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2024年12月21日土曜日

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,解説、而立書房,1996年10月

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,199610



解説

         

 一九三〇年四月、コルビュジェのアトリエでの満二年の留学を終えて帰国した前川國男は、八月、A・レーモンド設計事務所に入所する。二五歳であった。入所前、「明治製菓」の公開設計競技(コンペ)に一等当選。建築家としてのデビューを果たす。一二月、「第2回新建築思潮講演会」に招かれ、「3+3+3=3×3」と題した講演を行う(『国際建築』 一九三〇年一二月)。前川國男の最初の公的発言の記録である。そして、次の年、「東京帝室博物館」公開コンペに敗れ、最初の文章「敗ければ賊軍」(『国際建築』 一九三一年六月号)が書かれる。「日本趣味」、「東洋趣味」を基調とすることを規定した戦前期の数々のコンペに敢然と近代建築の理念を掲げて戦いを挑み続けた前川國男の「華麗な」軌跡の出発を象徴する文章である。

 前川國男が本格的に建築家としての活動を開始する一九三〇年は日本の近代建築の歴史にとって記憶さるべき年である。まず、近代建築運動史に記憶される、新興建築家連盟の結成、即崩壊という事件がある。また、鉄筋コンクリート造、鉄骨造の構造基準及び共通仕様書が整備されるのが一九三〇年である。近代建築展開の技術的基盤は既に用意されていた。一九三〇年代後半には、「白い家」と呼ばれるフラットルーフの四角い箱型の住宅作品が現れ、日本への近代建築理念の定着が確認されるのであるが、まさにその過程とともに前川は活動を開始したのであった。そしてまた、それは、新興建築家連盟の結成、即崩壊という日本の近代建築運動の挫折あるいは屈折を出発時点において予めはらんだ過程でもあった。

 日本の近代建築運動は、一九二〇年の日本分離派建築会(堀口捨己、石本喜久治、山田守、森田慶一、滝沢真弓)の結成に始まるとされる。前川國男が一五歳の年だ。逓信省の下級技師を中心とする創宇社(山口文象、海老原一郎、竹村新太郎ら)の結成(一九二三年)が続き、メテオール(今井兼二ら)、ラトー(岸田日出刀ら)といった小会派が相次いで結成された。その様々な運動グループの流れを一括して、いわば大同団結しようとしたのが新興建築家連盟である。

  新興建築家連盟の結成の中核となったのは創宇社のグループである。分離派のいわば弟分として出発した創宇社は、当初、展覧会など分離派と同じスタイルで活動を展開するのであるが、やがて、その方向を転換させる。いわゆる、「創宇社の左旋回」である。分離派のメンバーが東京帝国大学出身のエリートであったのに対して、逓信省の下級技師を中心とした創宇社メンバーは、「階級意識に目覚め」、社会主義運動への傾斜を強めるのである。無料診療所、労働者住宅といったテーマのプロジェクトにその意識変化を見ることができるとされる。

 前川國男が東京帝国大学工学部建築学科に入学した一九二五年、治安維持法が公布され、卒業してシベリア鉄道経由でパリへ向かった一九二八年三月、共産党員の大量検挙、三・一五事件が起こっている。騒然とする時代の雰囲気の中で、創宇社は第一回新建築思潮講演会を開く(一九二八年一〇月)。創宇社は、分離派に対して距離をとり、その芸術至上主義を批判する。それを明確に示すのが、谷口吉郎の「分離派建築批判」(一九二八年)である。谷口吉郎は、市浦健、横山不学らとともに前川國男のクラスメイトであった。

 しかし、時代は必ずしも若い世代のものとはならない。一九三〇年一〇月結成された新興建築家連盟は、わずか二ケ月で活動を停止したのである。読売新聞の「建築で「赤宣伝」」の記事(一二月一四日)がきっかけである。こうして、戦前期における日本の建築運動はあえなく幕を閉じたのであった。デザム、建築科学研究会、青年建築家連盟等々小会派の運動は続けられるのであるが、建築界の大きな流れとはならない。また、日本建築工作連盟も組織されるのであるが、翼賛体制のなかで全く質を異にする団体であった。

 そうした過程で、前川國男は、A.レーモンド事務所での仕事の傍ら、設計競技を表現のメディアとして選択する。既に、パリのコルビュジェのもとから、「名古屋市庁舎」のコンペ(一九二九年)に応募していたのであるが、全てのコンペに応募するというのが選びとった方針である。「執務に縛られた」建築家にとって「設計競技は今日のところ唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識が前川にはあった。

 「東京帝室博物館」以降も、「明治製菓銀座店」(一等入選 一九三二年)、「第一相互生命館」(落選 一九三三年)、「東京市庁舎」(三等入選 一九三四年)と続いたコンペへの参加は、A.レーモンドと衝突して独立した一九三五年以降も初志一貫して続けられる。そして、「在盤谷日本文化会館」公開コンペ(一九四三年)において、前川國男ははじめて寝殿造の伝統様式を汲む大屋根を採用するに到る。「東京帝室博物館」以降、日本的な表現、いわゆる「帝冠併合様式」に抵抗し続けてきて、ついに前川は挫折した。「在盤谷日本文化会館」案は、前川國男の転向声明である、というのが一般的な評価である。

 こうして、戦前期における日本の近代建築の歴史は、「日本的なるもの」あるいは日本の伝統様式、「帝冠併合様式」あるいは様式折衷主義に対する果敢な闘争そして挫折という前川國男のコンペの歴史を軸にして、わかりやすい見取り図として既に書かれている。ひとつの神話となっているといってもいい。しかし、その挫折の様相は、前川國男のテキストに即して掘り下げられる必要がある。

 前川國男の二五歳から四〇歳に当たる一五年戦争期は、激動の時代である。前川國男建築設計事務所の設立以降、日中戦争の全面化とともにとともに仕事は大陸で展開されるようになる。「大連市公会堂」公開コンペ(一等、三等入選)が一九三八年、一九三八年八月には上海分室が、一九四二年には奉天分室が開設される。

 一方、この間、丹下健三、浜口ミホ、浜口隆一が入所、戦後建築の出発を用意する人材が入所する。前川國男の引力圏の中で、「大東亜建設記念営造計画」(一九四二年)、「在盤谷日本文化会館」に相次いで一等当選した丹下健三の鮮烈なデビューがあり、浜口隆一の大論文「日本国民建築様式の問題」(一九四四年)書かれた。

 一九四五年、五月二五日、空襲で事務所も自宅も焼失する。設計図や写真等一切の記録を失って前川國男は敗戦を迎えることになる。

 

         

 敗戦直後、結婚。新しい日本の出発とともにプライベートにも新生活が開始された。しかし、とても新婚生活とはいかない。目黒の自宅は、四谷に現事務所ビルが竣工する一九五四年まで、十年、事務所兼用であった。

 戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、建築家としても敗戦に打ちひしがれる余裕など無かった。まずは、戦時中(一九四四年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」(工場生産の木造組立住宅のことであり、プレファブのPRE、前川のM、構造担当の小野薫のO、供給主体であった山陰工業のSをとって、命名された)に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法(トロッケン・モンタージュ・バウ)」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの戦後の先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。

 前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品のひとつと目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは一九四七年のことである。

 一九四七年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の六月である。

 戦後復興期から一九五〇年代にかけての戦後建築の流れについては、いくつかの見取り図が描かれている。わかりやすいのはここでも建築運動の歴史である。戦後まもなく、国土会、日本建築文化連盟、日本民主建築界等のグループが結成され、NAUへと大同団結が行われる。しかし、NAUがレッドパージによって活動を停止すると、小会派に分裂していく・・・。そして、一九六〇年の安保を契機とする「民主主義を守る建築会議」を最後に建築運動の流れは質を変えてしまう。

  興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場は基本に置かれるのである。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった一九四七年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド                             )同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。MID同人は、翌年、雑誌『PLAN』を1号、2号と発行している。創刊の言葉にはその意気込みが示されている。そして、『PLAN』=計画という命名が近代建築家としての計画的理性への期待を示していた。

 もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。一九四七年から一九五一年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。

 建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(一九四八年 前川三等入選)の不明瞭さ(一等当選を出さず審査員が設計する)が示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(一九五六年)の住民の建設参加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、五期会結成(一九五六年六月)に参加することになる。NAU崩壊以後の建築運動のひとつの核は前川の周辺に置かれていたのである。

 しかし、敗戦から五〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。

 一九五二年には、「日本相互銀行本店」が完成する(一九五三年度日本建築学会受賞)。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、一九五四年に竣工する(一九五五年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。この戦後モダニズム建築の傑作の保存をめぐって、建築界を二分する大きな議論が巻き怒ったのは一九九三年から九五年のことである。また、一九五五年、坂倉準三、吉村順三とともに「国際文化会館」を設計する(一九五六年度日本建築学会賞受賞)。さらに、「京都文化会館」(一九六一年度日本建築学会賞受賞)、「東京文化会館」(一九六二年度日本建築学会賞受賞)と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然なのである。

 前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(一九五五年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、一九五九年には、日本建築家協会会長(~一九六二年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。

 

Ⅲ         

 一九六〇年代、前川國男は堂々たるエスタブリッシュメントであった。一九六〇年、前川國男は五五歳である。

 しかし、一方、時代は若い世代のものとなりつつあったとみていい。一九六〇年代、日本の建築界の大きな軸になったのは、丹下健三であり、メタボリズム・グループの建築家たち(菊竹清訓、大高正人、槙文彦、黒川紀章)であった。

 丹下健三の場合、一九四〇年代の二つのコンペ(「大東亜建設記念営造計画」「在盤谷日本文化会館」)に相次いで一等入選し、戦前期に既に鮮烈なデビューを果たしていたのであるが、実質上のデビューは戦後である。「広島ピースセンター」公開コンペ(一九四九年)の一等当選、そして「東京都庁舎」指名コンペ(一九五三年)の一等当選がそのスタートであった。とりわけ、「広島ピースセンター」は戦後建築の出発を象徴する。「大東亜建設記念営造計画」のコンペからわずか七年の年月を経ていないこともその出発の位相を繰り返し考えさせる。A.ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアーが戦後二度と建築の仕事をする機会を与えられなかったことに比べると、彼我の違いは大きい。大東亜共栄圏の建設を記念する建造物と平和を希求する建造物のコンペに同じ建築家が当選するのである。一人の建築家の問題というより、日本建築界全体の脆弱性が指摘されてきたところだ。

 それはともかく、戦後建築をリードしていく役割は若い丹下に移行していったとみていい。建築ジャーナリズムの流れをみると、一九五〇年代後半からは丹下を軸にして展開していく様子がよくわかる。例えば、伝統論争において、縄文か弥生か、民家か数寄屋か、作家主義か調査主義かといった様々なレヴェルのテーマが交錯するのであるが、丹下  白井、丹下  西山、丹下  吉武といった構図のように丹下は常に中心に位置するのである。

 丹下にとって、日本の伝統は決して後ろ向きのものではない。創造すべきものである。日本の伝統建築でも、民家は問題ではない。伊勢や桂のもつ近代的な構成、プロポーションを鉄筋コンクリートで表現すること、新しい技術で近代的な構成原理を表現し、新しい伝統を創り出していくことが丹下の関心である。

 それに対して、前川國男の場合、日本建築の伝統そのものについての意識は薄い。伝統と創造をめぐる普遍原理に関心があり、究極的に日本に近代建築を実現することが最後まで課題であったように見える。ただ、「京都文化会館」、「東京文化会館」から「紀伊国屋書店」、「埼玉会館」(一九六六年)かけて、その作風の変化が見られる。いわゆる「構造の明快性から空間へ」という変化だ。技術的には「打ち込みタイル」の時代が始まる。

 ここでも、丹下が東京都庁舎、香川県庁舎を経て、「代々木国際競技場」や「山梨文化会館」など構造表現主義へと向かうのと対比的である。打ち放しコンクリートの仕上げが難しい。そこで技術的な検討が積み重ねられてきて生み出されたのが「打ち込みタイル」である。技術に対する感覚は全く異なっていると言っていい。

 六〇年代の前川にとって、また、日本の建築界にとって大きなテーマとなったのが、「東京海上火災本社ビル」をめぐる「美観問題」である。一九六五年初頭に依頼を受けた「東京海上火災本社ビル」の設計は、都庁の高度制限によって難航する。そして、当初計画案を変更して(高さを低くして)ようやく竣工したのはようやく一九七四年のことである。

 この「美観論争」には、様々な要素が複雑に絡んでいる。第一に、「東京海上火災本社ビル」が皇居前の丸の内に位置することだ。暗黙の「皇居を覗かれては困る」というコードがあった。第二に、行政指導についての法的な根拠の問題があった。第三に、今日に言う景観問題、高さや色をめぐる問題があった。すなわち、基本的には都市と建築の問題である。建設の、あるいは表現の自由と権力、規制の問題を象徴的に明るみに出したのである。

 この「美観論争」は必ずしも明快な総括がなされているわけではない。今日同じような景観問題が繰り返されているからである。

 近年の京都におけるJR京都駅や京都ホテルの問題のように、景観問題は建築の高さをめぐって争われる。あるいは、超高層建築の是非をめぐって争われる。その原型が「東京海上火災本社ビル」をめぐる問題にある。「高層ビルこそ資本の恣意に対する最大の抑制、そして社会公共に対する最大の配慮にもとづいて計画されたものだ」、なぜなら、「あえて工費上、またいわゆる事業採算上の利点を抑制して」、「敷地面積の三分の二を自由空間として社会公共に役立てる」からである。

 今日の公開空地論である。ここでも、前川國男ははるかに先駆的であったといっていい。しかし、景観問題とはもとより公開空地をとればいいという問題ではない。前川國男の反論にはさらに多くの論点が含まれていた。それにも関わらず、「東京海上火災本社ビル」におけるこの高さに関わるロジックのみが高層ビル擁護の根拠として再生産され続けているのである。

 一九六八年、六三才、前川國男は、日本建築学会大賞の第一回受賞者に選ばれる。「近代建築の発展への貢献」が受賞理由である。戦後建築のリーダーとして当然の評価であった。

 しかし、この頃から、前川の口調にはどこかとまどいや苛立ちが感じられるようになる。受賞の際に書かれた文章は「もう黙っていられない」と題される。「近代建築の発展への貢献」というけれど怪しい、人間環境は悪化の一途をたどっている、よい建築が生まれることはますます難しくなる、建築界には連帯意識が欠如している、といった悲観的なトーンが全体に漂う。基調は、「自由な立場の建築家」の堅持であり、その不易性である。

 前川國男には職能確立のための状況は六〇年代末において厳しくなりつつあるという認識があった。知られるように、六〇年代を通じて建築界で大きな論争が展開される。設計施工分離か一貫かという問題である。建築士法における兼業の禁止規定に関わる歴史的問題だ。その大きな問題が、審査委員長として関わった「箱根国際観光センター」のコンペでも問われた。「設計施工分離」の方針が受け入れられないのである。しかし、興味深いことに、前川は「本来設計施工一貫がよいはず」と書く。今日に至るまで、この問題も掘り下げられていない。

  

Ⅳ         

 一九六八年から一九七〇年代初期にかけて、「戦後」を支えてきた様々な価値が根底から問われる。ひとことでいえば「近代合理主義」批判の様々な運動が展開されたのであった。世界的に巻き起こった学生運動がその象徴だ。前川國男は、日大闘争渦中の自主講座に参加し、理解と共感を示したという。

 その前川國男の「いま最もすぐれた建築家とは、何もつくらない建築家である」(『建築家』 一九七一年春)という名言は時代を象徴する。精神の自由を失った建築家が如何に多いことか。「自由な立場の建築家」の理念を失ってつくることは、前川國男にとって耐え難いことであった。

 苛立ちから絶望へ、文章には悲観的なトーンが目立ち始める。前川國男自身が様々な事件に巻き込まれたことも大きいのであろう。ひとつは一〇年にも及んだ「東京海上火災本社ビル」の問題があった。自発的に高さを削るということで決着したのが一九七〇年九月、竣工は一九七二年である。また、「箱根国立国際会議場」が結局は実現しないという結末も大きなダメージであった。

 しかし、前川國男は、近代建築家としての基本的姿勢を変えることはなかったように思う。「合理主義の幻滅ー近代建築への反省と批判」(一九七四年)は、タイトルだけを読むと、前川の転換を示すように思える。しかし、合理主義を捨てたわけではない。むしろ、「捨てられない合理主義」の立場がそこで宣言されていることは見逃されてはならない。「近代の経済的合理主義よりも次元の一段高い合理主義の論理を見出す「直感力」を鍛えることが一番大切なことだと思われます」という合理主義の位相の理解がポイントである。「直感力」といっても、合理主義に対して「非合理」性を対置しようと言うのではない。「科学的思考」に対する「神話的思考」という言葉も提出されるのであるが、「直感の中にある合理性」を日常的な合理性の感覚というと平たく解釈しすぎるであろうか。少なくとも、産業社会を支える経済合理主義の論理ではなく、社会生活を支える正当性の問題として、合理主義の論理は考えられ続けてきたように見える。

 一九六〇年代末から一九七〇年代にかけて、建築ジャーナリズムは近代建築批判のトーンを強める。『日本近代建築史再考ー虚構の崩壊』(新建築臨時増刊 一九七四年一〇月)、『日本の様式建築』(一九七六年六月)に代表されるような、近代建築史の再読、様式建築の再評価の試みが盛んに展開され出すのである。すぐさま現れてきたのは、装飾や様式を復活しようという流れだ。今振り返れば、皮相なリアクションであった。しかし、そうした趨勢とともに日本の近代建築をリードしてきた前川國男の影は薄くなっていったことは否めない。

 日本における近代建築批判の急先鋒となったのは、例えば、長谷川尭である。その『神殿か獄舎か』(一九七二年)は、建築家の思惟を「神殿志向」と「獄舎志向」に二分し、「神殿志向」の近代建築家を徹底批判する。主要なターゲットは、前川國男であり、丹下健三であった。長谷川尭が評価するのは、豊多摩監獄の設計者である後藤慶二のような建築家である。あるいは商業建築に徹してきた村野藤吾のような建築家である。掬い取ろうとするのは「昭和建築」=近代合理主義の建築に対する「大正建築」である。

人民のために、大衆のために、あるいは人類のためにというスローガンを唱えながら、常に自らを高みにおいて、何ものかのため、究極には国家のために「神殿」をつくり続けるのは欺瞞だ。その舌鋒は、当然のように建築家という理念そのものにも向けられる。プロフェッションとしての、すなわち、神にプロフェス(告白)するものとしての建築家、あるいはフリーランスのアーキテクト、あらゆる権力や資本から自由で自律的な建築家のイメージは幻想ではないか。何処にそんな建築家が存在しているのか。口先だけで綺麗ごとをいう。建築家はそもそも獄舎づくりではないか。

 「獄舎づくり」と「自由な立場の建築家」の間には深く考え続けるべきテーマがある。「獄舎づくり」であることを自覚することは、現実を支配する諸価値をアプリオリに前提することなのか。一方で、「獄舎づくり」の論理はコマーシャリズムの世界に一定の根拠を与えて行ったようにみえるからである。装飾や様式の復活といった、後に、ポストモダン・ヒストリシズムと呼ばれた諸傾向を支持したのはコマーシャリズムなのである。

 一方、七〇年代に入って、日本において近代建築批判を理論的にリードすることになったのは、『建築の解体』(一九七五年)を書いた磯崎新であった。その近代建築批判としての、引用論、手法論、修辞論の展開は、建築を自立した平面に仮構することによって組み立てられている。すなわち、近代建築が前提としてきたテクノロジーとの関係、社会との関係を一旦は切断しようとしたのであった。建築をテクノロジーや社会などあらゆるコンテクストから切り離すことに置いて、古今東西あらゆる建築は等価となる。思い切って単純化して言えば、あらゆる地域のあらゆる時代の建築の断片、建築的記号やイコン、様式や装飾を集めてきて組み合わせる、そうした「分裂症的折衷主義」に理論的根拠を与えたのが磯崎新であった。これまたポストモダン・デザインの跳梁ばっこに根拠を与えたことは否定できないのである。 

 こうして、前川國男は、『神殿か獄舎か』と『建築の解体』という全く対極的な近代建築批判に挟撃されることになる。ただ、『神殿か獄舎か』が上梓された同じ年に、「中絶の建築」が書かれていることは想起されていい。「今日の建築家は新製品新技術の情報洪水の中から取捨選択に忙殺され、しかもその最終選択に確信をもち得ず、ついに一箇の「デザイナー」になり下がって現代の芸術とともに「中絶」の建築への急坂を馳せ下ろうとしている。・・・・「中絶」の建築は「中絶」の都市を生み、「中絶」の都市は、「流民のちまた」として廃棄物としての「人生」の堆積に埋もれていく他はないであろう。」。

 一九八六年六月二六日、前川國男は逝った。享年八一歳。その後まもなく、バブル経済がポストモダニズム建築の徒花が狂い咲こうとは夢にも思えなかったにちがいない。前川國男の死の意味が冷静に問えるようになったのはバブルが弾け散ってしまってからである。

    

2024年12月15日日曜日

司会:パネル・ディスカッション,布野修司,鬼頭梓,林昌二,松山巌:「前川國男のモダニズム」,東京海上火災ビル,2006年01月19日

 前川國男建築展 記念第一回シンポジウム

「前川國男をどう見るのか」 前川國男のモダニズム

鬼頭梓/林昌二/松山巌/布野修司

 

 

■前川國男とモダニズム

 

【松隈】「生誕一〇〇年・前川國男建築展」は、二〇〇五年の暮れに始まりましたが、展覧会だけで終わらせたくなかったので、会期中にシンポジウムを開催することになりました。今日は、その第一回として、「前川國男とモダニズム」というテーマを掲げました。前川國男は、ル・コルビュジエやアントニン・レーモンドからどのような考え方を学び、日本という風土の中で、何を大切にして近代建築を育て上げようとしたのか。その方法を、仮に「モダニズム」と名づけるとすると、彼にとってモダニズムとは何だったのか。それを現時点で検証しておくことが、これからの建築や都市のあり方を考えるために大切だと思いました。今日は、前川國男について詳しい方々に、幅広くお話しいただきます。それでは、司会の布野さん、よろしくお願いします。

 

【布野】前川國男については、私自身、『建築の前夜―前川國男文集』(而立書房、一九九六年)という本をまとめるときに関わりました。前川さんにも、生前に一度だけ、お会いしたことがあります。最初に口頭試問のようなことを受けまして、ドギマギしたことを憶えています。そのことも含めて、『建築の前夜』の巻頭に、「Mr.建築家」という論考を書き、サブタイトルに、「前川國男というラディカリズム」とつけました。ラディカリズムというと、急進主義でテロリストみたいですが、そこに込めたかったのは、根源的に建築を考え続けた人ということなんです。

 それにしても今回の展覧会は画期的な出来事です。これを機会に、前川國男を巡って幅広く議論がなされ、その精神が再確認されればと思います。前川さんに会った際のエピソードは、後ほど、松山さんからお願いします。それでは、まず、前川國男の下で学ばれた鬼頭さんから、口火を切っていただきたいと思います。

 

■前川國男との出会いと事務所の様子

 

【鬼頭】私は、一九五〇年に大学を卒業して前川事務所に入り、一九六四年までいました。前川さんの四十五才から五十九才までの間です。当時は、今のように建築の情報が溢れている感じではまったくなくて、ほとんど情報がないに等しかった。例えば、『新建築』は、厚さが五ミリくらいしかなく、ザラ紙でした。もっとも、載せる作品もなかった。その時代に私が知った前川さんの建築は、木造の「紀伊國屋書店」と「慶應病院」です。

当時、新宿駅東口の周辺には、闇市もあるような時代で、建物は木造のバラックばかりで、その中にポツンと「紀伊國屋書店」が建っていました。そこだけ、別天地みたいで大変感激したんです。大きな吹抜けがあって、とても明るい空間でした。「慶應病院」は、前が広くて芝生があって、二階建ての真っ白な建物で、すっきりした印象が強かった。とてもいい雰囲気でした。学生の頃、私には設計ができる能力はなさそうだから、何になろうかとだいぶ迷っていたんです。当時の大学は三年制で、三年になった頃、それでも設計がしたくなって、助教授の丹下健三さんの研究室に入りました。そこに、もう亡くなられましたが、浅田孝さんがおられて、「本気で設計を志したいのなら、前川國男のところに行くんだね」と言われて、たまたま二つの建物を知っていたので、それはいいなと思い、気楽に前川さんの所に、同級生の進来廉さんと二人で、入れてくれとお願いに行ったんです。

当時、前川事務所は目黒の自宅にありました。今、現物は、「江戸東京たてもの園」に移築保存されています。驚いたことに、三〇坪ほどの住宅が事務所になっていました。前川さんのプライベートなスペースは、前川さん夫妻の八畳の寝室とトイレ、浴室、台所だけでした。その他は全部事務所として使っていました。四谷に事務所ができるまでのほぼ十年間、そうした状態で、僕が入所したのはその中頃のことです。自宅に行って、すばらしい家だなと思いました。いよいよ入れてくれることになったとき、前川さんが、いきなり、「建築の設計という仕事は建築家一人ではできないんだ。それにはチームの力がいる。自分は今までこの事務所のチームを育てるのに苦労してきた。そして、このチームの力があるから設計ができるのであり、僕が死んでもこのチームが残っていけるようにしたいんだ。僕の事務所に来るならそのことを君も考えてくれ」と言われたのでびっくりしました。また、「君たちには、僕がやってきたような苦労をもう一度してもらいたくない、僕の苦労の上に別の苦労をしてほしい」とも言われて、これは大変なところに入ってしまった、と思いました。

 

■近代建築実現への熱気

 

【鬼頭】私が入所した頃は、前川さんにとって、初めての本格的な近代建築である「日本相互銀行本店」の設計の最中でした。前川さんは、戦前から戦中にかけて、近代建築を作りたくても、戦時制限もあってチャンスがなく、あり合わせの木造でモダニズムを追求していました。自宅も木造でした。ですから、戦後に建築制限が撤廃されて、ようやく鉄筋コンクリートや鉄骨を用いた本格的な近代建築ができるようになったとき、ともかく、事務所を構えてからずっと暖めてきたこと、やりたくてもできなかったことを、この建物で全部やろうと意気込んだのです。近代建築を成り立たせるボキャブラリーはすべて試みてみたい、という熱気が事務所全体にありました。僕もその中に入っていったのです。カーテン・ウォールでアルミ二ウムのサッシュ、純鉄骨で全溶接、しかも、実際にはそこまで実現しませんでしたが、当初の計画では、床も階段も全部プレキャスト・コンクリートでした。前川さんは、「今は大変だけれど、これができたらあとは楽になるぞ」と言っていました。ぜんぜん楽にはなりませんでしたけれどね(笑)。でも、そういって励んでいた時代です。

 

■日本相互銀行本店の失敗

 

【鬼頭】私の入所した一九五〇年は、戦争が終わって五年ですから、まだ至るところ焼け野原で、建築の技術レベルも低かった。それで、前川さんは悪戦苦闘するわけです。この「日本相互銀行本店」で、一つ失敗をします。外壁のプレキャスト・コンクリートから雨が漏ったんです。これは大変だ、ということで、前川さんは雨が降るたびに飛んで行って見ていました。私もつかまって、ある日、まだ暗いうちに起きて現場に行きました。足場からホースで外壁に水をかけると、たちどころに内側に水が入ってくる。今なら、こんな馬鹿なことをする人はいませんが、プレキャスト・コンクリートの目地が、全部モルタルで詰めてあった。当時は、目地というのは、モルタルで詰めるものだったのです。工事を請け負った清水建設も疑いを持たなかった。そこに細かなヘア・クラックができて水が入る。それを突き止めて、結局その目地を全部外して、コーキング・コンパウンドにやりかえました。当時、コーキング・コンパウンドはとても高価で、たしかアメリカ製のバルカテックスという製品を使いました。その費用を、前川さんは全部自分で支払ったのです。建築家の責任で問題が起きたのだから、補償は建築家がしなければいけない、と言って、自費で修復したのです。大きな失敗でした。

 

■技術を建築家が手にすることの意味

 

【鬼頭】その時、前川さんは、もう一つのことを発見します。建物のコーナーにバルコニーが出ていて、そこに両開きのドアがついています。その召し合わせ部分は、合わさっているだけの簡単なものです。でも、そこには空洞があるから、中には雨が入らない。前川さんはそのことに気がついたのです。そこで、外壁のジョイント部分の処理はこれでなければいけない、中に空気層を作れば雨は入らないんだ、ということを発見して、その後はそう改良していきました。

その「日本相互銀行本店」の完成直後、前川さんは、『国際建築』(一九五三年一月号)に掲載された「日本新建築の課題」という文章に、「単なる造形的興味からする絵空事ではなく、技術的な経済的な前提からの形の追求をいま身につけなかったならば、日本の新建築は永久にひとつのファッションに終始せねばならないであろう」と書いています。当時、前川さんは「テク二カル・アプローチ」というテーマを掲げていましたが、これは誤解され、技術至上主義とみなされた。

しかし、テク二カル・アプローチは、技術至上主義的な考えではなかったし、それが建築を作る主要な道筋だと考えていたとは、私には思えないのです。前川さんの真意は、近代建築は技術革新に支えられて生まれてきたのであり、それをメーカーとかサブコンとかに任せるのではなく、建築家が関与しなければいけない、それを抜きにして建築を考えてはいけないのだ、という意味だったと私は受けとっています。つまり、建築家の在り方を言われたのだと思います。

 

■プランの大切さ

 

【鬼頭】私が知っているのは十四年間だけですから、前川さんの全貌を伝えることはできませんが、僕がいた頃は、ともかくプラン(平面図)、セクション(断面図)、とりわけプランにうるさかったですね。前川さんは新しく入った者に、すぐプランをやらせるんです。新米には、ディテール(詳細図)は描けませんから。プランなら、自分の思ったように描かせられるという思惑もあったと思いますが、ともかくプランを描かせられました。そうすると、「君ね、プランというのは、間取りではないんだよ」と言われ、「間取りではないって、どういうことですか?」と聞くと、「プランというのは、空間を作ることなのだ。プランを見ただけで空間が彷彿としないようなプランは、プランではない」と言われたりしました。

また、私たちが、まず柱の列を書いてからプランを描いていると、「君、それは逆さまだ。柱は後から考えるんだ。どういうスペース(空間)がほしいかをまず考えて、それにどういうストラクチャー(構造)がいいかを考えるのが順序だぞ」と言われる。ですから、プランで時間を食ってしまう。たいていエレヴェーション(立面図)を描く頃になると、時間が足りなくなって、先輩の大高正人さんなんかは、「早くエレヴェーションを描こうよ」といつも言っていましたね。でも、エレヴェーションを描いたときには、矩計の図面がないと、また怒られてしまうのです。「このエレヴェーションは、どういう矩計になっているのか」って。少なくとも、矩計のスケッチができていて、このようにします、と言わないと、「そんなエレヴェーションをいくら描いたって、絵空事だからやめたまえ」と言われてしまう。これは、私たちだけではなくて、戦前に丹下健三さんが前川事務所にいた頃も同じだったようです。丹下さんが言っていましたが、「お前はすぐエレヴェーションを描く」と前川さんに怒られていたそうです。

戦前の話ですが、あるとき、前川さんが丹下さんと浜口隆一さんに、「前川さんは、いつもプランだ、セクションだと言うけれど、本気でそう考えているのですか? 建築ってプランとセクションでできるものではない。造形のことはどう考えているのですか?」と、だいぶ突き上げられたことがあると述懐していますが、本当にプランに執着していましたね。

 

【布野】それでは続いて、鬼頭先生の話を受けて頂いて、、林昌二さんに最初の発言をお願いします。

 

■日本相互銀行本店の衝撃

 

【林】私は、前川さんの話で出てくる立場ではないのですが、出されちゃったからしょうがない(笑)。前川さんについては、わからないことがたくさんあるのです。本当は、少しはわかりますが(笑)。

 私が建築の世界に入ったときに、ちょうど「日本相互銀行本店」ができあがります。当時、日本相互銀行本店は、圧倒的な影響力を持っていました。東京にいればなおさらです。日本相互銀行本店の一部始終は、話題になり、関心が注がれたわけです。たしかにえらいことをいろいろやっています。例えば、軽量化も大変なもので、三階までは別として、四階から上のオフィス階の重量は、平方メートルあたりわずか〇・四六トンなのです。そんな建物は、その頃はなかった。一般的には一トンを越えていましたから、その半分以下でできていた。驚異的なことでした。どうしてそうなったのかというと、床スラブが九センチしかない。普通は十二センチありました。しかも、九センチのコンクリートが軽量コンクリートを使っているのです。床スラブは、構造的には二次的なものですから、軽量コンクリートでもいいのかもしれませんが、そこまでする人はいなかった。

 

■前川國男の変節の謎

 

【林】また、カーテン・ウォールは、全体の重量に対して、それほど影響がないと思いますが、それも徹底して軽量化して、アルミ二ウムを使っている。どうしてアルミなのか。前川さんは、鉄のサッシュがお好きな方だと思っているのですが、この場合は、アルミを使って、おかげで雨が漏ってしまった。でも、雨が漏ることは、当時、いろいろなビルでもあったわけです。ニューヨークの「国連ビル」も漏りましたし、その他の高層ビルでも、だいたい漏っていました。今日のようなコーキング材はありませんでした。当時は、セメント・モルタルを左官屋が塗って、目地を作る程度で外装ができていた。そうすると、当然失敗もする。でも、失敗しても、何としてでも、工業化された建物を実現しよう、という意気込みがすごかったですね。それにみんな感心して、若い人たちは何らかのツテを頼って、何度も見に行った。今は、そういう迫力のある建築はないと思います。東京駅に近い便利な場所にあったせいもありますが、ともかくよく足を運びました。あの建物が「教科書」になった感じが強かった。その通りやってよかったかどうかは別問題ですが()、教科書的迫力を持っていた。前川國男というのは、私たちの年代にとって、そのくらい大きな存在でした。

当時は、そういう前川さんの姿勢が頭に刷り込まれていましたから、その線上で仕事を展開していかれると思って見ていたのです。しかし、その後あまりそうならない。「日本相互銀行本店」を発展させたような建築は作られなかった。それどころか、ある時を境に、傾向ががらりと変わった。特に晩年です。一番びっくりしたのは、「弘前市斎場」です。

考えてみれば、最初と最後だから、違うのは当たり前かもしれない(笑)。でも、その違いがあまりにひどい。まあ、コルビュジエだって違いますけれども。じつは、弘前は、最近見に行ったのです。たしかに、よいといえばよいのですが、同じ人がやったというのは、いかがなものかというのが、私の感想でした。弘前には、前川さんの処女作の「木村産業研究所」もありますが、これはとても面白い。初々しいと言いますか、日本相互銀行本店ほど遮二無二やっているのではなくて、普通の姿勢で取り組んでおられ、サッシュもスチールで、プロポーションやディテールに、どこかコルビュジエの雰囲気が感じられる。コルビュジエのところから帰ってきて、すぐにやった仕事だから、当然かもしれませんが、弘前にその二つの建物があることが、とても面白いと思いました。

 

【布野】さすが林さんですね、まずは、最初と最後、ケツを押さえた(笑)。「木村産業研究所」はあまり知られていなかったですね。「弘前市斎場」については、胸が痛くなる人がおられるかもしれません。前川さんが変わったという話は、もう少し前のことだと考えられていますね。MIDO後出??ミド・グループの戦後まもなくの時代の転換もありますが、普通は、打込みタイルが出てくる時代に変わったと言われますね。いきなり「弘前市斎場」となると、変わっているのは当然かもしれません。

 

■愚直な建築への姿勢

 

【林】そうですね、ちょっと行き過ぎかもしれません(笑)。前川さんは、軽量化といいますか、テク二カル・アプローチの時代から、打込みタイルを使う時代に入って、面白い開発をいろいろと試みていきますね。それには感心したんです。コンクリート打放しの外壁ではなく、その外側に焼き物を外装として使うやり方です。最初は難しいけれど、難しいことをあえてなさるのが前川さんで、そういう意味では「愚直」と言いたいですね。失礼かもしれませんが、愚直という態度で設計をなさっている。コーキング材が日本にはないので、輸入して、ご自分で費用を払ったことも、愚直そのものであり、それがプロたる者の覚悟である、という気がします。

 一方、愚直の典型として、防水にも感心しました。私たちが設計を始めてしばらくの頃、丹下健三さんと前川さんの公共建築が、交互に建つような風景が展開されるようになります。その際、前川さんは必ずアスファルト防水なのです。一方、丹下さんはセメント防水で軽々と仕上げてしまう。そうすると、防水の端部がきれいに収まる。サッと終わるんです。アスファルトですと、それを立ち上げて、押さえなければならないので、きれいに納まらない。だけど、前川さんは断固アスファルトでした。丹下さんはセメント防水でやって、たちまち漏ってしまう。僕らは、丹下さんの方がきれいに収まっていて、うらやましいので、何とかセメント防水でやりたいと思ったのですが、日建設計には、まわりにうるさい先輩が大勢いて、「冗談じゃない、屋根防水はアスファルトでなければいけない」と言われて、私も愚直にそれを守った。それで弁償しなくて済んだ()。そんな思い出もあります。

 

【布野】続いて松山さんに、日本近代における前川國男の位置について、お話いただけますか?

 

■前川國男という存在

 

【松山】大変なテーマを与えられたのですが、先ほど、布野さんから、前川さんに会ったときのことを話せと言われたので、その話から始めます。当時、布野さんと僕と宮内康さん、堀川勉さんらで、「同時代建築研究会」という会をやっていました。戦前から戦後にかけての建築思想をもう一度問い直そう、ということで、近代建築を作り続けてきた先達に話を聞くことを続けていました。例えば、山口文象さんや高山英華さんなどに会いに行って、証言を取るようなことをしていた。そうした中、前川さんにも一度だけ会う機会があったのです。そのとき、びっくりしたのですが、前川さんから、「近代建築をどう捉えるのか。そのことをはっきりしない限り、インタヴューには応じられない」と試験みたいなことを言われた。そこで、一番よくしゃべる布野さんに任せた。

布野さんは、近代というのは、セメントとか鉄骨とかガラスとか大量生産のものが出てきて、その中で建築が生まれる時代だ、というようなことをしゃべったのです。つまり、生産構造ができた上で、近代建築が生まれてきた、というようなことを、言ったのか言わされたのか、その辺がわからないのですが。前川さんは、「生産構造や下部構造がしっかりしない限り、近代建築はできないということを認識しないと君たちとは話さないよ」という感じでした。ちょっとびっくりしたのです。あの話を聞いたのが、今から三十年前ですから、「日本相互銀行本店」ができてからずいぶん経ったころです。一般的には、テクニカル・アプローチと言われる工業技術がなければ近代建築はできない、というような、社会の生産構造が上がらない限りダメだ、というニュアンスでした。後で考えると、丹下さんのような仕事を横目で見ながら言われたのかも知れませんが、造形的なものに対しては拒否をする、というニュアンスでしゃべっていたのだと思います。

当時は、大阪万博で丹下健三さんたちが頑張って、磯崎新さんが「建築の解体」と言っていた時期ですから、印象としては、ずいぶん固いなと思いましたね。でも、前川國男という人の個性を、僕は認めていた。前川さんという人がいなければ、日本の近代建築は遅れたのではないか。あるいは、前川さんの力は大きかったのではないかと思っていた。ところが、前川さんがそう言わないことにびっくりしたんです。先ほど、鬼頭さんが、「前川さんのテクノロジカル・アプローチは、建築家がいかに関わるべきか、技術にゼネコンやメーカーではなくて、建築家がもっと関わるべきだということであり、技術をそのまま重視して考えれば建築ができる、ということではなかった」と言われたので、なるほどと思いました。

それから、林さんが「日本相互銀行本店」を教科書的だと言われました。私もできてずいぶん経ってから見に行って、安っぽい建築だなあと思いました。ああいうものにどのくらいエネルギーをかけたのでしょうか。今、見ると、私と同じような感性で見る人が多いと思う。ねずみ色でポソッと建っている。いまだに使われていることにびっくりするくらいです。でも、そういうことを、前川さんは率先してやった。けっして、世の中の生産構造が充実したから歴史が動くのではなくて、前川さんがいたから動いたのではないかと思います。

 

■「公共」という教科書を作った前川國男

 

【松山】私は、前川國男は、日本近代の文化史の中でもかなりの巨人であり、思想や文学を含めて大きな人物だと思います。ただ、建築家というのはほとんど知られていない。知られていないからこそ、前川さんは、建築家の立場を確立するためにがんばった。彼の一番のすごみは、教科書を作ったこと、それも、「公共」という教科書を作ったことです。前川さんは、美術館、音楽堂、図書館、市庁舎といった公共建築をいくつも作っていますが、逆に言えば、彼が作ったがために、ありふれてしまった。でも、広場があって、それを囲んで回廊がある、そういう教科書的な文法は、前川さんがいなければ、日本には作られなかったのではないか、と思う。

私は、今から四十年前に東京藝術大学の建築科に入って、できたばかりの「東京文化会館」の二階の食堂に、チャプスイという安い食べ物を、週に一度くらいは食べに行っていました。上野には、前川さんの「東京都美術館」や「東京文化会館」の他に、師であるコルビュジエが作った「国立西洋美術館」や、戦前のコンペで前川さんと因縁のある「東京国立博物館」があります。その他、いろいろな美術館がありますが、前川さんの建築は違う。塀と門がないんです。コルビュジエの「国立西洋美術館」ですら、長い間、門扉で閉ざされていました。それに比べると、「東京文化会館」には、前庭だけでなく、場所としての広場がある。それもいくつか抜けられるようになっているから、閉じていない。単純なことですが、公共の広場という文法を、公の概念とでも言いますか、近代の中で、これだけ明快に作った人はいなかった。さらに言えば、前川さんの広場を作る方法を、みんなが真似したんです。その教科書作りをしたことが、前川さんのすごみです。それは一見、見慣れているけれども、上野の現状を見ても、実はそれだけの力がなければできなかったことだと思う。

前川さんは、最初から広場を作りたいという気持ちが強かったのではないか。戦前の「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」は、書院造りのような大屋根を載せ、日本の伝統的な建築様式を真似したと問題視されましたが、あのプランニングは見事です。中庭と渡り廊下があって、内外の空間が伸びやかにつながっている。おそらく、前川さんは、戦前に考えたこのアイデアを、戦後になって練り上げようと努力したのではないか。林さんが、前川さんが守勢に回っていると指摘されました。それもわかるのですが、今の世の中では、ああいうやり方しか、前川さんとしては守りきれない時代に入ってしまったのではないか。後に、「東京海上ビルディング」という超高層ビルを作ってしまったのは問題ですが、私は、前川國男は、教科書、お手本を作った人として立派だと思います。

 

【布野】松山さんの話で思い出すのは、戦前と戦後の連続・非連続の問題ですね。転向の問題と言ってもいいんですが、丹下さんについても言われていることですね。せっかく水を向けていただいたので、戦前のことにも、触れたいと思います。松山さんから「在盤谷日本文化会館コン応募案」が戦後の公共建築を作る原点になっているとの発言がありましたが、鬼頭さんはどう思われますか。

 

■戦時下に育まれた建築思想

 

【鬼頭】「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」についてのご意見には、私も賛成です。戦争中に、前川さんが激烈な文章を書いています。国粋主義的な圧力が強まる中、帝冠様式が出てきて、日本の伝統をいかに考えるか、に否が応でも応えざるを得ないところに、前川さんはいたのだと思います。それに対して近代建築を持ち込むときに、伝統と近代建築は前川さんにとって大問題で、そこできちんと伝統への対応を論破しないと、帝冠様式に負けるわけです。前川さんは、「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」の説明書の中で、日本の建築文化をここで表現しなければいけない、日本と西洋の建築空間とはどこが違うのか、日本の建築空間は閉ざされたものではなくて、建物の内と外とが有機的につながって展開されるのが日本的な空間だ、と書いています。それが、前川さんの伝統把握だったのだと思う。戦後も、それにずっとつながっていく。「神奈川県立図書館・音楽堂」のプランもそうです。あのプランを考えているときに、前川さんは、しきりに「一筆書き」のプランを描いていました。空間がどのようにつながって、人間がどう流れていくのか、それを建築的にどう表現するのか、が一筆書きになったのだと思う。晩年の「埼玉県立博物館」の空間構成はもっと複雑になっていきますが、一連のものは、戦前から育てていったものだと思います。

 

【布野】林さん、前川さんの戦前の評価はどうなんですか。

 

【林】戦前のことはわかりません(笑)。でも、最近になると、少し変わってきたのかもしれませんが、戦後、ずっと国粋主義とか帝冠様式に対する反感が強すぎたため、日本の建築的な形態とか伝統に対しては、否定的な時代が続きました。否定し過ぎたと私は思っているのです。いまだに抜けきっていないようにも思います。やはり、戦争に負けるとひどいものですね。六十年経っても、まだ敗戦の傷が癒えない、という気がしてしょうがない。伊勢神宮とか、日本の古典的な建築の良さは、みんな知っているわけですから、それをことさら否定しようとしたのは、まずかったと思います。

話は飛びますが、今、私は、清家清の本を作っていますが、彼は、戦後、グロピウスに招かれてドイツに行って、しばらくして帰ってきて、仕事を始めるわけです。驚いたことに、清家さんから、西洋の印象とか、影響をほとんど聞いたことがないし、作品にも出ていないのです。頭の中が戦前から連続しているんですね。本当はそういうものだと思うのです。

 

【布野】清家さんの場合は、ドイツに行ったけれども、その影響がまったくなかったわけですか?

 

【林】ドイツに行って、グロピウスのところで、仕事を手伝ったり、勉強したりして、それからヨーロッパをスクーターで見て回って帰ってこられたのですが、帰ってきた後で、「いかがでしたか?」と聞いても、「う~ん、いろいろくたびれた」とか(笑)。あの人は本当のことを言わない。でも、その影響が言葉にもなっていないし、仕事にも出ていないのは、大変珍しいことではないか、と最近になって思っています。

 

【布野】前川さんと比較すれば対照的だし、ドイツといえば、山口文象とも違いますね。清家さんの場合、伝統という意味では、日本の伝統へスーッと入っていったという意味ですか?

 

【林】スーッと入っていったようにも見えますが、ずっと前から入っていた()とも言えます。

 

【布野】ヨーロッパ的な影響を受けていないで、スーッと入ってきたとすると、前川さんとは別のタイプということですね。

 

【林】前川さんとか、坂倉さんとか、外国の影響を受けている人が、日本にはとても多いですね。でも、その影響を受けずに死ぬまでやった人は、日本の原住民としては珍しい(笑)。

 

【布野】今までにない座標軸が出てきました(笑)。松山さん、いかがですか?

 

■前川國男の変わらない眼差し

 

【松山】私は、むしろ、変わるのが当たり前だと思うのです。若いときに、「東京帝室博物館コンペ応募案」でフラット・ルーフをやった人が、最後に瓦屋根をかける。不連続なのが普通だと思う。前川さんの場合は、啓蒙しようという意識が強かった人でしょう。戦前の文章を読んで一番感じるのは、そのことです。建築家で文章を書ける人は珍しい。どういう内容かというと、呼びかけている文章です。連帯しましょう、君らも一緒にやろうよ、とほとんどアジテーションに近い。

前川さんが、建築家になりたいとどのように思ったのか、詳しくは知りません。でも、前川さんには、ヨーロッパ型の自立した個人主義、そういう人間像をこれからの日本は作らなければいけないという自覚があった気がします。その一番の証が、建築家という職能へのこだわりだと思う。建築家イコール自立した個人、という意識が、彼の中にはありましたね。だからこそ、建築家はプロフェッションとして、仕事をしながら、きちんと報酬をもらい、レクリエーションも勉強もする人にならなければダメだ、と何度も繰り返して言うわけです。彼には、近代日本人の在り方として、自立した人間を日本は作るべきだ、という使命感がものすごく強かったと思う。その点は、丹下さんと比較するとわりやすい。

丹下さんは、「群集」で考える人だった。「広島ピースセンター」以来、大衆というか、ワーッとお祭りのように集まるか、整然と並んでいるか、一九七〇年大阪万博で、お祭り広場の大屋根の下に、無定形に動くマスのような群集を想定していた人です。でも、前川さんは、思索する「個人」を考えていますね。だから、丹下さんのように、集まってお祭りをするような広場のあり方は、絶対にイメージしません。何か憩って考えている人が、そぞろ歩いているような広場です。普段見ると、少しさびしいのかも知れないけれど、そういう個人を中心において、建築を考えていた。そして、そのことを、床タイルから壁、ストリート・ファーニチャー、照明器具、そういうものすべての文法を作りながら考えようとした。そこが、前川さんのすごみだと思う。それが、今の大衆社会のようなもの、高度資本主義といってもいいのかもしれませんが、そうした流れが出てきたときに、前川さんとしては、時代とずれてしまった、という意識があったのだと思う。だから、逆に、晩年の作品に見られるように、中庭のような「小さな場所」を守ろうとしたのではないか。

 先ほど、林さんが、「テク二カル・アプローチ」に触れて、戦後、前川さんは、技術的なものを指導していかなければならないと思ったのだろう、と言われました。おそらく、それは、「日本相互銀行本店」で実現したのだと思います。当時は、コルビュジエから受け継いだ、透明な空間を作ろうと本気で考えていたのだと思う。ところが、焼き物の打込みタイルの建物、例えば、「東京海上ビルディング」を見ると、はっきりとわかりますが、超高層ビルで、全面ガラス貼りのミース・ファン・デル・ローエみたいなものを、彼は、違うな、と直感的に思ったのではないでしょうか。人間をマスで並べて、ツルンとした表情がないような建物に収容することに、自分としては納得ができない。それは、人間に対する正しい考え方ではない、と思ったに違いない。ですから、前川さんは、人間への眼差しという点では少しも変わっていない。逆に、だからこそ、建築の姿は変わっていったのだ、と思うんです。

 

【布野】八束はじめさんが、『思想としての日本近代建築』(岩波書店,二〇〇五年)という本で、前川さんの戦時中に触れていて、前川はファシストだ、とはっきり書いています。八束さんは、私に論争しましょう、と言ってきてるんですが、何で私なんでしょう。最近の京都大学の修士論文で、前川國男の書いた「覚書」が、京都学派そっくりだという指摘がなされています。ここへきて、再び、戦前への関心が巡ってきていると思います。大切な視点です。

 

■近代建築は「人間のための建築」になり得るのか?

 

【布野】先ほどの松山さんの位置づけで、なるほどと思ったのですが、前川國男が公共建築の教科書を作ったとすると、前川さんにとって、近代というのは、松山さん流に言うと、止揚されてしまったわけですね。要するにできてしまった。それが、ある意味で、現在の日本の空間、風景になってしまったとも言えますね。一方、鬼頭さんの言われた「テク二カル・アプローチ」の延長上では、あるいは、建築家の職能確立という目指してきた線の上では、「未完」ではないのか。建築家というプロフェッションの自立について未成という思いで前川さんは亡くなられたのではないか。鬼頭さんはどう思われますか?

 

【鬼頭】前川さんは、当初は、本気で近代建築は人間の幸福を約束する、と思い込んでいた、そう思いたいと願っていた。その最後の作品が、「神奈川県立図書館・音楽堂」だと思います。あそこまでは迷いがなかった。でも、それからだんだん近代建築に迷い始めた。こんなことも言っていました。コンクリートと金属とガラスは、優れたものだと思っていたけれど、コンクリートは風化する、クラックが入る、どんどん汚くなってくる、アルミ二ウムは火事に合ったら熔けてしまうし、頼りない。近代建築は、人間の存在から離れていってしまうのではないか、近代建築の本質は、金持ちのためではなくて、普通の人々の生活を支えることにあったのではないか」。 

 「人間のための建築」が、前川さんには大きな課題で、それが、近代建築では怪しくなっていって、その中で苦しみ抜いて、どこか不可解な建物も作っていったのだと思います。   私たちが仕事をしていた頃は、「建物には、マントを着せなければいけない」と言っていましたね。「建物は、裸ではダメだ、打放しコンクリートのままではダメなんだ。耐久力もないし、何を着せるのかが問題だ」と、しきりに言っていました。その上に着せる物として、焼き物にたどり着いたのだと思う。そして、晩年になると、「人間は、はかない存在だから、建築に永遠性を求める」と言っている。近代建築は人間の建築だ、という気持ちから始めた前川さんだからこそ、最後まで、模索してもがいていた、という気がします。

 

【布野】林さん、その話を受けてもらえますか?

 

■前川國男の自己否定の意味

 

【林】「神奈川県立図書館・音楽堂」までは、真正面に明るく進んでこられた、という意見には同感です。その後、ちょっと暗くなっていく。わからないのは、その理由なんです。世の中、思うようにいかないものだ、ということかもしれないけれど、その心境の変化に興味があります。晩年になると、前川さんは、パーキンソン氏病という、難しい病にかかって、体を壊されますね。そういう前兆が、いつ頃からあったのかは知りませんが、体の調子が悪くなると、仕事も変わります。そうなったら、どうしても、それまでの自分を否定するようになる。多くの作家がそうかもしれませんが、変わるだけではなく、自己否定が出てくるのが、少し辛い思いがします。

 

【布野】私たちの世代に、衝撃的だったのは、「今、最もラディカルな建築家は、何も作らない建築家だ」という前川さんの言葉です。一九六〇年代末から七〇年にかけての発言です。自己否定と言われたので思い出しました。打込みタイルは、六〇年代における、一つの転機というか迷いというか、課題だった。そして、七〇年代冒頭に、「作らない」という言葉が出される。林さんもよくご存知だと思いますが、どんな心境だったのでしょう。

 

【林】でも、作る人間としては、言うべきではなかったですね。作らなければいい()。にもかかわらず、作るから、それまでと違うものができてくる。マントという話も、私にはわからなかった。裸の打放しコンクリートでは所詮ダメだと考えられて、もう一枚外に衣を着なければいけない、ということになったのかもしれませんが、それが焼き物になるというのが理解できない。今は、みんなガラスを貼って済ましていますが、ガラスでなくても、金属でも、初心に戻れば「日本相互銀行本店」のアルミでもいいわけです。どうして、鈍重な焼き物という、日本的なものを外に貼るような心境に変わったのか、本当は知りたい。でも知りたくない(笑)。

 

【鬼頭】前川さんは、焼き物が好きだったんです。「神奈川県立図書館・音楽堂」の図書館の日差しよけも焼き物ですし、ことあるごとに、庇の先端だとかに、焼き物を試みていました。焼き物を使うと、コンクリートは収縮しても、焼き物は収縮しないから、焼き物が落下する失敗も起きます。でも、焼き物は好きでしたが、タイル貼りは嫌いでしたね。タイルで貼りめぐらせた建物を見ると、気持ちが悪いと言っていました。レーモンド事務所時代に、タイルを団子貼りして、裏に水が入ってそれが悪さをしてしまうから、タイルを貼ってもコンクリートが思うようにならない。ペタッと貼ればいいというのはよくない。タイル貼りは反対だったけれど、焼き物は好きだったと思いますね。

 

■日本の近代建築は未完だったのか?

 

【布野】松山さん、今回の展覧会を見ても、前川さんは、愚直なぐらい一貫していますね。そして、その方法が一般化していったときに、前川さんは、丹下さんと主役の交代みたいなことになっていきますね。そのあたりの位置づけというか、彼にとって近代建築とは未完だったのか、迷ったのか。前川國男の遺したものという点についてはいかがですか?

 

【松山】近代は、あらゆるものがコピーされる世紀です。前川さんは、公共建築というもので「教科書」を作ったがゆえに、そのまがい物、コピーが次々に出てきてしまった。前川さん風のものを作れば、市民に供することができる、というような定説ができあがるわけです。前川さん自身も、そのようにやろうとしていた。でも、それができたときに、例えば、広場があって、渡り廊下があって、図書館があって美術館がある、箱物行政みたいなものに陥ってしまった。それこそ、一九七〇年前後に、明治一〇〇年に合わせて、そのようなものが出てきてしまった。前川さんが作った定型をやれば、一応は、Aランチ、Bランチというようなものになっていく。そういう事態に、前川さんは困ってしまったのではないか。ある意味で、自分が扇動したことなのかもしれないけれど、同じようなものがドンドンできてくる。時には、ポストモダン風になる。前川さんも、アーチをやって表情をつけ始める。それだけ豊かになったのでしょうが、外皮をつければ、耐久性だけではなくて、外側から見ると、生姜焼き定食に海老フライがついている。そういう感じもしないではない()

 

■三菱一号館のこと

 

【松山】話は違うのですが、松隈さんに、このシンポジウムで話すように依頼されたときに、なぜ私がふさわしいのですか、と聞いたんです。私は、前川さんをそれほど知っているわけではないですから。そうしたら、二〇〇五年一月の丸ビルでのシンポジウムの話を持ち出されたのです。そのシンポジウムの話をしてもいいですか?

鈴木博之さんが司会で、パネラーが、私を含めて五、六人、コンドル「三菱一号館」を復元することについてのシンポジウムだったのです。私だけが反対した。なぜかと言いますと、そこに来た歴史家の人、ランド・スケープの人、三菱地所の人、東京都の人、全部が、取り壊された明治時代の煉瓦の様式建築を復元するから良いのではないか、という話しかしないのです。ところが、その話は、その街区の中の半分だけで、後の半分は超高層なのです。実は、東京都が、復元すれば容積を上げる、という法律を作ってしまったのです。さらにひどいことに、東京駅の周辺には、現在、戦前のオフィスビルの典型は、「東京中央郵便局」と「八重洲ビル」しか残っていないのですが、その「八重洲ビル」をわざわざ壊して、コンドルのレプリカを作ろうという計画なのです。レプリカを作ると、五階分くらいの容積が割り増しされるからです。

 

■「東京海上ビルディング」と前川國男の孤独

 

【松山】前川さんが「東京海上ビルディング」を作ったときに、こう言っている。「構造的に問題があると言われるが、それはない。環境を壊すようなことはない。交通量も増えない。交通量が増えないのは当たり前で、それまでの高さ制限が容積率に変わったのだから、広場を六割にして公開空地をとれば、高層でも容積が変わらない。だから、交通量も増えない。環境も公開空地に緑ができるのだから、むしろよくなる」と。そういう論理で説明しているのです。さらに、「アメリカの摩天楼に対するコンプレックスではない。都心で問題になっているハウジングを作ったらどうか」とも言っています。

残念ながら、前川さんが亡くなって二十年経って、話は逆転している。どういうことかというと、その頃は、容積率は一〇〇〇%でしたが、今や一三〇〇%に上がりました。さらに、公開空地を作ると、ボーナスが付いて容積率が上がり、保存したり、レプリカを作ると、さらに高く作ることができる。高く作ると、人も物も増えますから、交通量は違いますよ。いろんな制度が変わって、汐留の汐サイトなど、もともと四〇〇%だったところを、一二〇〇%に上げてしまった。これはひどい話ですよ。つまり、そういう問題が、「東京海上ビルディング」以降に、出てきてしまった。

前川さんは、「東京帝室博物館」のコンペのときに、誰に向かって、自分が今、言葉を使って伝えられるのか悩んだと思う。同じように、そのときも誰も賛成しないのです。そんな馬鹿なことをどうしてやるのか。ひどい話ですよ。三菱地所は、土地を持っているから、一街区ごとに超高層が建ちます。今後、大手町、有楽町あたりに、九十八棟も建つんです。汐サイトなど問題ではない。でも、そういうことを言っても伝わらない。非常に困った時代に入ったなと思いましたね。

それが、前川さんにしてみれば、自分もやってしまったと。後で「巨大なものは胸につかえるね」と書いています。よくわかるんです。オフィスならともかく、超高層マンションがどんどん建っていますが、前川さんはよく知っていますよ、ヨーロッパに超高層マンションなどありません。ホテルくらいです。「東京海上ビルディング」は、前川さんにとって、失敗だったのではないか。もし、前川さんが生きていたら、今回の動きに絶対反対してくれると思います。

 

■土に戻るような壁の建築を求めて

 

【松山】だから、私は、そういう時代に入ったときに、前川さんとしては、焼き物のタイルが本当に良いかどうかはわかりませんが、何も使わない空地を作ろう、という思想に戻ってしまったのではないかと思う。その中で、土に戻るような壁を作っておいて、その中に開いた中庭のような場所を作っておこう、という地点まで戻ってしまった。だから、林さんに言わせると、ずいぶん反動的に戻っている気がするだろうと思うのです。でも、せめて、そういうことしかできないのではないか、と前川さんは考えた。それで、もう作らないほうがいい、というような発言になってしまったのではないか。あれだけ責任をとって先導をしてきた人だからこそ、自分のやってきたことが一人歩きをして、違った方向に行ってしまったことに対して、考えざるを得なかったのだと思います。

 

【布野】今度の展覧会では、「時間の中で成熟する都市環境の試み」という視点から、最後のブースで、前川さんの未完に終わった計画のスケッチが展示されています。そこには、前川さんの問いかけを現代へとつなげたいという主催者の願いも込められていると思います。今の松山さんの話を受けて、林さん、前川國男が遺したものについてはいかがですか?

 

■建築家という職能確立への努力

 

【林】先ほどのお話で、超高層にしたことではなく、敷地の中での建物の作り方について、中庭を作ったり、アプローチをいろいろ工夫したり、その巧みな外部空間のデザインは、前川さんの残した大きな功績の一つだと思います。

さらに、ひと言つけ加えたいのですが、前川さんは、MIDOという組織を作って、建築家はどういうかたちで仕事をしていくべきか、と大変苦労をして、いろいろな試みをされました。しかし、それは未完に終わったのではないか、と思います。というのも、プロフェッショナル・コーポレーション、というような組織形態を残してほしかったからです。もちろん、前川さんに誰かが頼んだわけではないですが、そういう方向に、一歩でも踏み出してほしかった。

例えば、坂倉さんも、同時代にいろいろ工夫をしておられるけれど、あの方は、事務所を株式会社にはしなくて、個人の事務所としてがんばった。それはそれで見事ですが、やはり、両方とも極端で、今、会計監査法人とか、職能に応じた法人形態を作っている世界がいくつもある中で、建築家の世界は、それを作れずに今日まで来ていて、おかげでいろいろまずいことが起きている。「前川さんでなくて、お前やれ」と言われると、反論の余地もないのですが、前川さんの時代に、一歩でも踏み出しておいていただいたら、今日、実現していたのでないかと思います。それはとても残念なことです。

 

【布野】プロフェッショナル・コーポレーションとは、どんなものなのですか?

 

【林】これを話すと長くなりますが、私は、株式会社というのは、設計事務所にはまったく関係のない組織形態だと思うのです。ですから、資本金がいらない。もちろん、利益はある程度出さなければいけないのですが、利益のための組織ではなくて、プロフェッショナルな仕事をやっていくために人間が集まって仕事をする、という法人形態のことですね。

 

【布野】日本建築家協会の会長をやられた鬼頭さん、そのあたりを含めて、お話し下さい。

 

【鬼頭】前川さんは、それを志して、自分の事務所で実現したいと思っていたのですが、林さんが言われるように、その前川さんでも難しい。特に、自分の事務所でやろうとしたので、よけいに難しかったのかもしれません。事務所の中では雇用関係がある一方、一緒に仕事をやっていく仲間という関係もあって、それがうまく重ならない。基本的に矛盾しているところもあるので、事務所の組織形態が新しい形になかなかならない。たぶん、アメリカでやっているパートナー・シップについても、ずいぶん考えていたようです。私が前川事務所に入るときの話は先ほどしましたが、辞めた後、何度も事務所の中に委員会を作って、どのような組織にしたらよいかを議論していました。その度に犠牲者が出て(笑)。でも、前川さんは「うん」とは言わずじまいでしたね。

 

【布野】林さん、「やってほしかった」ではなく、「自分がやる」でいいのではないですか?

 

【林】そうですね(笑)。それで、身近なところでは似たことを試みたのです。日建設計は株式会社になっていますが、株主は社外にはいないんです。社員が株を持っている。株式会社という公共的な法人形態としては、良くないことかもしれませんが、外に変な株主が出て、この頃のように買い取られては大変だから、やらなくてよかった(笑)。持ち株会のようなものを作りまして、社員がみんな株主で運営している形態が今日でもできるのですが、人に言っても関心を示してくれないし、宣伝のしようもないですから、きちんと公に法人形態を作らなければいけない。これからの課題だと思います。

 

■前川國男展をどう見るか

 

【布野】今の日本建築家協会はどうなのでしょうか? この間の耐震偽装問題で、会長の小倉善明さんが、銀座でビラを配っていました。「自分たち建築家と、今回の問題を起こした建築士は違います」という内容のビラです。本当にそれで良いのかどうか、疑問ですね。前川さんなら、けっしてそうは言わなかったはずです。

 それでは、最後に一言ずつ、今回の前川國男展を、若い人にどう見てほしいか、をお話いただけますか。

 

【鬼頭】どう見てほしいって、よく見てほしい(笑)。展覧会には作品が出ていますが、松山さんも言われたように、同じく会場に展示されている前川さんの文章がすごいんですよ。若い方には、ちょっとわかりにくいとは思いますが、ぜひ読んでほしいですね。

 

【布野】私は、「バラックを作る人はバラックを作りながら全環境に目を注げ」という言葉が一番好きです。

 

【鬼頭】『建築の前夜』が、文集としては一番充実しています。会場でよく見てよく読んで、もういっぺん文集も読んでいただくといいな、と思っています。

 

【松山】今、耐震偽装問題が騒がれていますが、そうした事件が起きた中で、展覧会をきちんと見てほしい。世の中はコンピュータを動かすと儲かる仕組みになっていますが、建築という実体を伴ったモノを作ることがどれほど面白いことか、責任はありますが、それをぜひ感じ取ってほしいですね。

「モラル」という言葉の意味を勘違いして、「法律を守ればモラルだ」、などという馬鹿なことを言う人がいますが、とんでもないことです。モラルが一番なくなるのは戦争のときです。当たり前ですが、戦争になれば、法律も教育も人を殺せというのです。そういう時代の中で、彼はデザインの自由がなくなるからと、日本的な屋根だけでなく、いろいろなデザインがあることを主張したのです。そうした深く考え抜かれたものが実感の中で育てられて生きていく。建築とは、本来そういうものです。でも、先のことなど考えず、とりあえず作ってしまえばいい、ということで、今の建築や都市の末期的な状態がある。前川國男は、そういうことと一番遠いところで考え続けた人です。それを読み取ってほしいと思います。

 

【林】前川國男について、もう一つ、記憶に残ったことがありました。前川さんが作った建築は安物というかバラックだと言った人がいました。私もずっとそう思っているのです。「日本相互銀行本店」などは、今にして思えば、安物ですね。しかし、当時はそれどころではなくて、とても贅沢な感じを我々は持った。それだけ、世の中が変わって贅沢になったのです。でも、贅沢になった意味は何なのだろうか、とこの頃ずっと考えさせられています。贅沢になる意味はあるのかないのか。建築というのは安物ではいけないのか。むしろ安ものだっていいではないか。ものがなくて、お金がなくて、非常に貧しい状態で作ったものに、とても貴重なものがあるぞ、ということを、今日は最後に言っておきたいと思います。

 

【布野】今日は、みなさんには迷惑だったかもしれませんが、自分自身が楽しむつもりで司会をしました。充分楽しみました。これで、シンポジウムを終わらせていただきます。

 

【松隈】パネラーの方々が、舞台裏を見せるような形でお話しされたので、かえって前川國男についての視点が広がり、次の機会につなげていける印象をもちました。

私自身は、前川國男は、現在の建築や都市のあり方を考える上での大切な手がかり、「ものさし」を残してくれた人だと思います。それを共有することによっていろんなものが見えてくる。そのために展覧会を組み立てたつもりです。会場では、そうした点も見てほしいと思います。


2024年11月14日木曜日

建築が建ち上がる根源についての問いがそこにあり続ける,書評:『白井晟一の建築1 懐霄館』『白井晟一の建築Ⅱ 水の美術館』,図書新聞3140号,20140101

 建築が建ち上がる根源についての問いがそこにあり続ける,書評:『白井晟一の建築1 懐霄館』『白井晟一の建築 水の美術館』,図書新聞3140号,20140101 



2024年9月21日土曜日

Archiーforum 裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方 、 5月26日 5:00pm~7:00 INAX大阪 1Fサロン、200105

 Archi forum

裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方

布野修司

526日 5:00pm7:00 INAX大阪 1Fサロン

 

●略歴      

1949年 島根県出雲市生まれ/松江南校卒/1972年 東京大学工学部建築学科卒

1976年 東京大学大学院博士課程中退/東京大学工学部建築学科助手

1978  東洋大学工学部建築学科講師/1984年  同   助教授 

1991  京都大学工学部建築系教室助教授

 

●著書等

       『戦後建築論ノート』(相模書房 1981

              『スラムとウサギ小屋』(青弓社 1985

              『住宅戦争』(彰国社 1989

       『カンポンの世界ーージャワ都市の生活宇宙』(パルコ出版199107

       『見える家と見えない家』(共著 岩波書店 1981

              『建築作家の時代』(共著 リブロポート 1987

       『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(共著 現代企画室)

       『建築計画教科書』(編著 彰国社 1989

       『建築概論』(共著 彰国社 1982

       『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(彰国社  199106

       『現代建築』(新曜社)

       『戦後建築の終焉』(れんが書房新社 1995

       『住まいの夢と夢の住まい アジア住居論』(朝日選書 1997

       『廃墟とバラック』(布野修司建築論集Ⅰ 彰国社 1998

       『都市と劇場』(布野修司建築論集Ⅱ 彰国社1998

       『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ 彰国社1998

『裸の建築家-タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社2000)等々

 

 

○主要な活動

 

 ◇京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ) 

 ◇建築フォーラム(AF) 

 ◇サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)

 ◇アジア都市建築研究会

 ◇木匠塾 

 ◇

 ◇

●主要な論文     

 『建築計画の諸問題』(修論)

  『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(学位論文)

 

 


[1]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのスラムの居住対策と日本の経験との比較」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その1,日本都市計画学会 学術研究論文集 19,1984

 [2]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのカンポンの実態とその変容過程の考察」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その2,日本都市計画学会,学術研究論文集20,1985

 [3]Shuji Funo:Dominant Issues of Three Typical Kampungs and Evaluation of KIP,1985, Peran Perbaikan Kampung dalam Pembangunan Kota, KOTAMADJA SURABAYA ITS

 [4]Shuji Funo:MINKA and Conventional Timber House in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS    1991

 [5]Shuji Funo:The Regional Housing Systems in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS    1991

 [6]布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03

 [7]脇田祥尚,布野修司,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,478,p61-68,1995.12

 [8]布野修司,田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,日本建築学会計画系論文集,483,p101-109,1996.05

 [9]脇田祥尚(島根女子短期大学),布野修司,牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):ロンボク島(インドネシア)におけるバリ族・ササック族の聖地,住居集落とオリエンテーション,日本建築学会計画系論文集,489,p97-102,199611

[10]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,491,p135-139,19971

[11]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,日本建築学会計画系論文集,499,p113~119,19979

[12]布野修司,山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,日本建築学会計画系論文集,502,p87~93,199712

[13]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の祭祀組織と住民組織 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その2,日本建築学会計画系論文集,503,p151-156,19981

[14]山本直彦(京都大学),布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,504,p103-110,19982

[15]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学) 沼田典久(京都大学):ジャイプルの住居類型と住区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その2,508,p121~127,19986

[16]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)における棲み分けの構造 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その3,日本建築学会計画系論文集,510,p185-190,19988

[17]田中麻里(群馬大学),布野修司,赤澤明,小林正美:トゥンソンホン計画住宅地(バンコク)におけるコアハウスの増改築プロセスに関する考察,日本建築学会計画系論文集,512,p93-99,199810

[18]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Spatial Structure of a Buddist Monastery Quater of the City of Patan, Kathmandu Valley,日本建築学会計画系論文集,513,p183~189,199811

[19]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

[20]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,日本建築学会計画系論文集,514,155-162p,199812

[21]今川朱美(京都大学),布野修司:グラスゴー・シティセンターの街路とグリッド状街区の形成」,日本建築学会計画系論文集,514,147-154p,199812

[22]竹内泰(三菱地所),布野修司:「京都の地蔵の配置に関する研究」,日本建築学会計画系論文集,520,263-270p,19996

[23]韓三建(蔚山大学),布野修司:「日本植民統治期における韓国蔚山・旧邑城地区の土地利用の変化に関する研究」,520,219-226p,19996

[24]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):ラホールにおける伝統的都市住居の構成:ラホール旧市街の都市構成に関する研究 その2,日本建築学会計画系論文集,521,p219226 ,19997

[25]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997

[26]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ・ネパール)の空間構成 その2 住居、ダルマサール、辻と住区構成,日本建築学会計画系論文集,526,p191-199,199911

[27]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):台北市の寺廟、神壇の類型とその分布に関する考察,日本建築学会計画系論文集,526,p185-192,199912

[28]トウイ(京都大学),布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,日本建築学会計画系論文集,526,p175-183,199912

[29]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Social-Spatial Structure of the Jyapu Community Quarters of the City of Patan, Kathmandu Valley, カトマンドゥ盆地・パタンのジャプ居住地区:ドゥパトートルの社会空間構造 ,日本建築学会計画系論文集,527, p177-184, 20001

[30]根上英志(京都大学),山根周,沼田典久,布野修司:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,日本建築学会計画系論文集,535, p75-82, 20009

[31]正岡みわ子(京都大学)),丹羽大介,布野修司:京都山鉾町における祇園祭と建築生産組織,日本建築学会計画系論文集,535, p209-214, 20009

[32]トウイ(神戸大学),布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,536,p163-170, 200010

[33]闕銘宗(京都大学),布野修司:寺廟、神壇の組織形態と都市コミュニティ:台北市東門地区を事例として,日本建築学会計画系論文集,537, 219-225,200011

[34]韓三建(蔚山大学),布野修司:日本植民統治期における韓国慶州・旧邑城地区の土地所有の変化に関する研究, 日本建築学会計画系論文集,538,149-156p,200012

[35]山根周(滋賀県立大学),沼田典久,布野修司,根上英志:アーメダバード旧市街(グジャラート、インド)における街区空間の構成,日本建築学会計画系論文集,538, p141-148, 200012

[36]布野修司,黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),山本直彦(京都大学),渡辺菊真(京都大学) :ジャイプルの街区とその変容に関する考察ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その3, 日本建築学会計画系論文集, 539,p119-127,20011

[37]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Ancestral Shrine and the Structure of Kathmandu Valley Towns-The Case of Thimi, カトマンドゥ盆地の町ーティミの空間構成と霊廟に関する研究 ,日本建築学会計画系論文集,540, p197-204, 20002


裸の建築家・・・タウンアーキテクト論

 

目次                                                       

はじめに・・・裸の建築家

 Ⅰ 砂上の楼閣

 第1章 戦後建築の五〇年                        

  1-1 建築家の責任

  1-2 変わらぬ構造

    a 都市計画の非体系性

    b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

    c 都市計画の事業手法と地域分断

  1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓

    a 自然の力・・・地域の生態バランス

    b フロンティア拡大の論理

    c 多極分散構造

    d 公的空間の貧困 

    e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割

    f ストック再生の技術

    j 都市の記憶

 第2章 何より曖昧な建築界

  2-1 頼りない建築家

  2-2 違反建築

  2-3 都市景観の混沌

  2-4 計画主体の分裂

  2-5 「市民」の沈黙

 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能          

 第3章 幻の「建築家」像                    

  3-1 公取問題                      

  3-2 日本建築家協会と「建築家」

  3-3 日本建築士会            

  3-4 幻の「建築士法」   

   3-5 一九五〇年「建築士法」

   3-6 芸術かウサギ小屋か

 第4章 建築家の社会的基盤

  4-1 日本の「建築家」

  4-2 デミウルゴス 

  4-3 アーキテクトの誕生

  4-4 分裂する「建築家」像

   4-5 RIBA

  4-6 建築家の資格

  4-7 建築家の団体

    4-8 建築学科と職人大学

 Ⅲ 建築家と都市計画   

 第5章 近代日本の建築家と都市計画     

  5-1 社会改良家としての建築家

   5-2 近代日本の都市計画

  5-3 虚構のアーバンデザイン

  5-4 ポストモダンの都市論

  5-5 都市計画という妖怪 

  5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

  5-7 計画概念の崩壊

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 第6章 建築家とまちづくり

  6-1 ハウジング計画ユニオン(HPU)

  6-2 地域住宅(HOPE)計画

  6-3 保存修景計画

  6-4 京町家再生論

  6-5 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

  6-5 X地区のまちづくり

 Ⅳ タウンアーキテクトの可能性

 第7章 建築家捜し                                           

  7-1 「建築家」とは何か

  7-2 落ちぶれたミケランジェロ

  7-3 建築士=工学士+美術士

  7-4 重層する差別の体系

  7-5 「建築家」の諸類型

  7-6 ありうべき建築家像

 第8章 タウン・アーキテクトの仕事

  8-1 アーバン・アーキテクト

    a  マスター・アーキテクト

    b  インスペクター

    c  環境デザイナー登録制度 

  8-2 景観デザイン 

    a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

    b 景観のダイナミズム    

    c 景観マニュアル

    d 景観条例・・・法的根拠

  8-3 タウン・アーキテクトの原型 

    a 建築主事

    b デザイン・コーディネーター

    c コミッショナー・システム

    d シュタット・アルシテクト

    e コンサルタント・・・NPO

  8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

    a 情報公開

    b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

    c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

    d 百年計画委員会

    e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

    f タウン・アーキテクトの仕事

  8-5 京都デザインリーグ

 おわりに

 

 新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直すタウンアーキテクトとしての建築家の役割

 布野修司(京都大学)

 

 松山巌に『世紀末の一年』(朝日選書、2000年)という仕事があって、その仕事をもとに100年前の日本を考えたことがある(『GA』2000年春号)。20世紀は人類史上最も激しい変化の世紀であった。にも関わらず、あまり変わらない、というより、全く「金太郎飴」だ、という思いがした。人間そう変わりはしない。100年後も、おそらく僕らは同じことを繰り返しているだろう、という思いがある。

 もちろん、この百年間における決定的な変化はある。百年前には飛行機も自動車もなかった。コンピューターについては、その変化を身をもって証言できる。パンチカードからカセット・テープ、CD-ROMまで、この間のめまぐるしい変化は想像を絶する。漢字をコード化して、ワープロソフトのプログラムを書いて喜んでいたのが馬鹿みたいだ。20世紀を主導し、支配してきたのは科学技術である。近代建築を主導してきたのも基本的には建築技術である。従って、来る世紀を占う上でも建築技術のあり方がひとつの鍵となるのであろう。情報技術(IT)が建築を変えるのだ!と扇動する建築家が既に跋扈している。しかし、百年後にも現在と同じような建築物が日本の町並みをつくっていることには変わりはあるまい。 

 

 建築家にとっての基本的テーマは空間の形式である。20世紀は、新たな都市や住居の形式を生み出してきた。その空間形式に未来はあるのか、が問われるべきだと思う。

 

 20世紀において決定的となったのは土地と建築の関係である。すなわち、建築と具体的な土地や地域社会との関係が切り離されてしまったことが大きい。ひとことで言えば、「社会的総空間の商品化」の進行である。建築生産の工業化といった方がわかりやすいかもしれない。工場生産された部品や材料でどこでも同じように建築がつくられる。結果として、世界中で同じような都市景観をわれわれは手にした(しつつある)のである。近代建築は基本的にそうした世界を目指してきたのではなかったか。だから、建築家にとって中心的課題は、依然として、近代建築の理念をどう評価批判するか、なのである。

 もちろん問題は産業社会の編成そのものである。問題は建築の領域を遙かに超えている。脱産業社会が呪文のように捉えられて既に久しいが、必ずしも行く先が見えたとは思えない。近代建築批判の課題は宙づりされたままである。

 ひとつの大きな手がかりは、「地球」という枠組みである。一個一個の建築の設計においても地球のデザインが問われているということである。『戦後建築の終焉』(1995年)で少し考えたけれど、具体的な指針は定かでない。警戒すべきは、なんでもエコロジーと言いくるめるエコ・ファシズムである。自律的(セルフ・コンテインド)な空間単位はどのような規模で成立するのか。おそらく「世界単位」論の言う地域的な圏域がグローバルに確立される必要があり、その圏域の基礎となる空間単位を具体的に提示する役割が建築家にはある、というのが直感である。

 

 日本の建築界については、戦後50年(1995)を契機に考えたことがある。休憩なしの3時間のシンポジウムを3回、司会を務めた。その記録『戦後建築の来た道行く道』(東京建築設計厚生年金基金、1995年)を読み返してほとんど付け加えることはない。この十時間に及ぶ真摯な議論を是非読んで欲しい。通奏低音となっているテーマは、建物の生命(寿命)である。端的に言って、建物をそんなに簡単に壊していいのか、ということである。資源問題、エネルギー問題など地球環境の存続が全体として問われるなかで建築と土地の関係は再度根源的に問い直されることになるであろう。

  具体的な指針としては、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社、2000年)を書いた。日本の産業社会の再編成が進行する中で、日本の建築界の構造改革(リストラ)も必然である。20世紀後半のスクラップ・アンド・ビルドの時代からストックの時代への転換が起きるとすれば、建築家の役割も変わらざるを得ない。はっきりしているのは、建築を維持管理していく仕事が増加していくことである。また、建築家がタウンアーキテクトとして地域との関係を強めざるを得ないということである。世紀半ばまでには死に逝く世代としては百年の展望は必要ないだろう。

 

建築雑誌2000122001年1月 行く世紀、来る世紀 


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裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方

布野修司

526日 5:00pm7:00 INAX大阪 1Fサロン

日本の建築家は半減してもおかしくない

新たな存在根拠を見据えない建築家に明日はない

戦後日本の建築家は何を課題として,何をなしえたのか

 

 

 結論

  建築家には、新たな空間の形式(基礎空間単位)を提出する役割がある。

  日本の建築界は再編されざるをえない 日本の社会編成 産業構造の転換

   単純化していうと日本の建築家はいらなくなる

   移行期,過渡期において三つの方向

  維持管理,改修,改築

  まちづくり

  海外

 

ネタ

 A布野研究室のアジア都市建築研究

 B京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)

 C戦後日本の建築家

 D建築界の現状

 

Ⅰ.建築デザインの潮流ーーー建築家と住宅の戦後史

 

 1.初期住宅問題と建築家

   

   ●新しい目標としての都市と住宅ーーー住宅改良雑感(後藤慶二)/社会改良家としての建築家/市街地建築物法

      ●文化生活運動の展開ーーー住宅改良と文化住宅の理想/文化生活運動の位相/

   ●民家研究の出自ーーー今和次郎のことなど

   ●戦争と住宅ーーー西山夘三の国民住居論攷

 2.戦後建築の課題としての「住宅近代化」

  

   ●ヒューマニズムの建築ーーー機能主義と素朴ヒューマニズム/近代建築論争/計画化

   ●住宅の近代化ーーーこれからのすまい/日本住宅の封建性

 

   ●伝統論争と住宅

 

 3.住宅産業と建築家

 

   ●都市への幻想ーーー小住宅作家万歳/住宅は芸術である

 

   ●マイホーム主義と住宅デザインーーー「都市住宅」派

 

   ●都市からの撤退--- 最後の砦としての住宅 自閉の回路

               近親相姦の住宅設計

      ●住宅デザインの商品化ーーー商品化住宅の様式化

 

Ⅱ.日本の住宅・・・住まいと町づくりをめぐる基本的問題

 

    ●住宅=町づくり

   ◇建築と都市の分離

   ◇大都市圏と地方

   ◇地域と普遍(国際化)

   ●論理の欠落ーーー戦後住まいの失ったもの 豊かさのなかの貧困

   ◇集住の論理

   ◇歴史の論理

   ◇多様性と画一性

   ◇地域性

   ◇直接性

 

 

 

 

 

参考

建築学生

1.背景
 児童就学数変化、建築産業の動向、建築学科の将来像(大学院含む)を考慮し、建築学科では、今後10年間の中期的視野にたって、学部定員について検討した。

1-1.就学児童数の変化の分析(文部科学省主要教育統計1.学校基本調査 入学者数の推移)
(1)
小学校入学者の数の減少
 現在の大学1回生が小学校入学時(平成元年入学)の入学者数は1,511,870名、10年後(平成10年)の入学者数は約1,217,059名で、約20%の減少である(幼稚園でも同じ比率)。即ち、大学進学率に変化がないとすると、大学入学者の数は今後10年間で20%程度減少すると予測される。

(2)
大学、大学院修士、大学院博士入学者数の過去5年の推移
 大学入学者数、大学院修士入学者数、大学院博士入学者数のここ5年間の推移は表1のようであり、減少はしておらずむしろ微増ないし増加となっている。これらの学生が小学校に入学した当時には、すでに小学校入学者数は大きく減少している。高学歴化の進行や競争率の低下によって進学率が上昇し、実数が減少していないと考えられる。

表1 大学、大学院修士、大学院博士入学者数の過去5年の推移

            大学入学者数    大学院修士入学者数      大学院博士入学者数

   平成  8年   579,148       56,567          14,345
   平成  9年   586,688       57,065          14,683
   平成10     590,743       60,241          15,491
   平成11     589,559       65,382          16,276
   平成12     599,655       70,336          17,023

今後の就学児童の大学進学率がどのように変化するかは分からないが、就学児童数の減少(20%)と大学進学者数の減少が同じとは言えない。上表からは、大学院進学者数の減少比率は、20%をはるかに下回るものと推定される。

1-2.建設(建築部門)需要の変化
 (国土交通省総合政策局情報管理部建設調査統計課 平成13年度建設投資見通し)

(1)
建設投資の動向
・平成13年度の建設投資
  政府投資 293,900億円(前年度比 5.8%減)
  民間投資 377,400億円( 同 3.6%減)
  建築投資 326,200億円( 同 5.7%減)
  土木投資 345,100億円( 同 3.5%減)
・平成13年度建設投資の実質ベース:684,100億円(前年度比4.4%減)
  政府 298,900億円( 同 5.7%減)
  民間 385,200億円( 同 3.4%減)
  建築 332,600億円( 同 5.5%減)
  土木 351,500億円( 同 3.4%減)
・平成12年度の建設投資: 703,600億円(前年度比 0.1%増)
  政府 同 1.9%減の 312,000億円
  民間 同 1.7%増の 377,400億円
  建築 同 0.2%減の 345,800億円
  土木 同 0.4%増の 357,700億円
・推移
  昭和59年度以降、建設投資は前年度比プラスで推移し平成4年度には84兆円  平成6、7年度は80兆円台を下回った(バブル崩壊後の民間建設投資の減少)。
  平成8年度は80兆円台を回復(民間住宅投資の増加による)
  平成10年度以降は70兆円強で推移
  平成13年度は、民間投資、政府投資ともに減少し、70兆円台を下回る見通し
・平成13年度の地域別(10ブロック)建設投資額
  全ての地域で前年度の水準を下回る見通し

(2)
住宅投資の動向
・平成13年度の民間住宅投資
  着工戸数 :120万戸程度(前年度並み)
  投資ベース:199,400億円(前年度比2.2%減:前年度第4四半期の着工の落込み)
・政府住宅投資と合わせた平成13年度の住宅投資全体
  21 900億円 前年度比 2.1%減
・平成12年度の新設住宅着工戸数:121.3万戸(11年度122.6万戸)
  持家   対前年比 8.0%減
  貸家    同 1.8%減
  給与住宅  同 12.8%減
  分譲住宅   11.0%増
・平成12年度の住宅投資:215,400億円(前年度比 1.2%減)

1-3.建築産業の変化の分析
 社会の仕組みが、従来型のスクラップアンドビルトからストック有効利用型へ変化しており、そこに新たな建設産業が生まれつつある。(国土交通省の建設経済局調査情報課情報政策室 新建設市場予測検討委員会 平成106月報告書)
(1)
新建設市場の概念
 建築物は竣工後、清掃・点検といった初期機能を維持するための作業を受ける。しかし、各種部材の経年劣化、或いは破損・故障などによって主として物理的耐用力が限界に達すると、修理・修繕等によって当該機能を竣工時点のレベルまで回復しようとする行為が行われる。また、社会潮流の変化に伴って求められる機能が質的に変化したり、要求レベルが高まることなどによって建築物の機能が社会的に陳腐化すると、竣工時点には備えていなかった新たな機能を付加するための工事が行われることが多い。
 以上の観点から、新建設市場を以下のように定義し、さらに「機能の変化のレベル」によって維持・補修・改修の3分野が設定される。
 ・新建設市場の定義 建築物の機能の低下速度を抑制したり、機能を向上させることにより、建築物の物理的・社会的寿命を延ばす活動、およびその周辺活動により形成される市場
 ・3分野
   維持機能のレベルの低下速度を弱める行為。
   補修陳腐化した機能を竣工時点のレベルまで回復させる行為。
   改修竣工時点を上回るレベルにまで機能を高める、或いは新たに付加する行為。
 
(2)
現在市場推計結果(1995年時点の市場規模)
1995年時点の市場規模  総額19.9兆円(名目額)
  民間非住宅 8.8兆円 全体の4割以上
  住宅(官民計) 7.3兆円
  政府非住宅 3.8兆円
・現在市場の分野別構成
  改修 8.0兆円  住宅 3.5兆円 市場総額7.3兆円の半数近く
・民間非住宅 改修(3.4兆円)、維持(3.3兆円)
・政府非住宅 補修(2.0兆円)、改修 その半数程度

(3)
将来市場予測結果 〈アンケート 19971114日~121日、有効回答数1,164
件 〉
(1)総括
1995年時点で19.9兆円を形成する新建設市場は、今後年平均2.2%のペースで拡大
し、2010年には27.6兆円と、1.5倍にまで拡大する(1995年価格ベース)。
・市場分野別の推移
  維持に比して補修・改修の伸びが高い。
  改修 年平均1.9%で堅調に推移する。 既存建築物の機能付加ニーズ
  補修 同3.0%で推移 今後政府非住宅ストックが補修適齢期を迎えるため
  維持 1.6% 基本的に従来通りの傾向
(2)改修市場の詳細
1.
住宅
 スペースの有効活用が最大 約3割
 イメージの向上
 水まわり、空気環境、光・音環境などの快適性の向上 特に空気環境
 バリアフリー化 急激な高齢化の進展
 マルチメディア対応、ホームオートメーション化、セキュリティ 情報ニーズの拡
大、   家事効率向上の必要性や防犯ニーズの高まり
 自然エネルギーの利用 これまでは太陽熱温水器が中心、太陽光発電が普及の兆し
縮小市場 
 震災への対応 新耐震基準で建設された81年以降の竣工ストックは耐震改修の母体
とはなりにくい
 火災への対応 対象となるストックは限定的

2.
民間非住宅
 OA化・快適な空気環境・イメージの向上の市場規模が大きく、これら3分野だけで改修全体の過半を占める。
 今後の推移では、他の二者に比してOA化の伸びは低い。一方、快適な空気環境・イメージ向上は、改修全体の伸び以上のペースで拡大していく。
 この他の分野では、セキュリティ、自然エネルギーの利用、ビルオートメーション化などは年平均3%以上の比較的高い伸びを確保しうる。一方、震災・火災への対応は、住宅と同様にすでに対処済みのものが多いため、縮小していく市場である。


2.建築教育および研究の将来の姿と適正な学部定員
2-1.学部学生定員の変遷
 昭和 年 45
 昭和 年 90名 高度経済成長、第一次ベビーブーム
 昭和 年 95名 臨時定員増加、第二次ベビーブーム
 平成 年 90名 臨時定員返還

2-2.学部定員減少への流れ
 ・就学児童数の減少
 ・産業構造の変化、特に旧来型の建築産業の縮小
 ・事項で述べる、学部教育から大学院教育への重点のシフトの必要性
 ・三回生からの編入枠を、従来からある高専のみでならず他大学にも広げ、目的意識の高い学生を受け入れる。
 ・京都大学との立場、役割 社会に先立って建築分野の今後の方向性を示すためにも,学部教育から大学院教育へのドラスティックな転換を行なうことが望まれる。

2-3.大学院の充実への要請
(1)
高度専門教育と先端的研究の推進
 高度専門教育、特に京都大学は大学院大学としての先端的研究の推進が産業界・社会から強く要請されている。
 建築を基本とした他分野への就職可能性が増大しており、建設産業への対応が出来ない(今年の例では、構造系は求人をこなしきれていない)。建設産業にも、新たな展開がある。高等教育の必要性が増している。

(2)
グローバリゼーションに伴う建築家資格
 グローバリゼーションに伴う建築家資格の国際共通化の観点からは、5年ないしは6年の建築家教育が世界的には標準となっており、これに比較的無理なく対応させるには4年の学部教育と2年の修士課程の教育を融合して対処するのが合理的であり、実状とも適合している。

(3)
新しい研究対象の発生
 建築学の古典的分野に対する社会的要請は少なくなってきているが,環境問題,生活習慣の変化,人口集中化,情報化,グローバル化などにともない,多くの新しい研究対象が発生してきている。京都大学は,単に住居やビルを既定の方法にしたがって建設するための人材を育成するのではなく,上記の新しい要請に対して産業構造を再編し,新しい研究教育の分野を開拓するための人材を育成する使命を有している。
 生活空間再生学 今後の発展のひとつの方向(新たな分野の必要性と大学院重点化)新建設産業

(4)
生涯教育,社会人教育
 終身雇用制の崩壊,高寿命化,教育期間の増加(高年齢化)などの社会的状況を鑑みると,生涯教育,社会人教育あるいは再就職のための再教育の要請は今後高まるものと予想される。さらに,大学と産業界の関係の変化も考えると,社会人教育の充実は必要不可欠である。

(5)
留学生の受け入れ
 グローバル化の観点からは,とくにアジア地域からの留学生のより積極的な受け入れが望まれる。

(6)
世界でも類を見ない高齢化社会の到来に伴う社会構造の変化

(7)
自己責任型社会への転換
 政府主導の規制緩和が、安全に関する分野を含め推進されている。建築分野では、H10年改正の建築基準法において、構造基準、防火規準、衛生基準の一部が性能規定化され、安全に関する国の直接規制の一部分が民間へ委譲された。これにより建設技術の新たな展開が見込まれる一方で、民間が官に頼る体質から脱却し自己責任型社会へと転換できるのか危惧される。建築物の安全に関しては、地震、台風、火災、日常事故といった種々の危険に対して総合的にバランスよく安全計画を行う職能(安全計画コーディネーター)が求められている。このような人材は、大学院レベルの教育で養成すべきものと考える。

(8)
国際調和:グローバル市場の中での日本の建設技術のイニシアティブ
 建設技術は土地に固着した技術ではあるが、一方で建築を構成する材料や部品についてはグローバル化が急速に進み、国内で使用される建築部品の多くは外国産である。これがスムーズに行われるためには、ISO(国際標準化機構)規格などの部品作りやその使い方に一定のルール化が必要である。建築技術としてルールをサポートし、日本の建築技術をルールに整合させるとともに日本の建設技術を国際的に認知させることにより、日本の国益を守り、グローバル化の中で経済摩擦の少ない国際社会を形成することができる。そのためには、学部レベルの建設技術を学んだ上で、規格、基準、規準の意味と目的などを調査・研究し、実践に適用することができる人材が必要であり、それには大学院における教育が適切と考える。

(9)
国際調和:発展途上国への/からの技術相互移転
 いわゆる発展途上国への技術移転は、主として経済原理に基づいてなされてきた傾向があるが、国際倫理に適った在り方に従うべきであろう。それには、近隣諸国・地域と対等な立場で共存できる建設技術基盤づくりが必要である。そのための人材つくりは学部4年では十分とは言えず、修士・博士課程を通じて行うことが適切である。
また、発展途上国からの留学生を受け入れ、母国の建設技術の要となるに足る十分な教育を施すことにより、建設技術のグローバル化に必要な社会基盤を作る人材を輩出すべきである。

(10)
幅広く、全国から人材(大学院生)を受け入れ、新しい血を導入することによる京都大学の活性化を図る。

(11)
学部学生の要望
 現状では、学内の学部学生ですら大学院に進学できず、自らの夢を実現するため大学院浪人をする学生が非常に多く存在する。

(12)
多領域・分野を統合する建築学
 今後はいろいろな分野との交流が必要となり、建築学は(他の分野で活躍するというよりは)他の分野を建築学に引っ張り込むことになろう。建築学は,他分野を単に寄せ集め学際領域をつくるのではなく,包括的に消化できる分野と考えられる。最終的には多くの人々が建築を重要なものと捉え,また建築はそのための求心力として適当なレベルにある。従って、周辺領域での専門教育や実務経験を有する人材にも門戸を開き,建築学の包括性を活かして大学院を充実させることも求められる姿のひとつと考えられる。

3.最終提案
 以上示したように、大学院教育に対する社会的要求は明らかであり、臨時定員の予算定員化(?)および入学定員増を提案するものである。大学院教育へのシフトを教官数を増やさずに実現するためには、同時に学部定員の削減が必要であり、以下のような提案をいたします。

3-1.改組案
(1)
学部定員について
 ・定員を10名程度削減する。
(2)
三回生からの編入枠を、高専のみでなく、他大学に広げ、10名程度確保する。
 ・入学試験は、高専編入と同時に、同じ問題で行う。
(3)
大学院定員の増加
 ・大学院修士定員を、とりあえず建築学専攻(新)で、10名程度増やす。
 ・大学院博士定員も増やせるとよいが、実状からみて可能性を検討する必要有り。
 ・幅広く、全国から大学院生を募る。
 ・増やすべき領域としては、生活空間再生学、環境・生産マネージメント、安全計画、環境保全、福祉、国際融合、生活環境情報、等々。

3-2.具体的な形
(1)
専任講座化
(2)
地球環境学専攻や国際融合創造センターへ異動する教官に対する学生定員を工学研究科にも配置する。
(3)
高等研究員

3-3.問題点
(1)
地球工学との連携
 ・環境地球工学の改組とのからみ
(2)
他大学への波及効果
 ・適正な削減数より控えめに設定するのが安全側か。
(3)
受験生への影響
 ・大学院における教育・研究の充実ということと合わせて入学定員の削減を説明し
ないと、建築に対して受験生が夢を持ちづらくする危険性がある。