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2022年4月12日火曜日

戦後建築の70年「世界資本主義と地球のデザイン」『建築ジャーナル』2015年12月

 戦後建築の70年「世界資本主義と地球のデザイン」『建築ジャーナル』201512

戦後建築の70

 世界資本主義と地球のデザインー求められる大建築理論ー

布野修司

 

 2015(平成27)年、戦後70年目のこの1年は、間違いなく歴史を画する年になる。

 「安保法案」の成立(2015.09.19)が決定的な閾(メルクマール)である。戦後日本を支えてきたもの(「平和憲法(第九条)」に象徴されるこの国のかたち)、その存立根拠が否定されることで、その歴史を戦後の零地点にまで遡行し、改めて、戦前・戦後の連続・非連続を問わざるを得なくなる。

 

永続敗戦

 戦後政治史の脈絡においてはっきりしたのは、白井聡の『永続敗戦論』(2013年)他が指摘するように、「戦後」が終わったということ、「戦後」という歴史の枠組みの終焉が宣言されたということである。「戦後政治の総決算」「戦後レジームからの脱却」は、既に1982年の中曽根政権以降唱えられ続けられてきたのであるが、「新体制」が目指すのは、「戦争を終わらせる」国制ではなく、「戦争ができる」国制である。フクシマ(2011.03.11)を受けて改正された原子力委員会設置法(2012.06)は、「我が国の安全保障に資すること」という条件を付されて、核技術の軍事利用に道を開くものでもある。沖縄の基地の固定化は全く顧みられることはなく、「非核三原則」もなし崩しにされつつある。浮かび上がるのは、戦前・戦後の連続性である。フクシマ(2011.3.11)で、また、新国立競技場をめぐる問題で露わになったのは「無責任の体系」(丸山眞男)である。戦時下に総力戦に突き進んでいったファシズム体制と同相である。実に奇妙なのは、原子力爆弾の投下(広島1945.0806、長崎1945.0809)による敗戦(1945.08.15)によって出発した日本が,徹頭徹尾アメリカ追従、アメリカ依存であり続けてきたことである。何故、保守でナショナリストを自認する勢力がアメリカに追従するのか(「親米右翼」「親米保守」)、その奇妙な捻じれについては、日本社会の基層に戦前に遡る分厚い闇があることを指摘すべきであろう。 

 

戦前・戦後の連続・非連続

 戦後建築の歴史を遡ることによって確認されるのは戦前・戦後が截然と分離されるわけではないことである。確かに、明治以降、西欧から日本に移植された様式建築、折衷主義建築は、戦後に全く設計されなくなる。しかし、稲垣栄三の『日本の近代建築』(1959年)がつとに指摘するように、また実際、その歴史叙述を戦前期で終えているように、日本の近代建築が育ってきた歴史は明治に遡る。そして、およそ1930年代前半には近代建築の理念と方法は共有され、それを実現する体制は成立していたというのが一般的な理解である。建築における近代化、産業化の流れは戦前期から一貫するのである。この近代化、産業化の流れについては、戦後大きく疑問視されることになるが、一方で、克服すべき課題と意識された建設業界をはじめとする重層的下請構造についても温存されたように思われる。「姉歯事件」(構造計算書偽造)そして現在大きくマスコミにとりあげられる「杭打ち偽装問題」など、日本の建設業界の体質はどうしようもなく思われるほどである。

 決定的なのは、戦中期(15年戦争期)である。日本ファシズム体制が形成される中で、日本趣味や東洋趣味の建築様式、あるいは、大東亜建築様式などの概念によって建築様式の統制が行われる。いわゆる「帝冠(併合)様式」がその象徴である。この「帝冠様式」の評価をめぐって、戦前・戦後の連続・非連続の評価も分かれることになる。例えば、長谷川堯は、「帝冠様式」は、近代建築がそれぞれの地域に定着していく過程で出現する「盲腸」のようなものだとし、昭和期の建築を「昭和建築」=近代合理主義の建築と一括して規定し、全否定した上で、「大正建築」あるいは「中世の建築」を評価する構えを採った。

 しかし、屋根のシンボリズムは単にキッチュとして切捨てることのできない建築の方法の問題に関わるし、ポストモダン建築の跋扈において、また、景観規制の問題として、戦後も問われ続けることになる。また、建築における日本的なるもの、あるいは建築と地域性をめぐる議論は、1950年代の伝統論争以降も繰り返し行われることになる。そしてさらに大きな問題は、「建築新体制」(1940年)によって、建築界の全体が総動員体制、翼賛体制に巻き込まれたことである。

 

建築の1960年代

戦後建築は、「戦後民主主義」「平和憲法」の下で、戦争責任の問題を深く問い詰めることはなく、日本ファシズム体制下の建築のあり方、そして、建築家のあり方を否定することによって出発することになる。そして、「帝冠様式」に象徴される様式建築、折衷主義建築を否定することがその前提であった。すなわち、「旧体制」(日本ファシズム体制)に対して、近代建築の理念を実現することがその目標とされた。しかしやがて、近代建築の理念が目指したものと建築(生産)を支える産業化システム(経済合理主義)の関係そのものが問われ始める。こうして、日本建築における連続・非連続の問題はいささか錯綜することになる。

『戦後建築論ノート』を上梓したのは1981年である。「1960年代(高度成長時代)の建築」をどう批判的に乗り越えるかを大きく問うた。すなわち、「鉄とガラスとコンクリート」による「四角い箱型(フラットルーフのラーメン構造)」(国際様式)の建築が世界中至る所に蔓延していく情勢とそれを支える近代建築の理念と方法への疑問(近代建築批判)が執筆のモメントである。そして、1973年と1978年の2度のオイルショックが背景にあった。拡大成長から縮小(低成長)へ、高エネルギー消費から省エネルギーへ、高層から低層へ、量から質へ、・・・建築をめぐるパラダイムが大きく転換する中で、新たな建築の方向を見出したいという思いがあった。

 「ポスト・モダニズムの建築」(C.ジェンクス)と一括される建築の新たな多様な表現が産み出されつつあった。わかりやすいのはポストモダン・ヒストリシズム(脱近代歴史主義)と呼ばれる動向である。モダニズムの建築は単調で退屈だから、様式や装飾を復活しようという。しかし、問題は、単なるデザインの問題ではない。建築のあり方を全体として規定している産業化のシステムである。

 1960年代の10年間は、日本建築の、戦後のみならず日本の歴史の一大転換期である。この10年の間に草葺屋根が消えた。アルミサッシュの普及率が0%から100%になった(空間の気密性が高まり空気調和設備が急速に普及した)。工業化(プレファブ)の割合が年間新築住宅の15%を占めるに至った。日本列島の風景は1960年代に一変したのである。

『戦後建築論ノート』は、1960年代初頭に一斉に「都市づいていった(数多くの都市プロジェクトを提案した)」建築家たちが、次第に「都市からの撤退」を迫られ、1970年代に入って住宅の設計という小宇宙に封じ込められるなかで、住宅の設計を「最初の砦」として、何が構想できるかを問い、地域の生態系に基づく建築システム、産業社会から廃棄されていくものの再生などを展望したのであった。

 

戦後建築の終焉

しかし、事態はその展望の方向へは動かなかった。1980年代から1990年代にかけて日本を襲ったのはバブル経済の大波であった。世界資本主義のグローバル展開の過程で、東京は国際金融都市となる。1980年代半ばの東京論の隆盛は、東京が決定的に変質したことによる悲鳴のようなものであったと思う。おそらく、戦後日本が最も「豊かさ」の幻影に酔った時代である。海外から有名建築家が次々に日本を訪れ、ポスト・モダニズム建築の徒花が跋扈することになった。

そして、バブルが弾けた。さらに、阪神淡路大震災(1995.01.17)が起こった。

『戦後建築論ノート』を増補(第四章 Ⅱ、Ⅲ)して『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』を出したのは1995年である。戦後建築界が積み重ねてきたものは一体何だったのか?という阪神淡路大震災の衝撃が大きい。1995年も、日本の都市計画、建築の歴史におけるひとつの閾である。ヴォランティアが出現したのは阪神淡路大震災によってであり、以降、住民参加、ワークショップ型のまちづくりが一般化していくのである。タウンアーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)論をまとめた『裸の建築家』を出版したのは2000年である。

増補版では、1970年代、1980年代の日本の建築家の作品と活動をトレースし、その評価を試みた、拡大成長、格差拡大を駆動力とする産業資本主義のオールタナティブをさらに求めたいという問いは同じである。

1980年代半ば前川國男が亡くなった(1986.06.26)。そして、丹下健三が日本に帰還し、東京新都庁舎を設計し、「ポストモダンに出口はない」と発言したのは1980年代末である。戦後建築を担った建築家たちが次々に亡くなっていくことで、戦後建築の終焉が強く、意識されたことがそのタイトルに示されている。

 

建築のグローバリゼーション

そして、振り返れば、戦後建築の基盤は、1990年代初頭に大きく転換していたといっていい。日本では、昭和から平成への移行がある(1989.01.08)が、ひとつの閾となるのは1985年(昭和60年)である。この年、新築住宅戸数のうち木造住宅が5割を下回り、集合住宅が5割を超えた。1980年代は、1960年代に続く、日本建築の転換期である。しかし大きいのは、東欧革命(1989)、そしてソ連邦の崩壊(1991.12.25)という世界史の転換である。「歴史の終焉」が喧伝され、東西冷戦構造が収束した。

以降、世界資本主義の流れが加速化していくことになる。そして、1990年代に入って携帯電話が一気に普及し、ICT技術が世界のインフラストラクチャーになっていく。

増補部分の最期に主要に論じたのは、磯崎新の「デミウルゴス論」「大文字の建築」論、原広司の「均質空間論」「様相論」である。である。建築(生産、体制)の産業化に対する磯崎の「建築の解体」論、主題不在論、手法論、引用論…は、近代建築批判の大きな力になった。しかし、その批判は、一瞬の切断、仮構された平面での「建築」の自律性の主張に過ぎなかった。「大文字の建築」を殊更言い立てても、最早、どんな建築家であれ、特権的ではありえない。あらゆるデザインは、グローバリゼーションの波に飲み込まれることになるのである。

巨大な資本の流れが、世界中のタレント建築家を集め、CAD,CAM,BIMといったコンピューター技術が可能にした「アイコン」建築と呼ばれるようになる新奇な形の超高層建築や大規模建築が世界中に蔓延していくことになった。建築家そのものがブランド化し、作品ともども消費されていく状況の出現である。北京オリンピック(2002年)から上海万博(2010年)にかけての中国、リーマンショック(2008.09.15)以前のドバイがその象徴である。

 

地球のデザイン 

21世紀の初頭、アメリカ合衆国の一人勝ちの状況が現れる。世界の警察を任じ、アメリカ合衆国が世界を制覇したかに見えた。そうしたなかでセプテンバー・イレブン(2001.09.11)起こった。イラク戦争が仕掛けられ、イスラーム勢力の抵抗も拡大していくことになり、世界各地でナショナリズムが抬頭することになった。中国が経済大国となり、アメリカの相対的地位が低下、世界秩序は機軸を失いつつあるように見える。そうした中で、どういう建築が構想できるのか。

フクシマ3.11の年、『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(2011年)という本を書いた。僕より年上の建築家たち9人(集団)(安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新)についての建築家論である。建築は楽しい、楽しかった、もっと楽しい筈だ、という思いに駆られて書いた本だ。本当は、若い世代についてももう一冊書いて、その可能性をエンカレッジしたいのだけど、未だ果たせていない。

アメリカ合衆国、中国、ロシア、EUが角突合せ、イスラーム国(IS)の伸長が大量の難民を生み出すなど、世界が蕩けていく中で、世界資本主義は自己運動を続けていくだろう。各国はそれをそれぞれに制御しようとするだろう。その過程で、ナショナリズム間の対立は激化していくだろう。そうした中で、我々に必要なのは、世界の枠組みであり、世界史の理論、そしてそれに基づいた大建築理論である。

『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』では、「地球」という枠組みについて触れて締め括った。今のところ、それを繰り返すしかない。戦後、石炭から石油にエネルギー資源が変わったのは1960年代初頭である。そして、1970年代のオイルショックを通じて、地球が有限の「宇宙船地球号」であることが共通の認識になった。そして、温室効果ガスによる地球温暖化の問題が具体的な問題を引き起こしつつある。さらに、人類が制御不可能な原子力発電の放棄が絶対である。いずれも、「地球」の存続という枠組みに関わっている。

「これからの建築の展開を枠づけるのは「世界」であり、「地球」であり、「宇宙」である。…具体的に振出しに戻って、「住宅の設計を最初の砦」としたとして、そこから「地球」のシステムを問うことなど容易なことではない。だがしかし、「より豊かな部分からなる<全体>へ向かうための、地域的、場所的部分を表現してゆこうという方法」を求めるにあたって、当然問題になるのは「全体」なのである。…いずれにせよ、「日本」というフレームが失効したことは確認した方がいい。あらゆる建築的営為において、遺伝子として、「地球」のデザインというプログラムが組み込まれているかどうかが問われる、そんな時代が今始まりつつあるのである。」













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