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2024年12月20日金曜日

森田司郎 名誉教授 インタビュー、traverse8, 2007

 森田司郎 名誉教授 インタビュー

 

416日(月),10時~12

吉田キャンパス,旧建築本館,会議室

 

聞き手:古阪秀三,伊勢史郎,大崎 純,石田泰一郎

記録:萩下敬雄 

 

(古阪)traverseで企画しています名誉教授インタビューは,我々が,先生方に当時のお話お伺いするという目的もありますが,昔のことを若い学生に伝えるという意味もあります。桂に移転してしまったので,とくに昔の話を残していくのは貴重です。もう一つは,名誉教授の先生方から今の建築界,京大建築あるいは社会へ苦言を呈していただきたいと考えております。どうぞよろしくお願いします。

 

(伊勢)私は1998年にこちらに来たので,今で10年目ですが,先生が退官されたのは何年前ですか?

 

(森田)私は退官して10年になりますが,10年はすぐですね。伊勢先生とはちょうど入れ替わりです。廊下ですれ違いましたかね。

 

研究室配属の頃

 

(大崎) 大学に入られて研究室に配属された頃のお話をお伺いしたいのですが。

 

(森田)僕は昭和28年入学ですから研究室に配属されたのは昭和31年の春です。しかし,当時の研究室配属というのは今のようなものではなく,きわめてファジーなものでした。どこの所属かも不明確で,強いて言えばここだという感じでしたね。

 

(古阪)その時の学生は何人ぐらいでしたか?

 

(森田)そのときの同級生は30人でした。私はたまたま坂 静雄先生のゼミを選びましたが,そのゼミの学生は3人でした。そのうちの1人は全く出て来なかったので,実質2人です。

 

(古阪)坂先生は,洞竜会(建築系教員の懇親会)で遠目に拝見したのが最初で最後です。

 

(大崎)コンクリート系を選ばれ理由を教えてください。

 

(森田)坂先生は偉い先生ということを聞いて希望しましたが,コンクリートにはあまり興味がありませんでした。(笑)しかし,私の頭では力学はちょっとものにならないというということもあったので…。4回生のゼミでは,坂先生がしょうがないからつきあいましょうという感じで,本を読みました。今でも覚えていますが,フライ・オットー(Frei Otto)のヘンゲンデ・ダッハ(Das hängende Dach)という吊り屋根についてのドイツ語の本でした。コピー機もない頃なので,どうしようかと思っていたのですが,もう一人でてくる同級生の渡辺正彦君はたまたまタイプが上手で,カーボン紙にタイプして,転室でローラーを使ってガリ版で刷りましたね。写真は先生の手許の本をのぞき込みました。

 

(大崎)たまたま横尾義貫先生の学位論文を西澤英和先生からいただいたのでお持ちしましたが,昭和28年のこの論文もガリ版です。その頃は大変手間がかかったのでしょうね。

 

(森田)そうですね。私もそういうような昔の本はよくでてきます。持っていても仕方がないなというような感じのものもあります。増田友也先生の学位論文の縮版とかもありますね。あれもガリ版ですな。

 

(古阪)持っておられて個人的に活用されにくい本は建築の図書室に置いたらいいかもしれませんね。

話を戻しますが,坂先生が活躍されているという理由で研究室を選ばれたということでしたが,その当時でも環境系とか意匠系という大きな区分があったのでしょうか。あるいはそれも関係なく全くファジーだったということですか?

 

(森田)そうですね。僕らの仲間でも誰が何研究室かということは知らなかったです。今のような縦割りのようなゼミという単位はなかったですね。“京大建築の学生は何でも出来るように教育してある”と森田慶一先生が就職先の重役に言ってくれたことをその学生が聞いて発奮したということもあります。

 

(大崎)京大建築では実務に直接関連することを教えなくて,企業に入って現場で一から教育を受けるという感じですが,当時からそうでしたか?

 

(森田)そうでしたね。実務は社会に出てから覚えるからという感じでした。社会に出たら,京都大学を卒業したということで,何でもがんばろうという意識があったと思います。大学院を卒業すると,知らないとは言えないので,社会にでてから一生懸命勉強するでしょう。例えば,坂研究室で全然出席しなかった同級生は,就職してから勉強して頑張って,後に準大手ゼネコンの社長になっています。“エーあの人が社長に”と坂先生の奥さんが心配していました。

 

(古阪)同級生には、建築生産の非常勤講師をしていただいた徳永義文さんがおられますね。

 

(森田)僕らの同期は多彩です。黒川紀章も同期ですし,みんなそれぞれ多彩に活躍しています。今でも5年に一度は会いますね。亡くなった名古屋大の坂本 順も同期です。

(大崎)その後,大学院に進学されて,研究者になろうと思われた動機を教えてください。

 

(森田)僕らが就職するころは昭和32年頃ですが,すごい不況期でした。学部卒業で大手ゼネコンに入ったら,皆で万歳して喜ぶような状況でした。学部から大手ゼネコンに行くのは,数人じゃなかったかと思います。就職が難しかったので,執行猶予型で大学院に進学しました。だから僕らの同期では修士に進んだのが異例に多かったですね。30人中10人以上進学しました。

 

(大崎)定員は曖昧でしたか?

 

(森田)曖昧でしたね。学部の成績があるレベル以上ならば無試験という制度がありましたが,試験を受ければ大体合格という感じでした。

 

(大崎)今でいうところの博士課程のようなものですね。

 

(森田)そうですね。配属されてからも,今みたいに,ソフト面でもでもハード面でも,先生が一生懸命世話してくれるということはありませんでした。机もボロボロのドロまみれの物が1個与えられるだけという感じでしたその机をきれいにして,机を集めてピンポンをして遊んでいたかな(笑)。川崎清先輩もその一人だった。

 

修士課程の頃(東別館)

 

(伊勢)学生のころは東別館におられたとおっしゃいましたが,その時の雰囲気を教えてください。研究室の枠がなかったとお伺いしたのですが,そのとき仲間とどのように過ごされましたか? 例えば東別館にどのような人がいて‥。

 

(森田)東別館の2階の部屋に構造のグループがおりました。修士の学生だけがいましたので,5,6人でしょうか。別の部屋に計画系,環境系が居たのかな。スチールサッシが閉まらない,開かないという状態でした。今の新館が建っている場所に,一階がRCで二階が木造の製図室というボロ校舎があって,そこにドクターコースとか研究員がごろついていました。そこでもゼミという単位はありませんでしたね。

 

(伊勢)今の桂キャンパスではゼミが細分割されていて,研究室の間ではコミュニケーションがとりにくい状況です。机もきれいで良い研究環境や実験環境が与えられているのですが,学生同士のコミュニケーションがないことの影響を心配しています。

 

(森田)勉強する部屋を一緒にするというような物理的な対処法でも解決できると思います。私の学生時代は,他の学生の実験を手伝いに行ったりしました。手伝いに行っているのにぼろくそに怒られて,何で怒られないといけないの,というようなこともありましたね。

 

(大崎)今では不可能に近いですね。

 

(古阪)専門分化が進んで,各分野の先生も研究室単位の運営を良しとされているのでしょうね。今の桂キャンパスの部屋配置についても,大部屋にするか,今のような設計にするかまさに自由だったのですが,結局伝統的な配置になりました。だから変わらないのでしょう。最も我々に発言の機会はありませんでしたが。森田先生がおっしゃられるような,ワークペースを一緒にするとうのは,いくつか環境系でやっているのではないですか。

 

(伊勢)環境系も建築学専攻と都市環境工学専攻に分化していて,交流が難しいですよ。

 

(森田)大体,日本人はそのへんが下手ですね。私が現役の時でもそういう感覚がありました。オープンマインドに行きたいけどなかなかできないというのはありましたね。

 

静雄先生

 

(古阪)話を大昔に戻しますが,先生が修士のときは,上に六車 煕先生や金夛 潔先生がおられたのですね。

 

(森田)そうですね。しかし,学部のときは坂先生1人に指導していただきました。修士のころの構造系のメンバーは,坂本 順とか竹中の久徳,近大の中田啓一とかです。

 

(古阪)いま名前が挙がったメンバーは全員坂先生の指導を受けていたのですか?

 

(森田)いえ,横尾義貫先生や棚橋 諒先生も指導されていたと思いますが,みんな指導してくれない先生ばかりでした。(笑)

 

(森田)だけど,それぞれ,修士論文というものは書きました。修士2年の夏休みになっても坂先生は何も言わないので,研究テーマを催促しに行きました。坂先生は,実験をやってもらうとお金がかかるし困る‥何をしてもらおうかな‥などとおっしゃっていましたね(笑)。

 

(大崎)坂先生はお金を持っておられたのではないですか(笑)?

 

(森田)校費としてはそうですね。結局,研究費のついたプロジェクトの手伝いをして,園データを使って自己流に修士論文を書きました。その結果,私はその研究には非常に貢献することになったと思います。一生懸命やりましたからね。

 

(古阪)坂先生がRC構造の本を書かれたのはそのころですか? 非常に分かりやすい本で今でも覚えています。

 

(森田)学部の時は,坂先生の書かれた「鉄筋コンクリート学教程」という本が教科書で,授業では,その本の数10頁の部分に関して何か質問があるかと聞かれ,学生は全員うつむいて黙っていましたね。すると,“来週は5080頁まで勉強して下さい。今日はこれで終了。”

 

(大崎)坂先生は非常に厳しい先生で,学部の最初の講義で何か質問はあるかと聞いて,5分間質問がないと講義を終わり,その次の講義も5分間質問がなければ終わりというようなことをされて,これではいけないと学生が3回目の講義で質問をすると丁寧に説明をされたというお話を聞きましたが,そのようなことは実際にありましたか?

 

(森田)いえいえ,私は丁寧に説明された経験は全くありません。誰かが質問すると,それはミスプリです。あなたたちが質問しないのは,外国の本を読まないからですというようなことを言われていましたね。学生には外国の本を読む動機がありませんでしたけど。

 

(大崎)その時はドイツ語の本を翻訳するのが研究として残っていたときですね。

 

(石田)5分間黙っていた学生は,教科書を勉強してすでに理解しいたということですか?

 

(森田)そうですね。読んでいたら難しいこと書いていないですが,あの講義は5分うつむいて,黙っていればよかったのですよ(笑)。

 

(石田)今そんなことをしたら授業評価等で大変なことになりますね。最悪の場合は,学生の親に怒られますよ。でも,それで教育が成立していたのなら良いのかもしれませんね。

 

(森田)そうですね。それから,試験のときは,わりと監督が機能していませんでしたね。前後左右を参照しながら受けました。ただし,同じことを書くとバツにされました。“見ても良いけど,同じことを書くな”というような学生間の自主性もありましたね。

 

修士課程の修了後

 

(大崎)修士課程修了の後はどうされましたか?

 

(森田)昭和34年に修了しました。修了後は構造設計をしようと思い,将来は,自営してやろうと思っていました。そこで,教室主任の前田敏男先生に東畑謙三先生の設計事務所を紹介されて就職しました。その頃は,教室主任は毎年,前田先生でした。一番若い教授だったからですが。

 

(大崎)それからしばらく勤められたのですか?

 

(森田)1年2か月働いて,助手として京都大学に戻ってきました。東畑先生の所に行ったのは良かったのですが,京大の大学院を卒業したのなら構造は何でも知っているのだろうということで,何から何までやらされました。寝る時以外は仕事していたという感じだったので,かなり痩せ細って,親が心配していましたね。これはしんどいという時に,六車先生から大学に戻るお話を頂きました。大学も人手不足だったのでしょう。

 

(大崎)その頃から少しずつ学生が増えていったのですか?

 

(森田)そうですね。漸増していきました。設計事務所ではしんどくてたまらんので大学に戻って楽をしようと思っていたら,案の上,楽でしたけど‥。逆に何もやるノルマがなくて,何をするか探すのには苦労しましたけどね。

 

(大崎)助教授になられたのは?

 

(森田)35年に助手として戻ってきて,36年に講師になりました。人手不足で講義を手伝わないといけなかったからだと思います。実質は構造材料の講義と実験の補助をしていました。記憶が確かではありませんが,中村恒善さんはアメリカから戻ってきて立命館におられ,その当時は力学を教える専任の教官がいなくて,私が力学の講義の一部をしたかもしれません。

 

講義と研究

 

(大崎)その後,材料学講座に移られて,建築材料の研究をされたのですね?

 

(森田)建築材料の講義はずっと非常勤講師のお任せになっていました。研究は私の材料ではなくRCとか構造材料でした。建築材料は,教育対象としても研究対象としても難しいです。材料の講座が建築学科に昭和40年頃できたのですが,担当教官は空席続きでよかったですね。その後,私自身は第2学科に移ったりしたと思いますが,昭和54年,残念ながら,私には建築材料の研究をした実感も実績もありません。昭和39年頃に建築材料学講座が増設されていますが,それ以前も以後も建築材料の講義は非常勤講師にお願いするのが教室の方針でした。材料の講座は担当教官が実質不在のままという良き時代が続いています。昭和53年に私が材料講座担当教授にしていただきました。その間の所属は不確かですが,実質は六車先生のところの助教授の役割で,RCの研究をしていました。講座担任の教授が建築材料の講義をしないわけにはいきませんので,担当しますが,最初の5年ぐらいは,一般材料はゼネコンや事務所の方々に非公式に講義を分担してもらいました。さぞ迷惑だったろうと思いますが,皆さん見本を会社から持参して熱心に協力下さいました。こんな無理も続けられないので,教科書を共著で書いて,それを使って自前で講義をしたのは停年の10数年前からとなります。建築材料全般について教育対象にするのも,研究対象にるすのも非常に難しいことだと思います。

 

(大崎)材料の研究は,最近では先端的な研究になってきていますね。以前は古典的な分野でしたが。

 

(森田)一部についてはそうですね。昔は与えられた材料をうまく使う側の立場でしたが。今は作るという立場,うまく組み合わせて新しい性能を創るという立場も少しずつ増えてきています。

 

(大崎)教育と研究,そして,社会的役割とのギャップについてお話していただけますか?教育についてはどのように考えておられましたか?

 

(森田)教育では建築材料,ガラスとか,ビギナーに幅広く教えないといけない。しかし,研究はRCをやっていました。それをうまく住み分けしなくてもよい立場の先生を非常に羨ましく思っておりました。しかし,それで給料をもらっているのでしかたがないと割り切って,精一杯講義をやっていました。

京都大学以外の先生は私が建築材料を教えているということに驚いていたみたいですね。東京大学ではその辺の区分,住み分けが厳密だったと思います。例えば,武藤・青山研究室では,RCはやってもコンクリートはやらない。浜田・岸谷研究室では,コンクリートをやるけれど,RCはやらないとかですね。それが関東系列大学の住み分けの手本になっている。隣の家とは垣根越しにはケンカしない。関西系ではこの垣根がない坂先生の考え方が影響していると思います。RCを研究するには,これに関するコンクリートの性質の研究が必要だと云う立場でしょう。それが伝統としてずっと今でも続いているようです。

東大の建築の外部評価委員をやったとき,皮肉交じりに明治時代の縦割りが現在までずっと続いている東京大学と書いたら,東大の教室主任の鈴木先生は批判とは受け取らず,誇らしげに報告書に書いていました。

 

(大崎)構造ではその垣根がなくなる傾向にありますね。鉄骨の先生が解析をしたり,防災の先生が鉄骨をしたりということがあります。

 

(森田)講座数も増えたからでしょうが,やはり本家があり,弟子はここにいてというのもあって,研究の対象は変遷しても,考え方の伝統は脈々と受け継がれているのが良いのではないかと思います。

 

坂記念館

 

(古阪)坂記念館は今では幽霊屋敷みたいになっていますが,その設立の背景等をお教えて頂けませんか?

 

(森田)坂記念館ができるまでは,坂先生が図面を引いて建てた工学部全体の実験施設(工学研究所)を使っていました。坂先生が退官されるときの記念として,実験室をつくろう,しかも大型のものを,実験できるものを作ろうということで,六車先生が中心となって寄付を募って造られたがPC構造の坂記念館です。予算は1000万円前後だったかな。文部省の出資ではないです。

 

(古阪)坂先生が退官される前に記念館はできあがっていたのですか?

 

(森田)どうでしょうか。昭和35年には完成していましたね。

 

(伊勢)坂記念館2階を音響実験室として利用しています。

 

(森田)あそこの2階は,もともと昔は坂先生の部屋だったのですよ。

 

(伊勢)それで使いにくいのですかね(笑)。

 

(石田)建物は寄付で建設することができるとしても,今では,スペース(配置)の問題で大学構内に簡単に建物を建てるのが難しいです。

 

(森田)当時は,そういうことは難題ではなかったのでしょう。昔は場所がかなり空いていましたから。

 

(伊勢)その時の風景は良かったでしょうね。

 

(森田)昔はテリトリーが漠然としていましたね。だから,坂記念館はどこに建てても良かった。その時の風景は牧歌的で良かったですよ。テニスコートがあってね。計算機センターもなかったし。

 

(石田)そのころの写真は今では貴重ですね。

 

総合試験所

 

(古阪)日本建築総合試験所の設立趣旨について,若い人に伝えるためにお伺いしたいのですが?

 

(森田)建設省の建築研究所が東京にありましたが,関西で実験をしたい思った時に,そこまで行くのは遠いので,関西でも大規模実験ができる施設を作ろうということで日本建築総合試験所が設立されました。官庁や建設業,建築材料メーカー,建築事務所など広範囲からの基金で設立した財団法人で,建設省の認可法人としてスタートしました。その後は,通産省の所轄法人としても機能しました。

 

(古阪)建築センターの関西版とも言われているようですが?

 

(森田)そういう役割も期待されていたようですが,非常に制限されていました。建築センターが独占的に認定等の事業ができるようにと言うことでしょうか。個人名は言えませんが,建設省の高官だった元理事長がそういう方針を鮮明に貫かれました。

 

(大崎)日本建築総合試験所の最初の理事長はどなたですか?

 

(森田)設立の経過をよく表わしていて,日本板硝子の社長さんが非常勤として初代理事長に就任されました。坂先生が所長で,東畑事務所の東畑謙三さん,日建設計の塚本さんなどの財界の人が副理事長に就任されていました。その次に,坂先生が理事長を継がれたのですけど,その当時から,建設省の天下りの受け皿になれという圧力が非常にあったそうです。そのような口を挟ませないために前田先生が坂先生の次を引き受けられたようですね。それは,ポリシーとして良かったのではないでしょうか。私で6代目ですが,この10年間ぐらいに事業内容が多彩になって,現在は構造計算適合性判定機関というのを立ち上げなければならないので,苦労しています。

 

(大崎)材料の認定よりも最近は構造の評価の比重が大きくなっているということですか?

 

(森田)設立のときは100パーセント試験機関で,私が入るまではまだそうだったのです。それからいろいろ,古阪先生にも手伝ってもらって,ISO9000認証,JIS製品認証,建設基準法に基づく性能評価,確認検査,などの事業を行っています。全事業収入の30%はこれらの諸事業によっています。適合性判定機関をやるとその比率がさらに上がってきますね。

 

(大崎)適合性判定機関についてはどのようにお考えですか? ピアチェックとか性能判定法を実際に規定するとか…

 

(森田)かなり私は批判的ですね。今年の620日に施行ですから,今となってはそんなことを言える立場ではないですけど。スムーズに進まないと建築活動自体に支障をきたしますが,上手く機能するかどうか心配です。

この時期にこういうことにしないと社会に対してエクスキューズができないという焦りが国交省にあったのでしょうね。法令違反が生じないように,細かい規制が行われます。法律自体に品格がないです。細かな実験式が法律の中にでてくるのは品格がない。そういう奇麗ごとばかりも言えませんけどね。

 

(古阪)構造ばかりでなくて,環境工学とか,ベンチレーションとかにもそのような規定が増えたようです。

 

(大崎)学会のほとんどの先生方が法律には式を書かないで,適切な方法で性能を検定するということだけで良いじゃないかと言っておられます。

 

(森田)そうですね。しかし,実際,適切ということを誰が判断するのかということについて国が非常に心配なのでしょう。

 

(大崎)それは,建築技術者が信用されていないということでしょうか。あるいは人材不足ということでしょうか?

 

(森田)構造設計,建築技術者そのものが社会的に信頼されていないというように国交省が理解しているのでしょうね。そのような理解を否定できない現実があるのも事実です。

 

(古阪)国交省だけではないと思います。私の理解では構造設計者だけでなく,建築士が信用されていなようです。構造や環境の先生はあまり表に出ていないですからね。建築士に対する信頼感がないのでしょう。

 

(森田)そうですね。全く信頼感がないのでしょう。建築士のリーダーたち自体も特権を守るためだけに躍起になっている感じがします。職能団体として機能していないですね。自分の既得権益ばかりを狭々と守ろうとしている。

 

(古阪)しかし,行政が分からなかった事も事実です。構造設計の報酬の基準がなかったことも原因ですし,誰もその決め方を知らない。構造設計の職能に関するその視点もずいぶん変わってきていますが,今回の基準法改正での第三者のダブルチェックは明らかにエクスキューズのためであり,本当に急ぎすぎた法改正だと思います。私は,逆に動かない方が良かったのではないかと思います。法改正ではなく,法律の下の規則の部分でやるべきでした。

 

環境系について

 

(伊勢)私の専門は音で,石田先生の専門は光ですが,森田先生が学生の時に環境系という区分は存在していましたか?

 

(森田)私が学生の時は,少なくとも前田先生が全部やっておられたですね。それから,松浦先生が初めての講義をおずおずとされたことを記憶しています。あっちで光って,こっちに光が反射して,それからあちらに反射してという…相互反射理論というのを説明して頂いたのですが,ご自分でも分かっていらっしゃらなかったのかもしれません。あれが今でいう環境系の初めての講義でしたね。

 

(伊勢)環境系ができるための社会的なニーズのようなものがあったのですか? なぜ新しい系ができたのですか?

 

(森田)それまではいわゆるアーキテクトの素養・常識としての建築設備であり,技術だったのでしょうね。この教室でも,例えば藤井厚二先生は,自然換気等について自分で家を建てて実験するぐらいの強い興味を持っておられたと聞いています。照明や音はアーキテクトの理解しておくべき技術の一部という位置づけだったのでしょう。それでは限界があるので専門のフィールドをくらないといけないということで,昭和10年頃に渡辺要先生がそういうフィールドをまとめられたのでしょう。前田先生が満州で冷暖房とか換気とかの基礎工学を独創的にやられて,そこから京都大学に環境系ができたのでしょうね。

前田先生環境系の各分野に非常に影響力がありましたね。開祖者と言われるような研究をされたのではないでしょうか。有名な逸話がありまして,プロフェッサーアーキテクトがカジュアルな服装で建築学会にくるわけです。それが前田先生の神経にふれて,掴み合いの喧嘩になって,それを坪井善勝先生がとめたという話があります。これは,伝説になっていますね。

ちょっと話がそれましたが,つまり,アーキテクトが工学の基盤がないまま経験的に光や音や熱に対する設計をやるのは限界があるということで,環境系ができたのでしょうね。

 

(大崎)その頃は,環境系に細分類はなかったのですね。

 

(森田)そうですね。その当時は建築設備と言ったのですけど,環境のそれぞれの先生に得意分野はありましたが,全部カバーしていたのでしょうね。

 

(伊勢)最初に環境系を発足させた時の思想と実際の今の状態はかなりずれがあると思います。環境が設計のなかで大切だということは分かるのですが,今のゼネコンのように細分化された設備の設計フィールドをみると,環境全体を見通せる状態ではないようになっていると思います。

 

(森田)環境とおっしゃてるのは,建築物内の環境という狭い意味での環境ですか?

 

(伊勢)そうです。建物ができた後の環境のことですが,人の生活を統合的に考えた環境ではなく,個々の設備の話になっています。そのずれをどうすれば修正できると思われますか?

 

(森田)現在,建築基準法改正で,一級建築士のステータスを上げる工夫として,特定構造一級建築士ならびに特定設備一級建築士というのを立ち上げようとしています。しかし,その対象者をどうするかという問題があります。特に、設備に関しては,実際に設計しているのは,建築の卒業生ではなくて,電気や機械の卒業生ですね。しかし,その中で,設備を専門とするスペシャリストの位置づけをする時に,一級建築士を持っている設備設計者が少ないので,位置付けをしにくいと思います。設備設計の方法を再構築するのは難しいです。大学でも分化と統合のバランスを考えられると良いですね。

 

(大崎)構造ならばある程度全体を理解できます。鉄骨をやっている人もRCのことは大体分かる。でも,環境系で熱・音・光となると恐らくお互いのことは分からないのでしょう。別の問題として,論文を書こうとなると技術的なことになって,人間の話はしないですよね。だから,概念的なことは論文ではなく建築雑誌等に書いてもらわないといけないのではないでしょうか?

 

(伊勢)そうですね。環境系ができた時の最初の前田先生,松浦先生の時代での,環境設計士とでも言うのかな。熱や光や音の再分化された知識を知っているということではなく,環境設計の統合的な人間を中心にして建物をどう作るかという視点で教育できるとよいですね。

 

(森田)例えば,環境系のビギナーにとっては,建築の中の環境の様々な要素がどのように人間と関わっているか,建物の性能に設備がどう関係するかというのがトータルとして,なかなか,分かりにくいのでしょうね。構造ならば,柱があって,梁があって,実物の建物と直接的に関係しているので分かりやすい。設備は隠れている部分が多いですね。それをビジュアルに説明するような努力を,特に学生・ビギナーにされるのがよいと思います。興味を持たすには良いかもしれません。

例えば,総合試験所ではいろいろな分野の実験をやりますが,そのなかで見学の学生に何が一番面白いかと聞くと。風洞実験が面白いといいますね。なぜかと聞くと,結局,そこには,梅田地区の模型や都庁の模型があり,建築と直接関わっていると感じることができるからという理由だけです。やっている内容はセンサーつけて風圧を測って,それを表現するだけなのですが,模型が,風洞のなかで回るのを見るだけで親しみを覚えるのですね。環境系でも設備が建物の性能にどう影響しているのかを教えることが必要だと思います。そのような教育方法を研究的に取り上げて,それを開発して頂きたい。そうすれば学生にも興味が伝わるでしょうね。

 

京大建築への期待

 

(大崎)話題を教育に移して,大学院教育について,苦言を呈して頂きたいのですが? 最近の傾向は,国の方針として,学生に丁寧に指導するということになっていますね。

 

(森田)そうですか。先生方が大変だと思います。我々は研究成果を揚げないと大学の教官としては,存在感がないと思っていました。今は教育ということが厳しくなっているのでしょうね。

 

(古阪)いえ,教育についての思想は10年前とそれほど変わっていないと思います。私自身の主観ですが,教育を雑用的にやっているという感じがしますね。大学当局が言う教育と我々の言う教育とはかなり違っています。やはり,教員の評価は研究にあり,教育にはありません。少し評価方法を変えようという動きはありますが,それでもあまり変わっていないと思います。

 

(森田)教育を評価する視点が明確になっていなければそういうことになるでしょうね。私が現役のころは,力学とか基本的なことは垣根をつくって狭い範囲でやっているという感じがしました。これからは色々な分野の総合が必要だと言われていますが,総合するためには,それに向かった秩序立った教育が身についていないと実現できないと思います。アメリカの先生と比べると,僕らは少しごまかしていたという気がします。特に,建築は範囲が広いのでどういう範囲までを統合して教育をすればよいのかということは難しいでしょうね。

 

(大崎)もうそろそろ時間が少なくなってきていますので,今後の京大建築への期待をお聞かせください。

 

(森田)桂キャンパスができて,少なくとも入れ物としてはどこに出しても恥ずかしくないものができたと思うのですが,研究や教育にどう活用するのかということが問題ですね。皆さんかなり大変でしょうが,あの施設をフルに活用するにはいろいろと難しいことがあるということは想像できます。例えば,今日はここ(吉田でのこの会議)が終わるとあっちに戻らないといけないというようなこともネックですし,焦らずにやってください。

例えば,外国の大学の先生が日本に来たら,日本の大学は訪問してもつまらないというのですね。あまり施設もないし。人と会うだけなら大学の外で良いし。でも,桂キャンパスをフルに機能させたらそれは結構魅力的です。日本に来たら京大に行こうということになれば良いですね。

 

(大崎)京大の学生に期待されることはありますか?どのような人材がほしいとかいうことはありますか?

 

(森田)応用が利くというか,クリエイティブにやれるような人間が欲しいですね。この人がこの分野では最先端に成長するというような核になれる人材が求められるのではないかと思います。皆が核になっても困りますかな。

 

(石田)社会に出てから最先端に到達できるということでね。大学を出た時点では最先端までは行けないにしても,その行き方を知っているということですね。

 

(森田)そうですね。これは大学の中だけではどうにもならないでしょう。人材はあまり凝り固まらない人がよいです。先生の人間性も影響しますが,結局,まずは人の意見をよく聞くということですね。

 

横尾先生

 

(大崎)もしよろしければ,お亡くなりになられた横尾先生の思い出を教えて頂きたいのですが。

 

(森田)横尾先生は非常に柔軟性のある先生でした。横尾先生には,私の学位論文の公聴会に出席して頂いて,意見を云っていただいて,その後の研究をそちらの方向に変えたということがありました。その時私の研究はモノトニックローディングの世界だけでしたが,復元力特性に関するご意見を頂いて,その方向に発展させたら,有限要素法の解析で実際の現象に即したモデルを皆が欲しがっていたので,とてもタイムリーな研究になりました。横尾先生には,タイムリーに様々な刺激を与えていただいたと感謝しております。

そのほかには,時々横尾先生が突然,研究室に入ってこられて,通常は考えないようなことを不意に聞かれて,答えに窮して,今度お会いする時までに答えられるようにしておかないと思い,答えを用意しておくと,質問されたことを忘れておられるようなことがしばしばありましたね。横尾先生は非常に頭の回転が速く,柔軟なものの考え方をされる先生でした。

 

(大崎)そろそろお時間のようですので,これで終わりにさせて頂きます。ありがとうございます。

2024年11月17日日曜日

「デザインに無秩序を・・・建築行為の原初を問う われわれは崩れるものを創っているのだという自覚」,吉武泰水名誉会員に聞く,聞き手 鈴木成文 神戸芸術工科大学学長,建築物および都市の安全性・環境保全を目指したパラダイムの視座(座長 横尾義貫 分担執筆),日本建築学会 特別研究課題検討会,1999年3月

 特別研究課題・連載シリーズ 9

「デザインに無秩序を・・・建築行為の原初を問う われわれは崩れるものを創っているのだという自覚」

吉武泰水名誉会員に聞く

 

聞き手

鈴木成文 神戸芸術工科大学学長

 

 建物を壊すということ・・・強制疎開の苦い思い出

 鈴木 関東大震災、戦災、今回の阪神・淡路大震災と経験されましたが、その経験を通じてお感じになっていることからうかがいましょうか。それともつい最近大手術をされました。その経験をまずお伺いしましょうか。

 吉武 手術のことは最後にしましょう。今日お話ししようとすることの結論にとても関係するんです。

 関東大震災は、小学校1年で、新宿の落合にいました。できたばかりの家に入ってまもなくでした。遊んでいたら道が振動して、小石を吹き上げた。物音とほこりがすごかった記憶があります。竹薮が安全だというので、庭の竹薮にしばらくいました。近所に4家族がいて、共同の避難所ということで、その日の夕方から、何日間か過ごしました。もともと大分から東京に移ってきて、4軒一緒に隣り合わせで住んでいました。血縁と地縁、近い関係のものばかりの共同生活でした。隣人たちがいて随分助かったわけです。

 戦災はこの家で遭いました。5月23日(1945)の大空襲で、裏側の関東逓信病院、逓信省の木造倉庫に焼夷弾がたくさん落ちました。夜中の9時か10時頃です。延焼を消し止めたんです。火災実験をやったり、風の流れを調べたのが、すごく役に立ちました。

 鈴木 火災実験は内田祥三先生ですね。

 吉武 木造の家を燃やして観察したら、常に屋根に沿って火は流れる。その観察が役に立ちました。それと思い出すのは強制疎開ですね。家を引っ張って壊すのですが、いやなものです。建物が抵抗するんです。木造家屋はずいぶん丈夫にできているものだと思いました。

 鈴木 私もやりました。柱を引っ張っても、なかなか壊れない。

 吉武 壁を落としたりしてむりやり壊す。より大事なものを守るためのという大義名分があっても、やるべきことじゃない。

 

 石を立てる・・・建築の原初的なかたち

 鈴木 基本的な災害のとらえ方、考え方をまずお聞きしたい。災害にどう対処するかは、上に立つ人の決断が大事だと思います。阪神・淡路大震災では、危機管理、対応のまずさはひどかった。しかし、普段からの災害に対する基本的な考え方の問題がありますね。先生は、ノアの箱舟の話、バベルの塔の話などを通じて、文化史的に、あるいは文明論的に災害を考えておられるわけですが、その辺をご披露願えますか。

 吉武 まず、ヤコブの話があります。ヤコブはカナンの地を北上してきて、途中で野宿します。石を枕に夢を見た。階段があって、神の使いたちが上り下りしている。そこで神の声を聞く。ここは天への門だというので、ヤコブは眠りから覚め、いままで寝ていた石を立てて、そこに油を注いで、祭壇をつくる。そのとき階段は天と地、神と人をつなぐわけです。おじいさんのアブラハムは何百歳も年が上ですが、エジプトの行きと帰り、同じ場所に泊まってそこに祭壇をつくっていた。本人は知らずに、あとから気づきます。いまも昔もかわらず、人と神の特別な場所があるということです。

 もう一つ大事なことがあります。寝てる石は安定していますが、石を立てるということは、安定ではあるけれども、より不安定になります。旧約聖書では、立てるという行為が、非常に重要に扱われる。その部分が聖堂などの献堂式の時に引用されます。そのエピソードはそれだけ重要視されているわけです。

 横たわっているものを立てるということは、建築の原初的なかたちです。安定状態から、もう一つのより不安定な安定状態、セカンダリーな安定状態にしていくこと、それが建築行為の基本です。およそ建築は、もともとの完全な安定状態よりは、より低い安定状態に置かれているものだから、ことがあれば崩壊するのはごくあたりまえのことです。常に崩壊の可能性を持っているのが建築なんです。

 

 ノアの箱舟とバベルの塔

 吉武 ノアの箱舟は自然災害の話ですね。雨が猛烈に降って洪水になる。ノアは命じられたとおりの箱舟をつくってその中に食べ物を入れる。そして、自分の家族と動物を一つがいずつ乗せる。食べ物は個体の生存、つがいは世代の生存、この二つの生存に必要なものを乗せることを神が命じた。それしか書いていません。

 箱舟の大きさはだいたい建築物と同じ大きさです。約 150メートル、幅が25メートル、高さが15メートルで3階建てです。よく箱舟の絵がありますが、建物みたいに描かれていて大変おもしろい。要するに大きな建造物で、木造です。自然材料でつくって、自然災害を受ける。雨によって水かさを増してくると、地面を離れて水面を漂う。漂うということが、自然災害に対処する仕掛けになっています。

 それと対比されるのがバベルの塔の話です。対になっています。バベルの塔は完全に人為的工作物です。つまり工業製品。石の代わりにレンガ、漆喰の代わりにアスファルトを使いました。完全な工業製品で、無限のものをつくる。神はそれを見て、人間はなんでもできる、しかし放ってもおけないというので、それをやめさせる。

 やめさせる方法は、地震を起こして壊したのではなく、ただ言葉を乱しただけです。それまで大地は一つの言葉で、人がみんな集まってきて天まで届くような高い塔をつくろうとした。みんなで声をかけ合って集まってきてやり始めた仕事が、言葉を乱されてコミュニケーションができなくなって挫折した。工業生産時代の社会的災害ということが、ノアに完全に対比されます。

 もう一つ大事なことは分散と言うことです。人間は集まろうとする。神はそれを全地の表に散らす。全地というのは世界で、世界に散らされる。要するに集中か分散かという問題にも関わる示唆があるわけです。

 

 六大災厄・・・都市には住めない。

 鈴木 日本については、『方丈記』に、災害についてのさまざまな対応が読めますね。

 吉武 『方丈記』はずいぶん長く調べました。京都にもたびたびうかがって、方丈庵の跡地を見たりしました。テキストの方丈庵と実際の方丈庵の建てられた場所の印象はずいぶん違う。現地を見て初めて、鴨長明が何を考えたかがはっきりしてきました。

 鈴木 私も現地に一緒に行きましたけれど、日野の法界寺の奥山ですね。

 吉武 親鸞の生誕の地もそこです。『方丈記』の前編は、五大災害について書いている。安元の大火、治承の旋風、福原遷都。神戸のど真ん中に平清盛が遷都をする、遷都が災害だという。それから養和の飢饉、、元暦の大地震。地震と火災、旋風と飢饉は災害でしょうが、遷都が入っているのはおもしろい。彼は遷都を「大変迷惑な話だ」と言います。

 おかしいのは戦災が入っていないことです。彼は保元・平治の乱は味わっている。当然戦災を書いていなくてはいけないのに、一言も書いていない。意識的だと思います。つまり平家と源氏はどちらがどちらになるかわからない。うっかり書くと、世の中が変わったときに大変なことになる。誰も指摘していませんが、おもしろいと思います。

 もう一つ、前編の最後のところに一つだけあいまいなところがあります。世の中に住む悩みという表題です。都市に住んでいると、隣に偉い人が住んでいれば安らかではないし、泥棒が心配だし、火災の類焼が心配だ。都市にいてもおちおちしていられない。隣にへつらったり、隣を脅したりと近隣関係、相隣関係の問題がある。都市の危険性に対して落ち着かなくて仕方がないと言う。どうしたらいいんだというようなことで文章が終わります。

 国文学の人は五大災厄と言って、別扱いにしていますが、僕は六つ目の課題を言っていると思います。彼は災厄という言葉は、一つも使っていない。しかし、僕は六つと読むべきものだと思います。つまり、彼は都市には住めないと言っている。

 

 場所を選ぶ

 吉武 彼は生まれた家が下鴨神社で、おばあさんの家がたぶん糺の森の近くにあった。彼が意識して移るのは賀茂の川原で、これは前の家の10分の1です。それから大原にしばらく住みますが、およそ賀茂川のところを、行ったり来たりしている。最後の日野が2番目の家の100分の1、最初の家の1000分の1、それが方丈ですから、もとは2200坪ということになります。考えてみれば、家の子郎党、厩とかみんな入れたら、神官の家柄ですから、それだけあっておかしくはない。

 どちらにしても、小ささが強調されている。読むと清貧の思想みたいに思えるところがあります。だけど、現場を見るとなかなかしっかりした、非常に防災的、防衛的にできている。しかも川は流れているし、そばには木の枝があるし、火の気は近くにある。食べ物も近くにある。相当ぜいたくな暮らしです。ぜいたくという言葉はよくないですが、夜一人で寝るのが寂しいとも言う。

 鴨長明は安住の地を求めたのではないか。安全というのはとても大事だと彼は何度も言っています。安全の場所を求めた。安全に住むというのが安住ですが、安心できる場所を求めて、山の中に住んだ。京都の町中ではだめです。だから小さい、移動式の組み立て住宅を彼は考えます。おり琴・つぎ琵琶、楽器も組み立て式です。家も組み立て、楽器も組み立てる。要するに、小さくて移動が容易な家をつくるのが目的です。小さい家をつくるのが目的ではなかったと思います。移動がやさしい、荷車2台に乗せられると書いてあります。つまり運搬、移動容易な、最小の組み立て住宅をつくるのが目的だった。

 彼のその目的が何に続くかというと、場所を求める。その場所は、日野山の奥。そこで彼は落ち着いて、三つの作品、『発心集』、『無名抄』、『方丈記』をいっぺんに書いてしまうのですから、彼としては心豊かな生活をしていた。それは住の目標である。人も住む場所も無常であるというのが、『方丈記』の全編を貫く基本思想ですが、しかし、住というものをどうつくるか、どう創造的なものとするのか、というとそういう場所を求めて選ぶということなんです。

 

 阪神・淡路大震災の教訓・・・安住の地を求めて

 鈴木 バベルの塔や『方丈記』の話から現代に、どういうつながりを考えておられるのですか。

 吉武 バベルの場合は、あとからお話ししようと思っている分散ということが大事だと思っています。『方丈記』は、土地を見て歩くということが基本的に大事なことだし、いまの技術からすれば探すだけではなく、いい土地をつくることに発展できるのではないか。ただ、この当時は土地を探す以外になかっただろう。

 鈴木 神戸は明治以降に、もともとは川沿いに分かれていたのが、道路によって横につながった。そのために何度も洪水でやられたりしていますね。だから、自然の土地とはずいぶん違ったかたちでできてきてます。

 吉武 阪神・淡路大震災については、主として報告書を読んで考えてるだけなんですが、思い出すのは1964年の新潟地震です。報告の中に、ほとんど変わっていないなと思うことも相当あります。そのあと調査した宮城、十勝の報告書も含めて、根本的に違っていないところもありますし、また違っているところもある。違っているところだけを話せばいいのですが、いくつかあげてみます。

 

 避難所としての学校

 崩壊家屋からの救出、消火活動は、消防署や自衛隊によるものは1割しかない。9割は住民自身が相互援助でやっている。震災直後は、どうしてもそういうことになります。避難所は、まず近くの小学校です。あとは体育館や市役所で、必ずしも指定されたところには行っていません。やはり家に近いところ、家や家財がすぐ行って見られること、心理的な安心感がすごく強い。高齢者ほど近くを希望する。みんなだいたい小学校区、500メートル以内に避難所を見つけている。

 学校は耐火耐震的にできているし、運動場があったり、プールがあったり、体育館があったりする。しっかりした先生もいるので、けっこういい避難所になります。構造的な被害としては、ガラスが破損したり、天井が落ちたケースはあります。二次的な部材の損壊が多い。校庭は仮設テント、炊き出し、駐車場といったいろいろな目的に使えます。学校の設備はハイテクではなくローテクで、災害のときにはけっこう強みになった面もあります。

 ただ避難所として考えていないから、ハードの条件は貧しかった。特に老人や障害者に対しては具合の悪い面がある。一時は1人1畳を割ったりするような過密状態になったり、トイレは、新潟のときから問題でしたが、特に神戸は大規模でしたから問題でした。

 鈴木 ローテクの問題は、戦災の時と似てるなと思いましたが、しばらく考えてずいぶん違うところがある。戦災のときには水の心配をしませんでした。焼け跡で、誰もいないから、ほかの家の井戸を勝手に使った。電気はわりあい早く来たけれども、水が困った。一番困ったのは、女子の便所です。戦災のときはあまり困らなかったんだけれど。ソフトの対応の仕方をもう少しやる必要がありますね。

 吉武 物的にやっただけではだめです。

 鈴木 あとでいろいろな先生方から聞いたんですが、荒れた学校ほど災害時の対応がよかったそうです。なぜかというと、校長先生がしっかりしているから。

 吉武 それは言えるでしょうね。

 

 災害時の拠点としての病院

 病院も地震による構造的な被害は非常に少なかった。一つやられましたが、隙間から逃げて死者はいなかった。だけど、設備はハイテクで設備依存度が高いから、たとえば水が来なくて手術ができない、応急電源が止まったとか、いろいろなことで診療の障害が非常に大きかった。

 また、防火水槽が揺れて、天板が飛んで、そこらじゅうが水びたしになった。地震ではなく、水の被害で使えない事態がけっこう多いんです。防火水槽問題は、地下へ持って行けなどと簡単にいいますが、対応はもう少し考えてやらないといけない。工夫しないで、いきなりだめだから地下へ持って行けというのも問題です。

 病院の場合は学校と違って、機能を停止するどころか、機能が増加してしまいます。つまり傷病者が殺到してくるのと、すでにいる患者と両方あります。それで病院全体が混乱する。前から言われていましたが、今度も問題になりました。

 もうひとつ、近県の病院はたくさんの患者の来院を予想して期待していたのに、実際に来たのは極端に少なかったということがあります。ほとんど近県の病院へ行かなかった。輸送力の問題以前です。遠くの病院に行きたがらない、がまんする。その傾向がすごく大きかったと思います。

 鈴木 高齢者ほど、そういうのがすごい。また長田の中小企業地区はもっと強い。

 吉武 病院側として一番最初にやるべきは、来院患者が治療できないならば、全体の病院の状態をまず掌握して、どこへ誰を持っていくか、重傷者はこちら、これはうちで引き受ける、やってきた患者の中の治りそうな人、治らなそうな人をどうするかという仕分けです。振り分けをちゃんとやるということは、病院の機能としては非常に大事だと言われています。全体の病院がネットワークをきちんとして、全体の状況を早く把握することが大事です。

 鈴木 病院の場合、災害時にはローテクでというわけにもいかないでしょうが、ある程度のローテクで対応できるようなやり方を考えておかないといけないですね。

 吉武 病院というのは災害時に機能が倍加するというか、ロードもかかるし、自分のところもやられている。いわばさんざんな状況になっているので、特別な配慮が必要です。病院には技術者、電気が扱える人、水に詳しい人、食べ物をつくれる人とか、いろいろな人たちがいます。病院はいいスタッフを抱えているので、災害時には地域にもう少し貢献してもいいはずです。実際に貢献はしていますが、今回、あまり顕著ではなかったということがあります。

 

  地域施設の重要性

 吉武 全部をひっくるめて、今度の震災について感じたことをまとめてみます。耐火耐震的な建物が学校や公共建築で多くなっていて、構造的な倒壊が非常に少なかった。しかし二次部材や家具などの破損、落下の被害はあった。特にハイテクの場合には支障が生じた。

 大事なこととして、地域に住む住民の相互援助活動が非常にはっきりとあったこと。それから、地域を離れたがらない傾向が非常に強かった。この二つの理由は職場の問題とか、地域とのつながりとかいろいろあると思いますが、ともかく非常にはっきりと強く現れています。地域社会、地縁は都市生活の中ではあまり重視されていないような感じもしますが、いざとなれば顔を知っているだけでけっこう心強い思いがする。そういうことは確かに言えます。組織として、医療保健施設、あるいは教育施設も、みんな機能割になっています。機能割は常時はまあまあよく働くけれども、非常時には地域施設という面で見ていかなくてはいけない。地域にある公共的な施設は、それなりにお互いに地域に貢献していろいろな役立ち方をしている。施設というのは二つの面あるいは軸、つまり地域施設であり、中央的な施設であるという二つの面を同時に持っていなければいけない。特に地域施設の面が、非常に弱くなっている。たとえば学校は、そういうことはあまり考えていなかったと思います。その点、どの施設も両面、あるいは二つの軸がある。特に地域施設という面は、今後強調されていかなければいけないと思います。その点が今度の地震の一番大きな点です。

 病院や学校など、強度は、上げるべきものは上げていいのではないかと思います。もう一つ上のランクにしたい場合には、上のランクがあってもいいのではないか。地域に貢献する施設、学校もそうですが、病院はいろいろないいスタッフを抱えている。備蓄も相当ある。そういうものを持っているし、技術も持っているところは、もっとしっかりつくっておけばいい。

 

 仮設住宅・復興住宅計画の貧困

 鈴木 住居については、とにかく人々の助け合いとか、お互いの情報交換が大事だということがあります。それは日常からもっと育てていくべきものだったとみんなが言っています。そう考えると、復興計画はハードベースで立ててもどうしようもない。高層住宅が建っていますが、たとえば32階の部屋にぽつんと一人で老人が住んでいる姿を想像すると、いいかどうか、わからなくなります。

 行政当局としては、仮設住宅居住者が現在2万世帯は割ったそうですが、本当は2年間の期限付きです。3年以上たっているのにまだ2万世帯残っている。早く仮設を解消することが大命題です。だからといってニュータウンなどに建てたのは、空き家だらけで人が入らない。どうしても市街地で高層住宅ということになりますが、それは問題が多い。ですから、まず人間的なことを考え、それから町並みの復興ということを考えなければいけないと思います。

 実は私は仮設住宅をもっとしっかり計画的に建てておかなければいけないと思います。あんな櫛の歯なみたいなものではいけない。どうせ2年間では解消できないのだから、5年なり8年なり住めるようなかたちで考える。そうすると仮設ではないかもしれませんが、仮設計画はもっときちんと考えることが必要です。

 吉武 仮設住宅はもっと広い視野で考えなければおかしいですね。どこで起こってもいいように、考えておくのも必要です。

 

 秩序は崩れる

 鈴木 先ほどの集中、分散の問題はどうですか。

 吉武 結局最後のところでデザインの問題なんです。デザインとは本来、一定の意図にもとづいて物事をまとめることです。要するに、それは一定の秩序を与えることです。

 どんな文明でも高度な秩序状態になっていく。つまりエントロピーの低い状態です。高度な秩序状態になっているということは本来不安定で、それが災害の根本的な要因になる。これは僕が言っているのではなく、元の防災研究所の所長の菅原さんが論文に書いている。原文は英文ですが「いかなる文明の所産も高度の秩序状態、すなわち低エントロピーの状態にある。だから熱力学の法則によって不安定である。文明社会におけるエントロピーの不可避的な増大が災害の深い原因である」。

 人間がつくりあげるものは、不安定なものをつくっている。秩序づけようとしているということは、すなわちやがては崩れるものをつくっている。崩れるということは、もともと崩れるものなのだ。物事を秩序づけるのがデザインである限り、つくられた建築と施設、社会制度というようなものは、必然的に大きな災害を受ける。秩序がつけばつくほど、大きな災害を受けることは避けられないということが原点にある。これが災害のもとのところだろうと思います。

 

 逃げをとる・・・分散の思想

 吉武 ではどうしたらいいかというと、デザインに無秩序を何とか導入できないかということだと思います。

 その一つが分散です。集中に対して分散というのは、昔からいろいろある。もっと一般的に方法を考えてみると、たとえば自然に逆らわずに自然に任せるようなやり方、たとえばノアの箱舟のように漂う。オープンスペースというもの、あるいは耐震に対して免震的なもの、それから河川は線で見ますが、それを水田のような面で見る。ハイテクに対してローテク、全国に対して地方ということ、などがある。

 いまや在宅で医療などが行われます。経済的、効率的、高度化ということと反する面もあるけれども、逆に利用者から言うとそばにあったら便利です。高度化はしにくいかもしれないけれども、便利ということは大きいことです。だから、地方都市や地方文化との結びつきをもう少し考えに入れていくことがあっていいと思います。

 そして、よく言われるリダンダンシー、構造で言うと静定よりは不静定、あるいは樹木型の道路配置ではなく別のかたち。それから逃げを取っておくということです。人間の体で鎖骨は折れやすくできていて、これが折れるために体が助かる。堤防なども、決壊させることによって大きな弊害を減らす。遊水池、あるいは放水路というのは、壊れやすい場所をつくって壊滅を避ける。

 鈴木

 

 災害文化の継承を・・・部分の充実

 吉武 それから日常的な習慣で防ぐということがあります。。たとえば日本のように雨が多い地域では水田という面で雨を受けている。これはなかなかいい文化であったはずだけれども、いまやだんだん減っている。そういった一種の災害文化、習慣や伝統、言い伝えが大事です。たとえば竹薮に逃げる、あるいは地震が来たら火を消す。なぜ消すかわからなくても、来たら消せというのは耳に入っていて、習慣になります。それはそれで災害文化ではないか。

 最近はやり始めたペットボトルはすごく役に立ちます。病院でも、あれでけっこう用が足りたようです。飲み水はあるし、少ない水で処理ができる。ペットボトルは扱いがやさしい、運搬はやさしい、保存ができる。いろいろな意味でとてもいいものです。うちでも最近使い始めましたが、使ってみると悪くない。井戸がなくなった現在、水源をどう確保するかは大きな問題ですが、手の届くところに水を置いておくのも大事なことではないか。

 施設の地域性に注目して、その働きを強化する。大きく見ると集中に対して分散の方向です。建築で言うと、自然に順応して、部分の建築の質をうんと上げ、しかし全体の配置や、外面のきれいなかたちは考えない。つまり全体は自然に則って考え、部分の質を上げていく。計画の中でそういう方向をもっときちんと方向づけていいのではないかと思います。

 われわれがつくるのは端からでいいわけです。部分はしっかりつくって、全体のつなぎはもっとルーズに、もしくはもっと巧妙に、分散的につくってはどうか。全体が格好いいというのは、昔の発想にすぎない。

 

 個の命 

 鈴木 都市の問題で考えますと、分担して、それぞれのところで人が自主的に、あるいは主体的に動かしていくようなやり方でしょうね。

 吉武 そうです。個の命が最終的に関わります。僕自身の今回の大手術の経験も含めてお話しします。もともと医療というのはケース、個を扱います。医療のすばらしさは、個を扱っていることだと思います。衛生学とは根本的に違う。医療はケースの蓄積によって学問をつくっています。個は命です。

 僕の手術は両足に行く血を止めなければいけない。動脈を止めて、人工的なプラスチックを入れ替えて手術が終わったら流す。ところが僕はあちこち血管が傷んでいて、それがいつ命にかかわるかわからない。特に両足に血を流さないというのは、血圧が下がる状態で非常に危険です。だから、バイパスをつくって、こちらの足だけに血を流して、手術が終わったら取り外す。

 鈴木 ある程度の量の血を分散させるために、そうしたんですか。

 吉武 そうです。血を動かして血圧を下げない。それは検査の結果、いろいろ考えた結果です。つまり徹底的に調査して、問題が起こらないようにアセスメントをやる。、建築デザインのやり方と同じではないかと思って「デザインのやり方とよく似ていますね」と言ったら、先生が「ちょっと違う」と言う。どこが違うかというと、手術の場合は何が起きるかわからないと考えている。一種の危機管理かもしれない。

 手術の前に先生に、手術をするとどういうことが起きるか、腸が詰まって便が出なくなるとか、10項目ほど言われました。そしてまた1週間あとに家族が呼ばれて、3つ言い落としたことがあると言われた。だから13のケースがある。どれにかかっても、相当致命的です。しかし、確率は非常に低いのだろうと僕が言っても「いや、起こり得るんです」と言う。医者は、そういう考えです。確率に対する考えが違う。

 そこが工学と少し違うような気がする。工学は何%家が助かればいいという感覚です。医者はともかく治さなければいけない。それが勝負で、それに全力を尽くし、万全を期す。

 

 優先順位・・・確率と計画

 吉武 医者の場合には、確率という前に、命という優先が入ってくる。工学はいろいろなものを助ける。建物全体を助ける。建物の中の命はどうなのか、あまりよくわからなくても、全体を助ければいいという感じになっている。医者の場合、命を助けるという、優先順位がはっきりしている。

 強制疎開は、確かに優先順位がはっきりしていた。強制疎開は皇居を守るために個を壊してしまうというやり方です。つまり何かのために犠牲にするわけです。それは危ない。強制疎開させる、破壊する。スラムクリアランスは都市美観のためというけれど、いったい誰のための美観か。スラムがあると見苦しいというのは、どう見苦しいのか。住んでいる人たちのことを考えないで見苦しいというのは変だ。

 政治的にしっかりしないといけない問題だと思いますが、しかし優先順位をあまりに考えなさすぎるのも変です。よくわからないけれども、いまの民主主義ではなく、もう少し順位というものを考える。昔は優先順位はかなり大事な計画の条件だったと思っていますが、いまや何もかも助けるということになっている。どうなんでしょうか。

 鈴木 それこそ安全のとらえ方と、何のためにそこが優先されるかということがいるのでしょうね。

 吉武 建築には優先順位はあってもいいのではないかと思います。つまり全体を助けるためには、ここは壊れてもよろしいという場所はつくっておいてもいいのではないか。手術も体に傷をつけるわけです。体の機能は、手が上がらないとか一部の機能は落ちます。つまり体に傷をつけるけれども、命を救うという医学の考え方は、建築ではどう考えたらいいのか。医学と同じにするわけにはいかないけれども、何かヒントがありそうに思います。

 鈴木 優先順位ということは、何を大事にするかという一つの判断です。人によって相当ウエートのつけ方が違うのではないか。計画、デザインする人の考え方、思想というものがかなり入ってきますね。

 吉武 いずれにせよ、建築と都市の安全と人命、個の尊重というのは最も重要です。学会で考え続けていくべき問題なんです。

                   (1998.5.23  吉武邸にて)

2024年6月30日日曜日

この人に聞く 布野修司氏 「近代の呪縛を放て」(反近代)を解き放し、新たな分野を切り拓き、布野思想を提示する 取材・文 神子久忠、『建築士』2024年6月号

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