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2024年11月11日月曜日
2024年10月3日木曜日
特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都「戦争と平和を問い直す」「建築と戦争 」建築とは戦うことである,キャンパスプラザ京都,2012年6月1日
特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都
キャンパスプラザ京都 20120601
戦争と平和を問い直す
「建築と戦争」 建築とは戦うことである
布野修司(滋賀県立大学)
建築計画学・地域生活空間計画学・環境設計・建築批評
[1] 戦後建築論ノート,相模書房,1981年6月15日
[2] スラムとウサギ小屋,青土社,1985年12月8日
[3] 住宅戦争,彰国社,1989年12月10日
[4] カンポンの世界,パルコ出版,1991年7月25日
[5] 戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995年8月30日
[6] 住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日
[7] 廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998年5月10日 [8] 都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998年6月10日
[9] 国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998年7月10日
[10] 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日
[11] 曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006年2月25日
[12]建築少年たちの夢 現代建築水滸伝、彰国社、2011年6月10日
o 布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,2003年8月
o 布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,[植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:Robert Home: Of Planting and
Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、2001年7月,監訳書
o 布野修司編:『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,2005年2月
o 布野修司,カンポンの世界,パルコ出版,1991年7月
o 布野修司,曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006年2月25日
o Shuji
Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika,
o 布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008年5月
o 布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、2010年5月
o
建築と戦争
国家・様式・テクノロジー
日本建築をめぐるプロブレマティーク
1 戦争と建築:帝冠併合様式
近代建築理念の受容定着
戦争(戦時ファシズム体制)と植民地
2 丹下健三と広島平和記念館
3 白井晟一と原爆堂計画
関連年表
• 1928 日本インターナショナル建築会結成
• 1928 神奈川県庁舎竣工
• 1929 名古屋市庁舎コンペ
• 1930 明治製菓本郷店コンペ
• 1931 新興建築家連盟結成即解体:東京帝室博物館コンペ
• 1932 第一生命保険相互会社本館コンペ:東京工業大学水力実験室 岡村蚊象「新興建築家の実践とは」
• 1933 名古屋市庁舎竣工 京都市立美術館竣工:日本青年建築家連盟結成 デザム
• 1934 木村産業研究所(前川國男) バウハウス閉鎖 B.タウト来日:軍人会館竣工 築地本願寺 明治生命館:東京市庁舎コンペ:ひのもと会館コンペ
• 1935 土浦亀城邸 そごう百貨店(村野藤吾): パリ万博日本館コンペ
•
1936 国会議事堂竣工 2.26事件 落水荘:日本工作文化連盟発足
• 1937 東京帝室博物館竣工 静岡県庁舎竣工:パリ万博 日本館(坂倉準三):大連市公会堂コンペ:日支事変
•
1938 愛知県庁舎竣工 鉄鋼工作物築造禁止 国家総動員法
• 1939 忠霊塔コンペ 若狭亭(堀口捨己) 岸記念体育会館
• 1940 建築資材統制:1941 木材統制規制
• 1942 大東亜建設記念営造計画コンペ
• 1943 在盤石日本文化会館コンペ 惜檪荘(吉田五十八)
• 1944 建築雑誌休刊 浜口隆一「日本国民建築様式の問題」
• 1945 敗戦
• 1946 プレモス74: 1947
NAU結成 『ヒューマニズムの建築』『これからのすまい』
虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築
布野修司
プロローグ
白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,1975年1月号)と題した文章がそれである。・・・・
Ⅰ 白井神話の誕生
僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。・・・
公認の儀式
白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。・・・・
1968
僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった。・・・
聖地巡礼
僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。・・・
Ⅱ 建築の前夜
白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。・・・・
建築・哲学・革命
白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。・・・
スタイルとしての近代
白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930年10月3日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた。・・・
「新興建築家」の「悪夢」
前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」は、山口文象(1902~1978)の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。・・・
建築修行
1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という。レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」と答えている。・・・・
Ⅲ 建築の精神
精一杯のソーシャリズム
白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』1952年12月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』1953年8月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。・・・
原爆堂の謎
白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい。・・・
伝統・民衆・創造:縄文的なるもの
建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。・・・
Ⅳ 建築の根源
白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。・・・
木と石
「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。・・・・
アジア
西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」・・・
デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること
おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。・・・・
エピローグ
白井晟一が亡くなったのは、1983年11月21日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986年6月26日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化』1986年5月)という文章を書いた。・・・・
番外:震災復興・地域再生とコミュニティ・アーキテクト
日本建築学会・副会長
復旧復興支援部会 部会長 布野修司(滋賀県立大学)
大災害は、それが襲った社会、地域の拠って立つ基盤、社会経済政治文化の構造を露にする。東日本大震災が露にしたのは、エネルギー、資源、人材など、日本が如何に東北地方に依存してきたかということであり、少子高齢化がいきつく地域社会の近未来の姿である。復旧復興支援は、日本全体の問題である。また、東北各地の復興を考えることは、そのまま日本各地の地域社会の再生を考えることである。
東北大学大学院経済学研究科 『東日本大震災復興研究Ⅰ』
河北新報出版センター 20120317
2024年8月30日金曜日
日本の建築界は中国をどのように眺め,記述し,伝えてきたのか,書評:松原弘典『未像の大国』,図書新聞,20121201
松原弘典 『未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識』鹿島出版会、2012年5月
布野修司
奇妙な「建築」の本である。しかし、貴重な本である。
中国に拠点において建築家として活動を開始した著者が、サブタイトルにあるように、『建築雑誌』(日本建築学会、一八八七年創刊)『新建築』(一九二五年創刊)『日経アーキテクチャー』(一九七六年創刊)という三つの建築メディアの中国関連記事を取り上げて、その「中国認識」を論じたのが本書である。
学位請求論文が基になっているというのであるが、まるで全体がカタログのようで、記事の番号、発表年月、執筆者、タイトル、執筆者の属性、記事の属性に関する表が矢鱈に出てくる。序章には、先行研究として中国関連文献の解題が書かれ、巻末に別表として、記事のリストが掲げられており、「中国観」が現れている箇所が抜書きされている。また、学位請求論文とは別に、中国と深いかかわりを持ってきた先達たちに対するインタビューが掲載されている。奇妙な「建築」の本というのは、以上のような資料がふんだんに詰め込まれているのに、建築写真が一枚もないということによる印象である。そして、貴重というのは、網羅的に集められた資料のリストは様々に利用可能で有難い、という意味である。
冒頭に「日本の建築界はどのように隣国中国を眺め、記述し、伝えてきたのか」というのが本書の素朴なテーマである。本文は三章からなり、第一章では『建築雑誌』(一八八七-二〇〇八)の記事の分析、第二章では三誌(一九八五~二〇〇八)の分析、第三章では、「日本建築界の反復中国観における中国認識」と題する総合的分析が行われている。
一、日本の建築界の中国に関する記述はだれがどのように書いてきたのか、二、日本の建築界は中国のどの部分について着目してきたのか、三、日本の建築家が繰り返し持つ対中論調にはどのような傾向があるのか、というのが学位論文としてのテーマ・セッティングであり、それぞれについての解答はそう面白いものではない。例えば、一については、それぞれの建築メディアの「情報の伝達軸」が異なっていることがわかったというけれど、建築メディアを分析の対象にする以前に明らかにしておくべきことであり、わかっている(明らかにできる)ことである。また、二についても、関心の対象を大きく「技術」「社会」「場所」の三つにわけ、それぞれのメディアで重点が異なっているというだけでは、一への解答と同様な感想をもつ。興味深いのは三への解答だろう。「中国観」には一七の論点が見出され(論点より記事の主題というべきであるが)、その論調を肯定否定にわけると、一貫するもの、交代するものが反復されているというのが骨子である。中国と日本の関係が大きく変わる中で、ステレオタイプ的な中国観が反復される一方、新たな中国の発見が記事の中に見出されるのは、当然といえば当然である。
最大の結論はタイトルに示されている。「未像」というのは未だ像を結ばないという意味であろうか。日本は中国を「理解できない」のではなく、「理解したつもり」と「理解していない」の間の往復運動を繰り返しているだけだ、というのである。
タイムリーというべきか。「尖閣国有化」によって、日中関係は、過去の歴史を反復して、未曽有の緊張関係に置かれつつある。建築界に限らず、日本社会は、「理解したつもり」の中国と「理解できない」中国の間で、どう対応していいのか戸惑うばかりではないか。
実は、著者が中国を拠点にしようと決意した頃、北京で会ったことがある。これからは中国の時代だから本気でやったらいい、というと、もとよりその覚悟です、というのが答えであった。しかし、並大抵の覚悟ではなかったのであろうと、本書を読みながら思った。中国と全身で向き合うために、『建築雑誌』を創刊号からすべての記事を見つめ直す作業が必要だったのである。また、手当たり次第に中国関連文献を読み漁る必要があったのだと思う。CiiniなどによってWeb検索が容易に利用できるようになったとは言え、記事を読みこなしとおしたその作業には敬意を表したい。分析には著者自身の発言も含まれている。本書がこれから中国の建築界と向き合おうとする若い世代にとって最良のガイドになることは間違いない。
同じような作業をして『戦後建築論ノート』を書いたから、建築メディアに取り上げられた。書かれたたもののみを素材とすることの限界については痛いほどよくわかる。本書でも、その手続き、論文としてのアプローチについては繰り返し留保がなされているように思われる。インタビュー集が追補されていることは、著者自らその「隔靴掻痒」感を自覚しているからだと思う。インタビューは、実に生き生きとまとめられており、それぞれ面白く読める。中国へのスタンスは多様である。
「中国をどう語るかということが、多くの日本人にとってきわめて普遍的な問いになりうる、ということがわかったのである」というのが帯にある。「尖閣国有化」以後、中国をどう語るのか。読者は、著者の提起する普遍的な問いに真摯に向き合う必要がある。
2024年8月3日土曜日
2024年8月1日木曜日
布野修司:地域の死と再生ー建築の遺伝子 建築類型・地形・所有と所有・街区組織 場所性・地域継承空間システムと都市建築のフロンティア,『総合論文誌』第10号,2012年
布野修司:地域の死と再生ー建築の遺伝子 建築類型・地形・所有と所有・街区組織 場所性・地域継承空間システムと都市建築のフロンティア,『総合論文誌』第10号,2012年
地域の死と再生ー建築の遺伝子
1. はじめに
「アジアにおける場所性・地域継承空間システム」というのが与えられたタイトルである。加えて、アジアの近代化と都市・集落およびその場所性、アジアの各地域で継承されてきた空間システム、建築・街区・都市といったスケールの階層性と場所性、アジア型の都市、居住地の持続的な更新システムといったテーマについて論じて欲しいという。いささかピンと来ない。そもそも「アジア」「アジア型」というのがおおくくりに過ぎる。「場所性」「地域」「継承」「空間システム」というのも概念規定の幅が広い。
本稿が手掛かりとするのは「更新システム」である。建築物、それによって構成される居住地区(街区)、そして集落、都市の形態や景観がどう更新されていくのか、そのメカニズムについて考えたい。大きな視点とするのは更新システムにおいて変わるものと変わらないものである。考察の具体的資料とするのは都市組織Urban Tissue研究として展開してきた臨地調査で得られたデータである。オムニバス的にならざるを得ないが、重要と思う点を列挙してみたい。
要するに、建築と時間、都市と時間、時間の中の都市と建築の問題だと考える。時間(歴史)の中で、建築(空間)はどう変化していくのか、何が継承されるのか、何が継承されないのか、である。結論を予め述べれば、建築の遺伝子としての建築類型、土地の形、その所有の形態、集合の形式(街区形式)、コミュニティ(地域共同体)のあり方が重要だということである。全体を都市(集落)組織と呼ぶが、人類はそれぞれの地域でそれぞれのかたちをつくりあげてきた。それがどう継承されていくのか、あるいは継承されていかないのか、そのメカニズムを深いレヴェルで理解する必要があるということである。
東日本大震災で壊滅的被害を受けた地域(市町村)を見ると呆然とせざるを得ない。全く「白紙還元」されたような土地にどのような再生の契機を見出すことができるのか、継承の芽をどこに見出すことができるのか、あるいは全く新たな「空間システム」、都市(集落・街区)組織をどのように生み出すことができるのか、が問われているのだと思う。
2.
廃墟とバラック
建築と時間をめぐる基本的な問題について考えたことがある注[1])。第一に取り上げたのがA.シュペアーの「廃墟価値の理論」である。永遠の建築物を自らの名の下に残したいというA.ヒトラーの夢を実現すべく生み出されたのが、永遠の建築を建てるためには予め廃墟となった建築を建てればいい、という理論である。永遠の建築を残したいという建築家の夢は途絶えることはなく、それが不可能であることを知るが故に、廃墟となった自らの作品を予め描く建築家は少なくないのである。
もうひとつ永遠の建築をつくる方法として思い当たるのは、日本の神社(伊勢神宮)の式年造替である。形式保存の手法は、オーセンティシティを絶対化する西欧流の考えからすれば、永遠でもなんでもないということであるが、これは見事な更新システム、継承システムである。
誤解を恐れずに言えば、これは壊して建てるバラックのシステムである。上の論考では次のように書いた。
「仮設的で、アモルフで、廃材を寄せ集めてつくられるバラックは、いってみれば建築の死体である。いったん、死亡宣告を受けて、バラバラに解体された建造物の断片を寄せ集めて、それはつくられる。重要なのは、それが決して、死体置場としての廃墟ではないことである。どんなにみすぼらしいものであろうと、そこで死体の断片は生き返っているのである。そこには明らかに再生への契機がある。」
3.
カンポン・ハウジング・システム
都市組織研究の出発は、カンポンkampung(都市集落Urban Village)についての調査研究である注[2])。その全容は、学位請求論文『インドネシアの居住環境の変容とその整備手法に関する研究―ハウジング・システムに関する方法論的考察―』(1987年)、そして『カンポンの世界』(1991年)に譲りたい。
①住居の型と更新システム:「空間継承システム」という点で、第一に指摘すべきは、一見雑然と並んでいるように見える住居群が、それぞれ共通の更新(増改築)システムを持っていることである。そしてそれ以前に原型があり、標準型が成立していることである。原型とはワンルームの小屋掛け(方丈庵)であり、一部屋さらにテラスが増築され、間口に規定されて標準型ができる。標準型は敷地の条件に応じて道路に沿って増築される(図1)。単純といえば単純である。しかし、ヴァナキュラーな住居集落の空間システムとそれを支える建築形式は基本的には単純である。
②権利関係の重層性:カンポンのコミュニティの維持にとって、極めて重要な役割を果たしているのは土地建物の所有利用の諸関係の重層性である。インドネシアの場合、1960年代前半に近代的な法体系は整備されているのであるが、スラバヤのような大都市の都心でも外部の人間には把握するのが困難な権利関係が複雑に絡み合っている。この点についての評価は分かれる。自治体にとっては徴税の大きなネックになっている。しかし、コミュニティの存続が土地建物の権利関係の規定に関わっていることははっきりしている。クリアランスのための地上げは用意でなく、居住環境整備もコミュニティの同意が予め必要である。
③コミュニティの力:カンポンのコミュニティの相互扶助(ゴトン・ロヨン)活動、無尽・頼母子講の仕組み(アリサン)、町内会(RT,RW)システム、職住近接・・・は、その持続の基本システムである。しかし、この伝統を継承するコミュニティ・システムは、日本の場合、一貫して衰退してきた。その再生が問われつつある。カンポンの世界も、カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)の実施によって、新しく移住してくる層ともともとのカンポンガンの、二つの層に大きく分かれつつあり、変容しつつある。コミュニティが変容していくこと事態は自然なことである。
4. イスラームの都市原理
インドネシアのカンポンに通い続けるなかで、「イスラームの都市性」注[3])についての重点領域研究に参加することになった。インドネシアがイスラーム圏に属していたという縁である。この研究会がきっかけでロンボク島にしばらく通うことになった。チャクラヌガラというバリの植民都市を発見したことが大きい。以降、ヒンドゥー都市の原理とイスラーム都市の原理の比較が大それたテーマとなった。
イスラーム都市に関わるその後の展開を含めた総括は『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容』に譲りたい。本稿の脈略で、継承システムとしてとりあげるべきは以下である。
④相隣関係のルール:「イスラーム都市」は,迷路のような細かい街路が特徴で、全く非幾何学的で,アモルフである。全体が部分を律するのではなく,部分を積み重ねることによって全体が構成される,そんな原理が「イスラーム都市」にはある。「イスラーム都市」を律しているのはイスラーム法(シャリーア)である。また,様々な判例である。道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積である。全体の都市の骨格はモスクやバーザールなど公共施設の配置によって決められるが,あとは部分の規則によって決定されるという都市原理である。部分を律するルールが都市をつくるのであって,あらかじめ都市の全体像は必ずしも必要ではないのである。イスラームが専ら関心を集中するのは,身近な居住地,街区のあり方である(図2)。
⑤ワクフ(寄進)制度:コミュニティの持続にとって、最終的に鍵を握るのは財政的裏付けである。イスラームの教えには、平等原理があり、裕福になったムスリムはワクフ(寄進)財として資産をコミュニティに寄付をする仕組みがある。イスラーム世界の、モスク,バーザール,マドラサなどの公共施設を建設する場合に,ワクフ(寄進)制度を基本とする都市計画手法は注目すべきである。
5. ヒンドゥーの都市原理
チャクラヌガラから学んだことは諸論文注[4])にまとめたが、チャクラヌガラは、バリ・ヒンドゥーに基づく都市原理によって構成されている点で、アジアにおけるもうひとつの都市計画の脈略を想起させてくれた。チャクラヌガラは18世紀前半に計画建設されたが、ほぼ同じ時期にインドで建設されたのがラージャスタンのジャイプルである。さらに、ヒンドゥー都市の原型としてタミル・ナードゥのマドゥライの臨地調査を加えてまとめたのが『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』である。
ヒンドゥー都市の原理とイスラームの都市の原理はある意味では対極的であり、チャクラヌガラもジャイプルも中心部は整然としたグリッドパターンで構成されるが、周辺のイスラーム街区は雑然とアモルフである。
⑥コスモロジーと空間システム:ヒンドゥーの都市原理として継承される基礎となるのはそのコスモロジーである。チャクラヌガラは、各街区に寺院が配置される祭祀都市として、また整然と街区が分割されるヒンドゥー的都市計画がなされたのであるが、それがそのまま空間継承原理につながるかどうかは予断を許さない。バリ・ヒンドゥー社会も現代のグローバリゼーションの波の中にあり、急速に変容しつつある。
⑦身体寸法と空間システム:バリ・ヒンドゥーの住居・集落・都市を貫くコスモロジカルな秩序として、ミクロコスモスと考えられる身体を基礎とする寸法体系(図3)は、バリ島の景観を維持していく上で極めて有力かつ有効である。バリ島の住居集落の空間構成はこの間急激に変容しつつある。しかし、身体寸法に基礎を置く建築システムが維持される限り、集落景観は自ずと維持されていくはずだからである。
ネパール盆地についての“Stupa &
Swastika”は、まさに建築のディテールから都市空間構成まで一貫する秩序(空間システム)があることを明らかにした著書である。
6. オランダ植民都市の計画原理
カンポンが実はコンパウンドCompoundの語源であるという有力な説がある(OEDはそう説明している)ことを知ったのはカンポン研究を開始して随分たってからである。カンポンというのは、ヨーロッパ人から見てアジアの都市の極めて閉じた自立的な住区(都市組織)を指す言葉となったというのである。アフリカの集落をコンパウンドというのはカンポンに由来するのである。
それと、インドネシアの宗主国がオランダであり、そのオランダが海禁政策をとる日本と出島を通じてつながり続けたということで、オランダ植民都市研究に赴くことになった。
実は、最初の2年集中したのはイギリスの植民都市である。しかし、ロバート・ホームRobert Homeの“ Of Planting and Planning The
making of British colonial cities”(布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,2001年7月)を知って、我々には親しい近代都市計画の理念と手法を確認、近代世界システムのヘゲモニーを最初に握ったオランダの都市計画の伝統へ向かったのである。その成果の大要は『近代世界システムと植民都市』に譲りたい。本稿の脈絡で確認すべきは以下である。
⑧都市の成立根拠―都市の原型―:産業革命以降の都市がそれ以前の都市と全くその基盤を異にすることはいうまでもない。イギリスの植民都市計画がそのまま近代都市計画につながり、現代にまで直結することは前提である。オランダ植民都市の歴史を追いかけると、その建設のプロセスが都市の起源、その成り立ちを示していることである。
問題は、近代以前の都市のあり方とそれを支える仕組みが大きく異なってしまっていることである。
⑨低地の都市基盤整備:『近代世界システムと植民都市』では、触れているけれど、オランダの都市計画が得意なのは基本は低地、湿地である。明治政府が、デ・レーケ、エッシャーなどオランダの土木技術者を招いたことはよく知られているが、そこで導入された治水技術が継承可能かどうかは、東日本大震災の結果を得て、再評価すべきである。
7. 韓国近代都市景観の形成
植民都市研究は何も西欧植民都市が対象となるわけではない。都市計画の理念、手法、原理として、日本植民地都市を扱ったのが『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』である。
以上では触れなかったのであるが、植民都市の本質は、植民(支配)する側の空間システム(原理)である。日本は、朝鮮半島に日本の住宅形式(日式住宅)を持ち込んだ。また、朝鮮社会の地方支配の拠点である邑城を支配の拠点に変換した。近代において、空間の編成を決定するのは基本的に政治力学である。
⑩型の受容と変型:例えば、鉄道町の定型化された住居形式によって、畳の部屋とか押入れ、玄関といった日本の空間システムが朝鮮半島に移入され、韓国の住居は明らかに変わった。しかし、日本の住居の型がそのまま受容されていったわけではない。継承システムの問題としては、その葛藤のメカニズムに注目する必要がある。
4. まとめ
以上、あまりにも紙数が足りない。問題が絞れれば、集中して議論ができると考えるが、これまでの研究展開の中で、本号テーマに関連して議論すべき点を①~⑩にまとめた次第である。
私見ははっきりしている。何か守るべきもの(理念や歴史的記憶や現代的既得権・・・)があって、それを継承すべきであるという議論の流れには組みしないことである。全て変化していく。継承すべきものをある時点、ある形態で固定化する、というのは不自然である。
物理的な存在としての建築物は死す運命にある。その死んだ建築物を再生させる、その仕組みは人の人生の限られた時間をもしかすると遙かに超えるかもしれない。継承システムは、建築の生と死、そして再生システムをいかに構築するかどうかの問題である。地域にその再生のための遺伝子をどう組み込むかが常に問われていると考えている。
参考文献
1) 布野修司,『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学),1987年
日本建築学会賞受賞(1991年)
2) 布野修司,『カンポンの世界』,パルコ出版,1991年7月
3) 布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,2003年8月(『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳、中国建築工業出版社、2009年12月)
4) 布野修司編,『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,2005年2月
5) 布野修司編,『世界住居誌』,昭和堂,2005年12月(布野修司編:『世界住居』胡恵琴訳、中国建築工業出版社、2010年12月)
6) 布野修司,『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,2006年2月
7) Shuji Funo & M.M.Pant, “Stupa & Swastika”, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007
8) 布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008年5月
9) 布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、2010年5月
注
注[2])布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,第433号,p85-93,1992年3月。布野修司,高橋俊也,川井操,チャンタニー・チランタナット,カンポンとカンポン住居の変容(1984-2006)に関する考察,Considerations on Transformation 1984-2006 of Kampung and Kampung
Houses,日本建築学会計画系論文集,第74巻 第637号,pp.593-600,2009年3月。
注[4]) Shuji Funo: The Spatial Formation in
Cakranegara,
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