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2023年3月24日金曜日

植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

 植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

西澤泰彦 『日本植民地建築論』 名古屋大学出版会 2008

布野修司


 

もう四半世紀前、毎日のように図書館に籠もって建築関係の古い雑誌を当たっていた大学院生の頃、気になって仕方がない雑誌の合本があった。『台湾建築会誌』『満州建築雑誌』『朝鮮と建築』という三つのバックナンバーである。日本建築の戦前・戦後の連続・非連続に焦点を当てていたのであるが、とても手を出す余裕はなかった。ただ、ここには大変な「世界」があると思った。いつか手をつけなければならないという直感から全て目次だけはコピーをとった。時を経ずアジアを臨地調査のために歩き回ることになり、結局は手つかずになった。中国にしても、韓国にしても、そして台湾にしても、当時はとても臨地調査を展開する関係になかったということもある。

アジアに向かって、すぐさまインドネシアのカンポン(都市集落)に出会った(『カンポンの世界』)。そして、カンポンの世界に導かれて、植民都市研究に赴くことになった(『近代世界システムと植民都市』)。西欧列強による植民都市や植民地建築の研究に手をつけはじめて、大きな課題として蘇るのが日本の植民都市であり、日本の植民地建築である。評者にとって、本書は、以上の経緯と関心に照らして、待望の書である。

何故、日本の植民地建築か。日本人の建設した建築物を復元・記録し、日本による支配との関係(を論じた上)で、歴史上に位置付けること、そして、旧日本植民地における建築物の再利用やそれをもとにした都市再開発を側面から援助することが目的だと、著者はいう。建築物に関する過去の情報について提供することは、侵略・支配とは直接には「無縁な」世代、すなわち「戦後世代」ができる数少ない償いだという。

日本植民地(台湾、満州、朝鮮半島)における過去の日本人による建設活動、その結果建設された建築物に関する情報ついては、本書は、現在までのところ、最も体系的なものと言っていい。本書に先行して、著者自身も参加した『中国近代建築総覧』、そしてそれを含む『全調査東アジア近代の都市と建築』(藤森照信・汪坦編、筑摩書房、一九九六年)があるが、それらはインヴェントリーに過ぎず、しかも、必ずしも網羅的なものではなかったのである。

本書は、「植民地建築とは何か」と題した序章で、問題意識や既往の研究を整理した上で、台湾総督府、朝鮮総督府などの官衙(庁舎)建築(第1章)、朝鮮銀行、台湾銀行などの銀行、満鉄などの国策会社(第2章)、学校、病院、図書館、公会堂、博物館、駅舎といった公共施設、百貨店や商店街、劇場や映画館といった民間施設(第3章)を順次取り上げている。植民地の政治、経済、社会というフレームであるが、必ずしも主要な建築物を列挙するにとどまらず、その建設活動に関わった建築家(建築技師)、建築組織を詳細に明らかにしてくれている。また、建築費についても触れられている。大連、台北、ソウルといった支配の要となった都市の全体像が欲しいというのはおそらく無いものねだりである。『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻、そして『岩波講座 「帝国」日本の学知』全八巻などを背景として読まれるべきであろう。ただ、越沢明の『植民地満州の都市計画』(アジア経済研究所、一九七八年)『満州国の首都計画』(日本経済評論社、一九八八年)『哈爾浜の都市計画』(総和社、一九八九年)といった先行研究を批判的に捉え返すためには、都市全体の構成(計画)にも触れる必要がある。また、青井哲人著『彰化 一九〇六年』(アセテート、二〇〇六年)のような様々な都市の都市史(誌)を明らかにする具体に即した作業は残されている。

個別の建設活動をつなぐ視点としてまとめられているのが「建築活動を支えたもの」(第4章)と「世界と日本のはざまの建築」(第5章)で、建築生産技術の様々な局面(蟻害対応、気候対応・・・)、建築材料、建築規則などが比較される。おそらく、本書の真骨頂は、建築技術、建築生産という建築の下部構造に関わる視点と、それを「世界建築」史に位置付けようとする視点である。もっとも、この二つの章がうまく整理されていないのが残念である。建築の様式と意匠についての記述が浮いているのも気になる。

本書が少なくとも日本の近代建築史に対して、「植民地化」という大きな視点を持ち込んだことは疑いがない。日本植民地が日本の近代建築の先駆的な実験場だ、ということはこれまで様々に指摘されてきたけれど、ここまでその実相に迫ったのは本書の大きな功績である。何故、朝鮮総督府は解体され、台湾総督府は大統領府として使われ続けるのか。旧日本植民地の現在にとっての近代とは何であったのか、本書は実に多くのことを考えさせてくれる。ただ、本書が支配とは直接「無縁な」世代の「償い」だという言い方には引っかかる。植民地建築研究そして植民都市研究は、そもそもが支配と被支配の間の文化変容に関わる研究である。植民都市は、支配する側の価値観、イデオロギーを被支配者に強いるメディアであり、植民都市はその表現である。著者が、日本の地方の建築家の建築活動と植民地の建築家の活動との同相性を指摘するように、本書のテーマはより普遍的なテーマに接続しているのである。

日本の「明治建築」も西欧から見れば植民地建築である。西欧―日本―日本植民地の相互関係をめぐって、日本植民地建築は、より複雑な様相を呈する。日本植民地という限定によって、東アジアというフレームにやはり捕らわれていると指摘せざるを得ないけれど、「世界建築」という切り口を示すところに強い共感を覚える。


2022年6月13日月曜日

スラバヤーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199311

スラバヤーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199311


 

インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅰ スラバヤ         

                 京都大学アジア都市建築研究会編

 

 日本とインドネシアは様々な歴史の糸で結ばれている。一九四二年から三年に及ぶ日本占領は不幸な歴史であった。日本軍政下の記憶はインドネシアの人々の心に深い傷跡を残している。

 もちろん、日本とインドネシアの歴史的関係ははるかそれ以前に遡る。その鍵を握るのがオランダだ。オランダは、一六世紀末にコルネリス・ド・ハウトマンの艦隊がバンテン沖に到達して以降、世界最初の株式会社と言われるオランダ東インド会社(VOC)を中心にアジア貿易に積極的に乗り出す。当初、バンテンをはじめ、ジャワのグレシク、ジェパラ、マレー半島のジョホール、パタニ、スラウェシのマカッサルなどに商館を建て、根拠地を捜すのであるが、永久的根拠地として選んだのがバタビア(現ジャカルタ 一六一七年占領)であった。

 一方、オランダと日本の出会いも一七世紀初頭のことだ。ロッテルダムの航海会社がアジアへ送ったリーフデ号が遭難し、九州の豊後に漂着したのである。一六〇〇年四月で、航海長がイギリス人ウイリアム・アダムスであった。そして、平戸にオランダ商館が開かれたのが一六〇九年、一六二四年には台湾西岸の安平にゼーランディア城を築いている。様々な経緯を経て、オランダはひとり鎖国後も交易を許されことになる。こうして日本はバタビアを通じて唯一世界へつながることになるのであるが、その交流の跡は、バンテンやジャカルタで発掘される古伊万里などの夥しい出土品が示しているところだ。

 インドネシアの今日の都市の骨格をつくりあげたのはオランダである。その影響は極めて大きかった。ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、スマランといった都市には、オランダによる植民地建築が残されており、その歴史を偲ぶことが出来る。特に、近代建築の展開が興味深い。アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、デュドックなどの影響をみることができるのである。否、影響と言うのは誤りであろう。オランダ本国と同時に、あるいは先駆けて、近代建築の作品がつくられていたのがインドネシアである。日本もまた日本分離派建築会にみられるように、オランダの近代建築の影響を強く受けてきた。ここでも三角関係が面白いと思う。

 ところで、この間の急速な都市化の波の中で、歴史的な都市遺産の問題がインドネシアにおいて大きくクローズアップされつつある。近代建築の保存の問題はいち早く日本は経験してきたのであるが、インドネシアの場合、植民地建築をどう評価するかをめぐってより複雑である。植民地建築をどう自らの伝統とするかは大問題なのである。

 ハウジングの問題を中心にインドネシアに通い出してもう久しいのであるが、カウンターパートであるスラバヤ工科大学のJ.シラス教授から都市遺産の問題の重要性と日本からの協力の要請を受けたことをきっかけに、とりあえず、主要な都市の現況を共同で考えてみることになった。第一回は、スラバヤであるが、J.プリヨトモ氏に寄稿していただいた。また、冒頭に、基本的かつ重要なポイントをJ.シラス教授にまずまとめて頂いた。                          布野修司
インドネシアにおける都市遺産の保存問題

                                                   

ジョハン・シラス(スラバヤ工科大学教授)

                             

 

 近年、インドネシアは、経済活動において他の多くの発展途上国より大きな改善を成し遂げてきた。それとともに、これまでに到達した次の段階として、古いもの、新しいもの、様々なタイプの建物を含む質的達成が開発において重要視されるようになった。都市発展の先進都市として、ジャカルタはいち早く都市の歴史をきざむ物理的要素を活性化することに努めてきた。一九七〇年代初頭、時のジャカルタ市長は、いくつかの地方自治体条例を発行し、バタビア(現在のジャカルタ)が「フォーマルな」(西洋の)モデルに従い開発された時に遡って往時をしのべる歴史的重要性を持った、住宅建築や公共建築を含んだ、古い、都市の「内部」の保存に努めようとした。しかし、この条例の履行は困難であり、とても効果的とはいえないものであった。

 最近になってインドネシアでは、保存に関する関心が徐々に技術的なものから歴史的な問題へと移りつつある。また、西洋建築を主とする保存から、地方の建築を含むより全体的なものへ、その認識や環境を含んだ保存へと移ってきた。ジャカルタとスラバヤは長い歴史を持つ都市であり、近年、高い経済成長と都市成長を享受している。両都市はヨーロッパ人の入植以前のずっと昔の時期から、    年の独立戦争の時期にいたるまで、独自の歴史を刻み続け、現在におよんでいる。インドネシアの諸都市は、かなり早い時期から自由国家としての目的を果たすために重要な役割を果たしてきた。これは、「近代」インドネシアの歴史の一部であり、一般にこのことが5つの主要な保存問題をもたらす。

 ●全体的な歴史的文脈の理解

 ●歴史における「近代」インドネシアの重要性

 ●手段とコンセプトの欠如

 ●開発と保存の競合

 ●実行と開発の制約

 インドネシアの諸都市は他の国の平均より比較的高い経済成長を続けてきた。そして、徐々に都市計画政策も都市の文化並びに歴史的遺産の保存、活性化を優先するようになってきた。市民団体が結成され、文化および歴史の存在に対する人々の関心が高まってきた。かなり早くから都市文化を扱う手段も発達してきた。しかし、これらが地域社会においてより広く、正しい理解を得られるようになったのはごく最近のことである。過去の文化的遺産を活性化するための真の支持はまだ得られていない。戦前の規則に取って代る文化保存条例(no. /    )の制定は、都市遺産の保護にこれからその効果が期待されるところである。明らかに、この新しい条例が、全体的な開発目的の中で有効に作用しうるためには、より強く明確な政府の規制が必要である。このことは、上述した問題点を議論するなかで、より練り込まれていくであろう。

 

 ●全体的な歴史的文脈の理解

 

 インドネシアの都市開発の歴史について現存する文献の多くは、ヨーロッパ人によって、インドネシア(オランダ領東インド)の現存する古記録に基づいて書かれたものである。これらの資料は町の発展の歴史、特にヨーロッパ人の到着に先立つものを、ほとんど考慮にいれていない。この観点からいえば、たとえばジャカルタは、オランダ人が現在の都心部に建設した部分をもって、初めて生まれたことになる。しかしながら、ジャカルタの歴史はヨーロッパ人がバタビアに足を踏みいれるはるか以前から刻み続けられている。この地にジャヤカルタ王子がしっかりとした集落を築きあげ、そして、その民達はオランダ人がこの地域の支配を目論んだ際、非常に激しい抵抗を示したのだ。

 他方、スラバヤはより長い歴史を持っている。    年、地方の長ラデン・ウィジャヤは、強力なフビライ・ハーンによって送られた軍隊を苦節の末打ち破り、追い返した。この出来事をもって、スラバヤが公式に設立された日とみなす。   年前のことである。それゆえ、スラバヤはインドネシアで最も古い、現存する都市である。しかし、ジャカルタと異なり、スラバヤはその名を維持し、町は同じ場所で発展し続けた。  世紀初頭には、オランダ人旅行者による記述によると、スラバヤは 万もの世帯、言い替えるならば約 万の人口をかかえていた。つまり、日本やヨーロッパ、アメリカの都市に匹敵する大都市であったといえる。

 同時に重要なことは、植民都市政府が、政府自身の必要と民間の商業のために住居と都市施設の開発に関心をはらったにもかかわらず、地域の住民は、多くの住居と施設を土着の伝統的なやりかたで計画し、建設した点である。さらに大事なことは、都市の文化的遺産への全体的なアプローチは、つくる人間や構築された環境のみではなく、それを知覚する人間や遺産として与えられた自然をも含むものなのである。

 

 ●歴史における「近代」インドネシアの重要性

 

 もし保存が戦前の法規や新しい保存法に基づいたものなら、インドネシアの歴史上の重要な部分を見逃すことになるだろう。つまり、今世紀初頭の解放運動からインドネシアが自由な国家を形成する能力を問われた  年代に至るまでの、インドネシアの「近代」の歴史である。特にスラバヤは、当時、 つの重要かつ最新の建築物の建設により、具体的な段階へと踏み出していた。市場(ウォノクロモ)、「国際的」ホテル(オリンピック)、そしてスラバヤの戦い(        日~  月 日)とそれに続く戦闘による 万人を越える犠牲者を弔う英雄モニュメントである。

 この業績の重要な点は、西洋の支配から解き放たれたインドネシア人の「建築家」達、特に市の行政機関で働く人々によって果たされた役割であったことである。彼らはまた、この時期に、世界の他の地域では知られていない独創的でユニークな建築様式を生み出した。強い熱帯の建築原理と「近代的」建設法を持ったいわゆるヤンキーあるいは「イェンキ」        建築である。アールヌーボーにも似て、この建築様式は中に備え付ける家具の様式や色彩計画、(近代的な)合成材料(プラスティク)の多用などにも影響を及ぼした。これらの建物の多くは現存するが、その大部分は荒れ果て、放置された状態にある。

 

 ●手段とコンセプトの欠如

 

 手段の欠如の問題は3つの異なる角度から認識される。すなわち、建築の所有権、保存に対する援助、そして保存のための専門家と専門的技術である。古い建物の多くは政府に所有されていない。特に、地方の建築はそうである。政府所有の建物は、いまだその役割が必要とされていて、保存のために妥協することは困難である。もし建物が地価の高い地域に立地するのなら、この状況はより複雑になる。政府の政策は、文化的または歴史的価値を有する建物の所有者になんらかの形で保存を行うよう刺激するほど強くはない。普通、古い建築は新しい機能に適応させるため、またエアコンといった新しい設備を取り付けるためなどといった目的で、破壊的なやりかたで改修される。

 保存への興味関心と足並みを揃えて、公共並びに政府が適切な維持管理を行うことは、これらの努力を支援するための公共予算がほとんど得られないために、ますます困難になってきている。当然ながら、民間のの建物も同様の問題に直面している。民間人は、今だ、その建物を自分自身で維持しなければならない。この状況においては、保存はいかなる利点も持ち得ない。はるか「近」未来においても、その重要性にもかかわらず、保存を行うための財政上の手段はまだ確立されていないであろう。それ故、民間部門を保存に巻き込むことは奨励されるべきであり、計画的に活用さるべきである。

 他方、財源に関わらない重要な手段として、効果的で能率のよい建物保存を行う専門家と、専門技術があげられる。その最前線には、ほとんどが植民地支配者によって建てられた(恒久的な)古い建物のみに興味を払う、といった保存を行う際の誤った認識の問題がある。結局のところ、植民地化の歴史にまつわるヨーロッパ建築の保存は、インドネシアの国家としての歴史にとって重要性を持たない保存の努力となるだろう。多くの人々にとって、インドネシアの歴史の「暗い」側面を保存することは受け入れ難く、また反対にナショナリズムへの興味を生み出すのである。この論理は先に論じられた最初の問題と緊密な関係を持ち、全体的な歴史的アプローチを通じて解決されるべきものである。

 先に述べたように、保存についての既存の知識は、ほぼ恒久的な構造を持つ西洋の建築様式に関するものに限られる。他方、たいていが開放的で恒久的な材料を使っていない「熱帯」建築の保存に関する取り扱いの方法はほとんど発展してこなかった。この建築様式はインドネシア文化の基礎をなす、環境的な要求をみたすという概念の一部であり、ダイナミックに成長し続ける社会の、機能に対する変わりゆくニーズに効果的に適応するものである。非恒久的な材料を使うことが質の悪さを示すという見解が熱帯建築に対する正しい評価を抑圧したが、バリやそのほかの地域の「伝統的」建築がそうではないことを証明しているのである。

 

 ●開発と保存の競合

 

 いうまでもないが、急激な経済成長を経験した国の都市はすべからく、「新しい」重要な経済的需要に対応すべく古い建物が道を譲らなければならない、という問題に直面する。第一に、ほとんどの経済人は、文化的、歴史的遺産を活性化することの持つ、長い目で見た重要性にほとんど全く気づいていない。そして、気づいたときにはもう遅すぎるのである。最初から、政府もまた安定した経済成長を確実にすることに傾倒し、特にそれが直接な国民の関心を得ていない場合には、古い建物の存続に対し不利になるような立場に立ってきた。現状は変わりつつある。しかし、それは非常にゆっくりとしたペースである。

 こういった状況の背景にある主たる原因は、一方では、経済見通しが、いまだ短期間の展望に備えたものであると受け止められていることであり、他方では、ビジネスマンが、限られた理解力しか持ち得ず、国の社会的、政治的安定性を確固たるものにする国民としての強い自覚が、長期にわたって求められるべきであるという観点に乏しいという点である。徐々に変化は現れるだろう。しかしそれは、二度と繰り返すべきでない大きな犠牲のもとにである。特に、経済成長を始めたばかりであり、多くの歴史を刻む古い建物を残す都市においてはそうである。

 もし、専門家や専門技術の果たす役割が開発により深くかかわっていたのなら、古い建物も経済の必要性を満たす競争力を持ち得るし、現に持っているという理解が衰退することはなかっただろう。実際は、わずかに古い建物が商業目的に効果を発揮した限られた例を残すばかりである。  年代後半に銀行が急速な広がりを見せたとき、古い建物が利用された。しかし、これは保存というよりも商業上の考慮の下になされたものにすぎない。これらの建築の多くは賃貸を基本としており、わずかな経費で最大限に外観を整えるために、保存的なアプローチが最も安くついたのだ。建物が入手されると、保存の原理とは相矛盾して、徹底的な「修理」がなされる。もとの建物はほとんど残らない。一方で、ジャカルタやスラバヤにおいては、いくつかの公共の建物が、新しくよりよい機能に適合する形で保存されている。

 

 ●実行と開発の制約

 

 新しい保存法が作られ、意識の高い市民が数の上でも地域的にも増えてきている。政府の支援もますます大きくなっている。しかし、真の保存計画は未だ実行に移すべき具体的な(実験的な)計画案を持たず、準備中のままである。上に述べてきたような制約の多くは近い将来でも未解決のまま残されているだろう。この状況は発展が最も急進行していた  年前の都市発展の状態に似ている。多くの都市のマスタープランが、海外のコンサルタントのみならず、インドネシアからの「専門家」の助力を得て、準備された。新たなマスタープランが用意されるべき時までには、多くの初期の計画が、真に示唆的な開発の手段であったというよりも、官僚的な査定によってのみ評価され得るものであった、という評価結果が明らかになった。

 明らかに、この状況が繰り返されることは避け難く、克服も困難である。現在重要なことは同じ間違いを繰り返さないことと、保存政策とそのプログラムの、開発と実行を「習得する」過程を短縮することである。大多数の拘束と困難は未だ官僚制の中に潜んでいる。この点に関しては効果的な国際的支援が必要とされ、また効果的な役割を演ずることができる。しかし地方のグループの専門技術とのより強力な関わりあいもまた必要である。現在インドネシアの都市間に存在するネットワーク、特にジャカルタとスラバヤ間のものは、京都やベルリン、パリといった他の国々の都市との友好関係をも巻き込んで、利用されるべきである。(訳 堀 喜幸 坂根智)

 

 

 
スラバヤのコロニアル建築 

                                    

ヨセフ.プリヨトモ(スラバヤ工科大学講師)

                                       

 

    世紀の終わりから、スラバヤは都市として発展してきた。例えば、    年のこの都市の地図をみると、ヨーロッパのコロニアル建築の集中した地域が二ヶ所あることがわかる。ひとつは、ジュムバタン・メラ               (赤い橋)地域、もうひとつは、トゥンジュンガン-シムパン                   地域である。記録によると、このスラバヤの都市計画の責任者は、ダーンデルス         (オランダ-インドネシア政府総督、         )となっている。ジュムバタン・メラ地域は、城壁に囲まれていた地域で、その内側の地域は比較的稠密である。カリマス         川は、この地域を二分しており、オランダ人は自分達のためにカリマス川の西側の地域を確保する機会を得、また、東側の地域は中国人とアラブ人のために確保されている。オランダ人居留地は、市庁舎、事務所、工場、孤児院、住宅などが建ち並ぶスラバヤの都心になる。トゥンジュンガン-シムパン地域は、カリマス川の上流に位置し、そこもまた、人口が増加し始めている。この つの地域を結ぶ道路があるにも関わらず、カリマス川は依然としてスラバヤの重要な輸送路であり、ほとんどの建物のファサードが川に面しているのも不思議なことではない。オランダの歴史学者達は、この時期の建築様式を「帝国様式」すなわち「ラントハァィス         様式」と呼んでいる。それは、広大な敷地の真ん中に立つ新古典主義様式の建築のことである。主屋の両側には、その後部に連なって、馬小屋、馬車置き場、奴隷小屋といった機能を持つパビリオンがある。グラハディ         ・ビル、すなわち  世紀初めから今日まで存続している総督官邸は、まさにそのいい例である。。写真(図 )は、本来はその建築物の裏側にあたる。かつてはそのファサードはカリマス川に面していのである(現在のスラバヤ市長は二つのファサードを設けるという案、すなわち一方は通りに面し、もう一方は川に面する、という案を持っているといわれている)。    年代の取り壊しによって、ジュムバタン・メラ地域には、実際にはこの様式の建築物は存在しない。ジュムバタン・メラ地域のカリマス川東側には、改変された別の建築様式をみることができる。中国人は、新古典様式と中国の様式を結合させた建築様式を用いて建設するのである。こうした建築物の機能は、オランダ人のものとは異なる。一般にショップ-ハウス(上階が住居で下階が店舗もしくは事務所)として知られているものである。この種の建築物もこの地域に完全なものはほとんど残っていない。

   年後の    年、スラバヤは城壁を破壊する。トゥンジュンガン-シムパン地域が北へ発展していくのに対し、ジュムバタン・メラ地域は現在南へ発展していく。この つの地域は、 つのより大きなスラバヤ市へと溶解し始めていくのである。かつて城壁の西側部分であった場所は、現在スラバヤ港へと導く鉄道線路となっている。いまだに建築様式の記録が全く発見されていないので、建築様式にいかなる発展もみられなかったということを我々は推測するしかない。我々は建築家の名前も見いだすことができない。ハンディノト          は次のように述べている。おそらく、この時期の建築家は、スラバヤで実践を始めた完全な職業建築家ではなく、ジャカルタ出身、あるいはオランダ出身の建築家である。あるいは勤務外の時間を使った公共事業部の職員のどちらかであり、彼らが設計・建設の委任を受けたものと思われる。

  スラバヤが「建築様式の戦い」といわれる中で、トゥンジュンガン-シムパン地域の南部を発展させたのは、  世紀建築における最初の  年間のことであった。州及び市行政の中心は、ジュムバタン・メラ地域からそれぞれ別の離れた場所へ移動した。州行政官庁は現在、パラワン          通り(ジュムバタン・メラ地域の南外縁部)に位置し、スラバヤ市行政官庁はトゥンジュンガン-シムパン地域に位置している。ジュムバタン・メラ及びトゥンジュンガン-シムパン地域は、双方共に商業地域として発展してきた。この独特なコロニアル建築の時代の新しい住宅地域はダルモ       地域(トゥンジュンガン-シムパン地域南部)とクタバン          地域(市庁の周辺)である。ンガゲル        地域、特にカリマス川流域は、現在工業地域として確保されているため、港とこの工業地域を繋ぐカリマス川の機能は維持されている。

 「建築様式の戦い」について述べよう。我々は、この戦いが異なる建築家たちの間だけでなく、一人の建築家の中でも行われたことがわかる。次の二者が挙げられる。フルスウィット,フェルモント&エド・キュイペルマ                              建築事務所と建築家C.シトロエン          である。ジュムバタン・メラ地域にあるジャワ銀行                (現在は地方開発銀行)の事務所のために、ハルスウィット,フェルモント&エド・キュイペルマ事務所は屋根窓やヨーロッパ建築の装飾的要素を用いた精緻な新古典様式の建築物(        年)を設計した。一方、今日では   ビル(ムラッワ通り)として知られている   砂糖精製会社)の事務所のために、この建築事務所は中央ジャワのヒンドゥー教-仏教寺院から借用した装飾モチーフで飾られた近代主義的建築を設計している。また、ダルモ地域において、この建築事務所は、上述した建築物とは全く異なった様式で三つの建築物を設計した。それは、セントルイス学校及び修道院サンタマリア学校及び修道院、そしてカトリック大聖堂(すべて    年代に設計)の三つである。それらは、我々に一種のアールデコ様式、あるいは一種の新古典主義から近代への過渡的な様式を想起させる、幾何学的帯飾りや繰形で装飾された近代的建築物である(この建築様式は、ジュムバタン・メラ地域の外縁部に位置し、これらよりは新古典主義的な趣が強いが、今日ではニアガ-パウラワン銀行ビルとして知られる事務所の設計においても実践されている)。こうした独特の近代建築様式のアレンジは、    年に公式に祝典が行われた(最初の設計は         年になされているが、変更を受けてきた)G.C.シトロエンによるスラバヤ市庁の設計にも見られる。シトロエンは建築様式の多様性という点において、上述の建築事務所と類似している。ダルモ地域のある病院における彼の設計は、実質的には無装飾であり、装飾や繰り形はこの建築物においては全く目立たない。州政府ビル      を設計した建築家レメイ       もこういった建築家の範疇にはいる。彼の設計は、デュドックによるヒルベルスム市庁舎に非常に類似しており、確かにヘンリー・マクレーン・ポント                     設計の   (バンドン工科大学)とかなりの類似点を示すマランの高校における設計とは著しく対照的である。

 そのスタイルに強い一貫性を持った建築家達も大勢いる。我々は、ジョブ&スプレイ             建築事務所や   建築事務所、あるいはウィースマ          や B.V.デ・ビスタリニ                  そしてレメイといった個人建築家達を挙げられるだろう。ジョブ&スプレイ建築事務所は見たところ、インドネシアの伝統的建築を非常に好んでいる。彼らのデザインは近代的かつ伝統的である。実例として、かつては銀行役員の住宅として設計されたが、現在は博物館(タントゥラール          博物館)に改造されているものやタマン・ビントロ               通りの住宅が挙げられる。そこには美しい様式の結合がある。   事務所は、今日、インテルナシオ            として知られる貿易会社事務所の設計にみられるような近代主義的様式がいっそう強い。装飾はきわめて乏しく、建物の機能的要素(           や換気装置のような)に対する必須の解決法としてのみ表現される。バスキ・ラマット               通りにあったこの建築事務所の設計によるもののひとつは取り壊されている(今日、そこには多層階の銀行がある)。それは、美しいキュービズム様式で設計された事務所だったが、波状のプランとファサードを持ち、キエフホーク          ハウジングにおけるアウト     のデザインと多くの類似点を持っていた。このキュービスト的方法は、グンテンカリ             通りのクラブハウス(現在、バライ・サハバット               として知られている)やエムボン・ウング              通りのキリスト教学校を設計したB.V.デ・ビスタリニによっても実践されている。学校におけるデザインはよりキュービスト的であるが、クラブハウスはそれほどキュービスト的ではない。ビスタリニはシトロエンが建築物の設計において実践した対照的な表現を行ってはいない。近代様式として分類されるこうした建築家達の名前や作品は、         年代に設計・建設された。しかし、それは建築家ウィースマにはあてはまらない。彼の設計は実質的には  世紀の最初の  年から始まっているが、彼はグラハディのちょうど   メートルほど東に位置するバライ・ペムダ              ビル(    )とジュムバタン・メラ地域のカトリック教会(    年建設)の両方共に新古典様式からのモチーフを豊富に用いている。

 オランダ人建築家による建築作品目録を作成する際に、こうしたコロニアル建築に関して、現在二つの問題を指摘しておくことが適切だろう。  世紀、スラバヤの建築物は公共事業部の職員、またはジャカルタか、あるいはオランダで実際に設計している建築家のどちらかによって設計されていた、と述べた。建築物の設計は職業建築家のみに認可された仕事ではなかった。この慣習は  世紀に入ってずっと続いている。  世紀前半のカンポンやスラバヤ郊外の村落において、都市の中心地の建築物と共通点のある新古典様式の建築物の存在を目撃することができる。問題は、こういった建築物が職業建築家によって設計されたのか、それともその州の行政部職員によって設計されたのか、ということである。前者は実質的には行っていない。一方、後者についても上述の地域へのアクセスの可能性があったかどうかがいまだに疑問である。最もありそうなのはスラバヤの現地の人々がデザインしたということである。建設労働者として自分自身で経験し、建築物を注意深く観察して質を高めることによって、こうした現地の人々は、カンポンの住民や村民の中で一種の職業建築家になった(この方法は今日でもまだ実際に多くみられる)。その結果、例えば、カンポン・ブブタン         とプンガンポン           などでは新古典様式の要素が豊富なのである。第二次世界大戦の終わりまでスラバヤの外部の村落であったシワラン・クルト              ,クラムピス・ンガセム                とグバン        でも、同様の建築物をみることができる。こういった村落の建築物のいくつかは、新古典的要素と伝統的要素を結合させようとさえしている。上述の証拠はすべて、ある建築様式を実践する技術がオランダ人でない建築家から学ばれ、実践されていることを示しているのである。

 こうした能力については、インドネシア独立の為にオランダ人建築家が徹底的に減らされた時代である    年代に著しい証拠を残している。エムボン・プロソ              通りの住宅やパサール・ウォノクロモ                (ウォノコロモ市場)はイェンキ様式             (すなわちヤンキー様式 )として知られ、特色づけられている。この様式は、インドネシア人独自の発明であった。これには、スラバヤ、更にインドネシアのオランダ人が表現したあらゆる建築様式がほとんど参照されていないのである。    年代以後、インドネシアの近代建築はオランダ近代主義を置き去りにし、アメリカ近代主義へとその方向を転換した。さらに驚くことに、この様式はアメリカ人でなくインドネシア人によって導入されたのであった。現在、コロニアル建築はその破壊と記憶が主題となりつつある。そのことは我々をコロニアル建築の第二の問題、つまり、建築物の保存へと導くのである。

 スラバヤにおいて、保存はまだその初期段階にある。スラバヤの         年のマスタープランでは、保存の資格を有する建築物をリストに挙げているが、実質的には実際の活動は全く真剣に行われていない。その結果、重要な建築物は取り壊され、ダルモ地域のような環境は、高層建築の建設と機能の変化によって脅かされてきた。保存に関する実際の活動は、 度の調査と 度の修理が    年に始められたのみである。   (スラバヤ工科大学)と        (スラバヤ観光事業発展委員会)間の協力によってジュムバタン・メラ地域とトゥンジュンガン地域の一部の  の建築物が調査され、リストが作成された。現在、このリストはスラバヤの保存活動をする立法会議のための基礎データの一部となっている。    年代のクンバン・ジュプン               通り(この地域の主要幹線道路の一つ、「日本の花」という意味)の拡張や現在のバスターミナルのちょうど北にあるスーパーブロックの建設のため(このバスターミナルは新しい場所に移動される予定で、その位置はこのスーパーブロックの街区になるだろう)、ジュムバタン・メラ地域を保存するのは見たところ困難である。    年初旬、ある民間銀行(ニアガ銀行           )の二つの支店(一つはパウラワン通り、もう一つはラヤ・ダルモ            通りにある)を、また    年にはトゥンジュンガン           通りにある別の銀行(ハガキタ銀行         )を修復するという決定は、スラバヤのコロニアル建築保存を特徴づけている。    年 月、東ジャワ知事とスラバヤ市長がカリマス川沿いに研修旅行を行った。旅行の終わりには、両者ともカリマス川の可能性に感銘を受け、スラバヤにおける輸送手段と観光名物のひとつとしてカリマス川を再生させる、という案に着手した。また、彼らには、カリマス川沿いの建築物のファサードを川に面するようにしよう、という案もある。そして、    年 月中旬、ついに情報相はアムペル・モスク              の修復の仕上げを開始した。現在、スラバヤでは保存に関する叫び声は大きくなっている。それは、    年 月  日に行われるスラバヤ700回記念祝典への貴重な贈り物になっていくのだろうか。(訳 荒 仁 岩本聰)