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2025年1月14日火曜日

若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

 若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619

布野修司対談シリーズ⑩

新たな建築家像を目指して



若林広幸

常に既成概念の解体を

お茶碗から列車まで

建築家を市長に

 

 若林広幸の名は東京にいる頃からもちろん知っていた。ライフイン京都が鮮烈だった。でも、その印象は、正直にいって、高松伸よりうまい器用な建築家が京都にいるなあ、という程度の印象であった。祇園の建築など今でも若林、高松は混同されるから、その印象は間違っていないかもしれない。

 京都に来て、何度か会った。全て酒席であった。何事かを話したのであるが、あんまり覚えていない。建築の話というより、たわいもない話が多かったからであろう。いつも何人かの建築家が同席していたせいもある。ただ、いつも、この人は建築が好きなんだなあ、という印象が残った。

 今回話を聞いてみたいと思ったのはその印象のせいである。真面目に(?)建築の話をするのは初めてであった。

 当然だけれど、「京都」が主題になった。京都について考え続けている数少ない建築家であることが、よくわかった。「若林京都市長」も悪くはない、と本気で思う。それに、軽々と建築を超えるのがいい。それこそ「口紅から機関車まで」なんでもござれ、である。建築家にとって、ラピートは実にうらやましい仕事だ。建築は理屈じゃない、というのも好きだ。しかし、京都じゃ苦労するなあ、とも思う。

 話は弾んだ。いつもそうなのであるが、テープを止めてからさらに盛り上がったのであった。

 

◆工業デザインからの出発・・・とにかく、ものがつくりたかった

布野:「たち吉」にいて独立した。若林には工業デザイナーというイメージがある。

若林:僕は工業デザイン科に行ったんだけど、とにかくものがつくりたかった。同じですよデザインは。なんでもやりたいと思ってる。

布野:ものをつくる雰囲気は僕らの時代にはまだあった。特に、京都には。

若林:工業製造関係へ行く方がエリートだった。マジですよ。普通高校はすべり止めだもん。

布野:今、「職人大学」のお手伝いをしてるんだけど、日本はとんでもない国になってきた。ものをつくる人がいない。産業全体が空洞化してる。

若林:京都にぐらい物作りが残らないとまずいよ。

布野:僕は今宇治に住んでてよく見かけるんだけど、京阪宇治の駅舎の仕事が最近の仕事の代表ですか。 

若林:必ずしも思うとおりにできなかったんだけど。

布野:切妻の屋根の連続と丸い開口部。誰のデザインだろうと思ってたら若林だった。前の方のビルは似てるけど違うよね。

若林:そう。一緒に出来たらよかったけど・・・

布野:京都もそうだけど、宇治も景観の問題でいろいろうるさいよね。色々苦労があったんじゃないですか。

若林:そうでもないですよ。風致課もスッと通ったし、賞ももらうし、喜んでもらってます。建設費はいつも苦労しますけどね。

布野:バブルが弾けてみんな渋くなった。建築は社会資本なんだから景気に左右されるんじゃ困るんだけどね。

若林:兵庫県の千草町で福祉センターのコンペとったんですよ。民間ですけどね。平成の大馬鹿門(空充秋作)で有名な町ね。

布野:ああ、仏教大学で大問題になって結局町が引き取ったやつね。

若林:しかし、最近あまりいい仕事がないね。僕には公共の仕事あんまり来ないしね。

布野:代表作は、ライフ・イン京都かな。やはり、南海電車ラピートだな。

若林:京都の漬け物屋。オムロンのリゾート・リゼートセンター。あまり注目されなかったけどなかなかいいんですよ。まあこれからでしょう。

 

◆東京は情報病・・京都の方がじっくり考えられる

布野:もともと京都出身?。

若林:京都生まれの京都育ち。伏見稲荷のすぐそば。下町の長屋みたいなところ。

布野:町中と違う?。

若林:基本的に京都は好きなんだけど、特に町中は人間関係とかごちゃごちゃして、しんどい面がある。

布野:僕も狭いと思うことが多い。デザインのソースとして京都はどう。

若林:スケールがヒューマンでしょう、京都は。東京は疲れる。京都にいる方がじっくり考えられる。東京だといつも追っかけられる気がする。情報病にかかってしまう。

布野:情報も薄っぺらな情報なんだけどね。

若林:じっくり醸成する時間的余裕は京都にある。

布野:東京は官、関西は民。東京は頭でっかち、関西は実務ということもよく言われる。

 

◆とにかくスケッチ 理屈より感性

若林:あんまり理詰めの方じゃない。感性の方を信頼しますよ。ものをつくるということは非常に曖昧なことですよね。理屈で説明しろといわれると頭がプッツンする。

布野:もともと工業デザインですよね、出身は。

若林:教育がそうだったのかな。とにかく、理屈を捏ねるんではなく、形でしめす。既成概念を崩すこと。崩した上で形にしていくことをたたき込まれた。とにかく手を動かしてスケッチ、スケッチですよ。

布野:今事務所ではCADを使う。

若林:ドラフターは一台もありません。便利だけど困るねえ。若い人はコンピューターの中で考えるから、駄目なんだ。数字で考えちゃう。基本はスケッチなんです。コンピューターはただの道具なんだから。寸法よりバランスが大事なんだ。模型も重要です。決まりさえすれば,CADが早い。

 

◆格子の美学・・・曖昧な「和」

布野:ラピートのようなデザインと建築の設計は同じなんですか。

若林:一個のお茶碗も一緒。布野:建築家になるといろいろ理屈をつけないといけなくなる。

若林:そうそう。だんだん駄目になる。でも少し理屈言おうか。ポストモダンはもう古いというけど、もともと近代建築の欠けているものを指摘したのがポストモダンだ。地域性、場所性、歴史性が大事だ、ということでしょう。京都はそうした意味で風土がはっきりしている場所だ。京都は、だから可能性がある。

布野:そこで育まれた感性に期待できる、というわけだ。

若林:そう。

布野:しかし、京都というと「和」とか「日本的なるもの」とかいうブラックホールのような議論がある。

若林:そんな難しい話じゃなくて、もっと曖昧だということ。近代の二分法じゃなくて。割り切れない多元的な部分を京都を含んでいる。白か黒かじゃなくてグレーな部分が「和」なんです。安藤忠雄さんのいう日本的なもの、というのはわかりやすい「和」だ。

布野:西欧人にはね。

若林:格子も夜と昼によって違う。音もあれば光もある。安藤さんは一旦壁をつくって自然を引き込むでしょう。内と外の交感というのはない。京都の格子は曖昧なんです。

布野:格子も京格子というけれど色々あって、京都では区別する。すごくセンシティブだ。奈良はもう少しおおらかだけど。

若林:格子の細さによって見え方が違う。間隔も大事だ。パンチングメタルでも同じことでしょう。穴の大きさと間隔によってすごく違う。

布野:お稲荷さんで遊んだことなんか関係ありますか。

若林:あれ上にのぼると行場があって、おどろおどろしいとこがある。千本鳥居を抜けていくとだんだん曖昧になっていく。

布野:わびすきの京都じゃないんだ。

若林:雅も華美もあるじゃないですか。京都には曖昧に両方があるんです。町中に。それが面白い。

布野:京都妖怪論もある。

若林:仁和寺だって極彩色だったし、京都というと枯れたお寺だけではない。激しい京都もあるんだ。

 

◆杓子定規の景観行政・・・混沌か混乱か

布野:景観行政とのドンパチも、そうした京都観が背景にあるわけだ。

若林:今、自宅を建ててるんだけど風致地区なんです。打ち放しコンクリートは駄目だという。何故だ、というと自然素材として認めてないからだという。

布野:どうしようもなく堅い。紋切り型だ。

若林:隣の石のようなものを吹き付けたマンションはなんだというと、あれにしてくれという。あんなもんは自然じゃないではないか。樹脂だ。

布野:吹き付け剤が自然ですか。困ったもんだ。表面のことしか言わないんでしょう。

若林:打ち放しは駄目だ、というのは絶対理解できない。裁判しようかと思ってるんです。少なくとも大討論会やるべきですよ。

布野:大賛成。機会をみてやろう。国立公園内の規定がきつい。曲線が駄目で、勾配屋根じゃないといけない。

若林:じゅらく壁にしろという、というけど、どこからも見えない、ということがある。

 

◆京都の虚と実・・・まちづくりにメリハリを

布野:どうすればいい。

若林:俺がチェックする。

布野:そう。誰かに任す手がある。場合によると真っ赤でもいいことあるんだから。

若林:極彩色もあったしね。布野:タウン・アーキテクト制を主張するんだけどみんなあんまり乗ってこない。なんでだろう

若林:結局ね、京都をどうしようという明確なヴィジョンがないんですよ。京都市に。

布野:集団無責任体制。でも、京都のグランド・ヴィジョンの審査したけど、五〇〇以上でてきた。そんななかになんかあると思う。

若林:問題はやるかやらないかでしょう。色々あっていい、混沌が京都の特性だ。京都は混沌では混乱し出している。僕も色々案出してるんだ。

布野:秩序と混沌のバランスが問題なんだ。

若林:風致は秩序を回復しようとしてるけど、あまりに杓子定規でマニュアル秩序だ。ぼくは京都のまちづくりについて誰もあんまり考えてないと思う。京都の建築家というのは色々考えてるようでそうでもないんですよ。

布野:確かに、小さな動きは沢山あるけれどまとまりがないように見える。

若林:外の人だって考えてませんよ。

布野:でも、京都への思いは強い。京都のグランドヴィジョンに応募してきたのは三分の一が外人だ。でも東京は少なかった。

若林:そうでしょう。東京の人だって無責任なところがあるんだ。

布野:外人の京都の捉え方はステレオタイプが多い。実際に住んでる外国人は京都は汚い町だと思ってる。

若林:京都市の方針にメリハリがないのが問題なんだ。木造にするなら徹底すればいい。凍結しろというならやればいい。超高層も欲しければどうぞ。全てが中途半端だ。

布野:地区によってやればいい。僕も思うところはあるけど、なかなか思い切ったことができない構造がある。

若林:アイデアは色々ある。小学校の統廃合にしても、あそこを木造にして職人を育てる。それで町家を維持する。布野:問題はだれがやるかだ。若林が市長やりますか。

若林:いいかもね。建築家が市長やったらいい。過去に素敵な町を残した町はみなアーティストが市長やってますよ。アートがわかる感性がないと駄目ですよ。今度のポン・デ・ザールの話でもセンスが問題だ。

布野:建築家を市長にしろって、キャンペーンしようか。

 

◆瓦アレルギーはナンセンス

布野:ところで、瓦をよく使いますよね。 

若林:好きなんですよ。燻しは、ダイキャストみたいだし。打ち放しコンクリートにあってきれいでしょう。

布野:でも建築家は嫌がりますね。収まりが難しいんだ。

若林:なんかタブーがあるんでしょう、建築界には。

布野:勾配屋根になるからね。帝冠様式を思い出す。近代建築家には耐えられない。

若林:でも土からつくる自然素材でしょう、大昔からある。

布野:山田脩二なんか、瓦使えないのは建築じゃない、という。チーム・ズーの瓦の使い方もありますね。

若林:ああいう使い方もしたいけど、京都だと難しい。伝統的な使い方が基本になる。

布野:風土性、地域性ということで、瓦というのはイージーな感じもある。

若林:下手なんだよ、みんな。近代主義にとらわれている。周りを考えれば、自然に、瓦と勾配屋根がでてくる。京都でも場所による。

布野:祇園の建物は全然違う。高松や岸和郎とは違う。若林は京都に対してはやさしいわけだ。

 

◆欲求不満が原動力

若林:結局場所ですね。場所で感じたものを表現したい。東京や大阪だと何をやってもいい感じもあるけどね。

布野:東京の作品はデザインを買われたという面があるよね。

若林:ポストモダンということでね。でも、地方都市の方が興味ありますね。都会じゃない田舎ね。面白いものがみつかりそうだ。

布野:何が手掛かりになる。若林:敷地にたったときの直感だよね。千草町の場合は、石積みのすごい伝統がある。また、たたらがあったんですね。要素で使える。

布野:意外にオーソドックスなんだ。

若林:ただ、そのまんまじゃ面白くない。近代的なメタリックなものを石積みにバーンとぶつけるとか。

布野:若林流がでてくる。

若林:都市は都市で要素をみつけるんですけどね。

布野:外国だとどうだろう。

若林:上海でやったけど、同じですね。

布野:ラピートだと製作のプロセスが違うでしょう。

若林:欲求不満かなあ。いつもなんでああいうデザインなんだろう、と思うことがある。ラピートの話の時にも、どうして電車というのはビジネスライクなんだろうと思ってた。話がきた時にはすぐ手が動くんです。

 

◆シヴィク・デザインへ

若林:最近は土木に興味があるんです。

布野:それはいい。建築家はもっと土木分野と共同すべきだと僕は思ってるんです。建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。シヴィック・デザインの領域は、建築家は得意な筈だ。

若林:この間も、学園都市について相談を受けたんですけど、何も考えずに宅地造成するんですね。山を崩して谷を埋める。自然を残してやるアイデアはいくらもある。評判はよかったんだけどもう決まっているという。

布野:そういうことが実に多い。計画の当初から参加できれば随分違うはずなんだ。土木は土を動かしていくらだから、なかなかそういかない。

若林:いや無駄ですよ。

布野:土木も変わりつつありますから可能性はあります。ダムとか道路とか、これからは無闇に造れないわけですし。ただ、建築家も実績が欲しいよね。橋梁のデザインは同じですよ。建築と。

若林:お茶碗からラピートまでなんでもやりますよ。


2025年1月3日金曜日

ごく普通のまちづくりを!…専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

 ごく普通のまちづくりを!専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

特別研究課題・連載シリーズ③

「ごく普通のまちづくりを! -専門分化と縦割り行政を超えて」

高山英華名誉会員に聞く

 

高山英華 名誉会員・元会長 東京大学名誉教授

 

たかやまえいか

1910年東京都生まれ

東京帝国大学工学部建築学科卒業/都市計画/工学博士/主な業績に、八郎潟干

拓地新農村建設計画、高蔵寺ニュータウン計画、ほか/著書に「私の都市工学」

ほか/「東京オリンピック施設基本計画」にて1965年日本建築学会賞特別賞、

「札幌オリンピック施設基本計画」にて1971年日本建築学会賞特別賞、1978年日

本建築学会大賞受賞

 

聞き手 村上處直 横浜国立大学教授

    布野修司 京都大学助教授

                                                                             

 

 同じパターンの繰り返し-生かされない経験

 僕は内田祥三先生から都市計画や防災を教わったんです。木造都市だから火災

が大変だと、先生は建築学科の総力を使って、いろいろな科学的実験をやった。

延焼とか輻射熱とか、木造家屋を燃やしてデータをつくったんです。先生の理想

は、鉄筋鉄骨構造で耐震耐火のまちをつくること、それがはじめからの大方針だ

ったんです。僕たちはそれを叩き込まれた。ロンドンは1666年の大火で全焼した

ときに石造にした。チャーチルの時、ドイツの爆撃を受けたけれども大火になら

なかった。それで反撃できた。日本はどうか。

 大正12年の関東大震災、僕は中学1年生でした。大久保に居て、ちょうどお昼

で、お茶碗を持って飛び出した。木造の借家でしたが、傾いたけど焼けなかっ

た。それで助かりましたが、下町は全部燃えてしまった。

 後藤新平さんが大風呂敷と言われるほどの復興予算を立てたけど、復興計画は

実現できなかった。区画整理だけは一応やった。とりあえずバラック復興して、

あとで鉄筋にする、ということだった。そのうちにと言っているうちにそのまま

になってしまった。

 そこへまた空襲だ。アメリカのB29は1万メートルくらいで日本の高射砲は届

かない。焼夷弾をばらまいた。ここで防空壕を掘って母と2人で入っていて、落

ちてきた焼夷弾を消したりした。中央線の沿線は相当やられましたが、幸い杉並

区のこのへんは大火にはならなかった。僕は近くの広場に逃げて助かったわけで

す。だけど都心はまた焼けてしまった。そしてまたバラック復興です。

 そして、阪神淡路大震災。神戸のまちは日本のまちとしては平均よりはいいま

ちだったでしょう。それでも直下型地震と木造ということで、ああいう被害を受

けた。3回目の経験だ。

 3回目の復興もまた同じパターンですね。今度つくる建物は耐震的に、免震構

造とかいろいろやっていますが、まち全体からみれば、そう安全というわけには

いかない。日本の災害と都市計画はいつもそういうパターンだ。わかっちゃいる

けど、やめられない。どうすればいいかは、口をすっぱくするほどいってきたん

だけどね。

 

 経済と安全-見えない解決策

 関東大震災後、丸の内地区は不燃化できた。下町は区画整理で整備した。昭和

通りとか道は通した。だけど建物までいかなかった。

 最近は超高層建築も可能になった。まだ、安全性には議論はある。免震とか剛

構造、柔構造の議論がある。構造の先生がもうちょっと議論してもいいと思う。

要するにそれが社会的に見て経済的かどうか。木造密集住宅地というのは改善が

必要だけれど、投資をしてこなかったわけでしょう。

 建築基準法をつくるのはわけない。防災地区か何かつくって、建ててはいけな

いと言うことはわけないけれども、建てられなかったら何もならないというので

そのままになっている。いまなら、基準は、免震でも、超高層でも、普通の鉄筋

鉄骨でもつくれるでしょう。技術的にある水準を保って、それでなければ建てら

れないということは建築学会で言えるでしょう。ただそれが、経済的に社会的に

受け入れられるかどうかが大問題だ。

 土地問題とか、日照とか、広い意味の安全とか、環境ということを満たしなが

らできるか。いつも言っているけれども、そこに解決策が見えない。物理的には

目標はあるけれども、それを建築界全体として実現する方向はみえていない。建

築界だけではできないことかもしらん。

 

 一挙にはできない防災計画-モデル事業を

 僕がやった一番大きなプロジェクトは江東防災計画です。一挙にはできないか

ら、まず十字架ベルトをつくる。そこに、不燃化できる能力のある建物、あるい

は区役所、団地を配置する。十字架ベルトと緑地と不燃化建物を組み合わせたも

のをまずやって、あとは間をだんだんにやっていく。大火にはならないだろうと

いう復興の方法をつくったわけです。

 ベルトまではいかないけれども、ベルトの拠点として、団地を不燃化する。要

するに大火にならないような不燃化を、徐々に民間でも進められるような方法を

取ったんです。なんだかんだといっても、再開発は、白鬚とか、大島、小松川と

か、中央地区とか、ある程度できているし、空き地ができて、そこが公園になっ

ていっている。再開発地区は遅いけれども、相当できあがっている。だから昔の

江東の危険さはかなり軽減されている。時間はかかるんです。

 一方、阿佐ヶ谷の僕の住んでいるこの辺りが一時ものすごく危ないという。本

所深川が危ないというので江東地区をやっていたら、シミュレーションだと高円

寺、阿佐ヶ谷のほうが危ないという。木造で密集してきたからね。ある時期に、

細分化してしまった。木造で、小さな家だから耐火にはできない。それを難燃化

くらいまで持っていく。いま再開発でずいぶん建て替えていますからね。徐々に

やっていく。

 

 地域独自の計画を

 関西のほうは少し甘かったかな。関西は地震は来ないということだったから

ね。いままでそういう経験がなかった。京都は危ないんだけれども、幸か不幸か

大火は案外ない。村上君に聞くと、神戸では地震の話はよしてくださいというこ

とだった。東京だって、いまの若い人は知らないんだ。知らない人にいくら言っ

ても本当の怖さがわからない。どうすればいいか。いまは、いろいろなコミュニ

ケーションも発達しているから、啓蒙のほうが大切かもしれない。

 いま京都は懸賞(京都グランドヴィジョン・コンペ)をやっているでしょう。

京都は、文化都市だから残さなければいけないものがある。どこまで残せば大火

にならないか、が重要だ。もう一つは京都のまちのインフラの問題がある。藤原

京から平城京、長岡京、そして平安京になったけれど、失敗したのは下水道なん

です。下水でつまった。川で多少ごまかしているけどね。 だから上下水道を地

下埋設にして、まずインフラをきちんとする必要がある。あとは街区で防災を考

える。ビルをどのくらい建てて、間に文化財を残しておいても大丈夫か。そうい

う難燃化が、京都の将来だと僕は思う。川筋は残すとか、山は残すとか、五重塔

とかは緑地と組み合わせるとか、京都は独自の防災計画を立てるときだと思う。

今度の懸賞募集はそれを予定しているんだろうと思う。

 

 再開発コーディネーターの役割

 僕は、これからの都市計画はやはり再開発だと思う。不燃化も再開発でやらな

ければできない。それで僕は再開発コーディネーターを一生懸命つくったんだ。

それが10年、ちょうど間に合って、そういう連中がかなり震災復興の応援に行き

ました。権利関係の調整もできるプランナーが必要なんです、日本のまちづくり

には。

 住宅をたくさんつくればいいというもんじゃない。復興計画では公共住宅が供

給過剰になってしまっている。住宅の立地と被災者の生活圏がうまく合わなく

て、空き家が出ている。ちぐはぐというか、計画全体を誰も見ていないのはまず

い。住宅行政でもなんでも、建物と内容とか住まいがばらばらになってしまって

いるんだ。

 土木も問題だった。幹線道路も鉄道も東西方向だけで南北がつながってなかっ

た。船着き場は液状化で大

変でしょう。高速道路が落ちたというので、いま東京も一生懸命に補強してい

る。ライフラインもそうです。これからは大きな二重くらいの地下道、トンネル

だな。掘削技術が発達しているから、その中に下水も、ライフラインもみんな入

れてしまって、上は大きな緑道くらいにしておく。そういう防災兼ライフライン

が重要になる。大きな事業ですね。それも縦割りでやらない。土木だけではまず

いんです。シビルエンジニアなんだから。ライフラインというのは、電線とか電

話線とか、上下水道とか、そういうものを一緒にして、上は緑道とかという発想

が必要なんだ

 

 やわらかな防災-まちづくりのテーマ:福祉・老齢 化・地球環境

 いま、まちづくりのテーマというと、福祉、老齢化、そして地球規模の共生で

しょう。緑と共生しろとか、自然と共生しろという環境問題、エコロジーが重要

なんだ。庭木を残すとか、ガーデニングなどは別の意味ではやっているでしょ

う。要するに田園都市の思想ですね。造園屋さんがガーデニングなどといって、

コンクリートの塀を取り払ったりしている。防災的な意味

もあるんだ。阪神大震災でも、樹木は結構火を止めています。生きていますか

ら、頑張って止めた。焦げていたけれども、その木はみんな芽をふいていま元気

になっています。

 多摩ニュータウンは、当時の歩車道分離とか、エレベーターなしというのでや

ったから、いま老人問題でまいってしまっている。全部つくり替えないといけな

い。階段でしか降りられない。降りてからも、歩車道分離してしまったから、歩

かないと行かれない。計画した時は歩車道分離で、4階までは歩いたほうが健康

的だと言って、日照は間をおけばいいという方向だけだった。老齢化ということ

は考えていなかった。それがいま全部老齢化だから、多摩は空き家になってしま

ったんです。シルバー産業も起こさなければいけない。

 防災というのは、いままでは感じが固かったんですね。環境とか生活と防災が

一体だという宣伝をしないといけない。防災というと、消防の問題になってしま

ってる。

 避難路だって、本所深川で大災害があったものだから、大きな広場でなければ

危ないと遠くへ避難するようになっている。それでは、行く途中で、みんな駄目

になってしまうのはわかっているんだ。僕の家からの避難場所は、上井草のもっ

と先、光が丘だからね。元のグラントハイツ。周りが難燃化すれば、すぐそこの

中学校でいいんです。僕は空襲のときにそこに逃げたんだ。ここで焼夷弾を消し

てから、すぐそこの中学校に逃げた。神戸の時もそうでしょう。小中学校が威力

があった。食べ物はコンビニが相当役に立ったわけだ。身近な環境が大事なん

だ。

 

 総合的まちづくり-縦割り行政の打破

 震災で、日本の都市計画のいろいろな問題がいっぺんに出た。戦後ずっとやっ

てきたことの問題とか、縦割り行政の問題とか、いろいろなことが出てきたん

だ。

 白鬚防災拠点はたまたま市街地再開発制度を使ってやったけれども、公園と住

宅をからめるとか、生活再建とからめる。とにかく東京都の全部の局を束ねてプ

ランニングした。総合的にやらないとできない。普通だったら再開発がかけられ

ない地区で600世帯以上あったんです。それを口説き落としていくためには、再

開発法では何もできない。だから福祉局とか、経済局とかが全部一緒になってや

った。戦前は不良住宅改良法。同潤会は内田先生がそういう意味で実施部隊とし

てつくったんです。

 今度都市計画を地方へ下ろしたでしょう。市町村レベルの小さいところのほう

が、総合的にできる可能性がある。市役所などに人がいないと駄目です。市役所

に人材がいれば、それではやりましょうということになるけれど、権限だけ下へ

落としても、もっとばらばらになってしまう。全国一律というのはよくないけれ

ども、その都市、その都市に応じた、京都なら京都に応じたものをつくるのは、

京都にいる人でなければできない。貧しさの程度とか、中小企業の程度とかはわ

からないんです。

 建設省で委員会をやっても、ほかの省庁も入れる。防災は同じテーブルにつけ

る。それが大事なことなんです。それでみんなが考えていけばいい。災害対策と

か災害の防御だけを考えていたらできない。普段使えていないものは、いざとい

うときにうまく使えない。

 内閣に緊急何とかを置けというのは、結構だけれども、末端の駐在所がその町

のいろいろなところを知っていないと誘導したりできない。消防の人もそうで

す。中枢が駄目だというのは、この間わかった。地域に対する判断は、やはりそ

の土地にいる人でないと駄目です。末端をどうするかという問題が大きい。今度

の震災でも燃えているのに、消防が来るまで何もしないで見ていた地区もある。

やはりコミュニティーが元気なところはきちんと対応できた。

 

 車椅子からの視点-環境、安全と防災をつなぐ

 住む人の気になって、老人福祉まで入れてやる。文部省は体育施設ばかりつく

る。厚生省は病気にならないと扱わない。体力づくり、エアロビクスと老人福祉

と一緒になったような程度のものが発想できない。あなたはエアロビクスは辛い

から太極拳ぐらいにしておきなさい。ちょっと悪くなったらお医者さんに行く。

そうすれば老人福祉はあんなに金がかからないんです。いまは悪くならないと、

薬でも何でも取れない。

悪くならないというところが大切なのに。防災も、普通の身近な環境で何かでき

る手段を取れればいい。非常に悪くなってしまえば不良住宅改良事業みたいにで

きるけれども、そんなに悪くならないけれども、道が段差があると逃げられない

とかいろいろ問題があるんです。

 僕は、運動(サッカー)をしすぎてしまったから、背骨の最後のところが擦り

切れているんです。それで足がちょっとしびれている。電気三輪車を買って乗り

回してみようと思っている。そうすると、どういうところに問題があるのかがわ

かる。環境、安全、それと防災をつなげるという感覚が出てくる。

 足が不自由になって、ここから駅へ行く間、七曲がりしているところがあるの

に気づいた。自動車が来ても、自動車がすぐは通れない。だから自動車はブブブ

ーッといいながら後ろへくっついている。そのくらいの道も、変に飛び出すと危

ない。いろいろなところで問題点がわかる。とにかく防災という言葉は少し固す

ぎるんです。要するに普通の生活環境がきちっとつくってあれば、すべて対応で

きるということですね。

 

 街区を残す

 100年くらいもつものを1街区つくれと言いたい。妻籠や馬籠などはそういう

ものです。当時の棟梁は、どういう人でも同じような手法を身につけていたわけ

でしょう。それが自然にああいう街道を形成したわけで、計画したわけではない

んです。当時の住宅生産の一つのパターンが、それだから揃ったわけだ。いまは

黄色の家の隣に赤い家をつくったり、そういうことばかりしている。それでやた

らに規制すれば今度は一列縦隊みたいなものになってしまう。どうもうまくいか

ない。

 京都あたりはそれを一生懸命やらないといけない。東京にも、麹町なんて、い

いところがあったんだ。贅沢な、本当に残しておきたいような昭和の大工さんの

最後の仕事みたいなものがいっぱいあった。英国大使館の裏あたりのところに

も、そういう住宅があって、町があった。それがいまはごちゃごちゃになってし

まった。

 日本の建物は住宅も公共建築も30年ももっていない。統計を見ると、そうなっ

ている。そういう意味ではこれからの可能性はある。これから21世紀に、君たち

の時代に残そうと思えば、僕たちのときに残らなかったものを残すことはでき

る。ただ、あまり惜しくないものもあるから、また同じことをやりかねない。

100年もつと50万戸くらいでいい。だから、そういうものをつくる覚悟があるか

どうか。街区でやらないと駄目です。ぽつぽつやると邪魔になる。だから、ある

街区で、いいものが100年もつ。町並みというか街区、どちらから見るか、裏か

ら見るか中から見るか。ともかく一団地の住宅地経営というのが昔都市計画であ

った。常盤台とか田園都市みたいに、ある単位をやれば残るわけです。

 

 モデル事業を-地方自治体の可能性

 都市計画を市町村におろしたから地方自治体が大事になる。技術スタッフ、財

政が一元化できるのは自治体でしょう。面白い人がいるんです。月島の課長さん

で、佃島の再開発をやる。いまの規則は知っちゃいないという人がいると、昔の

船着き場を残しておくとか、面白いことをやれるんです。

 企画みたいなところと最後に建築家が格好をつけるところは違うんです。最後

の美的感覚とか、その時代の材料を使ってあまり違和感のないものをつくる、自

然とマッチするという才能はやはり建築家でしょう。だけど、団地をつくって、

人を住まわせるとか、税金をどうするとか、財産税をどうするというのは企画的

な人がいなければ駄目でしょう。僕は再開発コーディネーターをそういうものに

育てたいと思っていたわけです。東大の都市工学科を出た市長が四、五人いるん

じゃないですか。そうでなくても、企画か何かに行った人材は多いと思う。地方

へ行って、いま助役などになっている。建設省に行ったやつが課長くらいだと、

もう副知事くらいになってしまったのもいる。地方に都市計画をおろしても、そ

ういう人がいればなんとかなるということです。

 都市工学科をつくったり再開発協会をつくったりして、いまちょうど地方分権

と合ってきた。僕には先見の明があるわけだ。ただ震災のほうは、また来るかも

しれないからな。もう嫌だよ。東京だって危ないよ。村上君なんか、私と同じこ

とをやっているのだから、また今度も駄目でしたなんて、言わないようにたの

む。

 

 大きな議論を-建築とはなんぞや

 この間学会の名簿をもらったら、電話帳みたいですごいね。委員会なんか何で

もある。重箱の隅をほじくらないと学位が取れない。もう少し建築とは何ぞやと

いうことを考えることが必要ですよ。そういうことを言う人がだんだんいなくな

ってしまった。

 論文なんて、コンピュータでどうだこうだといって、僕が読んでもわかりはし

ない。なんだか小さいことで、人のやらないことをやらないと学位が取れないと

いう。僕は、東大はデザインは学位は要らないとしたんです。それでいま安藤忠

雄君が東大に来た。あの人は面白い。工業高校卒ですからね。建築は大学を出な

くてもいいんです。それから棟梁で、田中文男。すごいんだ。この間、テレビに

出ていましたね。

 細かいこともやってはいけないということではないよ。だけど僕は、いま建築

屋はどうすればいいかという議論をもう少しやったほうがいいんじゃないかと思

う。学会が悪いのは、細分化してしまうんです。

 僕は農村計画部会というものをつくった。農村も都市もというのだけれども、

両方に分かれてしまう。都市と農村をどういう割り振りにするのか、これから地

方分権で中都市を育てるのか、拠点都市を育てるのか、あるいは山村みたいなも

のをやるのか。農林水産をどうするのか。関東地方に農村がなくなったらどうな

るか。そういう議論が大事だ。

 市民大学とかで、老人福祉でバリアフリーの家はどうだとか、そういうものを

講習会なんかでやればいいんじゃないか。専門でなくても、建築家として、そう

いうときに一家言なければいけない。それは知らないということではいけない。

そういう中に建築があるんだ。啓蒙なんておこがましいことを言って、手前のほ

うが啓蒙されないといけない。建築屋をうんと集めて、おじいさんを呼んで講演

をしてもらう。あんたのいま困っていることは何ですか。それに建築屋は答える

義務がある。

 もしかしたら学校の教育が悪い。君たち、何を教えているんだ、大学では。

 方法論と言うと、変に難しくなるけどね。一緒に仕事をして覚えるというのが

僕のやり方だ。講義はちょっとよそゆきになってしまう。

 

 大道無門

 「大道無門」というのは弘法大師です。来るものは拒まずという。弘法大師は

偉かった。あれこそ総合プランナーです。温泉は掘るし、ダムはつくる。ダムが

できたころ、大水が来る。天気予報で当てるんだ。

 拝むと、雨が降って、ダムに水がたまる。弘法大師が偉いのは、四国の遍路

で、景色のいいところをずっと上って行くと、ほっとする、いいところにお寺を

建てる。あるいは講仲間をつくるでしょう。それでお金をためておくわけです。

いまの運輸省は送るだけ、大蔵省は税金を取るだけだ。講で大蔵省の代わりにち

ゃんと旅費をつくらせておいて、空気のいいところを回らせて、健康をよくす

る。最後は比叡山の一番いいところへお寺を造りそばに宿場を造って大勢を泊め

る。総合的に全部終わりまでやっている。

 あれは総合プランナーとしては大したものですね。建築学会も総合的じゃない

と駄目なんだ。

 

             1998129日 東京・高山邸にて)

 

 ★写真3枚あり

  タイトル:阪神大震災での火災、白鬚防災拠点計画

 


2024年12月20日金曜日

森田司郎 名誉教授 インタビュー、traverse8, 2007

 森田司郎 名誉教授 インタビュー

 

416日(月),10時~12

吉田キャンパス,旧建築本館,会議室

 

聞き手:古阪秀三,伊勢史郎,大崎 純,石田泰一郎

記録:萩下敬雄 

 

(古阪)traverseで企画しています名誉教授インタビューは,我々が,先生方に当時のお話お伺いするという目的もありますが,昔のことを若い学生に伝えるという意味もあります。桂に移転してしまったので,とくに昔の話を残していくのは貴重です。もう一つは,名誉教授の先生方から今の建築界,京大建築あるいは社会へ苦言を呈していただきたいと考えております。どうぞよろしくお願いします。

 

(伊勢)私は1998年にこちらに来たので,今で10年目ですが,先生が退官されたのは何年前ですか?

 

(森田)私は退官して10年になりますが,10年はすぐですね。伊勢先生とはちょうど入れ替わりです。廊下ですれ違いましたかね。

 

研究室配属の頃

 

(大崎) 大学に入られて研究室に配属された頃のお話をお伺いしたいのですが。

 

(森田)僕は昭和28年入学ですから研究室に配属されたのは昭和31年の春です。しかし,当時の研究室配属というのは今のようなものではなく,きわめてファジーなものでした。どこの所属かも不明確で,強いて言えばここだという感じでしたね。

 

(古阪)その時の学生は何人ぐらいでしたか?

 

(森田)そのときの同級生は30人でした。私はたまたま坂 静雄先生のゼミを選びましたが,そのゼミの学生は3人でした。そのうちの1人は全く出て来なかったので,実質2人です。

 

(古阪)坂先生は,洞竜会(建築系教員の懇親会)で遠目に拝見したのが最初で最後です。

 

(大崎)コンクリート系を選ばれ理由を教えてください。

 

(森田)坂先生は偉い先生ということを聞いて希望しましたが,コンクリートにはあまり興味がありませんでした。(笑)しかし,私の頭では力学はちょっとものにならないというということもあったので…。4回生のゼミでは,坂先生がしょうがないからつきあいましょうという感じで,本を読みました。今でも覚えていますが,フライ・オットー(Frei Otto)のヘンゲンデ・ダッハ(Das hängende Dach)という吊り屋根についてのドイツ語の本でした。コピー機もない頃なので,どうしようかと思っていたのですが,もう一人でてくる同級生の渡辺正彦君はたまたまタイプが上手で,カーボン紙にタイプして,転室でローラーを使ってガリ版で刷りましたね。写真は先生の手許の本をのぞき込みました。

 

(大崎)たまたま横尾義貫先生の学位論文を西澤英和先生からいただいたのでお持ちしましたが,昭和28年のこの論文もガリ版です。その頃は大変手間がかかったのでしょうね。

 

(森田)そうですね。私もそういうような昔の本はよくでてきます。持っていても仕方がないなというような感じのものもあります。増田友也先生の学位論文の縮版とかもありますね。あれもガリ版ですな。

 

(古阪)持っておられて個人的に活用されにくい本は建築の図書室に置いたらいいかもしれませんね。

話を戻しますが,坂先生が活躍されているという理由で研究室を選ばれたということでしたが,その当時でも環境系とか意匠系という大きな区分があったのでしょうか。あるいはそれも関係なく全くファジーだったということですか?

 

(森田)そうですね。僕らの仲間でも誰が何研究室かということは知らなかったです。今のような縦割りのようなゼミという単位はなかったですね。“京大建築の学生は何でも出来るように教育してある”と森田慶一先生が就職先の重役に言ってくれたことをその学生が聞いて発奮したということもあります。

 

(大崎)京大建築では実務に直接関連することを教えなくて,企業に入って現場で一から教育を受けるという感じですが,当時からそうでしたか?

 

(森田)そうでしたね。実務は社会に出てから覚えるからという感じでした。社会に出たら,京都大学を卒業したということで,何でもがんばろうという意識があったと思います。大学院を卒業すると,知らないとは言えないので,社会にでてから一生懸命勉強するでしょう。例えば,坂研究室で全然出席しなかった同級生は,就職してから勉強して頑張って,後に準大手ゼネコンの社長になっています。“エーあの人が社長に”と坂先生の奥さんが心配していました。

 

(古阪)同級生には、建築生産の非常勤講師をしていただいた徳永義文さんがおられますね。

 

(森田)僕らの同期は多彩です。黒川紀章も同期ですし,みんなそれぞれ多彩に活躍しています。今でも5年に一度は会いますね。亡くなった名古屋大の坂本 順も同期です。

(大崎)その後,大学院に進学されて,研究者になろうと思われた動機を教えてください。

 

(森田)僕らが就職するころは昭和32年頃ですが,すごい不況期でした。学部卒業で大手ゼネコンに入ったら,皆で万歳して喜ぶような状況でした。学部から大手ゼネコンに行くのは,数人じゃなかったかと思います。就職が難しかったので,執行猶予型で大学院に進学しました。だから僕らの同期では修士に進んだのが異例に多かったですね。30人中10人以上進学しました。

 

(大崎)定員は曖昧でしたか?

 

(森田)曖昧でしたね。学部の成績があるレベル以上ならば無試験という制度がありましたが,試験を受ければ大体合格という感じでした。

 

(大崎)今でいうところの博士課程のようなものですね。

 

(森田)そうですね。配属されてからも,今みたいに,ソフト面でもでもハード面でも,先生が一生懸命世話してくれるということはありませんでした。机もボロボロのドロまみれの物が1個与えられるだけという感じでしたその机をきれいにして,机を集めてピンポンをして遊んでいたかな(笑)。川崎清先輩もその一人だった。

 

修士課程の頃(東別館)

 

(伊勢)学生のころは東別館におられたとおっしゃいましたが,その時の雰囲気を教えてください。研究室の枠がなかったとお伺いしたのですが,そのとき仲間とどのように過ごされましたか? 例えば東別館にどのような人がいて‥。

 

(森田)東別館の2階の部屋に構造のグループがおりました。修士の学生だけがいましたので,5,6人でしょうか。別の部屋に計画系,環境系が居たのかな。スチールサッシが閉まらない,開かないという状態でした。今の新館が建っている場所に,一階がRCで二階が木造の製図室というボロ校舎があって,そこにドクターコースとか研究員がごろついていました。そこでもゼミという単位はありませんでしたね。

 

(伊勢)今の桂キャンパスではゼミが細分割されていて,研究室の間ではコミュニケーションがとりにくい状況です。机もきれいで良い研究環境や実験環境が与えられているのですが,学生同士のコミュニケーションがないことの影響を心配しています。

 

(森田)勉強する部屋を一緒にするというような物理的な対処法でも解決できると思います。私の学生時代は,他の学生の実験を手伝いに行ったりしました。手伝いに行っているのにぼろくそに怒られて,何で怒られないといけないの,というようなこともありましたね。

 

(大崎)今では不可能に近いですね。

 

(古阪)専門分化が進んで,各分野の先生も研究室単位の運営を良しとされているのでしょうね。今の桂キャンパスの部屋配置についても,大部屋にするか,今のような設計にするかまさに自由だったのですが,結局伝統的な配置になりました。だから変わらないのでしょう。最も我々に発言の機会はありませんでしたが。森田先生がおっしゃられるような,ワークペースを一緒にするとうのは,いくつか環境系でやっているのではないですか。

 

(伊勢)環境系も建築学専攻と都市環境工学専攻に分化していて,交流が難しいですよ。

 

(森田)大体,日本人はそのへんが下手ですね。私が現役の時でもそういう感覚がありました。オープンマインドに行きたいけどなかなかできないというのはありましたね。

 

静雄先生

 

(古阪)話を大昔に戻しますが,先生が修士のときは,上に六車 煕先生や金夛 潔先生がおられたのですね。

 

(森田)そうですね。しかし,学部のときは坂先生1人に指導していただきました。修士のころの構造系のメンバーは,坂本 順とか竹中の久徳,近大の中田啓一とかです。

 

(古阪)いま名前が挙がったメンバーは全員坂先生の指導を受けていたのですか?

 

(森田)いえ,横尾義貫先生や棚橋 諒先生も指導されていたと思いますが,みんな指導してくれない先生ばかりでした。(笑)

 

(森田)だけど,それぞれ,修士論文というものは書きました。修士2年の夏休みになっても坂先生は何も言わないので,研究テーマを催促しに行きました。坂先生は,実験をやってもらうとお金がかかるし困る‥何をしてもらおうかな‥などとおっしゃっていましたね(笑)。

 

(大崎)坂先生はお金を持っておられたのではないですか(笑)?

 

(森田)校費としてはそうですね。結局,研究費のついたプロジェクトの手伝いをして,園データを使って自己流に修士論文を書きました。その結果,私はその研究には非常に貢献することになったと思います。一生懸命やりましたからね。

 

(古阪)坂先生がRC構造の本を書かれたのはそのころですか? 非常に分かりやすい本で今でも覚えています。

 

(森田)学部の時は,坂先生の書かれた「鉄筋コンクリート学教程」という本が教科書で,授業では,その本の数10頁の部分に関して何か質問があるかと聞かれ,学生は全員うつむいて黙っていましたね。すると,“来週は5080頁まで勉強して下さい。今日はこれで終了。”

 

(大崎)坂先生は非常に厳しい先生で,学部の最初の講義で何か質問はあるかと聞いて,5分間質問がないと講義を終わり,その次の講義も5分間質問がなければ終わりというようなことをされて,これではいけないと学生が3回目の講義で質問をすると丁寧に説明をされたというお話を聞きましたが,そのようなことは実際にありましたか?

 

(森田)いえいえ,私は丁寧に説明された経験は全くありません。誰かが質問すると,それはミスプリです。あなたたちが質問しないのは,外国の本を読まないからですというようなことを言われていましたね。学生には外国の本を読む動機がありませんでしたけど。

 

(大崎)その時はドイツ語の本を翻訳するのが研究として残っていたときですね。

 

(石田)5分間黙っていた学生は,教科書を勉強してすでに理解しいたということですか?

 

(森田)そうですね。読んでいたら難しいこと書いていないですが,あの講義は5分うつむいて,黙っていればよかったのですよ(笑)。

 

(石田)今そんなことをしたら授業評価等で大変なことになりますね。最悪の場合は,学生の親に怒られますよ。でも,それで教育が成立していたのなら良いのかもしれませんね。

 

(森田)そうですね。それから,試験のときは,わりと監督が機能していませんでしたね。前後左右を参照しながら受けました。ただし,同じことを書くとバツにされました。“見ても良いけど,同じことを書くな”というような学生間の自主性もありましたね。

 

修士課程の修了後

 

(大崎)修士課程修了の後はどうされましたか?

 

(森田)昭和34年に修了しました。修了後は構造設計をしようと思い,将来は,自営してやろうと思っていました。そこで,教室主任の前田敏男先生に東畑謙三先生の設計事務所を紹介されて就職しました。その頃は,教室主任は毎年,前田先生でした。一番若い教授だったからですが。

 

(大崎)それからしばらく勤められたのですか?

 

(森田)1年2か月働いて,助手として京都大学に戻ってきました。東畑先生の所に行ったのは良かったのですが,京大の大学院を卒業したのなら構造は何でも知っているのだろうということで,何から何までやらされました。寝る時以外は仕事していたという感じだったので,かなり痩せ細って,親が心配していましたね。これはしんどいという時に,六車先生から大学に戻るお話を頂きました。大学も人手不足だったのでしょう。

 

(大崎)その頃から少しずつ学生が増えていったのですか?

 

(森田)そうですね。漸増していきました。設計事務所ではしんどくてたまらんので大学に戻って楽をしようと思っていたら,案の上,楽でしたけど‥。逆に何もやるノルマがなくて,何をするか探すのには苦労しましたけどね。

 

(大崎)助教授になられたのは?

 

(森田)35年に助手として戻ってきて,36年に講師になりました。人手不足で講義を手伝わないといけなかったからだと思います。実質は構造材料の講義と実験の補助をしていました。記憶が確かではありませんが,中村恒善さんはアメリカから戻ってきて立命館におられ,その当時は力学を教える専任の教官がいなくて,私が力学の講義の一部をしたかもしれません。

 

講義と研究

 

(大崎)その後,材料学講座に移られて,建築材料の研究をされたのですね?

 

(森田)建築材料の講義はずっと非常勤講師のお任せになっていました。研究は私の材料ではなくRCとか構造材料でした。建築材料は,教育対象としても研究対象としても難しいです。材料の講座が建築学科に昭和40年頃できたのですが,担当教官は空席続きでよかったですね。その後,私自身は第2学科に移ったりしたと思いますが,昭和54年,残念ながら,私には建築材料の研究をした実感も実績もありません。昭和39年頃に建築材料学講座が増設されていますが,それ以前も以後も建築材料の講義は非常勤講師にお願いするのが教室の方針でした。材料の講座は担当教官が実質不在のままという良き時代が続いています。昭和53年に私が材料講座担当教授にしていただきました。その間の所属は不確かですが,実質は六車先生のところの助教授の役割で,RCの研究をしていました。講座担任の教授が建築材料の講義をしないわけにはいきませんので,担当しますが,最初の5年ぐらいは,一般材料はゼネコンや事務所の方々に非公式に講義を分担してもらいました。さぞ迷惑だったろうと思いますが,皆さん見本を会社から持参して熱心に協力下さいました。こんな無理も続けられないので,教科書を共著で書いて,それを使って自前で講義をしたのは停年の10数年前からとなります。建築材料全般について教育対象にするのも,研究対象にるすのも非常に難しいことだと思います。

 

(大崎)材料の研究は,最近では先端的な研究になってきていますね。以前は古典的な分野でしたが。

 

(森田)一部についてはそうですね。昔は与えられた材料をうまく使う側の立場でしたが。今は作るという立場,うまく組み合わせて新しい性能を創るという立場も少しずつ増えてきています。

 

(大崎)教育と研究,そして,社会的役割とのギャップについてお話していただけますか?教育についてはどのように考えておられましたか?

 

(森田)教育では建築材料,ガラスとか,ビギナーに幅広く教えないといけない。しかし,研究はRCをやっていました。それをうまく住み分けしなくてもよい立場の先生を非常に羨ましく思っておりました。しかし,それで給料をもらっているのでしかたがないと割り切って,精一杯講義をやっていました。

京都大学以外の先生は私が建築材料を教えているということに驚いていたみたいですね。東京大学ではその辺の区分,住み分けが厳密だったと思います。例えば,武藤・青山研究室では,RCはやってもコンクリートはやらない。浜田・岸谷研究室では,コンクリートをやるけれど,RCはやらないとかですね。それが関東系列大学の住み分けの手本になっている。隣の家とは垣根越しにはケンカしない。関西系ではこの垣根がない坂先生の考え方が影響していると思います。RCを研究するには,これに関するコンクリートの性質の研究が必要だと云う立場でしょう。それが伝統としてずっと今でも続いているようです。

東大の建築の外部評価委員をやったとき,皮肉交じりに明治時代の縦割りが現在までずっと続いている東京大学と書いたら,東大の教室主任の鈴木先生は批判とは受け取らず,誇らしげに報告書に書いていました。

 

(大崎)構造ではその垣根がなくなる傾向にありますね。鉄骨の先生が解析をしたり,防災の先生が鉄骨をしたりということがあります。

 

(森田)講座数も増えたからでしょうが,やはり本家があり,弟子はここにいてというのもあって,研究の対象は変遷しても,考え方の伝統は脈々と受け継がれているのが良いのではないかと思います。

 

坂記念館

 

(古阪)坂記念館は今では幽霊屋敷みたいになっていますが,その設立の背景等をお教えて頂けませんか?

 

(森田)坂記念館ができるまでは,坂先生が図面を引いて建てた工学部全体の実験施設(工学研究所)を使っていました。坂先生が退官されるときの記念として,実験室をつくろう,しかも大型のものを,実験できるものを作ろうということで,六車先生が中心となって寄付を募って造られたがPC構造の坂記念館です。予算は1000万円前後だったかな。文部省の出資ではないです。

 

(古阪)坂先生が退官される前に記念館はできあがっていたのですか?

 

(森田)どうでしょうか。昭和35年には完成していましたね。

 

(伊勢)坂記念館2階を音響実験室として利用しています。

 

(森田)あそこの2階は,もともと昔は坂先生の部屋だったのですよ。

 

(伊勢)それで使いにくいのですかね(笑)。

 

(石田)建物は寄付で建設することができるとしても,今では,スペース(配置)の問題で大学構内に簡単に建物を建てるのが難しいです。

 

(森田)当時は,そういうことは難題ではなかったのでしょう。昔は場所がかなり空いていましたから。

 

(伊勢)その時の風景は良かったでしょうね。

 

(森田)昔はテリトリーが漠然としていましたね。だから,坂記念館はどこに建てても良かった。その時の風景は牧歌的で良かったですよ。テニスコートがあってね。計算機センターもなかったし。

 

(石田)そのころの写真は今では貴重ですね。

 

総合試験所

 

(古阪)日本建築総合試験所の設立趣旨について,若い人に伝えるためにお伺いしたいのですが?

 

(森田)建設省の建築研究所が東京にありましたが,関西で実験をしたい思った時に,そこまで行くのは遠いので,関西でも大規模実験ができる施設を作ろうということで日本建築総合試験所が設立されました。官庁や建設業,建築材料メーカー,建築事務所など広範囲からの基金で設立した財団法人で,建設省の認可法人としてスタートしました。その後は,通産省の所轄法人としても機能しました。

 

(古阪)建築センターの関西版とも言われているようですが?

 

(森田)そういう役割も期待されていたようですが,非常に制限されていました。建築センターが独占的に認定等の事業ができるようにと言うことでしょうか。個人名は言えませんが,建設省の高官だった元理事長がそういう方針を鮮明に貫かれました。

 

(大崎)日本建築総合試験所の最初の理事長はどなたですか?

 

(森田)設立の経過をよく表わしていて,日本板硝子の社長さんが非常勤として初代理事長に就任されました。坂先生が所長で,東畑事務所の東畑謙三さん,日建設計の塚本さんなどの財界の人が副理事長に就任されていました。その次に,坂先生が理事長を継がれたのですけど,その当時から,建設省の天下りの受け皿になれという圧力が非常にあったそうです。そのような口を挟ませないために前田先生が坂先生の次を引き受けられたようですね。それは,ポリシーとして良かったのではないでしょうか。私で6代目ですが,この10年間ぐらいに事業内容が多彩になって,現在は構造計算適合性判定機関というのを立ち上げなければならないので,苦労しています。

 

(大崎)材料の認定よりも最近は構造の評価の比重が大きくなっているということですか?

 

(森田)設立のときは100パーセント試験機関で,私が入るまではまだそうだったのです。それからいろいろ,古阪先生にも手伝ってもらって,ISO9000認証,JIS製品認証,建設基準法に基づく性能評価,確認検査,などの事業を行っています。全事業収入の30%はこれらの諸事業によっています。適合性判定機関をやるとその比率がさらに上がってきますね。

 

(大崎)適合性判定機関についてはどのようにお考えですか? ピアチェックとか性能判定法を実際に規定するとか…

 

(森田)かなり私は批判的ですね。今年の620日に施行ですから,今となってはそんなことを言える立場ではないですけど。スムーズに進まないと建築活動自体に支障をきたしますが,上手く機能するかどうか心配です。

この時期にこういうことにしないと社会に対してエクスキューズができないという焦りが国交省にあったのでしょうね。法令違反が生じないように,細かい規制が行われます。法律自体に品格がないです。細かな実験式が法律の中にでてくるのは品格がない。そういう奇麗ごとばかりも言えませんけどね。

 

(古阪)構造ばかりでなくて,環境工学とか,ベンチレーションとかにもそのような規定が増えたようです。

 

(大崎)学会のほとんどの先生方が法律には式を書かないで,適切な方法で性能を検定するということだけで良いじゃないかと言っておられます。

 

(森田)そうですね。しかし,実際,適切ということを誰が判断するのかということについて国が非常に心配なのでしょう。

 

(大崎)それは,建築技術者が信用されていないということでしょうか。あるいは人材不足ということでしょうか?

 

(森田)構造設計,建築技術者そのものが社会的に信頼されていないというように国交省が理解しているのでしょうね。そのような理解を否定できない現実があるのも事実です。

 

(古阪)国交省だけではないと思います。私の理解では構造設計者だけでなく,建築士が信用されていなようです。構造や環境の先生はあまり表に出ていないですからね。建築士に対する信頼感がないのでしょう。

 

(森田)そうですね。全く信頼感がないのでしょう。建築士のリーダーたち自体も特権を守るためだけに躍起になっている感じがします。職能団体として機能していないですね。自分の既得権益ばかりを狭々と守ろうとしている。

 

(古阪)しかし,行政が分からなかった事も事実です。構造設計の報酬の基準がなかったことも原因ですし,誰もその決め方を知らない。構造設計の職能に関するその視点もずいぶん変わってきていますが,今回の基準法改正での第三者のダブルチェックは明らかにエクスキューズのためであり,本当に急ぎすぎた法改正だと思います。私は,逆に動かない方が良かったのではないかと思います。法改正ではなく,法律の下の規則の部分でやるべきでした。

 

環境系について

 

(伊勢)私の専門は音で,石田先生の専門は光ですが,森田先生が学生の時に環境系という区分は存在していましたか?

 

(森田)私が学生の時は,少なくとも前田先生が全部やっておられたですね。それから,松浦先生が初めての講義をおずおずとされたことを記憶しています。あっちで光って,こっちに光が反射して,それからあちらに反射してという…相互反射理論というのを説明して頂いたのですが,ご自分でも分かっていらっしゃらなかったのかもしれません。あれが今でいう環境系の初めての講義でしたね。

 

(伊勢)環境系ができるための社会的なニーズのようなものがあったのですか? なぜ新しい系ができたのですか?

 

(森田)それまではいわゆるアーキテクトの素養・常識としての建築設備であり,技術だったのでしょうね。この教室でも,例えば藤井厚二先生は,自然換気等について自分で家を建てて実験するぐらいの強い興味を持っておられたと聞いています。照明や音はアーキテクトの理解しておくべき技術の一部という位置づけだったのでしょう。それでは限界があるので専門のフィールドをくらないといけないということで,昭和10年頃に渡辺要先生がそういうフィールドをまとめられたのでしょう。前田先生が満州で冷暖房とか換気とかの基礎工学を独創的にやられて,そこから京都大学に環境系ができたのでしょうね。

前田先生環境系の各分野に非常に影響力がありましたね。開祖者と言われるような研究をされたのではないでしょうか。有名な逸話がありまして,プロフェッサーアーキテクトがカジュアルな服装で建築学会にくるわけです。それが前田先生の神経にふれて,掴み合いの喧嘩になって,それを坪井善勝先生がとめたという話があります。これは,伝説になっていますね。

ちょっと話がそれましたが,つまり,アーキテクトが工学の基盤がないまま経験的に光や音や熱に対する設計をやるのは限界があるということで,環境系ができたのでしょうね。

 

(大崎)その頃は,環境系に細分類はなかったのですね。

 

(森田)そうですね。その当時は建築設備と言ったのですけど,環境のそれぞれの先生に得意分野はありましたが,全部カバーしていたのでしょうね。

 

(伊勢)最初に環境系を発足させた時の思想と実際の今の状態はかなりずれがあると思います。環境が設計のなかで大切だということは分かるのですが,今のゼネコンのように細分化された設備の設計フィールドをみると,環境全体を見通せる状態ではないようになっていると思います。

 

(森田)環境とおっしゃてるのは,建築物内の環境という狭い意味での環境ですか?

 

(伊勢)そうです。建物ができた後の環境のことですが,人の生活を統合的に考えた環境ではなく,個々の設備の話になっています。そのずれをどうすれば修正できると思われますか?

 

(森田)現在,建築基準法改正で,一級建築士のステータスを上げる工夫として,特定構造一級建築士ならびに特定設備一級建築士というのを立ち上げようとしています。しかし,その対象者をどうするかという問題があります。特に、設備に関しては,実際に設計しているのは,建築の卒業生ではなくて,電気や機械の卒業生ですね。しかし,その中で,設備を専門とするスペシャリストの位置づけをする時に,一級建築士を持っている設備設計者が少ないので,位置付けをしにくいと思います。設備設計の方法を再構築するのは難しいです。大学でも分化と統合のバランスを考えられると良いですね。

 

(大崎)構造ならばある程度全体を理解できます。鉄骨をやっている人もRCのことは大体分かる。でも,環境系で熱・音・光となると恐らくお互いのことは分からないのでしょう。別の問題として,論文を書こうとなると技術的なことになって,人間の話はしないですよね。だから,概念的なことは論文ではなく建築雑誌等に書いてもらわないといけないのではないでしょうか?

 

(伊勢)そうですね。環境系ができた時の最初の前田先生,松浦先生の時代での,環境設計士とでも言うのかな。熱や光や音の再分化された知識を知っているということではなく,環境設計の統合的な人間を中心にして建物をどう作るかという視点で教育できるとよいですね。

 

(森田)例えば,環境系のビギナーにとっては,建築の中の環境の様々な要素がどのように人間と関わっているか,建物の性能に設備がどう関係するかというのがトータルとして,なかなか,分かりにくいのでしょうね。構造ならば,柱があって,梁があって,実物の建物と直接的に関係しているので分かりやすい。設備は隠れている部分が多いですね。それをビジュアルに説明するような努力を,特に学生・ビギナーにされるのがよいと思います。興味を持たすには良いかもしれません。

例えば,総合試験所ではいろいろな分野の実験をやりますが,そのなかで見学の学生に何が一番面白いかと聞くと。風洞実験が面白いといいますね。なぜかと聞くと,結局,そこには,梅田地区の模型や都庁の模型があり,建築と直接関わっていると感じることができるからという理由だけです。やっている内容はセンサーつけて風圧を測って,それを表現するだけなのですが,模型が,風洞のなかで回るのを見るだけで親しみを覚えるのですね。環境系でも設備が建物の性能にどう影響しているのかを教えることが必要だと思います。そのような教育方法を研究的に取り上げて,それを開発して頂きたい。そうすれば学生にも興味が伝わるでしょうね。

 

京大建築への期待

 

(大崎)話題を教育に移して,大学院教育について,苦言を呈して頂きたいのですが? 最近の傾向は,国の方針として,学生に丁寧に指導するということになっていますね。

 

(森田)そうですか。先生方が大変だと思います。我々は研究成果を揚げないと大学の教官としては,存在感がないと思っていました。今は教育ということが厳しくなっているのでしょうね。

 

(古阪)いえ,教育についての思想は10年前とそれほど変わっていないと思います。私自身の主観ですが,教育を雑用的にやっているという感じがしますね。大学当局が言う教育と我々の言う教育とはかなり違っています。やはり,教員の評価は研究にあり,教育にはありません。少し評価方法を変えようという動きはありますが,それでもあまり変わっていないと思います。

 

(森田)教育を評価する視点が明確になっていなければそういうことになるでしょうね。私が現役のころは,力学とか基本的なことは垣根をつくって狭い範囲でやっているという感じがしました。これからは色々な分野の総合が必要だと言われていますが,総合するためには,それに向かった秩序立った教育が身についていないと実現できないと思います。アメリカの先生と比べると,僕らは少しごまかしていたという気がします。特に,建築は範囲が広いのでどういう範囲までを統合して教育をすればよいのかということは難しいでしょうね。

 

(大崎)もうそろそろ時間が少なくなってきていますので,今後の京大建築への期待をお聞かせください。

 

(森田)桂キャンパスができて,少なくとも入れ物としてはどこに出しても恥ずかしくないものができたと思うのですが,研究や教育にどう活用するのかということが問題ですね。皆さんかなり大変でしょうが,あの施設をフルに活用するにはいろいろと難しいことがあるということは想像できます。例えば,今日はここ(吉田でのこの会議)が終わるとあっちに戻らないといけないというようなこともネックですし,焦らずにやってください。

例えば,外国の大学の先生が日本に来たら,日本の大学は訪問してもつまらないというのですね。あまり施設もないし。人と会うだけなら大学の外で良いし。でも,桂キャンパスをフルに機能させたらそれは結構魅力的です。日本に来たら京大に行こうということになれば良いですね。

 

(大崎)京大の学生に期待されることはありますか?どのような人材がほしいとかいうことはありますか?

 

(森田)応用が利くというか,クリエイティブにやれるような人間が欲しいですね。この人がこの分野では最先端に成長するというような核になれる人材が求められるのではないかと思います。皆が核になっても困りますかな。

 

(石田)社会に出てから最先端に到達できるということでね。大学を出た時点では最先端までは行けないにしても,その行き方を知っているということですね。

 

(森田)そうですね。これは大学の中だけではどうにもならないでしょう。人材はあまり凝り固まらない人がよいです。先生の人間性も影響しますが,結局,まずは人の意見をよく聞くということですね。

 

横尾先生

 

(大崎)もしよろしければ,お亡くなりになられた横尾先生の思い出を教えて頂きたいのですが。

 

(森田)横尾先生は非常に柔軟性のある先生でした。横尾先生には,私の学位論文の公聴会に出席して頂いて,意見を云っていただいて,その後の研究をそちらの方向に変えたということがありました。その時私の研究はモノトニックローディングの世界だけでしたが,復元力特性に関するご意見を頂いて,その方向に発展させたら,有限要素法の解析で実際の現象に即したモデルを皆が欲しがっていたので,とてもタイムリーな研究になりました。横尾先生には,タイムリーに様々な刺激を与えていただいたと感謝しております。

そのほかには,時々横尾先生が突然,研究室に入ってこられて,通常は考えないようなことを不意に聞かれて,答えに窮して,今度お会いする時までに答えられるようにしておかないと思い,答えを用意しておくと,質問されたことを忘れておられるようなことがしばしばありましたね。横尾先生は非常に頭の回転が速く,柔軟なものの考え方をされる先生でした。

 

(大崎)そろそろお時間のようですので,これで終わりにさせて頂きます。ありがとうございます。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...