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産業バラックのエンターテイメント・パーク:科技博の建築をめぐる気乗りしないレポート
建築は主役ではない
科学技術博の建築物について何事かを記すことはいささか気乗りのしないことではある。そこに何か新しい建築の動きを予感させるものがあるわけではなく、これまでの経緯において、その建築的なテーマをめぐって広範な議論がなされたということは建築界において全くないと言っていいからである。その会場施設計画については、当初からあるグループに独占され、建築界全体の問題として問いかけられることはなかったし、実際にもごく一部の大手の組織事務所によって、全くの「実務」として計画の実施が行われたという印象が強い。要するに一部を除いて、全く燃えていないのである。それどころか、参加した建築家にしても、そんなに熱が入っているようにはみえない。七〇年の大阪万博と比べるとき、そのしらじらしさは驚くほどであるといってもいい。具体化された建築物も総じてその二番煎じの感はまぬがれないのである。
できれば無視したいところである。個々の建築物をそれぞれ作品として評価しても始まるまい。そこでは、最早、建築が主役ではないという一点の方が意味をもっているように思える。主役でないものをくどくどと論じても、つくば博の評価には必ずしもつながらない。気乗りがしないわけである。
しかし、だからと言って、そこに建築や都市計画の領域において、問われるべきテーマがなかったというわけではない。人間・居住・環境とその科学技術を全体テーマとすることにおいて、むしろ、建築や都市計画の領域こそが提示すべき問題は多かったはずである。しかし、それは結果として問われなかったといっていい。というより、そうした問いは最初から放棄されてしまったといるかもしれない。そうした問いを放棄した瞬間、建築がはるか背景に退き、単なる催事の容器と化すことはいってみれば必然であったのである。
科学技術博については、その基本構想が明らかにされ、博覧会協会が発足した段階で、いささか不謹慎(?)に、オープンしたばかりの東京ディズニーランドと比較して論じたことがある*[1]。科学技術立国という自前のシナリオの提示を要求される科学技術博と完全なコピーである東京ディズニーランドとの対比を興味深いと思ったのである。国家のイベント、あるいは地域開発の企図とエンターテイメント・パークの企業戦略との対比が具体的に面白いと思ったのである。つくば博がオープンし、実際みてみて、今、私は必ずしもつけ加えることはない。入場退場者数を数えそこなうという科学技術博の名が笑う開幕以来、連日、観客動員の数が報じられる。そして、その観客を当て込んだテナント、企業の悲喜劇が面白おかしく話題とされる。一般の関心は、実際エンターテイメント・パークの人出を話題にすることがごとくである。ちなみに、ゴールデンウィークの人出は、第一位が浜松まつりの二七三万人、科学万博は全国第六位で一一三万人、東京ディズニーランドは五八万人で全国九位であった。ディズニーランドの集客に、もしかすると及ばないのではないかという予想ははずれたのではあるが、問題は数の多い少ないではない。数をいうなら、ディズニーランドも昨年よりもはるかに伸ばしている。ただ、科学技術博をエンターテイメント・パークと同列において対比することがそう間違っていなかったということがいいたいだけである。
また、建築界において、科学技術博についての議論がいっこうに盛り上がらないのを不思議に思いながら、その会場や施設の計画が単なる仕事として行われつつあるのではないかという危惧を記したことがある*[2]。この予感も、また当たっていたといわねばならない。
というわけで、以下は、科学技術博の建築についてのいささか気乗りのしないレポートである。
みえない都市--会場コンセプトの混沌
強烈な未来都市のイメージを少なくとも提示してみせようとした、そして具体的に、お祭り広場と太陽の塔という中心をもち、各部がハイアラーキカルな秩序をもった一つの都市として構想された日本博の会場構成に比べれば、つくば博の会場は明らかに一つの都市のイメージをもっていない。実に希薄である。A、B、G、Fといった各ブロックがただ単に分けられているように一見みえる。実は、曼陀羅の形式なのだというのであるが、そして事実、初期には全く円形の曼陀羅様の会場プランが図式的に提示されているのであるが、決して、コスモロジカルな秩序を読み取ることはできない。
第一に中心がない。中心には、筑波の自然の地形がそのまま残されている。あるいは、中心は政府館(テーマ館)であり、シンボルタワーといるかもしれない。しかし、位置的には端によらされているし、タワーも何ものかを強烈にシンボライズしているのではない。ミラーグラスの政府館・タワーはむしろその透明感において中心の不在をこそシンボライズしているように思えるはずである。むしろ、会場のシンボルと見なされるのはテクノコスモスの大観覧車であり、それが一つの都市というよりも遊園地を連想させるのである。
こうした会場構成が、まずは、つくば博の印象を希薄なものとするのであるが、実は、この中心のない会場構成は、黒川紀章によれば意図されたものであるという。
「大阪の博覧会は真ん中がまさに装置の中心であり、情報の中心であった。その真ん中が今回抜けているというのは、まさにポスト構造主義でいう王の死、中心の喪失の時代、つまり中心のない社会、中心のない都市の時代という雰囲気が、うまく出せたと思います」*[3]
もちろん、こうした黒川の言い方には裏がある。「うまく出せた」のではなく、おのずとそうなったというのが実際である。第一、黒川が最初に提出したのは、民間パビリオンも政府のパビリオンも一体となった会場ワンパビリオン方式である。それを受けてか、当初、「クリマトロン」と呼ぶ環境調整装置の技術的な実現可能性が議論され、パビリオン内で、南極や赤道直下、砂漠や湿地帯といったあらゆる気象条件が演出できる大型ワンパビリオンの構想が検討されるのであるが、それと結果とは全く位相が違う。もし、それが実現していれば、もう少し建築的に論ずることは多かったかもしれない。むしろ、会場構成をとりしきったメタボリズム・グループのかつての主張に照らして、一貫するものとなったはずである。しかし、実際は、国際博覧会の規定や現実の諸条件、特にすぐさま工業団地として利用するため都市計画決定された道路を縫いながら設計するといった条件によって、当初のイメージは後退する。というより消えたといった方がいい。会場構成は、いってみれば妥協の産物である。
各ブロックは槇文彦*[4](A)、菊竹清訓*[5](B)、黒川紀章*[6](G)、大高正人(F)によって設計されるのであるが、そこにはかつての共通の方法であり、思想であったメタボリズムによる都市のイメージはない。Aブロックは広場型、Bブロックはブールバール型、Gブロックは緑側型、Fブロックは仲見世型と呼ぶというのであるが、そこにあるのは部分としての都市のパターンでしかない。彼らは、明らかにはるかに後退したのだといってもよい。はっきりいって、ブロックを分けることによって、仕事を分けあっただけという感もしないではないのである。
会場構成において、都市のイメージが欠如していること、建築家が未来の居住環境のイメージを提出し得なかったことは明らかである。中心を欠如させた会場構成は、意図されたものでは決してなく、むしろ現実の都市そのものの投影である。この脱中心化された会場の風景がいっこうに衝撃力をもたないのは、すでにわれわれの現実そのものだからである。
結果として、今回の科学技術博に参加することを拒否した磯崎新は、すべてが地下に埋められ、地表を筑波おろしが吹く中、ススキと雑草が風になびくだけという案を提出したのだという。日本博でこりたが故の賢明な対応であったのかもしれない。建築的イメージは、まだしも強烈である。しかし、都市は、今、ますますみえないのである。
建築の仮設性--バラックの産業化
つくば博に都市は不在である。そして、建築も不在である。あるのは仮設サーカス小屋であり、現場小屋であり、バラックである。バラックと言うと語弊がある。そこにあるのはバラック建築のもつ根源性とは無縁の代物である。バラックが産業廃棄物によって建てられるとすれば、それは産業主義バラックと呼べるかもしれない。いずれにせよ、バラックを無化するバラックがそこには建ち並んでいる。
玩具箱をひっくり返したようなと形容される、実に多様な形態の各パビリオンではある。しかし、多様な形態にもかかわらず、各パビリオンが一様にテーマとするのが、建築の仮設性である。集英社館のように、鬼面人を驚かす、むしろ、アンチ科学技術をうたう、建築的にはキッチュ*[7]といっていい、必ずしも、仮設性をテーマにしないものもないわけではない。しかし、ほとんどの建築物において、主題とされているのは、仮設的な、組み立て、解体、再利用のためのシステムであり、方法である。
注目すべきものをいくつかみてみよう。例えば歴史館である。歴史館の外装材として使われているのは、コンクリート打設用の既製アルミ型枠のパネルである。各パネル間はD型のガスケットによるドライジョイントであり、解体の容易化が考慮されている。本来、コンクリートの型枠でしかないものをポジティブに用い、解体後、型枠リース業者に売却するという発想はなかなかのものである。菊竹清訓によるBブロックの外国館は、現場で、ボルト組み立てのみでつくられる建築である。外壁パネルは一・二メートル×三・六メートルのアルミサンドイッチパネルで、徹底した軽量化が図られている。九つものパビリオンを手掛け、ほとんど主役の感がある(なぜ、こういう独占的な活躍が可能となったのか。政治的な理由は別にして、そのこと自体が、個性的で多様な表現の背後に一様なテーマの存在を示していよう)黒川紀章のGブロックの外国館も、会期終了後の移設、部材の再利用を前提として、二・四メートルグリッドのストラクチャーにレンガパネルをはめ込むシステムをとっている。構造形式には、いくつかある。しかし、テント構造にしても、吊り構造にしても、二重膜構造にしても、建設、撤去、移動の容易性を考慮して選びとられたものである(それにしても、多少の技術的進歩はあるにせよ、イメージの衝撃力はない。全体に日本博の二番煎じの感をもつのは、それ故にである)。
建築の技術としては、そこではリサイクルを含んだ技術材料、リース技術が主役である。各ブロックは、組み立て、解体、再構築の仮設系の一つのシステムによって支配され、形態やディテールの差異よりも、等質なシステムのみが浮かび上がっているのである。そこにあるのは、徹底した経済的合理性の追求であるといっていい。また、建築の産業化の更なる展開があるといっていい。スクラップ・アンド・ビルドではなく転用・リサイクルをも系とした建築のシステムを可能にする産業社会の成果がそこにはある。
そうした仮設性の追求ということであれば、目新しくも何ともない。現実に、この間一貫して追求されてきたことである。不思議なのは、そうした方向性は、メタボリズムの思想の中に孕まれていたにもかかわらず、その徹底さがみられないことである。その徹底した追求が生み出す均質的な空間のイメージは、確かにわれわれにとって色褪せたものでしかない。しかし、テーマとするのであれば、必然的にそこへ行くつくはずであり、メタボリズムこそがそれを最も先駆的に示したはずである。それにもかかわらず、世界各地の都市や建築のパターンを各ブロックにおいて多様に実現するなどというのはいかにも中途半端なのである。仮設だから永遠性が残る。日本建築は常に仮設であった、仮設性だから日本の博覧会にふさわしいなどと繰り返されるのも、妙にしらじらしいことである。
近代建築批判が顕在化して、今やポスト・モダンの建築が華々しくもとはやされる中で、つくば博の建築を支配したのは、圧倒的な産業主義の論理でしかない。当然といえば、当然なのであるが、どうせ主役ではないのだとしたら、ポスト・モダンの空しい華を咲かせた方が余程、エンターテイメント・パークとしては面白かったに違いないのである。
人間居住環境の不在
しかし、それにしても人間居住環境とその科学技術をテーマとするのにもかかわらず、建築の仮設性なのであろうか。未来の人間居住環境はすべて産業主義バラックによって埋めつくされるというのであればわかりやすい。面白くも何ともないにせよ、圧倒的リアリティをもったことである。しかし、人間・居住・環境というテーマには、そういう方向を否定する、少なくとも修正する響きがある。事実、博覧会の基本理念には、「人口の爆発、核戦争の脅威、自然破壊、公害の地球的規模での広がり、資源とエネルギーの有限性、生活向上へのはてしない人間の欲望、都市の急激な膨張等さまざまな困難な問題に直面している」といった形で、科学技術の発展によって支えられてきた産業社会の影の部分について触れている。東洋の英知の見直しが掲げられるなど脳天気に「人類の進歩と調和」をうたった日本博とは、異なったパラダイムが求められているように一見みえる。しかし、具体的な居住の問題は、結果的には、すっぽりと抜け落ちてしまっている。そのことは、建築にとって決定的なことといっていい。
政府館の展示をみよ。そこにあるのはソーラー・ハウスの模型である。そして、若手建築家の住宅作品のスライドが写されるだけである。馬鹿げた話である。発展途上国の居住問題といった人間居住環境をめぐるクリティカルなテーマにしても、シンポジウムやパネルの展示でお茶をにごす程度の感じである。
何も目くじらをたてるほどのことではないのかもしれない。そもそも、具体的な居住、そして住居の問題などテーマではなかったといっていいからである。人間・居住・環境があらかじめ切り離された上で、それぞれにかかわる科学技術、要するにあらゆる科学技術、なかんずく先端技術のみがテーマなのである。当初、会場全体が住宅展示場になりそうな案がでていてひっくり返ったというのであるが(実現していれば、面白かったであろう)、科学技術立国を至上の課題とする国家プロジェクトとしては、到底泥くい居住問題などを主要なテーマとすることはなかったはずなのである。
会場構成、施設計画に参加した建築家においては、しかし、住居の問題を提示しなかったことは問われていい。しかし、放棄された問いの不在を問うのは空しいことではある。
無視された建築家たち--問われなかった国家のデザイン
ここで列挙する余裕はないのであるが、各パビリオンの設計者のリストをみて気がつくことがある。今、最も刺激的な若い建築家たちの名前がないことである。つくば博の会場設計を牛耳ったのは、先に挙げたメタボリズム・グループの建築家たちであり。大手の設計事務所である。メタボリズム・グループが再結集して結成された連合計画系と大手事務所による設計監理共同企業体系との競争関係は、そのままブロック区分に投影されており、興味深いのであるが、それ以外の多くの建築家の参加はない。丹下健三という首魁によってワンマンコントロールされた日本博とは明らかに異なっているのであるが、そして、万博への参加が踏み絵として問われるということもなかったのであるが、この閉じ方は、今回のつくば博の大きな特徴である。そして、それは現在の建築状況そのままの反映でもある。
仮設とはい、限られた時間に、しかも短時間に建設可能なシステムを提示し、開発することは、それなりの蓄積と組織が必要とされる。そうした意味では、大規模な設計事務所がその任に当たったのは当然といるかもしれない。しかし、大半の建築家が意識的に無関心を装ったのも事実である。若い建築家においては余計そうである。彼らは無視されたのではなく、無視したのだといっていい。彼らは、七〇年の日本博の建築があったという間に風化してしまったことを肌で知っており、それとは全く異なった建築観の模索をこそ課題としてきたといっていいからである。
日本博のとき、メタボリズム・グループの建築家たちは、大半が三〇代であった。一五年後のつくば博において、再び彼らが中心的な役割を果たすことは、ある意味では不幸なことである。一般論としていえば、良かれ悪かれ、経験を次世代へ伝達する機会を奪うということになるからである。そうした事態が起こらなかったことは、しかし、必ずしも問題ではない。はっきりしているのは、つくば博を徹底的に否定的に媒介することによってしか、建築の未来は拓けないということである。つくばに建築的に何も期待できないことが予感されるが故に、多くの建築家は無関心であったにすぎない。つくば博の建築を無視した建築家の方がはるかに健全なのである。
国家をいかに装飾するかという建築家にとって明治以降一貫してきた大テーマは、ここにはすでにない。国家は、最早、建築家など必要としてはいない。必要とされたのは、テクノクラシーを基盤とする建築テクノクラートだけである。国家の様式、国家のデザインを真正面から問いかける、そうした力量をもった建築家が一人でもいたとすれば、このレポートも、もう少しホットなものとなったはずなのである。
*[4] 槇文彦▼まき・ふみひこ▼《1928東京~》◇建築家。東京大学建築学科卒(52)。ハーバード大学等で学ぶ。SOM建築事務所、ジャクソン建築事務所に勤務の後、ワシントン大学、ハーバード大学助教授を経て、65年槙総合計画事務所設立。79~89年東京大学工学部建築学科教授。59年メタボリズム・グループ結成に参画。群造形理論で知られる。「名古屋大学豊田講堂」(62)、「藤沢市秋葉台文化体育館」(84)で日本建築学会賞。「代官山集合住居」(67)、「幕張メッセ」(88)、「SPIRAL」(84)、「京都国立近代美術館」(86)など作品多数。著書に『記憶の継承』(92)などがある。
*[5] 菊竹清訓▼きくたけ・きよのり▼《1928久留米~.》◇建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業(50)。竹中工務店、村野・森建築事務所を経て、53年菊竹建築研究所設立。川添登・黒川紀章・槙文彦・大高正人らと共にメタボリズム・グループを結成。「か・かた・かたち」論、「代謝建築論」など独自の建築論を展開した。「出雲大社庁の舎」(61)で日本建築学会賞受賞。「スカイハウス」(57)、「ホテル東光園」(63)など多くの作品がある。また、「塔状都市」(59)、「海上都市」(60)といった都市プロジェクトも多く、沖縄海洋博覧会(75)において、アクアポリスを実現させた。
*[6] 黒川紀章▼くろかわ・きしょう▼《1934~.名古屋》◇建築家。京都大学工学部建築学科卒(57)。東京大学大学院で丹下健三に師事し、62年より黒川紀章建築都市設計事務所を主催。60年代の日本の建築界をリードしたメタボリズム・グループの旗手として知られる。後に「中銀カプセルタワービル」(72)に実現されるようなカプセル住宅によって構成される未来都市のイメージをいち早く提示した。「広島市現代美術館」(88)で日本建築学会賞受賞。「国立民族学博物館」、「国立文楽劇場」など作品多数。海外の作品も多い。多彩な活動で知られ、『共生の思想』など著書も多数ある。
*[7] キッチュ kitsch 「まがいもの」「不良品」「贋物」「模造品」「粗悪品」といった意味をもつドイツ語。もともとは「かき集める、寄せ集める」という意味であった。一八六〇年代のミュンヘンで使われだしたというが、狭くは「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」ことであった。そして、キッチュという言葉から派生したフェアキッチェンverkitschenという語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」「だまして違った物を売りつける」という意味で使われだす。すなわち、キッチュという言葉には「倫理的にみて不正なもの」「ほんものではないもの」というニュアンスが含まれる。一方、A・A モル(『キッチュの心理学』、法政大学出版会)は、キッチュの概念を拡張し、具体的なものや寄せ集めの形式というより、人が物に対してとる関係のあり方の一パターン、人間の態度、精神、心理のあり方の一タイプを指すとした。「キッチュ」(宮内康・布野修司編『現代建築』 新曜社 一九九三年)参照。