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2024年5月3日金曜日

京都というプロブレマティーク,建築文化,199402

建都1200年の京都,布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社,1994年2月号

 

京都というプロブレマティーク

布野修司

 

 京都:歩く、見る、聞く

 京都に移り住んで2年が経過した。移り住んだといっても、バタバタしているだけでその実感は薄い。2年など、建都1200年を迎えた古都の歴史にとって、瞬きの間にもならないだろう。それに、取りあえず居を構えたところが洛外も洛外、宇治の黄檗だから、京都に住んだとはとても言えない。京都のことはわからない、というのが全くもって正直のところだ。

 しかし、京都に住み続ければ京都のことが果たしてわかるようになるのであろうか。「京都は奥深い。京都を理解しようとするのならば、徹底的に京都を研究する必要がある。中途半端に理解しようとするのであれば、観光客でいる方がまだましだ。」と京都の友人はいう。そうであるとすれば、まあ観光客でいるしかなさそうではないか。ただ、観光客にとっての京都も、京都の半面とはいえなくても1割ぐらいの(観光収入がGNPの1割というから)京都ではありうるのではないか、そんな気分である。

 観光客といっても、清水、金閣、銀閣、二条城、三三間堂といった有名観光社寺をめぐるのとは違う視点の可能性はある。「路上観察学会」の面々が京都を襲って一冊の本をものしている。『京都面白ウオッチング』(  )である。「大人の修学旅行」、「路上観察の旅」ということで、京都の珍建築や珍木・名木、小鳥居、犬矢来、石亭、縁石、角石、狛犬、猛獣のレリーフ、壷庭、鬼門、ステンドグラス、金物、消火栓、銭湯、西洋館、マンホールの蓋、張り紙等々、ありとあらゆるディテールが発見され、観察されている。京都人にとっては全く理解できない「宇宙人」の視点かもしれない。しかし、京都人でも、「ええっ」と思うような発見があるのではないか。路上観察学会は、「純粋観察」を標榜する。「純粋」観察がいかに成立するかは不明であるが、「路上」の観察は、あるいは「路上」からの観察は、大きな京都への接近方法である。路上からの接近といってもいろいろある。ディテールはディテールでも、『仕組まれた意匠ーーー京都空間の研究』(  )の方が「京の意匠」についてのはるかにオーソドックスなアプローチとなっている。要は視点であり、視角なのである。 

 「見知らぬ町を見慣れた町のように見る。見慣れた町を見知らぬ町のように見る。」といったのはW.ベンヤミンであるが、この眼の往復運動は基本的なアプローチとしてどこでも通ずる筈だ。と格好をつけて、とにかく、京都の町を歩きだした。今までに5回ほどになろうか。

 まずは、新町通り、西洞院通りを南北に歩いた。京都の都心、山鉾町の中心である。町家の落ち着いた佇まいよりも、駐車場やマンションでがたがたの町並みに驚いた(  )。続いて、二度目は伏見へ飛び出してみた。伏見の大手筋は買い物などで日常的にも親しくなりつつあるのであるが、秀吉の城下町の骨格を感じることができる。近世の洛中と洛外、南と北の断層が見えた。松ノ木町40番地の印象は強烈であった。高瀬川の姿も木屋町あたりとは同じ川かと思う程違う(  )。三度目は、上七軒、下之森、四・五番町、島原、六条柳町、五条橋下、祇園とかっての花街をめぐった。洛中の周縁をぐるりとめぐったことになる。角屋の見学が主目的であったのだが、洛中のスケールを身体で実感できた(  )。四度目は、太秦から三条通りを河原町まで歩いた。京都横断である。都心の三条通りには近代京都の厚みが残る(  )。五度目は、鴨川を出町柳から七条まで歩いた。鴨川からの眺望は無惨。東山は見えかくれもしないほど。橋の下のスコッターたちの住まいが印象的であった(  )。

 歩きながらの学習である。もちろん、ただ歩いても仕方がない。しかし、歩きながら京都の歴史をひもとけばよく頭に入る。京都はそうした意味では日本史の書物のような都市だ。一般的な歴史の学習ばかりではない。研究室には、特に、歴史的環境、地域文化財に関する膨大な調査研究の蓄積があった。また、「保存修景計画研究会」といったオープンな研究会が続けられている。おかげで、わずかな時間にしては、随分と勉強できたような気がしないでもない。

 京都に移って、すぐさま調べたのは祇園である。バブル経済に翻弄される実態を所有関係の変化から探ろうとしたのである。また、いきなり「町家再生研究会」(望月秀祐会長)に加えて頂いた。相続税についての具体的検討などを通じて町家をめぐる厳しい状況が理解される。研究会は、例えば橋弁慶町の町会所の改築問題など実践的課題を眼の前につきつけられている。さらに、横尾義貫先生の御下命でより一般的に「町家再生のための手法」について考える作業もある。

 以下は、以上のようなささやかな京都体験に基づく京都論のためのノートである。

 

 世界の中心としての京都

 「京のいけず」とか「京のぶぶづけ」とかステレオタイプ化された一連の京都論、京都人論があるのであるが、そうした中に「東京は日本の中心かもしれないけれど、京都は世界の中心であると、京都人は思っている」というのがある。京都府建設業協会の出している雑誌「建設きょうと オープン・フォーラム」で読んだ。京都府建設業協会は、全国に先駆けて「現場作業服のファッション・ショー」(SAYプロジェクト)を開いたり、今また「年収1000万円プロジェクト」などを展開するなど極めて活動的である。京都は他に先駆けて新しいことをやるべきだという意気込みがその先進的プロジェクトの数々に現れているように見える。なるほどと思う。

 京都は日本の都市のなかで唯一特権的な都市である。「京都はただの地方都市になってしまった」という言い方がよくなされるのであるが、それも京都を特権的なものと考える裏返しの表現だろう。

 第一、千年を超える歴史をもった都市は世界にもそうはない。ローマ、北京、イスタンブール、・・・ぐらいであろうか。新たな都市が生まれてやがて衰退する。都市にも栄枯盛衰があり、生死があるのはむしろ自然である。17世紀の初頭、東国の寒村であった江戸、東京を考えてもいい。今、その東京はほぼ平面的広がりの限界に近づき、このまま行けば「死」を迎えるしかないであろう。過飽和状態に至って、新たなフロンティア(ウオーターフロント、ジオフロント・・・)を求める動きが顕在化したのがこの間の様々な東京改造の動きであった。少なくともさらに数百年の首都であり続けるかどうかは大いに疑問である。千年の都であり続けた京都は希有の存在なのである。

 第二、京都には千年の都としての世界的な遺産がある。千年の都といっても、建設された都市がそのまま生き延びるということではない。江戸は火事で頻繁に焼けたし、東京にしても、震災、戦災で、繰り返し白紙に還元されてきた。京都だってそうである。むしろ、ドラスティックな変転を経験してきたのが京都である。大火も何度も起こっている。今、世界遺産条約に登録申請を行なうほどの遺産が残されたのはある意味では偶然かも知れない。京都は有力な原爆投下目標地として、通常爆撃禁止という措置により温存されており、小規模な空襲しか受けなかったのである。また、陸軍長官スティムソンの反対で、たまたま原爆投下の候補地から外れただけだからである(  )。しかし、残された歴史遺産、文化遺産の厚みはその特権性の大きな根拠である。

 第三、京都は日本的なるものの源泉である。そうした意味で「日本」の中心である。日本文化の原型、日本的美意識といったものは全て京都で生み出されてきたものである。京都は宿命的に「日本」を背負った都市である。「日本」というアイデンティティーが問われ続ける限り、「京都」も問われ続ける可能性がある。

 東京遷都により、京都は千年に及ぶ首都としての地位を失った。京都の最終的「危機」はこの時に始まったとみていい。首都機能という意味では、既に江戸にその役割を譲ってきた。そして、天皇の居住地という天皇制のシンボルとしての京都はそのアイデンティティを失ったのである。「天皇は遷都宣言をされていない」、「天皇は京都にお戻り下さい」といった主張は今でも京都で根強い。京都が京都である第一の根拠だからである。

 京都が京都である根拠を失い、衰微していくが故に、京都「府」は京都を活性化するために積極的な近代化策をとる。学区制に基づく小学校の創設、病院や各種文化施設など全国に先駆けてつくられたものは数多い。職制や戸籍の導入なども同様である。近代技術の導入も実に積極的であった。琵琶湖疎水しかり、蹴上の発電所しかり、市電しかりである。明治28年(1895年)の平安遷都1100年記念の年の京都は大いに元気であった。具体的な記念事業は平安京を模した大極殿(平安神宮)の建設、『平安通志』の編纂、第4回内国勧業博覧会である。博覧会には、京都市の人口の3.3倍の113万人が入場したのだという。この年、時代祭がつくられ、疎水の発電所の電気で市電が走った。街厠(公衆便所)がつくられたのもこの年だ(  )。

 それから100年、建都1200年を迎えた京都はどうか。いささか盛り上がりに欠ける。建都1200年記念事業の規模といい、意欲といい、建都1100年の時には及ぶべくもない。何故か。少なくとも、首都機能の喪失は決定的な形で明らかになりつつある。政治的、経済的、社会的中心ははっきりと東京へと移動したのである。それに対して、首都(あるいはその機能)の復権は果たして如何に可能なのか。

 文化や学問に特化する方向がある。「京都学派」や「アカデミー賞」が強調される。文化的中心、首都としての京都の地位の保持である。一方、徹底して「アンチ東京」、革新の政治的立場を貫く主張がある。いずれも中心(反中心を含めた)志向の発想である。首都機能が一方的衰退していく中で、国賓のための「和風」迎賓館が今テーマとなるのはよく理解できる筈だ。また、大学の洛外移転による都心の衰退が大問題とされるのも、単に経済的理由からだけではないのである。

 第二、第三の京都の存在根拠はどうか。世界的遺産としての京都が危機に瀕していることを示すのがこの間の景観問題である。また、「日本」=「京都」というのも果たして絶対的であり続けるかどうか。「京都」を特権的な都市であらしめてきた根拠が失われるとすれば、「京都」は滅びるしかないであろう。坂口安吾の「京都」滅亡論(   )は、京都再生論の対極に位置し続けているように見える。 

 

 日本の都市の鏡としての京都

 京都もまた生活者の都市である。生活している人々によって生きられてこそ生きた都市でありうる。実際どんな都市であれ、それを支えてきたのは生活者の論理である。「京都の博物館化」、「京都のテーマパーク化」   )が一方で極論されるのであるが、京都の場合、むしろ特に、生活者の論理を強調してきたように見える。「町衆」の論理である。京都「市民」への道を「京戸→京童→町衆→町人」とたどった林屋理論がそのベースである(   )。

 東京から京都へ移り住んで色々気づくことがあるのであるが、否応無く感じるのは地域共同体、隣保組織の根強さである。例えば、祇園祭がある。祇園祭に山鉾を出す山鉾町のコミュニティー組織の結束は根強いのである。例えば、地蔵盆がある。これまた大きく変容しつつあるのであるが、今猶、随分盛んなように見える。少なくとも、町を歩くと、ここそこに地蔵堂がある。余所者には実に印象的である(   )。

 いま、山鉾町のコミュニティー組織や屋台保存会は大きな変容を迫られている。都心のブライト化によって、人口がどんどん減りつつあるのである(   )。地価高騰、相続税等の問題で再開発圧力が強まり、町家の町並みも変わる。山鉾町を歩いてみると、ところどころに虫食いのように空き地や駐車場がある。セットバックして建てられるビルと町家の町並みはガタガタである。象徴的なのは町会所である。四条通りなどの大きな通りに面した町会所は、間口の狭いビルに建て替えられつつあるのである。

 東京の下町でもいい、あるいは、地方都市でもいい、都市化の進展とともに地域の共同体は一様に解体のプロセスを辿ってきた。京都もまた同じである。都心の小学校の統廃合問題がその象徴だろう。町衆の伝統をベースに全国に先駆けて住民の発意で小学校をつくったのが京都の各町である。祇園祭を支える山鉾町に代表される京都の地域共同体がどうなっていくかは京都の行方に大きく関わっているといっていいだろう。

 京都のそうした地域共同体のあり方に決定的なインパクトを与えてきたのは経済の論理である。あるいは産業化の論理である。その趨勢の及ぶところ、如何に特権的な都市「京都」といえども免れることはできない。否、特権的であるが故に、開発のターゲットが京都に向けられるそんな構造があるのである。

 例えば、祇園がいい例だ。四条大橋から八坂神社へ向かう四条通りの両側には駐車場が目立つ。また、空き家も少なくない。いわゆる「東京の地上げ屋」の仕業だという。一極集中の核としての首都東京にまず顕在化し、やがて、地方に波及して行ったバブル経済の猛威は、日本の諸都市をすっかり翻弄してしまったのであるが京都も例外ではないのである。というより、最も翻弄されたのが京都であり、祇園のような町であった。京都を代表する「町」のひとつである祇園。京都の「応接間」といわれるように、接待文化の中心である。芸やマナーの伝統を支えてきた。そうした町で、路線価格がわずか三年で十倍以上に跳ね上がった。例えば、四〇坪の借地の評価額が十億円で相続税は約一億円になる。住民は住めなくなる。それだけではない。舞子さんや芸妓さんのなり手がいなくなる。仕出し屋さんの後継者の問題もある。町家を修理したり、改築したりする大工さんだって危うい。「町」を支える構造が大きく揺らいでいるのである。西陣のような伝統産業の町の衰退は産業構造の転換そのものに関わり、そこでも町の構造そのものが問われているのは同じである。

 1991年秋、「祇園地域の歴史的まちづくりを考える」シンポジウムが開かれたのであるが、大袈裟に言うと、その会場には「東京資本」に対する怨嗟の声が満ちていた。しかし、祇園で起こりつつあることを「東京の地上げ屋」のみのせいにすることは誤りである。また、相続税や地価税など税制のみのせいにするのも誤りである。売るものがいるから買われるのであって、問題の根は地域の中に存在している。言うまでもなく、その根底にあるのは日本の各都市に共通の問題だ。地上げ屋の論理、経済の一元的論理が支配するとすれば、京都は確かにただの「地方都市」になりつつあるといっていいのである。

 何故、京都がターゲットとなるのか。いうまでもなく、それだけの環境資源、歴史資源、地域資源を持っているからである。全国の各都市の問題を象徴するからこそ京都の問題が象徴的に取りあげられるのである。モヒカン刈りの一条山、大文字の裏山などスキャンダラスな問題が頻発するのも、裏返して見れば京都のもつポテンシャルを示すものであろう。

 「京都ホテル」、「JR京都駅」の問題にしてもそうである。高さが象徴的に問題とされるであるが、そこで問われているのは単に高さではない。その根底において問われているのは町づくりの論理であって、経済性という一元的な尺度によって、自然や文化や歴史や景観が切り捨てられていくその論理が激しく問われているのである。

 京都について大谷幸夫は次のようにいう(   )。

 「ごく一般論として言えば、日本の中でまあ一応、最も古い都市でしょ、歴史を持った。だから歴史的文脈とか論理とか、歴史的成果を蓄積されて、あるわけでしょ?・・・都市は事実に基づいて考えろっていう主張から言って最も根拠を持ってる、事実が意味と根拠を持ってるわけよね。その京都でまともな都市計画ができなかったら、日本の都市でどこでできるんだって言いたいわけね。」

 確かにその通りである。

 

 京都オールタナティブ

 具体的な都市、京都について今何が問題なのか。

 京都ホテル、JR京都駅、京都市コンサートホール、京都市勧業会館、和風迎賓館、市庁舎建替、・・・いくつか具体的な建築物の建設をめぐる問題がある。また、高速道路、地下鉄、幹線道路などインフラストラクチャー整備の問題は都市計画の基本問題としてある。また、関西文化学術研究都市の建設、梅小路公園の建設、二条城駅周辺整備事業、京都リサーチパークの建設など開発、再開発の地区整備の課題がある。より構造的な問題としては、経済活性化の問題があり、産業構造のリストラクチャリングの問題がある。「新京都市基本計画」には様々な課題が網羅的に、また、地区毎の課題とともに挙げられているところである(   )。

 こうした様々な都市計画的課題は日本のどの都市においてもそれぞれに問われることではある。しかし、京都には京都故に特権的に課題とし得るテーマがあり、議論がある。新京都市基本計画は、「平成の京づくりー文化首都の中核をめざして」とうたうのであるが、「世界性」、「中心性」のテーマをどう展開するかがまずキーとなる。京都への遷都論、和風迎賓館など首都機能の建設、国際日本文化研究センターの建設、「国際歴史都市研究センター」構想、「国際木の文化研究センター」構想などがそれに関わる。日本の文化の固有性に関わるセンター機能の特権をどう展開するかである。このレヴェルの主張は、京都の新しい経済センターを建設するとか、洛南に新たな都心を造るといった主張とははるかに次元を異にする。京都をめぐる議論がすぐさま錯綜し始めるのは理念としての京都と現実の京都が同一レヴェルで語られるのが常だからである。

 とはいえ、現実の京都をどうするのか、というのは大きな問題である。景観問題がこの間大きくクローズアップされたことが示すように、一方で、大変な危機感があるように見える。しかし、一方で、意外にクールな眼もある。「何も困っていない。何があっても、1200年の京都はびくともしない。」という層も少なくないのである。「京都はこれまでも新しいものを取り入れながら、古いものとの調和を計りながら生きてきた。これからもそうであろう。」という底抜けの京都肯定論である。京都の景観が破壊されることに、より危機感があるのは観光客であったり、観光客に依存する層である。あるいは傍観者としての京都以外の居住者なような気がしないでもない。

 京都肯定論の裏には、かなりニヒリスティックな京都論、京都滅亡論もある。もう手遅れだ、なるようになるしかない、という。しかし、通常、京都の経済的地盤沈下を問題として活性化を訴える京都開発論がそれに対して対置される。というより、現実の京都をつき動かしているのは、開発の波であり、再開発への蠢きである。それに対して、古都の自然や町並みの景観を守ろうという京都保存論がある。もちろん、論議の順序は逆である。京都を開発の波が襲うことによって、京都の景観が失われる。そこで京都の景観を守れ!と声が上がり、それに対して、「景観で飯が食えるか」という活性化論が切り返すというのが構図である。

 そこで問題なのは議論が極めて単純化されることである。京都開発論に対して、京都凍結論が出される。木造都市復元再生論が出される。地下都市論が出される。京都博物館化が訴えられる。いずれも極論である。京都の完全な木造都市としての復興、完全地中化の主張など「保存」という名の大変な開発論である。一方、京都を更地にしてしまおうという活性化論などないのである。保存と開発という二分法が決して有効ではないことは明白であるにも関わらず、極論の提示によって議論が閉鎖される。思考の怠慢である。

 南部開発、北部保存という緩やかな了解も同じ様な単純化がある。南北一体化が一方で大声で主張される(   )のは京都がそれ自身、南北問題、洛中ー洛外問題を抱えているからである。北部は保存、南部は開発と決めつけるにはいかないし、また、単純な一体化もそう簡単ではないのである。

 建築物の高さだけが問題とされるのであるが、これまた議論の単純化である。何がどこからどのように見えないといけないのか、そんな議論が少しも深まらない。京都ホテルやJR京都駅以前に既に問題は顕在化していた筈であるにも関わらず、何故、より一般的な問題として突き詰められないのか。例えば、町家再生の問題がある。町家を何故再生しなければならないのか。再生すべき町家とは何か。基本的な議論が一般化されていない。また、それ以前に、町家の町並みがガタガタに崩れていくメカニズム(経済原理、税制、消防法など法・制度)は誰もが指摘するけど一向にメスが入らない。単純化した主張は確かにわかりやすくセンセーショナルではあるけれど、一方で、現実の様々な矛盾を覆い隠してしまうのである。

 そこで何が必要とされるのか。ひとつには強力なリーダーシップである。歴史的にみても、あるいは近い例としてミッテランのグラン・プロジェをみても、思い切った都市計画の実現には巨大な権力が必要とされる(   )。しかし、おそらく、それは京都には、あるいは日本には馴染まないだろう。可能性があるとすれば、京都のこれからの壮大なヴィジョンとして、可能な限り英知を集めたコミッティーによって立案されたプログラムをしかるべきプロセスにおいてオーソライズし、建都1300年に向けて着実に実行していくというシナリオである。 

 しかし、何よりも必要なのは個別の具体的な実践である。日本の都市計画が最悪なのは決定のプロセスが不透明で曖昧なことである(   )。オープンな議論の上でしかるべき機関とプロセスにおいて決定し、実践する、そうした回路が不可欠である。個々のモニュメンタルな建築物の建設についても開かれた場における徹底した議論が必要である。議論が曖昧なまま中途半端な形で残されたまま事態が進行していくのは実に不健康なことである。

 数々の提案は以上にみたように既にある。また、様々なまちづくりのグループも多い。そうだとすれば何が必要か。都市計画のためのユニークな仕組みを創り出しうるかどうかこそが京都に今問われていると言えはしないか。同じ制度同じ手法を前提にする限り、これまでの遺産という特権が残されるだけである。遺産を食いつぶしていくのもいい。ただ、新たな遺産を創り出していく仕組みの再構築がなされないとすれば建都1300年にはもしかすると京都は京都でなくなっているかもしれない。わずか2年の観光客の眼にはそんな根拠の無い不安も沸きつつある。

 

 

註1 赤瀬川原平 藤森照信他 新潮社    

註2 川崎清 小林正美 大森正夫 鹿島出版会    

註3 脇田祥尚 「祇園山鉾町周辺の伝統と変容」(「京都 歩く・見る・聞く①」 『群居』30号     月)

註4 青井哲人 「伏見へ出る?」(「京都 歩く・見る・聞く②」 『群居』31号       月)

註5 堀 喜幸 「遊里めぐり」(「京都 歩く・見る・聞く③」 『群居』32号     月)

註6 荒 仁 「「京の横断面」ー三条通りを歩く」(「京都 歩く・見る・聞く④」 『群居』33号     月)

註7 鎌田啓介 「鴨川を行く」(「京都 歩く・見る・聞く⑤」 『群居』34号       月)

註8 吉田守男 「奈良・京都はどうして空襲をまぬかれたか」『世界』   号、   

註9  井ケ田良治、原田久美子編 『京都府の百年』、山川出版社、   

註10 坂口安吾 「日本文化史観」、坂口安吾著作集、ちくま文庫 

註11 堀 貞一郎 「完全なテーマ・パーク=京都を」、『京都2001年ー私の京都論』所収、かもがわ出版、   

註12 林屋辰三郎 『町衆』、中公新書、   

註13  地蔵盆とコミュニティー組織についてはいくつか研究があるが、地蔵信仰と地蔵の配置をめぐっては、竹内泰君が「聖祠論」として研究中である。

*14 中村淳 「歴史的都市における地域コミュニティーに関する研究」(    年度 京都大学修士論文)

*15 大谷幸夫 「時日に基づかない都市計画」、『建築思潮』02号、学芸出版社、   

*16 京都市企画調整局、    月。本特集の内田俊一京都市助役(前企画調整局長)論文参照。

*17 京都南北一体化研究会、『京都が蘇るー南北一体化への提言』、学芸出版社、   

*18 磯崎新・原広司、「消滅する都市」、『建築思潮』02、    年。および本特集巻頭対談参照。

*19 拙稿 「都市計画という妖怪」、『建築思潮』02、     

2023年3月3日金曜日

京都グランドヴィジョン研究会,雑木林の世界89,住宅と木材,199701

京都グランドヴィジョン研究会,雑木林の世界89,住宅と木材,199701

 雑木林の世界89

京都市グランドビジョン研究会

布野修司


 幸運なことに「京都市グランドビジョン研究会」に加えて頂いて、この半年京都のグランドヴィジョンについて考えている。「新京都市基本計画」が策定されたのが一九九三年三月のことで、まだ日が浅いのであるが、その目標年次は二〇〇〇年であり、二一世紀のビジョンが欲しいということである。その基本計画にも「二一世紀京都のグランドビジョンづくり」が唱ってあり、長期的な構想を立てようと言うのである。

 ジャンルを異にする諸先生方の報告とそれをめぐる議論はそれ自体知的刺激に富む。まして、具体的政策提言に関わるとなると議論はしばしば白熱化する。もったいないことに何回かは欠席を余儀なくされた。とても全貌を把握できているわけではないが、印象に残ったことをいくつか報告してみよう。研究会は、まだ続行中で、中間報告をまとめようとしている段階である。

 研究会のテーマ、政策課題の抽出に当たっては、「ひと」「まち」「なりわい」という三つの視点が設定された。「ひと」ー基本的な市民生活の姿や、市民意識などに関わる視点、「まち」ー都市施設や土地利用、交通システム、環境などに関わる視点、「なりわい」ー都市の産業、生業、企業のあり方に関わる視点の三つである。そして、具体的には、「暮らしの充実」「新しい都市活力の創造」「都市ストックの活用・再生」「国際社会における京都の位置の確立」「循環型・環境共生型社会の実現」の五つのテーマが設定された。研究会メンバーは、この五つのテーマのいずれかを選択し報告することが求められ、議論を重ねてきたのである。

 この五つのテーマは、もちろん、京都市に固有なものではないだろう。問題は中身であるにしても、スローガンとしてのテーマ設定だけなら他の自治体においても共通のフレームになるはずである。また、あれもこれもと字づらだけ総花的に並べてもはじまらないだろう。メリハリを効かせる必要もある。

 さらに、そもそもグランドビジョンとは何か、という議論もある。単に、言葉の上での提案では何の意味もない、という問題意識はメンバーにおいて当初から共有されていたように思う。

 単なる提言では意味がない。その実現性をどう担保するかが問題である。というのは僕の当初からの主張でもある。全国で自治体の数だけ「基本構想」が立案されるけれど、立案された瞬間に歴史的資料になるといった質のものが余りに多すぎるのである。報告書ができてもそれでお仕舞い。しかも、どの自治体の報告書も似たり寄ったり、というのではグランドビジョンとは呼べない筈である。

 長期的なビジョンをもつことはそれぞれの自治体において極めて重要なことである。百年後の姿を想定した上で、ここ一〇年の施策の方向を定める、そうしたパースペクティブが今必要とされている。「百年計画のすすめ」も、かねてからの僕の主張である。しかし、任期で縛られる首長の施策は、往々にして近視眼的なものとなりがちである。それに百年の計となると、予測不可能なことも多い。グランドビジョンをめぐる議論が継続される場(京都賢人会議、グランドヴィジョン委員会・・・)が恒常的に設定される必要があるというのが、僕の意見である。

 今回の提案は議会の承認を得て正式のものとなるということなので、一定の方向づけについては担保されることになる。しかし、グランドビジョンの策定過程、システムが既に問題である。研究会はインフォーマルなものであるが、策定過程の透明性が確保することが方針とされ、策定段階からさまざまな方法で市民参加の手だてを講じることになっている。具体的には、種々の提案募集(コンペティション)、シンポジウム、TV討論などが連続的に企画されつつあるのである。

  さて中身であるが、それ以前に、それぞれの京都論というか、京都とのスタンスの取り方が興味深い。研究会メンバーでもある戸所隆(高崎経済大学)先生は、京都論を四つのパターンに分類する(「新しい京風空間の創造ー歴史都市の未来」『京が甦る』二場邦彦+地域研究グループ編、一九九六年七月)。

 ①「内からみる内なる京都」論

 ②「内からみる外なる京都」論

 ③「外からみる外なる京都」論

 ④「外からみる内なる京都」論

 見るところ、研究会メンバーは、ほとんど①②ないし④の範疇であろうか。戸所先生は日本全体から見れば、ほとんどが④の範疇ではないかという。①自体は研究会ではあまり声にはならない。従って、京都に住み、京都を自分のまちと強く思いながら、京都と完全に一体になれず、批判的に見る②のパターンが研究会の基調である。

 研究会でまず大きな問題になったのは、京都をどう位置づけるかということである。様々な指標が提示され、他の政令指定都市との比較が試みられた。真っ先に提起されたのは、豊かさの指標とは何か、豊かさは何によって計れるのかということである。

 数次で比べると、全国で何番目といった事実が分かる。「京都の着だおれ」というけれど、京都の人はあんまり被服費にお金を使っていないといった意外な事実も出てきた。しかし、そうした数字を並べても、必ずしも、京都の特性を捉えたことにならないのではないか。そのレヴェルでは、京都は只の地方都市だということになる。

 そこで、京都にしかないものは何か、という議論が出てくる。また、京都において変わるものと変わらないものとは何か、百年後にも残っているものは何か、ということになった。この発想こそ、京都に限らず、各自治体で試みられるべき思考実験である。

 京都の場合、日本においては明らかに特権的な都市だ。千年にもわたって首都が置かれた歴史都市なのである。また、歴史都市(古都)としての環境(景観)資源を有しているのである。「新京都市基本計画」が「文化首都」を唱うように、その特権性はセンター機能にある。基本理念は「世界の中心としての京都」あるいは「世界都市としての京都」である。

 と、言い切ると、京都の現状のいささか力不足な面も見えてくる。それをどう強化するのか。グランドビジョンの道筋も見えてくることになる。

2023年1月15日日曜日

シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,19991106ー07

 シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,19991106ー07 











 

2022年8月7日日曜日

京都の特権, 対談 布野修司×佐伯啓思,『京の発言』6,200703

京都の特権, 対談 布野修司×佐伯啓思,『京の発言』6200703

 

佐伯 まずは、景観や都市計画についてみたとき、京都にいまどのような問題があるか、そして次に、もう少し大きな視点で、日本全体の都市計画や景観問題についてどのように考えていらっしゃるか。最後に、一般的な問題として、現在の建築のムーブメントをどのようにご覧になっているか、どのような感想を持っているか、そのあたりの話を今日は伺いたいと思っています。

でははじめに、基本的なことから教えてもらいたいのですが、京都の都市計画、それから景観についての行政がどういうふうなことになっているかというのを、何かインフォメーションなりをお願いします。

一般的な印象としては、京都は、もう少し文化財なり、あるいは本来美しいものがありうるという、もう少しうまくやればもっと美しい景観を保持できて、しかも美しい街並みを作れただろうという気が、素人としてはするわけです。ところが、どうみてもそうはなっていないし、むしろひどくなってきている。個別の意味では、何かいいものがあるのかもしれないし、街づくりでも頑張っているなぁというところはあると思うんです。小学校を改造して面白いことをやっていたりもしますからね。でも、全体としての調和はとれていないという気がします。その点について、何か行政上の、あるいは法律上の問題、都市計画上の問題はあるんでしょうか。そのあたりについてお伺いしたいと思います。

布野 まず、京都ということで、別に東京と比べて特権的にどうこうということはないんですよ。都市計画法とか建築基準法というのは全国一律ですからね。たとえば、僕が十五年前ぐらいに京都に来たわけですから、そのとき、京町家が街並みとして一定程度残っていたわけですね。それを維持するために改修するという問題が浮上したとき、同じ木造の町家としては建てられないという制度になっているんです。それは全国一律なんですね。だから、たとえば、かつての京町家が並ぶような景観をよしとして、それを維持しようと思っても、そうできない。法的な、建築基準法の防火規定、準防火規定というのがありましてね。戦後まもなく第二次世界大戦で焼けてしまったというので、木造亡国論というのが一世を風靡して、木造建築は防火という観点からどうかという話が出てきたわけです。それを基準に制定していますから、全国一律で防火規程ができているんです。

それで、町家を維持するには、ある種の法の網の目、抜け穴を探すということをやろうと考えた。建築基準法に「その他条例に定むるところ」という規程があるんです。でも、文化財として扱うしかない。文化財として維持するというのは不自然ですよね。そこで人が生活するわけですから。それで結局、一番いい方法は、都市計画を取っ払ってしまうことなんですよ。結論がそうだったんですけどね。要するに、防火規定とか準防火規程とか、なんとか商業地域とか、そういうのをやめてしまう、という話です。防火は消防法の問題で、建築基準法とは関係ないですから、建築基準法を守っているからといって担保されないわけですよ。火事が出たら燃えるわけです。消防署は消防署で、出たら消して見せますよっていうことですからね。そこで結論としては、全体で取っ払ってしまえばいい、ということになった。ところが、その途端に、阪神・淡路大震災があって、立ち消えになってしまったんです。その先に検査制度というのが新たにできて、第三者でやるという話になって、その延長が姉歯問題、といった経緯があるんですけどね。

それはともかく、京都は特権的な都市ではなくて、京都が独自な都市制度を展開できるような法制度的な条件があるわけではないんです。財政的にいっても、日本で七番目か八番目の都市であって、とりたてて豊かというわけではありませんから、ただの地方都市とも言えるんです。

ただし、その中で景観といった場合には、二〇〇五年ですか、景観法というのが制定されました。いろいろ言う人がいますけど、私は、これは使いようがあると思ってるんですね。要するに、法的根拠をもって、今までは、条例よりも建築基準法とか都市計画法の方が上位にあるわけです。建築基準法を守っていれば、条例に勝つ。たとえば、マンション問題が起こったりしたときには、高さだけの話をすれば、基準法を守っている方が勝つわけですね。

ですが、景観という意味でいうと、一応、京都は先進を自負してるんですけどね、歴史的な都市遺産というのがあるから。そういう意味でいうと、さまざまな条例、たとえば美観条例などをつくっていろいろやってきた。それで先頃、景観法というのができたんで、今、それとの整合性をつけている。景観法にのっとったかたちで、いろいろ整備しているわけです。

佐伯 景観法というのは、条例をそのまま法として認めるという趣旨ではなかったですか。

布野 そうではないです。そうではなくて、都市計画法上で、そのまま効力をもつかたちで整備するというのはみんなやっているんです、景観計画というのを立てると、それがそのまま力をもつということになっているんです。

佐伯 だけど、法というのは、先ほどのお話では全国一律でしょう。たとえば、京都独自の条例のようなものを、要するに、法と同じような効力というか強制力をもたせたいわけですよね。景観法というのは。だから、個別の都市ごとの対応をある程度入れていかないと、結局、意味はなくなってしまいませんか。

布野 ですから、あんまり面白い話ではないかもしれないけれど、最初に言ったのはその点で、たとえば、建築というのは、北海道と沖縄ではぜんぜん違うでしょう。だから本来、土地ごとに違って構わないし、景観がそもそもそうですからね。だけど、そうはいかないという枠組みがあるということですよ。一国二制度はまかりならんと。

景観法についていうと、京都市は、もっと小回りが利いて、たとえば金沢のようなところの方が先進的にやれる条件が整っているところがあって、追いつかれたという気がしますね。それで今、「眺望景観」という概念で、それは「借景」ということもあったわけですけど、新たな規制ができないかと考えているんです。ただ、それが容易にできるとは思えないです。たとえば、圓通寺から比叡山が見えるとして、手前はダメですよ、というふうにする。でも、それだけ視圏を制限できるかという問題も出てきますよね。そういうことが果たしてどこまでできるかという問題も出てくるわけです。結局、金沢も条例の方がまだ合意形成しやすいというふうにして、景観法と二本立てでいくというのが賢いんですけどね。

佐伯 この前の景観法というのは、条例を事実上、法的効力をもったものとして扱えるという、そういうものではないんですか。

布野 そうではありませんね。新たに立てないといけないですよ。だから、当然そこでまた合意形成が必要となるから、なかなかうまくいかないんですよ。だから、あまり先に進まないんです。すでに、一、二年経っていますけどね。

それよりも問題は、景観という意味でいうと、ご承知のように、都市の景観を規定するというのは、法制度で、近隣商業地域とか住宅地域などがありますね。わかりやすくいいますと、建蔽率と容積率に関わってくるんですよ。京都市の図面を見たら、景観が読めるわけですよね。たとえば、四条の田の字地区と呼ばれている、都市核部分。そこを見てみると、けっこう不連続なところがあるわけです。当然ですが、色々な利用をしているわけですからね。地主さんが容積率を目一杯使おうと思うとすると、景観がバラバラになるのは当たり前というふうな規定になっているんですね。誰もそんなことを考えずに色々に利用しているわけです。全国のどこの都市もそうですが、みんな今頃になって気がついているわけですよ。

佐伯 それは、商業地区などのゾーンニングの問題ですか。

布野 まず、ゾーンニングの問題ですね。都市計画の手法ってそんなにないんです。ゾーンニングってアメリカからきた言葉で、区画整理、まぁドイツ系ですけどね。ゾーンニングで容積率を規定するという手法。それで、たとえば京都の都心部でいくと、イメージそのものもたぶん分裂しているでしょうね。

佐伯 そこが大きいでしょうね。どういうかたちにするかというイメージが、まったくできあがっていない。

布野 すでに決定されているのは、建蔽率が八〇%の四〇〇ですからね、五階建てのヴォリュームがあるように指定されているんです。烏丸四条あたりの銀行だなんだでビチーっと埋まるように、法制度的には表現されているわけです。ですから、あそこに長く住んでいて、祇園祭をやるときに山車を出すんだからやっぱり町家の高さのスケールがいいと言ったって、そういうのが昔の街並みと言ったって、単純に力だとか相続だという話になると、相続がかかってきたときに手放さないと言ったら、容積を増して売らないといけないから、目一杯使うという話になってるわけですよね。

佐伯 そういう基準というのも全国一律なんですか。

布野 全国一律で、各市が、ここではこうだというのを決めるんです。それを線引きといいます。

佐伯 この地域はこの建築基準を当てはめるっていう。

布野 そうですね。それを五年ごとに改める。なかなかダウン・ゾーニング、容積率を減らすということもできなかったです。やればいいのに。僕はこないだ宇治市でやりましたけどね。いま都市計画審議会の会長をやっていまして、景観問題がおこって、高さと容積を変えるのは、かなり大変ですよ。弁護士に相談したりしてね。

佐伯 それは市が委員会のようなものを立ち上げて、その中に建築家だとか弁護士だとかの識者も入って、一定の結論を下すのですか。

布野 線引きについては、都市計画審議会という公定のがあって、市長が諮問してやるんです。ですが、ツールとしては大したことじゃないわけです。もし、もっときれいなな景観にしようというのなら、そういう制度をつくらないと、ガタガタボコボコになってしまう。京都に限らずどこでも一緒です。だから、どこも東京みたいになるのは当たり前の話ですよ。

佐伯 それをどうやって防ぐか。

布野 いや、「防ぐ」と一致しているのであれば、それはもうそれで進めればいいですが・・・。

 

 

 

佐伯 結局、そこの価値観が当然、人によって違うわけですよね。だから、京都でマンション開発してもいいという人もいるだろうし、巨大商業地区をつくっていいという人もいるし、昔の町家を保存すべきだという人もいる。そこの統一がとれないということが問題で、やはり、その意味では都市計画というのが機能しない、ということになってくるんですかね。

布野 やはりトップ・ダウンで、市長が「都市計画をやめます」と決断すればいいんです。たとえば、祇園祭で山車が回るとこだけは二階建てで、最低そこは維持しますよと、決断すればできますよ。

佐伯 要するに、それしかないわけですよ。でも、市長にしろ、そこまで決断するというのは苦しい。

布野 色んな工夫はありますよ。たとえば、容積率移転するとかね。街中の山鉾町で、それだけの部分を郊外に売るとかね。そういう工夫はやれるはずですけどね、今の仕組みの中で。そこまで思い切ってやったら、すごい市長になりますけど。

佐伯 たとえば、ヨーロッパの都市なんかを見ると、完全にピシッと決まってるでしょう。

布野 いや、だから、ああいう骨格がある場合はですね、景観法ではそれができるわけです。もしそういう合意形成ができて、それで行くということであれば。

あと、財政がらみの仕組みとしては、僕は基金がいると思いますけどね。基金を積んでおいて、もし問題がおこったときには、それを市が買い上げて公園にしてしまうとかね。だから、金の話もつけないといけないんです。金の問題と制度的なものは、単純ですけどやりようはあると思います。

佐伯 たとえば、今の景観法の中でも、中心部に町家があったとして、代替わりで相続税が払えないと言い出した場合に、その次の、そこを何に使うかという、そこまでは制限はできないんですか。せいぜい高さぐらいでしょうか。街並み全体を統一して、一軒一軒バラバラにやるんではなくて、ある地区なり道路、通りなり一つの統一したイメージにしてやるなんてことは、やっぱり今の景観法では難しいんですか。

布野 いや、できますよ、決断すれば。それは、いわゆる伝統的建造物保存地区というやつです。文化財保護法の範疇ですけどね。京都には三つあって、全国には百くらいかな。そういう文化財としてやるやつはあるんです。

佐伯 しかし、三条通りとか烏丸通りなんかは文化財というところまではいかないですよね。

布野 そう、特区として文化財になりうるような町家なんかがそんなにあるわけじゃないでしょう。十戸もないわけですよ。景観法では、そういう保存建物を指定できるんです。だけど、そこまで手を上げて動くことまではしていなくて、まだみんながお互い睨み合ってるというかね。

佐伯 統一した景観をつくるのは非常に厳しいという気はするんですが、ヨーロッパのような、あそこまでピシッと決まったようなものでもなくって、たとえば代替わりで建てる時にもう少し制限をつけて、周りとの調和を考えるとかね。最近は、若干そういう配慮をしているという気がしなくはないんですけど。

布野 美観とかなんとかでね、最終的に裁判沙汰になった時に効力がないとは言いながら、一応、条例としての規制力をもってやってきてはいるんですよ。

佐伯 その場合に、やはり大きな問題は、たとえば戦後の大きな価値観というのは、わたくしの権利、私権から始まって、それが絶対的な出発点となっている。そこから始めてしまうと、公共目的のために私権を制限するか、あるいは法的な形で、どこまで制限できるか、ということになると、若干修正するという話にしかならないでしょうね。

 ところが、本家のヨーロッパなんかをみてみると、アメリカは違うかもしれないけど、ヨーロッパの場合には、都市環境や住宅の外観なんかは、明らかに私権の対象にはなってないわけですね。

布野 社会的なストックとしてね。

佐伯 そうです。社会的ストックであり、公共的規制としてはっきりとしていて、そのことが社会的に了解されている。内心では嫌かもしれないけど、大部分はそれに従うわけです。この違いは何でしょうね。やっぱり歴史的に作られてきた意識の違いなんでしょうか。それとも、自由というものにたいする考え方の違いなんでしょうか。

布野 建築の側からは、よく「スクラップ・アンド・ビルド」と言うんですが、要するに木造亡国論じゃないけども、建てたらせいぜい三十年ぐらいで壊す、ということでやってきた。それが経済成長を支えたところもある、という土建屋的発想でやってきたでしょう。景観という意味では、ストックにならない構造をしてたんです。

一九四五年で切ってみたときには、それ以前はたぶん江戸に連続するような景観だったと見ていいと思いますよ。それがガラッと変わって、これはよく言うんですけど、やっぱり一九六〇年代の十年ですよ、日本の住宅が変わったのは。

一九五九年にプレハブの第一号が出るんです。ミゼットハウスっていうんですけどね。それは庭先に勉強部屋として建てたりとかね。それが、一九七〇年頃、われわれが大学に入る頃に七、八%になる。一九六〇年にフローで六十万戸ぐらいですよ。それは全部、基本的に在来工法といって、大工さんや工務店が建てていたのが、今度は十パーセントが工業化でやるというふうになった。生産の仕組みが変わったんです。一番わかりやすいのは、十年間でアルミサッシが、ゼロ%から百%になった。ということは、部屋が高密化して、クーラーなんかが入ってきた。それと同じ頃に、藁葺き屋根や茅葺き屋根がほぼ消えるんです。だから、住宅を見ているだけで、歴史的な大転換ですよ。

 もう少し言うとね、一九八五年、バブルの頃に、木材の輸入量が五割を超える。木造住宅の割合が五割を切る。それから、賃貸住宅が五割を超えて、集合住宅が五割を超える。そういうように日本の住空間がガラリと変わるんです。それが景観に反映してくる。

佐伯 たしかに、一九六〇年代の高度成長期に、いわゆる郊外住宅ができて、そこに住むのが一つの憧れというふうになった。

布野 一九六〇年代では、たぶんまだ二階建はそんなにないですよ。プレハブでも、最初は平屋でしたから。

佐伯 でも今は、一九六〇年代に夢の住居だったものが、みんな詰まらないものだというふうになってきてるわけでしょ。プレハブでもモルタルでも、コストダウンしたやつは。たぶん同じようなことが、一九八〇年代に作られたものについても、もう少ししたら、あの頃作られたものは全部詰まらないものだ、という話になってくるんじゃないですか。それは大いにありますよね。

 ほとんどの人が、そういう意味で言えば、建築やら都市について、戦後に日本がやってきたことについては満足していないように思えるんですけどね。無残さの方が際立っているような気がする。しかし、何かのメカニズムのなかで、方向を変えることはできるんでしょうか。

布野 いや、京都で、バブルがはじけてからの十年っていうので絶望的になるのは、凄いことが起こって来てるんですよ。要するに、都心でガッピツ?が起こってる。細分化されるのが普通の流れなんですけど、狭い土地が合わさって巨大なマンションが建ったりしているんです。あれが、僕は不思議でしょうがなかった。京都はあまり騒がれなかったんですが、でも凄い勢いでマンションが建ったんですよ。東京もそうですけど、全国的にも史上最高の勢いでマンションが建っていく。その挙句に姉歯問題ですからね。景観が大きく変わるのは、一九八五年の次が二〇〇五年ですかね。そういう流れで大変動が起きているんです。

佐伯 そうですね。今おっしゃたように、明らかにいくつかの流れがある。一九六〇年代の高度成長期、そして一九八五年年前後のバブル、それからここ数年。

布野 そうそう。ほぼそんな感じで、景観にたいするインパクトがあった。だから、古都保存法とか、みんな裏側の危機意識というか、アリバイ作りみたいなもので、施策展開をするんだけど、必ずしも有効には機能していかない。

 

 

 

佐伯 大きな流れとして一貫しているのは、やはり開発型ですよね。ビルをどんどん高層化していくとか、景観は保存しないで、それぞれがバラバラにやっていくとかね。

布野 そうそう。「景観でメシが喰えるか!」というセリフでしょ、ディベロッパーの。

佐伯 いや、でも本当は、景観というのは、全体の付加価値を高めるものなんですけどね。みんなきれいな場所に住みたいでしょうから。

布野 ある都市で、必要な床は誰が考えたって限定されるはずじゃないですか。別に高い建物を建てる必要はないわけです。それに合わせてヴォリューム規制すればいいと思うんだけど、それはできないんですよね。まず根拠が示せない。一律に示すこともできない。要するに、経済の先生に言ったって、絵を描いてくれれば、計算できるしシミュレーションできる、と言うんですけど、ある都市について、高い建物なんかいらないでしょ、と言うのはできないわけです。

佐伯 経済の方からは、そういう論理は出てこないですよ。そこに需要があればできるだけの話でね。たとえば、京都だって、単なる転勤で来た人とか、京都が好きで住んでる人ばかりじゃないですから、そういう論理だけではダメなんですよね。だから、景観を守るというのは、思想的には、非常に難しい問題ですよ。社会の原則というのは、先ほど言った「個人の自由」というものを前提にすれば、市場原則になりますから。

布野 冒頭では、規制とかね、そういう手段しかないと言ったけど、僕がずっと言っているのは、さっき言った伝健地区(伝統的建造物保存地区)みたいな規制も不自然だと思っているんですよ。全部、何年か前のもので担保して、中ではソファーに座って酒飲んで、なんていうのは。それをゆるやかにやる方法として、法的な根拠を問われて挫折してるんですけど、「タウン・アーキテクト」と言って、たとえば、そいつがいいっていったらいい、てことなんですよ。要するに、色にしても高さにしても一律の規定ではない。ヨーロッパはもうちょっと厳しくやっている。そいつがハンコを押さないと建てさせない、という具合に、権限と任期と報酬もけっこう保証されてる。

佐伯 それはコミュニティの委員会かなんかですか?

布野 いやいや、いろんな形がありうると思うんですけど、京都市だと百五十万人くらいだから、一人じゃ無理ですね。四十二区の小学校区くらいに分けて、日常的に何が起こっているか、タウンウォッチングなんかもやって、どこか悪いところがあったら提案したりもして。四十二だととても足りなかったので、十一区に一人ぐらいは面倒をみるというような仕組みを提案しているんです。ずっと特定の一人がやり続けると利権が発生することもありますから、任期は五年くらいにして、その人がいいと言ったら、真っ赤の建物もいい、と。そういう例を出しながらやってるんですけど、それも、建築士の業界から足を引っ張られていまして。

佐伯 委員会か何かでオーソライズしてできないものですかね。

布野 別に一人でなくても、委員会でもいいんですよ。実際にあるんですよ、建築審議会とか景観審議会とかね。あるんだけど、今の審議会システムは、首長が諮問して、それにたいして答えるという仕組みになってるから、仕組みとしては自主的に動けないんです。

僕は宇治市でやってますけど、勝手に喋ってるんです。だって、あがってきたものをOKするみたいなのは詰まらないから喋ってると、助役が出てきて諮問したことだけやってくださいなんて言う。これは中央でも一緒だと思いますけど、日本の審議会システムを変えないと。

佐伯 では逆に、そういうものを機能させようとすると、全部ある意味で行政指導のもとにおいて、地区によって違うでしょうけど、ある地区では、建て替えにしろ何にしろ許可制にする、と。行政がどういう形で許可するかというと、それは委員会なり何なりが決定する、というような話になってくるんじゃないですか。そうなると、わりと昔のやり方に近いというか、私はそれでいいと思うけど。

布野 いま自治体は、千八百くらいになったのかな、全体で。本来、景観に責任を負うのは自治体でしょ。建築の話で言うと、建築主事さんていうのがいるんですよ。建築を建てるときは、日本の場合は許可制ではなくて確認制なんです。これも問題で、許可制にしてしまえっていう意見もあるんですけどね。その主事が確認する要件というのが、建築基準法なんです。建築基準法を満たしていたら認めざるを得ない。それで粘っていると、業者が訴えられるんです。それで裁判沙汰になると、条例よりも建築基準法の方が勝つ。だから、その主事に力を与えるっていうのが、僕の言う「タウン・アーキテクト」なんです。もちろん法も前提にするけども、デザインや色なんかが気に入らないと、そこで指導もして、たとえば、「あなた、もう少し隣のことも考えなさい」、なんて言う。そういう人が、全国で千八百の自治区があるとすれば、千八百人いればいいんじゃないか、と思うんです。まぁ、東京や京都なんかは、もうちょっと割らないといけないから、千八百ではいけないんですけど。

佐伯 そうですね。

布野 高さを決めてそれに合わせろ、というのはあまり気に入らないんですよ。だって百年くらいかかる話ですからね。隣に高い建物があってそれを取り壊せというわけにはいかないから、建て替えるときには緩やかに、というふうにしておかないと。景観には時間がかかるわけですからね。

 

 

 

佐伯 ただ、やはり一番のおおもとは、景観について主事が決めるにしろ( ? )委員会がやるにしろ、ある程度そこに住んでいる人の合意が必要ですからね。ですが、その合意がいま難しいですよね。京都はそういうことにたいして日本の中で一番敏感であるべきはずの街なのに、京都の美観とは一体何なのか、京都にとっての付加価値は何なのか、ということにたいする合意ができなくなってしまっていますよね。

布野 景観だけの話で言うと、眺望景観とか、合意形成できる理屈というのはいくらでもあると思うんですね。たとえば、大文字が見える範囲は制限しましょうとか、山鉾が通る所は高さを維持しましょうとかね。要するに「視点場」(?)と言いますけど、いくつかポイントを決めて、そこからだけは見えるようにしましょうとか、僕はやりやすいと思うんですけどね。観光客も支持すると思いますしね。ただ、思い切ってやるリーダーシップがなかなか発揮されていないですからね。もちろん、景観だけの話ではやれないですから難しくはあるんですが。

佐伯 もう少し広い意味での、たとえば地下鉄の計画とか、道路整備とか、公共交通機関をどうするかということも含めた、都市環境の整備、都市計画という観点からすればどうですか?

布野 そのレベルもものすごくちぐはぐでね、町家が歯抜けになって駐車場つくって空き地になって、とやっていたら、その後マンションができて人が増えたから、小学校を統廃合してしまった後だから教室が足りないのでプレハブ作ってやっているんですよ。先が読めていないんですよね。都心にはそういう問題がありますね。それから、市電も大失敗ですよね。今度また実験すると言っているじゃないですか。それも、先を見通すことができていないってことですよ。京都全体の理念がないんですね。

佐伯 そもそも都市計画という発想がないんですかね。都市というのは人工的なものですからね。しかも、立派な都市というものを民主主義的につくるというのは不可能なわけで、都市を美しいものにするには、ある意味で上から強引にやる必要がありますからね。

布野 都市計画は基本的に権力と結びつかないと自己実現しないですからね。だから、「みなさんのご意見を」というのは矛盾するんですね。

佐伯 都市計画の思想そのものが「自由」とか「民主主義」という概念に基本的に反するところがありますね。遷都だってそうですよね。みんなで話し合って決めるなんてことはできないです。布野先生のように、これまで色々みてきた立場からすると、都市計画に関しては「自由」とか「民主主義」をある程度制限してしまった方がよいと思われますか。権力によって美しい都市をつくるという価値観と、「自由」とか「民主主義」とかいう価値観のどちらを選ぶかといったら、やはり前者の権力的な都市計画の方が重要だということでしょうかね。

布野 そもそも制限しないと成り立たないですよ。

佐伯 やはり京都の景観だとか都市計画に関して気になるのは、繰り返しになるけれども、京都は伝統的なものが残っている一方で、そこに戦後日本的なものがどんどん流れ込んできていて、大混乱を起こしているというような状況なわけですよね。「戦後日本的なもの」というのは、公共的な観点をほとんど考慮しないで、私権を中心とするような自由と~~(?)を確保しつつ、他方では開発主義的にあらゆるものを経済原則でやっていくということですね。多くの人がそういうものは面白くないという感じを持っているわけだけども、どうやったら抜け出せるか、その道筋が見えない。

一つは、トータルに制限してしまうような、ある種強権的なやり方で規制を加えるというやり方ですよね。ところが、従来の都市計画は、あまり開発されていないところを開発する、つまり近代化する、近代都市をつくるという意味合いが強かったわけですね。そうではなくて、京都の場合は、近代主義に真っ向から反対するような都市計画や規制というものを、それでいて現代的な意味合いを与えるようなことができれば非常に面白いと思うんですけど、そういった道はないのかなと思うんですね。

布野 京都のまちの「かたち」との関係で言うと、露地が多いんですね。だから、家を建てるためには四メートル以上の道路に接しなければならないという基準が建築基準法にあるわけですが、京都の場合はそれに馴染まないわけです。伝統的な袋地で成り立っていて、そこで鬼ごっこや運動会をやっていたと聞きますからね。そういう空間を維持できないという法的な枠組はおかしい。でも、市がやるのは、そうした袋地をなくすためならば補助を出しましょう、という話ですよ。

それから、総合設計制度というのがあって、自分の家の敷地から空地を少し公共に供したら、その分高く建てても構いませんよ、という制度ができてしまったんです。すべて東京的な論理、発想で、一見公共的に緑を増やすという発想で東京ではやっているんですが、京都でそれをやると町並みがガタガタに、高さもガタガタになるわけですよ。

僕は宇治市の都市計画審議会に加わっているんですが、そこで適用は受けませんと決定しないと一律に適用されてしまうわけです。小泉改革のときですよ。慌てて宇治市はやりませんという決定をしましてね。

佐伯 たしかに規制緩和が必要なところはあるんですが、ところがやるべき規制は全然やらない。小泉改革のなかで、とにかく都市にお金を集中させて、東京を中心にして巨大ビルをいくつも建てて、ということが行われましたからね。日本経済の構造を変えるはずのものだったのが、結局は土建主義的なものに戻ってしまって、それで景気回復させる、という話ですからね。

 建築家というのはこういうことに関心をもたれているのですか。

布野 日々直面していますよ。六本木ヒルズの足下に国際文化会館というのがあるんですが、あれはル・コルビジェの弟子が手がけたんですけどね。それをつい最近、森ビルの圧力を押しとどめて、保存しながら改修するということをやった建築家がいるんです。隣で安藤忠雄が森ビルでまた巨大な建物を手がけている。どちらを取るか、ということが日々問われているんです。

 一方で、コンバージョンと言いますけど、たとえば小学校が少子化で山ほど余っているんですね。それをどのように再利用するか、といった課題がたくさんあるんですね。ただ、これまであまり良い事例がないですし、ストックの質があまり良くないんですね。高度成長とかバブルとかで、耐用年限が低いものが多いですからね。壊した方が金になる、ということでやってきましたからね。

 それから、阪神淡路大震災の際に大失敗したと思っているんです。すべて捨てちゃいましたからね。あのときに、マンションも修復しながらでも十分住める、という経験を積んでおけば、随分違ったと思いますね。一概には言えませんが、姉歯問題でも、修復の技術とかがもう少し一般に認知されていれば、耐震強度云々といっても、補強すれば住めるんだということが常識になる契機になったと思うんです。でも、あの問題は、もっと構造的な問題なのに、彼一人の責任にしましたからね。

 建物も人間と一緒ですよ。介護が必要となりますからね。建てた瞬間から劣化は始まるわけですから、最初は耐震強度を満たしていたって、劣化していくわけです。だから、介護しながら維持していくというのが当然の話なんです。まだまだ多くの人が新築の方を好むわけですよ。そういうサイクルを前提にしなければ、都市計画も安定しません。

佐伯 そういう話を伺っていると、日本人のメンタリティそのものが問題なような気がして、ますます悲観的になってきますね。

布野 いや、あまり大きなことを言わずに、街区レベルで楽しい空間をつくっていこうと考えていくことから始めテイクことが大切なんです。

佐伯 そうですね。自分が活動する範囲だけは責任をもってやる、そういうふうに多くの人が考えるようになればもう少し良くなっていくでしょうね。

布野 地域社会が壊れているから、それこそ拠り所がなくなってしまっていますからね。

佐伯 布野先生はそういうことに関して積極的に発言されていると思うので、どんどん声をあげていってくださればと思います。

(二〇〇七年一月十六日 滋賀県立大学環境科学部環境計画学科 布野研究室にて)

 
















2022年5月1日日曜日

百年計画,現代のことば,京都新聞,19960606

 百年計画,現代のことば,京都新聞,19960606

百年計画            

布野修司

 

 「奈良町百年計画」というプロジェクトに研究室みんなで参加したことがある。大学の研究室の他、建築家や企業の研究所など数グループが、決められた地区の百年後の姿を提案するのである。一種のコンペティション(設計競技)であるが、一等二等が決められるのではなく、それをもとにまちづくりについて議論しようというのである。

 求められたのは八〇〇分の一の縮尺の立体図である。畳二畳程の大きさになった。八〇〇分の一というと、住宅一軒一軒がどうなるのか描く必要がある。とにかく大変な作業であった。

 何故、百年計画なのか。都市計画というと、現実の柵(しがらみ)があって、なかなか思い切った提案ができない。しかし、単なる計画案(絵)を描くというのでは、それこそ画瓶だ。現実の条件を長い目で評価した上で、百年後の姿をできるだけリアル(と思えるように)に描いてみようというのである。

 百年後は誰も生きていないのだから、誰も正解を知らない。何も予測を競おうというのではないけれど、多少思い切った提案が可能ではないか、というねらいである。

 それに、自分の住宅が一軒一軒具体的に描かれるのだから、住民も無関心ではいられない。展覧会やシンポジウムを開いて議論する大きな材料になるのではないかという期待もあった。

 やってみるととても面白い。まず、現存するコンクリートの建物はすべて百年後には無くなっていると仮定できるのである。逆に、木造の町家は、建て替えによって更新していけばそのまま残っている可能性が高い。これは実に、奇妙な感覚であった。

 何が残り、何が残らないかという判断にまず計画理念が問われることになる。わが研究室は、奈良町=仏都、仏教の世界センターという基本コンセプトを軸にまとめたのであるが、各テーマはグループごとにさまざまである。まちづくりをそれこそ立体的に考える貴重な体験であった。

 理想的な計画案でも地獄絵でもない。百年後を想定するということは、逆算して五〇年後、二〇年後も問われることになる。逆に計画するやり方は、思考実験としてかなり有効ではないか、と思う。

 建都一二〇〇年を経過したばかりであるが、これを機会に、「建都一三〇〇年」の京都についても、百年計画を立ててみたらどうか。開発か保存か、といった二者択一の思考で判断停止するのではなく、地区ごとにその百年後の姿を詳細に描いてみるのである。もしかすると、後に続く世代へのそれは義務でもあるかもしれない。

 などというと気が重くなるのであるが、まちづくりのための議論のために、全国の自治体も気軽に百年計画を立ててみたらいいと思う。もっとも、作業は大変であり、とても気楽にとはいかないのであるが。

 


 

2021年5月9日日曜日

京都論の現在,新建築,199711

京都論の現在,新建築,199711

 

 

京都論の現在

布野修司

 

 

 JR京都駅の複合ビルが全面開業した(9月11日)直後の休日、昼食でも、と出かけて驚いた。大階段広場は、鈴なりといおうかなんと形容していいのか、ものすごい人出であった。レストランは軒並み一時間半から二時間待ち。駅周辺のレストランも同様の状況であった。まずは物見高い一般の関心は高いと見た。

 屋上広場に佇んでいると、いろんな声が聞こえてくる。「年寄り連中はえらい怒っとるんやけど、若いもんはそうでもないんや」。「こないなってたんかあ。これがえらい不評なんやて」。・・・JR京都駅の評価は、単に高さ(壁)をめぐった攻防から、具体的な空間体験を踏まえたものへ、また具体的なインパクトを計る段階へと移行しつつある。

 開業の日、四条周辺の百貨店も多くの客を集め、相乗効果があったと伝えられている。10月には御池通りに地下商店街が、地下鉄東西線の開業に先立ってオープンした。建都1200年を超えた京都が、確実にひとつの変化を経験しつつあることは間違いない。

 もちろん、JR京都駅周辺の商圏、人の流れがどうかわるのか、JR京都駅の大空間がどう使われていくのかはこれからの問題である。大空間は大道芸人の蝟集する活き活きとしたパーフォーマンス空間であり続けるかもしれないし、ホームレスが屯(たむろ)し、ダンボール住居が立ち並ぶ空間と化すかもしれない。24時間解放された空間でありうるかどうか、クライアントのプログラム次第といえ、建築家の提案した空間の構想力の問題でもある。

 「とにかくどう使われるか見て欲しい」「子ども達の反応に期待したい」といった建築家原広司の言い方にはいささかがっかりしながら、村野藤吾の「赤い光、青い光」というエッセイを思い出していた。新興(近代)建築家諸君へ向けて、理念を振り回してもネオンの店の集客にかなわなければ負けだよ、とつぶやくように自らを納得させる内容だったと思う。ほとんど使われない公共建築が多いなかで、単純に利用者の数によって(究極的にはプログラムの質によって)公共建築が評価されるのは当然である。商業建築であればより現実的にそれが問われる。

 しかし、建築家には空間の論理(言説)で説明すべきことがある。まして、鋭い理論家と目されてきた原のJR京都駅についての沈黙はいかにも不自然だったと言わざるを得ない。彼はこれまでの京都にないヴァーティカルな空間を挿入することを戦略化したのであり、単に高さだけの議論にとどまるレヴェルでは話にならない。京都は常に新しい空間を導入してきたのであり、そうだとすればどこにもないその空間の質をめぐって議論はなされるべきなのである。

 安藤案の「門」に対して、原案は「山」(あるいは壁)、というのが、一般の、少し訳知りの受け止め方だろう。原は、三山に対して南山を構想したのだ、というのに対して、それは全く風水を理解しない案だ、などという議論がある。「京都は歴史への門である」と原案もまた「門」をコンセプトとしていることなど誰も知らない。このレヴェルでは、「羅生門」ー「朱雀門」をイメージさせる「門」のシンボリズムの方が圧倒的にわかりやすく支持が多いだろう。

 しかし、そうした議論はそれ以上に拡がらない。現実の諸条件が何事か考慮され、コンペの審査が行われた経緯がある。そして、当選案が公表されてから今日に至るまで、巨大な山(壁)ができるというひとつの事実に対して反射的な反撥が大きな声となってきた。また、その反撥を増幅させたのが七条口の「ゴテゴテした」「ポストモダン風」のファサードである。足場がとれた瞬間、さらに「評判は悪くなった」ようなのだ。

 正直、まだ、新幹線側のファサードがおとなしくていい。壁のようでありながら、烏丸通りなど主要な通りの突き当たる地点には穴(小門)が開けてある。烏丸小路、室町小路、町尻小路に対応する。だから、門といっても小路への入口にすぎない。「京の七口」など都の入口を象徴するのではなく、町屋街区の写しがそこにある。原のいう「地理学的コンコース」なるものはそういうことではないか。新幹線側からは従って路地の奥を覗き見る風情がある。京都タワーもくっきり見える仕掛けがある。空中歩廊や大吹き抜け空間も透けて見え、新しい空間を予感させていた。それに対して正面ファサードは大きく破綻しているように見える。「北面のファサードは、いわば門の表層であるが、広場から見れば暗い陰の面になりがちである。提案では明るく輝く立面を実現すべく、ほとんどガラス面として、建築はかつ消えかつ浮かんで、輸送された北の空と重なり、人びとは二度と同じ形象を見ることがない」というのが設計意図であるが、完全な失敗である。建築は消えもしないし、浮かびもしない。重苦しい壁に駅前の雑然とした景観を醜く歪めて映し出しているだけである。「巨大な壁」と「不格好なファサード」、JR京都駅批判はいまなおこの二点を根拠にしているといっていい。

 ヴァーティカルな空間という時、それは単に垂直的空間ということではない。単に空間の規模や配置が目新しいというのではなく、その空間を身体で直接甘受するレヴェルで、より深度をもった原理を提出しえているかどうか、が問題なのだ*1。西谷啓治が、戦後まもなく、「京都感想」と題して、「高い歴史的文化の伝統を担った古都としての品格は、ほとんど見られない。よく植民地的と言われるが、植民地でも気の利いた都市はもっとましである。いちばん悪いのは浮ついた新しさのうちに妙に垢の抜けない古くささが混じっていることである」と痛烈な京都批判*2を展開していることを最近知った。京都の景観を考える上で繰り返し反芻すべき文章だろう。

 深度をもった空間原理の提出、そんなことはもちろん容易なことではない。しかし、原広司の「均質空間」(批判)論はそれをこそ問題にしてきた筈だ。「均質空間」論はどこへいったのか、が問われるべきなのである。*3

 原のこの間の沈黙にはそれなりに理由がある。まず、京都という政治風土におけるリアル・ポリティックスがある。また、京都をめぐる独特の言説の構造がある。要するに、内外からの視線、愛憎が半ばし、議論がオープンになっていかないブラックボックスのような京都論を支える構造がある。さらに、「集落への愛」を語り続けてきた理論家原広司が梅田スカイビル、JR京都駅、サッポロドームと立て続けに巨大建築を手掛ける違和感がある。嫌悪感と言っていいかもしれない。匿名の大手組織事務所がJR京都駅のデザインを手掛けていたら、問題の質は同じであるにしろ、建築界の反応は異なっていたであろう。しかし、そうした脈絡とは別の次元で空間の構想力と質が終始問われていることは言うまでもないことである。

  JR京都駅をめぐって問題にすべきことはさらにある。原がドンキホーテとなることにおいて、建築の設計施工、生産の仕組みそのものの問題がクローズアップされる。巨大な組織による巨大な複合構築物をつくる場合に、建築家に何ができるか、あるいは建築家はどういう役割を果たすべきかを否応なく考えさせる筈である。施工の過程や建築生産システムについては『施工』がよくフォローしている。「みんなよく頑張った」というトーンは拭えないにしろ、どれだけ多くのエネルギーと時間がどのような決定システムにおいて積み重ねられたかを窺うことが出来る。京都で不評の原の擁護を敢えてすれば、原(その構想力に、コンペの勝利者、東大教授という肩書きも加えてもいい)でなければ出来なかったことがあると思う。例えば、原でなければあれだけの公共空間を確保できたかという気がしないでもない。原の不幸なのは、そうした決定を自ら市民に公開する場を持ち得なかったことである。いずれにせよ、「高さ」と「壁」と「ポストモダン」風デザインということでファッショ的に断罪する風土は困ったものである。

 

 

 しかし、それにしても、JR京都駅をめぐって、京都をめぐって問題にすべきことは依然として多い。例えば、総合設計制度の導入に先だってコンペが実施されたという事実は消えない。京都がまちづくりに対して積極的でないというわけではないけれど、他の日本の都市に比して、その決定プロセスが閉鎖的で不透明であることは常々感じるところである。

 いま京都ではセーヌ川に架かる橋(ポン・デ・ザール 芸術橋)を模した3.5条大橋のデザインがまたしても「景観問題」(第三次景観論争?)として騒がれ始めている。そこにも同じような紋切り型の反応と議論の構造が既に透けて見える。なぜ、京都にパリの橋のデザインをコピーしなければならないのか。どうもこの国の建築デザインに対する一般の理解のレヴェルは低い。もちろん、その責任の大半は建築家にあると思っておいたほうがいい。深度のある空間の原理を提示できていないのである。

 事態はこういうことだ(らしい)。もともとから先斗町と祇園を歩行者路でつなごうという構想が「地元」あった。一度ならず耳にしたことがある。繁華街を交流させたい、ということである。そうした潜在するニーズを背景に、京都市は、京都・パリ友好都市提携40周年(1998年)の記念に格好の事業として、歩道橋建設を行うことにした、ということである。ややこしいのは、その事業が昨年京都を訪れたフランス大統領ジャック・シラクの提案を受けて決定された、とされることである。

 既に、市当局はイメージ・パースを公表、都市計画審議会の縦覧手続きを採った。マスコミの論調は、まず、反対が基調である。JR京都駅の時と同じである。

 「ポン・デ・ザールはポント町の風情台無しに」「鴨川には似合いまへんな」「世界遺産の一部 調和が乱れる」「フランス模倣友好にあらず」「国際文化交流への誤解」

 「ポン・デ・ザール」という具体的なイメージがあるから反対の論拠はわかりやすいかもしれない。川幅も流量も違い、周囲の景観も全く異なるところに「同じ」橋というのはいくらなんでもというのがまともだろう。もちろん、「フランス」「パリ」の橋、しかも、「芸術橋」ならいいじゃないか、という意見もある。キッチュの精神は、どこにも潜んでいるのである。

 歌舞伎好きのシラク大統領と個人的な縁があった志明院の田中真澄住職が手紙を書いた。その返信にはこうある。

 「京都のように長い伝統をもつ都市では、こういう大規模なプロジェクトが必ず議論を起こすはずです。それは当然のことで、また、のぞましいことです。私は、お国の民主的なルールを深く尊重しますので、お手紙の内容に直接に返事することによって、その議論に関与することを是非とも避けたいと存じます。」

 もっともな返答というべきか。問題はまず「お国の民主的なルール」の方である。しかし、シラク大統領も議論の巻き込まれざるを得ない。ル・モンドが一面(9月10日)で、「シラク大統領のアイディアで京都に変貌の危機が」という東京発の批判的記事を扱っているのである。

 しかし、事態はどんどん進む。縦覧期間中に提出された意見書は1400通を超えたという。JR京都駅の時の10倍以上である。わかりやすいからであろうか。必ずしもそうではない。

 1420通のうち、賛成が1027通、反対が373通。賛成意見の大半は歩道橋建設推進の区議の後援会が集めたという。これを受けて市は都市計画審議会の審議を年内に終え、来年度内に着工する構えだ。これが「お国の民主的ルール」の実態である。外部の権威に発案を委ね(た形をとり)、「地域」に潜在する利害関係を覆い隠す。デザインの問題や必要性をめぐる議論を骨抜きにする周到なプロセスである。

 「この橋をつくることに決まったらば、その実現に参加することを、フランスは名誉と見なします」とシラク大統領の田中真澄住職への返信の最後には書かれている。

 

 3

 その京都がいま21世紀へむけてのそのグランドヴィジョンを問う国際コンペを実施中である(10月末締め切り)。7月末に、応募登録数は2000を超えた。海外からも50を超える国・地域から登録があったという。果たして最終的にどれだけの応募があるかは不明であるが、極めて大きな関心を集めているといっていい。そして、おそらく、応募案の中には多くの建設的提案が含まれているに違いない。

 しかし、決定的問題は多くの提案を具体的に実施していく仕組みがオープンに設定されていないことである。3.5条大橋をめぐる決定プロセスが現実である。

 多くの建設的提案を受けて、具体的な事業を誰が決定し、誰が実施するのか、集団無責任体制である。何も担保されていない。これでは絵に描いた餅に終わりかねない、という不安が当初からある。そこで、何(提案内容)よりも、「権威ある」「グランドヴィジョン委員会」あるいは「アーバン・デザイン・コミッティー」といったボードの恒常的設置を、というのが僕の主張なのであるが、なかなか大きな声にならない。小さなアイディアのバラバラの動きがあるだけでまとまった動きにならない。まことに京都的である。

 京都グランドヴィジョンをめぐっては日本建築学会建築計画委員会の1997年度の春季学術研究会*4で議論する機会があった。「一極集中の都市構造」「京都の二重構造・・・南北問題、都市と農村の問題」「京都らしさをめぐる呪縛の構造」「京都をめぐる虚と実」等々をめぐって京都の抱える諸問題が出された。また、様々な具体的な提案もなされた。その詳細は学会の記録に委ねたいが、それなりの密度の議論が展開できたように思う。

 まず強調すべきは、京都がはっきりと「停滞」の症候を示していることである。人口減少、高齢化、地域社会の弱体化、女性と高齢者の就業問題、都心の空洞化。京都の地域構造、人口構造に歴史的な変化が起こっている。拡大と成長の時代は去ったのであり、縮小と均衡の時代が始まる。京都はこれまで全く違う発想で都市計画を考える必要があると力説するのが広原盛明である。京都は、ある意味で京都は日本の都市の未来を先取りしている。京都こそひとつのモデルとなるべきだと思う。

 これからの京都をめぐってはまず虚心坦懐に現実をみる必要がある。京都は大都市として、日本の大都市固有の問題を抱えている、ところがしばしば語られるのは、京都の町の特殊性である。大都市固有の問題と、京都固有の問題、お互いに相互に影響しあいながら、お互いを見えにくくしているという状況がある、というのが橋爪伸也である。

 京都の着倒れ、というけれど家計に占める衣服費の割合は決して多くはない。観光産業はGNPは1割にすぎず、有数(全国第9位)の工業都市である。京都は物づくりの町である。日本最大の内陸型の工業都市である。西陣織とか清水焼のような伝統的な産業だけではなくて、京セラ、オムロン、任天堂、ワコールがある。重工業では、島津製作所、三菱自工があり、重たい物から軽い物、最先端から伝統工業までありとあらゆる工業、物づくりでこの町は成り立ってきた。

 実際、京都市明治以降の政策を見ると、ひたすら近代化、ひたすら工業都市化を果たそうとしてきた。いわゆる三代事業と呼ばれる事業が、明治維新以降衰えた京都の町を再生させる。明治以降の京都策というのは、京都固有の町づくりの方針であるが、その根幹にあるのは工業化なのである。ところが一方でこの本質を覆い隠すように、例えば歴史の町であるとか古都であるとか、あるいは大学の町であるとか、観光で町は成り立っているとかいう風な言説で、この都市が対外的なイメージを醸造してきた。実質と外から見たときの京都像は全くちがう。北部保存、南部開発と言うけれど、南部に開発の余地はない。外部の視線は往々にして京都のイメージにとらわれすぎている。いささか無責任である。

 

 4

 そうした出発点を確認した上で、京都が依拠すべきはその特権性ではないかと思う。日本の他の都市にないアイデンティティに徹底して拘るべきだ、というのが僕の主張である。既に、『建都1200年の京都 日本の都市の伝統と未来』*5を編んだときに思いついたのであるが、そう揺らいではいない。その後、京都グランドヴィジョン策定の研究会においても同じような主張をしている*6

 京都の特権性とは何か。ひとことで言うと「世界都市としての京都」という理念である。要するに、世界の中心としての都市という「フィクション」にもう少し徹底してこだわるべきではないか、ということである。具体的に言うと、「京都」の特権性として、センター機能をどう維持し続けるかが問題ではないか、ということである。事実、京都市の掲げるスローガンにはそうした理念が忍び込んでいるのである。

 日本文化の中心としての「文化首都」、学術の中心としての「学問の首都」(ノーベル賞、京都学派)、「修学旅行のメッカ」、国際文化観光都市、「世界文化遺産都市」(歴史都市(古都)としての景観資源)、「小京都連合のセンター」、・・・・

 実は、「天皇の所在地としての京都」という「都(みやこ)」の虚体化という大テーマが京都の特権性の主張の背後にには隠されている。また、政治首都が移転した、という首都喪失の事実がある。しかし、政治首都としての機能を失って久しいし、「虚」の中心として京都は成り立ってきた筈である。

 こうして、京都の特権性に拘るべきだ、という主張は混乱してくる。「世界都市としての京都」が実は「虚」でしかないことをうすうす皆が感じているからである。従って、その他所者の主張は嫌みに聞こえる。

 しかし、京都のアイデンティティに関わる「世界都市としての京都」という理念を失うと、京都はただの「地方都市としての京都」でしかない。全国で何番目かの大都市にすぎないのである。上位計画に縛られ、他の大都市をはるかに凌ぐ施策など展開できるわけがない。それ故、その特権性に拘るべきだ、というのは極めて論理的な主張である。

 京都の実態を冷静に見つめ、なおかつ「フィクション」としての「世界都市」理念に拘る時、何が構想しうるかが、京都に固有の問題なのである。

 ではどうすればいいか。繰り返しになるけれど、その鍵  になるのは「世界都市理念」を常に議論し続ける仕組みの構築である。世界都市文化センター、世界木の文化センター・・・等々既に多くのヴィジョンがある。今回の京都グランドヴィジョン・コンペへの応募案のなかにも数多くの提案が含まれている。問題は、それをどう持続的に実現していくか、その現実化のプロセスと仕組みである。

 京都グランドヴィジョン・コミッティ、京都賢人会議、あるいは京都百年委員会。百年後の京都を想定しながら、持続的に京都像を提示し続けるそうした仕組みがどうしても必要なのである。

 こうして、京都について考えていることは、決して日本の他の都市の抱える問題と無関係なのではない。実際、京都で問われていることの大半は日本の全ての都市において問われていることだ。

 それを問わずして、京都にのみ過剰に期待するのはアンフェアである。自らの依って立つ根拠を問え。「地域」の現実に眼をつむり、結論を他に委ねて先送りするある種の怠慢がそこにありはしないか。

 

*1 田中喬+布野修司 「京都という場所」、GA97「特集 景観としての京都」、1997AUTUMN。ここでいうヴァーティカルは、田中喬のいう意味にも繋げたい。

*2 西谷啓治、「京都感想」、『風のこころ』(新潮社、1980年)、『宗教と非宗教の間』(岩波書店、1996年)。

*3 拙著、『戦後建築の終演 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995年の最終章「Ⅲ 世紀末建築論ノート・・・デミウルゴスとゲニウス・ロキ」は、原の「均質空間論」の行方を問うたつもりである。

*4 1997年6月24日。「京都の未来と都市景観」、コーディネーター、布野修司、パネラー樋口忠彦、陣内秀信、松政貞治、広原盛明、古山正雄、橋爪伸也。

*5 拙稿、「京都というプロブレマテーク」、1994年2月号

*6 拙稿「」京都百年計画委員会の設立を」、『「21世紀・京都のグランドヴィジョン」策定に向けて 中間報告』、京都市総合企画局、1997年4月