あとがき、住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日
おわりに
夢に現れる場所や空間に興味を持ち、克明に夢の記録をとり続けた建築家の話を聞いたことがある。その建築家によれば、採集した夢のほとんどが住宅を舞台とするのだという。しかも、その大半が生まれ育った住まいだという。
夢の記録はいかにして可能なのか、記録者が分析者であることによって、夢の内容はどう影響されるのかは、夢解釈や夢の現存在分析の問題であり、僕にはよくわからない。だから、その建築家の分析結果が一般化できるかどうか確信がない。しかし、僕には思い当たることがある。
建築を学び始めた学生に住宅設計の課題を出すと、その設計案にはどこかしら生まれ育った住まいの面影が表れるのである。例えば、間取りが似ていることがよくある。「夢の住まい」「理想の住まい」を設計しなさいといっても同じである。何となく現実の住まいに似てしまう。だから、もっと自由な発想で、というのが僕らの口癖である。しかし、空間体験がなければなかなか発想も豊かにはならない。未知の空間はそう簡単には設計できないのである。様々な空間を経験すること、実際に行って見ること、見るだけでなく触って、そして全身で感じること、それが夢の住まいを自由につくる第一歩である。
「夢の住まい」も現実の「ウサギ小屋」を超えることはないという認識は、一方で僕らをうんざりさせるかもしれない。しかし、夢の舞台として住まいが繰り返し現れているのだとすれば、僕らの存在にとってそれだけ現実の住まいが重要であるということである。
住まいの夢は、従って、単に住宅の夢ではないであろう。まして、お金さえ有れば買えるというものでははないだろう。住まいの夢と住まいの夢は自由で多様な生き方に関わっている。
本書では、現実の住まいを規定し、縛っている様々な制度について順に考えてみた。土地、家族、空間、環境、技術、世界観などによって、住まいは様々に規定されている。とても一元的に理解することはできない。住まいのあり方は極めて複合的な諸要素からなる文化の表現である。僕らの住む都市の風景が貧しいのだとすれば、それは単純な制度や原理によって容易に理解可能だからである。
所有形式(所有ー無所有、定住ー移住、恒久ー仮設)、集合形式(独居ー群居、男性ー女性、複数家族ー核家族)、空間形式(有限ー無限、限定ー無限定、自由ー不自由)、環境形式(場所ー無場所、自然ー人工、地下ー空中)、技術形式(画一性ー多様性、自己同一性ー大衆性、地域性ー普遍性)、象徴形式(生ー死、コスモスーカオス、永遠ー瞬間)がそれぞれの章に割り当てたテーマであり対となる鍵語群である。もちろん、各章は独立するわけではなく、相互に関連している。二分法によって、どちらかはっきりさせようというわけではない。僕らの「住まいの夢と夢の住まい」は両極の間をさまようのみである。
住まいの夢は、もちろん、個人によって様々であろう。無所有の夢、ノマドの夢、独居の夢・・・といっても、誰もが実現できるとは限らない。所有より住むことそのものへ、多様な関係を許容する住まいのあり方へ、規模よりも共有された秩序へ、場所の固有性へ、自己表現へ、そして生きている住まいへ、・・・「住まいの夢と夢の住まい」を考える素材が提供できたとすれば望外の幸せである。
本書のもとになったのは、『群居』という同人雑誌に「アジア住居論」と題して連載していた文章である。思いつくままテーマを選んで気楽に連載していたのであるが、一冊の本にまとめるにあたって全く新たに構成し直した。ほとんど書き下ろしと言っていい。連載のみならず、これまでの著書で考えてきたことも必要に応じて取り込んでいる。
本書はもちろんぼくひとりの力によって書かれたのではない。共に調査をしてきた研究室の若い友人たちとの共同作業がもとになっている。また、インドネシアのスラバヤ工科大学のJ.シラスとその仲間たちとの交流も同様である。『群居』の仲間たちとの議論も貴重である。本書の執筆と平行して、R.ウオータソンの『生きている住まい』を翻訳する作業を若い仲間と行ったのであるが、東南アジアの住まいについての実に豊富な事例の多くをR.ウオータソンの著書に負っている。『生きている住まい』がなければ、本書をまとめる踏ん切りがつかなかったかもしれない。また、東南アジア学の手ほどきを受けた京都大学東南アジア研究センターの諸先生方、特に立本成文、高谷好一の両先生、さらに「イスラームの都市性」に関する研究をご一緒して以来、最近の「植民都市の比較研究」まで、ロンボク島調査などフィールドを指導していただいている応地利明先生には常に大きな知的刺激を受けてきた。特に記して感謝したい。
「アジア住居論」の迷路に踏み込んで右往左往している僕に本書をまとめるよう薦めて下さったのは赤岩なほみさんである。すぐにとりかかったけれどなかなかまとまらない。フィールドが面白くて新しい興味がどんどん沸いてくるせいである。一応まとめてからも冗長さを削ぎ落とすのにさらに三年はかかったであろうか。赤岩さんとの共同作業は貴重な経験であった。本書が多少とでも読みやすくなっているとすれば彼女のおかげである。