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2024年10月6日日曜日

開催テーマ・主旨、第2回ISAIAアジアの建築交流国際シンポジウム,神戸,1998年9月8ー10日

 第Ⅱ回 アジアの建築交流国際シンポジウム 開催趣旨

The 2nd International Symposium on Architectural Interchange in Asia


「21世紀的亜州建築」

Asian Architecture in 21st Century

 

 

 21世紀は「アジアの世紀」になると言われる。中国、インドという人口大国の存在もあり、世界人口の半数近くの人々がアジアに居住するという意味でも、また、これまで世界をリードしてきた西欧世界の近代化、産業化の流れに疑問符が打たれ、その限界が意識され出したという意味でも、アジアに大きな関心が寄せられる。地球環境問題が世界共通の課題になり、持続可能な社会、都市、建築のあり方が求められる中で、アジアに何かこれまでと違った原理が求められている。

 アジアはひとつ、ではない。アジアはもとより多様である。むしろ、異質のものが多様に共存する原理をアジアの各地域は伝統としてきたのではないか。建築と都市のあり方をめぐって、アジア各地の経験を報告しあい、議論したい。真摯な議論の中から、21世紀の都市や建築についての指針を見出したい。

 1986年、日本建築学会は創立百周年を記念して「アジアの建築交流国際シンポジウム」を開催した。その後10年を経て、ますます、アジアの各地域の相互交流は深まりつつあり、シンポジウムの持続的開催の必要性が強く意識されてきた。この度、日本建築学会の呼びかけで、中国建築学会、大韓建築学会の賛同を得、三学会共催のかたちで第Ⅱ回のシンポジウムを開催する運びとなった次第である。

 会場は神戸。1995年1月の阪神・淡路大震災は未曾有の被害をもたらした。その復興の過程を見ていただきたい。また、様々な問題点を議論していただきたい。第Ⅲ回は、北京、第Ⅳ回はソウル・・・というように、具体的な都市の問題を考えるかたちで続けられることを願う。

 メイン・テーマは「21世紀のアジア建築」。安藤忠雄、ルシアンクロールの基調講演の他、6つの分科会を用意する。「建築史の誕生」「建築士制度と建築教育」「耐震と構造技術」「震災復興とまちづくり」「歴史的環境と保存」「伝統的建築技術と環境共生建築」をめぐって活発な議論が展開されることを期待したい。また、このシンポジウムを機会に交流の輪がさらに広がることを期待したい。

                               

The 2nd International Symposium on Architectural Interchange in Asia

                    「21世紀的亜州建築」

              Asian Architecture in 21st Century

                                

 

 

 It is said that 21st century will be called "Century of Asia".Asian regions are expected to play a greater role to the worldwide issues because almost half of the world's population lives in Asian regions which include the large countries like China, India and Indonesia.... We are raising a question to the process of industrialization and modernization leaded by Western countries for these centuries and throwing eyes to the Asian fields that have their own values and principles. Global environmental issues are becoming a common tasks to solve all over the world and how the sustainable society, city and architecture will be realized is the major subject of common concern.

 Asia is not one. Asia has a variety of regions. Many countries in Asia advocate Unity in diversity as a national slogan. How we find the principles that coordinate the plural elements will be our major point to emphasize. We would like to discuss the future of Asian cities and architecture in 21st century and to find the direction which we follow.

 Architectural Institute of Japan held The 1st International Symposium on Architectural Interchange in Asia in 1986. We reached to the recognition that we should continue to hold this kind of international exchange program as a result of our interchanges in several levels during this decade after 1st symposium. AIJ initiates the program that had be accepted by Architectural Institute of China and Korea very soon. This symposium will be held by three co-host organization.

  Kobe city has been selected as a venue for the symposium. Great Hanshin Earthquake was a miserable disaster. Please visit the site that are on the process of reconstruction and discuss the matter of issues. We still have the many problems to solve. We hope to hold the next symposium in Beijing or Seoul.

 Major subject of the symposium  is titled "Asian Architecture in 21st Century". We invite Tadao Ando and Lucien Kroll as keynote speakers. We have prepared 6 Sub theme. 「建築史の誕生」「建築士制度と建築教育」「耐震と構造技術」「震災復興とまちづくり」「歴史的環境と保存」「伝統的建築技術と環境共生建築」. We hope many participants will attend our symposium and play an important role to our inter exchange program.

2024年9月19日木曜日

オーストラリアの都市と建築 ①グリフィンのキャンベラ,②グリーンウエイのシドニー、③サルマンのガーデン・サバーブ、日刊建設工業新聞,19980220、19980306、19980327

  オーストラリアの都市と建築 1 グリフィンのキャンベラ,日刊建設工業新聞,19980220

 オーストラリアの都市と建築 2 グリーンウエイのシドニー,日刊建設工業新聞,19980306

 オーストラリアの都市と建築 3 サルマンのガーデンサバーブ,日刊建設工業新聞,19980327


オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

①グリフィンのキャンベラ

 ブラック・マウンテンのテレコム・タワーに上ってみる。キャンベラの全貌が見渡せる。足下に国立植物園、オーストラリア国立大学の森があり、その先に続いてシティ・ヒルの高層ビル群が見える。そして、バーリー・グリフィン湖を挟んで、キャピタル・ヒルの森と建物群が見え隠れする。中央にあるのが四角錐のフレームを頂いた国会議事堂(一九八八年)である。キャンベラは今猶建設中だ。

 樹木の間に直線の幹線街路の幾何学模様がくっきりと浮かび上がる。まるで図面を見るようだ。この都市計画の図面を引いた男、それが湖にその名を残すウオルター・バーリー・グリフィン(一八七六~一九三七)である。グリフィンの名は、オーストラリアでは著名だ。湖の畔(ほとり)にある国立首都計画館は言ってみればグリフィン館で、多くの観光客が訪れている。しかし、近代建築の歴史の中では忘れ去られてきた。

 グリフィンはシカゴに生まれ、フランク・ロイド・ライトの下で建築を学んだ。そして、その名を一躍著名にしたのが「オーストラリア連邦首都計画」国際コンペ(一九一一~一二年)一等入選である。一種の事件であった。

 幹線街路の軸線の焦点には必ず小高い山がある。単純な幾何学ではなく、地形を周到に読みながら軸線を定めていく、ランドスケープ・デザインの原理がある。しかし、彼の計画案がそのまま実現することはなかった。すぐさま問題になったのは人工湖である。恣意的な形には無理があった。さらに、数多くの困難が待ち受けていたのであった。

 グリフィンはキャンベラで人生を狂わせたと言えるかもしれない。一等入選以来、その実現過程で様々な政治的力学関係に翻弄され続けるのである。三二年までオーストラリアに釘付けになった。メルボーンなどで数々の仕事を手掛けるけれど、これぞという作品はなさそうだ。その後、インドのラクナウに招かれていくつかの仕事をしている。ラクナウは、パトリック・ゲデスが都市計画に最も力を注いだ町だ。グリフィンは、シカゴでゲデスの講義を聴いたことがあるという。折しも、エドウィン・ラッチェンスの監督の下、ニューデリーが建設中であった。この繋がりが二〇世紀の都市計画史の綾である。彼らは何かを共有していたのだ。そして一方、果たして、一人の人間がひとつの都市を設計できるのか、という問いをグリフィンのキャンベラが投げかけ続けている。 


 

オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

②グリーンウエイのシドニー

 シドニーの発祥の地、湾に面したザ・ロックスはヴィクトリア王朝時代の面影を今に残す。七〇年代から保存修景事業が展開され、観光客が蝟集する活気ある空間として蘇った。その一角にグリーンウェイという路地がある。小さな文字が書いてあるだけだから余程注意していないと気がつかない。フランシス・グリーンウェイ(一七七七~一八七三)という建築家が住んでいたのだという。

 このグリーンウェイは建築史上実にユニークな建築家といっていい。彼は死刑判決を受けてオーストラリアに流された囚人建築家なのである。経歴は定かではないが、ジョン・ナッシュと同じ住所にいたというから、それなりの訓練を受けた建築家であったことは疑いはない。英国にも三つの作品が知られている。しかし、請け負った仕事がうまくいかず、莫大な借金を背負って破産する。契約不履行は当時の法では死刑であった。

 折からグリーンウェイ展(一九九七年)が開かれていた。皮肉というか、ハイドパーク北の、かっての監獄が美術館に改装されていた。しかも、彼が設計した監獄だ。彼はウイリアム・チェンバースの建築書を持参していた。野心満々である。シドニーに到着する(一八一四年)や否やマクエアリー総督に取り入り、総督付き建築家になることに成功したのであった。

 展覧会には作品がプロットされた地図(一八三一年)があった。数え上げると四九にのぼる。マクエアリー・フォート、総督邸、最高裁、聖ジェイムズ教会などの他、住宅、倉庫などありとあらゆる施設を建設している。すごい建設量である。シドニーの初期の骨格はグリーンウェイによってつくられたのである。現在の中心街区には超高層ビルが林立する。しかし、グリーンウェイのシドニーを今猶歩いてみることが出来る。キャプテン・クックがボタニィ湾に上陸したのが一七七〇年、アーサー・フィリップ総督がジャクソン港に到着し、英国領としたのが一七八八年、グリーンウェイが活躍したのは一五〇年ほどの前だから、当然といえば当然かもしれない。

 グリーンウェイはシドニーに流されて、その名を残した。しかし、幸せだったかどうかはわからない。やがて総督付き建築家の職を解かれ、民間建築家として生きるが、生涯借金苦に悩まされるのである。しかし、小さな路地にその名が残り、一六〇年後に展覧会が催されたのだからもって瞑すべしであろう。

  

オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

③サルマンのガーデン・サバーブ

 シドニー滞在中に「サルマンの息子たちに救われて」という新聞記事が眼にとまった。建築家協会のジョン・サルマン賞が六五周年を迎えるのを記念して展覧会が開かれており、その歴史を振り返る内容だった。賞制定の経緯に細かく触れ、現在の賞の問題点も指摘する鋭い記事だった。一般紙に建築に関する署名原稿が載るのはうらやましい。

 シドニーといえばオペラハウスだが、その周辺で一悶着が起こっていた。シドニー湾を囲むようにオフィスビルやコンドミニアムが建ち並び、オペラハウスの景観を駄目にするというのだ。大反対運動が起こった。普通町並みを乱すモニュメンタルな建築が槍玉に上がるけれど、ここでは凡庸なビルの方が駄目だ。建築文化のある水準を示している。 

 ところで、ジョン・サルマン(一八四九~一九三二年)とは何者か。英国王立建築家協会(RIBA)の会員だった彼がオーストラリアにやってきたのが一八八六年、フランシス・グリーンウェイの時代から半世紀が過ぎていた。彼はオーストラリアの建築界をリードするためにやってきて、その名を冠した賞が創設されるに相応しい仕事をなした。

 建築家としてはさしたる実績はない。その名声は専ら都市計画家、あるいは文筆家としてのものだ。冒頭の記事も、三〇年にわたる教育活動、デイリー・テレグラフのコラムニストの実績を主としてあげていた。しかし、彼の名はもう少し、知られていい。「タウン・プランニング」(都市計画)という言葉を世界で最初に使ったのがサルマンなのだ。

 一八九〇年にメルボーンで開かれた会議で「都市の配置(レイアウト)」という論文を発表したのが彼だ。こんなことは、日本の都市計画の教科書は教えてくれない。見るところ、オーストラリアにおいては都市計画がまず問題であった。サルマンは、そのキーパースンであり、一九一四年には都市計画協会の会長に就任している。

 もちろん、グリフィンのキャンベラ計画にも深く関わった。連邦行政府側の代表者としてグリフィンの案に介入したのがサルマンである。彼の理想としたのは田園都市のパターンである。直線的な幾何学パターンは非人間的だと思いこんでいた節がある。グリフィンのおおらかな軸線構成は気に入らなかった。彼の主張は余程大きかったのであろうか。オーストラリアの町の郊外は、全てくねくねと酔っぱらったような住宅地になっている。


2024年9月7日土曜日

親自然工法とは,傷つけて癒す,楓,19980101

 親自然工法とは,傷つけて癒す,楓,19980101


傷つけて癒す・・・親自然工法とは

布野修司

 

 昨年のある県の景観賞審査委員会で、ちょっとした議論があった。ある河川の改修工事が賞の候補に残り、大半の委員の意見は「賞に値する」という意見のようであった。しかし、ぎりぎりのところである農業土木の専門委員から反対意見が出されたのである。

 当の河川改修は著名な観光地の中心を流れる川で、三面張りの味気ない護岸であったものを自然石やタイルでデザインし直したものである。以前のどぶ川が見違えるようになった、というのが多くの地元の委員の感慨である。

 反対理由のひとつは、この程度の河川改修は全国何処でもやっており、特に、顕彰するまでのことはない、というものである。確かにそうである。県内でも、似たような事例は増えつつある。

 問題はもうひとつの反対理由である。三面張りを改修修景したのはいいが、自然の回復という意味では三面張りと同じであるという。親自然工法とか近自然工法、あるいはビオトープが試みられつつある中で、ちっとも先進的ではない、と力説される。言われれば、そうである。蛍が棲息するように、といった試みは県内にも既にいくつかある。

 河川改修の本質とは何か、議論していくうちに、造園とは何か、ということも問題になってくる。自然のままにしておけばいいというのであれば、造園はいらないのではないか、といった意見も飛び出た。

 結局、その応募作品は見送りとなった。

 今年、再びその作品が問題になった。議論を続けるために、敢えて候補作品として何人かの委員が押し続けた。結果、近自然工法と思われる河川改修と同時に入賞ということになった。

 大きなきっかけとなったのは、公共事業の削減命令で、真っ先にこうした護岸改修や外構の予算が削られそうです、という行政代表委員の休憩時間の発言であった。せっかく、景観をテーマとすることができるようになったのに、後退されてはたまらないというわけである。

 しかし、議論が解決したということではない。いったい親自然工法とはなにか。土木、建築というのは基本的には自然を傷つけることによって成り立つ人工的営為である。造園はどうか。傷つけて癒す、その思想と方法が問われている。景観の問題は、単なるお化粧直しのデザインの話に止まるわけにはいかないのである。

2024年9月1日日曜日

夢とすまい,潮,1998年2月

 夢とすまい,潮,19982

 

夢違い・・・自著をめぐって

布野修司

 

 『住まいの夢と住まいの夢』という気恥ずかしくなるようなタイトルの著書をつい先頃上梓した。もう二〇年近く、インドネシアを中心としてアジアの各地を歩いており、この間見聞きした、住居や集落、都市や建築のあり方をめぐって学んだことをまとめたものである。

 事例の多くアジアのフィールドから取り上げているけれど、ターゲットは日本の住まいだ。帯のコピーは「家は持ち家に限るのか? 広いに越したことはないのか? 東南アジア各地で営まれる貧しくて楽しい「住」のあり方が垣間見せる生き生きとした住まいの夢」とうたう。これまた恥ずかしい。主旨を簡潔に言えば、その通りだけれど、それだけなら読まなくてもわかってしまう、という気がしないでもない。

 「アジア住居論」としたかったのであるが、副題ということになった。「アジア」をタイトルに入ると売れないのだという。ほんとうだろうか。建築学や都市計画学の分野でも、長い間欧米一辺倒の時代が続いてきて、ようやく、アジア各地との交流が活発になろうとしているけれど、未だ関心は薄い、ということか。比較するのもおこがましいけれど、大蔵省の研究所が一線のアジア研究者を集めて開いた研究会の議論の記録『アジアをめぐる知の冒険』という本を最近頂いて、軽い興奮を覚えながら一気に読んだ。この本も売れてないのだろうか。プロの編集者が言うことだから間違いないのだろうが、いささか寂しい。

 ところで、拙著の「あとがき」に「夢に現れる場所や空間に興味を持ち、克明に夢の記録をとり続けた建築家の話を聞いたことがある。その建築家によれば、採集した夢のほとんどが住宅を舞台とするのだという。しかも、その大半が生まれ育った住まいだという。」と書いた。実は、その建築家とは、吉武泰水(神戸芸術工科大学学長 建築家)、横山正(東京大学教授 建築家)の両先生である。四半世紀前、小さな会合でその両先生の「夢」の話を聞いたことがあるのである。

 その両先生が、拙著より一足先に『夢の場所・夢の建築』(吉武泰水著 工作舎)を刊行された。相前後しての出版だったので、引用することができなかった。残念というか、恐れ多い。こちらは、二〇年足らず、アジアの現実の住まいを見てきただけだけれど、吉武先生の本は二五年にわたる夢の記録が基になっている。徹底した「原記憶のフィールドワーク」である。本当の「夢」の話である。「夢」に出てくる場所や建築の話である。拙著のタイトルに気恥ずかしくなるのはそれ故にである。夢といいながら、「夢」を論じないのは詐欺に等しい。

 「夢は「現環境」(現在の新しい環境)に直面したとき、すでに熟知した「原環境」(成長期の環境)のもつ中廊下、階段といった空間の基本的構成要素や、「暗い場所」のような意識下の基底をなす空間的特性のトポロジカルな類似性によって、「現環境」をわがものにしようと働きかける。」というのが、吉武による「夢の場」に働く原理仮説である。果たしてどうか。具体的な事例については、是非、読んで見て頂きたい。拙著における考察も、多少交錯するかな、と秘かに手前味噌に思う。ヴァナキュラー(土着的)な民家のパターンにも、人類学的な原理が働いているに違いないからである。

 沢山の著書をお贈りいただいても、普段、余程のことがなければお礼など書かない。忙しさにかまけて、いずれお返しを、と自己合理化してしまうのである。そのくせ、丁寧な礼状と批評を頂くと感謝感激である。現金なものだ。悪い性格である。

 今度の本についても沢山の貴重な批評を頂いたのだが、ぐさりときたのが、拙著と吉武先生の著書をほぼ同時に手にした、稲垣栄三先生(東京大学名誉教授 建築史)のコメントだ。

「偶然なのでしょうが、今年は建築家が夢を語る時期かなと、一瞬考え込みました。・・・住まいが商品化した現在、地球上の各地で展開している多様な住まいと人間の生き方を見、想像力を膨らましていくことはとても重要だと思います。・・・希望を述べることが許されるのなら、日本の都市で、商品化した住居をどのようにして生活するものの手に取り戻すのか、「夢」ではなくて、その道筋と展望を描いてくださると有難いと考えます。」




2024年7月18日木曜日

2023年9月12日火曜日

第2回ISAIAアジアの建築交流国際シンポジウム論文集,神戸,1998年9月8ー10日

布野修司,鄧奕:北京の内城空間における朝陽門地区の空間構成に関する研究,日本建築学会,第2ISAIAアジアの建築交流国際シンポジウム論文集,神戸,19989810

布野修司,山本直彦,小玉祐一郎:湿潤熱帯におけるパッシブシステム実験住宅建設の試み・・・インドネシア・スラバヤ工科大学キャンパスにおけるエコ・ハウス,日本建築学会,第2ISAIAアジアの建築交流国際シンポジウム論文集,神戸,19989810

Shuji Funo Mohan PantSociospatial Environment of a Traditional Buddhist Community Quarter of the City of Patan Kathmandu Valley,日本建築学会,第2ISAIAアジアの建築交流国際シンポジウム論文集,神戸,19989810

 布野修司,脇田祥尚,牧紀男 :ナーガラ・クルターガマにみるインドネシアにおける王宮の空間構成,日本建築学会,第2ISAIAアジアの建築交流国際シンポジウム論文集,神戸,19989810




 

2023年3月22日水曜日

布野修司編:建築.まちなみ景観の創造,建築・まちなみ研究会編(座長布野修司),技報堂出版,1994年1月(韓国語訳 出版 技文堂,ソウル,1998年2月)

 『建築・まちなみ景観の創造』(韓国版)への序文

布野修司


 本書が趙容準博士を中心とするグループによって韓国語に翻訳されることを大変うれしく思います。本書が韓国の美しいまちなみ景観の創造のために寄与することを心から願います。

 論文でも述べましたけれど、景観は、本来それぞれの地域で固有な特性をもっています。それぞれ固有の土地(生態環境)に住む人々の生活が景観をつくりあげます。景観はそれぞれの地域の文化の表現だと思います。

 しかし一方、近代化の波が世界を襲い、地域に固有な景観は次第に失われつつあるように思います。寂しいことです。そうした中で、私たちはどのように対処すればいいのか、考えようとしたのが本書です。きっと、韓国でも同じような問題があるのだと思います。

 韓国のいろいろのまちや村を歩いたことがあります。それぞれ独特の景観を感じることができます。一方、日本と比較すると韓国の景観の共通の特徴も感じます。また、日本と似ていると思うような景観もあります。もしかすると、アジアに共通するような特性も議論できるかもしれません。地域毎に固有な景観なのですが、それを受け取る景観感覚(センス・オブ・ランドスケープ)には共通なものがあるのかもしれません。また、風水説は東アジアの景観についての共通の基礎を与えているのかもしれません。さらに、アジアに視野を広げて見る必要もあるでしょう。カオスのような、サラダボールのようなと形容される都市景観は、ヨーロッパとは異なったアジアに共通な特性であるように思います。

 本書は日本のコンテクストについてのみ書かれているのですが、本書の韓国誤訳を機会にもう少し広い視野で景観の問題を考えて見ようと思っています。

 もちろん、大事なのはそれぞれの地域で創造性を豊かな町並みを創り上げていく仕組みです。日本でも様々な試みを展開しようと思っているのですが、韓国でもユニークな取り組みを期待したいと思います。

                                           1996年10月1日

2022年9月7日水曜日

布野修司+J.シラス+布野研究室:エコハウス実験棟,スラバヤ工科大学,鉄筋コンクリート造+木構造,建築面積196㎡,延べ床面積300㎡,1998年7月20日竣工(掲載紙,『室内』,1999年6月)

 布野修司+J.シラス+布野研究室:エコハウス実験棟,スラバヤ工科大学,鉄筋コンクリート造+木構造,建築面積196㎡,延べ床面積300㎡,1998年7月20日竣工(掲載紙,『室内』,1999年6月)








2022年2月7日月曜日

カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

 12 カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

カピス貝の町

布野修司

 

 フィリピンでは散々であった。フィリピン航空のストライキで足がない。ヴィガンへの四〇〇キロは車をチャーターすることになった。高速道路などないから半日以上かかる。おまけに台風だ。マニラは水浸しである。洪水の中を走って、マニラを抜けるのに二時間もかかる。早朝出発したのに着いたのは深夜である。帰りには橋が流されていて、遠回りする始末だった。

 しかし、それにも関わらずかってのスペインの植民都市ヴィガンへ行ったのは最高であった。ハノイ、マラッカ、ジョージタウン(ペナン)・・・ヨーロッパ人が造った東南アジアの都市は随分見てきたけれど、こんな街が残されているとは全く知らなかった。ガイドブックに載っていないのが不思議である。世界遺産に登録されてもおかしくない。植民都市として世界文化遺産に登録された都市にスリランカのゴールがある。行ってみたけど、ヴィガンはまさるともおとらない。

 ヨーロッパ風の街並みの中で何よりも興味深いのが障子窓だ。格子の枠は日本より細かい正方形だ。フィリピンに流されたキリシタン大名が伝えたという説があるのも面白い。しかし、白く見えるのは紙ではなくて貝である。カピス貝と呼ばれる貝を薄く剥がして木の格子に挟んである。貝を通して室内に入ってくる光がなんとも優雅である。そのカピス貝の窓が連続した街並みをつくっている。

 ヴィガンではD.キングというすばらしい人にあった。ヴィガンのことは何でも知っている郷土史家である。歳は五〇代前半で若く、普段は食堂を経営しているただのおじさんに見えるけど、心底すごい。英語の本も書いているけれどスペイン語も自由自在である。なにより記憶力がすごい。一緒にヴィガンの町を歩くと喋りっぱなしである。この家は一七四〇年に建てられ、元々誰彼の所有でその後どうなって・・・とまるで生き字引だ。

 そのキング氏がいうには、この町が爆撃されなかったのは、ある日本軍人が八月一五日の撤退直前、広場に巨大な白旗を置いて、爆撃するなと米軍機に知らせたからだという。そして、その裏には、現地のメスチソ女性とその日本軍人との恋物語があったという。




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

2022年2月6日日曜日

ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

ヴィガン

布野修司

 

 この夏スペインを訪れたのは、ヴィガンというフィリピンの町(北ルソンの南イロコスの州都)の存在を知ったからであった。実際ヴィガンを訪れて驚いた。煉瓦造の住宅が建ち並ぶ、一見ヨーロッパ風の、世界文化遺産に登録されようかという町なのである。

 フェルナンディナと呼ばれたこの町の名は、4歳にして死んだフェリペ二世の息子に因んでいる。そしてフィリピンという名がそもそもフェリペ二世に由来している。そんな興味に導かれてのスペイン行であった。

 マドリッドの北西、電車で一時間ほどの所にエル・エスコリアルという静かな町がある。フェリペ二世のつくった離宮がある。今年は没後丁度四〇〇年ということで大規模なフェリペ二世展が開かれていた。離宮は驚くべき建築である。スペイン・ルネッサンスを代表する建築であり、その威容を誇るが、異常なほど簡素である。要するに装飾的要素がほとんどない。窓など単に穿たれているだけだ。

 この几帳面な建築をデザインしたのはエレーラといい、トレドのアルカサル、セヴィリアのインディアス古文書館も彼の手になる。エレーラ様式と呼ばれるその美学を支持し、登用したのがフェリペ二世だ。エル・エスコリアルのプランはひとつのマンダラである。正方形の繰り返しの中に理想都市の理念が込められているようにも思える。そして、一九七三年、フェリペ二世は、植民都市の計画原理を示す勅令を出した。

 建築家には評判が悪い。全ての中南米の植民都市を画一的なグリッド・パターンにした原因と考えられているからだ。丁度フェリペ二世が王位を継いだ頃から征服(コンキスタ)は原則として禁止され、本格的な都市建設が開始される。スペイン的な生活様式がストレートに持ち込まれる契機となったのが勅令である。

 勅令が出されたその年(あるいは前年)、スペインはヴィガンに上陸、都市建設を開始する。ヴィガンにフェリペ二世の勅令は届いたに違いない。フェリペ二世の臭いを嗅ぎつけるのが今回の目的だ。しかし、別の臭いも充分嗅いだ。その中に、この町が爆撃を逃れたのは、日本の軍人のおかげであるという話がある。



 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年2月5日土曜日

インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

インド・サラセン様式

布野修司

  再びチェンナイ(マドラス)に戻ってきた。五週間の旅となるといささか長い。毎日が日曜日だが、異国の事物に刺激されて欲張ってつい見に行ったり、食べに行ったりするから休息日がない。疲れが身体の芯に蓄積される感じだ。ぜいたくというべきか。見知らぬ土地を見てその土地のことを学ぶのは無上の歓びである。問題は刺激が多すぎて脳味噌の許容量を情報が溢れてしまうことだ。

 チェンナイではジョージタウンの調査に手をつけた。英国がインドで最初にその拠点を置いたところだ。ヨーロッパ人たちは城壁内に住み、インド人たちは要塞の北に住んだ。それぞれホワイトタウン、ブラックタウンと呼ばれる。そのブラックタウンが今日のジョージタウンだ。

 実に賑やかな町である。日中から人通りが絶えない。眼鏡、自転車、工具、電器、鉄管、チューブ、ハードウエア・・・それぞれの通りに固まってある。インドのジャーティ制(職業分離)のせいか。

 ジョージタウンを歩き回っていて日本語の堪能な老人に会った。船乗りで日本に何度も行ったのだという。チェンナイは国際都市だ。彼によると、テルグ語、タミール語、ヒンディ語、ウルドゥ語、中国語が飛び交っているのだという。

 歩いていると植民地時代に建てられた独特の様式に気づく。インド・サラセン様式と呼ばれる英国人建築家によるコロニアル建築だ。西欧建築を基礎にしながら、イスラーム建築とヒンドゥー建築の要素が巧みに取り入れられている。ハイコート(最高裁判所)がその代表である。また、マドラス大学評議員会館もなかなかの迫力だ。列柱を並べたヴェランダを周囲に回すバンガロー形式が特徴であるが、細部に様々な要素が折衷されている。

 思えば、わが国の近代建築も英国の影響下に出発した。弱冠二五、六歳のJ.コンドルが先生である。彼はマドラス経由で日本に来たに違いない。彼の設計した鹿鳴館を思い出す。彼が当初日本建築に相応しいとイメージしたのはインド・サラセン様式なのである。伊東忠太の築地本願寺にもインドが濃厚に入り込んでいる。しかし何故か、コンドル・忠太以降、日本建築はインドもサラセンも無縁のものとしてきた。



 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年2月4日金曜日

桟留,おしまいの頁で,室内,199809

 09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

桟留(サントメ)

布野修司

 

 桟留とは江戸時代に流行った舶来の縞織物のことだ。唐桟(とうざん)縞ともいう。唐すなわち外国産ということだ。最も人気があったのが縦縞の桟留で、文化文政の「いき」な趣味を代表するとされる(九鬼周造『いきの構造』)。「奥島」ともいって当初は大奥で将軍家が愛好した。オランダの商館長が献上したのがきっかけである。やがて、武士層や富裕な町民層に広まっていったのであろう、浮世絵にも沢山描かれている。基本色は藍、白茶けた赤、白である。いかにも斬新なファッションに思えるではないか。

 何故、桟留かというと、今、南インドのマドラス(ボンベイがムンバイになったようにチェンナイと名を昨年変えた)に居ることと関係がある。桟留とはマドラスのことなのである。正確には現在のマドラスにあるサントメのことだ。驚くべきことに、その地名は聖トーマスから来ているという。説ではない事実である。早速、サントメ教会に行ってみた。何の変哲もない教会がそこにあった。しかし、南インドの一隅に聖者が祀られていて、奇蹟を起こすという話は一三世紀頃からくり返し西欧に伝わっていた。マルコ・ポーロも、現在のマドラス付近に聖トーマスの遺体が安置されていると書いているのである。キリストの十二使徒の一人、聖トーマスが何故南インドの地名に変身し、近世日本の「粋」文化を飾る木綿縞に転じたのかは、重松伸司著『マドラス物語』(中公新書)をお読み頂きたい。東西の交渉史は実にダイナミックで面白い。オランダは北へ三〇キロ程のプリカットを拠点にしていた。長崎(出島)ーバタヴィアープリカットというネットワークで桟留が日本に供給されていたのである。因みにキャラコというのもインドのカリカットから来ている。

 マドラスの属するタミル・ナドゥ州を中心に話されるタミル語が日本語の起源だという有力な説(大野晋)がある。マドラス大学には日本研究センターが設立されるほどだ。マドラスの各寺院には京都の祇園祭のような山車祭りがある。といった様々な興味でマドラスにやってきた。というと格好がいいのであるが、やってきて見聞きしてはじめてサントメのことを知ったというのが本当のところだ。



 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912