新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407
布野修司対談シリーズ
新たな建築家像を目指して
新居照和・ヴァサンティ
多種多様なものの生きる原理
水は綺麗にして自然に帰せ
いずれ、インドで仕事をしたい。
新居照和さんとは建築フォーラム(AF)の西成の仕事で知り合った。新居さんがインドで絵と建築を学んだことを知ってアーメダバードへ行く気になった。対談にも出てくるサグラさんにお会いしていろいろ便宜を図っていただいた。実に素晴らしい人たちである。是非、じっくり話を聞きたいと徳島へ出向いて、一日作品をみせてもらった。
アーメダバードは、知られるようにインドの近代建築のメッカである。コルビュジェ、カーンが活躍した。二人と共同したのがドーシである。新居照和・ヴァサンティ夫妻はこのインド第一の建築家ドーシに学んだ。サグラ、ドーシ、そして末吉栄三が新居夫妻の師である。
ほとんど欧米の建築界に眼を向けるなかでインドを修行の場とした新居さんに共感を覚える。そして、地域で全てに全力で取り組む姿勢に打たれる。僕らに欲しいのはグローバルな視野をもった地域での足についた仕事である。作品は今のところ数少ないが、うまいと思う。いずれ活躍の場が広がることは間違いない。スケールの大きい仕事を期待したい。
ユーラシア放浪からインドへ
布野: 関西大学で建築を勉強されてインドへ行かれた訳ですが、何故インドなんですか。
新居: 沖縄出身の末吉栄三先生の研究室にいて随分議論したのがきっかけです。建築学科に行ったのは父親が型枠大工をしていたこともあるんですけど。先生の影響が大きい。一九七八年に研究室でヨーロッパからユーラシアに旅行して、イランとかインドにも寄ったんです。
布野: 末吉先生は七九年に沖縄に帰られて新居さんもインドへ行く前に沖縄へ行かれますね。研究室が移ったかたちですか。
新居: ビザがなかなか下りなかったんです。末吉研究室は住宅都市計画研究室ということで、沖縄の問題とか、大阪のいろいろな不良住宅地区の問題にも取り組んでいたんです。
布野: 七九年初めに僕も東南アジアを歩き出したんですが、アジアへ行くのはまだ珍しかったですね。日本の建築家としてインドへ行くのはかなり変わっている。神谷武夫さんもインドに魅せられて最近本本を出された。ドーシさんには最初の時に合われたですね。
新居: ええ、建築旅行ですからアーメダバードへ行って偶然会ったんです。僕は四ケ月くらい歩いたんです。ギーディオンもマンフォードもよく頭に入った。ただ、もうヨーロッパの時代じゃないという気がしてた。僕らはアジアのこと知らない。ドーシさんに会って、アーメダバードは環境もいいし、経済的にも楽だし、インドがいいんじゃないか、ということになった。
布野: インドはのんびりしてる。
新居: ヨーロッパからインドへ回ってほっとしたんですね。それに建築が遙かに迫力があるでしょう、アジアの方が。ヨーロッパの近代建築に比べれば。
布野: 僕も七六年にヨーロッパをひとりで近代建築行脚したんですが、例えば、ウイーンでワグナーやロースを見ても、エルラッハのバロック建築の方が迫力ある。そして、インドの建築はそれよりすごい。
アーメダバード:スクール・オブ・アーキテクチャー:ドーシ研究所
新居: スクール・オブ・アーキテクチャーへ一年間通ったんです。でも修士を終えてるからと自由にさしてもらったんです。できるだけ建築を見たい、体験したいというと、ドーシさんは「いいよ、いいよ」という。とにかく見て回ったんです。遺跡なんかゴロゴロしてるんですから。
布野: すごく密度の高い設計教育をしてますね。去年行ってびっくりしました。
新居: デザイン・サーヴェイというか、フィールド・スタディをきっちりやりますね。僕も一年して、ドーシさんの研究所にいってハウジングやセツルメントのスタディをやったんです。スケッチを起こすとか、随分可愛がってもらったんです。
布野: インドで暮らすのは大変だったんじゃないですか。
新居: 家から送ってもらったお金を全部スリに盗まれた。インドに対するシンパシーがあったからすごくショックでした。徳島へ帰ってこいと何度も言われたんですが、でも絶対インドには何かあるということで粘ったんです。ドーシさんの事務所に入れてもらったとき、丁度彼女も入ってきたんです。
布野: ヴァサンティさんはどうしてアーメダバードへ来たんですか。
ヴァサンティ: ボンベイのJJスクール・オブ・アートを出たんですけど、ドーシさんの出身校でもあるんです。ドーシさんはそこからイギリスへ留学してコルビュジェに会うんですね。アーメダバードへ学生の時一度きて、古い町でしょう、この町に住みたいと思ったんです。講師になる話があって、ドーシさんの作品を見てたら、ドーシさんに会って人を捜してるという。信じられませんでした。小さい頃から、絵も好きで、理科や数学が好きだったから、建築が一番いいと思った。
布野: 運命的な出会いですね。当時スタッフは何人ぐらいですか。
ヴァサンティ: 二〇人くらい。五人ぐらいがプロジェクト・チーフかな。いろいろな人が出入りしてた。
布野: どんな仕事をやられたんですか。
新居: カーンのやったインド経営大学(IIT)がありますね。バンガロールのIITをやったんですね。
画家修行 サグラ師の教え
布野: ドーシさんの所は一年半ですか。その後肝炎やられて帰国されますね。
新居: 夜、英語学校に行ったり無理してたんですね。でも、インドが呼んでいるという気がしてまた戻るんです。サグラさんという画家がいて、絵を教えてもらうんです。
布野: お会いしました。お世話になりました。インドで有名な画家ですね。
ヴァサンティ: 帰ってきたのが八二年で、私はスクール・オブ・プランニング(大学院)にいくんです。
布野: すごく沢山絵を描かれてますね。
新居: スケッチ旅行に連れて行ってもらってから面白くなった。一生懸命やるもんだからサグラさんも本気で手ほどきしてくれた。キャンパスで二人で一日中絵を描いてたんです。ドーシさんも、お前ら何してるんだ、と呆れてた。よく言い合いしたりしてたから。二次元の世界に自分の感じたことを出せるのが面白くて仕方がなかった。
布野: 才能あったんですね。うらやましい。
ヴァサンティ:二年後には展覧会したんですよ。写真展もしました。
布野: 二年間絵に没頭して、経済的にはどうしてたんですか。
新居: それが問題。サグラさんが、セザンヌも売れないときは親に無心してた、というんだ。それで仕送りしてもらってたんです。迷惑かけました。身元照会に警察が来たりして、スクール・オブ・ファインアート(大学院)に入りました。結局四年間絵の勉強したことになります。
布野: 日本の建築教育ではとても学べないですね。帰国は八五年ですか。
東京ー沖縄ー徳島
新居: 同じ時期に東大からインド哲学を勉強しに来ていた先生がいて心配してくれましてね。東京のコンサルタントを紹介してくれたんです。日本で戦おう、とは決めてたんです。やるなら、ビジネスの中心東京がいいと思ったんです。
ヴァサンティ: 日本へ行く半年前に結婚したんです。
布野:大変だったんじゃないんですか。日本へ行くのは一大決断ですね。インドの人たちは、イギリス、欧米を向いてますよね。
ヴァサンティ: 日本へ行きたかった。二川さんの「日本の民家」とか見てたし。日本はすごくアイデンティティをもってると思ってた。
新居: 彼女はバイトで、二人で東京暮らしです。多摩ニュータウン。バブル期で忙しかったですね。いつも最終電車でした。突然、インドから来て、コピーのやり方もわからなくて。本屋へ行く時間もない。そういう頃、末吉先生から、お金払えるというんで沖縄へ行ったんです。
布野: ヴァサンティは東京で日本語覚えられたんですね。うまいですね。
新居: 電車なかでいつも勉強している。妻ながら感心しました。
布野: 沖縄では何をやられたんですか。
新居: BCS賞採った石嶺中学校かな。三年居ました。知った人ばかりでした。
布野: ようやく原点へ戻られたわけですね。
地域に根ざして
布野: さて、徳島へ帰られて独立されて、最初は長野の仕事ですね。
ヴァサンティ:敷地がいろいろ変わって大変でした。
新居: 自給自足できますから、ここでは。多少の貯えもあったし。三年間食うや食わずでやってました。三年かけて一軒ですよ。家具のデザインとか他にもいろいろやったんですけどこれからですね。
布野: それから今日見せて頂いた三軒の住宅と他にもあるわけですね。いよいよこれからですね。
新居: まあぼちぼちですね。いろいろ計画案はあるんです。
布野: 二人の関係は、チーフとアシスタントという関係ですか。
ヴァサンティ: 私はモデル・メーカーと子育てかな。今のところ。
布野: 国際交流ということでいろいろ委員に引っぱり出されたりするんでしょう。地元の新聞に原稿書いたり忙しい。
ヴァサンティ: 毎月のように委員会がありますが、思ったことを言ってるんです。
新居: 帰ってから、インド音楽の紹介といった活動に随分関わったんです。プレ・イベントを含めて五ヶ月ぐらい仕事しなかったぐらい。インドの魅力にとりつかれたわけですし、みんなにも知って欲しいんです。ただエスニックということで受け取って欲しくない。異文化を理解するのは大事なんです。
布野: 地域にとって二人の存在は貴重ですね。
合併浄化槽の思想
布野: いま一生懸命取り組んでおられることに合併浄化槽問題がありますね。インドや沖縄での経験もベースになってるんでしょう。
新居: 沖縄は水問題は深刻なんです。柳川へ行く機会があって、石井式合併浄化槽に出会ったんです。その考え方に感心したんです。
布野: 石井勲先生ですね。今日見せていただいたんですが、BODが一PPM以下ですか、かなりの高性能のようですね。あまりにきれいになるんでびっくりしました。鯉の泳ぐ池の水や散水、トイレなどに使って全く問題ない。
新居: 考え方、その原理に感心するんです。自然界というのは多様だということですね。ひとことで言うと。
布野: 具体的に言うと・・・プラスチックの容器が二万個入っているんですよね。
新居: ランダムにね。複雑な形をした容器の底を刳り抜いたやつを入れるといろいろな空間ができる。バクテリアには好気性のものと嫌気性のものとがあるんですが、好気性のものも多様なんです。多様な空間ができると溶存酸素量のヴァリエーションも多様にできる。多様なバクテリアが共存すればいろいろなものを食べる。食物連鎖も起こる。
布野: 合併浄化槽は多種多様なバクテリアを生息させる空間構造をしている。
ヴァサンティ:バクテリアは選ぶんです、自分の場所は。そして休んだり、食べたりする。人間と一緒で働くだけでは駄目。
新居: 汚物を貯めてメタンガスにするといった試みもありますよね。でもこの方法は自分たちの使ったものはきれいにして自然に帰すというところにあるんです。地下水の涵養にもなる。循環ですね。これから人間が生きていく上で地球環境というのは無視できないテーマだと思いますね。合併浄化槽を考えるだけで、そうしたテーマを考えることができるんです。大地の中に自分たちは生きているという感覚はインドがそうなんです。サグラさんも自分の家はない。大地の上に生きているという感じでした。
蛍が帰る:吉野川第十堰問題
新居: 寒川町というところがあるんです。合併浄化槽設置に熱心なんです。十軒のうちに三軒設置すると蛍が帰ってくるんです。一PPM以下とはいきませんが、五PPMぐらいはきちっと維持管理すればできるんです。
布野: その延長ですね。吉野川の第十堰問題に随分関わってらっしゃるのは。今日見せて頂いて、なんで可動堰が必要なのか、よくわからない。
新居: 第十堰の問題に関心を持つようになったのは地域のさまざまなつながりからですが、水と地域環境は大事だと思っていれば誰でもおかしいと思いますよ。ただ、いろいろ議論はあるんです。代替案もいくつか出されています。建築家としても、第十堰のあるあのすばらしい景観を守る提案をすべきだと思います。
布野: 長良川河口堰や諫早湾の問題と関係ありますね。僕は出雲の出身で中海干拓の問題は気にしてるんですけど、止められない事情が地方自治体にある。公共事業は全面的に見直すべきだと思います。
新居: 公共建築の発注の問題も実は値は同じなんですね。
布野: 建設業界の問題もある。
新居: 矛盾がはっきりしてきても、見直したり中止にしたりできない。
布野: でも自分たちが生きる地域の問題だ。
新居: そうです。建築家として仕事をして行くのは当然ですが、その前に地域で生きて行くわけですから環境問題に関心を抱くのは当然なんです。ましてや醜い構築物ができる。
布野: 建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。カウンター・プランはどうですか。
新居: 土木のスケールは苦手なんですけどね。河畔林とか水害防備林をつくるとか、段差を少なくしたら、とか議論を開始してるんです。
グローバルに考え、ローカルに行動せよ
布野: 建築家として今後何を目指しますか。
新居: 徳島だけでやろうという気はないんです。よく環境問題で言われているように、シンク・グローバリー、アクト・ローカリー。やっぱりそうかな、と。
布野: 仕事があれば・・。
新居: どこへでも行きますよ。地域を読みとりながら。どうせそんなに仕事ないだろうから、じっくりやりますよ。
布野: 夢としては・・。
新居・ヴァサンティ: インドで仕事したいというのはありますよ。
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