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2022年4月30日土曜日

出雲建築フォ-ラム,雑木林の世界09,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199005

 出雲建築フォ-ラム雑木林の世界09住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199005

雑木林の世界9

 出雲建築フォーラム

                                   布野修司

 

 島根県の出雲市の建築士会に呼ばれて行ってきた。いまをときめく岩国哲人市長の出雲市である。出雲市といえば、全国的には出雲大社の玄関口として知られている。その大社線も赤字ローカル線としてつい先日廃止されたぐらいだから、その知名度も当てにならないのであるが、それだけに余計、いまや岩国市長の出雲市である。米国最大の証券会社の副社長から日本の片田舎の市長へというドラスティックな転身が好奇心をそそるのであろう。この間のマスコミへの露出度は抜群である。国際派市長、田舎で奮闘、の構図である。

 ところで、出雲は僕の故郷でもある。出雲市の知井宮というところで生まれて、松江で育った。だから、出雲には随分と拘りがある。出雲主義者である。出雲大社のみならず、出雲神話に出雲風土記、荒神谷遺跡の銅剣三五八本、四隅突出型古墳なんて話になるととまらない。大和史観に対してはひとこと言わないと気がすまないのは、出雲出身だからである。

 故郷ということもあって、出雲で話すのは特別である。二、三年前、松江でしゃべる機会があったのであるが、どうにもやりにくい。親類縁者も沢山いるのだから、偉そうに構えたって駄目である。どれどれあそこの鼻垂れ小僧が帰ってきて何をしゃべるかいの、といった視線が嫌というほどわかる。だからもう、居直って、焼けくそでしゃべるしかない。次のようなことをわめいてきた。

 題して、「住まいと町づくりー-地域の「建築家」は、いま、住宅=町づくりにどう取組むのか」。以下はその時しゃべった(正確にはしゃべりたかったことの)メモである。

 

 0.はじめに◇布野姓と出雲のことなど◇日本の建築界の最近   の○○について◇研究のことなど◇『群居』のことなど◇   最近の仕事のことなど 

 Ⅰ.住まいと町づくりをめぐる基本的問題

  ●住宅=町づくり◇建築と都市の分離◇大都市圏と地方◇地   域と普遍(国際化)

  ●論理の欠落ーーー戦後住まいの失ったもの 豊かさのなか   の貧困◇集住の論理◇歴史の論理◇多様性と画一性◇地域   性◇直接性

  ●住まいと町づくりをめぐるトピックス◇「家」の産業化◇   体系性の欠如(住宅都市政策)◇グローバルな視野の欠如   ◇社会資本としての住宅◇住宅と土地の分離◇住宅問題の   階層化◇住機能の外化・家事労働のサービス産業代替◇社   会的弱者の住宅問題◇高齢者の住宅問題◇二世帯住宅

 Ⅱ.建築家と住宅

   ●住宅生産の構造と「建築家」

   ●建築家と住宅の戦後史

   ●工業化住宅と住宅設計

   ●もうひとつの指針◇アーキテクト・ビルダー◇小さな回        路◇地域に固有なハウジング・システム◇住宅=町づく        り◇オールタナティブ・テクノロジー◇プロセスとして        のハウジング◇ハウジング・ネットワーク

 Ⅲ.地域と住宅=町づくり

      ●地域と住宅あるいは住宅の地域性・地域性とは・工業化        住宅と町場・小規模住宅生産の可能性

   ●地域住宅計画の可能性と限界 ・施策の概要・施策の意義        ・施策の展開

   ●地域住宅計画と住宅設計・地域住宅工房のネットワーク        ・ハウスドクター・タウン・アーキテクト

 

 焦点は、地域住宅計画である。島根県では江津市に続いて出雲市でもHOPE計画の策定が行われつつある。コンサルにあたっているのは、木島安史、延藤安弘の熊本大コンビに、米子高専の和田嘉宥先生ほか地元の有識者である。当面の計画内容は次のようである。

 

 ①高瀬川沿線の街づくりーーー市の中央を流れる用水路沿線の環境整備。コミュニティ道路、ポケットパークの整備、町づくり協定など

 ②出雲市駅周辺地区整備誘導計画ーーー出雲風都市型中高層住宅の提案など

 ③市営団地建替計画ーーーモデル団地づくり、地域住文化の育成、地場産業の育成など

 ④ミニ開発誘導ーーーモデルミニ開発、道路位置指定による小規模宅地開発

 ⑤土地区画整理事業ーーー駐車スペースの共有化、町づくり協定、歴史的遺産の保全と活用など

 ⑥出雲屋敷記念館建設と周辺環境保全ーーー出雲風庭園、出雲屋敷移設、出雲屋敷記念館建設

 

  HOPE(Housing With Proper Environment)計画についてはもはやよく知られていよう。全国で百を超える自治体が既に取り組んでいる。建設省の施策としては画期的な施策だと思う。何が画期的かというと、第一、よくわからないところがいい。よくわからないということは、すなわち、なんでもいいということである。なんでもいいということは、当事者次第ということである。当事者次第ということは、当事者の能力が問われるということである。中央の押し付けではなく、市町村が具体的に住宅供給の計画を立てるなかで創意工夫によって町づくりを考えていく大きなきっかけとなるという意味で期待できるのである。

 しかし、というよりだからこそ、HOPE計画を始めたけれど何も動いていない自治体もなくはない。もう忘れてしまったといった自治体もある。華々しくイヴェントを打ち上げても、持続していくことは容易ではないのである。

 出雲市の場合、一九八八年から始められたばかりなのであるが、以上のように極めてオーソドックスな構えとなっている。今後が楽しみといったところである。とにかく、持続することが大きな意味をもつのである。

 一方、岩国市政としては、一刻も速く、具体的な成果を眼に見える形で示すプレッシャーがある。事務局はてんてこまいで、パニック状態といってもいい、そんな空気がひしひしと伝わってきた。なにものかが生み出される時は、こうなんだろう、と思う。ただ愚直に考えていればいいということではないのだ。持続するためには、それなりにパワーとエネルギーがいるのである。

 熱気に気押されたのであろう。出雲と松江で飲みながら、「出雲建築フォーラム」のようなものをつくろうなどという話になった。出雲出身の長谷川尭、高松伸と一緒にもう少し出雲のことに協力しろ、という。もちろん、異存があるわけはない。出雲には人一倍愛着があるのだ。とりあえず、神有月に全国から建築家たちが出雲へ参集する、そんなフォーラムのプログラムでも考えてみようかと、出雲の仲間達と考えはじめたところだ。

回想・・・編集委員会発足まで、2001年4月25日~5月22日 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日        布野修司

 『建築雑誌』編集長日誌 2001425日~2003531        布野修司

 

普段日記などつけない。試みないのだから三日坊主に終わるということもない。日常を省みようともせず、それを恥じない。生来の怠惰はどうしようもない。

そんな僕が、こともあろうに意を決して、『建築雑誌』の編集を続ける間、日誌のようなものを綴ることにした。

というのは嘘。日誌を書いて公開するように、というのは編集部の強~い要望である。編集委員会が何を考え、どのような議論を踏まえて編集作業を行っているのか、できるだけ生の声で伝えて欲しい、ということだ。

全くもって自信がないが、断る権利はなさそうだ。おそらく編集委員の助けを借りることになるに違いないけれど、気楽に編集「裏(嘘)話」など気の赴くままに記してみたい。

日記はつけない僕でも、海外を旅する時だけは、何故かいつも一冊のノートを持参して、見たこと、聞いたことをメモする習慣がある。殴り書きの間に領収書や名刺や電車の切符などべたべた張り付けるから、ノートは三倍ぐらいに膨れあがってしまうのだが、本棚を数えたらそんなノートが31冊になっている。ろくでもない記録なのに、何か貴重な財産のような気がしている。

『建築雑誌』の編集も、二年間のジャーニーjourneyと思えばいいのである。ジャーナルjournalとはそもそも日録, 日誌, 日記という意味である(2001111日)。

 

回想・・・編集委員会発足まで

2001425

 仙田満・新建築学会長、何の予告もなく、いきなり研究室(京都大学)を来訪。昨年、学会賞作品賞の審査委員会でご一緒し、京都に現場(西京極競技場屋外プール棟)があって度々京都へいらっしゃるとは聞いてはいたものの来室は初めて。入ってくるなり、「今度、学会長をやることになったので、『雑誌』をやってくれませんか」、である。唖然としながらも、口をついて出たのは「いいですよ。いつかはやってみたかった仕事ですから」であった。「いつかやってみたかった」というのは本音である。しかし、「学会長就任おめでとうございます」「ご苦労様です」ぐらい言うべきだった。仙田会長も「もし決まったら自由にやって下さい」という、それだけである。軽い打診に軽い応答。後は、連休中の現場見学の話と2日後に迫った京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の話が主であった。時間にしてわずか数分。次のアポイントメントがあって、風のように部屋を去られた。たまたま研究室に居なかったら・・・こんな話はなかったのじゃないか???

 

200157日 

427日の京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)設立大会は大盛会。今後の成長が楽しみである。その後、連休は我が家の引っ越しの荷造りでてんやわんや。そんな中、わがチームの担当地区山科を一日調査した(51日)。上京する新幹線の中でようやく『建築雑誌』のことを考える。編集委員会の組閣、特集のテーマ、アートディレクションなどが頭をめぐる。ノートを一冊用意して、色々書きつけるもののまとまらない。ホントの話カイナな?と思う。かろうじて以下のメモを作成する。

編集にあたって

 1 第一に編集委員会を刺激的で楽しい議論の場にしたい。出席して議論することに大きな意義を見出したい。

 2 編集を通じて新たなネットワークを構築したい。

3 毎号、作業の上で議論したい。作業をストックしたい。24冊(+2冊)の編集をそれぞれの業績(仕事)としてほしい。また、常設欄など一冊の本にまとめたい。

 4 学会、建築界の本質に関わる問題を常に深く考えたい。繰り返しを恐れず、テーマを深めたい。

5 分担、専門毎の編集は行わない。常に学際的、国際的、横断的な主題設定を考えたい。

6 一般にアピールできる、インパクトある内容を心がけたい。建築界をオープンに。

 7 学会の方針をわかりやすく会員に伝えたい。

 

200158

 朝、仙田会長より電話、「正式にお願いしたい」。冗談ではなかったのである。早速、組閣を開始する。多様な眼が欲しい。外人、女性の検討をつけたい。各ジャンル、業界、官界、居住地、スクール、まるでジクソー・パズルだ。関係ないけど、小泉首相の組閣が気になる。女性閣僚は5人にもなる。外国人の眼が欲しいと考えて、オランダ建築家協会の雑誌ARCHISの海外編集委員をしているトム(Thomas Daniel)のことを思い出した。三室戸(みむろと 京都府宇治市)の梅林克(F.O.B)のところで設計をしている。彼なら世界中の建築雑誌の編集者と連絡がある。ネイティブ・スピーカーに入ってもらえば何かと便利でもある。

まずは、京都大学の身近な同僚、大崎、石田の両先生に声をかけた。それぞれ構造分野と環境分野の人選を依頼する。彼らは共に『Traverse・・・新建築学研究』の編集委員でもあり気心も知れている。万が一の時や長期出張などを考えると左右両腕というか二人に任せればなんとかなるという信頼感がある。

ここ二年でどんなテーマが考えられるかも組閣の大きな要素となる。キーワードを挙げてみると、アジア、タウンアーキテクト、エコ・アーキテクチャー、構造改革、建築教育、設計者選定・・・いくらでも挙がる。心配はない。問題はエンジニアリング系である。それ以前に歴史家の眼が欲しい。奈文研(奈良国立文化財研究所)から鳥取環境大学に移った浅川君の顔が浮かんでメールを打った。

 

2001517日 

組閣は遅々として進まず。51314日、我が家の引っ越しでそれどころではない。アートディレクションを誰に頼むかは大きい。何となく切り絵の「百鬼丸」の名前が浮かぶ。彼は建築学科の出身だ。美術評論家の高島に聞いてみようと思い立つ。彼とは『群居』で長年一緒だった。元々『日本読書新聞』の編集長である。いっそ編集委員会に入ってもらってもいい。

あれこれ考えているうちに松山巌さんの貌が思い浮かんだ。京都に来てからめっきり合う機会が少なくなったけれど、この機会に月一回会えると楽しい、などと思ったら、段々その思いが強くなって抑えがきかない。津村喬、大竹誠、柏木博、真壁智治、井出建などが蝟集した『TAU』という雑誌も思い出した。松山さんに表紙をやってもらうのはどうか、と思いついてなんとなくにんまりである。彼は自らの著書の装丁を手掛けるではないか。

 

2001522

 京都CDL事務局会議。立ち上げたばかりであり、62日の京都一日断面調査(八坂神社~松尾大社)の準備で忙しい。編集委員長(図書理事)任命は61日ということで、組閣に身が入らない。いささか焦る。若手の作業部隊として、脇田、山根、青井、田中麻里の布野チルドレン(布野研究室OB)に声をかける。これまでの特集テーマ、常設欄の分析を依頼する。また、太田邦夫委員会で一緒であった先生などこれぞ、と思う先生方に編集委員の推薦を依頼する。

マラッカの住宅地 カンポン・モートン(マレーシア),家とまちなみ,住宅生産振興財団,200303 31

マラッカの住宅地 カンポン・モートン(マレーシア),家とまちなみ,住宅生産振興財団,200303 31 


マラッカのカンポン・モートン

 

布野修司

 

マラッカは古くからの交易都市として知られる。そして、1511年にポルトガルに攻略されて以降は、とりわけ東西交易の拠点として栄えた。オランダ(1641年~1795年)、イギリス(1824年~1957年)と続いたその支配の歴史を町の景観に残している。

セントポールの丘にはザビエルを埋葬したという教会が建ち、その麓にはポルトガル期のサンチャゴ砦がある。市役所などはオランダ時代のものだ。丘を取り囲む要塞部分とはマラッカ川で隔てられる市街には、インド人、マレー人、そして中国人が居住する。トゥカン・エマス通りには中国廟、モスク、ヒンドゥー寺院が並んで建っている。主要な骨格はババニョニャと呼ばれる中国人によってつくられた。トゥン・タン・チェック・ロック(ヘーレン)通りには見事にショップハウス(街屋、店屋)が並んでいる。奥行き100m近くにもなるものもある。

近々世界文化遺産へ登録申請しようかというこのマラッカの旧市街のすぐ北に、カンポン・モートンと呼ばれる不思議な住宅地がある。マラッカ川が丸く蛇行し、丁度島のような一角である。切妻屋根を連ねた高床式のマレー住居が建ち並んでいる。回りには高層ビルが建ち並び始めているから、まるでここだけタイム・スリップして、過去のマラッカに戻ったようである。

マレーシアで最も美しい村のひとつとされる。このカンポン(都市内集落)を愛し、モートンという英国人が住んだのだという。それが名前の由来である。20世紀の初頭にこの地に住み着いた一族の家、セントサ邸は、生きている博物館として観光客にも開放されている。亜鉛塗鉄板はいただけないと思うけれど、保存修景の措置はとられている。

ヌグリ・スンビラン州に西スマトラから移り住んだミナンカバ族の住居がそうであるように、農村では住居は散在するのが一般的である。このように屋根を揃えて密集する形態はかなり珍しい。しかし、カンポンというのはもともとこうした都市的集落をいう。実は英語のコンパウンドはカンポンから来ているのだ(オクスフォード英語辞典)。マラッカ、あるいはバタヴィアで見たこうした集落のあり方から、英領インドで使われるようになり、やがてアフリカの現地人集落をさす言葉にもなったのだという。