真のトラバースを
横尾義貫先生インタビュー
聞き手 布野修司
大崎 純
--: こんど京都大学の建築系教室を中心として``TRAVERSE:
新建築学研究''を発行しようということになりました。かっての『建築学研究』の志を引き継ごうと思っております。横尾先生には今後継続的にいろいろななことをお聞きしようと思っておりますが、まずはどういうことを考えていったらいいのか、`TRAVERSE: 新建築学研究''`に期待すること、あるいは最近お考えになっていることをお聞かせ願えればと思います。
『建築学研究』'の創刊の頃の京都大学建築学教室周辺はどうだんたんでしょう。先生が京大に入学されたのはいつのことになりますか。
横尾: 昭和10年です。
--:『建築学研究』'は昭和2年創刊ですので,先生が京大に入学された昭和10年にはすでに発行されていたわけですが,先生の学生の頃はどんな雰囲気だったんですか。
横尾: 学生時代は『建築学研究』'があるっていうのを知ってるぐらいでしたね。戦争気構えの時代でした。
□ 逗子から京都へ:絵は割とうまかった
--:そもそもどうして西(京大)に来ようと思われたんですか?
横尾: 東大の試験勉強したくなかったからかな(笑)。
--: え、そんな雰囲気があったんですか?
横尾: ほかの人はムキになって試験勉強やっていたけど,俺は勉強するのがいやでね。簡単にいえばそういうことです。ほかに理由といえば,.京都に知り合いがいたわけでもない。なぜでしょうね?高校は静岡。それから生まれは九州佐賀。小学校1年まで佐賀で,小学校2年から神奈川の逗子。そうとうな歳まで家の中では九州弁でしゃべってましたからね。京都ってなんで思ったんだろうなぁ?
--: 逗子から静岡高校というのも珍しくないですか?
横尾: 珍しいかもしれません。逗子開成っていう中学に行っていたんですよ。逗子開成っていうのは不思議な学校で,東京の開成中学と経営者が同じで,昔,第二開成って言っていました。逗子開成はね,東京に居にくくなった子供とか,少し体の弱いお金持ちのお坊っちゃんとか,それから土地の人間と入り混じってて,のんびりした学校でね。それから,校長先生が海軍だったということから,海軍スタイルの教育でね。うちもたまたま親父が海軍だったもんだから,その友達が経営している開成へ行くということになった。
逗子開成の中では秀才だけど,自分のレベルがさっぱり分からない。ところが逗子開成っていうのはおもしろいもので,東大の学生でありながら逗子開成の先生をしていた人がいた。それともうひとつ,海軍は将官になると恩給で喰えるんだが,佐官(大佐以下)だと恩給ではちょっと喰えないんでしょうね。それで教師の免状をもった海軍大佐の先生がいた。おもしろい構成でね。
僕は誰からもかわいがってもらったんだけど,英語も数学も1年分ぐらい遅れててね,よその学校に比べてのんびりやっているもんだから。そんな理由で,神田で土曜と日曜に行われている日土講習会というのに行ったら,はじめは成績が悪かったんだけれども,だんだん成績があがってきて,「俺も結構やれるな」という自信がついた。兄貴の先生に勧められて一高を中学4年で受けたけど,見事落ちた。それで5年のときは静高受けて,滑り止めで早稲田を受けようと思った。しかし,早稲田の試験の日に静高の発表があったから,結局早稲田は受けずに静岡に行った。それが昭和7年。
--建築をやるというのは、どうして決められたのですか?
横尾: 兄貴が逗子開成で剣道のキャプテンやってて,絵がうまかった。それで一高受けるっていって,剣道やりながら猛勉強してたらとうとう倒れてしまった。それで療養生活を数年続けるわけだけど,治りかけてきた頃に絵をやるといって,絵に関係する本や美術全集をしこたま買込んでいた。その美術全集ってのをふと見ると建築に関するものがあって,それを見てのがひとつの影響だったと思うね。
--:不躾に聞きますけど、絵はどのくらいの腕だったんですか?
横尾: 絵はわりにうまかった(笑)。大学のときは美術部(絵画部)だったが,その頃の絵は1つしか残っていない。大学卒業後海軍へ就職して佐世保まで絵の道具を持っていったけど,佐世保は軍港で要塞地帯なのでスケッチできないということもあって,あまり描かなくなった。
--: 油絵ですか?
横尾: そうです。それで絵が空回っちゃって,後の掃除が面倒くさくて性小に合わないということもあって,やめちゃった。あと絵は学生のときに描いた絵がいくつかあったけど,全部どっかいっちゃった。京大へ戻った頃は絵を描く雰囲気の時代じゃなかった。戦争がすんだときに,ワン-デイ・エクササイズっていうのがあってね,それは建築の課題を出して,棚橋さんも西山さんも僕もみんな,派出所とか交番とかいう題で描きました。それからたまにはスケッチ旅行っていうのもやっていましたね。
--: それは教室全体で,ですか?
横尾: いや,それはスケッチが好きな人たちで。工芸繊維のイシヤガヤスオ君もいたね。オオギダ君なんかもいたんじゃないかな。そんな時代がちょっと戦争の後あって。それから僕は全然絵を描いていないんだよ。唯一の絵っていうとここに自画像画が残っている(退官記念文集「建築構造随想」にある自画像。)
□学生時代:課題をこなすのが楽しくてしょうがないという時期があった
--:どんな学生時代だったんですか。
どういう学生生活かっていうと,古建築を見るための吉野旅行や日光旅行に藤原義一先生と棚橋先生と行きましたが,これは非常に楽しかったですね。日光は天沼先生も一緒で,東照宮とかを見学しました。
--: 今年(1999年)からそのような見学旅行が復活したんですよ。
横尾: いいね。よかったね。
--: 何日ぐらいの旅行だったんですか?
横尾: 一週間。これまた実に楽しい思い出でしたね。それをやったのは僕らのクラスでおしまいじゃないかな。経費は自己負担だったでしょう。収入の少ない家庭の人は奨学金をもらっていましたから。
--: 当時はひとクラス15人くらいですから,すぐ親しくなりますね。
横尾: それはもう,学年の上も下も親しくなって。それで,卒業設計っていうと,製図室ひとクラス15人で1フロアだからぜいたくな話ですよ。そこにみんなでお金出し合って蓄音機とレコードを買って,そのころの流行歌とシャンソンを聞いて,覚えたりしましたね。
--: 先生は語学は何語を選択されたのですか?
横尾: 僕はドイツ語。だけどシャンソンはフランス語なので,勉強して,徹夜でシャンソンかけて,マンドリンがおいてあったからそれを弾いたりしてました。そこへ時々現れたのが西山陸軍少尉か中尉でしたね。徹夜で先輩の卒業設計を手伝っているときに来て,「よし!」という具合に強烈な絵を描いたりしていましたね。
--: 西山先生は横尾先生の五つぐらい上ですか?
横尾: だいぶ上ですよ。卒業した年でいえば西山さんは昭和7年卒かな。だから、その卒計で接点があったんだよ。でも西山さんといえば有名だった。それからその当時鈴木義孝さんがいたかな。西山さんは設計を夜な夜なやってきて見てくれたということで非常に懐かしいね。
--: 増田友也先生とは同期なんですよね。増田先生は設計という点ではどうだったんですか。
横尾: ぼくは一年休んだあと,卒業の前の年の夏ごろ溜まっていた専門をやっていたときにちょっと設計が分かった気がしたんだけど,課題をこなすのが楽しくてしょうがないという時期があった。それで,増田も何かで一年休んでいたな。
--: 恋愛(笑)?
横尾: (笑)色多いからね,忙しくてね。彼と同じ下宿にいたんだよ。
--: どの辺りですか?
横尾: 田中の北白川なんとか荘っていうところだよ。それで彼(増田)は「えっ?」という所はあったけど,
--: 抜群というわけではなかったのですか?
横尾: いや,建築的感覚はあったんだろう。絵は上手くなかったけど(笑)。そして色彩も苦手だった。でも増田は建築家になろうと思っていたようだね。焼き物なんかもよく知っていた。あと僕のクラスで設計が好きだった奴は…僕がやってたかもしれない(笑)。だけど設計というのは,貧乏性ではダメなんだよ。やっぱり人のお金を使うのを何とも思わないような人でないと。僕は何か悪いような気がして,だから向かないんだよ。
--: それでは先生の学年で一番設計をやっていた人というと?
横尾: 白石(博三)さんが好きだったね。僕の二年上,実際は一年上だけど。それから西山君は建築家を志望していたんだろう。それから浦部(鎮太郎)さんもそうだろうな。それから少し前になるけど森,彼はフランスに留学していてね,あの人はフランス語ができるから森田先生と仲良くてね,森田(慶一)先生がフランスに留学した時二人で何回も車に乗ったりして,車が好きな人だったから。
□昭和10年の建築教室
--: 先生が入られた時の教室の構成は?
横尾: 構造は坂先生と棚橋先生,デザインは僕が入ってきた時はご健在でしたが,武田先生が退官されて,そして森田慶一,伊東恒治,藤井厚二,横山だったでしょうか。建築史は,天沼先生は亡くなられて,村田治郎教授。助教授はおられなくて,工芸繊維大の教授になられた藤原義一先生が講師,それから中村昌生先生。あと非常勤では,安井胃(武雄)先生とか,滝沢真弓さんとか。
--: 学生時代一番印象深かった先生と講義はなんですか。
横尾: それぞれおもしろかったと思うけどもね。デザインの講義なんかおもしろくないけどね。まあ森田先生の建築論なんて一番ねむくていけなかったな(笑)。建築論があったかなかったか忘れたけど。
--: 理屈っぽい?
横尾: まあ建築論なんて当たり前のことをいうようなことだからね,そもそも。まああとから聞くとおもしろいんでしょうね。ウィトルヴィウスの話なんかもう忘れたよ。
--: ウィトルヴィウスの本を書かれた時代ですよね。
横尾: そう,それは知っていますけどね。だけどラテン語みたいなのがポコポコでてきて,なんか分かったような分からなかったような。あと天沼先生が日本建築史で,村田先生からは西洋建築史を習ったね。
--: 東洋が専門の村田先生が西洋を教えられえたんですか。
横尾: ちょうど外国から帰ってこられた頃で,西洋建築史といっても様式論で,ギリシャの黄金分割というかプロポーションというか,ああいうのをやっていましたね。おもしろいなと思ってね。
--: 村田先生の学位論文はすごいですね。東洋建築系統史論といって,その1,その2,その3と『建築雑誌』で連載されて,それが学位論文になっているんです。満州におられたので北アジアにものすごい強いんですけど,蒙古のパオの原型がどうだとか,ドーム構造がどこでできて,アーチがどこでできてとか,考察されてるんです。.
横尾: おもしろい!
--:おもしろいと思います。アーチとか、ドームだけでなく、高床とか校倉の起源の議論もある。
横尾: それはおもしろいだろうなぁ。その話は聞かなかったけど,ギリシアの曲線の話をされた。関係あるかもしれないけれど,今日ぼくは木割の話をしてきたんだよ。規矩術をやる友人と話したんだけど,村田先生から規矩術やることを勧められたんだよ。なるほど,ギリシアの建築の幾何学といったものがつながっているのではないかと思ったんだよ。
--: 規矩術ももちろん関係しますが、学位論文では、原型がどうか,どのようにして成立するかという点に力点があります。例えばスーパというものがあって,何であれが五重の塔になるんだろうということです。伽藍配置には我々が四天王寺式や法隆寺式と呼んでいる様々なタイプがあるのですが,ではインドではそれが一体どこにあるのか,ということは誰も説明していないんですよ。先生はそれを解き明かそうとされている。そういう講義じゃなかったんですか。
横尾: いや。いきなりそういう話はできないから。建築史なら,斗きょうの話から,名称やどう組んでいるのかを覚えるくらいだんあ。
--: 三手先なんて学生に聞いても全然分からないかもしれない。構造の先生でも分からないかもしれない。この間、日本建築史のツアーにいった時,山岸先生が一生懸命説明してくれました。現場で聞くとよくわかる。でも、六四掛けなんて,それを力学的に解け,と言われるとどうでしょう。割り方だから,生産的な話もあって,それと力学的な話は繋がっている。構造も歴史も共通の議論をしたいですね。
□大きな議論を:建築の世界が見えるように・・・トラバースは「横働き」のこと
--:『建築学研究』の創刊の言葉は武田五一先生が書かれています。記事が少ないときには,東畑先生が翻訳を埋めていたということを聞きました。今度の``新建築学研究''に期待することというか,エールでもいただければと思うんですけど。
横尾: ``建築学研究''の話は,``建築学教室六十年史''にも向井正也さんが書いています。(「京大建築会会報」Vol.44の記事を転載したもの。) とにかく,最近の学会の議論は細かすぎると思うよ。いや細かい議論はいいけどさ,細かい議論は細かい人がやればいいことで。だけど世界が見えない。建築の世界が見えない。見えるようにしなきゃいけない。
--: 個人的に,細かいこともいいけども,京大には、もっとある種の筋のある大きな議論を発表するメディアがあったらいいんじゃないかなと思うんです。
横尾: どういうものトラバースの中でずっとやっていくかというと,要するに随筆めいててもいいし論文めいててもいいけれども,本当にトラバースでなきゃいけないというひとつの仕割りにしたがうことだと思うね。
要するにトラバースでないものを出す分野はたくさんある。いくらでもある。それに結構非常にいい感覚を持って書くのもいいですよ。???先生の東洋建築史原本みたいなものとか。それからもうひとつは何かすこし既存の学を網羅してやるんだったら,しっかりした文献を読んで欲しい。中身や表現は簡単でいいけれど,しっかりした文献を脚注として挙げて欲しいと思う。例えば何かテーマを決めて議論をしたり,対談をしたりというようなものがあっていいんじゃないか。これからテーマを作っていってもいいと思う。必ずしも建築の中でトラバースを組めないときには,土木と組んでもいい。
トラバースということを,ぼくは横働きと言っているんだけれども---,
--: トラバースっていう名称は竹山聖先生が言い出したんだけれども,確かにそういう意識があるとおもいます。
横尾: 片側からではなく,少したちいたって,お互いにむこうが思っていることを考える,要するに弁証法的なものが欲しいですね。少し時間はかかるでしょう。それでトラバースとは何だっていうことだけど,横並びっていうのはよくないんだよ。エンサイクロペディアのようなものは多いんだよ。全体を見通している人が何人ぐらいいるか。だからトラバースでやるという問題はコロコロ転がっている。それをチャレンジして素朴でもまじめにやって提示していくと,新しいものがでてくるんじゃないの。だけど造形の分野なんかで何があるか分からないけれど。構造造形論とか(笑)。川口衛さんの話も面白いんだよ。
お互いにうまく対話のできるものを作らないと。デザイナーとの対話ほど難しいものはないぞ。
□プログラムの必要
--: 京大は構造デザインというのは伝統的に弱いんじゃないでしょうか?
横尾: ああ,弱い弱い。僕の責任でもあるんだけどさ。地の利を得ないね。大阪や東京だとどれだけ便利か。土木のようにお上から仕事がくるのとは違うし。学園紛争のころやらなきゃいかんなぁ,と思いながら,他のことやってしまったんだけど。大体理論家ばかりが多い。私の弟子にも。もう少し雑学をやる人がいなくては。一応雑学をやっていた松岡君が名古屋に行ってね。あと膜構造とかスペースフレームというのはやるべきだと思っていたんだけど,なかなかね。膜は結局膜の張り方という技術の面に問題がある。太陽テントとかあるからそれにくっついてやればできたと思うけど。
--: トラバースの編集をやる立場として、どの辺を攻めればいいんでしょう。
横尾: そういう問題は建設業のあたりと上手く組んでいかないとね。これは学校ではできないでしょう。大阪大学の連中は今うまく育てているんだよ。ぼくつき合いが多いから。それからフリーな発想をする奴が多い。上手につき合うとか,そういうことが要るでしょう。
--: 環境工学とか計画とかでですね,デザイン領域で京都大学がこうやるべきだといったようなことはどうでしょう?。例えば京都だからもうちょっと木構造などのスタッフを充実させるべきだとか。
横尾: オリエンテーションしなきゃダメだよ,ボスが。例えば石崎君だって地震やってたし,小堀君ははじめから地震だった。それから若林君は鉄筋コンクリートやってた。それで若林君と,坪井(善勝)先生と,棚橋先生との話し合いで,若林君がこっちに来ることになった。僕は兄貴分として付き合うことになったんだけれど,六車君と分野が重なるわね。棚橋先生は鉄骨やってたから,それで若林君は鉄骨やるということになって,そのイントロダクションは僕がつくった。大阪工大に行って,末長君という坪井さんの弟子と,若林さん向きの長柱試験機を作った。それで今も動いてますよ。それぐらいのお手伝いはした。それからあと,若林さんは鉄骨構造の仕事をやって,僕はある意味でよかったん
じゃないかと思いますよ。SRCはもちろんあの人だしね。若林さんの弟子も結構育っているしね。あの人はリーハイ大学へ行ってたんだね。あそこは1年ごとにテーマを変えるんだね。今年実験やれば次の年は理論。だから若林君は実験が得意だね。石崎さんは東大の航空出ているんだけど,地震やる人がいっぱいいてもしょうがないから,航空だから風はどうかと僕が言ったら,棚橋先生が賛成してくれた。いってみれば,棚橋先生が将軍で僕が参謀という感じかな。
--: そういうオリエンテーションが最近足りなくなっているということですか。
横尾: 完全自由競争の公募式の学校にするんだったら,いいかもしれないけど,必ずしもそうはなっていないようだし,ほとんどそれに近いことをやっている学校もあるしね。それでないとしたらやっぱり学校経営の問題だけどね。
--: 独立法人化ということになると、それなりのプログラムが入りますね..。
横尾: いずれにせよ、プロフェッションとしてのシビルエンジニアリングとかアーキテクトとかストラクチャーエンジニアリングはずっと続くと思うんだよね。何が変わろうが。しっかりとした骨があればいい。
--: どういう人材をどう育てるのかという骨の議論がない、ということですか。
横尾: 社会と学校の対応を考えていかないとうまく行かないんじゃないかと僕は思うんだよ。土木の連中をかき回さないと。中川さんとか土岐さんとか。あの辺は以外とかき回しても土木社会がきっちりしてるからね,地球だ宇宙だ言ったって,なにかこう,つながってるものがある。建築はデザインというものをもうちょっと強烈に主張すべきであると思う。
--: デザインって言っても,もっと大きなコンセプトのことですね。
横尾: デザインっていう行為がどういうものか。建築が一番自由度が高いわけ。飛行機設計したって何設計したって,橋梁なんかは結構自由度あるけど。そういうデザインとは何かというデザイン論というのを議論していくと,自ずから建築家の位置づけなんかが座りよく認識できるわけだ。変なことことばかりやって,変なことほざいてるというのもあるかもしれないけど,何か持っているんだよ。だからプロフェッショナルアーキテクトと,ストラクトエンジニアとシビルエンジニアという,3つのエンジニア。シャバでものをこしらえる,社会にものをこしらえるときどういう位置づけになるか。それと先生との関係をやっぱりきちっとね。それは社会に出てるヤツを呼び返して議論したらおもしろいよ。名古屋大学の卒業生はおもしろいもので,卒業生が講義をやっているんだよね。冠講座とまではいかないけど,いろんな先生呼んで,学生たちに聞かしているんだよ。愛校心の表れだね。佐々木君が今度戻ったね。僕の弟子では豊橋の加藤史郎君かな。
□デザインが弱い?:
--: 京大出身の構造デザイナーがいない。
横尾: 京大出身でなくたっていいんだよね。非常勤とか何かの形でもいいし。京大出身で関西的の構造デザイナーっていったら,竹中の岡本達夫なんておもしろいんじゃない
久徳君はもう過去の人(笑)。岡本君はスケールは大きくないけど結構発想する頭を持ってる。それから,構造デザインっていうのは表に出ないからなぁ。やっぱり(京大の)構造設計者は,川口さんとか木村さんとかみたいには,華々しくないよね。構造設計というのは実際にはどうだろう,関西では知らなくてね,色々なスタジアムとか設計してて,誰が構造をやっているのだろうと僕はいつも気にしているのだけど。大阪あたり結構大きなスタジアム作ってますよね。
--: みんな川口さんがやられているんですよ。
横尾: 屋根のクローズしたものなら川口君だろうけど,例えばキャンティレバータイプとか,サッカースタジアムとか
--: ビッグアーチとか。
横尾: そう,ああいうのだとどうなのか。
--: 岡崎先生も川口さんと組んでやってられます。
横尾: 川口君は福井の出身ですね。川口流もあるけど,もうちょっと大阪的なものがあってよさそうな気がするね。わりに無理のないものね。川口さんの設計でもこわいのがあるわけだよ。竹中が上手く大阪ドームと名古屋ドームを,名古屋の方が好きなんだけどね,あれも実にシンプルで構造の原型ですよ。東京ドームも竹中ですね。それからより変わったものはね,西武。あれは面白い。
--: あれはデザイナーが池原さんで,施工は鹿島ですね。
横尾: あれはすごく面白い。あれは自然換気と,それと真中を吊上げるという発想が面白い。それから鹿島で聞いたのはMウェーブかな,長野の。実はこの間東京の鹿島に行ったので,西武のドームを見ようと思ったんだけども・・・
--: 計画系で,京大の弱い,もうちょっとすすめていけばよい所などをお聞かせいただければと。
横尾: デザインっていうのは分からないな。
--: 大体デザイナーというかアーキテクトが育たない。
横尾: 理屈家が育つ(笑)。 だからどのように育てるかだよ。東大はほっておいても育つんですよ。仕事が回ってくるし。バックがいろんないい所があるし,自然に先生は研究面において手伝いができる。
--: 東大も安藤忠雄さんを呼ばないといけなくなったようですけど。
横尾: 大谷さん,丹下さんの時代と違うか。
--: 構造,計画全体でのネットワークは繋がらないんですか?デザイナーが出てくれば構造設計家が出てくるのでしょうか。
横尾: 要はみんなが建築についてどう考えているのかということだろうね。友達がいるでしょう,同級生が。
--: 今は細分化されてしまって,全体をみる人がいない。
横尾: 要するにトラバース的に,相性の悪い奴を無理にくくっつけて,結婚式をあげさせて(笑),見合い結婚じゃなくて喧嘩結婚みたいなのを。自分の仕事をしなが何か成果をあげさせればどうか。僕は昔から力学論と空間論とをやっていたんだけど,美術全集をみていて解説を読んで,力学論がでてきたのは実はそれが影響あるんだよ。
何かこう秩序感がある,その先生方に評判がいいものには。それは力学ではなくて,重力の力の流れというのが評判がいい。それからふっと思い立って,増田と僕とが議論しているうちに書き出したのが力学論だよ。
1999年6月21日(京都:学芸出版社 アティック)
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