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2025年1月14日火曜日

若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

 若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

布野修司対談シリーズ⑩

新たな建築家像を目指して



若林広幸

常に既成概念の解体を

お茶碗から列車まで

建築家を市長に

 

 若林広幸の名は東京にいる頃からもちろん知っていた。ライフイン京都が鮮烈だった。でも、その印象は、正直にいって、高松伸よりうまい器用な建築家が京都にいるなあ、という程度の印象であった。祇園の建築など今でも若林、高松は混同されるから、その印象は間違っていないかもしれない。

 京都に来て、何度か会った。全て酒席であった。何事かを話したのであるが、あんまり覚えていない。建築の話というより、たわいもない話が多かったからであろう。いつも何人かの建築家が同席していたせいもある。ただ、いつも、この人は建築が好きなんだなあ、という印象が残った。

 今回話を聞いてみたいと思ったのはその印象のせいである。真面目に(?)建築の話をするのは初めてであった。

 当然だけれど、「京都」が主題になった。京都について考え続けている数少ない建築家であることが、よくわかった。「若林京都市長」も悪くはない、と本気で思う。それに、軽々と建築を超えるのがいい。それこそ「口紅から機関車まで」なんでもござれ、である。建築家にとって、ラピートは実にうらやましい仕事だ。建築は理屈じゃない、というのも好きだ。しかし、京都じゃ苦労するなあ、とも思う。

 話は弾んだ。いつもそうなのであるが、テープを止めてからさらに盛り上がったのであった。

 

◆工業デザインからの出発・・・とにかく、ものがつくりたかった

布野:「たち吉」にいて独立した。若林には工業デザイナーというイメージがある。

若林:僕は工業デザイン科に行ったんだけど、とにかくものがつくりたかった。同じですよデザインは。なんでもやりたいと思ってる。

布野:ものをつくる雰囲気は僕らの時代にはまだあった。特に、京都には。

若林:工業製造関係へ行く方がエリートだった。マジですよ。普通高校はすべり止めだもん。

布野:今、「職人大学」のお手伝いをしてるんだけど、日本はとんでもない国になってきた。ものをつくる人がいない。産業全体が空洞化してる。

若林:京都にぐらい物作りが残らないとまずいよ。

布野:僕は今宇治に住んでてよく見かけるんだけど、京阪宇治の駅舎の仕事が最近の仕事の代表ですか。 

若林:必ずしも思うとおりにできなかったんだけど。

布野:切妻の屋根の連続と丸い開口部。誰のデザインだろうと思ってたら若林だった。前の方のビルは似てるけど違うよね。

若林:そう。一緒に出来たらよかったけど・・・

布野:京都もそうだけど、宇治も景観の問題でいろいろうるさいよね。色々苦労があったんじゃないですか。

若林:そうでもないですよ。風致課もスッと通ったし、賞ももらうし、喜んでもらってます。建設費はいつも苦労しますけどね。

布野:バブルが弾けてみんな渋くなった。建築は社会資本なんだから景気に左右されるんじゃ困るんだけどね。

若林:兵庫県の千草町で福祉センターのコンペとったんですよ。民間ですけどね。平成の大馬鹿門(空充秋作)で有名な町ね。

布野:ああ、仏教大学で大問題になって結局町が引き取ったやつね。

若林:しかし、最近あまりいい仕事がないね。僕には公共の仕事あんまり来ないしね。

布野:代表作は、ライフ・イン京都かな。やはり、南海電車ラピートだな。

若林:京都の漬け物屋。オムロンのリゾート・リゼートセンター。あまり注目されなかったけどなかなかいいんですよ。まあこれからでしょう。

 

◆東京は情報病・・京都の方がじっくり考えられる

布野:もともと京都出身?。

若林:京都生まれの京都育ち。伏見稲荷のすぐそば。下町の長屋みたいなところ。

布野:町中と違う?。

若林:基本的に京都は好きなんだけど、特に町中は人間関係とかごちゃごちゃして、しんどい面がある。

布野:僕も狭いと思うことが多い。デザインのソースとして京都はどう。

若林:スケールがヒューマンでしょう、京都は。東京は疲れる。京都にいる方がじっくり考えられる。東京だといつも追っかけられる気がする。情報病にかかってしまう。

布野:情報も薄っぺらな情報なんだけどね。

若林:じっくり醸成する時間的余裕は京都にある。

布野:東京は官、関西は民。東京は頭でっかち、関西は実務ということもよく言われる。

 

◆とにかくスケッチ 理屈より感性

若林:あんまり理詰めの方じゃない。感性の方を信頼しますよ。ものをつくるということは非常に曖昧なことですよね。理屈で説明しろといわれると頭がプッツンする。

布野:もともと工業デザインですよね、出身は。

若林:教育がそうだったのかな。とにかく、理屈を捏ねるんではなく、形でしめす。既成概念を崩すこと。崩した上で形にしていくことをたたき込まれた。とにかく手を動かしてスケッチ、スケッチですよ。

布野:今事務所ではCADを使う。

若林:ドラフターは一台もありません。便利だけど困るねえ。若い人はコンピューターの中で考えるから、駄目なんだ。数字で考えちゃう。基本はスケッチなんです。コンピューターはただの道具なんだから。寸法よりバランスが大事なんだ。模型も重要です。決まりさえすれば,CADが早い。

 

◆格子の美学・・・曖昧な「和」

布野:ラピートのようなデザインと建築の設計は同じなんですか。

若林:一個のお茶碗も一緒。布野:建築家になるといろいろ理屈をつけないといけなくなる。

若林:そうそう。だんだん駄目になる。でも少し理屈言おうか。ポストモダンはもう古いというけど、もともと近代建築の欠けているものを指摘したのがポストモダンだ。地域性、場所性、歴史性が大事だ、ということでしょう。京都はそうした意味で風土がはっきりしている場所だ。京都は、だから可能性がある。

布野:そこで育まれた感性に期待できる、というわけだ。

若林:そう。

布野:しかし、京都というと「和」とか「日本的なるもの」とかいうブラックホールのような議論がある。

若林:そんな難しい話じゃなくて、もっと曖昧だということ。近代の二分法じゃなくて。割り切れない多元的な部分を京都を含んでいる。白か黒かじゃなくてグレーな部分が「和」なんです。安藤忠雄さんのいう日本的なもの、というのはわかりやすい「和」だ。

布野:西欧人にはね。

若林:格子も夜と昼によって違う。音もあれば光もある。安藤さんは一旦壁をつくって自然を引き込むでしょう。内と外の交感というのはない。京都の格子は曖昧なんです。

布野:格子も京格子というけれど色々あって、京都では区別する。すごくセンシティブだ。奈良はもう少しおおらかだけど。

若林:格子の細さによって見え方が違う。間隔も大事だ。パンチングメタルでも同じことでしょう。穴の大きさと間隔によってすごく違う。

布野:お稲荷さんで遊んだことなんか関係ありますか。

若林:あれ上にのぼると行場があって、おどろおどろしいとこがある。千本鳥居を抜けていくとだんだん曖昧になっていく。

布野:わびすきの京都じゃないんだ。

若林:雅も華美もあるじゃないですか。京都には曖昧に両方があるんです。町中に。それが面白い。

布野:京都妖怪論もある。

若林:仁和寺だって極彩色だったし、京都というと枯れたお寺だけではない。激しい京都もあるんだ。

 

◆杓子定規の景観行政・・・混沌か混乱か

布野:景観行政とのドンパチも、そうした京都観が背景にあるわけだ。

若林:今、自宅を建ててるんだけど風致地区なんです。打ち放しコンクリートは駄目だという。何故だ、というと自然素材として認めてないからだという。

布野:どうしようもなく堅い。紋切り型だ。

若林:隣の石のようなものを吹き付けたマンションはなんだというと、あれにしてくれという。あんなもんは自然じゃないではないか。樹脂だ。

布野:吹き付け剤が自然ですか。困ったもんだ。表面のことしか言わないんでしょう。

若林:打ち放しは駄目だ、というのは絶対理解できない。裁判しようかと思ってるんです。少なくとも大討論会やるべきですよ。

布野:大賛成。機会をみてやろう。国立公園内の規定がきつい。曲線が駄目で、勾配屋根じゃないといけない。

若林:じゅらく壁にしろという、というけど、どこからも見えない、ということがある。

 

◆京都の虚と実・・・まちづくりにメリハリを

布野:どうすればいい。

若林:俺がチェックする。

布野:そう。誰かに任す手がある。場合によると真っ赤でもいいことあるんだから。

若林:極彩色もあったしね。布野:タウン・アーキテクト制を主張するんだけどみんなあんまり乗ってこない。なんでだろう

若林:結局ね、京都をどうしようという明確なヴィジョンがないんですよ。京都市に。

布野:集団無責任体制。でも、京都のグランド・ヴィジョンの審査したけど、五〇〇以上でてきた。そんななかになんかあると思う。

若林:問題はやるかやらないかでしょう。色々あっていい、混沌が京都の特性だ。京都は混沌では混乱し出している。僕も色々案出してるんだ。

布野:秩序と混沌のバランスが問題なんだ。

若林:風致は秩序を回復しようとしてるけど、あまりに杓子定規でマニュアル秩序だ。ぼくは京都のまちづくりについて誰もあんまり考えてないと思う。京都の建築家というのは色々考えてるようでそうでもないんですよ。

布野:確かに、小さな動きは沢山あるけれどまとまりがないように見える。

若林:外の人だって考えてませんよ。

布野:でも、京都への思いは強い。京都のグランドヴィジョンに応募してきたのは三分の一が外人だ。でも東京は少なかった。

若林:そうでしょう。東京の人だって無責任なところがあるんだ。

布野:外人の京都の捉え方はステレオタイプが多い。実際に住んでる外国人は京都は汚い町だと思ってる。

若林:京都市の方針にメリハリがないのが問題なんだ。木造にするなら徹底すればいい。凍結しろというならやればいい。超高層も欲しければどうぞ。全てが中途半端だ。

布野:地区によってやればいい。僕も思うところはあるけど、なかなか思い切ったことができない構造がある。

若林:アイデアは色々ある。小学校の統廃合にしても、あそこを木造にして職人を育てる。それで町家を維持する。布野:問題はだれがやるかだ。若林が市長やりますか。

若林:いいかもね。建築家が市長やったらいい。過去に素敵な町を残した町はみなアーティストが市長やってますよ。アートがわかる感性がないと駄目ですよ。今度のポン・デ・ザールの話でもセンスが問題だ。

布野:建築家を市長にしろって、キャンペーンしようか。

 

◆瓦アレルギーはナンセンス

布野:ところで、瓦をよく使いますよね。 

若林:好きなんですよ。燻しは、ダイキャストみたいだし。打ち放しコンクリートにあってきれいでしょう。

布野:でも建築家は嫌がりますね。収まりが難しいんだ。

若林:なんかタブーがあるんでしょう、建築界には。

布野:勾配屋根になるからね。帝冠様式を思い出す。近代建築家には耐えられない。

若林:でも土からつくる自然素材でしょう、大昔からある。

布野:山田脩二なんか、瓦使えないのは建築じゃない、という。チーム・ズーの瓦の使い方もありますね。

若林:ああいう使い方もしたいけど、京都だと難しい。伝統的な使い方が基本になる。

布野:風土性、地域性ということで、瓦というのはイージーな感じもある。

若林:下手なんだよ、みんな。近代主義にとらわれている。周りを考えれば、自然に、瓦と勾配屋根がでてくる。京都でも場所による。

布野:祇園の建物は全然違う。高松や岸和郎とは違う。若林は京都に対してはやさしいわけだ。

 

◆欲求不満が原動力

若林:結局場所ですね。場所で感じたものを表現したい。東京や大阪だと何をやってもいい感じもあるけどね。

布野:東京の作品はデザインを買われたという面があるよね。

若林:ポストモダンということでね。でも、地方都市の方が興味ありますね。都会じゃない田舎ね。面白いものがみつかりそうだ。

布野:何が手掛かりになる。若林:敷地にたったときの直感だよね。千草町の場合は、石積みのすごい伝統がある。また、たたらがあったんですね。要素で使える。

布野:意外にオーソドックスなんだ。

若林:ただ、そのまんまじゃ面白くない。近代的なメタリックなものを石積みにバーンとぶつけるとか。

布野:若林流がでてくる。

若林:都市は都市で要素をみつけるんですけどね。

布野:外国だとどうだろう。

若林:上海でやったけど、同じですね。

布野:ラピートだと製作のプロセスが違うでしょう。

若林:欲求不満かなあ。いつもなんでああいうデザインなんだろう、と思うことがある。ラピートの話の時にも、どうして電車というのはビジネスライクなんだろうと思ってた。話がきた時にはすぐ手が動くんです。

 

◆シヴィク・デザインへ

若林:最近は土木に興味があるんです。

布野:それはいい。建築家はもっと土木分野と共同すべきだと僕は思ってるんです。建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。シヴィック・デザインの領域は、建築家は得意な筈だ。

若林:この間も、学園都市について相談を受けたんですけど、何も考えずに宅地造成するんですね。山を崩して谷を埋める。自然を残してやるアイデアはいくらもある。評判はよかったんだけどもう決まっているという。

布野:そういうことが実に多い。計画の当初から参加できれば随分違うはずなんだ。土木は土を動かしていくらだから、なかなかそういかない。

若林:いや無駄ですよ。

布野:土木も変わりつつありますから可能性はあります。ダムとか道路とか、これからは無闇に造れないわけですし。ただ、建築家も実績が欲しいよね。橋梁のデザインは同じですよ。建築と。

若林:お茶碗からラピートまでなんでもやりますよ。


2025年1月13日月曜日

新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407

 新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407

布野修司対談シリーズ

新たな建築家像を目指して

新居照和・ヴァサンティ

多種多様なものの生きる原理

水は綺麗にして自然に帰せ

いずれ、インドで仕事をしたい。

 

 新居照和さんとは建築フォーラム(AF)の西成の仕事で知り合った。新居さんがインドで絵と建築を学んだことを知ってアーメダバードへ行く気になった。対談にも出てくるサグラさんにお会いしていろいろ便宜を図っていただいた。実に素晴らしい人たちである。是非、じっくり話を聞きたいと徳島へ出向いて、一日作品をみせてもらった。

 アーメダバードは、知られるようにインドの近代建築のメッカである。コルビュジェ、カーンが活躍した。二人と共同したのがドーシである。新居照和・ヴァサンティ夫妻はこのインド第一の建築家ドーシに学んだ。サグラ、ドーシ、そして末吉栄三が新居夫妻の師である。

 ほとんど欧米の建築界に眼を向けるなかでインドを修行の場とした新居さんに共感を覚える。そして、地域で全てに全力で取り組む姿勢に打たれる。僕らに欲しいのはグローバルな視野をもった地域での足についた仕事である。作品は今のところ数少ないが、うまいと思う。いずれ活躍の場が広がることは間違いない。スケールの大きい仕事を期待したい。

ユーラシア放浪からインドへ

布野:  関西大学で建築を勉強されてインドへ行かれた訳ですが、何故インドなんですか。

新居:  沖縄出身の末吉栄三先生の研究室にいて随分議論したのがきっかけです。建築学科に行ったのは父親が型枠大工をしていたこともあるんですけど。先生の影響が大きい。一九七八年に研究室でヨーロッパからユーラシアに旅行して、イランとかインドにも寄ったんです。

布野: 末吉先生は七九年に沖縄に帰られて新居さんもインドへ行く前に沖縄へ行かれますね。研究室が移ったかたちですか。

新居: ビザがなかなか下りなかったんです。末吉研究室は住宅都市計画研究室ということで、沖縄の問題とか、大阪のいろいろな不良住宅地区の問題にも取り組んでいたんです。

布野: 七九年初めに僕も東南アジアを歩き出したんですが、アジアへ行くのはまだ珍しかったですね。日本の建築家としてインドへ行くのはかなり変わっている。神谷武夫さんもインドに魅せられて最近本本を出された。ドーシさんには最初の時に合われたですね。

新居: ええ、建築旅行ですからアーメダバードへ行って偶然会ったんです。僕は四ケ月くらい歩いたんです。ギーディオンもマンフォードもよく頭に入った。ただ、もうヨーロッパの時代じゃないという気がしてた。僕らはアジアのこと知らない。ドーシさんに会って、アーメダバードは環境もいいし、経済的にも楽だし、インドがいいんじゃないか、ということになった。

布野: インドはのんびりしてる。

新居: ヨーロッパからインドへ回ってほっとしたんですね。それに建築が遙かに迫力があるでしょう、アジアの方が。ヨーロッパの近代建築に比べれば。

布野: 僕も七六年にヨーロッパをひとりで近代建築行脚したんですが、例えば、ウイーンでワグナーやロースを見ても、エルラッハのバロック建築の方が迫力ある。そして、インドの建築はそれよりすごい。

 

アーメダバード:スクール・オブ・アーキテクチャー:ドーシ研究所

新居: スクール・オブ・アーキテクチャーへ一年間通ったんです。でも修士を終えてるからと自由にさしてもらったんです。できるだけ建築を見たい、体験したいというと、ドーシさんは「いいよ、いいよ」という。とにかく見て回ったんです。遺跡なんかゴロゴロしてるんですから。

布野: すごく密度の高い設計教育をしてますね。去年行ってびっくりしました。

新居: デザイン・サーヴェイというか、フィールド・スタディをきっちりやりますね。僕も一年して、ドーシさんの研究所にいってハウジングやセツルメントのスタディをやったんです。スケッチを起こすとか、随分可愛がってもらったんです。

布野: インドで暮らすのは大変だったんじゃないですか。

新居: 家から送ってもらったお金を全部スリに盗まれた。インドに対するシンパシーがあったからすごくショックでした。徳島へ帰ってこいと何度も言われたんですが、でも絶対インドには何かあるということで粘ったんです。ドーシさんの事務所に入れてもらったとき、丁度彼女も入ってきたんです。

布野: ヴァサンティさんはどうしてアーメダバードへ来たんですか。

ヴァサンティ: ボンベイのJJスクール・オブ・アートを出たんですけど、ドーシさんの出身校でもあるんです。ドーシさんはそこからイギリスへ留学してコルビュジェに会うんですね。アーメダバードへ学生の時一度きて、古い町でしょう、この町に住みたいと思ったんです。講師になる話があって、ドーシさんの作品を見てたら、ドーシさんに会って人を捜してるという。信じられませんでした。小さい頃から、絵も好きで、理科や数学が好きだったから、建築が一番いいと思った。

布野: 運命的な出会いですね。当時スタッフは何人ぐらいですか。

ヴァサンティ: 二〇人くらい。五人ぐらいがプロジェクト・チーフかな。いろいろな人が出入りしてた。

布野: どんな仕事をやられたんですか。

新居: カーンのやったインド経営大学(IIT)がありますね。バンガロールのIITをやったんですね。

 

画家修行 サグラ師の教え

布野: ドーシさんの所は一年半ですか。その後肝炎やられて帰国されますね。

新居: 夜、英語学校に行ったり無理してたんですね。でも、インドが呼んでいるという気がしてまた戻るんです。サグラさんという画家がいて、絵を教えてもらうんです。

布野: お会いしました。お世話になりました。インドで有名な画家ですね。

ヴァサンティ: 帰ってきたのが八二年で、私はスクール・オブ・プランニング(大学院)にいくんです。

布野: すごく沢山絵を描かれてますね。

新居: スケッチ旅行に連れて行ってもらってから面白くなった。一生懸命やるもんだからサグラさんも本気で手ほどきしてくれた。キャンパスで二人で一日中絵を描いてたんです。ドーシさんも、お前ら何してるんだ、と呆れてた。よく言い合いしたりしてたから。二次元の世界に自分の感じたことを出せるのが面白くて仕方がなかった。

布野: 才能あったんですね。うらやましい。

ヴァサンティ:二年後には展覧会したんですよ。写真展もしました。

布野: 二年間絵に没頭して、経済的にはどうしてたんですか。

新居: それが問題。サグラさんが、セザンヌも売れないときは親に無心してた、というんだ。それで仕送りしてもらってたんです。迷惑かけました。身元照会に警察が来たりして、スクール・オブ・ファインアート(大学院)に入りました。結局四年間絵の勉強したことになります。

布野: 日本の建築教育ではとても学べないですね。帰国は八五年ですか。

 

東京ー沖縄ー徳島

新居: 同じ時期に東大からインド哲学を勉強しに来ていた先生がいて心配してくれましてね。東京のコンサルタントを紹介してくれたんです。日本で戦おう、とは決めてたんです。やるなら、ビジネスの中心東京がいいと思ったんです。

ヴァサンティ: 日本へ行く半年前に結婚したんです。

布野:大変だったんじゃないんですか。日本へ行くのは一大決断ですね。インドの人たちは、イギリス、欧米を向いてますよね。

ヴァサンティ: 日本へ行きたかった。二川さんの「日本の民家」とか見てたし。日本はすごくアイデンティティをもってると思ってた。

新居: 彼女はバイトで、二人で東京暮らしです。多摩ニュータウン。バブル期で忙しかったですね。いつも最終電車でした。突然、インドから来て、コピーのやり方もわからなくて。本屋へ行く時間もない。そういう頃、末吉先生から、お金払えるというんで沖縄へ行ったんです。

布野: ヴァサンティは東京で日本語覚えられたんですね。うまいですね。

新居: 電車なかでいつも勉強している。妻ながら感心しました。

布野: 沖縄では何をやられたんですか。

新居: BCS賞採った石嶺中学校かな。三年居ました。知った人ばかりでした。

布野: ようやく原点へ戻られたわけですね。

 

地域に根ざして

布野: さて、徳島へ帰られて独立されて、最初は長野の仕事ですね。

ヴァサンティ:敷地がいろいろ変わって大変でした。

新居: 自給自足できますから、ここでは。多少の貯えもあったし。三年間食うや食わずでやってました。三年かけて一軒ですよ。家具のデザインとか他にもいろいろやったんですけどこれからですね。

布野: それから今日見せて頂いた三軒の住宅と他にもあるわけですね。いよいよこれからですね。

新居: まあぼちぼちですね。いろいろ計画案はあるんです。

布野: 二人の関係は、チーフとアシスタントという関係ですか。

ヴァサンティ: 私はモデル・メーカーと子育てかな。今のところ。

布野: 国際交流ということでいろいろ委員に引っぱり出されたりするんでしょう。地元の新聞に原稿書いたり忙しい。

ヴァサンティ: 毎月のように委員会がありますが、思ったことを言ってるんです。

新居: 帰ってから、インド音楽の紹介といった活動に随分関わったんです。プレ・イベントを含めて五ヶ月ぐらい仕事しなかったぐらい。インドの魅力にとりつかれたわけですし、みんなにも知って欲しいんです。ただエスニックということで受け取って欲しくない。異文化を理解するのは大事なんです。

布野: 地域にとって二人の存在は貴重ですね。

 

合併浄化槽の思想

布野: いま一生懸命取り組んでおられることに合併浄化槽問題がありますね。インドや沖縄での経験もベースになってるんでしょう。

新居: 沖縄は水問題は深刻なんです。柳川へ行く機会があって、石井式合併浄化槽に出会ったんです。その考え方に感心したんです。

布野: 石井勲先生ですね。今日見せていただいたんですが、BODが一PPM以下ですか、かなりの高性能のようですね。あまりにきれいになるんでびっくりしました。鯉の泳ぐ池の水や散水、トイレなどに使って全く問題ない。

新居: 考え方、その原理に感心するんです。自然界というのは多様だということですね。ひとことで言うと。

布野: 具体的に言うと・・・プラスチックの容器が二万個入っているんですよね。

新居: ランダムにね。複雑な形をした容器の底を刳り抜いたやつを入れるといろいろな空間ができる。バクテリアには好気性のものと嫌気性のものとがあるんですが、好気性のものも多様なんです。多様な空間ができると溶存酸素量のヴァリエーションも多様にできる。多様なバクテリアが共存すればいろいろなものを食べる。食物連鎖も起こる。

布野: 合併浄化槽は多種多様なバクテリアを生息させる空間構造をしている。

ヴァサンティ:バクテリアは選ぶんです、自分の場所は。そして休んだり、食べたりする。人間と一緒で働くだけでは駄目。

新居: 汚物を貯めてメタンガスにするといった試みもありますよね。でもこの方法は自分たちの使ったものはきれいにして自然に帰すというところにあるんです。地下水の涵養にもなる。循環ですね。これから人間が生きていく上で地球環境というのは無視できないテーマだと思いますね。合併浄化槽を考えるだけで、そうしたテーマを考えることができるんです。大地の中に自分たちは生きているという感覚はインドがそうなんです。サグラさんも自分の家はない。大地の上に生きているという感じでした。

 

蛍が帰る:吉野川第十堰問題

新居: 寒川町というところがあるんです。合併浄化槽設置に熱心なんです。十軒のうちに三軒設置すると蛍が帰ってくるんです。一PPM以下とはいきませんが、五PPMぐらいはきちっと維持管理すればできるんです。

布野: その延長ですね。吉野川の第十堰問題に随分関わってらっしゃるのは。今日見せて頂いて、なんで可動堰が必要なのか、よくわからない。

新居: 第十堰の問題に関心を持つようになったのは地域のさまざまなつながりからですが、水と地域環境は大事だと思っていれば誰でもおかしいと思いますよ。ただ、いろいろ議論はあるんです。代替案もいくつか出されています。建築家としても、第十堰のあるあのすばらしい景観を守る提案をすべきだと思います。

布野: 長良川河口堰や諫早湾の問題と関係ありますね。僕は出雲の出身で中海干拓の問題は気にしてるんですけど、止められない事情が地方自治体にある。公共事業は全面的に見直すべきだと思います。

新居: 公共建築の発注の問題も実は値は同じなんですね。

布野: 建設業界の問題もある。

新居: 矛盾がはっきりしてきても、見直したり中止にしたりできない。

布野: でも自分たちが生きる地域の問題だ。

新居: そうです。建築家として仕事をして行くのは当然ですが、その前に地域で生きて行くわけですから環境問題に関心を抱くのは当然なんです。ましてや醜い構築物ができる。

布野: 建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。カウンター・プランはどうですか。

新居: 土木のスケールは苦手なんですけどね。河畔林とか水害防備林をつくるとか、段差を少なくしたら、とか議論を開始してるんです。

 

グローバルに考え、ローカルに行動せよ

布野: 建築家として今後何を目指しますか。

新居: 徳島だけでやろうという気はないんです。よく環境問題で言われているように、シンク・グローバリー、アクト・ローカリー。やっぱりそうかな、と。

布野: 仕事があれば・・。

新居: どこへでも行きますよ。地域を読みとりながら。どうせそんなに仕事ないだろうから、じっくりやりますよ。

布野: 夢としては・・。

新居・ヴァサンティ: インドで仕事したいというのはありますよ。 



2025年1月3日金曜日

ごく普通のまちづくりを!…専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

 ごく普通のまちづくりを!専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

特別研究課題・連載シリーズ③

「ごく普通のまちづくりを! -専門分化と縦割り行政を超えて」

高山英華名誉会員に聞く

 

高山英華 名誉会員・元会長 東京大学名誉教授

 

たかやまえいか

1910年東京都生まれ

東京帝国大学工学部建築学科卒業/都市計画/工学博士/主な業績に、八郎潟干

拓地新農村建設計画、高蔵寺ニュータウン計画、ほか/著書に「私の都市工学」

ほか/「東京オリンピック施設基本計画」にて1965年日本建築学会賞特別賞、

「札幌オリンピック施設基本計画」にて1971年日本建築学会賞特別賞、1978年日

本建築学会大賞受賞

 

聞き手 村上處直 横浜国立大学教授

    布野修司 京都大学助教授

                                                                             

 

 同じパターンの繰り返し-生かされない経験

 僕は内田祥三先生から都市計画や防災を教わったんです。木造都市だから火災

が大変だと、先生は建築学科の総力を使って、いろいろな科学的実験をやった。

延焼とか輻射熱とか、木造家屋を燃やしてデータをつくったんです。先生の理想

は、鉄筋鉄骨構造で耐震耐火のまちをつくること、それがはじめからの大方針だ

ったんです。僕たちはそれを叩き込まれた。ロンドンは1666年の大火で全焼した

ときに石造にした。チャーチルの時、ドイツの爆撃を受けたけれども大火になら

なかった。それで反撃できた。日本はどうか。

 大正12年の関東大震災、僕は中学1年生でした。大久保に居て、ちょうどお昼

で、お茶碗を持って飛び出した。木造の借家でしたが、傾いたけど焼けなかっ

た。それで助かりましたが、下町は全部燃えてしまった。

 後藤新平さんが大風呂敷と言われるほどの復興予算を立てたけど、復興計画は

実現できなかった。区画整理だけは一応やった。とりあえずバラック復興して、

あとで鉄筋にする、ということだった。そのうちにと言っているうちにそのまま

になってしまった。

 そこへまた空襲だ。アメリカのB29は1万メートルくらいで日本の高射砲は届

かない。焼夷弾をばらまいた。ここで防空壕を掘って母と2人で入っていて、落

ちてきた焼夷弾を消したりした。中央線の沿線は相当やられましたが、幸い杉並

区のこのへんは大火にはならなかった。僕は近くの広場に逃げて助かったわけで

す。だけど都心はまた焼けてしまった。そしてまたバラック復興です。

 そして、阪神淡路大震災。神戸のまちは日本のまちとしては平均よりはいいま

ちだったでしょう。それでも直下型地震と木造ということで、ああいう被害を受

けた。3回目の経験だ。

 3回目の復興もまた同じパターンですね。今度つくる建物は耐震的に、免震構

造とかいろいろやっていますが、まち全体からみれば、そう安全というわけには

いかない。日本の災害と都市計画はいつもそういうパターンだ。わかっちゃいる

けど、やめられない。どうすればいいかは、口をすっぱくするほどいってきたん

だけどね。

 

 経済と安全-見えない解決策

 関東大震災後、丸の内地区は不燃化できた。下町は区画整理で整備した。昭和

通りとか道は通した。だけど建物までいかなかった。

 最近は超高層建築も可能になった。まだ、安全性には議論はある。免震とか剛

構造、柔構造の議論がある。構造の先生がもうちょっと議論してもいいと思う。

要するにそれが社会的に見て経済的かどうか。木造密集住宅地というのは改善が

必要だけれど、投資をしてこなかったわけでしょう。

 建築基準法をつくるのはわけない。防災地区か何かつくって、建ててはいけな

いと言うことはわけないけれども、建てられなかったら何もならないというので

そのままになっている。いまなら、基準は、免震でも、超高層でも、普通の鉄筋

鉄骨でもつくれるでしょう。技術的にある水準を保って、それでなければ建てら

れないということは建築学会で言えるでしょう。ただそれが、経済的に社会的に

受け入れられるかどうかが大問題だ。

 土地問題とか、日照とか、広い意味の安全とか、環境ということを満たしなが

らできるか。いつも言っているけれども、そこに解決策が見えない。物理的には

目標はあるけれども、それを建築界全体として実現する方向はみえていない。建

築界だけではできないことかもしらん。

 

 一挙にはできない防災計画-モデル事業を

 僕がやった一番大きなプロジェクトは江東防災計画です。一挙にはできないか

ら、まず十字架ベルトをつくる。そこに、不燃化できる能力のある建物、あるい

は区役所、団地を配置する。十字架ベルトと緑地と不燃化建物を組み合わせたも

のをまずやって、あとは間をだんだんにやっていく。大火にはならないだろうと

いう復興の方法をつくったわけです。

 ベルトまではいかないけれども、ベルトの拠点として、団地を不燃化する。要

するに大火にならないような不燃化を、徐々に民間でも進められるような方法を

取ったんです。なんだかんだといっても、再開発は、白鬚とか、大島、小松川と

か、中央地区とか、ある程度できているし、空き地ができて、そこが公園になっ

ていっている。再開発地区は遅いけれども、相当できあがっている。だから昔の

江東の危険さはかなり軽減されている。時間はかかるんです。

 一方、阿佐ヶ谷の僕の住んでいるこの辺りが一時ものすごく危ないという。本

所深川が危ないというので江東地区をやっていたら、シミュレーションだと高円

寺、阿佐ヶ谷のほうが危ないという。木造で密集してきたからね。ある時期に、

細分化してしまった。木造で、小さな家だから耐火にはできない。それを難燃化

くらいまで持っていく。いま再開発でずいぶん建て替えていますからね。徐々に

やっていく。

 

 地域独自の計画を

 関西のほうは少し甘かったかな。関西は地震は来ないということだったから

ね。いままでそういう経験がなかった。京都は危ないんだけれども、幸か不幸か

大火は案外ない。村上君に聞くと、神戸では地震の話はよしてくださいというこ

とだった。東京だって、いまの若い人は知らないんだ。知らない人にいくら言っ

ても本当の怖さがわからない。どうすればいいか。いまは、いろいろなコミュニ

ケーションも発達しているから、啓蒙のほうが大切かもしれない。

 いま京都は懸賞(京都グランドヴィジョン・コンペ)をやっているでしょう。

京都は、文化都市だから残さなければいけないものがある。どこまで残せば大火

にならないか、が重要だ。もう一つは京都のまちのインフラの問題がある。藤原

京から平城京、長岡京、そして平安京になったけれど、失敗したのは下水道なん

です。下水でつまった。川で多少ごまかしているけどね。 だから上下水道を地

下埋設にして、まずインフラをきちんとする必要がある。あとは街区で防災を考

える。ビルをどのくらい建てて、間に文化財を残しておいても大丈夫か。そうい

う難燃化が、京都の将来だと僕は思う。川筋は残すとか、山は残すとか、五重塔

とかは緑地と組み合わせるとか、京都は独自の防災計画を立てるときだと思う。

今度の懸賞募集はそれを予定しているんだろうと思う。

 

 再開発コーディネーターの役割

 僕は、これからの都市計画はやはり再開発だと思う。不燃化も再開発でやらな

ければできない。それで僕は再開発コーディネーターを一生懸命つくったんだ。

それが10年、ちょうど間に合って、そういう連中がかなり震災復興の応援に行き

ました。権利関係の調整もできるプランナーが必要なんです、日本のまちづくり

には。

 住宅をたくさんつくればいいというもんじゃない。復興計画では公共住宅が供

給過剰になってしまっている。住宅の立地と被災者の生活圏がうまく合わなく

て、空き家が出ている。ちぐはぐというか、計画全体を誰も見ていないのはまず

い。住宅行政でもなんでも、建物と内容とか住まいがばらばらになってしまって

いるんだ。

 土木も問題だった。幹線道路も鉄道も東西方向だけで南北がつながってなかっ

た。船着き場は液状化で大

変でしょう。高速道路が落ちたというので、いま東京も一生懸命に補強してい

る。ライフラインもそうです。これからは大きな二重くらいの地下道、トンネル

だな。掘削技術が発達しているから、その中に下水も、ライフラインもみんな入

れてしまって、上は大きな緑道くらいにしておく。そういう防災兼ライフライン

が重要になる。大きな事業ですね。それも縦割りでやらない。土木だけではまず

いんです。シビルエンジニアなんだから。ライフラインというのは、電線とか電

話線とか、上下水道とか、そういうものを一緒にして、上は緑道とかという発想

が必要なんだ

 

 やわらかな防災-まちづくりのテーマ:福祉・老齢 化・地球環境

 いま、まちづくりのテーマというと、福祉、老齢化、そして地球規模の共生で

しょう。緑と共生しろとか、自然と共生しろという環境問題、エコロジーが重要

なんだ。庭木を残すとか、ガーデニングなどは別の意味ではやっているでしょ

う。要するに田園都市の思想ですね。造園屋さんがガーデニングなどといって、

コンクリートの塀を取り払ったりしている。防災的な意味

もあるんだ。阪神大震災でも、樹木は結構火を止めています。生きていますか

ら、頑張って止めた。焦げていたけれども、その木はみんな芽をふいていま元気

になっています。

 多摩ニュータウンは、当時の歩車道分離とか、エレベーターなしというのでや

ったから、いま老人問題でまいってしまっている。全部つくり替えないといけな

い。階段でしか降りられない。降りてからも、歩車道分離してしまったから、歩

かないと行かれない。計画した時は歩車道分離で、4階までは歩いたほうが健康

的だと言って、日照は間をおけばいいという方向だけだった。老齢化ということ

は考えていなかった。それがいま全部老齢化だから、多摩は空き家になってしま

ったんです。シルバー産業も起こさなければいけない。

 防災というのは、いままでは感じが固かったんですね。環境とか生活と防災が

一体だという宣伝をしないといけない。防災というと、消防の問題になってしま

ってる。

 避難路だって、本所深川で大災害があったものだから、大きな広場でなければ

危ないと遠くへ避難するようになっている。それでは、行く途中で、みんな駄目

になってしまうのはわかっているんだ。僕の家からの避難場所は、上井草のもっ

と先、光が丘だからね。元のグラントハイツ。周りが難燃化すれば、すぐそこの

中学校でいいんです。僕は空襲のときにそこに逃げたんだ。ここで焼夷弾を消し

てから、すぐそこの中学校に逃げた。神戸の時もそうでしょう。小中学校が威力

があった。食べ物はコンビニが相当役に立ったわけだ。身近な環境が大事なん

だ。

 

 総合的まちづくり-縦割り行政の打破

 震災で、日本の都市計画のいろいろな問題がいっぺんに出た。戦後ずっとやっ

てきたことの問題とか、縦割り行政の問題とか、いろいろなことが出てきたん

だ。

 白鬚防災拠点はたまたま市街地再開発制度を使ってやったけれども、公園と住

宅をからめるとか、生活再建とからめる。とにかく東京都の全部の局を束ねてプ

ランニングした。総合的にやらないとできない。普通だったら再開発がかけられ

ない地区で600世帯以上あったんです。それを口説き落としていくためには、再

開発法では何もできない。だから福祉局とか、経済局とかが全部一緒になってや

った。戦前は不良住宅改良法。同潤会は内田先生がそういう意味で実施部隊とし

てつくったんです。

 今度都市計画を地方へ下ろしたでしょう。市町村レベルの小さいところのほう

が、総合的にできる可能性がある。市役所などに人がいないと駄目です。市役所

に人材がいれば、それではやりましょうということになるけれど、権限だけ下へ

落としても、もっとばらばらになってしまう。全国一律というのはよくないけれ

ども、その都市、その都市に応じた、京都なら京都に応じたものをつくるのは、

京都にいる人でなければできない。貧しさの程度とか、中小企業の程度とかはわ

からないんです。

 建設省で委員会をやっても、ほかの省庁も入れる。防災は同じテーブルにつけ

る。それが大事なことなんです。それでみんなが考えていけばいい。災害対策と

か災害の防御だけを考えていたらできない。普段使えていないものは、いざとい

うときにうまく使えない。

 内閣に緊急何とかを置けというのは、結構だけれども、末端の駐在所がその町

のいろいろなところを知っていないと誘導したりできない。消防の人もそうで

す。中枢が駄目だというのは、この間わかった。地域に対する判断は、やはりそ

の土地にいる人でないと駄目です。末端をどうするかという問題が大きい。今度

の震災でも燃えているのに、消防が来るまで何もしないで見ていた地区もある。

やはりコミュニティーが元気なところはきちんと対応できた。

 

 車椅子からの視点-環境、安全と防災をつなぐ

 住む人の気になって、老人福祉まで入れてやる。文部省は体育施設ばかりつく

る。厚生省は病気にならないと扱わない。体力づくり、エアロビクスと老人福祉

と一緒になったような程度のものが発想できない。あなたはエアロビクスは辛い

から太極拳ぐらいにしておきなさい。ちょっと悪くなったらお医者さんに行く。

そうすれば老人福祉はあんなに金がかからないんです。いまは悪くならないと、

薬でも何でも取れない。

悪くならないというところが大切なのに。防災も、普通の身近な環境で何かでき

る手段を取れればいい。非常に悪くなってしまえば不良住宅改良事業みたいにで

きるけれども、そんなに悪くならないけれども、道が段差があると逃げられない

とかいろいろ問題があるんです。

 僕は、運動(サッカー)をしすぎてしまったから、背骨の最後のところが擦り

切れているんです。それで足がちょっとしびれている。電気三輪車を買って乗り

回してみようと思っている。そうすると、どういうところに問題があるのかがわ

かる。環境、安全、それと防災をつなげるという感覚が出てくる。

 足が不自由になって、ここから駅へ行く間、七曲がりしているところがあるの

に気づいた。自動車が来ても、自動車がすぐは通れない。だから自動車はブブブ

ーッといいながら後ろへくっついている。そのくらいの道も、変に飛び出すと危

ない。いろいろなところで問題点がわかる。とにかく防災という言葉は少し固す

ぎるんです。要するに普通の生活環境がきちっとつくってあれば、すべて対応で

きるということですね。

 

 街区を残す

 100年くらいもつものを1街区つくれと言いたい。妻籠や馬籠などはそういう

ものです。当時の棟梁は、どういう人でも同じような手法を身につけていたわけ

でしょう。それが自然にああいう街道を形成したわけで、計画したわけではない

んです。当時の住宅生産の一つのパターンが、それだから揃ったわけだ。いまは

黄色の家の隣に赤い家をつくったり、そういうことばかりしている。それでやた

らに規制すれば今度は一列縦隊みたいなものになってしまう。どうもうまくいか

ない。

 京都あたりはそれを一生懸命やらないといけない。東京にも、麹町なんて、い

いところがあったんだ。贅沢な、本当に残しておきたいような昭和の大工さんの

最後の仕事みたいなものがいっぱいあった。英国大使館の裏あたりのところに

も、そういう住宅があって、町があった。それがいまはごちゃごちゃになってし

まった。

 日本の建物は住宅も公共建築も30年ももっていない。統計を見ると、そうなっ

ている。そういう意味ではこれからの可能性はある。これから21世紀に、君たち

の時代に残そうと思えば、僕たちのときに残らなかったものを残すことはでき

る。ただ、あまり惜しくないものもあるから、また同じことをやりかねない。

100年もつと50万戸くらいでいい。だから、そういうものをつくる覚悟があるか

どうか。街区でやらないと駄目です。ぽつぽつやると邪魔になる。だから、ある

街区で、いいものが100年もつ。町並みというか街区、どちらから見るか、裏か

ら見るか中から見るか。ともかく一団地の住宅地経営というのが昔都市計画であ

った。常盤台とか田園都市みたいに、ある単位をやれば残るわけです。

 

 モデル事業を-地方自治体の可能性

 都市計画を市町村におろしたから地方自治体が大事になる。技術スタッフ、財

政が一元化できるのは自治体でしょう。面白い人がいるんです。月島の課長さん

で、佃島の再開発をやる。いまの規則は知っちゃいないという人がいると、昔の

船着き場を残しておくとか、面白いことをやれるんです。

 企画みたいなところと最後に建築家が格好をつけるところは違うんです。最後

の美的感覚とか、その時代の材料を使ってあまり違和感のないものをつくる、自

然とマッチするという才能はやはり建築家でしょう。だけど、団地をつくって、

人を住まわせるとか、税金をどうするとか、財産税をどうするというのは企画的

な人がいなければ駄目でしょう。僕は再開発コーディネーターをそういうものに

育てたいと思っていたわけです。東大の都市工学科を出た市長が四、五人いるん

じゃないですか。そうでなくても、企画か何かに行った人材は多いと思う。地方

へ行って、いま助役などになっている。建設省に行ったやつが課長くらいだと、

もう副知事くらいになってしまったのもいる。地方に都市計画をおろしても、そ

ういう人がいればなんとかなるということです。

 都市工学科をつくったり再開発協会をつくったりして、いまちょうど地方分権

と合ってきた。僕には先見の明があるわけだ。ただ震災のほうは、また来るかも

しれないからな。もう嫌だよ。東京だって危ないよ。村上君なんか、私と同じこ

とをやっているのだから、また今度も駄目でしたなんて、言わないようにたの

む。

 

 大きな議論を-建築とはなんぞや

 この間学会の名簿をもらったら、電話帳みたいですごいね。委員会なんか何で

もある。重箱の隅をほじくらないと学位が取れない。もう少し建築とは何ぞやと

いうことを考えることが必要ですよ。そういうことを言う人がだんだんいなくな

ってしまった。

 論文なんて、コンピュータでどうだこうだといって、僕が読んでもわかりはし

ない。なんだか小さいことで、人のやらないことをやらないと学位が取れないと

いう。僕は、東大はデザインは学位は要らないとしたんです。それでいま安藤忠

雄君が東大に来た。あの人は面白い。工業高校卒ですからね。建築は大学を出な

くてもいいんです。それから棟梁で、田中文男。すごいんだ。この間、テレビに

出ていましたね。

 細かいこともやってはいけないということではないよ。だけど僕は、いま建築

屋はどうすればいいかという議論をもう少しやったほうがいいんじゃないかと思

う。学会が悪いのは、細分化してしまうんです。

 僕は農村計画部会というものをつくった。農村も都市もというのだけれども、

両方に分かれてしまう。都市と農村をどういう割り振りにするのか、これから地

方分権で中都市を育てるのか、拠点都市を育てるのか、あるいは山村みたいなも

のをやるのか。農林水産をどうするのか。関東地方に農村がなくなったらどうな

るか。そういう議論が大事だ。

 市民大学とかで、老人福祉でバリアフリーの家はどうだとか、そういうものを

講習会なんかでやればいいんじゃないか。専門でなくても、建築家として、そう

いうときに一家言なければいけない。それは知らないということではいけない。

そういう中に建築があるんだ。啓蒙なんておこがましいことを言って、手前のほ

うが啓蒙されないといけない。建築屋をうんと集めて、おじいさんを呼んで講演

をしてもらう。あんたのいま困っていることは何ですか。それに建築屋は答える

義務がある。

 もしかしたら学校の教育が悪い。君たち、何を教えているんだ、大学では。

 方法論と言うと、変に難しくなるけどね。一緒に仕事をして覚えるというのが

僕のやり方だ。講義はちょっとよそゆきになってしまう。

 

 大道無門

 「大道無門」というのは弘法大師です。来るものは拒まずという。弘法大師は

偉かった。あれこそ総合プランナーです。温泉は掘るし、ダムはつくる。ダムが

できたころ、大水が来る。天気予報で当てるんだ。

 拝むと、雨が降って、ダムに水がたまる。弘法大師が偉いのは、四国の遍路

で、景色のいいところをずっと上って行くと、ほっとする、いいところにお寺を

建てる。あるいは講仲間をつくるでしょう。それでお金をためておくわけです。

いまの運輸省は送るだけ、大蔵省は税金を取るだけだ。講で大蔵省の代わりにち

ゃんと旅費をつくらせておいて、空気のいいところを回らせて、健康をよくす

る。最後は比叡山の一番いいところへお寺を造りそばに宿場を造って大勢を泊め

る。総合的に全部終わりまでやっている。

 あれは総合プランナーとしては大したものですね。建築学会も総合的じゃない

と駄目なんだ。

 

             1998129日 東京・高山邸にて)

 

 ★写真3枚あり

  タイトル:阪神大震災での火災、白鬚防災拠点計画

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...