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2025年8月28日木曜日

布野修司インタビュー メディアとコミュニティ,聞き手;市川紘司,『建築討論』,2021年1月

布野修司インタビュー メディアとコミュニティ,聞き手;市川紘司,『建築討論』,20211メディアとコミュニティ - 建築討論 - Medium 

メディアとコミュニティ 

インタビュー:布野修司(滋賀県立大学・日本大学)|063202201 特集:建築メディアは楽し

 

左手と右手──アカデミズムとジャーナリズムの分断?

 

──布野修司さんは、大学に所属する研究者として膨大な数の論文を書かれる一方で、評論活動も活発に行われてきました。さらにときには、ご自身でメディアそのものを立ち上げる。アカデミズムにとどまならないこうした活動スタイルはどのように生まれたのでしょうか。

 

布野修司:すべて成り行きみたいなものです。「アカデミズム」と言うけど、いまの建築学会の状況を前提にしていると分からないかもね。「黄表紙」(建築学会の査読論文の通称)といっても、誤解を恐れずに言うけど、いまのように細々したものじゃなかった。そ

もそも僕が東京大学に入った年(1968年)は「東大闘争」ですぐに全学ストライキで、ほとんど授業がなかった。いろんな問題があったけれど、学問そのもの、大学そのもの、学会そのものが問われた、そんな時代です。授業がないから初めて出会ったクラスメートと自主ゼミを始めたけど、大学というのはそういうもので、自分で勉強するところだといまでも思ってる。

 

東大では医学部のインターン制度の問題があったし、工学部では産学癒着の問題が指摘されていた。現在は、産学融合が当たり前のように言われていて、学術会議に内閣府が介入するそんな時代になっている、問題は変わってないよね。それ以前に、その場所にいない学生を処分する、大学組織の体質そのものの問題があった。これも変わってない。そういう諸「問題」を追求するということを、ほぼ学生全員が課題として共有したんだと思う。大学の体制批判にはじまり、ちょっとスコープを広げれば「戦後民主主義」の裏で何が起こっているのかということが、そもそも最初から問題意識として共有されていた。だから基礎的な勉強はしながら、それをもとに諸問題を問い詰めた。実際、都市工学科の大学院生が、公害問題をめぐって追求して、答えられない先生を辞めさせたりした。大学院生が教授に議論で勝っちゃうわけ。公害の問題や日照権の問題など、戦後日本の高度経済成長にさまざまな「負の部分」がある、それを追求すること、これが、まず僕らの前提にある。


 ──「問題を追求する」というのはジャーナリズムの基本的な構えですね。

 

布野:そう。その構えが一番先にある。「アカデミズム」の基本も同じでしょう。だから、「アカデミズム」と「ジャーナリズム」の区分けは、あまり意味がないと思う。僕からすれば、「問題を追求する」という根幹は同じで、日々の出来事の中に問題を追及するのがジャーナリズムで、それをより大きな歴史的なパースペクティブに位置付けるのがアカデミズム。アカデミズムは科学に依拠するといってもいいけど、アカデミズムといっても、T.クーンが明らかにしたように、それを支えてきた科学「界」(仲間内)のパラダイムがある。現実から逃避し「象牙の塔」に立て籠っている、というアカデミズム批判はいまでもあるでしょう。特に、社会科学、人文科学の分野では区別はできないと思う。まして、建築学や都市計画学の実践的分野で「アカデミズム」と「ジャーナリズム」の分断はほとんど意味がない。

 

──例えば、戦後建築ジャーナリズムで活躍した編集者の宮内嘉久さんは、建築における「アカデミズム」と「ジャーナリズム」の違いを強調していました。彼自身は在野の評論家、編集者であり、アカデミズムを建築の主流だとすれば、そのオルタナティヴを作ろうと著述活動やメディアの立ち上げをした。『建築ジャーナリズム無頼』や『少数派建築論』などの書名などにそのスタンスはよく現れています。布野さんの考えとは対照的と言えそうです。

  

布野:「象牙の塔」批判が根っこにはずっとあるから、スタンスとしては同じと思うけど、逆に、宮内嘉久さんの建築ジャーナリズムについての考え方に違和感があった。最近、福井駿さんが『編集者宮内嘉久の思想と実践について』という修士論文(京都工業繊維大学、20213月)を書いたんだけど、そのなかに、宮内嘉久さんが構想して、結局は僕が潰してしまったということになっている『地平線』という雑誌についての僕の証言が収録されています。ジャーナリズムはある意味ではその日暮らしのジャーニーで、そのための身過ぎ世過ぎの問題がある。編集者に徹した平良敬一さんと嘉久さんとはスタンスが少し違ったと思います。嘉久さんのアカデミズム批判というのは、ひとり自分は少数派であるという意識を特権化した建築業界全体についての批判で、編集者というより批評家だったと思う。後でも詳しく言うけど、僕が『群居』を始めたのは、この『地平線』というメディアの構想に対抗する意識もあったんです。

 

──ともあれ、研究者と評論家・編集者の双方で膨大な成果を出してきた布野さんのキャリアは、かなり異質に見えます。

 

布野:どこから見て異質なの?

 

──少なくとも、同じような活動をされている方は見当たらない、という意味で。

 

布野: その都度考えて動いてきた成り行きなんだけどね。東大では、定年前に筑波大に異動した吉武先生の指令(?)で博士課程に進学して、2年目の1976年には、鈴木成文先生に助手にしてもらった。かたちとしては公募で応募したんだけどね。でも、それまでいわゆる「論文」なんて一本も書いてなかった。助手になったんだから、建築学会でなにか発表しなきゃまずいぞ、くらいの意識。それで、助手になった当時の学部4年生には土居義岳、村松伸、宇野求、横山俊祐などがいたので、彼らと一緒に、建売住宅のファサード分析や公団住宅の増改築調査をやった。「51C型」を設計した建築計画研究室の助手になったから、北海道から沖縄まで同じ2DKを建てた「標準設計」の問題を考えようと思った。当時、建売住宅がバンバン建ったし、公共住宅では違反増築が大きな問題になっていたからね。

 

それでも、東大助手時代は学会大会発表用の梗概を書いたくらいで、いわゆる査読論文は書いていない。1978年には東洋大学に移るんだけど、助教授になるときに『週刊ポスト』に書いた記事を教授リストに入れたら、教授会で問題になったらしい。博士論文(「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究 ハウジング・システムに関する方法論的考察」1987年)をまとめたのは助教授になった後で、鈴木先生から定年になるので出しなさいと声をかけていただいたことが大きい。「黄表紙」は、1991年に京都大学に移るまでは1本も書かなかったね。論文が一気に多くなるのは、京大に異動してから。

 

──それはどのような理由で?

 

布野:単純な話で、京大では研究業績が求められたから。博士論文は書いていたけど、京大では研究業績を積み上げることに対するプレッシャーが相当あった。だから、研究室の弟子たちにも「論文は書いておきなさい」と指導し続けた。それと並行して、建築メィアで文章を書かせたりもしたけど。結果的に、布野研究室出身で教授になった人間はいっぱい出た。それは全部指導教員のおかげなんだよ(笑)。

 

そのときに言っていたのが、「論文は左手で書け、命を懸けて書く必要はない」。利き手(右手)では設計をしたり、まちづくりにかかわったり、より広い読者向けの文章を書くために残しておけ、だから論文は左手で書けと。本当の論文というのは一生に一本かけるかどうかでしょう。しかしそうは言っても、学生はなかなか査読論文を書き切れないわけ。修士論文をまとめる段階で終わっちゃう。それでは勿体ないから、僕が内容をさらに発展させて、連名で査読論文にするようにした。だから論文数が多いわけ。建築構造の和田章先生が建築学会会長になった時、僕は一緒に副会長になったんだけど、理事を決めるときに、和田さんが査読論文の数をバーっと出した。建築計画分野では、僕が論文数が一番多かった。いまでも博士課程の学生を指導しているから書くけどね。今年(2021年)亡くなった内田祥哉先生に言われて、日本学士院の紀要に論文(ShujiFuno: Ancient Chinese Capital ModelsMeasurement System in UrbanPlanning, Proceedings of the Japan Academy Series B Physical andBiological Sciences November 2017 Vol.93 №9, 721745.)書いたんだけど、これは和田先生より早かったんだよ。

 

メディエイター──建築と社会をつなぐ

 

──「アカデミズム」と「ジャーナリズム」を分裂させず、左手と右手でアウトプットを使い分ける、という布野さんのスタンスがよく分かりました。しかし、それでは、この左右両手を統合する布野さんのアイデンティティは一体どのあたりにあるのでしょうか。

 

布野:エディターとかメディエイター、という感じかな。建築と社会をつなぐ、その中間にいようと、考えたことはあります。前川國男が「今は、建てない建築家こそが最も優れた建築家である」と言ってたんですよ、当時。建築を建てると、日照権の問題が起こったりする。要するに建築することは自然に対する暴力なわけです。長谷川堯さんの『神殿か獄舎か』(1972年)はそんなタイミングで出た著作で、僕らの世代は大いに刺激されました。あと、実際のところ、僕はそんなに設計の手が動くタイプではなかった。だから、先輩の建築家たちには「そばにいて口は出すぞ」と言ったことがある(笑)。でも、村野・森事務所に行った「雛芥子」の千葉政継、ツバメアーキテクツの千葉元生くんのお父さんと一緒に5軒ぐらい住宅を設計したし、宮内康さんの山谷労働者福祉会館のセルフビルドには東洋大学の布野研究室全体が参加したよ。京大の布野研究室では鳥取の智頭町の町営住宅とかお寺の庫裏、それにスラバヤ・エコハウスを設計した。

 

設計にはものすごいエネルギーがかかる。それに比べれば論文のほうがずっと簡単、というと怒られるかもしれないけど、実際そうでしょう。だから、それは「左手」でやり、メディエイターとしての仕事を「右手」でやろうと決めたようなところがある。

 

──それで建築メディアのなかでの活動を始められたと。

 

布野:『建築文化』の「近代の呪縛に放て」シリーズ(19751976年)に呼ばれたのが、具体的には最初の建築メディアでの仕事だと思う。正確には、その以前に三宅理一や杉本俊多らと「雛芥子」というグループで批評活動をしていた(1971年〜)。安田講堂前での「黒テント」の芝居を手伝った縁で麿赤兒と知り合って、大駱駝艦の旗揚げ公演前に東大の製図室で芝居をしてもらったり、ドイツ表現派の映画会を、ドイツインスティチュートからフィルムを借りてきて、原広司さん呼んで上映会をしたり。そういう活動をしていたら、真壁智治さん、大竹誠さんの遺留品研究所の面々、コンペイトウの松山巖さん、井出さんなどから、雑誌『TAU』(編集長石川喬司、坂手健剛、商店建築社)への執筆の声がかかり、『同時代演劇』や『芸術俱楽部』に書く機会があり、そのうちに建築専門誌からも呼ばれるようになった、というのが経緯。


『建築文化』19754月号(「近代の呪縛に放て」シリーズ第3回掲載号)

そういえば東洋大学に在籍していたとき、『建築文化』の編集長をやってくれないかという依頼があったな。「冗談だろ」って思ったけど(笑)。相手はいたって真面目で本気だったらしい。引き受けてたらどうなっていただろうね。

 

──布野編集体制による『建築文化』の誌面を想像するのは興味深いです(笑)。ともあれ、1980年代の布野さんは、明確に「ジャーナリズムの人」だったんですね。アカデミーのなかでの研究者としてバリバリ論文を書くのは、その後。明確に順番がある。

 

布野:そう。当時よく議論していたのは、「建築社会学」か「社会建築学」か、ということ。建築を社会学的に考えることもできる一方で、「社会を建築する」という、社会建築学という立場もあるはずだと。建築は空間を扱うわけだから、その空間をどう配分するのかということを考えれば、それはもう社会をどうつくるかという、そのものだよね。大きな言い方をすれば。建築計画学をやっていると、この問題はとくにリアリティがある。標準的な2DKの住戸をただ積んでいけばいいのか、そうではないでしょう。

 

こういう問いは、本来は建築の問題でもあり、社会そのものの問題でもある。建築という「モノ」だけに視座を置いていると、それが見えなくなってくる。とはいえ、「モノ」を作ることができるのは建築という領域の最大の武器だからね。そのときに、作られる空間の社会的な意味を明らかにしたい、それによって建築することを応援したい、という考えがある。

 

『群居』へ

 

──布野さんの特異性は、単に建築メディアに評論を寄稿することに留まらず、メディアそのものを立ち上げてきたことです。実際、じつに多くの建築メディアの立ち上げに関わっています。宮内康氏と組織された同時代建築研究会の『同時代建築通信』(1983年〜)、大野勝彦・石山修武・渡辺豊和三氏と組織されたハウジング計画ユニオン(HPU)の『群居』(1982年〜)、あるいは磯崎新氏や原広司氏らとの連続シンポジウムなどを収録した『建築思潮』(1992年〜)。他方で、建築学会では『建築雑誌』の編集長を務められ(20022003年)、ウェブ媒体として本誌『建築討論』も2014年に創刊させている。

 

『建築思潮03 アジア夢幻』

なかでも、編集長だった『群居』は、2000年までに計50号も刊行されており、突出した仕事だと思います。このあたりのことを聞きたいのですが。

 

布野:『建築雑誌』は全部で36年関わっている。学会内だけど、分野を超えた議論の場は貴重だった。『群居』はたまたま僕がいちばん若かったので編集長を任されたけど、仕掛け人は建築家の大野勝彦さん。そこに石山、渡辺、布野が集まった。

 ‘·

『群居』創刊号

『群居』では、片方には池辺陽さんや難波和彦さんのようにナンバリングされた住宅をつくる考えかたがあり、もう一方にはオープン部品を住宅に取り入れてシステム化する考えかたがあった。実は、建売住宅を最初に作品として発表したのは、渡辺豊和さんなんだよね。1978年頃の「テラス・ロマネスク桃山台」とか、「標準住宅001」とかね。渡辺さんも「住居のプロトタイプ」を考えていた。戦後まもなく住宅問題があって、最小限住居のいろいろな試みがあり、その後プレハブメーカーが台頭する。1960年代末〜1970年代になると、建築家に住宅設計を依頼できる層が形成されて、住宅メーカーのほうでも、現場小屋的なプレハブ住宅は売れないから商品化住宅へと切り替わる。そうした流れのなかで、本気でもういっぺん建築家が住宅の問題に取り組むべきだ、というのが『群居』の初心です。そういう思想を引っ張ったのは大野さんです。

 

──50号も続いた『群居』のサスティナビリティに注目しています。どのように制作、運営されていたのですか。

 

『群居』1982年〜2000年[写真提供=秋吉浩気]

布野:基本は会費制です。11,500円が販売価格だったから、年間4冊の刊行予定で、計6,000円。それを会費として前払いで銀行口座に振り込んでもらっていた。会員は最大で2,000人までいった。平良敬一さんが「それはすごい」と評価してくれたな。この会費を制作費にできたから、そこから執筆者への原稿料も出せていた。微々たるものではありましたけどね。

 

最初は16ドットのプリンターで出力して、みんなで集まって切り貼りして刊行していましたよ。ちょうどワープロが出だした頃で、これを使えば新しいメディアができそうだと、嬉しかった。その前はガリ版だからね。当時は椎名誠とイラストレーター沢野ひとしの『本の雑誌』というのがあって、そこは学生を集めて、刷り上がったら書店に持参するわけ。それで我々も、大手取次を通さないで直に書店に持って行ったし、学生にも制作作業に関わってもらった。さまざまな建築活動、そして研究と教育は一緒です。

 

──2,000人という会員数は、建築の同人誌的なメディアではそう簡単に集められるボリュームではないように思いますが、どのような方々が読者・会員だったのでしょうか。

 

布野:あまり詳しく分析してないけど、メーカーや工務店の関係者は多かったと思う。編集のときには、4号単位で特集テーマを分けることを意識していた。つまり、住宅を購入したい一般の人向けの特集、メーカーや工務店など住宅生産組織向けの特集、建築家やデザインに興味のある建築学生向けの特集、行政や都市計画に携わる人向けの特集。だから少なくとも、建築専門誌とはちょっと違う読者がついていたとは思う。

 

あとは年間購読する会員のほかに、当然ながら地道に販売努力はしてましたよ(笑)。たとえば大野勝彦さんが講演をするときに、そこで手渡しで売る。対面で思いを伝える、というのはメディアの原則だと思う。広告入れて売れたら楽だけど、ちょっと違うんだな。

 

──自前のメディアを持つと、現実的な作業が求められますよね。コンテンツを考えるだけではなく、会費を管理したり、注文を受けたら梱包して発送したり、実際に汗をかかないといけない。要するに事務作業。『群居』ではそのあたりはどのようにされていたのですか。

 

布野:実を言うと、事務作業は企業コンサルをしていた野部公一さんのオプコード研究所がおもに請け負っていた。大野勝彦さんのネットワークだったと思う。ただ、発送作業なんかはその事務所に我々も集まって汗かいてましたよ。石山だって来て作業した(笑)。創刊号準備号が完成したときは「出来たー!」と言って、ものすごく喜んでいましたね。会員の管理実務もオプコードがしていました。

 

──オプコード研究所の野部さんのお名前は、『群居』の編集後記などに見られますね。単なる事務作業の請負ということを超えて、制作同人の一人、という関係性であるように見えます。

 

布野:そうです。一種の同志かな。オプコードは、たとえば瓦屋のアドバイザーなんかをしていて、その頃は「ゼミ屋」と我々は言っていた。人を集めていろいろ情報交換したり、研修したり。あるいは住宅メーカーに販売促進やユーザー獲得のための仕事をしてい

た。

 

「スポンサーありき」という問題

 

──ところで、『群居』が建築専門家内に留まらない読者・会員を想定したという先程のお話が興味深いです。『群居』の創刊は1983年(創刊準備号は198212月)。直前の1970年代は野武士に代表される実験的な住宅作品がメディアを賑わせていて、それに対して、日建設計の林昌二氏が建築ジャーナリズムの偏向であると、厳しく批判したりもしていました(「歪められた建築の時代」『新建築』197911月号)。要するに、現実の社会や都市の問題とデタッチした建築作品をもてはやすだけでいいのか、と。『群居』の読者想定は、オルタナティヴな建築メディアとして、そのあたりの問題意識が背景にあるように見えるのですが、いかがですか。

 

布野:正直言って、そのあたりを意識した記憶はない。さっきも言ったように、『群居』の主たるテーマは戦後まもなくから続く住宅問題だったから。住宅問題を扱う以上、建築業界に閉じた議論にはならないから、なんらかの時代的な繋がりはあるのかもしれない。

 

むしろ、『群居』を始める前のことで覚えているのは、さっき話したけど、編集者の宮内嘉久さんのこと。彼は1960年代末に建築ジャーナリズム研究所(19671969年)をつくったもののすぐに解体することになり、その後は個人誌や同人誌を始めますよね。『廃墟から』(19701979年)、『風声』(19761987年)、『燎』(19871995年)。じつはその間、もういちど組織的に勝負しようということで、『地平線』というメディアの創刊を構想していた(1980年)。

 

でも、嘉久さんはもういっぺん勝負しようと言うわけなんだけど、結局スポンサーありきなんですね。『風声』は岡澤で、『燎』は伊奈製陶(INAX)。それだとメディアとしてはぜんぜん自立できていないわけ。

 

──「ジャーナリズム無頼」と謳いながも、実態としてはスポンサーありきだった。

 


 

布野:うん。彼はエディターというより評論家だったと思うから、そういうスタンスはわからないでもない。スポンサーありきという問題は、嘉久さんに限らず、建築メディアの根本的な問題なんだよね。平良さんも『SD』や『都市住宅』を仕掛けたわけだけど、それも鹿島建設の出版事業部のなかでのことだからね。

 

ただ、僕はそのことに問題を感じていたから、ちゃんと実売によって出版を成立させるべきだと嘉久さんに主張したわけです。さらに言うと、嘉久さんは個人的な人間関係によって、掲載する建築家の選別なんかもしていた。そういう選別は、どこかの党の機関紙ならあり得るかもしれないけど、僕としてはジャーナリズムではありえない。それで対立した。結局『地平線』はうまくいかず、そういう経緯もあって、僕が潰したことになってる(笑)。この時のことは「自立メディア幻想の彼方へ」(『建築文化』197810月号)にも書いています。

 

そんなときに会費制の『群居』の話が持ち上がったから、「これはいい」と思ったのね。

 

──宮内さんや平良さんは、いわば戦後建築ジャーナリズムを代表する伝説的な編集者であるわけですが、会費制の『群居』にはそうした世代への批判的意識が投影されていたのは、とても興味深いです。

 

運動と議論の場を求めて

 

──『群居』のもうひとつの特徴は、情報を取りまとめるスタティックなメディアというよりも、HPUでの住居やまちづくりの実務的実践と密接に絡み合っている点。現実を変えようとする「運動」としての側面があった点です。

 

布野:たしかに『群居』はHPUという運動体の機関誌的な側面はあった。HPUは地域の工務店と連帯していこうという意識もあったし、大野勝彦さんが仕掛けていた国交省の住宅計画(HOPE計画)も並走していた。ただ、大野さんが早くに亡くなって、そういう国とのつなぎ役がいなくなってしまった。そういう人材がいま必要なんだろうと思う。

 

建築メディアの現状に引きつけて言うと、僕はいまでも運動体的な建築メディアの動きがあったほうがよいと思うし、見てみたいと思う。でも、なかなか出てこない。みんな忙しすぎるんだよね。あとは『群居』にとってのオプコードのような、一緒に並走してくれるパートナーが必要。

 

──最初はガリ版、『群居』ではワープロと、布野さんのこれまでのメディア活動でもツールは変遷してきたわけですが、情報媒体の性質については、どうお考えですか。近年、メディウムはとても多様化しています。インターネットではテクストとは別に映像や音声などが自由に使われ、それによって届く層も変わってきている。

 

布野:市川さんも五十嵐太郎さんと「シラス」で建築系の動画をやっていますよね。そういう流れに抵抗するわけではないけど、個人的には文章化するプロセスが大事、という感じがある。放送だと、どうしても時間がかかるじゃない。最近は、映画評論家も見るものが多すぎるから何倍速かでみるらしい。しかし、映画批評は文章として必要でしょう。建築批評も文章として定着しておかないと、参照するのに困るんじゃない?酒飲みながらだらだらしゃべるのは大好きで批評のポイントは大体そんなときに浮かぶんだけど、それを録画で全部見せられてもね?編集が必要だよね。しかし、映像だと引用ができない。それとTwitter140字では掘り下げられない。このインタビューにしても、テープ起こして、双方で手を入れていく作業があって一つの記事になるわけで、このプロセスが大事だと思う。この時間感覚とか一覧性は文章独特のものなんじゃないかと思う。

 

紙媒体で定期的な間隔で議論を積み重ねる、というのが、僕の世代ではやはり基本的な考えかたかな。昨年、平良敬一さんが亡くなりましたね(2020429日)。著作集の『平良敬一建築論集──機能主義を超えるもの』(2017年)の出版記念会でお会いしたときに、最後の紙媒体の建築雑誌をやれ!と発破をかけられたんですよ。紙媒体はお金もかかるから、まだ考え中なんだけど。ただ、年寄りだけでやってもダメだから、若い人間と一緒にやれるような枠組みがあるべきで、それをいま模索中です。

 

──布野さん自身いまなおプレイヤーとして動こうとしているわけですね。振り返ってみると、アカデミズムとジャーナリズムを自由に横断する布野さんの活動には、ある種の「コミュニティ」をつくろうとするモチベーションが通底しているように見えます。同人的な組織をつくってメディアを立ち上げたり、あるいはアカデミックな研究活動のほうでも学生を巻き込みながら論文成果を出したり、横断的な専門家と「アジア都市建築研究会」などを組織したり。

 

布野:そうかもね。やっぱり議論がないといけない、そうでないと建築家たちの仕事のチェックや刺激にならない。だからメディアは必要だし、建築批評は必要。そのあたりは素朴にそう思います。若い学生なんかに聞くと、情報はいっぱいある、という。だけど批評はない。ああだこうだと議論をしないと、何をつくっていくかは考えられないわけで、そういう場所が一定程度維持されるべきだと思う。ただ、本音を言えば、要するに居心地のいい議論の場がほしいんですよ(笑)。そういうところにいて、議論をしたい、という思いが先。それは研究のほうでも変わらない。

 


布野修司編、アジア都市建築研究会執筆『アジア都市建築史』昭和堂、2003

──人を集めて議論することが純粋に楽しい、というのがまず先立つ。

 

布野:そう。自分が一方的に発信するだけだったら、Twitterやブログでできるしね。それを仲間と共有するために場所が必要。それで、その成果を発信して、一過性で消すことなく残していく。そこでメディエイターの役割が求められる。『建築討論』の3代目編集長になった市川さんにも大いに期待しています。

 

20211120日、A-Forumにて

文=和田隆介+市川紘司+齊藤光/写真(ポートレート)=和田隆介

 

布野修司| Shuji Funo

建築計画、建築批評。滋賀県立大学名誉教授、日本大学客員教授/

1949年生まれ。著作に『戦後建築論ノート』『カンポンの世界:ジ

ャワの庶民住居史』『布野修司建築論集』(全3巻)『大元都市 中

国都城の理念と空間構造』など。

 

 

 

 


 

2025年5月24日土曜日

インタビュー連載「日中建設交流史を考える」 第9回:布野修司 先生, インタビュアー 、市川紘司、日中建築住宅産業協議会『日中建協news』

 日中建築住宅産業協議会『日中建協news』掲載

インタビュー連載「日中建設交流史を考える」

9回:布野修司 先生

 

2023919

市川紘司

 

質問リスト(順不同)

·     戦後(1949年)生まれである布野先生は、青年時代、中国という国やその文化・社会に対して、どのような印象を持たれていましたか。とくに、10代の頃に起こった文化大革命については、どのような印象を持たれていましたか。

·     戦後日本の多くの学問分野でそうであったように、布野先生の専門領域である建築計画では、西山夘三氏をはじめ、社会主義をめざす新中国にシンパシーをもつ学者が少なからずいらっしゃったと思います。布野先生が受けた建築教育のなかで、新中国および社会主義・共産主義はどのように扱われていたでしょうか。

·     布野先生は1970年代末から東南アジアのフィールドワークを展開されていますが、中国を初めて訪問したのは何時でしょうか。また、その際の動機や印象をお聞かせください。

·     また、その後、大部『大元都市』に結実することになる中国での都市史研究をどのように展開されるようになったのか、そのあらましを教えてください。

·     1990年代なかば、布野先生は戦後日本の建築ジャーナリズムにおいて「アジアはネガティブ・タブーだった」と指摘されています。改めて、戦後日本の建築界におけるアジアおよび中国がどのように論じられてきたのか(/こなかったのか)、あるいはそうした全体的な状況のなかで、印象的なメディアの取り組みや論文があれば、教えてください。

·     布野研究室では数多くのアジア・中国からの留学生を受け入れてきていますが、そうした留学生に対する考えや印象などをお聞かせください。

·     2010年代後半からは、北京工業大学や西安工程大学で客員・特任教授をされています。中国での教育実践の感触はいかがでしょうか。また、中国の建築教育については、どのような印象を持たれていますか。

·     戦後日本は東南〜東アジア諸国に戦後賠償やODAとして建築・土木工事を実施してきました。アジアをフィールドにする研究者として、そのようなプロジェクトとの付き合いなどがあれば、教えてください。

·     1990年代以降、中国でも現代建築が盛り上がっていきますが、布野先生の視点からは、現在に至るまでの中国の同時代の建築(現代建築)はどのように見えていますか。

 

※以上の質問リストにかぎらず、当日はざっくばらんに、布野先生の中国にかんする「すべて」を聞き出せたら、と思っております。どうぞよろしくお願いします。

2025年1月14日火曜日

若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

 若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

布野修司対談シリーズ⑩

新たな建築家像を目指して



若林広幸

常に既成概念の解体を

お茶碗から列車まで

建築家を市長に

 

 若林広幸の名は東京にいる頃からもちろん知っていた。ライフイン京都が鮮烈だった。でも、その印象は、正直にいって、高松伸よりうまい器用な建築家が京都にいるなあ、という程度の印象であった。祇園の建築など今でも若林、高松は混同されるから、その印象は間違っていないかもしれない。

 京都に来て、何度か会った。全て酒席であった。何事かを話したのであるが、あんまり覚えていない。建築の話というより、たわいもない話が多かったからであろう。いつも何人かの建築家が同席していたせいもある。ただ、いつも、この人は建築が好きなんだなあ、という印象が残った。

 今回話を聞いてみたいと思ったのはその印象のせいである。真面目に(?)建築の話をするのは初めてであった。

 当然だけれど、「京都」が主題になった。京都について考え続けている数少ない建築家であることが、よくわかった。「若林京都市長」も悪くはない、と本気で思う。それに、軽々と建築を超えるのがいい。それこそ「口紅から機関車まで」なんでもござれ、である。建築家にとって、ラピートは実にうらやましい仕事だ。建築は理屈じゃない、というのも好きだ。しかし、京都じゃ苦労するなあ、とも思う。

 話は弾んだ。いつもそうなのであるが、テープを止めてからさらに盛り上がったのであった。

 

◆工業デザインからの出発・・・とにかく、ものがつくりたかった

布野:「たち吉」にいて独立した。若林には工業デザイナーというイメージがある。

若林:僕は工業デザイン科に行ったんだけど、とにかくものがつくりたかった。同じですよデザインは。なんでもやりたいと思ってる。

布野:ものをつくる雰囲気は僕らの時代にはまだあった。特に、京都には。

若林:工業製造関係へ行く方がエリートだった。マジですよ。普通高校はすべり止めだもん。

布野:今、「職人大学」のお手伝いをしてるんだけど、日本はとんでもない国になってきた。ものをつくる人がいない。産業全体が空洞化してる。

若林:京都にぐらい物作りが残らないとまずいよ。

布野:僕は今宇治に住んでてよく見かけるんだけど、京阪宇治の駅舎の仕事が最近の仕事の代表ですか。 

若林:必ずしも思うとおりにできなかったんだけど。

布野:切妻の屋根の連続と丸い開口部。誰のデザインだろうと思ってたら若林だった。前の方のビルは似てるけど違うよね。

若林:そう。一緒に出来たらよかったけど・・・

布野:京都もそうだけど、宇治も景観の問題でいろいろうるさいよね。色々苦労があったんじゃないですか。

若林:そうでもないですよ。風致課もスッと通ったし、賞ももらうし、喜んでもらってます。建設費はいつも苦労しますけどね。

布野:バブルが弾けてみんな渋くなった。建築は社会資本なんだから景気に左右されるんじゃ困るんだけどね。

若林:兵庫県の千草町で福祉センターのコンペとったんですよ。民間ですけどね。平成の大馬鹿門(空充秋作)で有名な町ね。

布野:ああ、仏教大学で大問題になって結局町が引き取ったやつね。

若林:しかし、最近あまりいい仕事がないね。僕には公共の仕事あんまり来ないしね。

布野:代表作は、ライフ・イン京都かな。やはり、南海電車ラピートだな。

若林:京都の漬け物屋。オムロンのリゾート・リゼートセンター。あまり注目されなかったけどなかなかいいんですよ。まあこれからでしょう。

 

◆東京は情報病・・京都の方がじっくり考えられる

布野:もともと京都出身?。

若林:京都生まれの京都育ち。伏見稲荷のすぐそば。下町の長屋みたいなところ。

布野:町中と違う?。

若林:基本的に京都は好きなんだけど、特に町中は人間関係とかごちゃごちゃして、しんどい面がある。

布野:僕も狭いと思うことが多い。デザインのソースとして京都はどう。

若林:スケールがヒューマンでしょう、京都は。東京は疲れる。京都にいる方がじっくり考えられる。東京だといつも追っかけられる気がする。情報病にかかってしまう。

布野:情報も薄っぺらな情報なんだけどね。

若林:じっくり醸成する時間的余裕は京都にある。

布野:東京は官、関西は民。東京は頭でっかち、関西は実務ということもよく言われる。

 

◆とにかくスケッチ 理屈より感性

若林:あんまり理詰めの方じゃない。感性の方を信頼しますよ。ものをつくるということは非常に曖昧なことですよね。理屈で説明しろといわれると頭がプッツンする。

布野:もともと工業デザインですよね、出身は。

若林:教育がそうだったのかな。とにかく、理屈を捏ねるんではなく、形でしめす。既成概念を崩すこと。崩した上で形にしていくことをたたき込まれた。とにかく手を動かしてスケッチ、スケッチですよ。

布野:今事務所ではCADを使う。

若林:ドラフターは一台もありません。便利だけど困るねえ。若い人はコンピューターの中で考えるから、駄目なんだ。数字で考えちゃう。基本はスケッチなんです。コンピューターはただの道具なんだから。寸法よりバランスが大事なんだ。模型も重要です。決まりさえすれば,CADが早い。

 

◆格子の美学・・・曖昧な「和」

布野:ラピートのようなデザインと建築の設計は同じなんですか。

若林:一個のお茶碗も一緒。布野:建築家になるといろいろ理屈をつけないといけなくなる。

若林:そうそう。だんだん駄目になる。でも少し理屈言おうか。ポストモダンはもう古いというけど、もともと近代建築の欠けているものを指摘したのがポストモダンだ。地域性、場所性、歴史性が大事だ、ということでしょう。京都はそうした意味で風土がはっきりしている場所だ。京都は、だから可能性がある。

布野:そこで育まれた感性に期待できる、というわけだ。

若林:そう。

布野:しかし、京都というと「和」とか「日本的なるもの」とかいうブラックホールのような議論がある。

若林:そんな難しい話じゃなくて、もっと曖昧だということ。近代の二分法じゃなくて。割り切れない多元的な部分を京都を含んでいる。白か黒かじゃなくてグレーな部分が「和」なんです。安藤忠雄さんのいう日本的なもの、というのはわかりやすい「和」だ。

布野:西欧人にはね。

若林:格子も夜と昼によって違う。音もあれば光もある。安藤さんは一旦壁をつくって自然を引き込むでしょう。内と外の交感というのはない。京都の格子は曖昧なんです。

布野:格子も京格子というけれど色々あって、京都では区別する。すごくセンシティブだ。奈良はもう少しおおらかだけど。

若林:格子の細さによって見え方が違う。間隔も大事だ。パンチングメタルでも同じことでしょう。穴の大きさと間隔によってすごく違う。

布野:お稲荷さんで遊んだことなんか関係ありますか。

若林:あれ上にのぼると行場があって、おどろおどろしいとこがある。千本鳥居を抜けていくとだんだん曖昧になっていく。

布野:わびすきの京都じゃないんだ。

若林:雅も華美もあるじゃないですか。京都には曖昧に両方があるんです。町中に。それが面白い。

布野:京都妖怪論もある。

若林:仁和寺だって極彩色だったし、京都というと枯れたお寺だけではない。激しい京都もあるんだ。

 

◆杓子定規の景観行政・・・混沌か混乱か

布野:景観行政とのドンパチも、そうした京都観が背景にあるわけだ。

若林:今、自宅を建ててるんだけど風致地区なんです。打ち放しコンクリートは駄目だという。何故だ、というと自然素材として認めてないからだという。

布野:どうしようもなく堅い。紋切り型だ。

若林:隣の石のようなものを吹き付けたマンションはなんだというと、あれにしてくれという。あんなもんは自然じゃないではないか。樹脂だ。

布野:吹き付け剤が自然ですか。困ったもんだ。表面のことしか言わないんでしょう。

若林:打ち放しは駄目だ、というのは絶対理解できない。裁判しようかと思ってるんです。少なくとも大討論会やるべきですよ。

布野:大賛成。機会をみてやろう。国立公園内の規定がきつい。曲線が駄目で、勾配屋根じゃないといけない。

若林:じゅらく壁にしろという、というけど、どこからも見えない、ということがある。

 

◆京都の虚と実・・・まちづくりにメリハリを

布野:どうすればいい。

若林:俺がチェックする。

布野:そう。誰かに任す手がある。場合によると真っ赤でもいいことあるんだから。

若林:極彩色もあったしね。布野:タウン・アーキテクト制を主張するんだけどみんなあんまり乗ってこない。なんでだろう

若林:結局ね、京都をどうしようという明確なヴィジョンがないんですよ。京都市に。

布野:集団無責任体制。でも、京都のグランド・ヴィジョンの審査したけど、五〇〇以上でてきた。そんななかになんかあると思う。

若林:問題はやるかやらないかでしょう。色々あっていい、混沌が京都の特性だ。京都は混沌では混乱し出している。僕も色々案出してるんだ。

布野:秩序と混沌のバランスが問題なんだ。

若林:風致は秩序を回復しようとしてるけど、あまりに杓子定規でマニュアル秩序だ。ぼくは京都のまちづくりについて誰もあんまり考えてないと思う。京都の建築家というのは色々考えてるようでそうでもないんですよ。

布野:確かに、小さな動きは沢山あるけれどまとまりがないように見える。

若林:外の人だって考えてませんよ。

布野:でも、京都への思いは強い。京都のグランドヴィジョンに応募してきたのは三分の一が外人だ。でも東京は少なかった。

若林:そうでしょう。東京の人だって無責任なところがあるんだ。

布野:外人の京都の捉え方はステレオタイプが多い。実際に住んでる外国人は京都は汚い町だと思ってる。

若林:京都市の方針にメリハリがないのが問題なんだ。木造にするなら徹底すればいい。凍結しろというならやればいい。超高層も欲しければどうぞ。全てが中途半端だ。

布野:地区によってやればいい。僕も思うところはあるけど、なかなか思い切ったことができない構造がある。

若林:アイデアは色々ある。小学校の統廃合にしても、あそこを木造にして職人を育てる。それで町家を維持する。布野:問題はだれがやるかだ。若林が市長やりますか。

若林:いいかもね。建築家が市長やったらいい。過去に素敵な町を残した町はみなアーティストが市長やってますよ。アートがわかる感性がないと駄目ですよ。今度のポン・デ・ザールの話でもセンスが問題だ。

布野:建築家を市長にしろって、キャンペーンしようか。

 

◆瓦アレルギーはナンセンス

布野:ところで、瓦をよく使いますよね。 

若林:好きなんですよ。燻しは、ダイキャストみたいだし。打ち放しコンクリートにあってきれいでしょう。

布野:でも建築家は嫌がりますね。収まりが難しいんだ。

若林:なんかタブーがあるんでしょう、建築界には。

布野:勾配屋根になるからね。帝冠様式を思い出す。近代建築家には耐えられない。

若林:でも土からつくる自然素材でしょう、大昔からある。

布野:山田脩二なんか、瓦使えないのは建築じゃない、という。チーム・ズーの瓦の使い方もありますね。

若林:ああいう使い方もしたいけど、京都だと難しい。伝統的な使い方が基本になる。

布野:風土性、地域性ということで、瓦というのはイージーな感じもある。

若林:下手なんだよ、みんな。近代主義にとらわれている。周りを考えれば、自然に、瓦と勾配屋根がでてくる。京都でも場所による。

布野:祇園の建物は全然違う。高松や岸和郎とは違う。若林は京都に対してはやさしいわけだ。

 

◆欲求不満が原動力

若林:結局場所ですね。場所で感じたものを表現したい。東京や大阪だと何をやってもいい感じもあるけどね。

布野:東京の作品はデザインを買われたという面があるよね。

若林:ポストモダンということでね。でも、地方都市の方が興味ありますね。都会じゃない田舎ね。面白いものがみつかりそうだ。

布野:何が手掛かりになる。若林:敷地にたったときの直感だよね。千草町の場合は、石積みのすごい伝統がある。また、たたらがあったんですね。要素で使える。

布野:意外にオーソドックスなんだ。

若林:ただ、そのまんまじゃ面白くない。近代的なメタリックなものを石積みにバーンとぶつけるとか。

布野:若林流がでてくる。

若林:都市は都市で要素をみつけるんですけどね。

布野:外国だとどうだろう。

若林:上海でやったけど、同じですね。

布野:ラピートだと製作のプロセスが違うでしょう。

若林:欲求不満かなあ。いつもなんでああいうデザインなんだろう、と思うことがある。ラピートの話の時にも、どうして電車というのはビジネスライクなんだろうと思ってた。話がきた時にはすぐ手が動くんです。

 

◆シヴィク・デザインへ

若林:最近は土木に興味があるんです。

布野:それはいい。建築家はもっと土木分野と共同すべきだと僕は思ってるんです。建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。シヴィック・デザインの領域は、建築家は得意な筈だ。

若林:この間も、学園都市について相談を受けたんですけど、何も考えずに宅地造成するんですね。山を崩して谷を埋める。自然を残してやるアイデアはいくらもある。評判はよかったんだけどもう決まっているという。

布野:そういうことが実に多い。計画の当初から参加できれば随分違うはずなんだ。土木は土を動かしていくらだから、なかなかそういかない。

若林:いや無駄ですよ。

布野:土木も変わりつつありますから可能性はあります。ダムとか道路とか、これからは無闇に造れないわけですし。ただ、建築家も実績が欲しいよね。橋梁のデザインは同じですよ。建築と。

若林:お茶碗からラピートまでなんでもやりますよ。


2025年1月3日金曜日

ごく普通のまちづくりを!…専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

 ごく普通のまちづくりを!専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

特別研究課題・連載シリーズ③

「ごく普通のまちづくりを! -専門分化と縦割り行政を超えて」

高山英華名誉会員に聞く

 

高山英華 名誉会員・元会長 東京大学名誉教授

 

たかやまえいか

1910年東京都生まれ

東京帝国大学工学部建築学科卒業/都市計画/工学博士/主な業績に、八郎潟干

拓地新農村建設計画、高蔵寺ニュータウン計画、ほか/著書に「私の都市工学」

ほか/「東京オリンピック施設基本計画」にて1965年日本建築学会賞特別賞、

「札幌オリンピック施設基本計画」にて1971年日本建築学会賞特別賞、1978年日

本建築学会大賞受賞

 

聞き手 村上處直 横浜国立大学教授

    布野修司 京都大学助教授

                                                                             

 

 同じパターンの繰り返し-生かされない経験

 僕は内田祥三先生から都市計画や防災を教わったんです。木造都市だから火災

が大変だと、先生は建築学科の総力を使って、いろいろな科学的実験をやった。

延焼とか輻射熱とか、木造家屋を燃やしてデータをつくったんです。先生の理想

は、鉄筋鉄骨構造で耐震耐火のまちをつくること、それがはじめからの大方針だ

ったんです。僕たちはそれを叩き込まれた。ロンドンは1666年の大火で全焼した

ときに石造にした。チャーチルの時、ドイツの爆撃を受けたけれども大火になら

なかった。それで反撃できた。日本はどうか。

 大正12年の関東大震災、僕は中学1年生でした。大久保に居て、ちょうどお昼

で、お茶碗を持って飛び出した。木造の借家でしたが、傾いたけど焼けなかっ

た。それで助かりましたが、下町は全部燃えてしまった。

 後藤新平さんが大風呂敷と言われるほどの復興予算を立てたけど、復興計画は

実現できなかった。区画整理だけは一応やった。とりあえずバラック復興して、

あとで鉄筋にする、ということだった。そのうちにと言っているうちにそのまま

になってしまった。

 そこへまた空襲だ。アメリカのB29は1万メートルくらいで日本の高射砲は届

かない。焼夷弾をばらまいた。ここで防空壕を掘って母と2人で入っていて、落

ちてきた焼夷弾を消したりした。中央線の沿線は相当やられましたが、幸い杉並

区のこのへんは大火にはならなかった。僕は近くの広場に逃げて助かったわけで

す。だけど都心はまた焼けてしまった。そしてまたバラック復興です。

 そして、阪神淡路大震災。神戸のまちは日本のまちとしては平均よりはいいま

ちだったでしょう。それでも直下型地震と木造ということで、ああいう被害を受

けた。3回目の経験だ。

 3回目の復興もまた同じパターンですね。今度つくる建物は耐震的に、免震構

造とかいろいろやっていますが、まち全体からみれば、そう安全というわけには

いかない。日本の災害と都市計画はいつもそういうパターンだ。わかっちゃいる

けど、やめられない。どうすればいいかは、口をすっぱくするほどいってきたん

だけどね。

 

 経済と安全-見えない解決策

 関東大震災後、丸の内地区は不燃化できた。下町は区画整理で整備した。昭和

通りとか道は通した。だけど建物までいかなかった。

 最近は超高層建築も可能になった。まだ、安全性には議論はある。免震とか剛

構造、柔構造の議論がある。構造の先生がもうちょっと議論してもいいと思う。

要するにそれが社会的に見て経済的かどうか。木造密集住宅地というのは改善が

必要だけれど、投資をしてこなかったわけでしょう。

 建築基準法をつくるのはわけない。防災地区か何かつくって、建ててはいけな

いと言うことはわけないけれども、建てられなかったら何もならないというので

そのままになっている。いまなら、基準は、免震でも、超高層でも、普通の鉄筋

鉄骨でもつくれるでしょう。技術的にある水準を保って、それでなければ建てら

れないということは建築学会で言えるでしょう。ただそれが、経済的に社会的に

受け入れられるかどうかが大問題だ。

 土地問題とか、日照とか、広い意味の安全とか、環境ということを満たしなが

らできるか。いつも言っているけれども、そこに解決策が見えない。物理的には

目標はあるけれども、それを建築界全体として実現する方向はみえていない。建

築界だけではできないことかもしらん。

 

 一挙にはできない防災計画-モデル事業を

 僕がやった一番大きなプロジェクトは江東防災計画です。一挙にはできないか

ら、まず十字架ベルトをつくる。そこに、不燃化できる能力のある建物、あるい

は区役所、団地を配置する。十字架ベルトと緑地と不燃化建物を組み合わせたも

のをまずやって、あとは間をだんだんにやっていく。大火にはならないだろうと

いう復興の方法をつくったわけです。

 ベルトまではいかないけれども、ベルトの拠点として、団地を不燃化する。要

するに大火にならないような不燃化を、徐々に民間でも進められるような方法を

取ったんです。なんだかんだといっても、再開発は、白鬚とか、大島、小松川と

か、中央地区とか、ある程度できているし、空き地ができて、そこが公園になっ

ていっている。再開発地区は遅いけれども、相当できあがっている。だから昔の

江東の危険さはかなり軽減されている。時間はかかるんです。

 一方、阿佐ヶ谷の僕の住んでいるこの辺りが一時ものすごく危ないという。本

所深川が危ないというので江東地区をやっていたら、シミュレーションだと高円

寺、阿佐ヶ谷のほうが危ないという。木造で密集してきたからね。ある時期に、

細分化してしまった。木造で、小さな家だから耐火にはできない。それを難燃化

くらいまで持っていく。いま再開発でずいぶん建て替えていますからね。徐々に

やっていく。

 

 地域独自の計画を

 関西のほうは少し甘かったかな。関西は地震は来ないということだったから

ね。いままでそういう経験がなかった。京都は危ないんだけれども、幸か不幸か

大火は案外ない。村上君に聞くと、神戸では地震の話はよしてくださいというこ

とだった。東京だって、いまの若い人は知らないんだ。知らない人にいくら言っ

ても本当の怖さがわからない。どうすればいいか。いまは、いろいろなコミュニ

ケーションも発達しているから、啓蒙のほうが大切かもしれない。

 いま京都は懸賞(京都グランドヴィジョン・コンペ)をやっているでしょう。

京都は、文化都市だから残さなければいけないものがある。どこまで残せば大火

にならないか、が重要だ。もう一つは京都のまちのインフラの問題がある。藤原

京から平城京、長岡京、そして平安京になったけれど、失敗したのは下水道なん

です。下水でつまった。川で多少ごまかしているけどね。 だから上下水道を地

下埋設にして、まずインフラをきちんとする必要がある。あとは街区で防災を考

える。ビルをどのくらい建てて、間に文化財を残しておいても大丈夫か。そうい

う難燃化が、京都の将来だと僕は思う。川筋は残すとか、山は残すとか、五重塔

とかは緑地と組み合わせるとか、京都は独自の防災計画を立てるときだと思う。

今度の懸賞募集はそれを予定しているんだろうと思う。

 

 再開発コーディネーターの役割

 僕は、これからの都市計画はやはり再開発だと思う。不燃化も再開発でやらな

ければできない。それで僕は再開発コーディネーターを一生懸命つくったんだ。

それが10年、ちょうど間に合って、そういう連中がかなり震災復興の応援に行き

ました。権利関係の調整もできるプランナーが必要なんです、日本のまちづくり

には。

 住宅をたくさんつくればいいというもんじゃない。復興計画では公共住宅が供

給過剰になってしまっている。住宅の立地と被災者の生活圏がうまく合わなく

て、空き家が出ている。ちぐはぐというか、計画全体を誰も見ていないのはまず

い。住宅行政でもなんでも、建物と内容とか住まいがばらばらになってしまって

いるんだ。

 土木も問題だった。幹線道路も鉄道も東西方向だけで南北がつながってなかっ

た。船着き場は液状化で大

変でしょう。高速道路が落ちたというので、いま東京も一生懸命に補強してい

る。ライフラインもそうです。これからは大きな二重くらいの地下道、トンネル

だな。掘削技術が発達しているから、その中に下水も、ライフラインもみんな入

れてしまって、上は大きな緑道くらいにしておく。そういう防災兼ライフライン

が重要になる。大きな事業ですね。それも縦割りでやらない。土木だけではまず

いんです。シビルエンジニアなんだから。ライフラインというのは、電線とか電

話線とか、上下水道とか、そういうものを一緒にして、上は緑道とかという発想

が必要なんだ

 

 やわらかな防災-まちづくりのテーマ:福祉・老齢 化・地球環境

 いま、まちづくりのテーマというと、福祉、老齢化、そして地球規模の共生で

しょう。緑と共生しろとか、自然と共生しろという環境問題、エコロジーが重要

なんだ。庭木を残すとか、ガーデニングなどは別の意味ではやっているでしょ

う。要するに田園都市の思想ですね。造園屋さんがガーデニングなどといって、

コンクリートの塀を取り払ったりしている。防災的な意味

もあるんだ。阪神大震災でも、樹木は結構火を止めています。生きていますか

ら、頑張って止めた。焦げていたけれども、その木はみんな芽をふいていま元気

になっています。

 多摩ニュータウンは、当時の歩車道分離とか、エレベーターなしというのでや

ったから、いま老人問題でまいってしまっている。全部つくり替えないといけな

い。階段でしか降りられない。降りてからも、歩車道分離してしまったから、歩

かないと行かれない。計画した時は歩車道分離で、4階までは歩いたほうが健康

的だと言って、日照は間をおけばいいという方向だけだった。老齢化ということ

は考えていなかった。それがいま全部老齢化だから、多摩は空き家になってしま

ったんです。シルバー産業も起こさなければいけない。

 防災というのは、いままでは感じが固かったんですね。環境とか生活と防災が

一体だという宣伝をしないといけない。防災というと、消防の問題になってしま

ってる。

 避難路だって、本所深川で大災害があったものだから、大きな広場でなければ

危ないと遠くへ避難するようになっている。それでは、行く途中で、みんな駄目

になってしまうのはわかっているんだ。僕の家からの避難場所は、上井草のもっ

と先、光が丘だからね。元のグラントハイツ。周りが難燃化すれば、すぐそこの

中学校でいいんです。僕は空襲のときにそこに逃げたんだ。ここで焼夷弾を消し

てから、すぐそこの中学校に逃げた。神戸の時もそうでしょう。小中学校が威力

があった。食べ物はコンビニが相当役に立ったわけだ。身近な環境が大事なん

だ。

 

 総合的まちづくり-縦割り行政の打破

 震災で、日本の都市計画のいろいろな問題がいっぺんに出た。戦後ずっとやっ

てきたことの問題とか、縦割り行政の問題とか、いろいろなことが出てきたん

だ。

 白鬚防災拠点はたまたま市街地再開発制度を使ってやったけれども、公園と住

宅をからめるとか、生活再建とからめる。とにかく東京都の全部の局を束ねてプ

ランニングした。総合的にやらないとできない。普通だったら再開発がかけられ

ない地区で600世帯以上あったんです。それを口説き落としていくためには、再

開発法では何もできない。だから福祉局とか、経済局とかが全部一緒になってや

った。戦前は不良住宅改良法。同潤会は内田先生がそういう意味で実施部隊とし

てつくったんです。

 今度都市計画を地方へ下ろしたでしょう。市町村レベルの小さいところのほう

が、総合的にできる可能性がある。市役所などに人がいないと駄目です。市役所

に人材がいれば、それではやりましょうということになるけれど、権限だけ下へ

落としても、もっとばらばらになってしまう。全国一律というのはよくないけれ

ども、その都市、その都市に応じた、京都なら京都に応じたものをつくるのは、

京都にいる人でなければできない。貧しさの程度とか、中小企業の程度とかはわ

からないんです。

 建設省で委員会をやっても、ほかの省庁も入れる。防災は同じテーブルにつけ

る。それが大事なことなんです。それでみんなが考えていけばいい。災害対策と

か災害の防御だけを考えていたらできない。普段使えていないものは、いざとい

うときにうまく使えない。

 内閣に緊急何とかを置けというのは、結構だけれども、末端の駐在所がその町

のいろいろなところを知っていないと誘導したりできない。消防の人もそうで

す。中枢が駄目だというのは、この間わかった。地域に対する判断は、やはりそ

の土地にいる人でないと駄目です。末端をどうするかという問題が大きい。今度

の震災でも燃えているのに、消防が来るまで何もしないで見ていた地区もある。

やはりコミュニティーが元気なところはきちんと対応できた。

 

 車椅子からの視点-環境、安全と防災をつなぐ

 住む人の気になって、老人福祉まで入れてやる。文部省は体育施設ばかりつく

る。厚生省は病気にならないと扱わない。体力づくり、エアロビクスと老人福祉

と一緒になったような程度のものが発想できない。あなたはエアロビクスは辛い

から太極拳ぐらいにしておきなさい。ちょっと悪くなったらお医者さんに行く。

そうすれば老人福祉はあんなに金がかからないんです。いまは悪くならないと、

薬でも何でも取れない。

悪くならないというところが大切なのに。防災も、普通の身近な環境で何かでき

る手段を取れればいい。非常に悪くなってしまえば不良住宅改良事業みたいにで

きるけれども、そんなに悪くならないけれども、道が段差があると逃げられない

とかいろいろ問題があるんです。

 僕は、運動(サッカー)をしすぎてしまったから、背骨の最後のところが擦り

切れているんです。それで足がちょっとしびれている。電気三輪車を買って乗り

回してみようと思っている。そうすると、どういうところに問題があるのかがわ

かる。環境、安全、それと防災をつなげるという感覚が出てくる。

 足が不自由になって、ここから駅へ行く間、七曲がりしているところがあるの

に気づいた。自動車が来ても、自動車がすぐは通れない。だから自動車はブブブ

ーッといいながら後ろへくっついている。そのくらいの道も、変に飛び出すと危

ない。いろいろなところで問題点がわかる。とにかく防災という言葉は少し固す

ぎるんです。要するに普通の生活環境がきちっとつくってあれば、すべて対応で

きるということですね。

 

 街区を残す

 100年くらいもつものを1街区つくれと言いたい。妻籠や馬籠などはそういう

ものです。当時の棟梁は、どういう人でも同じような手法を身につけていたわけ

でしょう。それが自然にああいう街道を形成したわけで、計画したわけではない

んです。当時の住宅生産の一つのパターンが、それだから揃ったわけだ。いまは

黄色の家の隣に赤い家をつくったり、そういうことばかりしている。それでやた

らに規制すれば今度は一列縦隊みたいなものになってしまう。どうもうまくいか

ない。

 京都あたりはそれを一生懸命やらないといけない。東京にも、麹町なんて、い

いところがあったんだ。贅沢な、本当に残しておきたいような昭和の大工さんの

最後の仕事みたいなものがいっぱいあった。英国大使館の裏あたりのところに

も、そういう住宅があって、町があった。それがいまはごちゃごちゃになってし

まった。

 日本の建物は住宅も公共建築も30年ももっていない。統計を見ると、そうなっ

ている。そういう意味ではこれからの可能性はある。これから21世紀に、君たち

の時代に残そうと思えば、僕たちのときに残らなかったものを残すことはでき

る。ただ、あまり惜しくないものもあるから、また同じことをやりかねない。

100年もつと50万戸くらいでいい。だから、そういうものをつくる覚悟があるか

どうか。街区でやらないと駄目です。ぽつぽつやると邪魔になる。だから、ある

街区で、いいものが100年もつ。町並みというか街区、どちらから見るか、裏か

ら見るか中から見るか。ともかく一団地の住宅地経営というのが昔都市計画であ

った。常盤台とか田園都市みたいに、ある単位をやれば残るわけです。

 

 モデル事業を-地方自治体の可能性

 都市計画を市町村におろしたから地方自治体が大事になる。技術スタッフ、財

政が一元化できるのは自治体でしょう。面白い人がいるんです。月島の課長さん

で、佃島の再開発をやる。いまの規則は知っちゃいないという人がいると、昔の

船着き場を残しておくとか、面白いことをやれるんです。

 企画みたいなところと最後に建築家が格好をつけるところは違うんです。最後

の美的感覚とか、その時代の材料を使ってあまり違和感のないものをつくる、自

然とマッチするという才能はやはり建築家でしょう。だけど、団地をつくって、

人を住まわせるとか、税金をどうするとか、財産税をどうするというのは企画的

な人がいなければ駄目でしょう。僕は再開発コーディネーターをそういうものに

育てたいと思っていたわけです。東大の都市工学科を出た市長が四、五人いるん

じゃないですか。そうでなくても、企画か何かに行った人材は多いと思う。地方

へ行って、いま助役などになっている。建設省に行ったやつが課長くらいだと、

もう副知事くらいになってしまったのもいる。地方に都市計画をおろしても、そ

ういう人がいればなんとかなるということです。

 都市工学科をつくったり再開発協会をつくったりして、いまちょうど地方分権

と合ってきた。僕には先見の明があるわけだ。ただ震災のほうは、また来るかも

しれないからな。もう嫌だよ。東京だって危ないよ。村上君なんか、私と同じこ

とをやっているのだから、また今度も駄目でしたなんて、言わないようにたの

む。

 

 大きな議論を-建築とはなんぞや

 この間学会の名簿をもらったら、電話帳みたいですごいね。委員会なんか何で

もある。重箱の隅をほじくらないと学位が取れない。もう少し建築とは何ぞやと

いうことを考えることが必要ですよ。そういうことを言う人がだんだんいなくな

ってしまった。

 論文なんて、コンピュータでどうだこうだといって、僕が読んでもわかりはし

ない。なんだか小さいことで、人のやらないことをやらないと学位が取れないと

いう。僕は、東大はデザインは学位は要らないとしたんです。それでいま安藤忠

雄君が東大に来た。あの人は面白い。工業高校卒ですからね。建築は大学を出な

くてもいいんです。それから棟梁で、田中文男。すごいんだ。この間、テレビに

出ていましたね。

 細かいこともやってはいけないということではないよ。だけど僕は、いま建築

屋はどうすればいいかという議論をもう少しやったほうがいいんじゃないかと思

う。学会が悪いのは、細分化してしまうんです。

 僕は農村計画部会というものをつくった。農村も都市もというのだけれども、

両方に分かれてしまう。都市と農村をどういう割り振りにするのか、これから地

方分権で中都市を育てるのか、拠点都市を育てるのか、あるいは山村みたいなも

のをやるのか。農林水産をどうするのか。関東地方に農村がなくなったらどうな

るか。そういう議論が大事だ。

 市民大学とかで、老人福祉でバリアフリーの家はどうだとか、そういうものを

講習会なんかでやればいいんじゃないか。専門でなくても、建築家として、そう

いうときに一家言なければいけない。それは知らないということではいけない。

そういう中に建築があるんだ。啓蒙なんておこがましいことを言って、手前のほ

うが啓蒙されないといけない。建築屋をうんと集めて、おじいさんを呼んで講演

をしてもらう。あんたのいま困っていることは何ですか。それに建築屋は答える

義務がある。

 もしかしたら学校の教育が悪い。君たち、何を教えているんだ、大学では。

 方法論と言うと、変に難しくなるけどね。一緒に仕事をして覚えるというのが

僕のやり方だ。講義はちょっとよそゆきになってしまう。

 

 大道無門

 「大道無門」というのは弘法大師です。来るものは拒まずという。弘法大師は

偉かった。あれこそ総合プランナーです。温泉は掘るし、ダムはつくる。ダムが

できたころ、大水が来る。天気予報で当てるんだ。

 拝むと、雨が降って、ダムに水がたまる。弘法大師が偉いのは、四国の遍路

で、景色のいいところをずっと上って行くと、ほっとする、いいところにお寺を

建てる。あるいは講仲間をつくるでしょう。それでお金をためておくわけです。

いまの運輸省は送るだけ、大蔵省は税金を取るだけだ。講で大蔵省の代わりにち

ゃんと旅費をつくらせておいて、空気のいいところを回らせて、健康をよくす

る。最後は比叡山の一番いいところへお寺を造りそばに宿場を造って大勢を泊め

る。総合的に全部終わりまでやっている。

 あれは総合プランナーとしては大したものですね。建築学会も総合的じゃない

と駄目なんだ。

 

             1998129日 東京・高山邸にて)

 

 ★写真3枚あり

  タイトル:阪神大震災での火災、白鬚防災拠点計画

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...