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2025年1月14日火曜日

若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

 若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

布野修司対談シリーズ⑩

新たな建築家像を目指して



若林広幸

常に既成概念の解体を

お茶碗から列車まで

建築家を市長に

 

 若林広幸の名は東京にいる頃からもちろん知っていた。ライフイン京都が鮮烈だった。でも、その印象は、正直にいって、高松伸よりうまい器用な建築家が京都にいるなあ、という程度の印象であった。祇園の建築など今でも若林、高松は混同されるから、その印象は間違っていないかもしれない。

 京都に来て、何度か会った。全て酒席であった。何事かを話したのであるが、あんまり覚えていない。建築の話というより、たわいもない話が多かったからであろう。いつも何人かの建築家が同席していたせいもある。ただ、いつも、この人は建築が好きなんだなあ、という印象が残った。

 今回話を聞いてみたいと思ったのはその印象のせいである。真面目に(?)建築の話をするのは初めてであった。

 当然だけれど、「京都」が主題になった。京都について考え続けている数少ない建築家であることが、よくわかった。「若林京都市長」も悪くはない、と本気で思う。それに、軽々と建築を超えるのがいい。それこそ「口紅から機関車まで」なんでもござれ、である。建築家にとって、ラピートは実にうらやましい仕事だ。建築は理屈じゃない、というのも好きだ。しかし、京都じゃ苦労するなあ、とも思う。

 話は弾んだ。いつもそうなのであるが、テープを止めてからさらに盛り上がったのであった。

 

◆工業デザインからの出発・・・とにかく、ものがつくりたかった

布野:「たち吉」にいて独立した。若林には工業デザイナーというイメージがある。

若林:僕は工業デザイン科に行ったんだけど、とにかくものがつくりたかった。同じですよデザインは。なんでもやりたいと思ってる。

布野:ものをつくる雰囲気は僕らの時代にはまだあった。特に、京都には。

若林:工業製造関係へ行く方がエリートだった。マジですよ。普通高校はすべり止めだもん。

布野:今、「職人大学」のお手伝いをしてるんだけど、日本はとんでもない国になってきた。ものをつくる人がいない。産業全体が空洞化してる。

若林:京都にぐらい物作りが残らないとまずいよ。

布野:僕は今宇治に住んでてよく見かけるんだけど、京阪宇治の駅舎の仕事が最近の仕事の代表ですか。 

若林:必ずしも思うとおりにできなかったんだけど。

布野:切妻の屋根の連続と丸い開口部。誰のデザインだろうと思ってたら若林だった。前の方のビルは似てるけど違うよね。

若林:そう。一緒に出来たらよかったけど・・・

布野:京都もそうだけど、宇治も景観の問題でいろいろうるさいよね。色々苦労があったんじゃないですか。

若林:そうでもないですよ。風致課もスッと通ったし、賞ももらうし、喜んでもらってます。建設費はいつも苦労しますけどね。

布野:バブルが弾けてみんな渋くなった。建築は社会資本なんだから景気に左右されるんじゃ困るんだけどね。

若林:兵庫県の千草町で福祉センターのコンペとったんですよ。民間ですけどね。平成の大馬鹿門(空充秋作)で有名な町ね。

布野:ああ、仏教大学で大問題になって結局町が引き取ったやつね。

若林:しかし、最近あまりいい仕事がないね。僕には公共の仕事あんまり来ないしね。

布野:代表作は、ライフ・イン京都かな。やはり、南海電車ラピートだな。

若林:京都の漬け物屋。オムロンのリゾート・リゼートセンター。あまり注目されなかったけどなかなかいいんですよ。まあこれからでしょう。

 

◆東京は情報病・・京都の方がじっくり考えられる

布野:もともと京都出身?。

若林:京都生まれの京都育ち。伏見稲荷のすぐそば。下町の長屋みたいなところ。

布野:町中と違う?。

若林:基本的に京都は好きなんだけど、特に町中は人間関係とかごちゃごちゃして、しんどい面がある。

布野:僕も狭いと思うことが多い。デザインのソースとして京都はどう。

若林:スケールがヒューマンでしょう、京都は。東京は疲れる。京都にいる方がじっくり考えられる。東京だといつも追っかけられる気がする。情報病にかかってしまう。

布野:情報も薄っぺらな情報なんだけどね。

若林:じっくり醸成する時間的余裕は京都にある。

布野:東京は官、関西は民。東京は頭でっかち、関西は実務ということもよく言われる。

 

◆とにかくスケッチ 理屈より感性

若林:あんまり理詰めの方じゃない。感性の方を信頼しますよ。ものをつくるということは非常に曖昧なことですよね。理屈で説明しろといわれると頭がプッツンする。

布野:もともと工業デザインですよね、出身は。

若林:教育がそうだったのかな。とにかく、理屈を捏ねるんではなく、形でしめす。既成概念を崩すこと。崩した上で形にしていくことをたたき込まれた。とにかく手を動かしてスケッチ、スケッチですよ。

布野:今事務所ではCADを使う。

若林:ドラフターは一台もありません。便利だけど困るねえ。若い人はコンピューターの中で考えるから、駄目なんだ。数字で考えちゃう。基本はスケッチなんです。コンピューターはただの道具なんだから。寸法よりバランスが大事なんだ。模型も重要です。決まりさえすれば,CADが早い。

 

◆格子の美学・・・曖昧な「和」

布野:ラピートのようなデザインと建築の設計は同じなんですか。

若林:一個のお茶碗も一緒。布野:建築家になるといろいろ理屈をつけないといけなくなる。

若林:そうそう。だんだん駄目になる。でも少し理屈言おうか。ポストモダンはもう古いというけど、もともと近代建築の欠けているものを指摘したのがポストモダンだ。地域性、場所性、歴史性が大事だ、ということでしょう。京都はそうした意味で風土がはっきりしている場所だ。京都は、だから可能性がある。

布野:そこで育まれた感性に期待できる、というわけだ。

若林:そう。

布野:しかし、京都というと「和」とか「日本的なるもの」とかいうブラックホールのような議論がある。

若林:そんな難しい話じゃなくて、もっと曖昧だということ。近代の二分法じゃなくて。割り切れない多元的な部分を京都を含んでいる。白か黒かじゃなくてグレーな部分が「和」なんです。安藤忠雄さんのいう日本的なもの、というのはわかりやすい「和」だ。

布野:西欧人にはね。

若林:格子も夜と昼によって違う。音もあれば光もある。安藤さんは一旦壁をつくって自然を引き込むでしょう。内と外の交感というのはない。京都の格子は曖昧なんです。

布野:格子も京格子というけれど色々あって、京都では区別する。すごくセンシティブだ。奈良はもう少しおおらかだけど。

若林:格子の細さによって見え方が違う。間隔も大事だ。パンチングメタルでも同じことでしょう。穴の大きさと間隔によってすごく違う。

布野:お稲荷さんで遊んだことなんか関係ありますか。

若林:あれ上にのぼると行場があって、おどろおどろしいとこがある。千本鳥居を抜けていくとだんだん曖昧になっていく。

布野:わびすきの京都じゃないんだ。

若林:雅も華美もあるじゃないですか。京都には曖昧に両方があるんです。町中に。それが面白い。

布野:京都妖怪論もある。

若林:仁和寺だって極彩色だったし、京都というと枯れたお寺だけではない。激しい京都もあるんだ。

 

◆杓子定規の景観行政・・・混沌か混乱か

布野:景観行政とのドンパチも、そうした京都観が背景にあるわけだ。

若林:今、自宅を建ててるんだけど風致地区なんです。打ち放しコンクリートは駄目だという。何故だ、というと自然素材として認めてないからだという。

布野:どうしようもなく堅い。紋切り型だ。

若林:隣の石のようなものを吹き付けたマンションはなんだというと、あれにしてくれという。あんなもんは自然じゃないではないか。樹脂だ。

布野:吹き付け剤が自然ですか。困ったもんだ。表面のことしか言わないんでしょう。

若林:打ち放しは駄目だ、というのは絶対理解できない。裁判しようかと思ってるんです。少なくとも大討論会やるべきですよ。

布野:大賛成。機会をみてやろう。国立公園内の規定がきつい。曲線が駄目で、勾配屋根じゃないといけない。

若林:じゅらく壁にしろという、というけど、どこからも見えない、ということがある。

 

◆京都の虚と実・・・まちづくりにメリハリを

布野:どうすればいい。

若林:俺がチェックする。

布野:そう。誰かに任す手がある。場合によると真っ赤でもいいことあるんだから。

若林:極彩色もあったしね。布野:タウン・アーキテクト制を主張するんだけどみんなあんまり乗ってこない。なんでだろう

若林:結局ね、京都をどうしようという明確なヴィジョンがないんですよ。京都市に。

布野:集団無責任体制。でも、京都のグランド・ヴィジョンの審査したけど、五〇〇以上でてきた。そんななかになんかあると思う。

若林:問題はやるかやらないかでしょう。色々あっていい、混沌が京都の特性だ。京都は混沌では混乱し出している。僕も色々案出してるんだ。

布野:秩序と混沌のバランスが問題なんだ。

若林:風致は秩序を回復しようとしてるけど、あまりに杓子定規でマニュアル秩序だ。ぼくは京都のまちづくりについて誰もあんまり考えてないと思う。京都の建築家というのは色々考えてるようでそうでもないんですよ。

布野:確かに、小さな動きは沢山あるけれどまとまりがないように見える。

若林:外の人だって考えてませんよ。

布野:でも、京都への思いは強い。京都のグランドヴィジョンに応募してきたのは三分の一が外人だ。でも東京は少なかった。

若林:そうでしょう。東京の人だって無責任なところがあるんだ。

布野:外人の京都の捉え方はステレオタイプが多い。実際に住んでる外国人は京都は汚い町だと思ってる。

若林:京都市の方針にメリハリがないのが問題なんだ。木造にするなら徹底すればいい。凍結しろというならやればいい。超高層も欲しければどうぞ。全てが中途半端だ。

布野:地区によってやればいい。僕も思うところはあるけど、なかなか思い切ったことができない構造がある。

若林:アイデアは色々ある。小学校の統廃合にしても、あそこを木造にして職人を育てる。それで町家を維持する。布野:問題はだれがやるかだ。若林が市長やりますか。

若林:いいかもね。建築家が市長やったらいい。過去に素敵な町を残した町はみなアーティストが市長やってますよ。アートがわかる感性がないと駄目ですよ。今度のポン・デ・ザールの話でもセンスが問題だ。

布野:建築家を市長にしろって、キャンペーンしようか。

 

◆瓦アレルギーはナンセンス

布野:ところで、瓦をよく使いますよね。 

若林:好きなんですよ。燻しは、ダイキャストみたいだし。打ち放しコンクリートにあってきれいでしょう。

布野:でも建築家は嫌がりますね。収まりが難しいんだ。

若林:なんかタブーがあるんでしょう、建築界には。

布野:勾配屋根になるからね。帝冠様式を思い出す。近代建築家には耐えられない。

若林:でも土からつくる自然素材でしょう、大昔からある。

布野:山田脩二なんか、瓦使えないのは建築じゃない、という。チーム・ズーの瓦の使い方もありますね。

若林:ああいう使い方もしたいけど、京都だと難しい。伝統的な使い方が基本になる。

布野:風土性、地域性ということで、瓦というのはイージーな感じもある。

若林:下手なんだよ、みんな。近代主義にとらわれている。周りを考えれば、自然に、瓦と勾配屋根がでてくる。京都でも場所による。

布野:祇園の建物は全然違う。高松や岸和郎とは違う。若林は京都に対してはやさしいわけだ。

 

◆欲求不満が原動力

若林:結局場所ですね。場所で感じたものを表現したい。東京や大阪だと何をやってもいい感じもあるけどね。

布野:東京の作品はデザインを買われたという面があるよね。

若林:ポストモダンということでね。でも、地方都市の方が興味ありますね。都会じゃない田舎ね。面白いものがみつかりそうだ。

布野:何が手掛かりになる。若林:敷地にたったときの直感だよね。千草町の場合は、石積みのすごい伝統がある。また、たたらがあったんですね。要素で使える。

布野:意外にオーソドックスなんだ。

若林:ただ、そのまんまじゃ面白くない。近代的なメタリックなものを石積みにバーンとぶつけるとか。

布野:若林流がでてくる。

若林:都市は都市で要素をみつけるんですけどね。

布野:外国だとどうだろう。

若林:上海でやったけど、同じですね。

布野:ラピートだと製作のプロセスが違うでしょう。

若林:欲求不満かなあ。いつもなんでああいうデザインなんだろう、と思うことがある。ラピートの話の時にも、どうして電車というのはビジネスライクなんだろうと思ってた。話がきた時にはすぐ手が動くんです。

 

◆シヴィク・デザインへ

若林:最近は土木に興味があるんです。

布野:それはいい。建築家はもっと土木分野と共同すべきだと僕は思ってるんです。建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。シヴィック・デザインの領域は、建築家は得意な筈だ。

若林:この間も、学園都市について相談を受けたんですけど、何も考えずに宅地造成するんですね。山を崩して谷を埋める。自然を残してやるアイデアはいくらもある。評判はよかったんだけどもう決まっているという。

布野:そういうことが実に多い。計画の当初から参加できれば随分違うはずなんだ。土木は土を動かしていくらだから、なかなかそういかない。

若林:いや無駄ですよ。

布野:土木も変わりつつありますから可能性はあります。ダムとか道路とか、これからは無闇に造れないわけですし。ただ、建築家も実績が欲しいよね。橋梁のデザインは同じですよ。建築と。

若林:お茶碗からラピートまでなんでもやりますよ。


2025年1月13日月曜日

新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407

 新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407

布野修司対談シリーズ

新たな建築家像を目指して

新居照和・ヴァサンティ

多種多様なものの生きる原理

水は綺麗にして自然に帰せ

いずれ、インドで仕事をしたい。

 

 新居照和さんとは建築フォーラム(AF)の西成の仕事で知り合った。新居さんがインドで絵と建築を学んだことを知ってアーメダバードへ行く気になった。対談にも出てくるサグラさんにお会いしていろいろ便宜を図っていただいた。実に素晴らしい人たちである。是非、じっくり話を聞きたいと徳島へ出向いて、一日作品をみせてもらった。

 アーメダバードは、知られるようにインドの近代建築のメッカである。コルビュジェ、カーンが活躍した。二人と共同したのがドーシである。新居照和・ヴァサンティ夫妻はこのインド第一の建築家ドーシに学んだ。サグラ、ドーシ、そして末吉栄三が新居夫妻の師である。

 ほとんど欧米の建築界に眼を向けるなかでインドを修行の場とした新居さんに共感を覚える。そして、地域で全てに全力で取り組む姿勢に打たれる。僕らに欲しいのはグローバルな視野をもった地域での足についた仕事である。作品は今のところ数少ないが、うまいと思う。いずれ活躍の場が広がることは間違いない。スケールの大きい仕事を期待したい。

ユーラシア放浪からインドへ

布野:  関西大学で建築を勉強されてインドへ行かれた訳ですが、何故インドなんですか。

新居:  沖縄出身の末吉栄三先生の研究室にいて随分議論したのがきっかけです。建築学科に行ったのは父親が型枠大工をしていたこともあるんですけど。先生の影響が大きい。一九七八年に研究室でヨーロッパからユーラシアに旅行して、イランとかインドにも寄ったんです。

布野: 末吉先生は七九年に沖縄に帰られて新居さんもインドへ行く前に沖縄へ行かれますね。研究室が移ったかたちですか。

新居: ビザがなかなか下りなかったんです。末吉研究室は住宅都市計画研究室ということで、沖縄の問題とか、大阪のいろいろな不良住宅地区の問題にも取り組んでいたんです。

布野: 七九年初めに僕も東南アジアを歩き出したんですが、アジアへ行くのはまだ珍しかったですね。日本の建築家としてインドへ行くのはかなり変わっている。神谷武夫さんもインドに魅せられて最近本本を出された。ドーシさんには最初の時に合われたですね。

新居: ええ、建築旅行ですからアーメダバードへ行って偶然会ったんです。僕は四ケ月くらい歩いたんです。ギーディオンもマンフォードもよく頭に入った。ただ、もうヨーロッパの時代じゃないという気がしてた。僕らはアジアのこと知らない。ドーシさんに会って、アーメダバードは環境もいいし、経済的にも楽だし、インドがいいんじゃないか、ということになった。

布野: インドはのんびりしてる。

新居: ヨーロッパからインドへ回ってほっとしたんですね。それに建築が遙かに迫力があるでしょう、アジアの方が。ヨーロッパの近代建築に比べれば。

布野: 僕も七六年にヨーロッパをひとりで近代建築行脚したんですが、例えば、ウイーンでワグナーやロースを見ても、エルラッハのバロック建築の方が迫力ある。そして、インドの建築はそれよりすごい。

 

アーメダバード:スクール・オブ・アーキテクチャー:ドーシ研究所

新居: スクール・オブ・アーキテクチャーへ一年間通ったんです。でも修士を終えてるからと自由にさしてもらったんです。できるだけ建築を見たい、体験したいというと、ドーシさんは「いいよ、いいよ」という。とにかく見て回ったんです。遺跡なんかゴロゴロしてるんですから。

布野: すごく密度の高い設計教育をしてますね。去年行ってびっくりしました。

新居: デザイン・サーヴェイというか、フィールド・スタディをきっちりやりますね。僕も一年して、ドーシさんの研究所にいってハウジングやセツルメントのスタディをやったんです。スケッチを起こすとか、随分可愛がってもらったんです。

布野: インドで暮らすのは大変だったんじゃないですか。

新居: 家から送ってもらったお金を全部スリに盗まれた。インドに対するシンパシーがあったからすごくショックでした。徳島へ帰ってこいと何度も言われたんですが、でも絶対インドには何かあるということで粘ったんです。ドーシさんの事務所に入れてもらったとき、丁度彼女も入ってきたんです。

布野: ヴァサンティさんはどうしてアーメダバードへ来たんですか。

ヴァサンティ: ボンベイのJJスクール・オブ・アートを出たんですけど、ドーシさんの出身校でもあるんです。ドーシさんはそこからイギリスへ留学してコルビュジェに会うんですね。アーメダバードへ学生の時一度きて、古い町でしょう、この町に住みたいと思ったんです。講師になる話があって、ドーシさんの作品を見てたら、ドーシさんに会って人を捜してるという。信じられませんでした。小さい頃から、絵も好きで、理科や数学が好きだったから、建築が一番いいと思った。

布野: 運命的な出会いですね。当時スタッフは何人ぐらいですか。

ヴァサンティ: 二〇人くらい。五人ぐらいがプロジェクト・チーフかな。いろいろな人が出入りしてた。

布野: どんな仕事をやられたんですか。

新居: カーンのやったインド経営大学(IIT)がありますね。バンガロールのIITをやったんですね。

 

画家修行 サグラ師の教え

布野: ドーシさんの所は一年半ですか。その後肝炎やられて帰国されますね。

新居: 夜、英語学校に行ったり無理してたんですね。でも、インドが呼んでいるという気がしてまた戻るんです。サグラさんという画家がいて、絵を教えてもらうんです。

布野: お会いしました。お世話になりました。インドで有名な画家ですね。

ヴァサンティ: 帰ってきたのが八二年で、私はスクール・オブ・プランニング(大学院)にいくんです。

布野: すごく沢山絵を描かれてますね。

新居: スケッチ旅行に連れて行ってもらってから面白くなった。一生懸命やるもんだからサグラさんも本気で手ほどきしてくれた。キャンパスで二人で一日中絵を描いてたんです。ドーシさんも、お前ら何してるんだ、と呆れてた。よく言い合いしたりしてたから。二次元の世界に自分の感じたことを出せるのが面白くて仕方がなかった。

布野: 才能あったんですね。うらやましい。

ヴァサンティ:二年後には展覧会したんですよ。写真展もしました。

布野: 二年間絵に没頭して、経済的にはどうしてたんですか。

新居: それが問題。サグラさんが、セザンヌも売れないときは親に無心してた、というんだ。それで仕送りしてもらってたんです。迷惑かけました。身元照会に警察が来たりして、スクール・オブ・ファインアート(大学院)に入りました。結局四年間絵の勉強したことになります。

布野: 日本の建築教育ではとても学べないですね。帰国は八五年ですか。

 

東京ー沖縄ー徳島

新居: 同じ時期に東大からインド哲学を勉強しに来ていた先生がいて心配してくれましてね。東京のコンサルタントを紹介してくれたんです。日本で戦おう、とは決めてたんです。やるなら、ビジネスの中心東京がいいと思ったんです。

ヴァサンティ: 日本へ行く半年前に結婚したんです。

布野:大変だったんじゃないんですか。日本へ行くのは一大決断ですね。インドの人たちは、イギリス、欧米を向いてますよね。

ヴァサンティ: 日本へ行きたかった。二川さんの「日本の民家」とか見てたし。日本はすごくアイデンティティをもってると思ってた。

新居: 彼女はバイトで、二人で東京暮らしです。多摩ニュータウン。バブル期で忙しかったですね。いつも最終電車でした。突然、インドから来て、コピーのやり方もわからなくて。本屋へ行く時間もない。そういう頃、末吉先生から、お金払えるというんで沖縄へ行ったんです。

布野: ヴァサンティは東京で日本語覚えられたんですね。うまいですね。

新居: 電車なかでいつも勉強している。妻ながら感心しました。

布野: 沖縄では何をやられたんですか。

新居: BCS賞採った石嶺中学校かな。三年居ました。知った人ばかりでした。

布野: ようやく原点へ戻られたわけですね。

 

地域に根ざして

布野: さて、徳島へ帰られて独立されて、最初は長野の仕事ですね。

ヴァサンティ:敷地がいろいろ変わって大変でした。

新居: 自給自足できますから、ここでは。多少の貯えもあったし。三年間食うや食わずでやってました。三年かけて一軒ですよ。家具のデザインとか他にもいろいろやったんですけどこれからですね。

布野: それから今日見せて頂いた三軒の住宅と他にもあるわけですね。いよいよこれからですね。

新居: まあぼちぼちですね。いろいろ計画案はあるんです。

布野: 二人の関係は、チーフとアシスタントという関係ですか。

ヴァサンティ: 私はモデル・メーカーと子育てかな。今のところ。

布野: 国際交流ということでいろいろ委員に引っぱり出されたりするんでしょう。地元の新聞に原稿書いたり忙しい。

ヴァサンティ: 毎月のように委員会がありますが、思ったことを言ってるんです。

新居: 帰ってから、インド音楽の紹介といった活動に随分関わったんです。プレ・イベントを含めて五ヶ月ぐらい仕事しなかったぐらい。インドの魅力にとりつかれたわけですし、みんなにも知って欲しいんです。ただエスニックということで受け取って欲しくない。異文化を理解するのは大事なんです。

布野: 地域にとって二人の存在は貴重ですね。

 

合併浄化槽の思想

布野: いま一生懸命取り組んでおられることに合併浄化槽問題がありますね。インドや沖縄での経験もベースになってるんでしょう。

新居: 沖縄は水問題は深刻なんです。柳川へ行く機会があって、石井式合併浄化槽に出会ったんです。その考え方に感心したんです。

布野: 石井勲先生ですね。今日見せていただいたんですが、BODが一PPM以下ですか、かなりの高性能のようですね。あまりにきれいになるんでびっくりしました。鯉の泳ぐ池の水や散水、トイレなどに使って全く問題ない。

新居: 考え方、その原理に感心するんです。自然界というのは多様だということですね。ひとことで言うと。

布野: 具体的に言うと・・・プラスチックの容器が二万個入っているんですよね。

新居: ランダムにね。複雑な形をした容器の底を刳り抜いたやつを入れるといろいろな空間ができる。バクテリアには好気性のものと嫌気性のものとがあるんですが、好気性のものも多様なんです。多様な空間ができると溶存酸素量のヴァリエーションも多様にできる。多様なバクテリアが共存すればいろいろなものを食べる。食物連鎖も起こる。

布野: 合併浄化槽は多種多様なバクテリアを生息させる空間構造をしている。

ヴァサンティ:バクテリアは選ぶんです、自分の場所は。そして休んだり、食べたりする。人間と一緒で働くだけでは駄目。

新居: 汚物を貯めてメタンガスにするといった試みもありますよね。でもこの方法は自分たちの使ったものはきれいにして自然に帰すというところにあるんです。地下水の涵養にもなる。循環ですね。これから人間が生きていく上で地球環境というのは無視できないテーマだと思いますね。合併浄化槽を考えるだけで、そうしたテーマを考えることができるんです。大地の中に自分たちは生きているという感覚はインドがそうなんです。サグラさんも自分の家はない。大地の上に生きているという感じでした。

 

蛍が帰る:吉野川第十堰問題

新居: 寒川町というところがあるんです。合併浄化槽設置に熱心なんです。十軒のうちに三軒設置すると蛍が帰ってくるんです。一PPM以下とはいきませんが、五PPMぐらいはきちっと維持管理すればできるんです。

布野: その延長ですね。吉野川の第十堰問題に随分関わってらっしゃるのは。今日見せて頂いて、なんで可動堰が必要なのか、よくわからない。

新居: 第十堰の問題に関心を持つようになったのは地域のさまざまなつながりからですが、水と地域環境は大事だと思っていれば誰でもおかしいと思いますよ。ただ、いろいろ議論はあるんです。代替案もいくつか出されています。建築家としても、第十堰のあるあのすばらしい景観を守る提案をすべきだと思います。

布野: 長良川河口堰や諫早湾の問題と関係ありますね。僕は出雲の出身で中海干拓の問題は気にしてるんですけど、止められない事情が地方自治体にある。公共事業は全面的に見直すべきだと思います。

新居: 公共建築の発注の問題も実は値は同じなんですね。

布野: 建設業界の問題もある。

新居: 矛盾がはっきりしてきても、見直したり中止にしたりできない。

布野: でも自分たちが生きる地域の問題だ。

新居: そうです。建築家として仕事をして行くのは当然ですが、その前に地域で生きて行くわけですから環境問題に関心を抱くのは当然なんです。ましてや醜い構築物ができる。

布野: 建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。カウンター・プランはどうですか。

新居: 土木のスケールは苦手なんですけどね。河畔林とか水害防備林をつくるとか、段差を少なくしたら、とか議論を開始してるんです。

 

グローバルに考え、ローカルに行動せよ

布野: 建築家として今後何を目指しますか。

新居: 徳島だけでやろうという気はないんです。よく環境問題で言われているように、シンク・グローバリー、アクト・ローカリー。やっぱりそうかな、と。

布野: 仕事があれば・・。

新居: どこへでも行きますよ。地域を読みとりながら。どうせそんなに仕事ないだろうから、じっくりやりますよ。

布野: 夢としては・・。

新居・ヴァサンティ: インドで仕事したいというのはありますよ。 



2025年1月10日金曜日

書評 住まい学エッセンス 原広司 『住居に都市を埋蔵する ことばの発見』 平凡社 図書新聞   住居と都市:言葉と空間をめぐる格闘

 書評 住まい学エッセンス 原広司 『住居に都市を埋蔵する ことばの発見』 平凡社

図書新聞 

 

 住居と都市:言葉と空間をめぐる格闘

 布野修司

 梅田スカイビル(1993)、新京都駅ビル(1997)、札幌ドーム(2001)の3部作で知られる日本を代表する建築家、原広司、その原点には住居があり集落がある。1960年代末以降の建築理論家として、多くの著作を残した磯崎新に比べると、著書そのものは多くはない。評者の世代すなわち団塊(全共闘)世代に向かって強烈メッセージを送った『建築に何が可能か 建築と人間と』(1967)の後、『空間<機能から様相へ>』(1987)『集落への旅』(1987)まで20年の時の流れがある。そして、間を置かずに上梓されたのが本書(1990)である。そして、東京大学定年退官を記念して刊行された『集落の教え 一〇〇』(1998)を加えて4冊が主要著書である。

本書は、住まい学エッセンス・シリーズの一書として出版されたように、原広司の住居論を編んだアンソロジーである。新たに、原広司の一番弟子と言っていいプリツカー賞受賞者山本理顕への初版の編集者の植田実によるインタビュー(「建築家にして教育者」)が付されているが、山本理顕は、その中で「原広司は基本的にずっと住宅だと思います」と言っている。そして、本書のまえがき「呼びかける力」には、前三著のエッセンスが住居論の骨子というかたちで要約されているように思える。全体は、1990年までに設計された住宅をめぐって、Ⅰ 多層構造、Ⅱ 反射性住居、Ⅲ 未蝕の空間、Ⅳ 有孔体という構成で、時代を遡って自らが設計した住宅に即した論考がまとめられている。原広司の一連の住宅は、一般には知られないであろうが、特に、「粟津邸」(1972)原邸(1974)など「反射性住居」と呼ぶ一連の住宅群は、1970年代の日本の住宅を代表する作品として評価されている。

「住居に都市を埋蔵する」は、この「反射性住居」群の発表とともに、1975年に書かれた。「住居の歴史は(十全な生活を可能にする)機能的要素が都市に剥奪される歴史である」と書き出される。そして、「このままでゆけばおそらく将来はテレビしか残らないだろう・・・・建築家の創意はひとえにこの衰退した住居への逆収奪に注がれなければならない」と大きな指針が示される。時はオイルショックの渦中である。建築家たちがさまざまな都市プロジェクトを世に問うた1960年代初頭からExpo’70(大阪万博)にかけての「黄金の1960年代」が暗転、住宅の設計しか仕事が無くなった若い建築家たちを勇気づけたのは、「建築に何が可能か」「住居に都市を埋蔵する」とともに「最後の砦としての住宅設計」、そして「ものからの反撃-ありうべき建築をもとめて」(『世界』19777月)といったスローガンであった。「住居に都市を埋蔵する」は、今なお建築家の指針であり続けているといっていい。「都市はその内部の秩序を維持し、外部からの諸々の作用を制御する空間的な閾(しきい)をもっていた。空間的な閾は境界、内核、住居の配列形式によってできていた」「ひとつひとつの住居にも、こうした閾が用意されていた」など、随所にその指針が記されている。

こうして、住居を「最後の砦」として出発した建築家が、冒頭にあげた大規模な建築も手掛けることになるが、それを可能にする建築理論、建築手法が「住居に都市を埋蔵する」という理念と方法に既に胚胎されていたということである。本書を編むのと並行して「梅田スカイビル」「京都駅ビル」の設計とともに「未来都市五〇〇m×五〇〇m×五〇〇m」(1992)「地球外建築」(1995)の構想がまとめられるのである。

 その建築理論を一貫するのは画一的空間が単に集合する「均質空間」への批判=近代建築批判であり、大きく言えば「部分と全体」に関する理論である。最初の理論は「BE(ビルディング・エレメント)論」(学位論文『Building Elementの基礎論』(1965))である。ガリ版刷りの学位論文は今でも手元にあるが、数式が溢れている。原広司は「チカチカチカ数学者になりたい」(『デザイン批評』六号、1969)と書いているが、その理論の基礎には数学がある。しかし、数学で建築は組み立てられない。そこで設計理論としてまとめたのが「有孔体の理論」である。さらに「住居集合論」が集落調査をもとに組み立てられるが、基本的には、住居集合の配列を数学的モデルによって説明することに関心があったように思える。

 しかし一方、原広司の建築理論の基礎に置かれているのが「言葉の力」である。本書の副題は「ことばの発見」であり、本書は、住居の設計における言葉についての論考にウエイトを置いて編集されている。Ⅲ 未蝕の空間は、「埋蔵」、「場面」、「離立」、「下向」という言葉(概念)についての考察である。『空間<機能から様相へ>』の序には「設計は、「言葉」と空間の鬼ごっこなのだ」と書いている。すなわち、原広司は常に理論的営為と設計行為の間のギャップを意識している。そのギャップを埋めようとする試みが「空間図式論」であり、「様相論」であるが、最終的に鍵とするのが「言葉」である。本書にも所々で文学作品が言及されるが、言語表現と建築表現が同相において考究される。大江健三郎との交流が知られるが、表現空間が共有され、共鳴しあっているからであろう。

「呼びかける力」には、「告白すれば、私は「ことば」に構法上の自由度である逃げをとった。ことばの逃げによって「もの」としての住居を納めてきた。ことばは事実というより希望と幻想であり、いまもなお次にはすばらしい住居ができるかもしれないと思い続けてきた持続力である。」と書いている。

 



2024年12月24日火曜日

Mr.建築家ー前川国男というラディカリズム(前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,1996年10月)(布野修司建築論集Ⅲ収録

 Mr.建築家・・・前川國男というラディカリズム

布野修司

 

 プロローグ

 生前の前川國男にたった一度だけ合ったことがある。同時代建築研究会[i]1(一九七六年~一九九一年)の結成当初、仲間たちと日本の近代建築の歴史を生きてきた大御所に話を聞く機会を集中して持った。山口文象、竹村新太郎、浜口隆一、高山栄華、前川國男、土浦亀城・・・と、戦前戦中期の建築界の動向をめぐって次々に話を聞いて回ったのである。戦後50年を迎えた今振り返ると実に貴重な体験であったと思う。ただ、前川國男の場合、内容については印象が薄い。ほろ苦い、気恥ずかしさのみが思い出される。

 東京麻布の国際文化会館の一室であった。研究会の主旨とインタビューのテーマについて口を開いた途端、いきなり、質問が飛んできたのである。

 「君たちの言う、近代建築とは何か、まず説明して下さい。」

 一瞬、口頭試問を受けているような錯覚に陥った。最初に口を開いた手前、僕が答える羽目になった。しどろもろである。

 「近代建築とは、一般的には、鉄とガラスとコンクリートを素材とする四角い箱形の、ジャングルジムのようなラーメン構造による建築形式、いわゆるインターナショナル・スタイル(国際様式)の建築をいいます。でも、僕らは近代建築を単にスタイルの問題と考えているわけではありません。近代建築は、産業社会のあり方と密接に関わりがあり、建築の工業生産化を基本原理にしています。土地土地で固有のつくられ方をしてきた建築のあり方と近代建築は異なり、どこでも同じようにつくられることを理念とするわけで、建築の標準化、部品化を前提とします。近代建築は、工業生産化によって、安く大量の建築を人類のために供給することを理念としてきました。近代建築とは、要するに・・・・と僕は考えています。」

 実際は、よく覚えていないのであるが、以上のようなことをたどたどしく答えたように思う。

 「まあ、大体、いいでしょう。」

 合格点はそこそこもらえたらしい。門前払いは喰わなかったのである。冒頭の先制攻撃に怯んでしまったのであろう、前川國男との二時間足らずの初対面の記憶は薄い。

 ただ、「近代建築とは何か」と問いかける声だけは今も強烈に耳に残っている。

 

  日本の近代建築家=前川國男

 前川國男の建築家としての軌跡は、そのまま日本の近代建築の歴史である。少なくとも、その歴史と重なっている。日本の近代建築の歴史を一人の建築家を軸にして書くなどということは普通できるわけではない。他に挙げるとすれば、丹下健三、あるいは西山夘三が考えられるぐらいであろうか。磯崎新が、最初の四半世紀(       )を堀口捨己に、次の四半世紀(       )を丹下健三に、そして、その後を宮内康に、それぞれ代表させるユニークな歴史観を示している[ii]2けれど、普通は時代時代で代表的な建築家と作品を挙げるやり方がオーソドックスだろう。

 しかし、前川國男の場合、特権的である。前川國男とMID(                            )同人、丹下健三も含めた前川シューレを考えるとその流れは日本の近代建築の滔々たる主流である。前川國男はそれほど偉大な建築家であった。「前川國男は、おそらく誰しもが認めるように、日本近代建築の精神的支柱であった」と原広司はいう[iii]3。その評価は定まっているといっていい。

 日本の近代建築の成立時期をどう見るかは議論のあるところであるが、およそ、日本の近代建築運動の先駆けとされる日本分離派建築会の結成(一九二〇年)から「白い家」と呼ばれたフラットルーフ(陸屋根)の住宅作品が現れ出す一九三〇年代後半にかけて成立したと見ていい。普通、日本の近代建築史というと明治維新から書き起こされるのであるが、明治・大正期は、近代建築受容の基盤整備の時代であった。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその瞬間に建築家としてデビューし、その実現の過程を生きたのである。

 一九三〇年にコルビュジエのもとから帰国して以降、前川國男は全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」、「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、わかりやすくは、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けたからである。この前川國男の軌跡は、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。そして、その軌跡をもって、日本の近代建築の受容が確認できると歴史に書かれている。

 前川國男は、堀口捨己ら分離派の世代より一〇才年下であり、そうした意味では日本の近代建築の第二世代である。しかし、日本の近代建築が全面開花するのは戦後のことである。そして、戦後建築を主導したのが前川國男と丹下健三、そのシューレである。振り返ってみて、日本の近代建築の黄金時代というと、一九五〇年代、そして一九六〇年代である。建築ジャーナリズムの歴史を追ってみれば明かである。また、日本建築学会賞などの受賞歴がその輝かしい存在を示している。戦後建築の流れのその中心には、常に前川國男がいたのであった。

 

 前川國男の「暗い谷間」

 前川國男が最後までフラットルーフの国際様式によってコンペに挑み続けたというのは事実ではない。また、日本ファシズム体制に抗し続けた非転向の建築家であったというのは神話にすぎない。前川國男が侵略行為に決して荷担しなかった、というのも神話にすぎない。まして、戦争記念建築の競技設計へ参加しなかった、というのは史実に反する。その歴史は必ずしも栄光にのみ満ちた歴史ではないのである。もっともらしく語られる物語はこうだ。

 敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(一九三七年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペでは、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。

 この時期を前川國男の「暗い谷間」といい、その掘り下げを主張し続けるのが宮内嘉久である[iv]4。また、当時既に、浜口隆一が「日本国民建築様式の問題」(『新建築』 一九四四年)を書いて、日本の近代建築のはらんだ問題を指摘していたこともよく知られている。「日本的建築様式の問題」、「戦争記念建築の問題」によって、日本における近代建築の潮流が危殆に瀕し、多くの建築家が近代建築思想を放棄し、脱落したという見方は一般にも共有されているところである。

 日本ファシズム期における建築家の問題は、井上章一の『戦時下日本の建築家』[v]5が焦点を当てている。コンクリートの躯体の上に日本の伝統的な建築の屋根を乗せる帝冠様式の問題を軸に、忠霊塔(一九三九年)と大東亜記念営造計画(一九四二年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(一九四三年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題とするのである。

 井上章一が全体として主張しようとするのは、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペに相次いで一等入選することによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は日本のファシズム建築様式ではないこと、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないこと、さらに、戦時体制下における帝冠様式をモダニズム以後をめぐるものと位置づけポストモダン建築の源流とすることなどである。

 ドイツ、イタリアに比べれば、日本のファシズム体制が建築の表現に関する限り脆弱であったことはその通りであると言っていい。ただ、日本的表現の問題、日本建築様式の問題が建築家の意識の問題としてはファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは無視されてはならないと思う。また、それにも関わらず、日本の建築家が全体として日本ファシズム体制に巻き込まれていたというのもその通りである。ただ、なぜ、そのことをことさら強調するのか、という意図について異和感が残る。さらに、ファシズム体制を建築様式の問題としてのみ問うのにも不満が残る。特に、ポストモダンの源流が戦時体制下の帝冠様式にあるということになると、日本の建築モダニズムは移植される以前に超えられていたことになる。日本の近代(産業)社会のあり方との関係で近代建築のあり方を問う前川の視点からすると余りに乱暴である。前川國男における日本回帰の問題は、もう少し掘り下げられる必要がある。

 前川の戦前期の全論考は、ほとんど「伝統と創造」、そして「様式」をめぐって展開されているのだ。平良敬一は、単なるモダニストではない前川國男における日本的感性を論ずる[vi]6。また、大谷幸夫は、前川國男における伝統と近代の葛藤、あるいは調和を問う[vii]7。

 問題は、より一般的に、建築における「日本的なるもの」である。日本趣味、東洋趣味、日本建築様式である。日本の近代建築の搖籃期におけるモダニズムとリアリズム、インターナショナリズムとナショナリズムの相克が、建築における「日本的なるもの」をめぐる一貫するテーマとしてある。前川國男が引き受けようとしたのは、まさにその問題であったのではないか。そうした意味では、前川國男の、ひいては日本の近代建築の原点は、この「暗い谷間」にこそあると思う。僕らは、今猶、建築の一九三〇年代の問題を引きづっているのだ。

 単にスタイルの問題として日本のモダニズム建築のの皮相さをあげつらうことは、日本の近代建築がはらんだ根っこの問題を無化することになる。前川國男のモダニズムは、ひいては日本のモダニズム建築は果たしてそんな薄っぺらなものであったのか。前川國男が拘ったのは単なる勾配屋根ではない。単なるスタイルの問題ではない。「私の・・・主張せんとする所は決して所謂「屋根の有無」と云った枝葉な問題ではない」[viii]8のである。

 

 「ホンモノ建築」・・・前川國男のリアリズム

 前川國男の戦時体制下における、ひいては一生を賭けての闘いは、一体何に対する闘いであったのか。

 「負ければ賊軍」[ix]9以下一連の文章を読んでみればいい。怒りが行間に満ちている。この怒りは、単に若さに特有なものなのであろうか。そうではあるまい。言葉にはただならぬ力強さ、迫力がある。前川國男の闘いを、少なくとも、コンペをめぐる建築界の主導権争いや利権争い、閥や世代やコネの世界の下世話な物語に封じ込めてはならないであろう。

 前川國男には近代建築の理念についての確信があった。堀口捨己が、一九三〇年代には、茶室や草庵など日本的なるものへの傾斜を深めていったことを思うと前川國男の確信は際だっているといっていい。この確信はどこからくるのか。

 コルビュジエのアトリエでの経験が決定的であったことは間違いない。前川國男がパリに到着し、初出勤した日にコルビュジエは、竣工したばかりのガルシェのシュタイン邸(一九二七年)を見せたという。また、滞在した二年の間にサヴォワ邸(一九三〇~三一年)の設計が行われる。サヴォワ邸に象徴される近代建築の鮮烈な理念とイメージは、建築の向かうべき方向を確信させたに違いないのである。

 しかし、一方、その日本における実現のプロセスについてのとてつもない困難さが同時に意識されていた。如何に近代建築の理念を定着し、現実化するかこそが最初から問題であった。

 「負ければ賊軍」において、怒りが向けられているのは単に「東洋趣味」、「日本趣味」を旨とするコンペの規定だけではない。「負ければ賊軍」においてアジテーションの矛先は、むしろ、コンペに参加しない戦わない同世代の仲間に向けられている。ありとあらゆる機会を捉えて戦うべきだ、執務に縛られた建築家にとって「設計競技は今日の処唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識があった。コンペは手段であって目的ではないのである。

 彼の根底には、「如何に高慢な建築理論も理論は結局理論に過ぎぬではないか」[x]10という思いがあった。「足を地につけた」「執拗な粘り」が出発点から問題であった。

 「欧米の新建築家の驥尾に附して機能主義建築合理主義建築とやらを声高に叫んだ建築はあった。之を目して小児病的狂熱と罵った建築家もあった。然し此等の建築と四つに取り組んで死ぬ程の苦しみをした建築家のあった事を未だ知らない。」[xi]11

 前川國男は、死ぬ程の苦しみを引き受けようとしたのであった。前川國男の目指したのは、「平凡極まりない」「ホンモノ建築」であった。しかし、その実現は当初より容易なことではなかった。「わが国における建築技術が、いまだ近代的技術の域に達しておらぬ」し、「建築構造學、さらに建築構造学を基礎づける建築本質認識の学としての本来的な建築学の未完成が横たわる」し、・・・、要するに、日本は「建築の前夜」[xii]12なのである。

 「ホンモノ建築(の完成するのは:筆者補注)は結局社会全体にホンモノを愛する心の醸成された時である。すなわち社会全体がホンモノとなって足を地につけた有機体として活動する時である。思えば遥かな途である。」[xiii]13

 確かに、「ホンモノ建築」実現の途は、前川國男が自ら予見していたように、その一生かけても余りある遥かな途であった。

 

 「世界史的国民建築」・・・伝統と創造

 「ホンモノ建築」という概念こそ、近代建築家のものである。近代社会と建築のあり方について、また、建築の構造材料、技術と建築様式のあり方について、「正しい」、「ホンモノ」の関係、普遍的原理があるというのが前川の確信であった。

 ところが、前川國男は、やがて「日本精神の伝統は結局「ホンモノ」を愛する心であったではないか。」[xiv]14という。ここに、日本建築の伝統とモダニズムの受容をめぐるひとつの解答がある。すなわち、日本建築の伝統の中に近代建築の理念、原理、すなわち「ホンモノ」の原理を見る、そうした主張がここにある。

 「渡来して百年にも満たざる此新構造を用いて如何にして二千年の歴史を持つ日本木造建築の洗練さをその形式の上から写し得るであろうか」と、前川は「我々は日本古来の芸術を尊敬すればこそ敢えて似非非日本建築に必死の反対をなし」た。建築というのは、時代時代の構造材料に「一大関係を有って生まれ出でたもの」である[xv]15。前川國男にとって、重要なのは、「一にも二にも原理の問題」[xvi]16であった。浜口隆一によれば、問題はスタイルではなく、フォルムということになる。

 日本趣味、東洋趣味を条件として規定した戦前期のいくつかのコンペが象徴するように、しばしば建築表現の問題は様式(スタイル)の問題として争われる。国際様式か、帝冠様式か、というのはわかりやすい図式である。しかし、日本における近代建築の受容がスタイルの問題としてのみ議論されるところに大きな限界があった。わかりやすく言えば、木造住宅で陸屋根(フラーットルーフ)の四角な形をつくるといったことが行われてきたのである。こうした日本における近代建築受容の問題点は、戦後間もなく書かれた浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社 一九四七年)においても的確に触れられているところだ[xvii]17。

 日本においては近代建築が日本の地盤から自然に生まれたものでなく、ヨーロッパから移植されたものであり、ヨーロッパの近代建築家にとっては結果の位置にある問題に過ぎないものが、日本の近代建築家にとっては、制作にあたっての前提の位置にある問題であったこと、その結果、技術水準とスタイルにおける国際性のみを満足させるような課題のみを意識的に選んで制作することになった。

 スタイルを問題にする限り、戦中期の戦争記念建築のコンペにおける日本の伝統建築の屋根形式の採用は近代建築家にとっての屈辱であり、敗北である。浜口は、そのことにおいて日本の近代建築の潮流は、ほとんど「瀕死」の状態にたちいたったという。しかし、完全に死滅したというわけにはいかない。モニュメンタリズムには荷担したけれど様式建築(帝冠様式)には反対し続けた建築家として、丹下、前川を擁護しようとする。彼らはスタイルではなく、フォルムそのものを問題としたのであり、最後の一線は死守されたというのである。

 前川國男にとって、近代技術による新しい建築様式の建設が一大テーマであった[xviii]18。従って、木造建築についてはそう価値を置かない。「「木材」の如き自然材に依存する限り、本来的な意味に於ける近代的工業生産は當然成立し難い」[xix]19というのである。しかし、構造材料と様式の関係についての前川國男の原理的理解によれば、木造の自邸や木造であることを条件にした「在盤谷日本文化会館」の伝統的「民家」や「神明造り」の表現の採用は、必ずしも、節を曲げたことにはならないだろう。しかし、前川が次のように言う時、それは転向のひとつの形であったとみていい。すなわち、そこでは、近代建築の普遍原理が「日本原理」に無媒介的に結びつけられるのである。

 「我等の祖先が木と草とで或いは紙を加え漆喰を用いて雨を凌ぎ風を防いだあの素朴な「日本原理」に従って我等の技術を神妙に地道に衒気もなく駆使して行かねばならぬ。」

 より一般的には、桂離宮に近代建築の理念を見いだすといった形の転移がある。インターナショナルなものの日本への定着というヴェクトルから、日本的なもののなかに合理性を、ナショナルなもののなかにインターナショナルなものをみるヴェクトルへの転移がある。

 前川國男の建築観を伺う上で、戦前期における最も重要な論文は、「覚え書ーーー建築の伝統と創造について」[xx]20であろう。そこで、意匠、表現あるいは様式という建築の形の問題を基本的に文化の表現の問題として捉える前川は「創造は深く伝統を生きる事であり、伝統を生かす事は亦創造に生きる事の真相がこれであろう」といっている。そして、問題は、如何なる伝統に歴史的地盤を選ぶかである。そこでキーワードとされるのが「世界史的国民建築」であった。「世界史的国民建築」とは何か。国民建築様式の問題は、今猶解かれていない。建築の創造と伝統をめぐる前川の問いは今日猶開かれたままである。

 

 ラディカル・ラショナリズム

  敗戦によって、日本に近代建築が根づいていく条件が生まれる。そして、戦後復興、そして講和による日本の国際社会への復帰から高度成長期への離陸が始まる過程において、日本の近代建築は具体的な歩みを開始した。前川國男が、戦後建築の出発の当初から、その中心に位置して、近代建築の理念の日本への定着というプログラムを主導していったことは、その軌跡をみれば一目瞭然である。

 組立住宅「プレモス」は戦後建築の第一歩である。その試みは戦後建築の指針をいち早く具体的な形で示すものであった。焼け野原の新宿に建った「紀伊国屋書店」(一九四七年)は戦後建築の歴史の第一頁に挙げられる。その巨大な足跡は、誰もが認めるところである。「日本相互銀行」(一九五二年)、「神奈川県立音楽堂・図書館」(一九五四年)、「国際文化会館」(一九五五年)、「福島県教育会館」(一九五六年)、「晴海高層アパート」(一九五八年)、「世田谷区民会館」(一九五九年)、「京都会館」(一九六〇年)と続く作品群は、戦後建築の始まりにおいて光彩を放っている。建築の一九五〇年代を日本の近代建築の黄金時代と呼びうるとしたら、その栄光の大半は前川國男のものである。

 前川國男の一九五〇年代を特徴づけるのがテクニカル・アプローチである。下関市庁舎の競技設計の際に書かれた「感想」[xxi]21には、近代建築の三つの発展段階について触れられている。日本の近代建築は、未だ西欧のレヴェルには及ばない。折衷主義への闘いの第一段階を経て、第二段階の技術的取り組みの段階にあるにすぎないというのが、戦前からの前川の認識であった。「技術的諸問題への真正面的なぶつつかり、そうしたぶつつかりの只中でデザインする」、それがテクニカル・アプローチである。

 そして、さらに建築の生産全体の構造を常に問題とする視点がある。戦後の工業化住宅の先駆「プレモス」の試みがそれを象徴している。前川は、全世界、全環境を根源的に問題とする姿勢を持ち続ける。

 「一本の鋲を持ちうるにも一握のセメントを持ちうるにも国家を社会をそして農村を思わねばならぬ。」[xxii]22

 「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げと云いたいのである。」[xxiii]23

  前川國男は、こうしてとてつもない課題を近代建築家の覚悟として引き受け実践しようとしていたのである。

 日本の建築をとりまく風土には常に根源的な懐疑が向けられてきた。「国立国会図書館」のコンペをめぐる建築の著作権の問題、設計料ダンピングの問題、「東京海上火災ビル」をめぐる美観論争等々、建築界に内在する諸問題について毅然とした態度をとり続けたのが前川國男である。前川國男が建築家の鏡として多くの建築家の精神的支柱であり続けたのはそれ故にである。

 建築家の職能の確立は、なかでも終始一貫するテーマであった。その困難な課題について、繰り返し発言がなされる。「白書」[xxiv]24、「もう黙っていられない」[xxv]25、「中絶の建築」[xxvi]26などを読むと、現実への批判精神は衰えることはなかったことがわかる。その建築家論は、「今もっともすぐれた建築家とは、何も作らない建築家である」[xxvii]27という位相まで突き詰められたものだ。前川國男は、全ての根を問い続けるラディカリズムを一生失わなかったのである。

 

 未成の近代

 前川國男が無くなったのは一九八六年六月二六日のことだ。享年八一歳。その一生は、丁度一九四五年の敗戦を真ん中にして、前後四〇年となる。

 戦後五〇年を経て、時代は大きく推移した。鉄とガラスとコンクリートの四角な箱形の、国際様式の近代建築が日本列島のそこら中を覆ってしまった。近代建築の理念を実現するという、前川國男のシナリオは予定の通りり実現したのであろうか。

 半世紀の時間の流れは大きい。日本の社会の変転は目まぐるしいものがあった。産業社会の成熟があり、国際社会においては有数の経済大国になった。そうしたなかで、少なくとも建築技術の発展にはめざましいものがあった。建築生産の近代化、合理化、工業化の流れは直線的に押し進められてきたように見える。だとすれば、戦後建築の物語は既にそのシナリオ通りの結末を迎えつつあると言えるだろうか。

 しかし、前川國男にとって、おそらく建築の近代は未成のままであった。その近代建築の理念を支えた素朴な理想主義は常に日本的風土において妥協を強いられ続けてきたと言っていいからである。戦後まもなく、建築と社会をめぐるありうべき姿についての確信は、戦後社会の変転の過程で、次第に希薄化していったように見える。文章には、深い絶望が滲むようになる。

 工業化、合理化、都市化を押し進めてきた産業社会の論理が建築のあり方を大きく支配することによって、素朴なヒューマニズムを基礎にする理想主義は色褪せたものに映り始める。現実に力をもつのは、経済原理であって、産業化の論理である。建築家の自由な主体性の必要性をいかに力説し、その理念をいかに高く掲げようと現実はその理想を裏切り続ける。また、日本の建築界を支配する独特の構造も一向に変わらないという問題も大きい。設計料ダンピング、疑似コンペ、ゼネコン汚職、重層下請構造、・・・依然と少しも変わらない体質が建築界にはあるではないか。前川國男の初心、戦後建築の初心に照らす時、その物語は今猶未完であるのみならず、もしかするとふりだしにおいて足踏みを続けているのかもしれないのである。

 いずれにせよ、戦後建築の歴史は、半世紀という単純な時間的長さからいっても、既にその帰趨を見極める時に達している。前川國男の死は、既に、確実に一つの時代の終焉を告げていた、とみるべきだろう。それとともに痛切に意識されるのは、戦後建築の物語の風化であり、形骸化である。前川國男は、それほど偉大な存在であった。

 前川國男の死の三ヶ月程前、東京都新都庁舎の設計者に丹下健三が決まった。一九八〇年代初頭、「ポストモダンに出口はない」と建築のポストモダニズム批判を口にしていた、前川とともに日本の戦後建築をリードしてきたスターが、明らかにゴシック様式を思わせる歴史様式を採用して見せたことはスキャンダラスなことであった。それは、日本の近代建築の記念碑なのか、あるいは墓碑なのか。

 そのデザインは、近代建築の究極的な表現と言っていい超高層の無機的で単調なデザインを乗り越え、建築におけるシンボリズムの復権を意図するもののように見える。思い起こすべきは、「大東亜建設記念営造計画」である。丹下健三が一つの円環を閉じるように歴史様式へ再び回帰して見せたことは、時代の転換を否が応でも意識させることである。

 戦後建築の物語の終焉をやはり確認すべきなのであろう。

 

 エピローグ

 一九九四年から一九九五年にかけて、「神奈川県立音楽堂・図書館」の保存・建て替え問題が建築界の大きな問題になった[xxviii]28。曲折があった末、図書館は取り壊し、音楽堂は徹底改修というのが今の所の神奈川県の判断である。ただ、今後どう議論が深まり、どのように運動が展開するかは予断を許さない。

 神奈川県立図書館・音楽堂問題は一九五四年の竣工だから、四〇年の時の経過がある。前川の作品に限らず、戦後まもなくから一九五〇年代にかけて建てられた建築が相次いで耐用年限を迎えつつあり、戦後建築の時代の終焉を否応なく感じさせる。そして、それとともに戦後モダニズム建築の歴史的評価が大きなテーマとなるのは自然なことである。神奈川県立図書館・音楽堂の保存・建て替え問題のはらむ問題は、その空間の物理的な生死を超えたところにある。その作者である、前川国男の建築観、建築思想もまた生きた思想として同時に問われる必要がある。そしてさらに、戦後建築の50年が問われる必要がある。戦後建築は最低の鞍部で超えられてはならない。

 前川國男の一生を賭けた物語をどう引き受けるのかは、既に若い世代の問題である。前川國男のいう近代建築とは何か。前川國男の作品と論考は繰り返し読まれるべきだ。しかし、そのことと、前川國男を近代日本の生んだ、最も良心的な建築家として崇め奉り、神話化することとは無縁のことだ。言葉だけの理想はいらない。「足を地につけた」「執拗な粘り」こそ、前川國男の出発点であった。そして、全ての根を問うラディカリズムがその真骨頂である。

 最後に、前川國男の初心を引き継ぐ指針をひとつだけ繰り返そう。

 「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」

 



[i]1 宮内康、堀川勉、布野修司の三人を核として一九七六年一二月結成。当初、昭和建築研究会と称した。一九九一年一〇月宮内康死去で閉会。成果として、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室 一九八一年)、『現代建築』(新曜社 一九九二年)がある。

[ii]2 磯崎新 「戦後建築の陽画と陰画」、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、一九九五年

[iii]3 原広司 「戦後日本の近代化と前川國男」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[iv]4 宮内嘉久、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[v]5 井上章一、『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』、朝日新聞社、一九九五年

[vi]6 平良敬一、「前川國男における日本的感性」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[vii]7 大谷幸夫、「拙を守り真実を求めて」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[viii]8 前川國男、「1937年巴里萬國博日本館計画所感」、『国際建築』、    年 月号

[ix]9 前川國男、「負ければ賊軍」、『国際建築』、    年 月号

[x]10 前掲 註 

[xi]11 前川國男、「主張」、『建築知識』、     

[xii]12 前川國男、「建築の前夜」、『新建築』、一九四二年四月号

[xiii]13 前掲 註 

[xiv]14 前掲 註 

[xv]15 前掲 註 

[xvi]16 前川國男、「今日の日本建築」、『建築知識』、一九三六年一一月号。

[xvii]17 拙著、『戦後建築論ノート』「第三章 近代化という記号 一 ヒューマニズムの建築」、相模書房、一九八一年

[xviii]18 前川國男、「新建築様式の積極的建設」、『国際建築』一九三三年二月号

[xix]19 前掲 註  

[xx]20 前川國男、「覚え書」、『建築雑誌』、一九四二年一二月号

[xxi]21 『建築雑誌』、一九五一年五月号

[xxii]22 前掲 註  

[xxiii]23 前掲 註  

[xxiv]24 『新建築』、一九五五年七月号

[xxv]25 『建築雑誌』、一九六八年一〇月号

[xxvi]26 『毎日新聞』、一九七二年一月一〇日   

[xxvii]27 『建築家』、一九七一年春号

[xxviii]28 拙稿、「戦後建築50年の問いー「戦後モダニズム建築」をめぐるプロブレマティーク」、『建築文化』、一九九五年一月号


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...