布野修司)

 

前川 国男 まえかわくにお

 1905.05.14198X.04.2X 日本の近代建築を主導した建築家。新潟県生まれ。1928年東京帝国大学(工学部)を卒業。卒業と同時に、パリのル・コルビュジェのアトリエに入所。30年に帰国、A・レイモンド設計事務所に入所、「東京帝室博物館」など数々のコンペ(設計競技)に応募する。日本趣味、東洋趣味を条件とする戦前のコンペに対して、敢然とモダニズムのデザインを提出し続けたその戦いの過程は、日本の近代建築史の有名なエピソードのひとつである。35年、前川國男建築設計事務所を創設、その後、丹下健三、浜口隆一・ミホなど戦後建築を担う人材が入所している。以後、数々の名作を残す。

 工場生産木造組立住宅「プレモス」(46年)そして「紀伊国屋書店」(47年)以降、弟子である丹下健三とともに日本の戦後建築をリードする。「日本相互銀行」(52年)、「神奈川県立図書館・音楽堂」(54年)、「国際文化会館」(55年)、「京都会館」(60年)、「東京文化会館」(61年)、「蛇の目ミシン工業本社ビル」(65年)で日本建築学会賞、「埼玉県立博物館」で日本芸術院賞など多数の授賞作品がある。

 5962年、日本建築家協会の会長を務めるなど、建築家の職能の確立に大きな努力を払い、建築界の不透明な体質に警鐘をならし続けたことで知られる。近代建築家としての矜持を失わなかった建築家である。「国立国会図書館」(6168年)の設計をめぐる著作権問題や皇居前の「東京海上火災ビル」の設計(6574年)をめぐる「美観論争」において、毅然とした態度を貫いたことが多くの作品とともに記憶される。また、大高正人、木村俊彦、鬼頭梓など多くのすぐれた建築家を育てた。(布野修司)

 

武藤 清 むとうきよし                24

 1903.XX.XX1989.XX.XX 日本に超高層建築を可能にした建築構造学者。茨城県生まれ。1925年東京帝国大学(工学部)を卒業。1935年、東京帝国大学教授。1963年、東京大学を退官ののち、鹿島建設副社長、69年、武藤構造力学研究所所長。東京大学名誉教授。国際地震工学会名誉会長、日本建築学会名誉会員、日本土質工学会名誉会員。日本建築学会会長をはじめ、数多くの役職を歴任した。64年、日本学士院恩賜賞、XX年、文化勲章授賞。日本の耐震構造学の重鎮である。

 戦前より、建築構造学の分野を先導し、耐震構造学の体系を作り上げた。戦前期には剛構造論者として、柔構造論を退けたが、戦後、コンピューター技術の導入とともに動的解析法による耐震設計の技術を確立、地震国日本でも、柔構造による超高層建築が可能となることを明らかにした。それをもとに、63年、建築基準法の建物の高さ制限が撤廃され、68年、霞ヶ関ビルの竣工をみることになった。(布野修司)

 

山下 寿郎 やましたとしろう

 1888.04.021983.02.02 建築家。山形県生まれ。1912年東京帝国大学(工学部)を卒業。三菱合資会社地所部、芝浦製作所建築部、三井合名会社建築事務部を経て、29年、山下設計を設立。2047年、東京帝国大学講師。4951年、日本建築士会会長。5556年、日本建築設計管理協会会長。75年、全国建築士事務所協会連合会会長。日本建築学会名誉会員。戦前期から一貫して設計事務所を経営、山下設計を日本でも有数の建築設計事務所に育て上げた。また、建築界の要職を歴任し、建築家の職能の確立に務めた。作品としては、「霞ヶ関ビル」、「NHK内幸町」、「三和銀行」など多数がある。(布野修司)

 


2025年9月12日金曜日

2025年7月19日土曜日

コミュニティ・アーキテクト、アーキテクト・ビルダー、そして地域建築工房の行方? Whereabouts?: Communiti Architect, Architect Builder, Architectural Studio in the Region 五十嵐太郎編『地方で建築を仕事にする 日常に目を開き、耳を澄ます人たち』学芸出版社、2016年9月5日

 『建築討論』011号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 書評, 11号:2017号(1-3月)

 

Book Review

コミュニティ・アーキテクト、アーキテクト・ビルダー、そして地域建築工房の行方?

Whereabouts?: Communiti Architect, Architect Builder, Architectural Studio in the Region

五十嵐太郎編『地方で建築を仕事にする 日常に目を開き、耳を澄ます人たち』学芸出版社、201695

 

編者である五十嵐太郎が冒頭の短い「まえがき」に書いているけれど、「メディアはほとんど東京一極集中である」。五十嵐は、東京で建築を学んだけれど、名古屋で3年、仙台で11年教鞭をとることで「日本地図の見え方が大きく変わった」、「3.11の後、東京の建築家の支援プロジェクトはメディアで華々しく紹介されるのに、地元だからこそできる現地の建築家の粘り強く、手厚い行動がほとんどとりあげられない状況」に疑問を抱いた、という。出雲で18年、東京で22年、京都・滋賀で24年居を構え、アジアを飛び回ってきた僕も、かねがねそう思っている。このITCの時代にと思うけれど、メディアの視点が東京に据えられ、そこから発信されているのだから構造はかわらない。

かく言う『建築討論』も日本建築学会のメディアということで敷居が高い、と思う。双方向のメディアを目指しているけれど、わざわざ投稿して、あれこれ東京(中央)目線で批評されるのはたまったものじゃない。実は、各地に50人ほどのレポーターをお願いしているのだけれど、忙しい時間を使って、レポートをするのは相当エネルギーがかかる。ただ、『建築討論』には、最低限、活動や議論を半永久的に記録するアーカイブ機能がある。本書のような原稿が積み重ねられればいいなあと、初心を確認した次第である。姉妹編である、前田茂樹編著『海外で建築を仕事にする』、福岡孝則編著『海外で建築を仕事にする2』も、本メディアにも欲しい企画である。編集者の視点には大いに共感するところである。

 

 本書には1615組の仕事がそれぞれ自身によって綴られている。ただそれだけである、と言えば、それだけである。編者によって、それぞれの仕事が比較されたり、ランク付けされたり、あるフレームの中に位置づけられたりするわけではない。「互いに切磋琢磨し、知見を蓄積・共有し、向上していくために、批評や評価基準が必要になるだろう。この本がその足掛かりになれば、幸いである。」、「建築の空間体験や周辺の環境は、メディア向けの写真だけではすべて伝わらないし、また建築家のはなしを聞いてみないとわからないことが少なくない」、「日本全国津々浦々に、彼らのような建築家が増えたら未来はそう悪くないかもしれない」というだけである。

 

 

 本書を僕に紹介してくれたのは執筆者の一人である魚谷繁礼である。京都大学布野研究室出身で学生の頃から知っていて、今でもフノーゲルズのメンバーだから、A-Cupで毎年顔を合わせてもいる。守山市立図書館(隈研吾設計)の建設委員会の機会に京都五条の事務所を訪問、「ところでどんな仕事をしているの」と聞いたら、いささかムッとした顔で「これ読んでください」と差し出されたのが本書であった。タイトルが「特殊解ではない、社会的な提案を孕む建築」とやけに力みかえっている。いかにも布野研らしいと苦笑いしたが、13年の真摯な京都での取り組みがよくわかる。京都を拠点とする布野研出身の建築家としては、魚谷繁礼のパートナーである正岡みわ子の他、森田一弥、岩崎泰、山本麻子(アルファヴィル、竹口健太郎と共同主催)などもいる。

京都コミュニティ・デザイン・リーグ(CDL)、近江環人コミュニティ・アーキテクトなどで、地域を拠点とする建築家のあり方を考えてきたから、また、若い人の仕事を知りたいと思っているから、本書は願ったり叶ったりであった。引き込まれるように読んだ。面識があったのは、魚谷の他、最年長の芳賀沼整、最年少の辻琢磨、合わせて3人であった。

それぞれの仕事については、是非、本書を手に取ってもらいたい。それぞれに魅力的で可能性に満ちた仕事ぶりである。

ひとつ感じるのは、学んだ研究室(指導教官)、修行を積んだ場所のもつ力が大きい、ということである。もちろん、建築という制度的な枠組みを前提とした話ではない。「建築学」や「建築学科」がすぐれた建築家を育てるわけではない。結局は「建築家」になりたいという本人の意志が重要だということであるが、それを受け止める人、そして場所、環境が大きいということである。片岡八重子の場合、短大を卒業して不動産建設会社に就職し、大学の夜間に編入学、卒業して一級建築士の資格を取り、生まれ故郷とは別の地域に腰を据えて活動する。ものすごいエネルギーだと思う。

 

佐藤欣裕も、野球部で練習に明け暮れ「建築のまとまった建築の勉強をしていない」。祖父が大工で、父が工務店をしていたという環境が大きいというべきか。佐々木徳貢著『バウビオロギー 新しいエコロジー建築の流れ』という一冊の本が方向を導いたというのもドラマチックである。島津臣志もサッカーに明け暮れていたというが、現場で育ったといえるだろうか。徳島唯一の2500人の村を拠点とするのも、僕らに勇気がもらえる。将来の展開が楽しみである。兵庫生まれで、彼について沖縄にわたった蒲池史子は未だ修行中といえるだろうか。しかし、西山夘三とか清家清とかいう名前が出てくるのはタダモノではない。水野太史の場合、建築学科に入学したけれど、休学していきなり設計を始めたのだから、ほとんど独学といってもいい。その力技には感心する。蟻塚学にしても、専らアトリエ事務所のオープンデスクで育ったと言えるのではないか。東京で建物を100個設計するより、青森で100個設計する方が意義は大きい、というのもその通りである。

「建築」の雰囲気のなかで育つという意味では、水谷元もそうである。父は水谷穎介。本書で知って感慨深かった。僕は1991に京都大学に赴任したのであるが、その晩年、渡辺豊和さんと一緒に何度か大阪で酒席をともにしたことがある。大学の建築学科は中退したというが、息子が建築家となり、水谷スクールがそれを見守るというのはいい構図である。能古島を拠点にするのもそれらしい。島といい、村といい、離島寒村での「建築家」のあり方に、原初の「建築家」を見たいと思う。

父親が温泉を掘り当てたという岡昇平も、土木学科を卒業した上で建築を目指した変わり種と言えば変わり種である。まちぐるみ旅館にしよう、という発想が面白い。それに生まれ故郷で「にやにやしながら暮らす」というのがいい。

辻琢磨は「僕が浜松から学んだこと」というが、地域に学ぶ、現場に学ぶ、そして育つというのが共通であろうか。

 

もうひとつ思うのは、おそらく編集の視点がそうだからだと思うけれど、女性と地域社会との関係、夫婦ペアの協力関係が鍵になっているということである。片岡八重子がまさにそうであるが、東京のスター建築家の事務所から札幌に転じた丸田絢子の場合、「気鋭の若手として、メディアでも取り上げられる存在だったのに」、友達一人いないところから出発せざるを得なかった、地域との関係が深まっていくその過程がたくましい。「型」を学んで「型」を破るという、あらたな方向も見定められつつある。齊田武亨・本瀬あゆみのコンビは2拠点をうたう「カッコいい」スタイルである。しかも、女性が東京にいて男性が地方にいるパターンである。岩月美穂は共に学びともにスターアーキテクトのアトリエでともに働いたパートナー栗原健太郎と共同事務所を経営するが、拠点とするのは岩月の生まれ育った町である。芳賀沼整の「はりゅうウッドスタジオ」で修行したという藤野高志は地元の高崎に帰って独立したけれど、ぽっかり仕事がなくなって離婚もしたという。

要するに、家族のあり方、地域との関係のあり方が「建築家」としての生き方として問われるのであり、それをそれぞれに語るのが本書である。

書き起こす時、何をしているか、から始まって、一枚の風景写真が差しはさまれる、編集のゆるやかな共通フォーマットが統一感を与えている。

 

 

 

2025年5月21日水曜日

伊東豊雄はどこへ行く? 書評/伊東豊雄 『日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む』 PHP新書 (2016年11月29日)伊東豊雄はどこへ行く? 2017/02/14 | WEB版『建築討論』, 011号:2017年春(1月ー3月)http://touron.aij.or.jp/2017/02/3548

 『建築討論』011号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 |  | 書評, 011号:2017年冬号(01-03月)

 

Book Review

伊東豊雄はどこへ行く?

Where Toyoo Ito is going?

伊東豊雄『日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む』PHP新書、20161129

 

 

台中国家歌劇院が10年がかりで竣工した。仙台で開催された第11アジアの建築交流国際シンポジウムISAIAInternational Symposium on Architectural Interchange in Asia)(東北大学、2016920日~23日)の基調講演の中で本人自らの説明を聞いた。現場の大変さを聞いていたのであるが、よくぞ竣工にこぎつけたと思う。この見たことのない傑作は21世紀の名建築として歴史に残ることであろう。

東日本大震災後、被災地に何度も通って「みんなの家」を被災地に建てた。そして、2012年開催の第13ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に、陸前高田の「みんなの家」を出展、金獅子賞を受けた。そして、プリツカー賞も受賞した(2013年)。さらに、新国立競技場の設計競技については結果的に3度挑戦し敗れた。この間、日本の建築界の中心にいて、その一挙手一投足が注目される建築家が伊東豊雄である。

そんな伊東豊雄が2016年に立て続けに新書を出した。本書と『「建築」で社会を変える』(集英社新書、20169月)である。東日本大震災直後の『あの日からの建築』(集英社新書、201210月)と合わせると、立て続けに3冊の新書が出版されたことになる。いずれも、インタビューをもとに、編集者、企画者がまとめるスタイルである。本書のタイトル、「日本語の建築」「空間にひらがなの流動感を生む」という方向性は必ずしも詳述されるわけではない従って、伊東豊雄のこれまでの『風の変容体』『透層する建築』のような建築論を期待して読むと裏切られるが、この一連の新書から、伊東豊雄がこの間何をどう考えて、何をしてきたのか、建築家としてのある着地点に向かいつつあることを知ることができる。

  

「壁、壁、壁…。前を向いても後ろを振り返っても、右も左も壁ばかり。渡る世間は壁ばかりです。」と本書は書きだされる。壁とは、例えば、巨大な防潮堤で、「安全・安心」の壁が実は「管理」という壁と同義語で、お上が自分の管理責任を問われるときに必ず持ち出されるのが「安全・安心」の壁だという。本書は、プロジェクト毎に出会う「壁」についての物語である。

まず興味深いのは、第一章「新国立劇場三連敗」である。3連敗とは、最初のプロポーザルコンペで負けたこと、また、ザハ案への反対運動の過程で自ら提案した改修案が採用されなかったこと、さらにデザイン・ビルド方式に応募(B案)で敗れたこと、の3連敗である。

新国立競技場をめぐる問題が、建築界で深く受け止めるべき問題を孕んでいることはこの間様々な場所で議論されてきた。このWEB版『建築討論』でもまず「デザイン・ビルド方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/04/1827、そして「契約方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/09/2643をめぐって議論がなされている。設計施工の分離を前提とした建築家の基盤が大きく揺らぎ、設計者、施工者、そしてクライアントの関係が複雑に変化し多様化していることが確認される。ただ、建築の契約発注について、また、建築家が果たすべき役割について、必ずしも建築界が一致する方向性は必ずしも見いだせていない。

新国立競技場のコンペについては、歴史的、構造的な問題が露呈しているといっていい。別の場所でじっくり議論したいと思うが、しかしそれにしても、何故、伊東豊雄はデザイン・ビルドのコンペに応募したのか。本書を読んで初めて知ったのであるが、様々な柵(しがらみ)の中で頼み込まれたのではなく(A案一案だけではコンペが成立しないから)、コンペへの応募は伊東豊雄の方からもちかけたのだという。というのも、『あの日からの建築』において、あるいは本書においても、東京(都市)から地方へ、あるいは「新しさ」から「みんなの家」へ、自らの建築家としての方向を大きく転換したと思われているからである。その伊東が、東京のど真ん中の国家的プロジェクトに自ら挑む構図がしっくりこないのである。

伊東豊雄は、自らの案がすぐれていると、公表された点数の問題に絞って疑問を提示するが、新国立競技場のコンペの問題は点数制による評価方法を問う以前にある。コンペのフレームすなわち敷かれたレールがそもそも問題であって、敷かれたルールに乗って戦って負けたということである。結果として、ルールに従って選定しましたというアリバイづくりに参加することになった。「壁」をカムフラージュし、補強する役割である。

結局、何故、3回目の戦いに参加したのかについては、「建築に携わろうと思ったら、大手の組織系事務所に入るしかない」状況の中で「個人の建築家としてどこまでできるのかチャレンジしてみたいと思った「若い人に知ってほしかった」」というだけである。

この間の伊東豊雄の「転向」をめぐっては飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社、2014年)の厳しい批判があり、この書評欄でもとりあげた(「21世紀の資本と未来」https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/syohyou001.html)。繰り返しは控えたいが、飯島は、東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」、「自己批判」、すなわち、「個の表現」「作品」としての建築を否定し「社会性」を重視する方向をよしとしながら、その「作品主義」「ブランド建築家」の本質は変わらないと批判する。そして、コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の態度も一貫性に欠けると批判する。飯島に言わせれば、白紙撤回後のデザイン・ビルド・コンペに参加することなどもっての他ということであろう。

「仙台メディアテーク」までの伊東豊雄の建築論の展開をめぐっては、『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(彰国社、2011年)で論じたが(「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」)、確かに、状況に応じて状況と渡り合うその言説にはブレがある。それに付け加えることはないが、しかしそれにしても、東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との間のブレ、落差は、それ以前のブレに比べて極めて大きい。ひたすら「新しいかたち」を求めてきた(「かたちの永久革命」)伊東がコミュニティ・ベースの「みんなの家」を提案するのである。

それに既存施設の改修案を提示しながらデザイン・ビルドの新築案に応募するのは明らかに首尾一貫しない。伊東に言わせれば、条件が違うのだから案が異なるのは当然ということであろうが、飯島ならずとも、戸惑わざるを得ない。

しかも、『あの日からの建築』で語った新たな建築の方向については、結局「みんなの家」しかつくれなかったと伊東豊雄はいう(第二章「管理」と「経済」の高く厚い壁 東日本大震災と「みんなの家」)。この言い方もいささか気になる。「今後、被災各地の復興は困難をきわめるだろう。安全で美しい街が五年十年で実現するとは到底思われない。しかし東京のような近代都市の向こう側に見えてくる未来の街の萌芽は確実にここにある。」と書いていたのである。釜石復興プロジェクトは挫折したという。しかし、一体何をつくりたかったのか。『「建築」で日本を変える』と言うのである。

結局、「管理」と「経済」を大きな二つの壁とする近代主義に凝り固まった思考と態度に拒まれたというけれど、何が阻まれたのか。

その昔、「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(197577年)のコア・スタッフとして毎月のように集まっていた頃を思い出す。伊東豊雄をトップに,長尾重武[1],富永譲[2],北原理雄[3],八束はじめ[4],布野修司というのがメンバーであった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[5]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていた。「アルミの家」によってデビューはしていたけれど、その時点で「中野本町の家」はまだ実現はしていない。近代建築批判をどう建築表現として展開するのか、口角泡を飛ばして議論したものである。結局、振出しに戻ったということなのか?出発点にとどまっているだけなのか、何ができて何ができなかったのか。

伊東豊雄は、第三章「「時代」から「場所」へ」で、これまでの自らの軌跡を素直に振り返っている。「社会に背をむけた1970年代」から「消費の海に浸らずして新しい建築はない」といっていた時代へ、そして、「八代博物館・未来の森ミュージアム」以降、公共建築の展開がある。建築家として自作を語るというより、時代の流れとの対応が語られる。インタビュアーとの応答がベースになっているからであるが、もともと伊東豊雄は「状況」に敏感な建築家である。自ら振り返って、はっきりと「バブルの時代の東京が一番好きでした」ともいっている。そして「仙台メディアテーク」以降は、地域や場所に密着した建築を強く意識するようになるのである。

1970年代初頭、近代建築批判の流れはいくつかの方向に向かう。わかりやすいのは、近代建築の理念や規範が排除してきたもの、否定してきたものを復権することである。装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統などが次々と対置された。そして、それぞれがデザインの問題と競われることにおいてポストモダンの建築として一括されることになる。様々な記号やイコンや装飾が浮遊するポストモダンの建築状況は、あらゆる差異が無差異化され同一平面上に並べられることによって消費される消費社会の神話の構造と照応していた。そうした中で、常に何か新しさを求めてきたのが伊東豊雄である。だから、装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統を対置する構えはなかった。その伊東が「地域」や「場所」へ向かうというのである。

 鍵となりそうなのが「日本語の建築」であり、「ひらがなの流動感」だという。もちろん、「日本の伝統的な建築様式に戻ればいいと考えているわけではない」。「歴史や風土を踏まえたうえで、現代のテクノロジーを駆使して未来を見据えた建築のあり様をみつけ出したい」「アジアの建築家として、日本人の建築家として、一つ見えてくる道筋の先に、「日本語の空間」「日本語の建築」というあり方が存在するのではないかと考えるようになった」(序章)というのである。

「日本語の建築」というのは本書で突き詰められているわけではない。枕としてひかれているのは水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)である。これについては、「建築討論」02号「日本建築の滅びる時」宇野求・布野修司対談https://www.aij.or.jp/jpn/touron/2gou/jihyou003.html で話題にしている)が、世界語、国際語としての英語と日本語、近代建築と日本建築という単純なディコトミーに基づいて日本を対置するというのだとすれば、よくある日本回帰のパターンである。辛うじて理解するのは、「壁」によって空間を区切ってしまうのではなく、空間の連続性を保ちながら、空間に場所の違いを生み出す、壁を建てない、区切られた部屋を極力つくらない、自然の中にいるような建築、具体的には「せんだいメディアテーク」の「チューブ」や「みんなの森ぎふメディアコスモス」の「グルーブ」、振り返れば「中野本町の家」のような空間がその方向だという。


 建築の壁と「渡る世間は壁ばかり」という「壁」はもちろん違う。壁を取っ払えばいい、というわけではないだろう。近代建築批判が単にデザインの問題ではないことは最初からわかりきったことである。この「日本語の建築」は社会的な「壁」の問題にどう重なるのか。

 『「建築」で日本を変える』のあとがきに書かれているけれど、伊東豊雄は、2014年の秋から4カ月間病院生活を送っている[6]。この4カ月の膨大な時間にこれまでにつくってきた建築のこと、そしてこれからの自分の人生の過ごし方について考えたのだという。

 結局は、自らの生き方として示すしかない、ということではないか。「作品」とか「個」の表現とかを突き抜けた地平で、依拠する場所を決めたということである。そうだとすれば、伊東豊雄は変わった、あるいは着地点を見出したのである。

 最終的に行きつきつつあるのは大三島である。残された建築人生を大三島での活動に懸けたいという。伊東建築塾も大三島で行われる。大三島には土地も買った。ル・コルビュジェが晩年、モナコ近くの海辺に小屋を建て、のんびり裸で絵をかきながら過ごしたというエピソードにわが身も重ねるともいう。

 そうした中で、熊本大地震が起こった(20164月)。熊本アートポリスのコミッショナーとしては動かざるを得ない。大三島を拠点としながらもまだまだ世界中を股にかけざるを得ないかもしれない。

 しかしそれにしても、伊東豊雄のように「壁」と格闘する建築家が群雄割拠しないといけないのではないか。



[1] 1944年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業,東京大学大学院博士課程単位取得満期退学,工学博士(東京大学)。7283年東京大学助手。7778年イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。'8388年東北工業大学助教授。武蔵野美術大学教授,学長。作品に「国分寺の家」(1976年)「天日向家船」(1996年)など。著書に『ミケランジェロのローマ』(1988年)『ローマ・バロックの劇場都市』(1993年)『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1994年)『ローマイメージの中の永遠の都』(1997年)など。詩集に『きみといた朝』(2000年)『四季・四時』(2002年)『愛にかんする季節のソネット』(2002年)。

[2] 1943 台北市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。1967年~1972菊竹清訓建築設計事務所。1972年富永讓+フォルムシステム設計研究所設立。法政大学名誉教授。「ひらたタウンセンター」で日本建築学会賞(2003年)。著作に『現代建築 空間と方法』(1986年)『近代建築の空間再読』(1986年)『ル・コルビュジエ 建築の詩』(2003年)『現代建築解体新書』(2007年)など。

[3] 1947年横浜生まれ。1970年東京大学工学部都市工学科卒業。1977年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。名古屋大学工学部助手,三重大学工学部助教授を経て1990年千葉大学工学部教授。千葉大学名誉教授。『都市設計』(「新建築学大系」一七,共著,彰国社,1983年)『公共空間の活用と賑わいまちづくり』(共著,学芸出版社,2007年)など。訳書に『アーバン・ゲーム』(M.ケンツレン),『都市の景観』(G.カレン)など。

[4] 1948年山形県生まれ。建築家、建築批評家。1979年東京大学都市工学科博士課程中退,磯崎新アトリエ(担当作品ロスアンゼルス現代美術館,筑波センタービル等)を経て1985UPM(Urban Project Machine)設立。1988年熊本アートポリスのディクレクター。芝浦工業大学教授、芝浦工業大学名誉教授。作品に「白石マルチメディアセンターアテネ」(1997年)「美里町文化交流センター「ひびき」」(2002年)など。著作に『逃走するバベル 建築・革命・消費』(1982年)『批評としての建築 現代建築の読みかた』(1985年)『近代建築のアポリア 転向建築論序説』(1986年)『ロシア・アヴァンギャルド建築』(1993年)『思想としての日本近代建築』(2005年)など。

[5] 1931年生まれ。早稲田大学文学部卒業。建築ジャーナリスト。1960年彰国社入社。『建築文化』編集担当,『施工』創刊編集長を経て,1970年『建築文化』編集長(企画室長の任期を挟んで82年まで)。著書に『この先の建築』『建築の向こう側』(2003年)など。

[6] 実は、丁度その期間に滋賀県新生美術館のコンペがあり、伊東さんが選考委員会に一度も出席できず、僕は審査委員長として2段階の公開ヒヤリング方式を実現するのに孤軍奮闘することになった。この公開ヒヤリングによるコンペ方式を僕は20年前から続けているのだが、新国立競技場も何故透明性の高いコンペ方式がとられなかったのか、その組み立てにそもそも疑念がある。点数制の問題も新生美術館でも当然問題になった。

2025年5月8日木曜日

裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説, おわりに・・・まちづくりの仕掛け人、建築資料研究社,2000年3月10日

 おわりに・・・まちづくりの仕掛け人

 

 各地でユニークなまちづくりが展開されている。ユニークなまちづくりには必ず仕掛け人がいる。この仕掛け人こそタウン・アーキテクトと呼ぶに相応しい。

 まちづくりのためには、まずは人を束ねる能力が必要である。仕掛け人は、しばしば、まちのありかたについて自由に討議する場のオルガナイザー(組織者)である。あるいはアジテーター(主唱者)である。あるいはコーディネーター(調整者)である。時にアドヴォケイター(代弁者)でもある。要するに、まちづくりを推進する仕組みや場の提案者であり、その実践者が本来のタウン・アーキテクトである。

 仕掛け人には、全体を見渡す視野の広さ、バランス感覚もいる。わがままで、特定の集団や地域のためにのみ行動するタイプは相応しくない。まちのあり方とその将来を的確に把握する見識が必要である。そうでなければ人を束ねることはできない。

 そうした意味では、タウン・アーキテクトはもちろん「建築家」である必要はない。まちづくりを仕掛ける誰もがタウン・アーキテクトでありうる。タウン・アーキテクトは、まちのすべての問題に関わって、その方向を示す役割を担う

 自治体が本来的に機能しているのだとすれば、その首長こそタウン・アーキテクトに相応しい。しかし、地方自治体とその行政システムは必ずしも、活き活きと機能していない。だからこそ、さまざまな仕掛け人が必要とされ、様々なまちづくりの試みが現れてきたのである。各地で、それぞれ独自のまちづくりの仕組みがつくられること、それが本論の前提である。

 本書では、いささか「建築家」に拘ってみた。「建築家」こそタウン・アーキテクトとしての役割を果たすべきだという思いがある。様々な条件をまとめあげる、そうしたトレーニングを受け、その能力に長けているのが「建築家」である(筈だ)。また、「建築家」は直接まちの姿(景観)に関わっている。まちづくりの質はまちのかたちに究極的には表現されるのである。 

 素直に「建築家」を考えてみよう。そもそも誰もが「建築家」でありうる。身近な「建物」に関することには全てが「建築家」に関わっている。例えば、誰でもどこかに住んでいる。大邸宅であろうとアパートであろうと(場合によると地下のコンコースや公園のような場所でも)寝起きする場所が誰にも必要だ。何処に住むか、そしてどのような住宅に住むか(住むためにどのようなシェルター(覆い)が必要か)は誰にとっても、生きていく上での大問題である。どういう住宅を建てるかが「建築家」の仕事であるとすれば、誰もが「建築家」なのである。事実、昔は、誰もが自分で自分の家を建てた。現在でも、世界を見渡せば、自分で自分の家を建てる人たちの方が多い。

 住宅に限らない。工場だろうが事務所であろうが同じである。特に、美術館や図書館、学校や病院などの誰もが利用する公共建築は、誰もが関わっている。それぞれ各人の無数の建設活動が集積することによって都市は成り立っている。都市は、だから、それぞれ「建築家」であるわれわれの作品である。

 もちろん、自分一人で「建物」を建てるのは大変である。今日、誰もが自分の手で「建物」をつくれるわけではない。だから、みんなに手伝ってもらう。また、大工さんなど「職人」さんに頼む。「建物」を建てるのにも、得手不得手があるのである。専門分化が進み、「建築」のことは「建築家」に依頼する、のが一般的である。

 しかし、「建築家」は、果たして、市民のために市民に代わって、うちを建て、様々な施設を建て、まちをつくる、そうしたプロフェッションとしての役割を果たしているだろうか。本書全体がつきつけるのは巨大な疑問符である。そしてその疑問符に答える方向性を提示するのが本書である。

 本書において残された議論は多いが、「建築家」の本来のあり方を考える材料が提供できたとすればまずはよしとしたい。問題は新たな活き活きした仕組みが日本の風土に根付くことである。

 

 本書はこれまで書いてきたいくつかの文章を元にしている。しかし、基本的には書き下ろしとして大幅に手を入れた。議論は荒削りではあるが、敢えて無防備に投げ出したい。大きな議論と小さなひとつの運動が開始されることを願う。


タウンアーキテクト論序説・・・建築家の居る場所 まちづくりの仕掛け人

 

目次                                                       

 

はじめに・・・裸の建築家

 

 Ⅰ 砂上の楼閣

 

◎第1章 戦後建築の五〇年                        

  1-1 建築家の責任

  1-2 変わらぬ構造

    a 都市計画の非体系性

    b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

    c 都市計画の事業手法と地域分断

  1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓

    a 自然の力・・・地域の生態バランス

    b フロンティア拡大の論理

    c 多極分散構造

    d 公的空間の貧困 

    e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割

    f ストック再生の技術

    j 都市の記憶

 

◎第2章 何より曖昧な建築界

  2-1 頼りない建築家

  2-2 違反建築

  2-3 都市景観の混沌

  2-4 計画主体の分裂

  2-5 「市民」の沈黙

 

 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能          

◎第3章 幻の「建築家」像                    

  3-1 公取問題                      

  3-2 日本建築家協会と「建築家」

  3-3 日本建築士会            

  3-4 幻の「建築士法」   

   3-5 一九五〇年「建築士法」

   3-6 芸術かウサギ小屋か

 

◎第4章 建築家の社会的基盤

  4-1 日本の「建築家」

  4-2 デミウルゴス 

  4-3 アーキテクトの誕生

  4-4 分裂する「建築家」像

   4-5 RIBA

  4-6 建築家の資格

  4-7 建築家の団体

    4-8 建築学科と職人大学

 

 Ⅲ 建築家と都市計画   

 

○第5章 近代日本の建築家と都市計画     

  5-1 社会改良家としての建築家

   5-2 近代日本の都市計画

  5-3 虚構のアーバンデザイン

  5-4 ポストモダンの都市論

  5-5 都市計画という妖怪 

  5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

  5-7 計画概念の崩壊

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 

○第6章 建築家とまちづくり

  6-1 ハウジング計画ユニオン(HPU)

  6-2 地域住宅(HOPE)計画

  6-3 保存修景計画

  6-4 京町家再生論

  6-5 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

  6-5 X地区のまちづくり

 

 

 Ⅳ タウン・アーキテクトの可能性

 

○第7章 建築家捜し                                           

  7-1 「建築家」とは何か

  7-2 落ちぶれたミケランジェロ

  7-3 建築士=工学士+美術士

  7-4 重層する差別の体系

  7-5 「建築家」の諸類型

  7-6 ありうべき建築家像

  

○第8章 タウン・アーキテクトの仕事

  8-1 アーバン・アーキテクト

    a  マスター・アーキテクト

    b  インスペクター

    c  環境デザイナー登録制度 

  8-2 景観デザイン 

    a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

    b 景観のダイナミズム    

    c 景観マニュアル

    d 景観条例・・・法的根拠

  8-3 タウン・アーキテクトの原型 

    a 建築主事

    b デザイン・コーディネーター

    c コミッショナー・システム

    d シュタット・アルシテクト

    e コンサルタント・・・NPO

  8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

    a 情報公開

    b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

    c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

    d 百年計画委員会

    e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

    f タウン・アーキテクトの仕事

  8-5 京都デザインリーグ

 

 おわりに


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...