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2024年11月26日火曜日

21世紀の建築の展望, poar(Korea),199909

建築人

 

21世紀日本建築の展望

布野修司

 

 21世紀の日本建築がどうなっていくのかを予言するのは難しい。ほとんど何も変わらないかもしれないし、日本という国そのものが危うくなっているかも知れない。おそらくこれからは日本という国民国家(Nation State)の枠組みで考えるのはやめた方がいいだろう。国際化はどんどん進み、国境を超えた建築交流はさらに進むであろう。地球環境問題はますます世界をひとつに統合するであろう。しかし、日本の近代化の過程で、建築表現としての「日本的なるもの」が繰り返し問われてきたきたように、「日本的な表現」は依然としてテーマであり続ける気がしないでもない。ナショナリズムと建築表現の問題はそう簡単ではないが、韓国でも「韓国的表現とは何か」というテーマがしばらくは問われるであろう。しかし、テーマはそう明確ではない。

 グローバルに見ても、ポストモダン建築が勢いを失って以降、世界の建築界は方向を失っているのではないか。テクノロジーの発達が世界をひとつに結びつける一方、冷戦構造の崩壊によって各地で民族紛争が勃発している。世界中で最新技術による建築デザインがファッショナブルに追い求められる一方、民族的な表現が各地でもとめられることになるかもしれない。

 全てよくわからないけれど、日本建築はこうあるべきだと思うことはある。また、近い将来はこうだろうと思うことはある。以下に無責任に記してみよう。

 

 フローからストックへ

 まず言えることは、日本建築をとりまく環境が大きく変わることである。戦後復興→高度成長→オイルショック→バブル経済→経済危機という日本経済のサイクルが再び上昇する保証はない。「右肩上がり」の成長主義の時代は終わったのであり、建設活動は確実に減るだろう。フローからストックへ、というのが趨勢である。

 農業国家から土建(土木建築)国家へ、戦後日本の産業社会は転換を遂げてきた。建設投資は国民総生産の2割を超えるまでに至ったが、建設ストックが安定しているヨーロッパの場合、建設投資は一割ぐらいだから、極端に言うと、建設活動は半減してもおかしくない。日本の産業構造の大転換は必至であり、その構造改革(Restructuring)の中心が建設業界なのである。建設業界は既に生き残りをかけたサヴァイヴァル(survival)戦争の渦中にある。

 第一にこれからは長持ちする建築が求められる。スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊し)というのがこれまでの日本であった。木造建築を主にしてきた日本では、一定の期間で建て替えるのが自然だと考えられてきた。伊勢神宮など神社の式年造替(一定の年限で建て替える。伊勢の場合は20年)や鴨長明の『方丈記』が代表するような「仮の住まい」意識が日本の建築観の基底にある。しかし、これからはスクラップ・アンド・ビルドというわけにはいかない。建設にこれまでのように投資できないのである。

 地球環境問題への意識からも建て替えより既存のストックを再生利用する試みが増えていくであろう。耐震診断の技術や設備などメンテナンスの技術がこれまで以上に必要とされるのは必然である。要するにライフ・サイクル・コスト(LCC)が主要なテーマになり、建設の全過程におけるCO2排出量が問題にされるであろう。

 

 自然か人工環境か

 以上のような環境変化は、建築を支えるパラダイムを当然変えるだろう。既に、地球に優しい建築、環境共生建築といった言葉が盛んに使われ始めている。エネルギー消費型の建築から省エネルギー型の建築へ、耐久性のある建築へ、リサイクル可能な建築へ、・・・という流れが支配的になりつつある。確実なのは、自然(緑)を取り入れた建築が増えていくことである。屋上緑化、壁面緑化の掛け声は次第に大きくなっている。

 一方、人工環境化の流れは必ずしも変わらないだろう。室内環境をきちんとしっかりコントロールすることが地球環境への負荷の低減につながるという思想は根強い。「高気密、高断熱」という環境の理想は宇宙ステーションのような閉じた自律的な環境である。失敗に終わったが、地球上でもかって「バイオスフィア」という全くエネルギー自律的な環境実験が行われたことがある。自給自足、エネルギー自給型の建築都市のあり方が一方で高度に追求されるであろう。

 現実的には、屋根付きドーム球場のような人工環境がさらに増えていくことになろう。建築表現としてはハイテックな表現がその主流になる。自然か人工環境か、まずは建築表現の流れは二極化するであろう。

 

 工業化と地域性

 建築表現のあり方を大きく規定するのは建築テクノロジーのあり方である。鉄とガラスとコンクリートという工業生産された素材とラーメン構造(剛構造)を基本とする近代建築は世界中の都市景観をこの一世紀で一変させてしまったのである。建築材料やテクノロジーのあり方が変われば建築表現も変わる可能性がある。

 まずあげるべきは,CAD(Compuer Aided Design)表現主義とでも呼ぶべき流れである。これまでは容易に図面化できなかった形態もCADによっていともたやすく実現できる。また、CADという津具を手にすることによって思いもかけない形態を生み出すことができる。CADによる設計の大きな流れは変わらないであろう。

 しかし、CADはあくまで道具であって、現実の建築生産システムが自由自在に操作可能となるわけではない。モニュメンタルな建築を除けば現在の工業化構法の延長が主流であろう。その場合、スケルトン(躯体)ーインフィル(内装)分離が耐用年限とメンテナンスを考えて主流になる。すなわち、スケルトンの耐用年限を出来るだけ長く考え、内装や設備はより短期間にリサイクルするのである。

 建築の生産システムとしては、一方、地域産材利用など地域における生産システムを再構築する試みも現れるであろう。工業化構法によって日本列島の北から南まで覆うには無理がある。日本建築の伝統である木造建築は本来ローカルな生産システムにおいてつくられてきた。だからこそ、地域毎に固有な民家が見られたのである。近代化の過程はそうした地域的な建築生産システムを解体変容させてきたのであるが、果たしてそれでよかったのかが問われるのである。そうした中でひとつの流れとして地域性を強調する表現も求められていくであろう。

 鍵になるのは景観である。個々の建築表現は町並み景観(タウンスケープ)につながる。しかし、近代建築はその原理、理念において、地域の固有の景観を破壊してきた。世界中どこでも同じものが建てられるというのが近代建築である。それに対して各地で町のアイデンティティが問われ始めてきた。歴史的な町並みの保全や修景の試みが行われるのは地域から固有性が失われつつあるからであろう。各地域の町並み景観の固有なあり方として建築表現のあり方も問われるのである。

 

 変わらぬテーマ

 こうしてみると、建築的テーマは21世紀もそう変わらない、ということになる。インターナショナリズムかナショナリズムか、あるいはグローバリズムかローカリズムか、自然環境か人工環境か、成長拡大主か保全か、フローかストックか、・・・テーマは既に出揃っている。あるいは筆者の頭が古くて固いのかも知れない。しかし、少なくとも以上のようなテーマが、21世紀の日本建築、そして世界中の建築のあり方に大きく関わっていることは確実のように思えるのだけれど、如何だろう。

  

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