座談会
「余りにも曖昧な建築界」
Ⅰ 建築界に保険のシステムを
Ⅱ 百パーセント安全ではない
飯田 亮 いいだまこと
1933年東京都生まれ/学習院大学卒業/セコム会長、セコム科学技術振興財団理事
梅澤邦臣 うめざわくにおみ
1916年福井県生まれ/北海道大学卒業/(財)原子力安全技術センター会長、(財)吉田科学技術財団理事長、セコム科学技術振興財団理事、元科学技術事務次官
尾島俊雄 おじまとしお
1937年富山県生まれ/早稲田大学卒業/早稲田大学教授、本会会長
横尾義貫 よこおよしつら
1914年佐賀県生まれ/京都大学卒業/京都大学名誉教授、本会名誉会員・元会長 特別研究課題検討会座長
余りにも曖昧な建築界Ⅰ・・・建築界に保険のシステムを
建築学会の責任
尾島 1995年に阪神・淡路大震災があって、あれだけ多くの犠牲者を出した。建築家あるいは建築界の責任は何かということをを非常に強く痛感しました。そんな時に建築学会の会長の選挙があって、やらなければいけないのは安全の問題だと思ったんです。一方、建築士の国際的資格問題があった。加えて京都でCOPー3が開催される。環境問題は私の専門であります。会長になって、公約として安全、地球環境、資格問題をやろうと、担当副会長を決め、抱負として述べさせてもらったんです。
安全と水はただだという神話を覆されたのは飯田さんです。安全とは一体何かと真剣に考え出した頃、「実は建築界が困っているんだ」という話を梅澤理事長に雑談的にしたんです。そのあと梅澤先生から、あのテーマは重要だから飯田会長に話をしておくよということでした。今度セコムの財団の研究助成を受けて、会長直轄の特別委員会を設置し、横尾先生にお願いした次第なんです。
助成を頂くにあたって、梅澤先生から一言注文が付きました。会長は口を出すな、あくまでも長老の先生中心にやるようにということです。現業ではできないことをきちんとやったらどうだ。それなら横尾先生に一切お任せするしかない。
この特別委員会は安全がテーマです。なぜ建築基準法で安全が守れないのかまず問題です。学会の基準と建築基準法という行政のミニマムスタンダード、その違いは何か。建築学会はなぜ責任が持てないのか、責任がないのか。あるいはなぜ基準法が守られていないのか。一般には信じられないような状態に置かれていることを、どうすればいいのか。
行政基準ではない、学会が市民サイドにたって安心を守るための行動を起こす必要があるのではないか。行政ではなくて、学会が本来やらなければいけない仕事があるのではないか。本来の学会の役割をセコムの委員会で目覚めさせられたといったほうがいいかもしれません。
長老の横働き
横尾 尾島先生がまずおっしゃったのは「安全と安心に関する総合的な学会基準の検討」ということで、わりに具体的です。学会は基準はたくさんもっている。ことに構造部門がたくさんもっていて、そこに問題点がある。そこを検討したらどうかと会長がおっしゃった。それを少し敷衍して、セコムのほうに申請した題が「建築物および都市の安全性、環境保全を目指したパラダイムの視座」という、なかなか難しい題なんです。これはたいへんなことだなと、私なりに、何か新しい視点がなければやっても意味がないと思ったんです。
私が常々感じているのは、日本は縦社会であるということです。戦後50年間、官僚主導の縦社会でやってきた。でも、縦社会のひずみがいっぱいできた。縦社会の議論はやめようではないか。横へ話をしよう。ぼくの名前も横尾だから、横をつなごうというのがぼくの基本方針なんです。非常にシンプルです。
一つの企画として、名誉会員に話を聞くというシリーズがあります。私自身もできるだけ参加してお聞きしています。もう一つ、徹底的に議論しようではないかと、わいわい始めました。最初は議論の絡まりが少し悪かったのですが一計を案じまして、いくつか部会をつくりました。
全ての問題は一挙に片づく問題ではないと思います。やっとこさ始まったところで、まとめないといけないんですが、若い人も集まってやろうとしています。
取締り行政と民の意見・・・オープンな議論を
梅澤 飯田先生は、社会の安全をテーマに財団をつくられたわけです。尾島先生ははじめから入られいてて、都市防災というのは最初からテーマでした。例えば、一番最初にやったのは、「危険」という信号は、どういう色で表したらいいかという課題です。その後、尾島先生が早稲田で都市防災の講座をつくられて、都市防災に関する報告書をつくっていただきました。その報告書が、今度の神戸の震災に非常に役立ったわけです。増刷して、警察にもみんな送って、セコム財団の名が非常に売れたというか、非常に役立たしてもらったわけです。
非常に大切なのが法の問題です。建築基準法、都市計画法は、私たちから見ますと国の取り締まり行政という形になっている。いまは官から民へという流れで、民の意見が入らなければいけない。法が出来上がる前なり、途中なり、その過程をオープンにしないと民の意見は入って来ないのではないか。
私なりにわかったことは、安心というのは自分の問題だということ。決して人から押しつけられるものではない。安全は人がつくったものであって、人に押しつけている。押しつけられたものを自分の判断で安心と思う。押しつけ方が悪ければ、いつまでたっても安心とは思わない。私も原子力をやっていて、相当押しつけていたんです。建築確認が民に移るに際して、ぼくら一般民衆が頼れる検査官というか、そんなものがあって、それで自分が安心するという体制でも取らないと、つくったものを見せられてあとから壊れてもどうにもならない。
建築基準法を守る、検査確認する機関がどこかあっていいのではないか。先生方のいままでの議論で、どうお考えになっているのか、報告書がいただければ幸いだと思っています。
不可能な確認制度
横尾 いまおっしゃったことにお答えしなければならないと思います。端的に申します。いま基準法改正が進行しています。しかし、これに十分な答えがあるとは思えない。急激に改革が進められていくなかで、将来に向けてのしっかりした考え方を学会ではもっていなければいけないだろうと思います。私自身は非常にシンプルな見方です。建築基準法はできたときから具合が悪い、とは官僚には言えない。自分たちの先輩がそれをよしとして守ってきて、その範囲で努力してきたからね。はじめに建築基準法ありきであって、建設省のおっしゃることをすべて前提にして、あるいは建築基準法をすべて批判しないものとして進んでいる。そこに誤りがある。こういうことを言うのは学会しかないと思います。
おかしなことですが、建築基準法のいい点、悪い点を一番よくご存じなのはお役所です。調査しておられる。ところが学者は知らない。私は法規の専門家ではありませが、地震の少し前から設計書どおりのものがきちっとできてない、設計者の不備がいわゆる欠陥建築の元になってる。それを何とか正したいと、いろいろな講習会や委員会を関西でやってきました。だけど根本に官、公のサポートがないとうまくいかない。いかにモラルを説いたり、学習を説いても、どこかでぴりっと公の支援がないとうまくいかないと思っていました。アメリカの法律の一つでUBCというのがある。この工事監理にかかわる一つの制度は、公のかかわり、公が指導して民がいかにするべきか、非常におもしろいと思いました。それを盛んに言うのですが、お金がかかりますし、なかなかうまくいかない。その線は今度の立法の案には採り入れられていると思いますが、根本的な問題をついていない。というのは基準法の最大の問題点は「確認」という非常に不明確な制度にあるんです。「確認」というのは実態として不可能だと思います。建築図書はこんなにありますから、適法性があることをコンファームするのは不可能なんです。大きい建築物は21日、簡単な建築物は7日間でやらなければいけない。これは不可能だ、不可能を強いている。基準法ができたころは大したことはなかったと思うんです、昭和25年ですからね。そのシチュエーションと全然違います。一種の性善説の法律で、ある意味で規制緩和をはじめからしっぱなしなんです。
学者は評論家
梅澤 原子力発電所の場合の安全性は、フィードバックシステムを入れて、技術で可能なかぎりのものを検討するわけです。ただある範囲内に限り安全です、ということなんです。しかし、予測できないことは起こります。チェルノブイリだってそうだと思います。抜け手があった、人工的な抜け手か、技術の抜け手があるわけです。これは技術には全部つきものだと思います。建築基準法でやっても完全なものはないと思います。「確認」は、せめて満足につくっているかどうかです。極端に言うと手を抜いているのでは?、ということが常にある。ことに建築にはそれが多いのではないかと感じています、隠しているんですからね。
飯田 いまお話を伺っていると、全然安全になりそうもない気がするんです。安全というものは基本的に自己責任なんです。
建築家というのは何なのかデフィニションがわからない。建築家というのはデザイナーなのか。構造設計もある。設備もある。どうも不明確である。学者の先生は評論家だと思っているわけです。はたでものを言っている。それが実現されようとどうしようと、そんなものはいいんだ。われわれは言ったじゃないかということが、あとで立証できればいいんだと言っている感じがするわけです。
防災研究家もそうなんです。ぼくは研究家と言いまして、防災実施家とは言わない。ものを言っているだけなんです。基本的な考え方がないまま議論しても、実際上の安全は成立しないというのがぼくの考え方です。
これでは絶対に安全にならないと思う。建築基準法は最低基準だと思います。これで建っていればいいんですよというだけ。防災問題でも言えるんです。この程度やっていたら国は認可しますよ。日本の社会というのは国が認めてくれたらそれでいいという感じがある。建築基準法は細かいところまで決めなくていい。完全に安全ではないという前提の下に、建築基準法を定めるべきだと思います。これは最低基準である。
レーティング機関の必要
飯沢 建築学会は、レーティングする機関をなぜ損害保険会社と一緒になってつくらないのか。なぜ国の第三者機関としてつくろうとするのか。それが問題なんです。官僚の話がいろいろ出てますが、学会も、それから先生方も官僚なんです。絶対損保会社と組むべきなんです。損保会社は料率と自分のロスレシオとの関係で、ある基準をつくるんです。これは経済原則なんです。そしてレーティング、格付けの会社をつくる。
ここの保険料はいくらかを決める格付け機関をつくって、あなたのところの安全はグレードA、あんたのところはグレードC。おれは建築費にそれだけのお金しか出してないんだ、だからグレードCでいいんだよ、保険料も高くていいんだよ。いざというときには死んでもいいんだよ、ビルはつぶれてもいいんだよ。それは任せるべきだと思います。自分の財産の保全と自分の人命とかは個人が決めていい問題なんです。それまで官とか国に委ねるという思想自体が少し的外れだと思います。
梅澤 安全は個人のものですからね。
横尾 インターナショナルに見て、ミニマムリクワイアメントとしての建築の法規はある。土木は法規がないんです。
飯田 それはつくったらいいですね。
横尾 土木は横断道路の強度の規定なんかは国ではもってない。土木学会とかいろいろなところでもっている。それを勘案して今度の東京横断の橋はどういう強度にしようかというのを決めるわけです。だからある意味で民です。土木はそういう習慣なんです。建築はどういうわけか、おそらく世界中でミニマムリクワイアメントは要求することになってます。それ以上のことはおっしゃるようなことでやろうと思います。
火災については、アンダーライターズ・アソシエーションというのがあります。どういうわけか保険屋の基準が日本では官の基準みたいに翻訳されるんです。向こうでは、おっしゃるように火災はほとんど保険屋に任せている。ただ構造強度、それから都市計画の建ぺい率、容積率とかはきちっと守らないといけない。ミニマムリクワイアメントが公共の福祉のためにという広い意味である。しかし、それは絶対という高度な安全性を要求するものではない。それ以上のものは民で決める。
自己責任とミニマムスタンダード
飯田 原子力発電所の問題と一般的な建築の問題を比較したら、安全論議は何も成立しない。原子力発電所と建築とは違いますよ。それから道路とか橋とかも違う。インフラの問題は別の問題だと思います。
梅澤 違うけれども、安心するかしないかは自分だから。飛行機だってそうでしょう。怖いと思うけれども、自分だけは大丈夫と思う。要するにがけの下に住んでいても、ここだけは大丈夫という、自分の責任で安心をもっているわけですね。ただ日本の国民性か何か知らないけれども、何か事故が起こると国の責任だと思う。そこがちょっと違うんです。
尾島 実は今度の基準法改正で仕様規定から性能規定になったんです。これは大問題です。グローバルスタンダードは基本的には性能規定で、それに併せて自己責任をもつ、資格においても。建築家が基本的には責任をもって、責任がもてなければ保険制度でカヴァーする。日本は護送船団で国が面倒をみる。国のミニマムスタンダードがすべてなんです。
横尾 日本に性能規定がどこまでなじむか。イギリスで始まったことで、サッチャーが1984年に導入したわけです。構造は性能規定はなかなか難しい。イギリスでもたしか性能規定になってない。仕様書的規定です。
たとえば音とか熱とか光、防火、耐火はどのくらいか、こういうのは性能規定になるわけです。数値計算だって、これはだいたいできるわけです。こういう分野と分けなければいけない。神戸の被害を見て、性能規定で物事が片づくと思っていたら、自然の恐ろしさ、経済の実態を知らなすぎる。そういうものではないと思います。
尾島 性能規定ができないから、基本的にはみなし性能です。実際には仕様で、この性能はこういうものですよというみなし性能仕様ですね。範例ができてしまうと、性能規定という名の下に結果としては仕様規定になってしまう。
横尾 それを性能規定と言ったらいけない。
尾島 事実上そういう形にいまの基準法改正はなっているではないかと思う。
横尾 責任となるとシステムができてない。保険の制度もないし、それから資格、権限というのが曖昧模糊としたままでいま進んでいる。このへんをひとつひとつ固めて、西欧並みの透明性とかを徐々に確保していくべきだと思うんです。
保険制度
飯田 保険制度をつくったらいいじゃないですか。すぐつくれますよ。ぼくがつくりましょうか。いままでの社会的な概念にとらわれたなかでやっていこうとするから、いろいろな制約ができてくる。やはり保険制度をつくったほうがいいですよ。
尾島 そうは言うものの、学会は実際行為はできない、評価だけしかできない。
梅澤 今度長老の先生方が議論して下さるから、そうすべきだという結論をぼくらはねらっているわけです。学者は評論家だと飯田先生はおっしゃったけれども、そこから出たものをぼくらが生かすので、言っていただかないと生かしようがない。
横尾 どうなんでしょうね、火災関係は保険ではほとんどヨーロッパ並みですね。日本では法律であまり規制しすぎる。性能規定にして、あと保険でバックアップする。
梅澤 保険は民間がやりまして、それに乗ってくる人が入れるようにする。日本の保険はだいたい生命保険から始まったんですね。アメリカは最初は傷害保険から始まっている。出所が違う。
飯田 英国は海上保険です。詐欺師が始めたんです。いま時代がすごく動いているから、保険も簡単にできるんですよ。
尾島 通産省に受け入れてほしいんですよ。
飯田 少し遅れたっていいじゃないですか。
尾島 ですから、横尾委員会に託しているわけなんです。ぜひやりたい。
梅澤 いまの日本の建築の保険なんていうのは、国がつくった基準だけで見に行かないで入っているんですから、グレードも何もないですよ。木造の何とかというと、はい、いくらと決まっている。軽井沢であろうと川口であろうと同じ値段です。
梅澤 地震保険も、阪神淡路大震災のあとでも、そんなに増えていません。地震保険は半額になっただけで、元々ないわけですから。
横尾 保険の問題ということで、逃げることが多いわけです。保険がないからとか、PL法がどうだとかで。
会長の責任
飯田 それは会長の責任だと思いますね。
尾島 ですから横尾委員会に期待したいんです。基準法改正の国会審議中の段階で学会が異議申し立てすると、性能評価の話ですらなくなる。そういうなかで建議書的な形でぜひともこういったことを議論しておいてほしいという要望だけを出したんです。具体的には、性能評価の名の下に、仕様規定のようなものをやめなければいけない。その問題は広く国民に知ってもらう必要がある。それからお金がかかることに対しても理解が必要です。ぜひとも討議してほしいと要望したんです。
横尾 検討すべきだということは提言できる。
梅澤 検討の結果、この次にやる検討はここですよと具体性を出してくださればいいでしょう。
横尾 簡単ではないと思います。でも具体的にどこか民間でスタートできるようなことが一つ何か言えれば動き出す可能性があります。
梅澤 素人から見れば、先生が新しい会社をつくればいいんだものね。保険会社、新しい会社をつくる。ほんとうを言えばそうですね。
飯田 払うのが嫌だという建築家の人たちね。おれのつくるものは安全だからと。だから払わなくてもいいんですよ。その代わりいざというときには、あなたが全責任を背負いますよと。好むと好まざるとによらず、訴訟社会になると思います。それがいいと思うんです。アメリカみたいにエスカレーションしてはだめですが。そうなった場合には入らざるをえないことになりますからね。
尾島 飯田会長がおっしゃっていることは、学会の理事会の中にも、賛同の声があります。この際、責任をとってもかまわないからやろうではないかということね。
設計者の責任
横尾 責任をとるというのはどういうことですか。
尾島 設計者が、自己責任、リスクに対して責任を取る。その代わりお金が欲しい、名誉も欲しい。
横尾 それは設計者ではないでしょう。
尾島 構造系の人でもいいですが、多くの場合、設計者であり、教育者でもある。
横尾 評論家だからね。
梅澤 いままでつくったものの悪口が出てきてしまう。その責任を背負うというんですか。
尾島 いえ、いままでではなくて、これから性能評価の名の下に責任をとるわけです。新しい技術を取り入れたときに、何らかの設計責任があるわけです。設計責任を取る代わりにそれ相応のお金がかかる。
梅澤 現在、確認審査するお金を取ってないのがまずいんですよ。そういう世間のしきたりにもっていってしまえば、みんな払う。建築会社が悪いのは悪いけれども、設計からみんな一緒にやって下請けに出してやっているわけでしょう。ほんとうは設計は別、検査は別、それでいかないと本物はできてこないですよ。
尾島 そのためには発注者も、設計者もいろいろな意味で責任を取らなければいけない、お金もかかる。
梅澤 発注者がそう思ってくれれば、みんなそうなりますよ。
尾島 そのための啓蒙活動が必要です。
飯田 設計家が自分を守るために入らなければいけないんですよ。そのためにはいいゼネコンを選ばなければいけない。ゼネコンは保険を負担しなければいけない。
尾島 そういう新しい体系にもっていくべきだと思います。
飯田 そういう循環にもってこなければだめですね。
尾島 その主張はかなりあって、そのためには、基準法改正に対しても反対すべきだという強い意見さえあったんです。まず反対しておいて世論を起こすべきだという意見。もう一つ、そうは言うものの、とりあえず性能評価という新しい考え方が出たのだから、それはそれで受け入れておいて、あと時間をかけて施行令の中で議論しようという主張と、両論あったんです。いまの学会の理事会では後者しか選択できなかった。
民と官・・・設計施工一貫と分離
梅澤 気をつけなければいけないのは、行政改革をやっているときに検査確認を国は喜んでやりかねない。民がやらなければいけないことをはっきりさせていただく。ついお金が出るなら国からもらえばという感じを持つと、もう間違える。
尾島 受益者負担の原則です。中間検査も民間に開放するけれども、それも基本的には受益者負担です。
飯田 民間に開放するとおっしゃったでしょう。その考え方が違うんです。なぜ開放するんですか。何から解放するんですか、官から解放するんですか。
横尾 民間に開放するというけれども、それはとても難しい。たとえば設計・施工分離というのはヨーロッパは当たり前のことです。日本ではなぜそうでないか。建築学会がアーキテクトとエンジニアの集まりであることも、資格問題がちゃんぽんになっているのにも問題がある。構造安全性なんていうのは、いいエンジニアを雇うことから始まるのですが、いまアーキテクトの判子で全部いいようになっている。このへんの矛盾もあります。
なぜアーキテクトが西洋と違うものが日本でできあがったか。日本に独特な、アーキテクトが構造を知っているべきだということにむしろ重点を置いてきた歴史があるわけです。ある意味で日本の後進性ですね。契約観念の未成立なときに、しかも技術は大工さんの技術だけで非常に勘のいい技術があって、そこにアーキテクト、建築家の概念が移植されてできてきた。
飯田 私のところも建築をつくりますよ。基本的には設計と設計監理です。いわゆる建てるところ、施工とは別にするという考え方に立っています。だけど最近感じているのは、ゼネコンに全部任せても同じようなものだなということです。その原因はどこにあるんですか。
横尾 ゼネコンのレベルが高い。
飯田 相対的に建築家のレベルが低い。実態はそういうふうに流れている。建築家はあまり機能しないという感じがあるわけです。
横尾 形式的には分けろということです。民間の仕事はどうでもいいんですよ。要するに公共のお金を使ったものは設計・施工は分離が原則です。
飯田 民間の仕事も大事にしていただかないと困る。
横尾 それはお施主さんがお考えになればいいことで、いい事務所を選択されればいい。国民の税金を使ってやる事業については、透明性とか公平性がないと具合が悪い。だから官工事については設計施工分離に日本ではいまだに固執しているわけです。日本のゼネコンは設計施工一貫です。ところが最近、外国から見て、具合がいい、うまくいく、そのまねをするということで、デザインビルドという思想が出てきた。設計と施工と一緒にしてコンペをやる、公共事業でですよ。アメリカあたりは古くからコスト・プラス・フィーシステム、コストをちゃんと計算して、それにフィーをかけて取るというのがある。日本ではそういうのがほとんどない。何十億という建物がミニマムスタンダード一本でどかんと建つんです。
飯田 ぼくも経験があるのですが、大きな建物でセキュリティーの設計をやる。その場合には仕事は取れない、セコムという会社は外れなければいけない。設計だけしかできないんです、セキュリティーのシステムを設計して、機器を納入できない。大事なノウハウのある施工が出来ない。
尾島 公の建物ですか。
飯田 公の建物です。民間のものはどうということはないですよ。公の建物の場合にはそれが多いです、大きなやつは。ですから本来的にはできる仕組みのはずなんです。なぜできないのかということを解明したほうがいいような気がします。
尾島 でもなぜかというのはおわかりなんでしょう。
飯田 それはゼネコンのほうがより能力をもっているということですよ。総体的な構造について、何についてももっているということです。だけどニワトリが先かタマゴが先かという論議ですから、まず公共工事に関してはそれを決めさせたほうがいいと思います、設計と施工は分離と。
横尾 公共工事はいままでそうです、形のうえではね。
ゼネコンのスレイブ
飯田 でも設計がゼネコンのスレイブになっているからいけないのではないですか。スレイブというとたいへん差し障りがある言葉かもしれないけれども、次にまた仕事が来るかもしれないという期待がある。
横尾 ギブ・アンド・テイクみたいなことがありましてね。今度面倒をみてやるから、今度色をつけてやるということが至る所である。民間であれ、役所さえそれをやるわけです。それがあるものだから、無理してでも今度は受注しておかなければいけない。その都度、その都度、合理的な生産がなされてないわけです。
梅澤 ゼネコンに実力があるというけれども、役所の建物をつくろうとすると、「地建」があるわけですね。みんなそこへ持っていかなければできない。そうするとそこの基準でやってしまうから、いま各社が基準を持っているわけではないでしょうから、そこへみんないってしまうわけです。集中してそこでお金を決めるから、安いのもみんなそこで決まってしまう。
横尾 公共工事のお金の決め方をもう少し合理化しなければいけない。ISO9000にアプライしたことによって、そういう方向へもっていければいいと思いますが、建設業がISO9000を取りましたというけれども、どういう内容で取っているのか、わからない。
梅澤 飯田会長がおっしゃったように、三つに分ければはっきりしてきますよ。確認と設計と建設、この三つに分けるだけで経済的にわかってきますよ。
建築確認業務
梅澤 確認というのは第三者がやらなければいけないわけでしょう。
尾島 いま確認受理業務は基本的には公がやっているんですね。
横尾 これは公です。今度開放するといっても代行です。業務委託です。
飯田 それは官の行為ですか。
尾島 そうです。
横尾 確認というのは官の行為、建築基準法で定められています。
飯田 あれは形式的で、われわれは全然信用してないですよ。信用してないものは確認と言えないのではないですか。
梅澤 途中全然来なくて、できたものを見て確認するだけです。
飯田 外見を見てよろしいという。鉄筋を結わえてあるかどうかわからないのにOKという。
尾島 今度の改正では確認業務、検査業務に関しても民間に開放するという形になります。
梅澤 ぼくの意見では、技術士ではないけれども、環境士とか、ありますね。ああいうものをつくったらいいと思いますよ、独立の確認士というのを。
横尾 日弁連は住宅にかぎって第三セクターをつくれと言っています。その種の話はこれから出てくると思います。
余りにも曖昧な建築界Ⅱ・・・百パーセント安全はない
専門の弁護士がいないから裁判に負ける
飯田 建築というのはひどいですね。まるでだめですね。ちょっと申し上げたいけれども、たとえば私が自分のうちをつくったとしますね。クレームがあるとして調停に持ちかけますね。絶対に負けます。
尾島 何と何との調停ですか。
飯田 損害賠償の裁判でもいいんですよ。
尾島 だれとだれとの裁判でだれが負けるんですか。
飯田 原告側が負けますよ、損害をこうむった施主が負けます。
尾島 建設会社が勝つんですか。
飯田 ええ、どんな問題があろうと。たとえば全部請け負わせているわけですから、構造の問題とは違いますが、空調がよくない、隣を涼しくしたらこちらが暑くなるとかで住むに耐えない。これをやっても負けますね。
尾島 いまのお話はすべてゼネコンが請け負った場合ですね。確認申請は国に、安全はミニマムスタンダードで国が責任をもつ。それが間違って壊れても天災であると片づけて、ゼネコンは責任を負わない。
横尾 おそらくセコムでおやりになっているようなものは、建築基準法とはあまり関係ないことではないかと思います。
飯田 ぼくは法律に関係なくやろうと思っています。
横尾 契約上の問題ではないんですか。契約の不履行とか。
飯田 セコムの話をしているわけではないです。ぼくは法律に頼りませんから。
横尾 法律はできるだけしりぞいたほうがいいと思います、法律は出ないほうがいい。
飯田 いま申しあげているのは、なぜ勝てないのだろうかということです。
横尾 それは契約図書の問題ではないですか。
飯田 違うんです。それに専門の弁護士がいないんです。
横尾 ゼネコンは雇っていますね。
日本の建築家は信用できない
飯田 こちらもそれなりの優秀な弁護士を雇いますが。一つはきっちりと検査する人間がいないでしょう。ですから曖昧なうちに負けるわけです。だから実に曖昧な世界なんです。曖昧な世界の中で建築基準法だとか、何とかという。だから言うことを言っても無駄だと思うし、お金を払う側の施主の権利はほとんどないです。片務契約ですよ。契約書は片務契約ではないですよ、双務契約です。
尾島 設計・施工が分かれていましたら、設計図のとおりなっているかどうかということでもって検査がチェックできますね。そのためにふつうは設計・施工を分けますね。
飯田 分けなければだめです。
尾島 そして設計者に現場監督をお願いしているわけですね。設計者は基本的には施主側に立っているという形で、動いていますよね。
飯田 そうですね。でも設計者は適切な監査をするでしょうか。むしろ設計会社を訴えたほうがいいんですね。
尾島 そういうこともあります。
横尾 法の問題といまの契約の問題と別にしなければいけない。法はミニマムリクワイアメントで、高度な要求は契約条文の中に入っていると思っています。
飯田 こんなに厚い詳細設計の図面が来て、そのとおりやって、全部任せているわけです、こちらは素人ですから。ところが空調がうまく動かない、全部結露しちゃう。下にある材料は全部腐ってしまうという状態でも負けますね。勝てないんです。ですから実のところ全然信用してないですよ。不信感をもっているわけです。設備関係はむちゃくちゃ。だから、アメリカの会社を連れてきてやらせたんです。それなら平気です。それから下水道の設計。アメリカからエンジニアを連れてきてやらせたほうがよほどいい。
建築界の総懺悔
尾島 建築家の責任、設計者の責任、あるいは施工監理の責任等を含めて、ちゃんと誠実な仕事をしてきたか。しかも年代を超えて耐えうるようなものをつくってきたかとか、いろいろな反省があるんですね。一回総懺悔すべきだという話があります。
横尾 懺悔したから直るものでもないと思います。謝りに行ったから許してくれるという問題でもないと思う。
尾島 でも意識は必要です。その意識さえない。
梅澤 学会だって、いまのゼネコンのあり方にものを言ったっていいわけでしょう。言う人がいないだけですよ。
尾島 おっしゃることはもっともだし、認めます。そういったことを脱皮しなければいけない。これまである意味で豊かすぎた。そんなことを考えなくても、自意識をもたなくても仕事がなだれ込んできたんです。そういう社会だったということもお認めいただいて、でもこれからはそうはいかない。しかも国際社会のなかでグローバルスタンダードも受け入れなければいけない。アングロ‐サクソンのスタンダードの中で、責任に対してかなり自己責任体制が出てくるだろう。したがって先ほど飯田会長がおっしゃったように、本来は建築基準法なんていうのは最小限のスタンダードにしていただいて、あとは自己責任でやろう。そして企業も設計・施工責任のなかで解決していくべきだという主張は、相当多いんです。
横尾 それが骨格です。ただそこで官の問題がある。官というよりもレフェリーだと思う。要するに自由競争社会で、こうしなければいけないところを見ていればいいわけです。要は自由競争なんです。ミニマムリクワイアメントというのは、サッカーならサッカー・フィールドの線を引いているようなものだと思うんです。あとはオフサイドとか何だか難しいルールもありますね。レフェリーはああいうところを見ている。それが役人であって、あとは自由にしなさい。もう少し高度の技術を要求するのだったら、民同士というか、あるいは施主同士で決めていけばいい。そういうことだ。そこまで役所が介入しないほうがいい。
梅澤 これからはそうしなければいけないでしょう。
レフェリー集団としてのエイジェンシー
横尾 いままでは官と民が癒着というか、もちつもたれつで、官がなるべく物事を決めて、民から要求があればこういう委員会をつくりましょうというので、またそこで財団法人何々ができる。
梅澤 いままでのゼネコンは役所を逆に使いすぎたと思います。
飯田 だからいまのような状態になってしまうんですね。
横尾 ぼくはゼネコンに友人もいますから、現状は認めます。たとえば官庁が悪いというけれども、ぼくが官僚だったら似たことをやるだろうし、ゼネコンだったら似たことをやるし、批評家であれば同じことをやる。同じ日本社会の一つの聖域構造の中に原因がある。それを克服することを考えていかないと、ほかに道はないと思っています。
要するに縦社会の横働き。われわれはあくまでも縦社会の人間だと肯定しなければいけない。ただ横ばかり行ってもできない。縦というのは命令と実行のシステムです。横のシステムは違う。経済企画庁長官が大臣になってもおかしい。横でなければいけない。こういう問題が起こったときはいつも経済企画庁とか国土庁が、レフェリー集団にならなければいけない。それを間違えている、はじめからエージェンシーですよ。エージェンシーを大臣にしたらいかんと思う。総裁なら総裁でいい。そこのところが狂っていると思います。
今度、金融監督庁ができますが、そういう思想があるのかないのか。その思想さえ徹底して、たとえばレフェリーが足りないときは学会が出ていく。学会というか民間人を登用すべきですよ。そういうことではないかと思っています。要するにそういう新しい社会に対応する心構えをわれわれはすべてもっている。そのなかで保険の一つのトライアルが出てくれば、設備の問題なんかは非常におもしろい。
とにかく保険がキー
飯田 保険というのはキーだと思います。保険会社は真剣にレーティングしますよ、自分にかぶってきますから。
横尾 ことに設備に関しておもしろい。
飯田 設備と構造。
横尾 地震というと、これはようしません。地震はわからない。トップがわからない、上限がわからない、現象が。計算方式はあるけれども、わかったような振りをしているだけの話でね。
飯田 地震というのはどういうところからどういう被害が来るのかというのはわからないと思います。でもある種の答えが、どういう構造が損害率として平均に少ないかというのは出ると思います。何が倒れるかはわかりません。でも平均して少ないというのは出ると思います。いま火災保険のロスレシオは38%です。これは保険会社が稼ぎすぎなんです。粗利益で62%あるわけですから。7月から保険が自由化されるでしょう。いまチャンスなんです、料率自由化で。
梅澤 今度、耐震実験でそれが出てきます。震度7に耐えるのはこの程度というのが出てきます。
尾島 建築分野に大々的に保険制度を導入すべきだという意見ですね。そのほうが安心に結びつく。
飯田 そう思います。
横尾 設備の規定なんかは保険の基準というのを知っているのかと設備をやっている学者に聞くと、知らないと言うんです。
尾島 横尾委員会にそういう部会をつくってください。
横尾 保険会社の論理でいくと、また問題がある。
飯田 保険会社のサラリーマンが出てくるから駄目なんです。だからそこへ英国のロイズでもいいですから、英国の保険会社に日本のスタッフを入れたらいいですよ。
梅澤 人間が安心しようと思ったときには、カネで買う以外にないでしょう。
飯田 その代わり、火災保険料がいままでより20%下がるとか、自動車保険料が10%くらい下がる。みんな下がってくるわけです。その分を建築家に払ったらいいんですよ。これは1回ですから。
尾島 おっしゃるとおりで、設備系の安全施策に対していろいろなものが付きますね、防炎から消火施設から、ああいったものを保険制度でカヴァーしてというのは大事ですね。
横尾 おもしろいのは、アメリカはスプリンクラーだけで、スプリンクラーさえ付いていればいい、防火戸も何もないという話です。
飯田 学会がサブシディアリーをつくったらどうですか、カンパニーを。
尾島 横尾委員会がアドバイスしたらどうですか。
飯田 ぼくが再保険を受けますよ。
横尾 保険業界は何も知りませんが、どこかにおっしゃっているなかに、これはいけるなというのが、ぼくの勘ですが、設備に関してあるなという気がします。
飯田 構造もあります。
横尾 地震保険というのは無理なような気がする。
飯田 あれは平均ですから。傷害だって平均です。すべて平均です。保険のロジックというのは全部平均なんですよ、自動車保険でも。どこの県で多いから、あんたのところは上げますよということはしないわけです。そうなんです。
梅澤 いま変えるのはおもしろいと思いますよ。
百パーセントと絶対
飯田 たとえばぼくがビルをつくるとするでしょう。Cランクをつくりますよ。Aランクはつくりません、建築費が坪20万違ったら。それでいいと思います。それはCを覚悟するということなんです。覚悟しないでCをつくるからおかしくなるわけでしょう。
尾島 そういう考え方、Cであるとか評価できるような体制が社会にいる。評価、検査できる技術者なり、あるいはそういう機関なりが存在してはじめて、それは可能ですね。
飯田 保険会社で機構をつくらせれば、すぐできますよ。
梅澤 百パーセントということはないんです。人間は死ぬから絶対というのは使えるけれども。
横尾 ぼくは絶対安全はないということをいつでも冒頭に言うんです。ところが学園紛争のときに生物の友だちができまして、おれは逆に言うんだ、人間は絶対死ぬんだと。ああ、そうかと。絶対、フィジカルアッパーリミットというのはありうるんです。ところがわからない。知ったとしても文明が絶えてしまってから役立つようなものだったら、人類の生活と反しますね。
飯田 安全のコストを横断アクアラインに10兆かけるというならば、95%くらいは大丈夫。80%だと1兆6000億だ。どちらを選択しますかという問題だと思うんです。社会の選択の問題なんです。
横尾 それは文明の問題だとも思います。文化というか、歴史をどう見るか。先のことは知らんという姿勢もあるわけです。なりふりかまわずやってしまえと。だけど、孫子の代まできちっとしようというのもある。時代の変動で、変わるものだと思います。
倒れたのは正解か
梅澤 神戸では高速道路が倒れたけれども、ぼくらは孫子の代までもつと思っていました。
横尾 信じなかったけれども倒れたんです。それだけのことです。アメリカの基準より厳しくしているのに倒れた。ノースリッジで落ちたのでアメリカの基準を笑ったわけです。日本は倍か3倍くらいの強度をもたせているんだから倒れっこないと言ったら、神戸で倒れた。えらいこっちゃということになった。
梅澤 ただぼくらは高速道路は 100年もつと思っているでしょう。
横尾 100年じゃないんだ。要するに 400年。慶長の地震は1600年ですね。ちょうど 400年前ですよ。地質の先生なんかは1000年にいっぺんくらいのことだという。
梅澤 そうですね。
横尾 とにかく400年にいっぺんが起こった。
飯田 それで倒れていいんですか。
横尾 倒れていいことはないよ、倒れないつもりでやったのだったらいいんじゃない。
飯田 倒れるつもりでおやりになったのなら正解だと思います。
横尾 いえ、それは正解ではない。それ以上のが来れば倒れるのに決まっている。
飯田 だから、それ以上のやつが来たら倒れるんだよと。
横尾 絶対安全というのはこの世にないと言うんだからね。
飯田 それを承知でおやりになったのなら正解ですよ。
災害評価マトリクス
横尾 ぼくはこういう考えをもっているんです。設計者は自分の設計に傷がほしくないから、大丈夫ですと言いたいわけだ。だけど自然災害というのはそれを超えることがある。もし超えたらどうなるんですかという一つの設問がなければいけない。要するに防災というのは非常に静的な状態、構えの状態と戦いの状態、復旧の状態とわけて考える必要がある。
飯田 防災の学者は一番簡単なんですよ。もし起これば不可抗力という。想定できないことが起こった。これが一番簡単なんですよ。
横尾 言い訳のためにはそれでいいけれども、あいすまんという問題があるわけです。
飯田 あいすまんというのはシステムではありませんね。
横尾 社会に対する、それこそ責任です。ぼくの書いたものの中にあるのですが、災害評価マトリックスという考え方と、もう一つはもしも起こったらということに対する知恵がある。ぼくが見て、原子力なんていうのはそれがずいぶん多いです。たいへん圧迫感がある。自分のは大丈夫だと言うのを抑えて、もしも起こったらどのくらいの災害があるか。ぼくが考えたのは、万博の年に天神橋6丁目というところでガス爆発があった。そのときに技術屋は処罰されましたが、あなたがあの技術屋だったら、ちゃんとした措置が取れたか。なかなか取れない。原因をだいたい推定しまして、あとから詳細に聞いたらそのとおりだということなんです。それを事前にわかる能力がある。参謀会議、スタッフミーティングで討論をしてはじめて見つかるものです。それでも見つからないこともある。エマージェンシーというか、戦闘態勢がわかっていなければできない、危機管理は。それが欠けていると思います。
建物の死亡診断書
横尾 工学と医学というのは命の安全に関して少し違うところがある、とこの間吉武先生に教わったんです。
飯田 少しは違うけれども……。
横尾 セキュリティーもほんとうのセキュリティーは命に一番かかわる。
梅澤 お医者さんは悪いけれども博士を取ってもみんな統計ですね。機械でやって、統計を取って、それで病気がどうのこうのという。
飯田 お医者さんと建築家の違うところですが、亡くなった五島昇さんに、体が悪くなったら最低5人の医者にかかれと言われた。
横尾 建築を頼むときには5人に頼まない、1人しか頼まない。
飯田 決めたら1人にしか頼まない。それは覚悟しなければいけないというところが違いますね。お医者さんに対しては、何人かに診てもらうという選択肢があるけれども、建築の場合には最初には選択肢はあるけれども、決めたらその人でいく。
尾島 医者は死亡診断書を書くんです。建築家も建物の死亡診断書を書けるような能力があるのか。
飯田 ぼくのうちは死亡診断書を書いてもらわなければいけない。
尾島 書く能力があるかどうか、このレベルで必ず壊れますとかね。
梅澤 だから先ほどの検査官ができれば、それができる。確認ができればできるはずでしょう。
尾島 その能力がある建築家があまりにも少なすぎる。
飯田 医者は死んだからしようがないから書くんです。建物は死なないですから。だめですとは絶対にいわない。その前は医者も誤診だとは言わないんですよ。
梅澤 ある建物はホスピスに入れればいいじゃないですか。
尾島 社会が書かせる権利を与えていますね。建築家にも書かせる権利を与えて、飯田会長のお宅はもうだめですと言って建築家がサインしたときに、ほんとうにそれを壊すということになれば、相当の力ですね。
横尾 住宅でできるかできないかは別として、公共建物にはありうることですね。
梅澤 そうしたらいいじゃないですか。ぼくはそう思います。事後にこうなるというのはただ言っているだけです。環境が変われば、役に立たない。新しい材料が出てくると違ってくる。
飯田 2015年くらいに現在のコンピューターのスピードが5000倍から1万倍になると言われています。新素材が出てくる。そのへんを見通しての建築の安全に関する視野があるんですか。
飯田 新素材というのは出てくるのではないですか。
梅澤 そう、だからその間に新素材が出ますからね。
飯田 そうすると強度から何からみんな変わってきますから。そこまで建築学会がキャッチアップできるかどうか。
システムのサイクル
飯田 アメリカがおもしろいのは、25年たてば平均的に住宅は全部入れ替わる。25年の期間を設けて、しかるべきところには住宅も火災感知器を付ける。それから経済学的に40年周期説がある。少なくとも30年間はいままでの古いシステムを変えるためにかかる。いま日本は、すべてのシステムが、人間の考え方から何から変わってきていますから、混乱しているでしょう。
戦後、混乱期10年を除いて、システムを変えて20年間成長したわけです。そこのところで制度疲労を起こしているわけです。制度疲労と人間の考え方が変わるんです。一つはデジタル革命です。人間の考え方が変わる。これを直すのに20年かかる。そうするとあと10年くらいかかる。そうするとあと20年間は繁栄するんです。だから、あと10年ですよ。
横尾 40年周期説はありますね。ぼくも聞いていますが、だいたい当たっているような気がします。
飯田 企業がディスクローズするようになってきた、コーポレートガバナンスを考えるようになってきた。いま消費が悪いというのは、技術革新とデジタル革命と一緒に、人間の心が変わったから消費構造が変わっただけなんです。その混乱なんです。日本はいま不景気ではないですよ。不景気でなぜこんなにみんな豊かな生活をしているのか。ここのところ技術革新が激しいですから、もっと早く移り変わると思います、政策さえ正しければ。
尾島 今世紀、もうしばらくしたらまた景気が回復し、リニューアルが達成される。混乱期は間もなく脱しつつある。いま最悪のとき。
飯田 いま最悪だと思います。
尾島 最悪のときには一つのチャンスだ。
梅澤 最悪が一番チャンスですよ。
土地の輸入
飯田 いま非常にチャンスだと思うのは、土地が下がり続けているでしょう。これはまだ下がります。というのはウルグアイ・ラウンドと情報化で、土地が輸入できるようになっていますからね。土地は輸入できないんだというのはうそで、いま土地は輸入できているわけです。いま食べているもの、蕎麦だって何だって、ほとんど外国から輸入しているわけでしょう。これは土地の輸入ですよね。
横尾 でも国産主義者というか自給主義者から言うと、そういう発想はしませんよ。先進諸国で自給率がフランスだって60%とか70%ですね。自給率を上げないといざというときにまずいという。
飯田 だから遅れているんです。英国で田園生活ができるようになったのは、50年間土地が下がり続けたからですから。輸送手段ができたので、いままで自分のところでつくっていたものをつくらなくてすんだ。アメリカから輸入されてくる。だから農地はなくなる、やりようもないから芝生にしておいて、雑草地にしていつも乗る馬を預けておく。
尾島 日本の都市も最近、郊外は安くなりましたね。田舎のほうへ行くとほんとうにいい立派な森林公園ができています。
飯田 土地が輸入できるようになるから、日本の国土は狭隘だという考え方は違うと思います。
横尾 僕は国土狭隘論だけれど、輸入できたらいいですね。輸入というか、そこで経済がうまくいけばね。
飯田 あとはゾーニングですよね。土地が狭隘である、それがバブルの論理なんです。だから土地は上がるんだと。そうではないです。土地は輸入できるんだということね。代議士は輸入できないから困るわけです。官僚は輸入できないから困るんです。
横尾 学者は輸入できる。
飯田 いや、学者も危ないですよ。一応英語がぺらぺらで、学会が流動化していればいいけどね。
モビリティと地方分権
梅澤 情報を耳で聞かせても安心になりません、目で見させなければ。原子力はなるべく呼んで見せれば安心する。目と耳でなければだめなんです。情報だけで安心させようとしているけれども、これは絶対無理です。資料の公開とか何とか言っているでしょう。見せても何も安心にならない。見せなければだめです。
飯田 見せれば安心しますよ。
尾島 阪神に行ってつぶれたうちを見ると、素人でも、ああ、このうちはつぶれるとわかるんですね。実体験するということはすごいですね。日本列島のモビリティーを高めると体験の機会が増えるわけですね。
飯田 モビリティーを高める手法が問題なんです。この前、加藤幹事長と会って話をしたけど、財源が足りなければ東名、名神を民間に売れと言うんです。そうすると道路公団も周りの施設がなくなるから、変な子会社はなくなる。まず第1番目は民営化です。僕は財界の常識とは違って、道路をつくれ、という立場なんです。モビリティーが増しますと、情報化インフラと一緒に顔も見ることができればその方がいい。田舎もバーチャルである程度、都会の生活ができるようになる。そうなったときに日本の田舎は変わるんです。田舎が変わると日本全体の豊かさが上がる。実を言うと首都圏機能の移転なんか全然関係ないと思います。ぼくは田舎に住みたいですね。
横尾 ほんとうに住みたいのは田舎。地方分権と言っているけれども、どういうことになっているのか。
飯田 基本的には反対ですね。
尾島 最終的に21世紀後半の日本のあり方というのは、基本的にはイギリス的イメージですか。
飯田 分権化に関しては、ぼくはアメリカ的なイメージのほうが強いですね。ただ縦構造の中でうまくいい人材が地方に行くかなと思う。
横尾 だから、横働きのシステムを考えろといってるんです。それができてない。簡単に言えば経済企画庁は横のシステム。国土庁もたぶんそうでしょう。それから直轄の科学技術庁に研究者をもったらいけない。全部民間とか大学とか、そういうことでいい。その代わりブレーンは自由に雇えるようなシステムにする。会計検査院と似たような、横のフリーなシステムに。今度の金融監督庁は3局9課かな、こういう考え方がすでに間違っていると思います。金融監督庁はもっとフリーでなければいけない。
都心居住と田園生活
飯田 道路ができたら変わりますよ。『アメリカ人』という本がずいぶん前に出ていますよね(アメリカ人(上・下)、デスモンド・ウイルコックス(編)、日本放送出版協会、1980.7)。あれをお読みになりましたか。その中で傑作なところがあって、鉄道ができる前に平均的なアメリカ人の一生の行動半径は2キロだった。鉄道ができるようになって新聞ができた、と書いてあるんです。そのあとデパートメントストアができるようになった。近隣から買いに来るからそういうものができるようになった、ということが書いてありましたが、人間のモビリティーというのは非常に重要なんだなという感じをもっています。
横尾 ある意味で私は道路はいいと思います。というのは、鉄道、新幹線は経済効果が出るのに非常に時間がかかる、時間がもうれつにかかる。道路は少しずつつくっていくことができるでしょう、時代の変化がありますしね。
尾島 でも見方によっては、道路と車によって建築や都市が痛めつけられましたね。がたがたになりましたでしょう。コミュニティが崩れたということもある。
梅澤 集中しているからですよ。
尾島 でも基本的には人口はもう増えるわけではないですね。流動ももう起こらないでしょうね。
飯田 流動は近所で起きるんです。近所で起きるというのは、道路さえできれば 300キロ圏です。
尾島 いまいろいろな意味で高齢化の問題と何かを含めて、都心にもっと集めたほうがいいのではないか。そうすると通勤も減り、エネルギーも平準化され、都心には都市施設もあり、にぎわいもある。いま都心がむしろゴースト化していますからね。今度の国土計画にしても都心居住のほうにむしろ傾いていますよね。
飯田 あれは間違いだと思います。拡散させるべきだと思います。
尾島 拡散させたほうが安全には寄与するでしょうね。
飯田 安全にはなります。それから情報化によって、東京にいてもいなくても仕事はできるようになる。そうすると田園生活を楽しみながら、そういったことができるようになる。
尾島 そういう国土計画なり都市づくりというのは、安全とか安心に非常に結びつく。
飯田 そうです、拡散しますから。
尾島 そして自分のことは自分で自立して守るような体制。
飯田 心の安心。
尾島 そのシステムづくりを是非やりたいですね。
横尾 やあ、今日は随分刺激になりました。
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