講義:九州大学人間環境コロキウム 住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル,九州大学:2001年12月12日
人間環境学コロキューム
2001年12月12日
住まいの豊かさとは何か
アジアの都市と居住モデル
京都大学大学院工学研究科
布 野 修 司
「豊かさを問う」という大変いいテーマを頂きました。また、学生、院生主体の大変すばらしいプログラムだと感心して参りました。今日は、私が二〇年以上フィールドにしています東南アジア、特にインドネシアに通ってるんですが、そこで見聞きし、考えたことをベースにお話ししたいと思っています
住宅戦争
実をいいますと、『住宅戦争』(彰国社、一九八九年)という本を出しているんですが、そのサブタイトルが「住まいの豊かさとは何か」というんです。「受験戦争という言葉はすっかり定着しているのに、住宅戦争という言葉がないのはどうしたことだろう。実に不思議なことである。そこら中で住まいをめぐる熾烈な戦いが繰り広げられているのにである」と帯にあります。日本では、住宅を手にすることが、今のところ人生にとって最大の事業になってしまっていて、住宅を買って人生のほとんどの期間、ローンや家賃を払い続けないといけない。どっかおかしいんじゃないか、日本の住宅事情は問題ではないかと思うわけです。もちろん、資産を持っている人と持っていない人で事情は全く違います。日本は一億総中流幻想と言いますが、まさに「幻想」で、階層化が進んでいると思います。ちょっと古すぎますが、バブル経済直前には、マル金、マルビ、という言い方がはやりました。ビは貧乏のビです。ニューリッチ、ニュープアというわけです。
『住宅戦争』は、住まいをめぐる様々な争いを戦争と称して取りあげています。地上げ戦争、住宅取得戦争、ローン戦争、欠陥住宅戦争、相続戦争、住(宅)原(因)病、・・・、どうもこれだけ住宅をめぐって争い事が起きるということは、やっぱり問題じゃないか、と思ったわけです。それではと、持てる人は一体どんなところに住んでいるんだろうと、『住宅戦争』では色んな有名人、スーパースターの住宅について書いています。実際、歩いて調べたんです。暇ですね。しかし、そんなにびっくりしたわけではない。ちょっと、というか、ただ広いだけです。あるいは、成金的に飾り立てているだけです。どうも、少しでも「いい場所」に、少しでも「広い家」を、少しでも「隣の家より立派に見える住まい」を求めて争うところにすべての元凶があるのではないか、と思うようになったんです。
そう思うようになったひとつのきっかけが東南アジアでのフィールド調査です。東南アジアの大都市は、今でも、住宅問題に悩んでいます。一般的には「スラム」と思われるところがたくさんあります。そうした現実に触れると、日本の住宅は充分豊かに思われます。一体どこまで広くないといけないのか、と考えます。そして、どうも、日本だけのことを考えて、日本の住宅が豊かになればいいと思うのは問題ではないか、日本だけに限りませんが、先進諸国が豊かになればなるほど、発展途上地域は貧しいままに押しとどめられているのではないか、と思うようになりました。従属理論ですね。発展途上国は先進諸国を目指して、少し遅れて発展しているのではなくて、先進諸国の豊かさと発展途上地域の貧しさは同じコインの表裏である、という理論ですね。
もっともそれだけではありません。東南アジアの一見「スラム」に見える住宅地は、確かに、物理的には貧しいのですが、コミュニティはしっかりしています。様々な助け合いの仕組みがあります。また、住宅建設やまちづくりには、むしろ、アイディアに富んだ工夫があります。どうも貧しいのは、画一的な日本の住まいの方ではないか、と思うようになったんです。
今日は、スライドをたくさん持ってきておりますので、それをみながら、「住まいの豊かさとは何か」を考えてみたいと思います。多少不安はあります。スライドで見ていただくのは一般的なセンスからいうと、大変貧しい東南アジアの、特に大都市の居住の実態です。日本の戦後まもなくの状況を想像できない、特に若い世代には異質な世界に思えると思います。ひねくれているかもしれませんが、予め結論を言いますと、フィジカルには貧しいけれども、そこには豊かな何かがあるんではないか、それを支える仕組みにはむしろ日本の我々は学ぶべきものがあるんではないかということを言いたいんです。それが結論なんです。説得力があるかとうかご判断下さい。
1 豊かさの中の貧困:日本の住まいに欠けているもの
まず、日本の住まいについて最初に少し議論したいと思います。
グローバルに見て、日本の住まいというのはものすごく豊かだと思います。例えば、住宅設備はすごいですね。エアコンディショニング、空調のシステムが導入されました。あるいは、洗濯機とか掃除機とか炊飯器とか、色々な家電製品が増えています。私は戦後生まれですけれども、生まれたころ、育ったころと比べて、比較にならないぐらい豊かになっていると思います。
日本の住まいというのは、物質的には随分、この半世紀ほどで豊かになったと思うんですけれども、でもどこか足りないことがあるんではないか。むしろ、悪くなった面もあるんじゃないか、と考えてみる必要があります。これもへそ曲がりな言い方かもしれませんけれども、幾つか日本の住まいとまちづくりをめぐる基本的な問題点をあげてみたいと思います。何となく物質的には豊かになったけれども、それを組み立てているものに何か貧困さを感じませんかということです。
まず、集住の論理の欠如という問題があります。これ耳なれない言葉ですけれども、一戸一戸の住戸が集まる集まり方の問題ですね。一戸が二戸になり、二戸が四戸になりという集まり方ですね。集まってまちができていくわけですけど、それの組み立ての論理というのはむしろなくなっていったんじゃないか、一戸一戸のつながりが切れているんじゃないかということですね。
戦後に住宅団地というかたちが初めてできるわけですが、一戸一戸の住宅をただ積む、ただ並べるというかたちですね。北欧のアパートがモデルだというのですが、集合住宅の集合の論理が希薄だった。まだ、戦前、関東大震災後に建てられた同潤会アパートには、集会室や社交室など共用の空間が用意されているし、単身者も含めて様々な家族がともに住むというイメージがあります。戦後の日本の集合住宅は、ただ箱を積み重ねて並べただけなんですね。
もっと多様な集合形式があるんじゃないか。私の研究室では、アジア各地で様々な調査をしてるんですが、実際、いろんな集合の形があるんです。都市組織、アーバン・ティッシューとかアーバン・ファブリークといんですが、街区形態と住宅の形式に関心があるんです。日本の場合、特に戦後ですね、とにかく一戸一戸を階段室で繋げばいい、一棟一棟を冬至の時に四時間は日照が得られるように平行に配置すればいい、ということでやってきたんです。
それから第二に、歴史の論理の欠如の問題があります。歴史に論理があるかどうかというのはなかなか問題かもしれません。言いたいのは簡単で、一戸一戸建てられる住宅は確かに豊かになったかもしれないけど、それが並んで歴史的な街並みをつくっていくというセンスというか、考えは非常に希薄だったんではないか。最近でこそストックが大事ですと、歴史的に形成されたものを大事にしましょうというようになった。バブルがはじけて長期の景気後退が続いていますので、やむを得ず既存ストックを再利用する、そういう雰囲気になってきていますけれども、本来的に都市は歴史の積み重ねでつくられるわけであって、個々人がそこで生きたあかしを記録していくというか、痕跡を積み重ねていくというのが都市だと思います。しかし、どうもそういうのと違うやり方をしてきた。スクラップ・アンド・ビルドと言いますけど、建てては壊し、壊しては建てるということでやってきた。それが日本の高度成長を支えてきたわけですけど、そういうやり方は、一つのまちを歴史的につくっていくというセンス、論理、手法を欠いていた。そのことは、本当に豊かとは言わないんではないでしょうか、ということですね。
第三は、多様性と画一性の問題です。一見豊かになって、これは主に住宅のデザインのようなことを想起していただければわかりやすいと思いますけど、日本の住宅は多様になった。七〇年代に入ると、プレハブ・メーカーあるいはディベロッパーが建て売り住宅をどんどん郊外に開発していったんですが、ものすごく多様なデザイン、いろんなスタイルのデザインがもてはやされて、それを買うという時代が来たんです。一見非常にバラエティーがあって、建築様式で言うとアーリー・アメリカンとか、カリフォルニアン・バンガローとか、何とかスタイル、何々風という形ですけど、デザインは非常に多様になったんだけど、実は中身を見てみるとワンパターンなわけです。間取りを見ると、大体nLDKというかたちです。三LDK、四LDK、五LDKがあるかどうかわかりませんが、そう言えば、日本全国どこでもわかるわけです。日本全国というのは、要するに、私の家は三LDKで博多のどこそこに住んでいますというと、大体イメージできる。空間の型と、そこで繰り広げられる生活のパターンというのは、デザインが非常に多様に見えるけれども、画一的です。それは、日本人の生活自体が非常にワンパターン化しているからです。特にサラリーマンは生活のパターンが画一化しているから、住まいの形も画一的でしようがない。それを本当に豊かというでしょうかということですね。
それから第四に、地域の論理の欠如ということがあります。これはわかりやすいですね。ワンパターンの問題と同じで、日本の住宅形式はあまり地域性を考慮していない。戦後にモデルとなったのが二DK住宅、ダイニングキッチンという空間ですね。これは戦後、日本じゅうに蔓延していったわけですけど、沖縄だろうと北海道だろうとあんまり変わらない形で定着していった。地域性をめぐってはもうちょっと複雑な問題があります。
七三年のオイルショック以降、若い諸君は全然イメージできないかもしれませんが、高度成長期が破綻をした段階で、地域性が大事だという流れが起こってるんです。住宅というのは大体「地」のもの、地域に建つものです。地域の住まいの伝統とか、そういうものを踏まえてあるべきだという立場に立つと、それを無視してやってきたのがそれ以前の展開であるとすると、そういうものを復活しましょうということになった。一遍バブルの前に起こっているんです。そして、おもしろいのは先ほどの多様性の問題と一緒で、これは我が地域の地域性を生かした住まいですというのを見てみると、それがまた全国一律だったりするんです。「入母屋御殿」というのですが、入母屋という屋根の形わかりますか、建築の学生ならわかると思いますけど、切り妻と寄せ棟を合わせたような屋根の形で大工さんには一番難しいんですが、お城みたいな住宅ですね。この家はこの地域の特徴ある住宅ですというんですが、日本中、九州でも、福井でもこれが地域性ですよという。入母屋屋根の御殿風の住宅が日本全国同じように建っている。豊かさの中の貧困というのはこういうことをいうと思うんです。本当の地域に根差した住まいのあり方というのが失われてきたのはこの半世紀だろうと思います。
第五に、自然と身体と住まいとの直接的な関係が薄くなってきているということがあります。これは、住宅の設備が豊かになっていったことと裏腹の関係があります。設備はすごく高度になった。高気密、高断熱にして、年中、気候は室内でコントロールできるという意味ですごくぜいたくになった。しかし、自然との関係が切れてくる、季節の移ろいもありますが、自然が生きているということを感じられなくなるのはかなり深刻です。身体の問題にもなります。日本中が全部野球のドーム球場みたいな、人工的に冬でも野球ができるという形になってきて、身体が自然に対応ができなくなっている。確かに、空調の普及で、冬季に高齢者の死亡率が減ったということがあります。いい面もあるのですが、例えば、幼稚園の園児は、クーラーがないと夏には何人もぶっ倒れるというような時代になってきております。私は、日本でも東南アジアへ行く場合も、大体シャツ一枚で、上着で調節するようにしていますけど、空調で管理されるような室内気候の中では適応能力が衰える。現代日本の住まいには、自然との関係、身体と温度とか気候とかの本来的関連がかなり欠如している。密閉された室内でシックハウス症候群などの問題もでてきました。この側面でも、本当に豊かなんでしょうかということですね。これはまさに地球環境全体にも関係しますね。
最後に、生活の論理の問題があります。これもわけわからない言い方ですけれども、住まい手が住まいに住んでいないということがあります。というか、住まいが生活の全体を支える場所ではなくなっているということがあります。フィジカルな住宅空間のことをイメージしていますけど、そこで行われる中身が希薄になっている。生活の臭いがしなくなっている。住まいというのは、その起源に遡って考えると、そこである種の教育が行われるし、医療も行われる、トータルな場所だったわけです。おこから、どんどん機能が都市に出ていく。例えば、教育は学校で行われるようになりますし、病院、図書館も外につくられる。最近では、食事はコンビニで買ってくればいい。あるいはファミリーレストラン行けばいい。部屋の掃除や蒲団のクリーニングも全部お金を出せばやってくれる。そういうサービスの体系が産業化されていった。生活そのものが産業の論理になっていったということですね。これが本当に豊かでしょうかということですね。
2 貧困の中の豊かさ
2-1 歴史の重層する町:スラバヤ
東南アジア、具体的には私が一番親しい、スラバヤというインドネシア二番目の
人口三五〇万人ぐらいの都市ですけど、その住宅地のスライドを見ていただきながら、住まいと豊かさについて考えたいと思います。
最初に、スラバヤという街を紹介します(図001)(スラバヤ市街図)。ブランタス川という川が中心を流れています。これは歴史的に大変古い川で、この川を中心に発達した港町ですが、内陸にはマジャパイト王国というヒンドゥ王国が栄えていました。
中心部にオフィスビルとかホテルとかいくつか高い建物が建っています。てっぺんが三角に尖ったミラーグラスの建物は銀行なんですけど、アメリカ人の建築家の設計です。ジャカルタにも同じデザインのビルがあります。建築の学生なら知っていると思いますが、ポール・ルドルフという有名なアメリカの建築家がいますが、相も変わらずのブルータルなビルをスラバヤで設計しています。ビルを除くと、あとは赤い瓦の屋根だけです。全て平家の住宅でして、赤い海のようにみえます。緑に映えて綺麗ですね。色がバラバラの日本の家並みと対照的です。
住宅地のことをインドネシア語、マレー語で「カンポンkampung」と言います。カンポンというのは「村」という意味です。日本語だと、片仮名で書く「ムラ」に近いです。「カンポンガン」というと「田舎者」というニュアンスですね。
英語では「アーバンビレッジ」=都市集落といいますが、どうして都市なのに村というかというと、発展途上地域の大都市の居住地の特性なんですね。先進諸国とは違って、ムラ的な要素を残しながら都市化した。要するに、都市化のスピードがものすごく激しかったということですね。日本の都市の下町的な雰囲気のところと考えていいと思います。
ちょっと学問的なことをいいますと、英語のコンパウンドという言葉の語源がカンポンなんです。オックスフォード英語辞典にそうあります。人類学で一般的に用いられるコンパウンド、ホームステッド、セトルメント、さらにホーム、ハウスといった言葉を検討する中で、椎野若菜さんが、カンポンという言葉がコンパウンドに転化していく過程に西欧諸国の植民地活動があるといっています(椎野若菜、「「コンパウンド」と「カンポン」---居住に関する人類学用語の歴史的考察---」、『社会人類学年報』、Vol.2六、2000年)。すなわち、バントゥン、バタヴィアあるいはマラッカにおいて民族集団毎に囲われた居住地の一画を指してそう呼ばれていたのが、インドの同様な都市の区画も同様にそう呼ぶようになり(インド英語Anglo-Indian English)、カンポン=コンパウンドはアフリカ大陸の囲われた集落にも用いられるようになったというんです。コンパウンドというのは、①囲われた空間、あるいは②ムラvillage、バタヴィアにおける「中国人カンポン」のような、ある特定の民族によって占められた町の区画を意味するんです。
モダンなビルと赤い屋根のカンポンというのは対照的ですね(図002)。二分化されているのが発展途上地域の都市なんです。
スラバヤという街の明治維新頃の地図なんですが(図003)、周辺は田圃で、先ほどのブランタス川が一本あって、そこにオランダ人がちょっとした拠点をつくっているだけですね。一五〇年ぐらい前ははこのような状況だったわけですね。城塞の中に、「チャイニーズ・カンポン」とか「アラブ・カンポン」とか、記入されています。
こういう街を調べるのはなかなか難しくて、というのは記録がないんです。日本とか中国とか、文献がある世界じゃない。どういうことをやるかというと、一つは地名から街の構造を復元したりします。路地の名前に「クラトン」というのが残っている。クラトンというのは、ジャワ語で「王宮」という意味です。ここには王宮があったんだろうということで。
東南アジアの場合は大体そうですけど、まず、インド化が起こります(東ジャワ歴史地図)。大体五世紀ぐらいからインド文明が来ます。その次にイスラームが来ます。ですから、スラバヤにもアンペル・モスクという中心モスク、集会モスク、金曜モスクですね、があります。その周辺には、今でもアラブ・カンポンがあってアラブ人が住んでいる(図004)。こういうことはなかなか日本人はイメージしにくい。博多はアジアが近くて、歴史的にはいろんな交流があったわけですが、一般的に日本の都市は、在日アジア人の問題を除くと、多民族がともに住むような経験をしてきていませんね。東南アジアでは当たり前だし、ヨーロッパでも当たり前、世界を見渡しても、多民族、宗教的、文化的背景を異にする人たちが一緒に住むのは普通ですね。イスラームの後、というかほぼ同時にヨーロッパ人がやってきます。インドネシアの場合、オランダが
三〇〇年以上支配しました。その伝統が入り込んでいまして、VOC、オランダ東インド会社がスラバヤに拠点を置いたときのオフィスですがまだ残っています(図005)。
二〇世紀に入ると、インドネシアにはオランダからたくさん優秀な建築家が来て、建築をつくっています。スラバヤ市庁舎は今でも使っていますけれども、これは一九二〇年代に建設されています(図006)。 近代建築史上、オランダの建築家は結構活躍するんですが、今のアムステルダムの街のようにレンガを使って、割と曲線を使って表現主義的な作風のグループと、ロッテルダム・スクールといって、非常にモダンな鉄とガラスの四角い近代建築のグループがいました。二派の師匠格の建築家としてその真ん中にベルラーエという有名な建築家がいたんですけれども、彼はスラバヤに建築をひとつ設計しています。ベルラーヘの設計した建物で有名なのはアムステルダムの駅前の証券取引所ですね。今はベルラーエ美術館になっています。両派ともにインドネシアへやってきていまして、結構いい建築をつくっています。代表的な建築家がT.カールステンとM.ポントというデルフト工科大学出身の建築家です。近代建築史というのは、ヨーロッパが書く歴史じゃなくて、植民地の側からも書かないといけない時期に来ているというふうに思います。
VOCのオランダ人高官たちが住んだ家(図007)はアムステルダム派風なんですが、ヨーロッパ人たちは植民地に来たときには、まずは本国の住まいの様式、空間をそのまま持ち込もうとします。煉瓦など全部資材をバラスト(船荷)として積んできましてつくったんです。しかし、インドネシアは湿潤熱帯で暑くてたまらないものですから、やっぱり地域の民家を見習い出します。いろんな民族が大変すばらしい、今の我々の目から見てもすばらしい民家をたくさんつくってきた、それを真似し出すんですね。暑いですから屋根裏を大きくして容積をとる。
スラバヤにある一番高級なマジャパイトホテル(図008)というのもオランダ時代の建物ですが、日本の占領時にはヤマトホテルという名前でした。日本軍の憲兵隊本部が置かれたところです。インドネシアを一九四二年から二年半ほど日本軍が占拠していまして、日本も東南アジアに対して歴史的にはすごくかかわりを持っています。ヤマトホテルは、この前でインドネシアの独立戦争の発端が起こったというので、年配のインドネシア人はみんな知っている場所です。
スラバヤという街は、このように、インド、イスラーム、オランダ、日本などとの歴史的関係を重層的に残しているわけです。クンブン・ジャパン(日本の花)という通りもまだ残っています。そして、中国人街があります(図009)。中国風のショップハウス(店屋、街屋)が建ち並んでいる一画です。また、あります。これは東南アジア共通ですけれども、必ずチャイナタウン的があります。スラバヤには、単なる通りの名前だけ残っていると言いましたが、ジャワのもともとの街があって、インドが来て、イスラームが来て、オランダが来て、それから中国人も来てというかたちで出来上がったんですね。
2-2 カンポンの世界
このスラバヤに、この二〇年ほど毎年のように通っているんですが、スラバヤのカンポン調査をもとに、一〇年ほど前に、『カンポンの世界 ジャワの庶民住居誌』(パルコ出版、1991年)という本を書きました。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文、19八7年)という論文がもとになっています。その後、一〇年経つのですが、街全体はスケートリンクがあるショッピングセンターなどが出来て、大きく変わったんですが、カンポンはあんまり変わらない印象があります。スラバヤに行くと必ず行くんです、調査したカンポンに。定点観測ですね。カンポンに学んだことをお話ししたいと思います。(スラバヤの発展 1,2)
(1) 不法占拠地区:スクォッター・セツルメント
まず、住宅問題は今でも深刻です。インドネシアは、二億人以上いますが、世界で一番ムスリムの人口が多くて、人口問題、居住問題を一番抱えているのがインドネシアです。
ジャカルタでもマニラでもバンコクでも一緒ですけど、運河や鉄道沿いに小屋を建てて住んでいる人たちがいます(図010)(図013)。不法占拠者、スクォッターですね。大体都市人口の一~三パーセントでしょうか。先進諸国にもホームレスがいるわけですが、その世界とはちょっと違います。スラバヤの場合、パサールの近くにこういう不法占拠地区、マージナル・セツルメントともいいますが、あります。調査したんですが、大体、同じ東ジャワの農村から出て来た人たちでした。バラックなんですが、組織はしっかりしているんです。
でも、衛生的には問題があります。乾季と雨季がありますが、乾季には川はごみ捨て場みたいになります(図011)。こうしたみすぼらしい小屋の反対には大きな家があって、目抜き通りに面しています。豊かさと貧しさが表裏に存在しているわけです。
行政当局は、当然、追い出しにかかります(図012)。クリアランスしたい。しかし、追い出された人たちは、また別のところを占拠する。七〇年代から八〇年代にかけて東南アジアの大都市ではこういういたちごっこをやってきました。これをクリアランス型の手法といいます。世界を見渡すと、まだまだ正当な権利を持たずに、住まざるを得ない人たちがいるわけです。
ちょっと東南アジアでは珍しいのですが、ストリート・ドゥエラー、路上生活者もいます。スラバヤには、移動住居を見たことがあります。床屋さんの家族のモビールハウスなんですが(図014,015)、インドネシアは今でも割と見かけますけど、青空床屋さんがいます。お客さんをつかまえて木陰で散髪をする。かつて、日本占領時代、散髪屋さんは日本人が多かったらしいです。
それでは、二〇年間あんまり変わっていないのが信じられないんですが、三つのカンポンを紹介します。
(2) アリサン・システム:多様な居住者構成
これは何かというと、木箱に入っていまして、キッチンセットなんです(図016~018)。日本ではシステムキッチンです。私らはカンポンのキチネットと言いますけど、食器だとかコンロだとか、水を入れる瓶とか壺とか、鍋とか釜とか一式入っていて、鍵をかけて、蓋をするとベンチになる、そういう装置です。要するに家が狭いので、外にはみ出しちゃっているんです。いろんなタイプがありますが、細い路地にぎっしり並んでいます。住まいは大体六畳、あるいは八畳の二部屋ぐらいですね。
スラバヤで最も高密度の北部の港湾地区にあるカンポンです。ここは一〇〇メートル四方、一ヘクタールに約一,五〇〇人ぐらいが住んでいます。わかりますか。平家で、江戸の長屋といいますか、庶民が住んだところでヘクタール
七〇〇人ぐらいですから、倍以上の人口密度で住んでいるということです。インドでは、ヘクタール二〇〇〇人とか二五〇〇人になりますから、それに比べればさほどでもないのですが、狭い路地が縦横に走っていて(図19,20)、緑や公共施設はありません。ぎっしり建て詰まったこの地区に四つぐらい小っちゃなモスクがありまして、唯一の共用施設になっています。モスクというのは御存じだと思いますが、お祈りするとき以外は寝ててもいい。食事するのはちょっとまずいんですが、勉強する場所だし、寝てもいいし、集会してもいいし、多機能な場所です(図021)。インドネシア語では、小さなモスクは、ランガーといいます。
こう家が狭いと(図022)、日本だととても住めませんね。冬があります。暖かいから、外でも寝られるんです。さっき言ったように、キッチンは外へ出ていますけれども、大半は表で日常の生活行為をするわけです(図023~025)。オープンスペースを勝手に自分で使うわけで、それがないと大変です。料理なんかも外でやります。洗濯も外でする。暑いですので水浴びも、マンディといいますが、路上でする(図026)。
後でお話ししますが、赤・白の旗がインドネシア国旗です。先ほどマジャパヒトホテルという憲兵隊本部だったところで、独立のときに非常にシンボリックな事件がありました。それはイドルスという作家の『スラバヤ』(一九四七年)という小説にもなっているんですが、オランダの国旗は上か下が青なんですけど、独立戦争の発端にホテルのオランダの国旗がかかっていたところに上ってそれを破いたんだそうです。その写真がホテルに飾ってありましたけど(図027)、国旗はオランダからブルーをとったものです。独立記念日というのは、日本は八月一五日が敗戦記念日ですけれども、インドネシアは八月一七日でして、その日の一週間前ぐらいから、カンポンの中に舞台つくって、そこでお祭りを毎年やるわけです。そのために国旗を飾っているんです(図028)。
大変貧しい住まいですね。この辺からちょっとずつ貧しいんだけど日本と違いますよという話をしていきます。まず、こういうカンポンにも、結構お金持ちが住んでいるんです。そういう家には水道がついていまして、水槽を家の前に持っている。水を売るんです(図29)。水を運ぶのは子どもの仕事です(図30)。飲料水の問題は今でも大変でして、スラバヤで水道設置率は多分五〇%いっていないと思います。貧しい人たちに施すわけじゃない、ちゃんと稼ぐわけですけど、収入階層が低い人が多いカンポンでも結構お金持ちが住んでいるというのは、日本の一般の住宅地とはちょっと違いますね。カンポンというのはムラと言いましたけれども、ムラ的なものをそのまま都市に持ち込むというところがありまして、「アーバン・ビレッジ」という言葉ができたのはそれだからなんですけれども、多少余裕がある人は、田舎にあるような家を建てたがるんです(図031)。日本ではあるマンションに入居すると、そのマンションは、例えば、九大の先生だと同じ九大の先生が住んでいるとか、同じような職業をしている人で、同じような収入の人が住んでいる。住宅地も割とそういうことになっている。居住限定立地階層などといいます。カンポンの場合、多様なんです。収入階層的にも違う、後でまとめますけれども、民族も違います。とにかく人が多いですから、昼間からにぎやかですけど、特に夕方になると大変うるさい、活気のある住宅地ではあるわけです(図032)。
こういうカンポンでの収入の糧となるのは、ベチャ(図033)といいますけど、自転車で荷物や人を運ぶ職業です。日稼ぎの職業になります。こういう貧しいカンポンで、重要なのがインドネシアでアリサンと呼ばれる助け合いの仕組みです。頼母子講、無尽のネットワークがあるんです。このカンポンに、調べたら二六のアリサン・ネットワークがありました。要するに、一日単位、一周単位でお金を出し合って、くじ引きで順に使うんです。ミキサー講といってミキサーを買うとか、金額が大きくなると住宅の修理も出来ます。金融の仕組みがないからでもありますが、アリサンというのは高所得者の社会にもある伝統なんです。
(3) 高度サービス社会:貧困の共有
次は、もう少し都心のカンポンを御紹介します。航空写真を見ると、幹線道路がありまして、幹線道路に沿って大きな商店とか事務所ビルが並んでいて、中に入っていくと、ちっちゃな家がたくさんある、これがカンポンの一般的な形態です(図034)。
調査して、まず目についたのが、屋台です。とにかく多い。食べ物、日用雑貨を売っていますけれどもこういう物売りがひっきりなしに来るんです。子供用のおもちゃも売りに来る。古新聞紙をのりで固めて、絵の具で塗って、お面みたいなのをつくるとか、廃品利用は面白いですね。虫かごなんかも売る。植木屋さんが植木を売りに来ます。かき氷屋さん、食べ物はありとあらゆるものが来ますね。サテというのは焼き鳥、焼きそば、パン、アイスクリーム・・・・・・・。サンダル売り、日用雑貨も各種来る。油売りも来ます。電気もまだ不自由でして、料理用に灯油だとか油を使っていまして、電灯の変わりにケロシンランプを使います。自転車の後ろに積んでバンブーマットも売りに来ます。建材です。壁に使います(図035~043)。
このカンポンではコンビニへ行かなくていいんです。コンビニまで行かなくても全部売りに来るんです。座っているだけでいい。あらゆる種類の食べ物は売りに来ます。日用雑貨から植木からとにかく全部売りに来ますので、どこへ行かなくてもいい。皮肉じゃなくて、ものすごく高度なサービス社会になっているんです。お金さえあれば、こんなサービスのいいところはないというふうに思ったわけです。前にいいましたように、日本ではサービスは産業化されつつあるんですが、ここではそうなっている。コンビニは便利ですけれども、もっと便利です。
日本だって、戦後間もなくはたくさん屋台がありました。博多はラーメン屋台が今でもすごいですね。今宅配サービスというと、新聞は来ますね。博多は豆腐屋さん来ませんか。畳屋さんはやってきませんか、団地でも来ないかな。日本も戦後間もなく、小説や写真やいろんな文献を見ると、屋台でいろんなものを売りに来た。
どうして、こんなに屋台や天秤棒、ロンボンとピクランといいますが、物売りが多いのか。職がないからです。雇用機会が少ないんです。大量の人口がどうやって食べていくかというときに、サービスを細分化するわけです。限られたパイをどうやって分けて食べるかという問題です。今、日本のことを考えて下さい。人ごとじゃないですね。ワークシェアリングということが言われていますね。仕事がないから、限られたパイを分けましょう、シェアしましょうということですね。
この現象を指して、アメリカにクリフォード・ギアツという文化人類学者というか大学者がいるんですが、シェアード・ポバティといいいます。貧困の共有ということですね。ギアツはバリ島の調査で有名ですが、スラバヤの南にあるモジョクトと呼ばれる町も調査しています。
だれかが金持ちになるんじゃなくて、みんながサービスしあう。仕事を細分化して、おまえは焼き鳥、お前は焼そば、売るものも全部分ける。サービス業も分ける。都市の産業としてそういうルールというか、経済的な仕組みができ上がっているということですね。人海戦術のサービス・システムです。日本の場合はサービスには全部金払わないといけない。介護も金払う。お金持ちは全財産寄附して、ホスピスみたいなケアつきマンションに入るとか、そういう形になっていますけれども、まだまだ人口が多くてパイが少ないところではこういう仕組みになっている。これをどう評価するかということですね。
ギアツには、もうひとつ、インヴォリューションというが概念があります。エヴォリューション、進化ではなく、内への進化ということでしょうか。最初、一九世紀のジャワで耕地面積は増えないのに人口が増える現象をさして農業のインヴォリューションということで使われたんですが、アーバン・インヴォリューションという言葉も造られた。カルチャル・インヴォリューションという言葉もあります。もともと、建築の様式が一旦完成すると、例えばゴシック様式がそうなんですが、後は細部のみがどんどん細かくなっていく、そういう現象を指して使われたんです。
さて、どうでしょう。日本でも拡大成長の時代は終わったと言われます。進化は必要でしょうが、無限に拡大成長することはできません。地球環境は有限であり、資源、食糧には限りがあります。シェアード・ポヴァティというとなんか惨めな感じですが、有限の資源をシェアするというのは重要な原理になると思います。共生社会、持続可能な社会というのはインヴォリューショナルな社会をいうかもしれません。
(4) 相互扶助システム:コミュニティ・ベースト・ディヴェロップメント
カンポンというのは単に住宅の集まりではありません。日本の下町のように、住工混合地域というんですが、工場もあります。近代的な都市計画の思想は、そういう工場と住宅が混ざっているのはだめだということで、用途純化といって用途を一つにしなさい、住宅地は住宅地という思想ですね。ゾーニングの思想というのはそうですけれども、カンポンというのは、食べないといけないわけですから、家内工業的な生産も行います。この都心のカンポンでも、鋳物や家具をつくったりします(図044,45)。何がしかのものを生産して売る、当たり前のことです。日本のニュータウンのように、ベッドタウン、ドーミトリータウンと言われて、寝るだけの居住地ではない。カンポンはひとつの居住地モデルになると思うんです。
日本もかつてそうだったんですけれども、年に一回の独立記念のお祭りの時に、日本で言うと婦人会ですが、コミュニティの集いをおそろいのゆかたを着てやります(図046)。こういうコミュニティの組織は、物理的には貧しくても、生活を支える本当の支えになっているわけです。私の世代は辛うじて、町内会でいろんな催しを夏の盆あたりにやるとか、こういう雰囲気を知っていますが、カンポンでは各町内会対抗で民族舞踊を披露するとか(図047)、運動会をやります。都市化しても民族の伝統を維持していく、そういうサブカルチャーがあります。日本は、そういう町内会の雰囲気を失ってきました。カンポンの組織は結構強固です。それがないと生活が成り立たないんです。
居住環境もみんなで改善します。道路の舗装をします(図048)。婦人会は競って植樹をします(図049)。一緒にドブ浚いをします。日本の団地でもかろうじて草取りなんかは一緒にやるんじゃないでしょうか。草取りコミュニティといいます。インドネシアの場合はゴトン・ロヨンといいまして、一緒に助け合いましょう、というのが国是、国家のスローガンなんです。
インドネシアでは、一九六〇年代の末頃から、カンポン・インプルーブメント・プログラム、KIP(キップ)といいますが、行われてきました。住宅供給がうまくいかないので、せめてぬかるむ道路を舗装して、上下水道を整備するというだけなんですが、大変うまくいきました。コミュニティの組織がしっかりしていたからです。舗装をしていったけれど、場合によるとハウスカットといって、家を少し後退させたり、移転させる必要も出てくる。そこで、家の移転先が見つからないと、工事をとめて、代替の土地をみんなで探すという、フレキシブルに改善をしていったんです。舗装道路の端を三〇センチぐらいあけて土を残して置いて、日本でもこれをやればいいと思うんですが、植樹をする、そういう創意工夫もあります(図050)。日本は地表面は全部舗装するから雨が降ると全部流れて都市洪水が起こるんですが、真似した方がいいですね。このKIPはイスラーム圏の大変権威ある建築賞であるアガ・カーン賞というのをもらっています。
最後のカンポンは、頭が痛い都市のフリンジエリアといいますか、周辺部のカンポンです。郊外スプロール部分にはまだまだ農村的な本当のカンポンがあるわけですけれども、それが急速に人口がふえて都市化されつつあります。たった一年で激変するんです。(図051,52)わずかの時間に、これは日本も経験したことですけれども、急速に変わるのは都市の周辺部です。木賃アパート、要するにレンタルハウス(図053)ですが、新しい形の住宅形式が出現しています。どういう住宅形式を考えるかは大きなテーマです。
都市のカンポンで、飲料水の問題もありますが、一番頭が痛いのはごみの問題です(図054)。居住環境については、ある程度のインプルーブメントを七〇年代、八〇年代にやってきて、ある程度衛生的な条件とかいうのはクリアしてきたんです。カンポンの中はきれいになったんですけれども、カンポンから出てくるごみを都市全体で処理する能力が今ないということです。これはどこの都市でも大問題です。それから、あとは洪水があります。今言いましたよう、日本でも同じような問題があるということかもしれませんが、マニラ、バンコク、ジャカルタで、毎年のように大洪水が起こります(図055)。ジャカルタ、マニラ、バンコクの標高は低いんです。スラバヤなんかは標高一〇メートル平均です。井戸水にも海水が混じるし、ちょっと雨季に雨が降ると洪水が起こるということで、都市全体の問題としてあんまり解決できていない問題です。
3 居住地モデルとしてのカンポン
3-1 カンポン・ハウジング・システム
まとめますとカンポンの特性として、次のようなことが指摘できます。
1.多様性
2.全体性
3.複合制
4.高度サービス社会 屋台文化
5.相互扶助システム
6.伝統文化の保持
7.プロセスとしての住居
8.権利関係の重層性
日本の住宅や住宅地がワンパターンといいましたけれど、カンポンはそれぞれ多様です。また、それぞれのカンポンは多様な住民からなっています。多民族が一つの住区に住んでいるということですね。民族がそれなりに住み分けをしながら共住している。アラブ人もいれば、ジャワ人もいれば、対岸にマドラ島という島があって、マドリーズ、言葉も全然違う、そういう人たちが同じ居住地に住んでいる。同じような収入階層が同じところに住むのではなくて、収入階層的に見てもいろんな層が同じカンポンにいる。市を全体として見ても、収入階層的に低いカンポンもあれば、高級住宅地のカンポンもある。
いろんな議論がありますが、現在の居住問題に対する唯一の解答はこうしたカンポンの多様な存在だ、という意見があります。これは非常に逆説的な冷めた言い方ですけれども、真意は多様な住宅地があることが重要だということです。どんなに貧しい人でも住む場所がある、そういうコミュニティがあるということなんです。先進諸国ではホームレスになるしかない。インドネシアには、基本的にはホームレスはいないんです。少なくとも金持ちしか住めない住宅地とか、カンポンの世界にはそういうセクリゲーションの仕組み、そういうゾーニング思想は必ずしもないということです。
二番目の全体性というのはちょっとわかりにくいですが、途中で言いました四番とも関係するんですけど、具体的には職住近接ということですね。カンポンの中にいればなんでも売りに来る。徒歩圏で生活が完結し得る。経済的には都心に寄生して、みんなが集まることによって、先ほど言いましたようにサービスを分け合って住んでいるわけですけど、生活圏としては自立している。二時間かけて電車に乗って通ってきてまた帰るというスタイルではなくて、歩いて行ける範囲で生活ができる。
三番目の複合性というのは一番でしゃべったこと、多民族からなることに加えて、寝るだけの機能だけじゃなくて生産機能もあるということ。二番の自立性とも関係しますが、消費するだけの都市ではない。ですから、もしかすると循環型とか自律系の住宅地のモデルになるのかもしれません。何がしかのものをつくって、近隣に売ってある種のリサイクルが行われる、循環系が成立する。
四番の高度サービス社会というのは屋台文化ということです。非常にサービスの行き届いた社会です。日本の社会は高齢になると全部お金に換算して介護するということになるわけですが、インドネシアでぼけ老人なんか見たことないですね。今の状況ではあんまり長生きしないんですが、コミュニティで、人海戦術で今すべてのサービスなり介護なりがやられているわけです。
五番目がそれに関連していまして、ゴトン・ロヨンですね。ミューチャルヘルプ、相互扶助という形が生きている。隣組とか町内会システムというのは日本軍が持ち込んだというふうに言われています。そういう学位論文が出ております。たった二年半で日本の戦時中の町内会システムが根づいたというふうに私は思いません。伝統的な村の共同体の仕組みがあって、共鳴したんだと思います。それが戦後にも生き続けてきて、今でも残っている(図056)。この辺は日本とは大分違う側面だと思います。KIPがうまくいって、世界銀行が大いに注目して融資したんです。道路が途中でとまって立ち退き先を探すフレキシブルなことができたのも(図057)、コミュニティの相互扶助の仕組みが強かったからですね。
七番目はお話ししませんでしたけれども、住まいは徐々につくるものだということです(図058)。いろいろヒアリングしたり、調査をしますと、最初はワンルームぐらいのものをまず建てて、余裕ができると二部屋にして、・・・と増築していくんですね。いきなり御殿のような家を建てるんじゃなくて、生活の必要に応じて、あるいは経済的な余裕に応じて家を建てていく。住宅というのは固定的なものではなくて、ライフステージに合わせてつくられるものである。
八番目もカンポンの自律性にとって重要です。法律上はほぼ日本と同じような権利関係が定められています。しかい、日本で言うと既得権とか、入会権とか、村とか国とか人のものだけどそこへ入っていって魚とってもいいとか、木を伐採してもいいとか、慣習法に基づく権利関係が重層していまして、非常に外部にはわかりにくい仕組みになっています。
行政当局にとってはとんでもないことでして、税金が取れない。市の収入にならない。しかし、逆に地上げに遭わないというか、クリアランスを免れる。だれか一人売ってしまうと、生活の根拠がどんどん崩れるわけですけど、先ほどの上の相互扶助システムとかいろんなもろもろが絡んでいるんですけど、コミュニティが維持される一つの大きな要因としては、こんがらがっていて、わけのわからない人はそこに入り込めないということがあります。カンポンはそういう仕組みも持っているんです。
これで一通り、カンポンという世界を見て学んだことをお話ししました。要するに言いたいのは、こういうことの方が大事ではないか。フィジカルな貧しさよりも住まうためのこういった仕組みとかルールとか、そういうものの方が大事じゃないかということなんです。
とはいっても、今、スラバヤにしても、東南アジアの大都市にしても、日本が経験したことと同じような問題を抱えています。先ほどのごみの問題とか、都市のインフラストラクチャーにかかわる問題というのはシビアな問題としてありますし、もっと人口がふえたらどうなるんでしょうか。今みたいな暮らし方でいいでしょうか。それから、もっと流動化していったらどうなるのか。再スラム化の可能性はありますし、高層化の問題もあります。オープン・スペースの貧困、レンタル・ハウスがどんどん増えています。土地の細分化も問題です。転出入のメカニズムも変わってきます。
インプルーブメントしたら、お金持ちがどんどん入ってきちゃうとか、都市は生きていますので、そういうことが起こって予断を許さない。今後、じゃあ、どういう住まいに住めばいいのか、どういう形で住めばいいのかということを考えます。この課題はインドネシアも、タイも、フィリピンも、日本も同じです。建築家として、あるいは都市計画家として何をどう考えたかをお話しします。
日本の場合は、二DK、三LDKをつくればいいということでやってきたわけですけど、多分、インドネシアでは違う。気候も違えば民族も違う。
カンポンについて考えたこと、学んだことを生かすとすると、ストレートにつながるわけではないんですけど、課題に対して、最低限原則とすべきことを列記をするとこうなります。
1 カンポン固有の原理の維持
2 参加
3 スモール・スケール・プロジェクト
4 段階的アプローチ
5 プロトタイプのデザイン
6 レンタル・ルームのデザイン
7 集合の原理の発見
8 ビルディング・システムの開発
9 地域産材の利用
10 ワークショップの設立
11 土地の共有化
12 ころがし方式
13 コーポラティブ・ハウジング
14 アリサンの活用
15 維持管理システム
16 ガイド・ライン ビルディング・コード
詳しくは省きますけれども、一番上に書いてあることが非常に大事です。カンポン固有の原理の維持、原理というのは先ほど並べ立てたようなことです。ああいう仕組みは崩さない方がよかろういうことです。
3-2 ルーマ・ススン
スラバヤ工科大学にシラスという先生がいまして、もう二〇年以上つき合っています。意気投合といいますか、随分教わったんですが、三年ぐらい前ですか、京都大学にも一年ほど客員で来ていただきました。その先生と議論をしながらやった提案というか、実験プロジェクトがあります。その前に、スラバヤに市営住宅(図059,060)が建ったんですが、これはもう顔から火が出るような思いしました。日本がやったというんですよ。調べてみたら、日本ではなかったんですけど、日本のJICA(国際協力事業財団)がジャカルタでやったものをまねしてつくった。日本と同じようなアパートを、全然違う気候のスラバヤにつくったわけです。技術的な裏付けもないから、トイレの配管が外へ出てきたり、とんでもない結果です。暑いですから、隣棟間隔なんか要らないです。むしろ陰が欲しいから、くっつけて建てちゃった。どう考えても、これじゃないでしょう、こんなものを援助で押しつけちゃだめでしょうという話から始まったんです。みんな地面の上で生活していますから、地面がないとこんなところではとても暮らせないわけですね。
いくつかプロジェクトが一九九〇年代初頭から始まったんですが、インドネシアでは、ルーマー・ススンといいます。スラバヤでは、ルーマー・ススン・デュパ(図061)が最初で、二番目がソンボ団地です(図062~064)。ルーマーは家、住まい、ススンは、「積み重なった」という意味で、積層住宅という意味ですね。略してルスンといいます。しかし、只の集合住宅ではないんです。
理念はカンポンでの生活がそのまま立体化して展開できるということです。ですから、カンポン・ススンと呼ばれたりします。カスンです。
まず、変わっているのは、二階にも三階にも、美容院や雑貨屋などお店が出来て、物売りがやってきます(図065)。カンポンと同じです。立体カンポンです。各階にムショラといってお祈りのスペース(図066)があります。別にモスクがあります(図067)。
第二は、可能な限り共用スペースをとる、というコンセプトがあります。コモン・リビング、共用居間があって、子供が遊んだり、仕事をしたり、します(図068~70)。一部屋は一八平米ぐらいのユニット(図071)で、廊下は全部コモンリビング、全戸のリビングですよという位置づけです。結婚式なんかが行われたりします。
基本的にキッチンを同じ場所に置いています(図072)。私は、これはコレクティブの先進事例だというふうに一〇年ぐらい前から言っているんです。スペースだけとって、木箱のキッチンをそのまま並べるタイプを最初提案しました。日本でも戦後ステンレス流し台が提案されて、一気に普及し、産業として成立したというのが公団住宅です。見るところ、ちょっと失敗しています。というのは、日本と同じように立って料理をする台所を提案をしたわけです。日本では、高さを何センチにすればいいか大議論がったわけですが、彼らは立って料理しないんです。座ってやるので、思いどおりには使われていなくて、改良の余地ありなんです。トイレ・バスは二戸にひとつという形で共有しています。一階については専用庭、専用のトイレと専用キッチンをもつタイプもつくっています(図73)。
三つ目のコンセプトは、ここに住んでいた人が住む。クリアランスしないという原則です。一棟は一つの町内会、隣組が入っているわけです。
このカスンは、スラバヤ型の新しい集合住宅として評判になりまして、ジャカルタでもやってくれと言われてやったジャカルタのケース(図074)もあります。インドネシア・ヴァージョンの都市型住宅になったわけです。
3-3 スラバヤ・エコ・ハウス
そして、それの改良バージョンを実験的に建設する機会が与えられました。とりあえず試行錯誤的にプロットタイプをつくったので、あんまり今日的な意味での室内環境について必ずしも自覚的じゃなかった。結果的にはすごく環境工学的な配慮、もちろんパッシブという意味ですけれども、例えば、真ん中のところにキッチンとかバス、トイレを持ってきて、居間が抜けていますので、クロスベンチレーション、十字型に通風がとれています。大屋根で、容積が大きくて、熱を遮断できるようになっています。そこで、そういうことをもう少し自覚的に整理して設計したのが、スラバヤ・エコ・ハウスです(図075~080)。私が直接基本設計にタッチしました。実際の指導を仰いだのは、今、神戸芸術工科大学におられます小玉祐一郎先生、パッシブ系の設計の事例もたくさんあります。私がインドネシアにいて、彼からいろんな指令をいただいてやったんです。
いくつかコンセプトといいますか、アイディアが込められています。一つは、チムニー・イフェクト、煙突効果ですね、要するに縦に通風をとる。垂直方向に空気を流します。
二階に穴あけて、とにかくポーラスにしろということでしたので、インドネシアの伝統的な住宅もポーラスにできていますので、そういう思想で設計しています。これは集合住宅モデルでして、プランニングの理念はカスンと同じです。コモンのリビングがあって、四隅に住戸が四戸あるモデルです。
大げさなのは、ソーラーバッテリーで井戸水を循環して、床を冷やすというアイディアもあります(図081,082)。スラブにパイプが埋め込んでありまして、それで冷やそうという仕掛けをしました。大がかりなことをやりたくなかったんですが、デモンストレーションプロジェクトですので、やっぱりマスコミも集めないといけないというので、ソーラーバッテリーでポンプを回して、パソコンもそのソーラーバッテリーで使うということであります。そういうものです。
屋根ですが、ダブルルーフ、二重にして空気層をとっていて、椰子の繊維を断熱材に使いました(図082)。これは大ヒットでして、通常の断熱材並の効果がある。インドネシアでは、ヤシというのはほとんど無限の材料なんですね。ヤシの繊維を編んで足ふきのマットに使っているんです。それをそのまま屋根に乗っけたら、シミュレーションによると、グラスウール並みの性能ということなんです。今のところ大成功の地域産材料利用の例です。
先ほどの井戸水循環は今のところ失敗でして、なぜかというと、井戸水の温度が二八度もあるんです。無知だったんですけど、井戸水の温度というのはどこでも年平均温度に等しいそうです。スラバヤというのは年平均二八度あるところですので、冷えない。近くにプール、池を掘って、気化熱で二度ぐらい下げて、二六度ぐらいにして修正中です。今のところ井戸水循環で輻射冷房するというのはうまくいっていません。
基本的には今言われているありとあらゆる工夫をして、アクティブなエネルギーをできるだけ使わずに、やれるものは全部盛り込むということでやったわけですけど、冷たい空気を運んでくるクールチューブとかできないものもありました。モデルにして、インドネシア・バージョンのエコ・ハウスになればと思っているんです。
アジアの居住地モデル
結局、住まいの豊かさ、というのは物質的な豊かさだけではないということですね。むしろ、生活を支える仕組み、ルール、都市に一緒に住むかたちがより重要だと思います。
この二〇年余り、発展途上地域の大都市の居住地について考えています。具体的に焦点を当て研究対象としてきたのは湿潤熱帯(東南アジア)の大都市であり、続いて南アジアです。それぞれの気候風土に相応しい居住地を構成する都市型住居モデルの開発がテーマです。
二一世紀を迎えて「地球環境問題」がますます深刻なものとして意識されつつあります。そこで、グローバルに大きな焦点となるのは、発展途上地域の大都市の居住問題だと思います。今日はその一端を見て頂きました。今後ますます人口増加が予想されるのは熱帯地方の発展途上地域であり、人口問題、食糧問題、エネルギー問題、資源問題など地球環境全体に関わる様々な問題は既に先進諸国よりもアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの大都市においてクリティカルに顕在化しつつあるわけです。とりわけ熱帯の発展途上地域が問題なのは、そこで先進諸国と同じように人工環境化が進行しつつあることです。問題は、先進諸国の住居がモデルとされ、目標とされ、エネルギー消費を考慮しないアクティブな技術が専ら導入されつつあることです。そこで、スラバヤ・エコ・ハウスの意味があると思っています。
もし、熱帯地域の全ての住居がクーラーを使うようになると、地球全体はどうなるのでしょうか。スラバヤ・エコ・ハウスの開発過程で、「日本ではクーラーを無制限に使いながら、原初的な技術を押しつけようとしている!」という批判を受けました。本質的に突きつけられる問いですね。モデル開発が先進諸国の側から一方的になされるとすれば、極めて傲慢と言わざるを得ないんです。モデル開発は、基本的に日本の都市型住居モデル、居住地モデルの問題でもある、というのは前提とすべきでしょう。
それぞれの地域で、住居が集合する形式によって涼しく風通しのいい居住地の提案は可能ではないかと思っています。事実、アジア各地においてもそうした形式が伝統的につくられてきています。各地の都市型住宅については、ラホール、アーメダバード、デリー、ジャイプル、カトマンドゥ盆地、ヴァラナシ、台湾、北京などで調査をしてきました。大変面白いし、様々なことを学びます。
今日の話が、住まいの豊かさをめぐって、日本の住まいのあり方を考え直してみる、なんらかのきっかけになればと思います。