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2023年12月31日日曜日

建築における一九三〇年代,KB Freeway,『建築文化』,198001

 建築における一九三〇年代

 

 七〇年代の幕が閉じ、八〇年代が幕を開ける。一〇年を一区切りとして、時の流れをとらえていくことは、もとより便宜的でしかないとは思いつつも、過ぎ去った一〇年を振り返り、来るべき一〇年を展望する問いに,多くはとらわれる。いくつかの雑誌が七〇年代の総括を試みる特集を組み、また、八〇年代を展望する特集を組んでいる。目に触れる多くの文章が一つの区切りを意識している。一〇年は一昔である。

 しかし、明確な形に集約される問いが、そこにあるわけではない。便宜的な区切り以上の何ものかがそこにあるわけではない。問えば問うほどむしろ、八〇年という時間的な閾が単に経過点にすぎないという意識のみが浮かび上がってくるようにみえるはずである。「七〇年代から八〇年代へという時間的な推移が七〇年代の対自化ということを要請しているとしても、七〇年代がいかなる時代であったと問うことは、基本的には空しい営みに終わるほかない」、「七〇年代においては実際に何ごとか起こってはいる、と言いうるだろう。それが何であるかということは明確に指摘できはしないし、あるいはこれからやって来るであろう八〇年代という時代においてそれが明瞭な像を結ぶということでもないかもしれない」「だからここではもはや七〇年代から八〇年代へといった方向性を問うことはやめて、そのような問いを曖昧さの中に差し向けてやることしかできないのである」といった言い方こそが、そこでは支配的なのである。

 問題は、そうした問い方自体にすでに存在していると言ってもよい。しかし、そうした問い方によって明らかにされる地平は、すぐれて状況的であると言える。おそらく、七〇年代的パラダイムと呼びうるものによって、その時代を振り返へることは可能であろう。解体の時代、空白の時代、不在の時代、引用の時代、周縁の時代。知の戯れの風景において、頻繁に発せられた言葉たちによって、七〇年代という時代を特徴づけることができる。しかし、われわれはその時代の終焉を確認することができない。やがて八〇年代のパラダイムと呼ばれるものが明確な差異をもって現れてくるかどうか、その予感はないのである。六〇年、七〇年という時点と比べてみれば、それは一層明らかなように思える。一九六〇年代という時代区分が単なる便宜的な区切り以上の意味をもっているのは、六〇年安保、七〇年安保といった政治的課題のメルクマールがわれわれの時代意識に大きな影を落としているからであり、しかも、それが戦後復興・・戦後の終焉・離陸・・高度成長・・破錠という戦後過程に対応しているように思えるからである。そして、それぞれの時点ですでに、ある一つの先行する時代の終焉が意識され、少なくとも具体的な課題がそれなりに共有されていたように思われるからである。しかし、われわれは必ずしも、七〇年代を一つの区切られた時代として意識化しえない。八〇年代へ向けて具体的な課題が共有されているわけでもないのである。七〇年代は、その時代を特徴づける求心的な何ものかを生み出しえなかった。拡散的な経験のみがそこには存在している。七〇年代の総括の試みが、個別の作家や作品、出来事についての記述の羅列という形をとるのはそれ故にでもある。ある意味では、六〇年代末から七〇年代初頭にかけて確認された一つの時代の終焉を、確認し続けたのが七〇年代であったと言ってもよいのである。

 「私たちは七〇年代の思想状況を二重の解体のコンテクストとして読むことができる。ひとつは幻想的な普遍性のエクリチュールの解体過程であり、もうひとつは、知的な普遍性のエクリチュールの解体過程である。そしてこの解体が多様な現実を私たちに見せると同時に、思想的な求心性の解体であることによって、人々は根拠と希望を求めてさまよったのである」と小阪修平は言う*[ii]。そのさまよいは今なお続いているし、ここしばらく続くであろう。七〇年代の経験に、確実な何かを見いだしえないが故に、そう言わざるをえないのである。

 「観念的ラジカリズムの終焉」という、小阪が七〇年代に対して与える総括は、ある意味で七〇年代という時代をくっきり浮かび上がらせると言ってもよい。しかし、「私はこの小論で、観念的ラジカリズムをひとつの自然過程としてあつかってきた。したがって、私が七〇年代に読んだ、観念的ラジカリズムの終焉というコンテクストに、正の価値を与えるか、負の価値を与えるかは読者の自由である。」と、あえて注記するように、その終焉の確認において、八〇年代がくっきりと見えてくるわけではない。むしろ逆である。確かに、観念的ラジカリズムは、七〇年代において、市民社会の外部=周縁ーー第三世界、土着、辺境、日本的なるもの、差別、身体……ーーへ向かい、それを一つの希望としてとらえようとしてきた。ある意味では、その希望が拡散的な状況を生み出してきた。しかし、それぞれの希望が裏切られ続けてきたのが七〇年代なのではないか。自然過程としてとらえる限りにおいて、そうした意味で観念的ラジカリズムは終焉したのだ、と小阪修平は言うのである。こうした認識の地平から何を展望しうるのか。少なくとも、その終焉を負の価値ととらえるものにとってそれは厳しい。安易に希望を語りえない状況の困難性が、根底的なレベルで意識されるはずである。確かに、周縁的なるものへの希望は知の表層で語られ続けたのであるが、周縁的なるものへの具体的な回路を見いだしえなかったと言いうるからである。

 建築における七〇年代は、近代建築の解体と建築そのものの解体(商品化)という二重の解体のコンテクストにおいて、多様な表現を生み出してきた過程であった。ポスト・モダニズムとかポスト・メタボリズムとか呼ばれる状況がそれである。しかし、それはまた、その時代を特徴づける求心的な何ものをも生み出しはしなかった。拡散的な七〇年代の経験のみがそこに同じように浮遊したのである。

 そうした状況を最も的確にとらえ、体現してきたのが磯崎新である。彼は、中心性の解体を逸早く予感し、主題の不在、空洞の時代がかなりの深さと長さで進行していくことを予想しえていた。それ故、彼は、そうした状況に対して有効な戦略を展開しえたのであり、広範な影響を及ぼしえたと言ってよいの。「建築の解体」、「主題の不在」、「引用」、「手法」、「修辞」、「記号論」………。彼の発した言葉、論の展開などすべてそのまま建築の七〇年代におけるパラダイムを形成したのである。

 しかし、彼は七〇年代を通して、「建築の解体」状況を、そしてそれによる拡散状況を突破する確実な方向を提示しえなかった。「空洞の中心への吸引を常に感じながら」「中心の空洞にむかい合うことを避けられなくなりつつある」ことを予感しながら、「建築の地層」をさぐり当てねばという意識に駆り立てられながら、次なるステップは必ずしも彼のうちで収斂していかないのである。ある意味では、きわどいバランスの上に位置してきた彼にとって、そうだとすれば状況は次第に困難となりつつあると言える。例えば、次第に大きくなりつつある概念建築に対する否定的な声は、状況が次第に困難となりつつあることを彼に意識させているはずなのである。

 日本における建築のそうした状況は、とりわけ、若い世代の建築家たちの評価をめぐる議論において確認することができる。石山修武の「新傾向の一部について」*[iii]と林昌二*[iv]の「歪められた建築の時代ーー一九七〇年代を顧みて」*[v]をひき比べることによって、あるいは槙文彦の「平和な時代の野武士達」*[vi]と鈴木博之*[vii]の「貧乏くじは君が引く」*[viii]を読み比べることにおいて、建築の小状況における対立の構図の一端を手に入れることができる。

 ある規模意識、使命感、秩序意識に照らせば、建築の七〇年代は「平和な時代」であり、「実りの少ない時代」であり「歪められた建築の時代」でしかない。そうした規範意識を強烈に提示するのが林昌二である。それは、観念的ラジカリズムの終焉を建築において、まさに正の価値として確認しようとするものと言ってよいであろう。

 市民社会の外へ向かった暴力(反日武装戦線による三菱重工ビル爆破事件、間組、鹿島建設など海外進出企業に対する一連の爆破事件)が建築とその環境を閉鎖的なものに変えたこと(暴力による歪み)、建築ジャーナリズムの演出によって、高度成長、学園紛争の落とし子たちによる、「虚しくも華麗な、実物大小住宅のあだ花が咲いたこと」(情報による歪み)、日照権をめぐる紛争が法律化までゆきついた事件に象徴されるように、ほしいままの権利主張が建築の自由を奪ったこと(権利主張による歪み)、さらに、エネルギー・ショックが、建設から維持、撤去まで含めた全過程をとらえて資源の節減・再利用を図るためには、どのような取組み方が必要かという形では論じられず、省エネルギーのための代替装置の開発にすり換えられていることを指摘しながら、林昌二は過去への復帰(保存、伝統的様式)は何ものも生み出さない。今ようやく、高度に発展した工業を背景として現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟したのだ、と言うのである。

 そこには、テクノロジー、テクノクラシーを基盤にする建築家の極めて正統的な価値意識が示されていると言えるであろう。そこで示されている規範意識は、依然として支配的である。それは、ある意味では近代建築を支えた規範意識である。また、「建築が健康さを取り戻すよい機会」とか「変転を越えて生き続ける建築の生命」という言い方に示されるような、「建築」に対する限りない信頼において書かれる価値意識である。

 しかし、建築あるいは建築家のアイデンティティそのものが問われていると考え、近代建築の解体を見据えようとするものにとって、そうした支配的な意識こそが問題であった。工業的なるものがもたらしたものが、商品と交換の世界の一般化にほかならないのであり、工業社会そのものに対する根底的な懐疑から出発するものにとって、決して「高度に発展した工業を背景として、現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟した」と見ることによって、新たな展望を語ることはできないのである。若い建築家たちや、保存や日本の伝統的様式への関心に対する林昌二の評価は,極めて厳しくポレミカルである。しかし、問題の構図は停止したままであることに変わりはない。テクノロジーあるとは工業的なものに対する評価の決定的差異がそこにあり、それを前提とするものが支配的な現実に対峙し得、それを否定的媒介とするものが、「社会性を欠いた小世界」に閉じ込もり、あるいは芸術や文化や知の領域へ平面をずらしていくという構図がそれである。七〇年代において、若い建築家たちに大きな影響を及ぼした磯崎新にとって、少なくとも、それは出発点において見えていた構図である。「テクノクラートに味方するか、あるいはデザインを放棄するか、この二者択一しか残されないとしたら、建築の思考は,当然のこととして不毛に陥らざるを得ない」のであり、それに陥らない新たな地平の模索こそが、彼の七〇年代の作業であったと言いうるのである。それが「アートとしての建築」、「小世界への自由」として現れざるを得なかったとすれば、またその限界すらも見えてきたとすれば、その新たな地平の模索がますます困難な状況を迎えつつあることが意識されるだけなのである。

 もとより、そうしたアポリアは、若い建築家たちにおいてより意識されている。「まさに千載一遇の大世紀末へと雪崩れ込んでゆく時の巡り合わせに遭遇した」ことをあえて「僥倖」と言いながら、「現在を大世紀末の洞穴への入口であるとするならば、その漆黒の大迷路をくぐり抜けるためには、よほどの身構え、気構えが必要なことは明白で、そのための準備、修練をおさおさおこたってはなるまい」「千載一遇の大世紀末洞穴へくぐってゆくのには余りに軽装備、灯りも小さく、ほとんど丸腰,無防備なものの多さばかりが目につく」と石山修武が言うとき、それは明らかであろう。石山修武自身がいかなる根拠と希望に基づいて「漆黒の大迷路」をくぐり抜けようとし、いかなる準備、修練をつんでいるのかそれ自体は興味深いことである。しかし、そこには、極めて鋭く状況の困難性が予感されており、したたかな覚悟が示されているのを見ることができるはずである。単に、建築ジャーナリズムにおいて、「高度成長の、あるいは学園紛争の落とし子たち」が「虚しくも華麗なあだ花を繰り広げて見せた」「幕間の寸劇にしては長すぎる舞台」の幕が下り、「本舞台」の幕が開くといったレヴェルでのみとらえられてはならないものが、そこにはあるはずである。状況は、若い層においてはるかに厳しいと言えるのである。七〇年代の疾走を雑誌の特集という形で振り返る機会を得た原広司もまた、繰り返し状況の厳しさを語っているはずである。固化しつつある状況を逆手にとり、いかに活性化、流動化しうるか、それこそが問われているのである。

 建築界がますます分断化されていく状況の中で、共有化された場はますます待ちえなくなりつつある。そうした状況において八〇年代を展望することは気が重い。われわれの日常のさまざまな局面につきまとうどうしようもなさは、漠然と暗鬱なる世紀末を予感させる。そうした漠然とした危機感がやがてとてつもない方向へ組織されるのではないかという不安が先に立つ。そうした中で、中心の空洞へ向き合うことがいかに可能か。共通の地層,地下水脈を果たして探り当てることができるのか。われわれは、ここしばらくは、さらに、希望と根拠を求めてさまよわねばならないのである。

 七〇年代における建築の拡散的状況は、いくつかの関心を浮上させてきた。それらは、「市民社会」、工業、テクノロジー、近代といった中心が排除してきた、周縁的なるものへ眼を向けてきたものであると言ってもよい。第三世界、亜細亜、東洋、ヴァナキュラーなもの、様式・装飾・折衷主義、沖縄、被差別部落、和風・数寄屋・日本的なるもの、地域、共同体………。しかし、それらは、いくつかの例外を除いて、単に眼差しとして対置されたにすぎない。単に眼差しとして対置する限りにおいて、それが現実をつき動かす支配的趨勢に対して力を持ちえないことは明らかであった。

 いま、われわれはおそらく磯崎新の『建築の一九三〇年代』がいち早く提起したように、少なくとも建築における一九三〇年代を想記すべきであろう。そうした関心をめぐるプロブレマティークのほとんどを見いだすことができるからである。そうしたさまざまな関心が、やがて、産業合理化、生産力増強、節約、建築の統制、建築新体制といった過程でなしくずしにされていったことを見ることができるからである。それを支えたのが、テクノロジーを基盤とする実務の思想であったからである。

 



*[i] KBFreeway、『建築文化』、一九八〇年一月。

*[ii]  「観念的ラジカリズムの終焉」、『流動』七九年一二月号 特集「検証ーー七〇年代の思想と文学」)

*[iii]  『都市住宅』、七九年一二月。

*[iv] 林昌二

*[v]  『新建築』、七九年一二月。

*[vi]  『新建築』、七九年一〇月

*[vii] 鈴木博之

*[viii]  『新建築』、七九年九月。




 

2023年3月24日金曜日

植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

 植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

西澤泰彦 『日本植民地建築論』 名古屋大学出版会 2008

布野修司

 

もう四半世紀前、毎日のように図書館に籠もって建築関係の古い雑誌を当たっていた大学院生の頃、気になって仕方がない雑誌の合本があった。『台湾建築会誌』『満州建築雑誌』『朝鮮と建築』という三つのバックナンバーである。日本建築の戦前・戦後の連続・非連続に焦点を当てていたのであるが、とても手を出す余裕はなかった。ただ、ここには大変な「世界」があると思った。いつか手をつけなければならないという直感から全て目次だけはコピーをとった。時を経ずアジアを臨地調査のために歩き回ることになり、結局は手つかずになった。中国にしても、韓国にしても、そして台湾にしても、当時はとても臨地調査を展開する関係になかったということもある。

アジアに向かって、すぐさまインドネシアのカンポン(都市集落)に出会った(『カンポンの世界』)。そして、カンポンの世界に導かれて、植民都市研究に赴くことになった(『近代世界システムと植民都市』)。西欧列強による植民都市や植民地建築の研究に手をつけはじめて、大きな課題として蘇るのが日本の植民都市であり、日本の植民地建築である。評者にとって、本書は、以上の経緯と関心に照らして、待望の書である。

何故、日本の植民地建築か。日本人の建設した建築物を復元・記録し、日本による支配との関係(を論じた上)で、歴史上に位置付けること、そして、旧日本植民地における建築物の再利用やそれをもとにした都市再開発を側面から援助することが目的だと、著者はいう。建築物に関する過去の情報について提供することは、侵略・支配とは直接には「無縁な」世代、すなわち「戦後世代」ができる数少ない償いだという。

日本植民地(台湾、満州、朝鮮半島)における過去の日本人による建設活動、その結果建設された建築物に関する情報ついては、本書は、現在までのところ、最も体系的なものと言っていい。本書に先行して、著者自身も参加した『中国近代建築総覧』、そしてそれを含む『全調査東アジア近代の都市と建築』(藤森照信・汪坦編、筑摩書房、一九九六年)があるが、それらはインヴェントリーに過ぎず、しかも、必ずしも網羅的なものではなかったのである。

本書は、「植民地建築とは何か」と題した序章で、問題意識や既往の研究を整理した上で、台湾総督府、朝鮮総督府などの官衙(庁舎)建築(第1章)、朝鮮銀行、台湾銀行などの銀行、満鉄などの国策会社(第2章)、学校、病院、図書館、公会堂、博物館、駅舎といった公共施設、百貨店や商店街、劇場や映画館といった民間施設(第3章)を順次取り上げている。植民地の政治、経済、社会というフレームであるが、必ずしも主要な建築物を列挙するにとどまらず、その建設活動に関わった建築家(建築技師)、建築組織を詳細に明らかにしてくれている。また、建築費についても触れられている。大連、台北、ソウルといった支配の要となった都市の全体像が欲しいというのはおそらく無いものねだりである。『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻、そして『岩波講座 「帝国」日本の学知』全八巻などを背景として読まれるべきであろう。ただ、越沢明の『植民地満州の都市計画』(アジア経済研究所、一九七八年)『満州国の首都計画』(日本経済評論社、一九八八年)『哈爾浜の都市計画』(総和社、一九八九年)といった先行研究を批判的に捉え返すためには、都市全体の構成(計画)にも触れる必要がある。また、青井哲人著『彰化 一九〇六年』(アセテート、二〇〇六年)のような様々な都市の都市史(誌)を明らかにする具体に即した作業は残されている。

個別の建設活動をつなぐ視点としてまとめられているのが「建築活動を支えたもの」(第4章)と「世界と日本のはざまの建築」(第5章)で、建築生産技術の様々な局面(蟻害対応、気候対応・・・)、建築材料、建築規則などが比較される。おそらく、本書の真骨頂は、建築技術、建築生産という建築の下部構造に関わる視点と、それを「世界建築」史に位置付けようとする視点である。もっとも、この二つの章がうまく整理されていないのが残念である。建築の様式と意匠についての記述が浮いているのも気になる。

本書が少なくとも日本の近代建築史に対して、「植民地化」という大きな視点を持ち込んだことは疑いがない。日本植民地が日本の近代建築の先駆的な実験場だ、ということはこれまで様々に指摘されてきたけれど、ここまでその実相に迫ったのは本書の大きな功績である。何故、朝鮮総督府は解体され、台湾総督府は大統領府として使われ続けるのか。旧日本植民地の現在にとっての近代とは何であったのか、本書は実に多くのことを考えさせてくれる。ただ、本書が支配とは直接「無縁な」世代の「償い」だという言い方には引っかかる。植民地建築研究そして植民都市研究は、そもそもが支配と被支配の間の文化変容に関わる研究である。植民都市は、支配する側の価値観、イデオロギーを被支配者に強いるメディアであり、植民都市はその表現である。著者が、日本の地方の建築家の建築活動と植民地の建築家の活動との同相性を指摘するように、本書のテーマはより普遍的なテーマに接続しているのである。

日本の「明治建築」も西欧から見れば植民地建築である。西欧―日本―日本植民地の相互関係をめぐって、日本植民地建築は、より複雑な様相を呈する。日本植民地という限定によって、東アジアというフレームにやはり捕らわれていると指摘せざるを得ないけれど、「世界建築」という切り口を示すところに強い共感を覚える。