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2025年3月11日火曜日

「鯨の会」通信①~⑧、東洋大学、1988

①東洋大へ来た頃のこと        

                                    布野 修司

 「鯨の会」の通信を出すから何か書いてくれとのことである。というのはウソで、ホントは何か書かせてくれといったのは僕の方らしい。酔っぱらってて記憶がないから・・・そう僕は32才になった頃、つまり諸君とアメリカへ研修旅行へいってから、酔うと記憶がなくなるようになったのである。布野・宮内研でいうと4期生、飯塚君たちの学年は責任を感じて欲しい。デモマア、年のせいですね。君達も気をつけよう。・・・定かではないのだが。まあ、せっかくスペースを頂いたので、何事かをつづってみたいと思う。編集部というか事務局に「130 人の一人づつについて思い出を連載していいか」と聞いたら、「そんなに続くかどうか保証できない」などというので、「一期毎なら10号だけど」といったら、「そのぐらい出るかもしれない」という。思い出話をつづりながら近況も報告して欲しいということである。

 今回の「鯨の会」の発足について僕はほとんど何もしていない。特に「鯨の会」という  名前については全く相談もうけていない。大洋ホエールズのまわしものがいるなと直感して、文句いったら、「先生、アンチ・ジャイアンツでしょう」とか、「『鯨井中野台2100』の『鯨』だ」とか、「それならナンデ『川越の会』とか『中野台の会』じゃないのだ」というとしどろもどろなのだ。「イヤ、升味で鯨が食べれなくなるからだ」とか「『鯨飲』の鯨」だとか「捕鯨は断固続けるべきだ」とか、全くいい加減である。こんないいかげんな会なんか嫌かというと、そうでもない。名前はついてしまったのだから、あきらめることにする・・・変な名前だと思う人もあきらめよう・・・。実は、僕もこういう会があったらいいなと思っていたのである。それに、第一回の会でも少しだけ時間をもらって話したのだけれど、「鯨の会」の発足について、僕に全く責任がないわけでもない。研究室も10年になると、初期の頃の諸君は働き盛りである。腕に自信もできて、資格もとり、独立しようというつわものも出てくる。実際、研究室のOBの中にそうした人達が次第に増えてきた。また、独立しなくても転職するケースはかなり多い。僕が「鯨の会」のような会・・・どんな会に育っていくのか今のところ事務局にきいても分からないのだが・・・必要だと思ったのはOBの独立や転職の相談、あるいは学生のリクルートの相談に一人一人対応するのではかなわないからである。それに、僕自身や大学に集まる情報ではたかが知れている。もっと、OBどうしで相互交流すればいいんじゃないか、とふと思い、昨年の12月だったか、何人かのOBたちに忘年会と称して集まってもらって、何となくこういう会があればなあなどとつぶやいたり、わめいたりしただけである。後は、一切知らない。全ては、秘密裡に進められた。もっとも、後で聞くと、宮内先生が色々とアドヴァイスして下さったらしい。そうでなければ、こんなスマートに、会など発足する筈が無いのである。

 以上は本音である。だがしかし、もちろん、別の本音もある。それは本音というより夢   といった方がいいのだけれど、その夢については諸君がゲラゲラ笑い出すといけないか   ら書かない。それに、会がこれからどうなっていくかは誰にもわからないのだから、一人  の年長のメンバーにすぎない僕が勝手に自分の夢を押しつけるわけにはいかないのだ・・・その夢について聞きたければ、定例会の二次会に出て聞いてちょうだい。酒の席なら、多少のホラも許されるんじゃないか・・・。

 さて、前置きが長くなった。まず近況だけど、『群居』、『同時代建築通信』の読者であれば御存知であろう。僕は僕でそう変わっていないのである。ただ年をとった。学生は丁度、一回り(12年)下より若い世代になってしまった。宮内康先生がウシ年で丁度一回り上だから、宮内先生に最初に出会った頃のことを思い出すと、何となく感じがわかる。しかし、さらにもう一回り下になったらどんな感じだろう・・・宮内先生に聞いてみなくちゃ・・・。東洋大にきた頃、生まれたばかりだった上の子がもう4年生である。当り前だけど、その頃は自分の子供の世代である。諸君と同じようにその年の学生と酒が飲めるかどうか自信がないのである。まあ、将来の話は後でいい。何回かにわけてこの10年を振り返ってみよう。

 それは1978年の正月が明けて早々のことだったと思う。内田雄造さんから一本の電話をもらった。「君を東洋大に招きたいから履歴書を出して欲しい」。随分唐突であった。全くの寝耳に水である。それまでそういう話は全くなかったし、夢にも考えていなかったことである。内田先生、前田先生の名前はもちろん知っていたし、東大の吉武先生が筑波へ行かれる時の研究室のちょっとしたゴタゴタを通じて面識もあった。しかし、それ以外の先生については全く知らなかった。太田邦夫先生、上杉啓先生ですらそうである。両先生も僕について全く知らなかったと思う。しかし、もう一人だけ、東洋大の先生で知ってる先生がいた。誰でしょう。もちろん、いうまでもなく、それは宮内康先生である。同時代建築研究会を始めたのは1976年の暮れだから、その頃は毎月一度は会っていたわけである。しかし、当然のことながら、非常勤である宮内先生から、そんな話は一切聞かされていない。しかし、確かめたわけじゃないから定かではないけど、僕に関する具体的な情報は、宮内先生を通じて、前田、内田の両先生に伝えられたに違いないのだ。そうだとすれば、僕が東洋大にくる大きなきっかけは、そもそも宮内先生にあったことになる。それが事実であろう。なぜなら、その頃、僕は、多少、建築ジャーナリズムに文章を書き出してはいたけれど、全くといっていい程、業績はなかったのである。

 しかし、今にして思えば随分乱暴な話である。前もって意向を確認もせずにいきなり履歴書である。しかし、僕は即座に答えた。「行きます。宜しくお願いします。」。理由は簡単である。東洋大の方に自由な空気があるという直感である。そして、その直感は決して間違ってはいなかったのである。

 ここで以下次号と書いたら、「まだスペースがあります」と事務局が言う。全くもってダラシナイ事務局である。「そして、その直感は決して間違っていなかったのである‥‥」すばらしいエンディングではないか、それなのに、以下は蛇足である。

 電話をもらって、まもなく、内田さんと渋谷の茶店で会った。その茶店にはデビュー前の清水由貴子がいたのを覚えている。清水由貴子って誰かって?知らないかなあ?欽チャンバンド・・・古いなあ・・・に帰ってきたアイドルとかいうんでしばらく出てたよ。どうでもいいけど、それだけ記憶が鮮明ということである。それに僕が芸能界に強いのは昔からなのだ・・・もっとも最近はダメだけど・・・。その時、1~2度TVに出ただけの清水由貴子をそれと分かったくらいなのだ。

 その茶店では、内田さんから履歴書の書き方について教えてもらったのである。その後一度、もしかすると同じ日だったかも知れないのだが、前田先生、内田先生と、新宿駅前のバーというか茶店でビールを軽く飲んだ。That's all. である。僕が君達と出会う運命は決まったのである。もちろん、後できくと、僕を採用するかどうかをめぐっては多少もめたらしい。しかし、当時の僕にはそんなことは知る由もなかった。3月には、もう設計製図会議に呼ばれて、いっぱしの意見をはいた記憶がある。その会議には入れ替わりで神戸大学へいく重村力さんがいたのがまるで昨日のようである。            (次号へ続く)




②最初に出会った学生たち 

 TBSのディレクターから電話がある。「プライムタイムの本村ですが、今度、取り壊される同潤会の押上(中ノ郷)のアパートを取り上げようと思うんですけど‥‥」。松山巖さんの紹介なのだという。同潤会については多少の資料をもっている。これまでも三度ばかりNHKの番組の相談にのったことがある。わざわざ川越まで来るというので合うことにする。それが敗因であった。テレビは嫌いである。何故かって、テレビに出るような見てくれをしていないことは諸君だって知っているじゃないか。ちょっと前、NHKの「おはようジャーナル」に出されそうになったことがある。手づくりハウスとかなんとかにコメントをというような番組だったのだが、石山修武に逃げられて、人がいないのだという。すんでのところで、大野勝彦に代わってもらったのだけれど、テレビは柄じゃない。その点ラジオはいい。顔がでないから。

 しかし、まあ、つい出る羽目になった。といっても、10分ほどのニュースのうちの30秒だけだ。六月一日(例の森本キャスターが復帰した日だ)一日、取材陣につき合ったのである。まあいい経験だったのだけど、放映されたのをビデオでみると(もちろん、飲んだくれていて、リアル・タイムではみられないのだ)、やっぱりがっかりである。いいことを沢山しゃべったのだけど、ほんの一言二言扱われてるだけなのである。やっぱりテレビに出るんなら、生で好きなことがいえるんじゃなくっちゃ、なんて言ってみても後の祭りだよ。 六月二日、同潤会アパートをみて回った翌日、『週間読売』から電話がある。「新宿のゴールデン街で好きなだけ酒を飲ますから何か書いて頂けますか‥‥」ときた。正直いって、思わずヨダレが出た。しかし、そうもの欲しそうにするのは性に合わない(誰かがウッソーという)。「いつですか、今、これでも忙しいんですけど」、「えー、今日」、ホントに絶句。しかしあいにくと予定があいている(シメシメ)。「しかし、ずいぶんと急なことですね。『週間読売』っていうのは、そんなにいいかげんなんですか」。受話器の向こうで、「そうなんですよ、われわれも急に上司からいわれたんですよ。渡辺武信さんの推薦なんですよ。建築界で飲んで書けるのは、宮内康か布野修司だって‥‥」。ギョッ、武信さんには多少借りがある。「もう、ことわられると首です」とかなんとか、編集の辻さん(酒飲んで、もちろん仲良くなったのだ)はもう必死である。そのうち、「いや、僕もいいかげんなのはきらいじゃないですしィ~。お酒も嫌いじゃないですしィ~」てなことを口走ってしまった。その夜は、美術評論家の高島直之を「ただで酒が飲める」と呼び出して、楽しく飲んだ。文章は、割とうまく書けた。読んだかな。読んでないだろうな。‥‥ てなのが近況である。さて、連載を続けよう。

 1978年4月の中頃だった。一台のオンボロ小型トラックが東大本郷の工学部一号館の前に横づけされた。運転してきた男は、背が高く、がっしりとした、たくましい青年である。しかし、その風体はまるで、梱包屋か工務店の二代目のようであった。その印象が正しかったことは、すぐに裏づけられるのであるが、その好青年が小生の東洋大学への迎えの使者であるとは、おそらく、誰も気づかなかったにちがいない。「東洋大学の中村ですけど、布野先生の荷物を運ぶように言われたんですが‥‥」と言われた時に、僕も一瞬とまどった記憶があるのである。

 中村良和君。僕が最初に出会った東洋大生である。その最初の印象は強烈であった。何故か、うきうきした気分になったことを覚えている。「たったこれだけなんですか」だったか、「ずいぶんあるんですね」だったか、中村君が言ってダンボールをあっという間に積み込むと、すぐさま川越に向かった。さらば東大よ!なんて感傷的になんかちっともならなかった。川越街道はひどく混んでおり、おかげで、随分中村君と話すことができたのである。

 中村良和君は、今、豊橋にいる。JKK(住環境研究所)から積水化学工業にいって、中部セキスイツーユーホーム製作所に出向中である。何年か前、「一人じゃ寂しいから、誰かよこしてよ」といわれて、白水直人君(85年卒)が行った。しかし、人の運命というのはわからないものである。中村君が、今、豊橋にいることなど、本人も夢にも思わなかった筈なのである。その最初の出会いから、今日までの間に彼の人生は一変したのであり、ものすごいドラマがあったのである。

 最初に出会った時、彼は、前田研究室の研究生であった。しかし、同時に、北区の滝野川で工務店を営んでいる親父さんの元で、大工の修行中であること、続いて、電気屋、建具屋など下職の見習いを数カ月づつ続けるつもりであること、そうした上で、親父の跡をつぐつもりであること、全く新しい建築家のタイプを目指すことなどなどを、川越街道の上で語り続けた。正直いって、新鮮だった。二年程、東大で助手をして、アモルフの宇野君や竹内君、団紀彦君なんかのエスキースを見て、学生との接触はあったのであるが、東大には、こんなタイプの学生はいない。その時、一つの世界が開かれたような気がした。ひとつの構想が芽生えた。中村君と僕とのその構想は次第に膨らんでいく。そして、着々と実現するかにみえた。しかし、その矢先の事故であり、遭難であった。そう、彼は有数の山男でもあったのである。

 川越へ向かう車の中で、中村君は既に山男としての夢を、ヒマラヤ登山の夢を語っていた。海外登山の実績のある山岳会に属していたのである。その後、沢山の学生にあったのだけれど、はっきり言うけど、人間としての巾は、東大生より、東洋大生の方が上である。諸君の中には、音楽にかけてはセミ・プロ級が何人もいる。寿司をにぎらせたら、包丁をにぎらせたら、本職はだしのやつがいる。野球をやらせたらどうだ。(一瞬口ごもって)すごい奴らばかりである。スポーツをやらせたら、青白きインテリなんかに負けはしない。おまけに、もてるやつらばかりときたら、いうことなしである(そうだよねえ諸君)。中村君はそうした最初の学生であった。

 彼の二重遭難の話は後にしよう。それは四年後の暮れのことである。忘れもしない、宮内康さんが野球で骨折した日だ。東洋大学につくと、諸君のよく知ってる研究室に荷物を運びあげた。ガランとしていた。それがスラムとなるのに一年とかからなかったように思う。それまでのスラムは内田研究室であった。それ以後、その名誉の言葉はわが研究室につきまとい、今なお、つきまとっている。何人かの学生、大学院生が手伝ってくれた。その中に、岡利実君がいた。岡君も印象深い、彼と一緒に東南アジア研究を始めることになったのである。岡君と中村君は親友であった。岡君は理論派であり、中村君は実践派といった印象であったことを覚えている。

 最初の年、何をしていたかは、あんまり覚えていない。授業もあんまりしなくてよかったような気がする。もっぱら、前田研究室の院生、学生とゼミなどをつきあった。稲葉君の学年である。原稿のリストをみてみると、その年、悠木一也のペンネ-ムで『建築文化』に「螺旋工房クロニクル」というコラムを連載している。他に『現代思想』に書くなど、もっぱら原稿を書いていたようである。もちろん、一方で東南アジア・プロジェクトが開始されつつあった。同時代建築研究会も盛んであった。一方で、東大の院生、日本女子大の二人の学生(現 彦坂裕夫人、浜口恵子さん)の卒論をみていた記憶がある。楽しく、優雅であった。そうした中で忘れられないことがある。それは、前田研究室の合宿(青木湖)で起こった悪夢のような出来事である。

 断じて信じて欲しいのだけれど、僕は酒が飲めなかった。師匠である宮内康先生に聞いて欲しい。絶対ホントなのだ。その合宿で、新田君(現 近藤建設)という一人の学生が「飲み比べをしよう」という。皆はやしたてる。新任のセンコーとしては、学生に甘くみられるのが嫌だった。「よ~し」と受けてたった。新田君は底なしであった。しかし、その彼がトイレへ行ってゲエゲエはいて(後でわかって僕は怒り狂ったのだ。彼にはそういう特技があった。)さらに挑んできたのである。そしてクライマックスをむかえた。民宿の庭で、いきなり胴上げされたのである。このテクニックを僕はうかつにも知らなかった。人を酔わせる悪どい手だと今でも思う。こう書いてても眼から火花が出そうだ。チクショー。あとは知らない。花火をもってそこら中を駆け摺りまわった。何人もが火傷したという。挙げ句の果てに田圃に飛び込んで泥だらけになった。将棋板をひっくり返した。それで寝てしまった。

 翌朝、ガンガンする頭で恥ずかしさを感じて、ゼミを放っぽり出して、東京へ帰った。前田先生もあきれたと思う。この時以来、前田先生は僕のことを大酒飲みだと思い込んで、方々で言いふらすのでホトホト困ったのだ。満員で暑くて、トイレでゲエゲエ吐いた。ほとんど死にそうであった。その時は、とんでもない大学にきたと正直思った。酒をきたえなければと思ったのはこの時なのだ。「布野先生に酒を飲ますな」という噂はあっという間に広まった。学生の見る眼も変わった。「この先生はほんとは馬鹿なんだ」と、実に親しげなのである。     (以下次号)





③研究室誕生  
 大学院の北川君から電話があった。僕が研究室に居て、彼は外だ。明日までにこの原稿を書けという。どうもおかしい。いつもは僕の方が外から指示するのに調子がくるう。去年は、上村久司君(現在、JKK 住環境研究所)が主(ぬし)のように研究室に棲みついていたから、随分と助かった。今年は、スラムに僕一人ということも少なくない。それに昨年はインスタントラーメンだったのに、今年の四年生はちゃんと出前を頼む。ずいぶんと優雅である。おかげで、僕もちゃんと昼食をとるようになった。研究室は集まってくる学生によって毎年毎年雰囲気が違うのである。

 しかし、べらぼうな話だ。いくら気楽に書くといったってあまりに急だ。自分で書いてみろといいたい気分でペン(サインペン)をとったところである。

 今年の夏というか8~9月は実に変だった。異常気象もこう続くと異常気象じゃなくなる。地球はきっとおかしくなりつつあるような気がしてならない。広瀬隆の「危険な話」は読んだかな……。

 7月の半ば、鳥取県の八頭郡は千頭(ちづ)という町に出かけてきた。「ちづサンフォーラム」という千頭杉を用いた住宅コンペのプレシンポジウムのためである。わりと真面目な話は『建築文化』九月号に書いた(「地域の活性化とは」リレー時評)から読んで欲しい。大失敗である。折角鯨通信があるのに諸君に参加を呼びかけるのを忘れた。正確には、頼んだんだけれど事務局が忘れた。審査員をやるから、関係者を入選させるわけにはいかない、などとは決して思わない。どんどん参加して欲しかったのだ。あわてて身近に声をかけたけど何人が応募してくれるか。締切は10月末である(登録締切が8月末だったのだ)。

 鳥取県と言えば谷田昭道君(81年卒)がいる。あの美声の、天使の声の谷田君だ。一度テープを送ってもらったんだけどお礼を書き忘れた。今度も、連絡し忘れた。御免。その後、曲が出来てきたらまた送ってちょうだい。あつかましいかな。

 でも行ってみて、いくつかの感激的なことがあった。一つは、二人の東洋大のOB(3期と7期)に会えたことである。もう一つは、『スラムとウサギ小屋』を読んで来たという高校生に出会ったことである。高校生だよ。読んでない諸君も多い(だよね)というのにである。東南アジアが忙しくて日本はあまり歩いてこなかったけれど、どんどん歩きたい気分である。

 昨年、「都民の家」というコンペの審査員をやったけれど、今もう一つ川口市の都市デザイン賞の審査も頼まれている。そんな歳になったのだろう。鯨の会のコンペ入選の声を早く聞きたいものだ。

 ところで合宿は佐渡へ行ってきた。千葉大の安藤正雄研究室との合同合宿である。思えば、昨年は、美ケ原高原で、京都芸術短大の渡辺豊和研究室も加えた三研究室の大合同合宿であった。今年は、五大学でインター・ユニヴァーシティーでという声もあったけど、二大学となった。石見一彦君(80年卒)に会った。ただただなつかしかった。少し太って中年になりかけていたけど、ちっとも変わりなかった。ただ、佐渡は嫁飢饉とかで、嫁さんのきてが少ないという。困ったもんだ。

 ところで、思い出したから書いておきたい。来年2月21日から3月15日ヨーロッパへ行くことになりそうである。都合のつく人は一緒に行こう。旅費は45万ぐらいかな。三週間は長すぎるかも知れないし、年度末で忙しいかもしれないけれど。最近は円高で学生は沢山集まるのだけれど、鯨の会の諸君がいてくれると学生の相手はまかせられると思ったりなんかしたりして……。その旅行プランを同封します。入ってなかったら、いよいよ事務局は駄目だと思って下さい。

 さて連載を続けよう。

 最初の年(78年)は、楽しく、優雅にあわただしくすぎた。79年の1月には、最初の東南アジア調査に発っているから、その準備に忙しかったのである(東南アジア研究については前号にも触れられているので、またの機会にしたい)。最初の講義は「建築意匠Ⅰ」である。何故かうれしかった。授業でも何度か話したけれど、「建築計画」という科目の前身が「建築意匠」である。先祖返りして、より好きなことがしゃべれるとうのが魅力的であったのである。「建築計画」は建築を狭くしすぎている、そうした思いが強かったのだ。

 「建築意匠」という講義は未だに固まってこない。「近代建築」を素材に好きなことをしゃべっている。途中で試験をやり始めたのは、あんまり好きなことばかりでいいのかと反省したからである。

 ジャカルタ→パダン→メダン→トバ湖→ジャカルタ→バンドン→シンガポール→バンコック→ホンコンと回って帰ってばたばたしているともう4月である。一年目は楽をしたのだけれど、卒論生をとらなければならないというので、卒論テーマを考える。実際、何をやろうか色々考えたのだと思う。それより果して卒論生が来てくれるかどうかも心配であった。今でこそ人数が多いと嫌だなんて心底思うのであるが、もし一人も来てくれなかったら、卒論テーマもくそもないのである。

 とはいっても、当面自分の関心を貫くしかない。そこで、一つは、東大の頃に手がけ始めた住宅の増改築についての調査研究を軸にしようと考えた。「住ストックの更新とその改善諸方策に関する研究」というテーマである。それともう一つ、東南アジア研究がテーマになる。幸い大学院に進学した稲葉君、M2の岡君がそれぞれの軸になってくれそうな予感があった。

 以上はいささか地味である。そこで宮内先生と相談して、同時代建築研究会の関心からいくつかテーマを出すことにした。まずは、日本の近代建築史に関する研究、そして都市病理研究である。この都市病理研究は、その後紆余曲折するのであるが研究室の大きな流れをつくった。そういえば事務局の那須君も八巻君も都市病理の出である。初代から始まって、ユニークな人材が沢山集まっている。

 もう一つ、空間論研究というテーマもつくった。当時、設計をやる研究室は、山崎研究室、前田研究室、太田研究室とあったが、設計についても少し配慮したかったからだと思う。ただ、卒業設計を始めたのは、4期の飯塚君からである。以後、昨年をのぞいて毎年、卒業設計賞を獲得してきた。昨年も設計製図賞をもらったから設計は大きな柱となってきたといっていいであろう。忘れるといけなから、以下にメモしておこう。

  82年  卒業設計賞  飯塚 保

  83年  卒業設計賞  平野敏彦

  83年  設計製図賞  小美野聡

  84年  卒業設計賞  村木理会

  85年  卒業設計賞  奥富敏樹

  85年  卒業設計賞  松田和優紀

  85年  設計製図賞  岡坂 巧

  86年  卒業設計賞  浅見佐智子

  86年  卒業設計賞  内田泰啓

  87年  設計製図賞  新居隆晴

 そして、集まったのが山口、塚越、保坂、木下、斎藤、金井、本丸、そして斎藤、三浦の九名である。佐藤、三浦は今では今井、市川に姓が変わっている。9名というのはいい数である。その後20人というときもあって10名以下になることはなかったのであるが、今年7名となって(8名以上とってはいけないルールとなって)そのことを余計に感ずる。じっくりつき合える。学生も教師もサボれない感じ(あるいは教師がサボれば学生もサボる。学生がサボれば教師もサボる)がはっきりとわかるのである。

 教師をしたものであればおそらく同じであろう。最初の年はとりわけ印象深いものである。とは言え、どんな研究をしていたかというと相当あやしい。試行錯誤である。強烈な印象に残っているのは、やっぱり合宿である。

 ここで時間が切れた。次は、もっと早く締切をいうようにネ。



④合宿物語

 韓国で大ヒットの映画「鯨の唄」(?)を見たか。僕は観てない。ソウルオリンピックの頃、テレビ(衛星放送)でかなり長い紹介を見ただけだ。二人の若者が一人の言葉を失った少女を救い出すストーリーだった。それによると「鯨」というのは韓国では幸せのシンボルなんだそうだ。「鯨の会」もそうすると実にいい名前なのだ。

 前回、谷田君のことを書いたら、梨を送ってもらった。鳥取の二十世紀だ。みんなで御馳走になった。ありがとう。他の研究室にも配った。実においしかった。こうでなくっちゃ。智頭には11月11日~13日、再び行ってきた。一日がかりの大審査、激論に次ぐ激論の末、グランプリ二点(各150万円)と優秀作十点(各30万円)を決めた。ふたを開けてみたら、グランプリの一つに、諸君の知っている(であろう)建築家、高崎正治が入っていた。しかし、それにしても、鯨の会からは誰も出さなかったんじゃないか。出せば少なくとも30万円はとれただろうに。と思うと、情けないやら、腹がたつやら……。とにかく頭にきたぞ。どんどんコンペに出すこと。出して入選したら、賞金でおごること。

 昨日(11月21日)は、英語で2時間半の講義をやってきた。できるかって。まあ何とかなるものよ。英語は恥をかくことを怖れなけりゃ、通じるものよ。もっとも通じたかどうか知らないけれども。JICA(国際協力事業団)の住宅建設技術研修セミナーである。講義題目は「日本と第三世界における住宅生産システム」(Housing Const-ruction System in the Third World Countries and Japan)である。インドネシア、エジプト、チリ、フィリピン、ヨルダン等13カ国、聞き手は皆若くて優秀な政府高官である。東南アジアと日本におけるわが研究室の研究成果をぶつける絶好の機会でもあり、毎年やんなくっちゃと思いつつあるところだ。

 10月の「鯨の会」は実に面白かった。岡君のレクチャーはなかなかためにもなった。でもきっとその報告は、面白さを伝えないだろう。今年の卒論生は随分とサボッてる(ということは僕がサボッとるということだが)。もう少しましな、来ない人にも内容のわかるレポートを書けんのかね。

 と思いきや、11月19日の卒論中間発表会では皆頑張った。どうも要領だけはいいらしい。誰に似たんだろう。誰が指導したんだろう。

 上原珠枝さん(82年卒)、平野敏彦くん(83年卒)、赤羽司くん(84年卒)と、このところ結婚ラッシュである。澤原武彦くん(83年卒)も来春に結婚の予定。とにかく、めでたいめでたい。みんなも、だんだんおじんになるぞ、おばんになるぞ。ウッシシ(なんのこっちゃ)。だけど小生は決して諸君より若くはなれないのだ。せめて気だけはいつまでも若くなくっちゃ。

 そういえば、うろ覚えだけど、「鯨の会」多摩支部が結成されたようだ。メンバーは、奥富敏樹(85年卒)、町田真一(85年卒)、石井敬一(85年卒)、中条広隆(85年卒)に僕。何だ、皆同じ学年じゃないか。しかし、中条がなんで入っているんだ。初めて(?)おごってもらった。教え子におごってもらうことがこんなに気持ちがいいとは知らなかった……。

 ということで連載を続けよう。



 第一回の合宿である。場所は新潟県の粟島。この合宿を企画し、組織し、実行したのは、山口茂(中央住宅)、塚越実(近藤建設)の名コンビである。この二人によって、布野・宮内研のその後の合宿のスタイルは決定されたといっていい程だ。

 都市病理じゃなくて人間病理だと悪口を言うのもいたけれど(言ったのはもちろん僕だろう)、このコンビの漫才にはとにかく一年中笑わされた。そのハイライトが粟島での合宿である。研究室には今でもその時の分厚いアルバムが置いてあるのであるが、毎年開いては吹き出している。

 度肝を抜かれたのは、確か山口君が妹に書かしたのだという宴会用垂幕というか横幕が用意されていたことである。第一夜、「布野大賞争奪歌謡大会」。第二夜、「宮内大賞争奪大隠し芸大会」。第三夜、「第一回布野・宮内合同合宿記念祝賀パーティー」。毎夜、大きく墨書きされた横幕を取り替えて大騒ぎだったのだ。この時の合宿には、岡君、稲葉君、それにAURA設計工房の浜田羊介さんが参加している。それにもう一人、他の研究室から誰か参加している。誰か浅瀬に飛び込んで額を切って大騒ぎしたんじゃなかったっけか。誰だっけ。

 もちろん、宴会だけじゃない。きちんとゼミもやった。しかし、圧倒的に覚えているのはとにかくめちゃくちゃ楽しかったことだ。本村は、小屋をつくるんだとかなんとか馬鹿なことをやり出すし、もうテンヤワンヤであった。二人の初代マドンナの水着姿が初々しかったのが昨日のようだ(いつか歴代マドンナ列伝をまとめよう)。

 極めつけは粟島一周チャリンコ・レース。この時の記憶が三宅島一周レース(83年)に結びつくのだけれど、とにかく疲れたよなあ。

 この研究室合宿というゼミは、他の大学にそうそうない、とてもいいシステムだと思う。研究の一つのステップを区切れるし、何よりも、学生生活の大きな想い出となる。諸君にとっても、合宿が一番印象深いのではないか。忘れないように、そのリストを挙げておこう。教師の特権で、同じとこには二度と行かないのだ。



(1978) 青 木 湖(長野県)クッソー

 1979  粟  島(新潟県)

 1980  松 原 湖(長野県)

1981  裏 磐 梯(福島県)

1982  金原温泉(長野県)

     ゲスト:永田洋明

 1983  三 宅 島(東京都)

     ゲスト:高野雅夫(生闘学舎)

 1984  淡 路 島(兵庫県)

     ゲスト:山田修二(淡路かわら工房)

 1985  松 崎 町(静岡県)

     ゲスト:石山修武

 1986  竜神村・田辺(和歌山県)

     ゲスト:渡辺豊和

 1987  美ケ原高原(長野県)

     ゲスト:渡辺豊和(京都芸短)・安藤         正雄(千葉大)と三大学合同

1988  佐 渡 島(新潟県)

     ゲスト:安藤研(千葉大)と合同



 残念ながら、民宿の記録がない。合宿の話を書くと、毎回、それだけになってしまうので、各年の合宿幹事に後はまかせたい。それぞれ合宿の想い出を書いて送って欲しい。そうすれば、僕が書かなくても、それをそのまま載っければいい。僕も助かる。



 ところで、第四回、鯨の会には、わざわざ長野県(岡谷)から、斎藤正行君(79年卒)が出席してくれた。出張をうまく合わせてくれたのだという。こういうのはうれしいねえ。しかし、それにしても全然変わってない。人間なんてそう変わりゃせんのだ。

 飲むほどに「先生の言うことも全然変ってませんね」とくる。「そりゃあ、進歩しとらんということか」。「いやあ、ボカァー、先生と勝負してますよ、今でも」。「おまえこそ、全然変ってないじゃんか」。「そうだねえー」てな具合いだった。

 その時、この原稿の話になった。合宿のことだけ書きゃいいよなといったら、鍋があるという。

 鍋とは何か。そういや冬は、研究室で毎晩のように鍋をつくって酒飲んで、何か集計してたんだ。主役は、保坂順一君。彼の親父さんは寿司屋で、門前小僧よろしく、何でもさばいて、つくってくれる。あれもうまかったなあ。その後、電気釜を入れれば、インスタントラーメンの時代もあった。研究室の食の歴史もまたいずれまとめよう。そういえば、東洋大に来て真っ先に買ったものって何だと思う。冷蔵庫なんだよ。




⑤野球!野球!野球!

 電車の中でこの原稿を書き始めた。信じられないかもしれないけど本当である。簡単なメモなら時々やる。ワープロと電子手帳のあいの子のようなラップトップの装置ができたら、皆電車の中で原稿を書いたりしだすかもしれない。新幹線の中なんかではもうそんな光景がみられるのではないか。  ところで鯨通信も間があいた。どうなったかなあと思いきや原稿の催促がきた。例によって至急である。困ったもんだ。間があいたから近況については書くことが山程ある。十周年記念パーティーについての報告は誰かがやるだろうから、それ以降の数々の出来事について、まずは書いておこう。

 この間の最大イヴェントは、2月21日から3月15日にかけてのツアーだ。もう本当に参ったぜ。トシだよトシ。結局、鯨の会からはこの4月から研究室に入った四人と四年生、研究生の三人の七人を除けば参加者は零。忙しいし、そんなに安くないから無理もないのだけれど、せめて一人でも参加してくれていたらとつくずく思う。もう頭にきたのだ。

 総勢97人、内3分の2は女の子である。その概要は「国際買い出しゼミナール」(室内89年5月号)に書いたから読んで欲しい。もうスケジュールはしっちゃかめっちゃか、大騒ぎであった。その文章を山本夏彦大先生が『週間新潮』(5月18日号)のコラムで取り挙げてくれた。その主旨は、建築ゼミナールはそっちのけのショッピング・ツアーなら、著者もオバンも一緒じゃないか。円高で海外にショッピングに出かけるけど、帰ってきて同じ品物が日本で高く売られているのにちっとも文句を言わないのはおかしいというものである。僕は、真面目に建築を勉強する奴が少なくて驚いたという主旨で書いたのだけれど、さすがは明コラムニストである。ちゃんとポイントをついてる。

 また『群居』の20号(89年4月)には、何をみてきたのか少し書いた。ダブリはさけよう。ところで何に頭にきたのか。本当のところを書いておこう。

 頭にきたのは、ジェネレーション・ギャップにであり、要するに自分にである。もうついていけない、という感じなのである。毎年若い学生とつき合っているのである。ゼミもし、コンパもし、野球もする。少なくとも、他の連中よりも若者の動向については分かっているつもりであった。しかし、ゼミをやったりコンパをやったりするのと、三週間の間、朝から晩までべったりとつき合うのとはまるっきり違う。まったく知らない若者の生態を見た、というと大袈裟かも知れないのであるが、とにかくショックであった。そして、もっとショックだったのは、腹が立つことが沢山あっても怒る気にならなかったことである。少し前なら、怒りを爆発させただろうと思うのに、ニコニコしているのである。参加した諸君に聞いてみればいい。僕は、表面上は実に楽しそうに旅行したように見える筈である。しかし、内心は何か違う、という違和感で一杯であった。

 平均睡眠時間五時間。おそらくツアー参加者の中で、最も歩き回ったのは僕であり、最も飲んだのも僕である。歩いた距離と飲んだアルコールの量とは少なくとも一、二を争う。しかし、そうした旅行の仕方はどうもダサイのである。我ながらタフであった。従って、ショックだったのは、体力にではない。もっと違う生活スタイルの全体のようなもののギャップにである。

 まあでも面白い話は山程あるから、酒の肴にはこと欠かない。聞きたい人は、鯨の会の二次会で話してあげよう。きっと腹を抱えて笑いだすぜ。ハプニング・リストは50じゃきかないんだから。 4月8日、2期生の佐久間量美君の結婚披露宴に出た。頭は多少薄くなったけど木更津高校の応援団の佐久間君が全く変わっていないので吹き出してしまった。とにかくなつかしかった。高野君、いし見君、糸居君(夫妻)、それに内田研だけど出入りしていた内山君(夫妻)、そしてとりわけ、長尾君に北澤君だ。長尾、北澤両君は卒業以来だよ。特に長尾君は、卒業前に、しかも人前結婚という形で結婚式を挙げた鯨の会結婚第一号である。また、サミット・ストアーにさっさと務め、建築を捨てた(?)第一号でもある。

 この年の連中は他に、三戸(現姓和井田)辻(現姓馬場)、森川、武田、近藤、雨谷、丹治、である。大変なつかしいし、印象深い学年である。この連載も、丁度この学年の頃(1980年度)を書く順番だ。続いて書こう。

 ところで、今年の素木杯争奪研究室対抗野球大会は面白かった。もちろん負けだ。それもサヨナラ負け。敗者復活戦があるからまだ終ってないけれど、これまでの試合のベスト3には入るだろう。最終回の表(ジャンケンで勝って即先攻!といったのは僕だ)7対3をなんとリトルリーグ経験者だという桝野君の走者一掃三塁打を含めて追いついたのである。(勝ち越し点が奪えないのが敗因だった)。さて、その裏、敵はオセオセである。僕だってまあ駄目だろうと思った。ピッチャーの田中君は身体は小さいけれど鯨の会でこれまでのおそらく五本の指にはいるだろうピッチャーだったのだけれど、何しろバックが例によってザルだ。この日も一、二回で7点も取られていたのである。しかし、その後、点を全く取られていない。もしかすると、という気もしないではなかった。

 先頭打者痛烈なライナー。皆眼をつむる。しかし、ナント、その打球は偶然というか何というか二塁手の桝野のグラブにすっぽり。皆ドヨメク。次打者又しても痛烈な当り。今度は外野手の間を球は点々・・・・・・。サヨナラ・ランニング・ホームランと誰しも思った。そこで猛烈抗議をしたのは誰あろうこの僕だ。今のはノータッチだからエンタイトル・ツーベース。もうだから素人とはやんなっちゃうよ、とかなんとかいったら、打者走者は二塁へ強制送還である。試合再開。敵はまだ余裕があった。次打者第一球キャッチャー二木(ふたつぎ)君、眼鏡をはずして懸命のキャッチングだったけれどパスボール、ランナーは三塁へ。ランナーが三塁にいたら、万事窮すである。続く打者、四球。ランナー一、三塁。ここで登場したのが、強打者、材料研究室の青木さんだ。何人かは覚えてるだろう。抜群の野球センスの青木さんだ。この日も投げて、わがチームは完全に押さえられていたのである。

 ここで、ベンチに既に下がっていた監督は敬遠を指示。監督とは僕のことだよ、もちろん。ベンチに下がったのは体力の問題ではない。全員を参加させるためだよ、知ってるでしょう、この配慮。この日僕は、一番ファースト、スタメンで出場。二打席目には、リリーフしたばかりの青木投手のスピードボールをセンター前にはじき返し貴重な二打点をあげていたのであった。

 ワンアウト満塁。内野前進守備。次打者、ボテボテのピッチャーゴロ、本塁送球でツーアウト。この頃になると敵も味方も真剣そのもの。後で聞いたらガタガタ震えてる奴がいたとか。

 そこで登場したのが高橋(儀平)先生。カウントはツー、スリー。息詰まるような緊張の中、ラストボールはフラフラとショートの後方へ。普通だと目を覆うところだ。今までの経験では外野フライを我がチームの選手がキャッチする確立は五割ない。しかし、誰もがイージー・フライと思った。この日のレフトは、右に左に大活躍であり、ライナーは捕るは、50メートル走って(オーバーか!?)捕るは、全てフライを処理していたのである。さあ、総当たりのジャンケンだ。楽しめるぞと僕は思った。

 が、次の瞬間万歳である。敵も万歳。一同アッケにとられたのであった。そのレフトは誰かって。本人の名誉のために書かない。何人か身に覚えがあるであろう。彼は卒業まで酒の肴なのだ。

 ものはついでだ。歴代名選手を思い浮かべてみよう。まずはピッチャー。

 山口茂(1期)、高野肇(2期)、小美野聡(5期)、内海浩(6期)。小林拓二のツナギの力投も印象的。

 続いて強打者、好打者、塚越実、丹治武夫、荒木雅秀、寺田敬三、林征弥、森進、白水直人、奥富敏樹、町田真一、北爪孝史、高橋宏、・・・・・・。 あとは忘れた。もっとうまいのがいたように思うけれど活躍しなかったんじゃないか。何分記憶がなくなりつつあるから、忘れた人は御免!

 これまで、優勝、準優勝なし。不名誉な記録を更新中。但し、一昨年、第三位になった。たった一枚の賞状は、歴戦の勇士の写真とともに額にいれて飾ってある。 


⑥みんな、偉くなった!? M.A.P工作集団

 いま、研究室は、合宿の準備で大忙しだ。今年は、群馬県川場村で布野研究室、芝浦工大藤沢研究室、千葉大学安藤研究室の三大学合同合宿である。千葉大とは三年連続。安藤先生は遠くロンドンの空の下なのだけれど、鬼の居ぬまに何とやらである。総勢40人を超える。

 それに今年は、井出建さんが参加、HOPE計画のための調査を手伝うことになった。7月28日には、川場村村長をはじめ、村の重鎮が大勢参加でレクチャー。建設省や建築センターからも何人か参加するという。7月29日~30日は川場祭り。29、30日は調査である。もうどうなることやら。行く前からしっちゃかめっちゃかである。何かが絶対おきる。乞御期待だけれど恐ろしい。

 産経新聞で6月から毎週一回コラムの連載を始めた。月曜日の朝刊、「周縁から」というタイトルでとりあえず半年ということだけど、どうなりますことやら。「中心から」とかにしたっかたのだけれど、似合わないという、そうかもしれない。結構楽しんで書いてるのだけれど、ネタちょうだい。産経では、一年前から月曜日に建築だけで一頁作っている。しらなかったんだけれど、建築界にとっては画期的なことかもしれない。例によって村田憲司さんという担当者に出会って意気投合したのが始まりだ。三回ぐらい夜明けまで飲んで、OKしたのだ。最初からやりますと言えばいいものを、酒飲みたさに返事を延ばし延ばしして・・・・悪い癖だ。もっと素直になれば、原稿依頼ももっとくるのにと思うけどどうしょうもない。

 ここまで書いていて、扇風機を今年初めて回した。ガタガタとすさまじい音がする。止めてみると羽根が一枚欠けている。誰だ!。壊した奴は!。この前の扇風機もやっぱり羽根が壊れて、去年買ってもらったばかりだ。もう買ってもらうわけにはいかない。もうクソ暑くて頭にきた。壊した奴は、こっそり買って研究室に返しなさい、88年度卒業生諸君、特に北川君責任をとること。今年の夏、扇風機がないと大変なことになるのだ。クーラーは依然としてわが研究室にはないのである。

 さて、連載を続けよう。

 80年についての一つの思い出は、工学祭だ。工学祭には、あんまり参加したことはないのだけれど、研究室としてシンポジウムを行った。

 タイトルは、

「'80 SYMPOSIUM

 いま建築に何が可能か」である。プログラムは以下の通りだ。



 Ⅰ REPORT       10:00~12:00

  1.「建築における実と虚」  M.A.P工作集団

-いま、都市をみることから何かが始まる-



Ⅱ LECTURE 13:00~16:00  1.「建築の無限」   毛綱毅曠

-宇宙と建築-

2. 「和風、技能、亜細亜」 石山修武

-現実と建築-

3. 「装飾、記号、平面」 伊東豊雄

-コミュニケーションと建築-

4.「制度、文化、商品」 宮内 康 -同時代と建築-



Ⅲ DISCUSSION 16:00~17:00 テーマ「制度と空間」 司会 布野修司  毛綱+石山+伊東+宮内+M.A.P+・・・・



 11月16日、日曜日のことだ。東洋大学工学部106講義室(今の114番教室)。 入場料 500円。そして主催がM.A.P工作集団

 M.A.P工作集団とは何か?何故、M.A.Pという名前なのかは忘れた。何でだっけ。当時も聞いてないような気がするんだけど、教えて欲しい。とにかく、布野研究室が全員、主体となって取組んだ筈だ。今、手元に、その時の記録「見聞録」というのがある。大事にファイルしてる。中味は、石山、毛綱、伊東、宮内へのインタビューの全記録が中心だ。関係者で、なつかしく読みたい人はコピーをあげるから連絡ちょうだい。

 しかし、なかなかよくやったと思う。建築家の書いた文章を集め、作品を見て回り、会って話を聞いて、それをまとめて発表したのである。大変なエネルギーがかかっている。それにひきかえ、最近の学生は・・・・なんて言わないけれど、熱気があったなぁと思う。もうあれから10年になるのである。

 と、ここまで書いて、今、川場村だ。7月30日、ほぼ合宿のスケジュールを終えた。これから川場祭りのハイライト、花火大会だ。花火を見ながら後を書くことになる。最高である。民宿は、岩田渡(いわたど)。打ち上げパーティーをしながら花火が目の前にみえる特等席である。

 この合宿について4年生の誰かが書いた方がいいと思う。なかなかのプログラムであった。これまでの合宿で初めて、本格的な調査を行った。また、二日目の晩は、韓国の仮面劇(風物ノリ、マダン劇)をみることができた。最初の日は、シンポジウム「若者がつくる未来農村」を聞くことができた。そして、今日は川場祭りでみこしが町中練り歩いていた。千葉大、芝浦工大は、今朝、次の予定地に出発。今日は、東洋大だけだ。夜、M2の中村君(音響)が来るという。千客万来、大歓迎である。今日は、午前中、調査の続きを行って、午後は恒例のリクレーション。今年は、マスのつかみとりだ。ナント、20匹つかんだ。そのうち8匹は僕だ、エヘン!!すぐに焼いて、清流で冷やした缶ビール(千葉大の加賀さんからの差入れだ)で乾杯。

 これから、花火を見て、川場祭りのクライマックスへ皆で出かける。オートバイやビデオがあたるクジをもらった。誰かが当たる、そんな予感が今している。

 川場はいい村だ。しばらく通うことになりそうである。

 ところで、 M.A.P工作集団が呼んだ、ゲストはどうだ、当時は、まだそう作品のなかった建築家が、今はみんな偉くなった。シンポジウムの後、皆でカラオケやったり、楽しく酒を飲んだのだけれど今、呼ぶとなるとギャラが大変かもしれない。M.A.P.のめのつけどころは大したものだったのである。4年生の諸君またこういうのやったら。どんな大物でも電話ぐらいかけてあげますよ。来るか来ないかは別として。君達の熱意とやる気があれば、何でもできる筈だ。 M.A.P工作集団も、もう全員、三十路(みそじ)を超えた。みんな頑張っているとつくづく思う。

 今、最初の花火が上がった。




 ⑦「住宅生産組織研究会」 

 今回の日本建築学会は熊本で開催された。例によって飲みっぱなしで、昨日一日お酒を抜いたところである。最後の日の午前中には山本理顕さんの県営住宅の現場をみた。二階が打ち上がったところで竣工が楽しみである。公営住宅だって色々出来るんだよ。最初の日には林昌二さんに無理やりおごってもらった。長谷川逸子さんとはしこたま飲んだ。「長谷川さんねえ、最近、一寸天狗になってんじゃない」などといったら叱られてしまった。

 坂本一成さんとはホテルのロビーで一寸話しただけで、飲む約束は果たせなかった。東工大の青木義次研究室につかまったからだ。何と諸君!青木研究室ではゼミで、『戦後建築論ノート』を読むのだという。批判があるという学生がいるので「さあこい」といったら、「もごもご」だって。だらしねえの。でも、青木研究室にあらためて行くことにする。

 色んなことがあったんだけど、小生の出た研究協議会「すまいの近代化論-学際的議論から」は最悪であった。主旨説明をして座っただけだ。パネラーは『ケガレの構造』の波平恵美子さんなどよかったのだけれど、時間配分が悪い。くだらない発言が多くて議論にならない。今まで参加してきたシンポジウムのワーストスリーに入る。後で、何人かの先生に「たいくつそうだったねえ」「あくび5回してたよ」、「おまえは態度悪いよ」なんて言われてしまった。昨年の協議会の資料『住居集落研究の方法と課題 討論:異文化研究のプロブレマティーク』の方がはるかに水準が高い。北川君、磯貝君が「ワープロ」してくれたやつだ。

 熊本だけど、何故か、鹿児島の焼酎「伊佐美」を飲んだぞ。幻の芋焼酎だという。「幻の・・・」はよくあるけれど、本物らしい。店では売られてないという。一本一万円。25度ぐらいで、まろやかで飲みやすい。その酒ビンを抱えていたら、飲んべえ先生が寄ってくる寄ってくる。建築学会の飲んべえリストができてしまった。

 熊本は、いま磯崎新をコミッショナーに1992年のアートポリス展を目指して、色々な建物が建てられつつある。理顕さんのもその一環である。若い細川県知事の挨拶を聞いたけど、「四角い建物は駄目、熊本の建物は全て三角にしろ」だって。こんな知事が47人いたら面白いだろうねぇ。フアッショ的だけど。

 さて、スケジュールがめちゃくちゃになってきた。10月30日から11月7日、インドネシアで国際会議。ユネスコ主催で “ Regional Seminar   on Integrating Traditional Values into   Contemporary Architecture & Planning of  Human Settlements in Developing Countries ” に参加する。10月28日には、川口市で安藤忠雄さんとちょっと対談。その前日は10月27日は、梅棹忠夫(国立民族博物館館長)大先生と対談。11月10日~12日は、富山で木造建築フォーラムの雇われ司会。11月19日~?は、安藤正雄先生のいるロンドン。

 とここまで書いたところで、研究室の倉沢君と二木君がインドネシアに行くという。行きと帰りの飛行機を合わせるべく旅行代理店に電話したところだ。旅行代理店は、アイ・ビー・プランニング(西潟悦子さん505-2101)。東南アジアでいつもお世話になってきたのだけど、二年ほど前に独立した。大変親切だから使ってあげてちょうだい。インドネシア往復が10万円。

 9月はずいぶんと原稿を書いた。といっても百枚くらいだから、たいしたことないのだけれど。『室内』の連載は終った(もしかすると続くかも知れない)のだけれど、『住宅と木材』(マイナーか?)の連載「雑木林の世界」を始めたところ。「ラディカリズムの行方」(『建築文化』1989年10月号)は、世代論なんだけれど、ある企画のジャブとして書いた。さて連載を続けよう。



 三期の八巻君の学年(1981年度)だ。この学年も多士才々だ。みんな頑張っている。天使の声、谷田君には既に少し触れた。関口君-理論家だ「建学連」を引っ張り、次の学年に大きな影響を及ぼした。鯨の会にもよく出席してくれるけど、今、何を考えているのか、今度じっくり聞いてみたいと思う。上島君-浦辺鎮太郎事務所で頑張っている。君は知っているのか。森京介事務所から転出の際、僕のところに電話があって、「先生が推薦するなら採用します」とボスが言ったのを。それなのに、ちっともお礼の品が届かない(冗談だよ?)ばかりか連絡もない。わが研究室の諸君はしつけが悪いとよく言われるのだけれど、まあ自業自得というべきか。関君は、伊那で頑張っている。十周年パーティーであったけど元気そうだ。望月信男君-わが研究室、公務員第一号。パーティーに来てくれた。そろそろ館山で面白いことを仕掛けて呼んでよ。そういえば、研究室の磯貝君が公務員(板橋区役所)を受かったところだ。第2号かな。土屋公治-細田工務店。この間、ひょっこり、人買い(求人)にきて、藤田君(1987年卒)をさらって行った。細田工務店も石山修武なんか呼ばずに布野を呼ぶようにね。

 あとは、仏教の宇宙観の安在君をはじめ、阿久沢、今野(佐々木)、鈴木、濱滝、船引には卒業以来あっていないのではないか。みんな元気かあぁぁぁ。

 ところで、このごろ開始したのが生産組織研究である。八巻君が大学院に行って、熊谷、秩父の調査を始めて、その軸になるのであるが、東南アジア研究と住宅生産組織研究は、研究室の大きな流れをつくってきた。『群居』21号特集「町屋」-小規模住宅生産の可能性を是非みて欲しい(群居の申込の電話番号03-359-4541だよ)。住宅生産組織研究会のこの間の歩みが収録されている。その「関連研究リスト」によると冒頭に「地域型住宅-熊谷その1 熊谷地域の概要および住宅供給の構造 布野修司他 1982・7」とある。ということは、1981年に、熊谷に通いだしていたことになるのである。

 住宅生産組織研究会というのは、東京大学松村研究室、芝浦工業大学藤沢研究室、工学院大学吉田研究室、都立大学深尾研究室、職業訓練大学松留研究室、千葉大学安藤研究室、大野アトリエおよびわが研究室の7大学、8大学でつくってきた研究会である。

 何故、住宅生産組織研究会に参加するようになったのかというと、以下のような経緯がある。東大の助手の時、給料もらってんだから何かやらなくちゃということでやったのは、公団住宅の増改築の調査である。増改築に目をつけたところはやっぱりヘソ曲がりかもしれない。それで、東洋大に来て、まずやったのは、原広司さんが基本計画をやった角栄団地の調査である。また、毛呂山の永山団地の調査である。その他は、稲葉君が中心になってまとめてくれたのだけれど(???)、一期、二期の諸君は覚えているだろう。そうしているうちに、どうも住まい手ばかり調査していても駄目じゃないか、つくり手の方も押さえる必要がある、と考えるようになっていた。その頃、既に『群居』の準備を始めていたのであるが、大野勝彦さんを通じて、同級生である安藤正雄先生に再会した。それが研究会に参加するきっかけだったのである。 ところで、住宅生産組織研究会へのわが研究室の参加は、東南アジア研究に心血(オーバーか)を注いでいたこともあって、また地の不利もあって、実を言うとあんまり熱心ではなかった。会に名前を入れさせて頂いてきたという感じかも知れない。

 ところが、ついにやった。東洋大学で研究会を開催したのである。プログラムは以下の通りである。



住宅生産組織研究会の皆様

             布野研究室

前略

 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。

 さて、来る9月29日(金)の生産組織研究会は川越で開かれます。その詳細についてのご案内を送らせていただきます。

 先日の生産組織研究会で案が出ていましたように、今回は川越の市内見学を考えております。また、太田邦夫先生、勝瀬義仁先生を迎えてのスライドレクチャー。さらには、松村先生が大好きなカラオケパーティーまでも・・・。

 皆様にはあまり馴染みのないだろう川越を多少なりとも見ていただきたいと思っておりますので多数の御出席をお待ちしております。

 つきましては、川越市内の案内の都合もありますので、見学からお付き合い下さる方の人数をお知らせいただきたくお願い致します。またレクチャーから御出席の方の人数も合わせてお知らせ願います。

 尚、集合場所、時間、市内見学等につきましては、同封のプログラム、及び案内図を御参照下さい。

                草々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・9月29日 生産組織研究会プログラム ・ 上村君(1985年度)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・などは、あまりの感激で有

・時間 ・内容 ・場所 ・給休暇をとってかけつけて

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・くれた。

・13:00~ ・川越市内見学 ・川越市内 ・ 実に楽しい、有意義な会であったと思う。

・15:00~ ・スライドレクチャー・東洋大学川越校舎 ・

・ ・太田邦夫「ヨーロッパの木造建築」 ・建築土木実験棟 ・

・ ・勝瀬義仁「東南アジアの住宅生産組織」・視聴覚室 ・

・17:00~ ・ビア・パーティー ・同上 模型製作室 ・

・19:00~ ・懇親会(カラオケパーティー) ・鶴ヶ島 北海 地階 ・
・21:00 ・解散? ・鶴ヶ島 

 上村君(1985年度)などは、あまりの感激で有給休暇をとってかけつけてくれた。実に楽しい、有意義な会であったと思う。 
 


⑧素裸夢物語 『群居』創刊  

 鯨通信も再び間があいた。皆、忙しすぎる。どうなっているんだろうと思っていると原稿依頼がきた。今まで何を書いたんだっけ、とバックナンバーを見直したところだ。この間、僕は相変わらずドタバタである。書くことは山ほどたまってしまった。会員の動きも激しい。

2月4日、三村淳君 (85年度7期)、4月1日、中条宏隆君(85年度7期)、4月29日、望月信男君(81年度3期)、それぞれ結婚。おめでとう。和井田(三戸)君(2期)、飯塚君(4期)、独立、それぞれ事務所開設。研究生の遠藤君(9期)は、六角鬼丈さんの所へ就職。山下設計の荒木君(5期)は、博多から東京に戻ってきた。1期の木下宏峰君は、サンコーコンサルタントへ転職。上村久君は JKKからアイザックへ転職。鯨通信もこういう会員の情報を載せて欲しい。

●和井田建築設計事務所  アルバイト募集

 ●飯塚設計舎  仕事下さい。

 今年の卒業式の日は(も?)、布野宅で大騒ぎ。フィアンセを連れた軍団が現れたり、千客万来。まるで幻のように誰がきたのか覚えていない。いずれにせよ、結婚ラッシュである。大学の教師にとって、このラッシュは終わることがないのだと思うと、何ともいえない気分になってくる。青春は遠く過ぎ去りにけり、だ。

 ところで、山本理顕さんの講演会では、鯨の会の軍資金をかせごうと思っていたらしのだが、そうもいかなかったらしい。暮れで忙しすぎたのか、思った程、爆発的に人が集まらなかったのである。しかし、その内容は挑発的であった。報告は、事務局に譲ろう。

 昨年から、今年にかけての出来事は、詳しく書いてる余裕がないから、電子手帳からスケジュールのみをプリント・アウトしておこう。

建築知識で『住宅戦争』についてインタビューをうける。

イスラムの都市性に関する研究会「アジアの都城」(オルガナイザー 応地利明)をテーマに熱海で開かれる。建築関係では、木島安史、陣内秀信、飯塚キヨ、布野修司など。

埼玉県建築士会、指定講習会(川越福祉会館)。何故かCADについていい加減なことをしゃべる。

家づくりの会 公開講座第四回「地域住宅計画の可能性と限界」ゲスト:山中文彦 内田祥哉先生またしても出席。

藤澤好一、野辺公一、布野修司、熊本市職業訓練大学校、熊本県立球磨工業高校ヒヤリング。
六角鬼丈氏の東京武道館を見学、その後対談。『建築文化』4月号参照
山田守自邸見学
大野タスクホースでメモ提出
家づくりの会 公開講座 最終回「ハウジング計画論の展開」。内田先生、最後まで出席。楽しく言いたい放題、無事終了。
住宅生産組織研究会(工学院)
海外情報フォーラム黄氏(原研究室)「世界風景か中国風景かーーー中国全土縦横断2万5千キロ」
連続セミナー 住居根源論「深化する建築」 渡辺豊和・小松和彦・布野修司 鼎談
桶川生涯学習センターコンペ審査
山谷労働者会館二階現場打ち
出雲建築士会で講演「住まいと町づくり」。その後、出雲、松江で飲んで「出雲建築フォーラム」構想を練る。
群居編集会議 
山谷労働者福祉会館デザイン会議
タスク・フォース
卒業パーティー
群居編集会議
住宅生産組織研究会
建設同友会で講演。
群居編集会議
同時代批評の会 国立研究会
山陰の経済インタビュー
山谷現場コンクリート打(3階)
象お別れパーティー 象設計集団、北海道へ行く。

 家づくりの会の公演講座は、昨年10月から5回やった。実に面白かった。家づくりの会(会長 泉幸輔)とは、住宅の設計を主とする建築家の集まりである。内田祥哉先生(明治大学)が毎回出席(結果、第3回のみ欠席)というので、大先生の前でしゃべる何ともいえない経験をしてしまった。家づくりの会と家づくりの会に期待することについては、『住宅と木材』(1990年6月号)に書いたので、参照されたい。

 タスクホースというのは、「中高層集合住宅高度化プロジェクト」の略暗号である。昨年から5ケ年計画で、都市型住宅について本腰を入れてやろうという建設省のプロジェクトだ。建築センターの担当は、井手幸人君。偉くなったものだ。昨年は、ワンルームマンションおよびラブホテルに関する調査を研究室に委託してくてた。金額はわずかだけれど、今年も続く。研究室のOBと一緒に仕事をするのはてれくさいような気もしないでもないけど、何となくうれしいもんだ。

 職人不足については、『室内』(90年3月号)に書いた。それを山本夏彦大先生が『週刊新潮』(3月1日号)で「職人不足は誰のせい」(夏彦の写真コラム)でとりあげてくれた。「布野修司といっても知るまいが、気鋭の建築評論家で・・・・・・、大学の先生にしてはわかりやすい文章を書く・・・。」少しは文章、うまくなったのかしらん。

 茨城県では、いま職人学校を構想中だ。山谷福祉会館は、松田和優紀君が頑張ってる。奇蹟的に、3階まで建ち上がった。出雲では「出雲建築フォーラム」結成の作戦を練っている。住居根源論では、平倉直子、高橋晶子、妹島和世、後藤真理子が次々に登場、来春まで続く。また、追々、報告しよう。

 研究室は、今年は4年生が11人。M2が倉澤君、M1が五十嵐君に村上君の15人体制だ。もうじき、野球大会が始まる。素木先生も、今年一杯で定年で、素木杯も今年が最後のチャンス。とりたいけども、・・・・・ あとは言わずもがなかな。

 空前の売り手市場である。もう4月の初めから、研究室前の廊下には背広姿がうろうろ。どうしても、人材が欲しければ、前もって連絡すること。相談にのらないでもない。そのうち就職委員をやらされると思うとうんざりだよ。不況の時に、卒業した諸君、もう信じられない状況だよ。もう1~2年は続くのかしらん。

 さて、四期目(1982年度)である。16人。前に触れたけど(連載①)、アメリカ旅行へ一緒に行った学年だから、印象深い。また、この学年は、2期に続いて、設計事務所希望が多い学年だったのが特徴だ。デザインオリエンティッドの学年とそうでない学年があるのは面白いものだ。設計事務所希望は、デューダにサリダが激しい。こちらもはらはらだけど、期待も大きい。

 塙君は茨城に帰った。茨城県の仕事で度々行くから、会いたいものだ。水戸には坂本君がいる。ダンス部の望月君とのダンスは、「今夜も思い出し笑い」だ。  

 Uターン組も多い。理論家の森井君は富山、緑川君は福島、高橋君は福井、小幡君は和歌山だ。埼玉に最後までなじめなかった小幡君は設計事務所を経て家業をついでいるんだけど、うまくやっているのだろうか。町田君は埼玉だけど地元に勤めた口だ。

今日、これを書いている最中に電話をくれた。求人である。遅い遅いといったら驚いていた、「現場が欲しいんだろう」、「行たがらないんだよ、最近の若い子は」・・・・・。

 飯塚君の独立は冒頭に触れたけど、設計事務所組は全員、入ってすぐやめた大塚君を筆頭に転職したのではないか。上原(藤野)珠ちゃんは長谷川→北川原。鯨の会のメンバーでもあるダンナの藤野君は、この5月から東工大の山下和正さんのところの助手になる。大変そうだけど、まずはめでたい。石川君はシステムホームズもやめたんだって。石渡君はずっと頑張ってるか。人をくれと言われて、いつも送れず御免。新卒がOB事務所に行くのは禁止の教育的指導の方針なのだ。辻君はGLホーム(第一大工)をやめた。ところで、阿久沢はどうしてるんだろう。行方不明だ。君の笑顔がなつかしい。

 例によって、記憶がごちゃごちゃである。この学年の最大のイヴェントは何だったんだろう。合宿は金原温泉。インドネシアから、J・シラス先生たちを招いてシンポジウムをやった年だから、東南アジア研究が研究の柱だ。八巻君がM1、井手君がM2。地域住宅研究、熊谷調査が始まった。研究室の基礎ができた年といえるかもしれない。 この年の12月、群居創刊準備号が出た。HPUもそれへ向けて、頻繁に会合をもっている。石山修武だって、渡辺豊和だって、あんまり仕事がなくて、「群居」に一生懸命だった。アメリカにも行った。不思議でしょうがない。一年で、かくも、こんなに多くの事が出来るのか、と。酒飲んでいたばかりの筈なのに。

 ということは、今の研究室はどうも密度が薄くなっているんじゃないか、といささか不安になってくる。老け込むのはまだ早い。もう少しは、走らなくちゃ。だけど、僕は今年は厄年なんだよなあ。

 




2025年3月8日土曜日

みんな、偉くなった!? M.A.P工作集団「鯨の会」通信 連載⑥  1988

 みんな、偉くなった!? M.A.P工作集団

                                               「鯨の会」通信 連載⑥  1988

                                        布野修司

 

 いま、研究室は、合宿の準備で大忙しだ。今年は、群馬県川場村で布野研究室、芝浦工大藤沢研究室、千葉大学安藤研究室の三大学合同合宿である。千葉大とは三年連続。安藤先生は遠くロンドンの空の下なのだけれど、鬼の居ぬまに何とやらである。総勢40人を超える。

 それに今年は、井出建さんが参加、HOPE計画のための調査を手伝うことになった。7月28日には、川場村村長をはじめ、村の重鎮が大勢参加でレクチャー。建設省や建築センターからも何人か参加するという。7月29日~30日は川場祭り。29、30日は調査である。もうどうなることやら。行く前からしっちゃかめっちゃかである。何かが絶対おきる。乞御期待だけれど恐ろしい。

 産経新聞で6月から毎週一回コラムの連載を始めた。月曜日の朝刊、「周縁から」というタイトルでとりあえず半年ということだけど、どうなりますことやら。「中心から」とかにしたっかたのだけれど、似合わないという、そうかもしれない。結構楽しんで書いてるのだけれど、ネタちょうだい。産経では、一年前から月曜日に建築だけで一頁作っている。しらなかったんだけれど、建築界にとっては画期的なことかもしれない。例によって村田憲司さんという担当者に出会って意気投合したのが始まりだ。三回ぐらい夜明けまで飲んで、OKしたのだ。最初からやりますと言えばいいものを、酒飲みたさに返事を延ばし延ばしして・・・・悪い癖だ。もっと素直になれば、原稿依頼ももっとくるのにと思うけどどうしょうもない。

 ここまで書いていて、扇風機を今年初めて回した。ガタガタとすさまじい音がする。止めてみると羽根が一枚欠けている。誰だ!。壊した奴は!。この前の扇風機もやっぱり羽根が壊れて、去年買ってもらったばかりだ。もう買ってもらうわけにはいかない。もうクソ暑くて頭にきた。壊した奴は、こっそり買って研究室に返しなさい、88年度卒業生諸君、特に北川君責任をとること。今年の夏、扇風機がないと大変なことになるのだ。クーラーは依然としてわが研究室にはないのである。

 さて、連載を続けよう。

 80年についての一つの思い出は、工学祭だ。工学祭には、あんまり参加したことはないのだけれど、研究室としてシンポジウムを行った。

 タイトルは、

'80 SYMPOSIUM

 いま建築に何が可能か」である。プログラムは以下の通りだ。

 

 Ⅰ REPORT       10:0012:00

  1.「建築における実と虚」  M.A.P工作集団

     -いま、都市をみることから何かが始まる-

 

  Ⅱ LECTURE            13:0016:00  1.「建築の無限」               毛綱毅曠

     -宇宙と建築-

   2. 「和風、技能、亜細亜」        石山修武

     -現実と建築-

   3. 「装飾、記号、平面」          伊東豊雄

     -コミュニケーションと建築-

   4.「制度、文化、商品」           宮内 康     -同時代と建築-

 

    DISCUSSION      16:0017:00     テーマ「制度と空間」      司会 布野修司    毛綱+石山+伊東+宮内+M.A.P+・・・・

 

 11月16日、日曜日のことだ。東洋大学工学部106講義室(今の114番教室)。 入場料 500円。そして主催がM.A.P工作集団

 M.A.P工作集団とは何か?何故、M.A.Pという名前なのかは忘れた。何でだっけ。当時も聞いてないような気がするんだけど、教えて欲しい。とにかく、布野研究室が全員、主体となって取組んだ筈だ。今、手元に、その時の記録「見聞録」というのがある。大事にファイルしてる。中味は、石山、毛綱、伊東、宮内へのインタビューの全記録が中心だ。関係者で、なつかしく読みたい人はコピーをあげるから連絡ちょうだい。

 しかし、なかなかよくやったと思う。建築家の書いた文章を集め、作品を見て回り、会って話を聞いて、それをまとめて発表したのである。大変なエネルギーがかかっている。それにひきかえ、最近の学生は・・・・なんて言わないけれど、熱気があったなぁと思う。もうあれから10年になるのである。

 と、ここまで書いて、今、川場村だ。7月30日、ほぼ合宿のスケジュールを終えた。これから川場祭りのハイライト、花火大会だ。花火を見ながら後を書くことになる。最高である。民宿は、岩田渡(いわたど)。打ち上げパーティーをしながら花火が目の前にみえる特等席である。

 この合宿について4年生の誰かが書いた方がいいと思う。なかなかのプログラムであった。これまでの合宿で初めて、本格的な調査を行った。また、二日目の晩は、韓国の仮面劇(風物ノリ、マダン劇)をみることができた。最初の日は、シンポジウム「若者がつくる未来農村」を聞くことができた。そして、今日は川場祭りでみこしが町中練り歩いていた。千葉大、芝浦工大は、今朝、次の予定地に出発。今日は、東洋大だけだ。夜、M2の中村君(音響)が来るという。千客万来、大歓迎である。今日は、午前中、調査の続きを行って、午後は恒例のリクレーション。今年は、マスのつかみとりだ。ナント、20匹つかんだ。そのうち8匹は僕だ、エヘン!!すぐに焼いて、清流で冷やした缶ビール(千葉大の加賀さんからの差入れだ)で乾杯。

 これから、花火を見て、川場祭りのクライマックスへ皆で出かける。オートバイやビデオがあたるクジをもらった。誰かが当たる、そんな予感が今している。

 川場はいい村だ。しばらく通うことになりそうである。

 ところで、 M.A.P工作集団が呼んだ、ゲストはどうだ、当時は、まだそう作品のなかった建築家が、今はみんな偉くなった。シンポジウムの後、皆でカラオケやったり、楽しく酒を飲んだのだけれど今、呼ぶとなるとギャラが大変かもしれない。M.A.P.のめのつけどころは大したものだったのである。4年生の諸君またこういうのやったら。どんな大物でも電話ぐらいかけてあげますよ。来るか来ないかは別として。君達の熱意とやる気があれば、何でもできる筈だ。 M.A.P工作集団も、もう全員、三十路(みそじ)を超えた。みんな頑張っているとつくづく思う。

 今、最初の花火が上がった。

 

2025年1月14日火曜日

若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

 若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

布野修司対談シリーズ⑩

新たな建築家像を目指して



若林広幸

常に既成概念の解体を

お茶碗から列車まで

建築家を市長に

 

 若林広幸の名は東京にいる頃からもちろん知っていた。ライフイン京都が鮮烈だった。でも、その印象は、正直にいって、高松伸よりうまい器用な建築家が京都にいるなあ、という程度の印象であった。祇園の建築など今でも若林、高松は混同されるから、その印象は間違っていないかもしれない。

 京都に来て、何度か会った。全て酒席であった。何事かを話したのであるが、あんまり覚えていない。建築の話というより、たわいもない話が多かったからであろう。いつも何人かの建築家が同席していたせいもある。ただ、いつも、この人は建築が好きなんだなあ、という印象が残った。

 今回話を聞いてみたいと思ったのはその印象のせいである。真面目に(?)建築の話をするのは初めてであった。

 当然だけれど、「京都」が主題になった。京都について考え続けている数少ない建築家であることが、よくわかった。「若林京都市長」も悪くはない、と本気で思う。それに、軽々と建築を超えるのがいい。それこそ「口紅から機関車まで」なんでもござれ、である。建築家にとって、ラピートは実にうらやましい仕事だ。建築は理屈じゃない、というのも好きだ。しかし、京都じゃ苦労するなあ、とも思う。

 話は弾んだ。いつもそうなのであるが、テープを止めてからさらに盛り上がったのであった。

 

◆工業デザインからの出発・・・とにかく、ものがつくりたかった

布野:「たち吉」にいて独立した。若林には工業デザイナーというイメージがある。

若林:僕は工業デザイン科に行ったんだけど、とにかくものがつくりたかった。同じですよデザインは。なんでもやりたいと思ってる。

布野:ものをつくる雰囲気は僕らの時代にはまだあった。特に、京都には。

若林:工業製造関係へ行く方がエリートだった。マジですよ。普通高校はすべり止めだもん。

布野:今、「職人大学」のお手伝いをしてるんだけど、日本はとんでもない国になってきた。ものをつくる人がいない。産業全体が空洞化してる。

若林:京都にぐらい物作りが残らないとまずいよ。

布野:僕は今宇治に住んでてよく見かけるんだけど、京阪宇治の駅舎の仕事が最近の仕事の代表ですか。 

若林:必ずしも思うとおりにできなかったんだけど。

布野:切妻の屋根の連続と丸い開口部。誰のデザインだろうと思ってたら若林だった。前の方のビルは似てるけど違うよね。

若林:そう。一緒に出来たらよかったけど・・・

布野:京都もそうだけど、宇治も景観の問題でいろいろうるさいよね。色々苦労があったんじゃないですか。

若林:そうでもないですよ。風致課もスッと通ったし、賞ももらうし、喜んでもらってます。建設費はいつも苦労しますけどね。

布野:バブルが弾けてみんな渋くなった。建築は社会資本なんだから景気に左右されるんじゃ困るんだけどね。

若林:兵庫県の千草町で福祉センターのコンペとったんですよ。民間ですけどね。平成の大馬鹿門(空充秋作)で有名な町ね。

布野:ああ、仏教大学で大問題になって結局町が引き取ったやつね。

若林:しかし、最近あまりいい仕事がないね。僕には公共の仕事あんまり来ないしね。

布野:代表作は、ライフ・イン京都かな。やはり、南海電車ラピートだな。

若林:京都の漬け物屋。オムロンのリゾート・リゼートセンター。あまり注目されなかったけどなかなかいいんですよ。まあこれからでしょう。

 

◆東京は情報病・・京都の方がじっくり考えられる

布野:もともと京都出身?。

若林:京都生まれの京都育ち。伏見稲荷のすぐそば。下町の長屋みたいなところ。

布野:町中と違う?。

若林:基本的に京都は好きなんだけど、特に町中は人間関係とかごちゃごちゃして、しんどい面がある。

布野:僕も狭いと思うことが多い。デザインのソースとして京都はどう。

若林:スケールがヒューマンでしょう、京都は。東京は疲れる。京都にいる方がじっくり考えられる。東京だといつも追っかけられる気がする。情報病にかかってしまう。

布野:情報も薄っぺらな情報なんだけどね。

若林:じっくり醸成する時間的余裕は京都にある。

布野:東京は官、関西は民。東京は頭でっかち、関西は実務ということもよく言われる。

 

◆とにかくスケッチ 理屈より感性

若林:あんまり理詰めの方じゃない。感性の方を信頼しますよ。ものをつくるということは非常に曖昧なことですよね。理屈で説明しろといわれると頭がプッツンする。

布野:もともと工業デザインですよね、出身は。

若林:教育がそうだったのかな。とにかく、理屈を捏ねるんではなく、形でしめす。既成概念を崩すこと。崩した上で形にしていくことをたたき込まれた。とにかく手を動かしてスケッチ、スケッチですよ。

布野:今事務所ではCADを使う。

若林:ドラフターは一台もありません。便利だけど困るねえ。若い人はコンピューターの中で考えるから、駄目なんだ。数字で考えちゃう。基本はスケッチなんです。コンピューターはただの道具なんだから。寸法よりバランスが大事なんだ。模型も重要です。決まりさえすれば,CADが早い。

 

◆格子の美学・・・曖昧な「和」

布野:ラピートのようなデザインと建築の設計は同じなんですか。

若林:一個のお茶碗も一緒。布野:建築家になるといろいろ理屈をつけないといけなくなる。

若林:そうそう。だんだん駄目になる。でも少し理屈言おうか。ポストモダンはもう古いというけど、もともと近代建築の欠けているものを指摘したのがポストモダンだ。地域性、場所性、歴史性が大事だ、ということでしょう。京都はそうした意味で風土がはっきりしている場所だ。京都は、だから可能性がある。

布野:そこで育まれた感性に期待できる、というわけだ。

若林:そう。

布野:しかし、京都というと「和」とか「日本的なるもの」とかいうブラックホールのような議論がある。

若林:そんな難しい話じゃなくて、もっと曖昧だということ。近代の二分法じゃなくて。割り切れない多元的な部分を京都を含んでいる。白か黒かじゃなくてグレーな部分が「和」なんです。安藤忠雄さんのいう日本的なもの、というのはわかりやすい「和」だ。

布野:西欧人にはね。

若林:格子も夜と昼によって違う。音もあれば光もある。安藤さんは一旦壁をつくって自然を引き込むでしょう。内と外の交感というのはない。京都の格子は曖昧なんです。

布野:格子も京格子というけれど色々あって、京都では区別する。すごくセンシティブだ。奈良はもう少しおおらかだけど。

若林:格子の細さによって見え方が違う。間隔も大事だ。パンチングメタルでも同じことでしょう。穴の大きさと間隔によってすごく違う。

布野:お稲荷さんで遊んだことなんか関係ありますか。

若林:あれ上にのぼると行場があって、おどろおどろしいとこがある。千本鳥居を抜けていくとだんだん曖昧になっていく。

布野:わびすきの京都じゃないんだ。

若林:雅も華美もあるじゃないですか。京都には曖昧に両方があるんです。町中に。それが面白い。

布野:京都妖怪論もある。

若林:仁和寺だって極彩色だったし、京都というと枯れたお寺だけではない。激しい京都もあるんだ。

 

◆杓子定規の景観行政・・・混沌か混乱か

布野:景観行政とのドンパチも、そうした京都観が背景にあるわけだ。

若林:今、自宅を建ててるんだけど風致地区なんです。打ち放しコンクリートは駄目だという。何故だ、というと自然素材として認めてないからだという。

布野:どうしようもなく堅い。紋切り型だ。

若林:隣の石のようなものを吹き付けたマンションはなんだというと、あれにしてくれという。あんなもんは自然じゃないではないか。樹脂だ。

布野:吹き付け剤が自然ですか。困ったもんだ。表面のことしか言わないんでしょう。

若林:打ち放しは駄目だ、というのは絶対理解できない。裁判しようかと思ってるんです。少なくとも大討論会やるべきですよ。

布野:大賛成。機会をみてやろう。国立公園内の規定がきつい。曲線が駄目で、勾配屋根じゃないといけない。

若林:じゅらく壁にしろという、というけど、どこからも見えない、ということがある。

 

◆京都の虚と実・・・まちづくりにメリハリを

布野:どうすればいい。

若林:俺がチェックする。

布野:そう。誰かに任す手がある。場合によると真っ赤でもいいことあるんだから。

若林:極彩色もあったしね。布野:タウン・アーキテクト制を主張するんだけどみんなあんまり乗ってこない。なんでだろう

若林:結局ね、京都をどうしようという明確なヴィジョンがないんですよ。京都市に。

布野:集団無責任体制。でも、京都のグランド・ヴィジョンの審査したけど、五〇〇以上でてきた。そんななかになんかあると思う。

若林:問題はやるかやらないかでしょう。色々あっていい、混沌が京都の特性だ。京都は混沌では混乱し出している。僕も色々案出してるんだ。

布野:秩序と混沌のバランスが問題なんだ。

若林:風致は秩序を回復しようとしてるけど、あまりに杓子定規でマニュアル秩序だ。ぼくは京都のまちづくりについて誰もあんまり考えてないと思う。京都の建築家というのは色々考えてるようでそうでもないんですよ。

布野:確かに、小さな動きは沢山あるけれどまとまりがないように見える。

若林:外の人だって考えてませんよ。

布野:でも、京都への思いは強い。京都のグランドヴィジョンに応募してきたのは三分の一が外人だ。でも東京は少なかった。

若林:そうでしょう。東京の人だって無責任なところがあるんだ。

布野:外人の京都の捉え方はステレオタイプが多い。実際に住んでる外国人は京都は汚い町だと思ってる。

若林:京都市の方針にメリハリがないのが問題なんだ。木造にするなら徹底すればいい。凍結しろというならやればいい。超高層も欲しければどうぞ。全てが中途半端だ。

布野:地区によってやればいい。僕も思うところはあるけど、なかなか思い切ったことができない構造がある。

若林:アイデアは色々ある。小学校の統廃合にしても、あそこを木造にして職人を育てる。それで町家を維持する。布野:問題はだれがやるかだ。若林が市長やりますか。

若林:いいかもね。建築家が市長やったらいい。過去に素敵な町を残した町はみなアーティストが市長やってますよ。アートがわかる感性がないと駄目ですよ。今度のポン・デ・ザールの話でもセンスが問題だ。

布野:建築家を市長にしろって、キャンペーンしようか。

 

◆瓦アレルギーはナンセンス

布野:ところで、瓦をよく使いますよね。 

若林:好きなんですよ。燻しは、ダイキャストみたいだし。打ち放しコンクリートにあってきれいでしょう。

布野:でも建築家は嫌がりますね。収まりが難しいんだ。

若林:なんかタブーがあるんでしょう、建築界には。

布野:勾配屋根になるからね。帝冠様式を思い出す。近代建築家には耐えられない。

若林:でも土からつくる自然素材でしょう、大昔からある。

布野:山田脩二なんか、瓦使えないのは建築じゃない、という。チーム・ズーの瓦の使い方もありますね。

若林:ああいう使い方もしたいけど、京都だと難しい。伝統的な使い方が基本になる。

布野:風土性、地域性ということで、瓦というのはイージーな感じもある。

若林:下手なんだよ、みんな。近代主義にとらわれている。周りを考えれば、自然に、瓦と勾配屋根がでてくる。京都でも場所による。

布野:祇園の建物は全然違う。高松や岸和郎とは違う。若林は京都に対してはやさしいわけだ。

 

◆欲求不満が原動力

若林:結局場所ですね。場所で感じたものを表現したい。東京や大阪だと何をやってもいい感じもあるけどね。

布野:東京の作品はデザインを買われたという面があるよね。

若林:ポストモダンということでね。でも、地方都市の方が興味ありますね。都会じゃない田舎ね。面白いものがみつかりそうだ。

布野:何が手掛かりになる。若林:敷地にたったときの直感だよね。千草町の場合は、石積みのすごい伝統がある。また、たたらがあったんですね。要素で使える。

布野:意外にオーソドックスなんだ。

若林:ただ、そのまんまじゃ面白くない。近代的なメタリックなものを石積みにバーンとぶつけるとか。

布野:若林流がでてくる。

若林:都市は都市で要素をみつけるんですけどね。

布野:外国だとどうだろう。

若林:上海でやったけど、同じですね。

布野:ラピートだと製作のプロセスが違うでしょう。

若林:欲求不満かなあ。いつもなんでああいうデザインなんだろう、と思うことがある。ラピートの話の時にも、どうして電車というのはビジネスライクなんだろうと思ってた。話がきた時にはすぐ手が動くんです。

 

◆シヴィク・デザインへ

若林:最近は土木に興味があるんです。

布野:それはいい。建築家はもっと土木分野と共同すべきだと僕は思ってるんです。建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。シヴィック・デザインの領域は、建築家は得意な筈だ。

若林:この間も、学園都市について相談を受けたんですけど、何も考えずに宅地造成するんですね。山を崩して谷を埋める。自然を残してやるアイデアはいくらもある。評判はよかったんだけどもう決まっているという。

布野:そういうことが実に多い。計画の当初から参加できれば随分違うはずなんだ。土木は土を動かしていくらだから、なかなかそういかない。

若林:いや無駄ですよ。

布野:土木も変わりつつありますから可能性はあります。ダムとか道路とか、これからは無闇に造れないわけですし。ただ、建築家も実績が欲しいよね。橋梁のデザインは同じですよ。建築と。

若林:お茶碗からラピートまでなんでもやりますよ。


2025年1月13日月曜日

新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407

 新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407

布野修司対談シリーズ

新たな建築家像を目指して

新居照和・ヴァサンティ

多種多様なものの生きる原理

水は綺麗にして自然に帰せ

いずれ、インドで仕事をしたい。

 

 新居照和さんとは建築フォーラム(AF)の西成の仕事で知り合った。新居さんがインドで絵と建築を学んだことを知ってアーメダバードへ行く気になった。対談にも出てくるサグラさんにお会いしていろいろ便宜を図っていただいた。実に素晴らしい人たちである。是非、じっくり話を聞きたいと徳島へ出向いて、一日作品をみせてもらった。

 アーメダバードは、知られるようにインドの近代建築のメッカである。コルビュジェ、カーンが活躍した。二人と共同したのがドーシである。新居照和・ヴァサンティ夫妻はこのインド第一の建築家ドーシに学んだ。サグラ、ドーシ、そして末吉栄三が新居夫妻の師である。

 ほとんど欧米の建築界に眼を向けるなかでインドを修行の場とした新居さんに共感を覚える。そして、地域で全てに全力で取り組む姿勢に打たれる。僕らに欲しいのはグローバルな視野をもった地域での足についた仕事である。作品は今のところ数少ないが、うまいと思う。いずれ活躍の場が広がることは間違いない。スケールの大きい仕事を期待したい。

ユーラシア放浪からインドへ

布野:  関西大学で建築を勉強されてインドへ行かれた訳ですが、何故インドなんですか。

新居:  沖縄出身の末吉栄三先生の研究室にいて随分議論したのがきっかけです。建築学科に行ったのは父親が型枠大工をしていたこともあるんですけど。先生の影響が大きい。一九七八年に研究室でヨーロッパからユーラシアに旅行して、イランとかインドにも寄ったんです。

布野: 末吉先生は七九年に沖縄に帰られて新居さんもインドへ行く前に沖縄へ行かれますね。研究室が移ったかたちですか。

新居: ビザがなかなか下りなかったんです。末吉研究室は住宅都市計画研究室ということで、沖縄の問題とか、大阪のいろいろな不良住宅地区の問題にも取り組んでいたんです。

布野: 七九年初めに僕も東南アジアを歩き出したんですが、アジアへ行くのはまだ珍しかったですね。日本の建築家としてインドへ行くのはかなり変わっている。神谷武夫さんもインドに魅せられて最近本本を出された。ドーシさんには最初の時に合われたですね。

新居: ええ、建築旅行ですからアーメダバードへ行って偶然会ったんです。僕は四ケ月くらい歩いたんです。ギーディオンもマンフォードもよく頭に入った。ただ、もうヨーロッパの時代じゃないという気がしてた。僕らはアジアのこと知らない。ドーシさんに会って、アーメダバードは環境もいいし、経済的にも楽だし、インドがいいんじゃないか、ということになった。

布野: インドはのんびりしてる。

新居: ヨーロッパからインドへ回ってほっとしたんですね。それに建築が遙かに迫力があるでしょう、アジアの方が。ヨーロッパの近代建築に比べれば。

布野: 僕も七六年にヨーロッパをひとりで近代建築行脚したんですが、例えば、ウイーンでワグナーやロースを見ても、エルラッハのバロック建築の方が迫力ある。そして、インドの建築はそれよりすごい。

 

アーメダバード:スクール・オブ・アーキテクチャー:ドーシ研究所

新居: スクール・オブ・アーキテクチャーへ一年間通ったんです。でも修士を終えてるからと自由にさしてもらったんです。できるだけ建築を見たい、体験したいというと、ドーシさんは「いいよ、いいよ」という。とにかく見て回ったんです。遺跡なんかゴロゴロしてるんですから。

布野: すごく密度の高い設計教育をしてますね。去年行ってびっくりしました。

新居: デザイン・サーヴェイというか、フィールド・スタディをきっちりやりますね。僕も一年して、ドーシさんの研究所にいってハウジングやセツルメントのスタディをやったんです。スケッチを起こすとか、随分可愛がってもらったんです。

布野: インドで暮らすのは大変だったんじゃないですか。

新居: 家から送ってもらったお金を全部スリに盗まれた。インドに対するシンパシーがあったからすごくショックでした。徳島へ帰ってこいと何度も言われたんですが、でも絶対インドには何かあるということで粘ったんです。ドーシさんの事務所に入れてもらったとき、丁度彼女も入ってきたんです。

布野: ヴァサンティさんはどうしてアーメダバードへ来たんですか。

ヴァサンティ: ボンベイのJJスクール・オブ・アートを出たんですけど、ドーシさんの出身校でもあるんです。ドーシさんはそこからイギリスへ留学してコルビュジェに会うんですね。アーメダバードへ学生の時一度きて、古い町でしょう、この町に住みたいと思ったんです。講師になる話があって、ドーシさんの作品を見てたら、ドーシさんに会って人を捜してるという。信じられませんでした。小さい頃から、絵も好きで、理科や数学が好きだったから、建築が一番いいと思った。

布野: 運命的な出会いですね。当時スタッフは何人ぐらいですか。

ヴァサンティ: 二〇人くらい。五人ぐらいがプロジェクト・チーフかな。いろいろな人が出入りしてた。

布野: どんな仕事をやられたんですか。

新居: カーンのやったインド経営大学(IIT)がありますね。バンガロールのIITをやったんですね。

 

画家修行 サグラ師の教え

布野: ドーシさんの所は一年半ですか。その後肝炎やられて帰国されますね。

新居: 夜、英語学校に行ったり無理してたんですね。でも、インドが呼んでいるという気がしてまた戻るんです。サグラさんという画家がいて、絵を教えてもらうんです。

布野: お会いしました。お世話になりました。インドで有名な画家ですね。

ヴァサンティ: 帰ってきたのが八二年で、私はスクール・オブ・プランニング(大学院)にいくんです。

布野: すごく沢山絵を描かれてますね。

新居: スケッチ旅行に連れて行ってもらってから面白くなった。一生懸命やるもんだからサグラさんも本気で手ほどきしてくれた。キャンパスで二人で一日中絵を描いてたんです。ドーシさんも、お前ら何してるんだ、と呆れてた。よく言い合いしたりしてたから。二次元の世界に自分の感じたことを出せるのが面白くて仕方がなかった。

布野: 才能あったんですね。うらやましい。

ヴァサンティ:二年後には展覧会したんですよ。写真展もしました。

布野: 二年間絵に没頭して、経済的にはどうしてたんですか。

新居: それが問題。サグラさんが、セザンヌも売れないときは親に無心してた、というんだ。それで仕送りしてもらってたんです。迷惑かけました。身元照会に警察が来たりして、スクール・オブ・ファインアート(大学院)に入りました。結局四年間絵の勉強したことになります。

布野: 日本の建築教育ではとても学べないですね。帰国は八五年ですか。

 

東京ー沖縄ー徳島

新居: 同じ時期に東大からインド哲学を勉強しに来ていた先生がいて心配してくれましてね。東京のコンサルタントを紹介してくれたんです。日本で戦おう、とは決めてたんです。やるなら、ビジネスの中心東京がいいと思ったんです。

ヴァサンティ: 日本へ行く半年前に結婚したんです。

布野:大変だったんじゃないんですか。日本へ行くのは一大決断ですね。インドの人たちは、イギリス、欧米を向いてますよね。

ヴァサンティ: 日本へ行きたかった。二川さんの「日本の民家」とか見てたし。日本はすごくアイデンティティをもってると思ってた。

新居: 彼女はバイトで、二人で東京暮らしです。多摩ニュータウン。バブル期で忙しかったですね。いつも最終電車でした。突然、インドから来て、コピーのやり方もわからなくて。本屋へ行く時間もない。そういう頃、末吉先生から、お金払えるというんで沖縄へ行ったんです。

布野: ヴァサンティは東京で日本語覚えられたんですね。うまいですね。

新居: 電車なかでいつも勉強している。妻ながら感心しました。

布野: 沖縄では何をやられたんですか。

新居: BCS賞採った石嶺中学校かな。三年居ました。知った人ばかりでした。

布野: ようやく原点へ戻られたわけですね。

 

地域に根ざして

布野: さて、徳島へ帰られて独立されて、最初は長野の仕事ですね。

ヴァサンティ:敷地がいろいろ変わって大変でした。

新居: 自給自足できますから、ここでは。多少の貯えもあったし。三年間食うや食わずでやってました。三年かけて一軒ですよ。家具のデザインとか他にもいろいろやったんですけどこれからですね。

布野: それから今日見せて頂いた三軒の住宅と他にもあるわけですね。いよいよこれからですね。

新居: まあぼちぼちですね。いろいろ計画案はあるんです。

布野: 二人の関係は、チーフとアシスタントという関係ですか。

ヴァサンティ: 私はモデル・メーカーと子育てかな。今のところ。

布野: 国際交流ということでいろいろ委員に引っぱり出されたりするんでしょう。地元の新聞に原稿書いたり忙しい。

ヴァサンティ: 毎月のように委員会がありますが、思ったことを言ってるんです。

新居: 帰ってから、インド音楽の紹介といった活動に随分関わったんです。プレ・イベントを含めて五ヶ月ぐらい仕事しなかったぐらい。インドの魅力にとりつかれたわけですし、みんなにも知って欲しいんです。ただエスニックということで受け取って欲しくない。異文化を理解するのは大事なんです。

布野: 地域にとって二人の存在は貴重ですね。

 

合併浄化槽の思想

布野: いま一生懸命取り組んでおられることに合併浄化槽問題がありますね。インドや沖縄での経験もベースになってるんでしょう。

新居: 沖縄は水問題は深刻なんです。柳川へ行く機会があって、石井式合併浄化槽に出会ったんです。その考え方に感心したんです。

布野: 石井勲先生ですね。今日見せていただいたんですが、BODが一PPM以下ですか、かなりの高性能のようですね。あまりにきれいになるんでびっくりしました。鯉の泳ぐ池の水や散水、トイレなどに使って全く問題ない。

新居: 考え方、その原理に感心するんです。自然界というのは多様だということですね。ひとことで言うと。

布野: 具体的に言うと・・・プラスチックの容器が二万個入っているんですよね。

新居: ランダムにね。複雑な形をした容器の底を刳り抜いたやつを入れるといろいろな空間ができる。バクテリアには好気性のものと嫌気性のものとがあるんですが、好気性のものも多様なんです。多様な空間ができると溶存酸素量のヴァリエーションも多様にできる。多様なバクテリアが共存すればいろいろなものを食べる。食物連鎖も起こる。

布野: 合併浄化槽は多種多様なバクテリアを生息させる空間構造をしている。

ヴァサンティ:バクテリアは選ぶんです、自分の場所は。そして休んだり、食べたりする。人間と一緒で働くだけでは駄目。

新居: 汚物を貯めてメタンガスにするといった試みもありますよね。でもこの方法は自分たちの使ったものはきれいにして自然に帰すというところにあるんです。地下水の涵養にもなる。循環ですね。これから人間が生きていく上で地球環境というのは無視できないテーマだと思いますね。合併浄化槽を考えるだけで、そうしたテーマを考えることができるんです。大地の中に自分たちは生きているという感覚はインドがそうなんです。サグラさんも自分の家はない。大地の上に生きているという感じでした。

 

蛍が帰る:吉野川第十堰問題

新居: 寒川町というところがあるんです。合併浄化槽設置に熱心なんです。十軒のうちに三軒設置すると蛍が帰ってくるんです。一PPM以下とはいきませんが、五PPMぐらいはきちっと維持管理すればできるんです。

布野: その延長ですね。吉野川の第十堰問題に随分関わってらっしゃるのは。今日見せて頂いて、なんで可動堰が必要なのか、よくわからない。

新居: 第十堰の問題に関心を持つようになったのは地域のさまざまなつながりからですが、水と地域環境は大事だと思っていれば誰でもおかしいと思いますよ。ただ、いろいろ議論はあるんです。代替案もいくつか出されています。建築家としても、第十堰のあるあのすばらしい景観を守る提案をすべきだと思います。

布野: 長良川河口堰や諫早湾の問題と関係ありますね。僕は出雲の出身で中海干拓の問題は気にしてるんですけど、止められない事情が地方自治体にある。公共事業は全面的に見直すべきだと思います。

新居: 公共建築の発注の問題も実は値は同じなんですね。

布野: 建設業界の問題もある。

新居: 矛盾がはっきりしてきても、見直したり中止にしたりできない。

布野: でも自分たちが生きる地域の問題だ。

新居: そうです。建築家として仕事をして行くのは当然ですが、その前に地域で生きて行くわけですから環境問題に関心を抱くのは当然なんです。ましてや醜い構築物ができる。

布野: 建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。カウンター・プランはどうですか。

新居: 土木のスケールは苦手なんですけどね。河畔林とか水害防備林をつくるとか、段差を少なくしたら、とか議論を開始してるんです。

 

グローバルに考え、ローカルに行動せよ

布野: 建築家として今後何を目指しますか。

新居: 徳島だけでやろうという気はないんです。よく環境問題で言われているように、シンク・グローバリー、アクト・ローカリー。やっぱりそうかな、と。

布野: 仕事があれば・・。

新居: どこへでも行きますよ。地域を読みとりながら。どうせそんなに仕事ないだろうから、じっくりやりますよ。

布野: 夢としては・・。

新居・ヴァサンティ: インドで仕事したいというのはありますよ。 



布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...