建築計画学批判のためのメモ
布野修司
京都大学大学院工学研究科
生活空間学専攻
0.学が学であり得るためには、それなりの条件が必要である。少なくとも、学の対象とする領域、学の目的が明らかでなければならない。また、その体系性、その方法の固有性、その実践性は常に問われている。建築計画学をめぐって繰り返し、その領域や方法が問われるのは、その根拠がそもそも危ういか、その前提がしばしば見失われているからである。もちろん、学の成立根拠をめぐる前提は固定的に考える必要はない。対象領域や目的をある集団が共有しているかどうか、ある制度的な枠組みにおいてそれが認められているかどうかが本質的である。繰り返し根拠(パラダイム)を問うことは自らの制度の再生産(確認)のためのポーズ(パーフォーマンス)として常に要請されるのである。
1 建築計画学というからには、「建築」あるいは「計画」という行為との関係が常に問われる。ここで建築計画学の関わる領域を、大きく建築の全過程(企画、計画、設計、施工、維持管理)に関わる「広義の建築計画」と「平面計画」を機軸とする、構造計画、設備計画、施工計画等と併置される専門分野としての「狭義の建築計画」とに分けておく必要がある。もちろん、「狭義の建築計画」が「広義の建築計画」を離れて自律的に成立し得ないということを繰り返し確認するためである。
2 「建築計画学」は、「建築」「計画」の過程を論理的に組み立てることを目的(成立根拠)にしている。しかし、その全ての過程を論理的に体系化できるわけではない。建築は一方で社会経済的生産物である。もちろん、単に経済的合理性や工学的合理性あるいは産業的合理性がその論理体系の根拠になるわけではない。誤解を恐れずに言えば、建築計画学は社会体系を支える真の合理性を自らの成立根拠として仮構することで成り立っている。いずれにせよ、建築の生産(計画設計施工)は、社会文化生態力学(Socio-Cultural Eco-Dynamics)において行われるのであって、その力学を論理的に解くことは必ずしも容易ではない。
3 (それ故)建築計画学の出発点(であり帰着点)は常にはフィールド(現場)にあると考える。要するに現場から、「臨池経験」をもとに「建築計画」の方法を組み立てるのが基本である。フィールドはどんな「現場」でもいい。例えば、一日中、小学校に立っている、一日全く何も知らない町を歩く、何が発見できるか、何が組み立てられるか、それが出発点である。現実の様々な現象に多くの矛盾、問題点がある、それをどう解決するのか、実に素朴な原点である。
4 フィールドからどのような方法で何を引き出すのかこそがディシプリンの存在基盤に関わる。建築計画学は、基本的には、「もの」あるいは空間の配列に関わる。すなわち、多様で錯綜する現実から何らかの「計画(設計)言語」を抽出することを目的とする。従って、空間に関わる諸分野とあるディシプリンを共有するが、極めて現実的な生きられた空間、物理的な空間の組立を第一に問題にする点に予め限界と可能性がある。
5 どのような「計画(設計))言語」を抽出(提出)するのかが建築計画学の生命である。建築計画学が予め以上のような限定を前提しているとすれば、抽出された「計画(設計)言語」と現実とのずれは常にチェックされる必要がある。最終的にその生命を評価するのは社会(文化生態力学)である。抽出された「計画(設計)言語」は現実に返されてはじめて意味をもつ。また、建築計画学はこの実践の過程を自らの内に取り込まない限り完結しない。その全体性、体系性は保証されない。
6 建築計画学が最低限果たすべきは、何処まで論理化できて、どこに論理の飛躍があるかを明確にすることである。設計計画のプロセスを透明化することによって、社会(文化生態力学的)に開くことが出来る。
7 トゥールはトゥールであって方法そのものではない。トゥールのみを方法として問題とするのは本末転倒である。調査研究も一個の美しい作品として社会化されるべきである。
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