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2026年8月16日日曜日

2026年8月11日火曜日

カンポンハウジングプロジェクト,東南アジアの建築世界4,GLASS LIFE,セントラル硝子,199012

 カンポンハウジングプロジェクト,東南アジアの建築世界4GLASS  LIFE,セントラル硝子,199012



東南アジアの建築世界4

カンポン・ハウジング・プロジェクト                        

 

布野修司

 

●東南アジアの現代建築

 東南アジアの現代建築といっても、僕が東南アジアに通いだした70年代末には、そうみるべきものはなかったといっていい。中心業務地区にオフィスやホテルなど高層ビルがパラパラと建つのであるが、あとは粗末な民家が密集するのが、大都市の一般的光景であった。公共施設といっても、欧米のどこかに建っているものをつたなくまねしたようなそんな建築が目立つ程度であったように思う。

 しかし、この十年で、東南アジアの建築も独自の展開を始めたように見える。雑誌『MIMAR』をみているとつくづくそう思う。『MIMAR』というのは、「発展する建築」をサブタイトルとする、アジアを中心とした第三世界の新建築情報をしっかりした編集方針のもとに扱っている、シンガポール発行の建築雑誌である。編集長は、建築家、ハッサン・ウディン・カーン(                )である。僕の直接知っている建築家だと、ウイリアム・リム(           )が編集顧問に名を連ねている。

 もちろん、一方で目立つのは、欧米の建築家による作品だ。例えば、ジャカルタに    年に建ったダルマラ・サクティー(              )ビルは、P.ルドルフの設計である。なつかしい。しかし、一般的に言えば、地域の独自の表現を模索する作品が多いようにみえる。『MIMAR』の編集方針がそうだということもあるが、必ずしもそれだけではない。

  イスラム圏の建築を対象として、すぐれた建築を顕彰するアガ・ハーン(        )賞というのがある。その    年、    年、    年の授賞作品をみても、そうした広がりをみることができるのである。既存の建築の修復、再利用、保存、コンテクスチャリズム、ヴァナキュラリズム、ハウジングといった動向にも大きな光が当てられ、数多くの賞が与えられているのである。

 この間、東南アジアでそのアガ・ハーン賞の授賞作品は3件ある。また、表彰作品が2件ある。そのうち、いわゆる建築作品といえるのは、2件、タンジュング・ジャラ・ビーチ・ホテル(                         マレーシア)とサイード・ナウム・モスク(                 ジャカルタ)である。いずれも、伝統的な民家の形式を生かした作品である。そして、後の3件は、いずれも、コミュニティーによる居住環境改善のプロジェクトである。ここでは、そのカンポン・インプルーブメント・プログラム(                             )と呼ばれる居住環境改善のプロジェクト、そして、その延長としてのあるカンポン・ハウジング・プロジェクトを紹介しよう。

●カンポン・インプルーブメント・プログラム

 カンポン(       )とは、インドネシア(マレー)語でムラのことである。今日、行政単位の村を意味する言葉として用いられるのはデサ(    )であるが、もう少し一般的に使われるのがカンポンである。村というより、カタカナのムラの感じだ。カンポンと言えば、田舎、農村といったニュアンスがある。カンポンガン(         )とは田舎者のことである。しかし一方、都市の居住地も同じようにカンポンと呼ばれる。都市でも農村でも一般にカンポンと呼ばれる居住地の概念は、インドネシア(マレーシア)に固有のものである。

 ところが、しばしば、カンポンはスラムの同義語として用いられてきた。特に、西欧人は、カンポンをスラムと思ってきた。確かに、そのフィジカルな環境条件を見ると、都市のカンポンはスラムと呼ぶに相応しいようにみえる。生存のためにぎりぎりの条件にあるカンポンも多い。スクオット(不法占拠)することによってできあがったカンポンも少なくないのだ。

 そうしたカンポンで行われてきたのがカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)である。KIP(キップ)とは、フィジカルな居住環境整備の手法として、住宅地のインフラストラクチュアである歩車道、上下水道、ゴミ処理設備等、最小限の基盤整備を行い、住宅の改善については、居住者およびコミュニティーの相互扶助の活動に委ねるというものである。この手法は、大きな成果を挙げ、同じように居住問題に悩む発展途上国を中心に、世界的にも注目されてきたのであった。

     年の第一回アガ・ハーン賞の選定にはひとりの日本の高名な建築家が審査員が加わっていた。KIPは、結果的には全員一致で選ばれるのだけれど、その建築家はひとりだけ反対したのだという。余程、インパクトが強かったのであろう、その建築家は、いくつかの場所でその時のことを繰り返し述べている。

 「スクオッターというのは、不法占拠地域という意味です。難民とか、職がなくて都会に出てきた人が、その土地が誰に属していようとおかまいなく集団で丘やら原っぱを占拠し、そこに勝手に家を建てることによってできた村や町をいいます。そこには初めは電気もなければ水道もない。それを徐々に改良していって、道もでき、汚い水を流す開渠もでき、水も電気も引いてきて、さらに全体のコミュニティーセンターになるような施設も造る。こうしてできた村の例をいくつか挙げて、これにも賞をやってほしいというわけですよ。建築賞という名前がついているんですから、ある程度の文化性がないと困るんじゃないかと私は主張したんです。」

 ここで語られているのが、カンポンであり、KIPである。カンポンやKIPには文化性がないというのである。しかし、その意義は受賞においても、また以下の脈絡においても、確認できる筈だ。

●ハウジング・プロジェクトの概要

 アセアン諸国に限らず、発展途上国の多くは深刻な居住問題に悩んでいるのであるが、各国共通の対応策を一般的に整理すれば、およそ以下のような施策を挙げることができる。

  A.ロー・コスト・ハウスの供給ー               

 B.スラム・クリアランスと再開発ー                             

  C.不良住宅地改善、居住環境整備ー                          

  D.宅地分譲(サイト・アンド・サービス)ー               

  E.再定住、移住ー                       

  F.農村住宅供給ー            

  G.住宅資金融資

 公的機関による直接的な住宅供給(A)は、大規模な計画住宅地の開発を中心として各国ともに大きなウエイトをもって行われてきており、住宅融資とともに、居住政策の大きな柱である。しかし、一つには、他の施策に比べてコストが高く、必ずしもロー・インカム・ハウジングとならないこと、また、公的供給による量をはるかに上まわる量が必要とされていること、さらに、殊に高層住宅や集合住宅が必ずしも居住者の生活になじまないことなどから行き詰まっている。国よって、状況は異なるのであるが、公共住宅は、一つのモデルとして、デモンストレーションの意味をもつにすぎないのが一般的である。

 スラム・クリアランスによる再開発(B)は、大規模な住宅地開発とともに試みられてきたのであるが、スラムの存在自体が発展途上国の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である状態において、居住者たちの抵抗を受け、むしろ圧礫を生み、矛盾を拡大する傾向にある。

  サイト・アンド・サービス・プロジェクト(D)は、最小限の施設整備(上下水道、道路、公共施設)を行った住宅供給するものであり、各国においてユニークな試みがなされている。住宅の建設は、セルフ・ヘルプを基本とし、資金、技術、材料の援助が行われる。最も一般的なのは、水回りとワン・ルーム程度のコア・ハウス(          )を供給し、増改築のその他を居住者の手に委ねる方法である。こうした手法は、住宅そのものの供給がコストがかかりすぎるという点と、人的資源の有効利用という視点から生み出されたといっていいのであるが、それ故、現実性をもって、かなり広範に行われつつある。サイト・アンド・プロジェクトは、リセツルメント・プロジェクト(E)において行われる場合が多い。

 そのリセツルメント・プロジェクトおよびイミグレーション(E)は、スクオッター・スラムの居住者を都市郊外や他地域(インドネシア、フィルピンでは他島)へ移住させる直接的な人口分散計画である。クリアランス型の再開発とリンクして行われる場合もある。リセツルメントは様々に試みられてきたのであるが、雇用対策が不十分であることが多く、就業機会を求めて都心へUターンする現象がみられ、必ずしも人口分散の実効があがっていないのが現状である。

 ルーラル・ハウジング(F)は、農村の生産基盤の整備充実によって向都移動を抑制すべく試みられている。その場合、地域産材を用い、その地域の伝統を考慮した住宅のあり方が模索されるのが一般的である。 以上のように、新規開発、再開発を問わず、直接的な住宅供給を行う政策に対して、オン・サイトで住環境整備を行おうとするのが、不良住宅地改善(C)である。これは、「スラム」の生活構造を大きく変えずに、都市公共サーヴィスと最大限のインフラストラクチャー(上下水道、歩道、ゴミ処理)の整備を行おうとするものであり、タイ(   )、フィリピン(   )などでも同じような手法によって行われつつある。インドネシアのKIPがその代表である。生存のためにぎりぎりを言ってもいい、劣悪な住環境を改善することは、緊急の課題であり、その根本的解決を将来に残すものと言えるのであるが、波及効果が大きく、投資効果は高い。また、ロー・コスト・ハウシングが土地問題などで行き詰まりをみせてくるにつれて、居住政策のウエイトは次第に、オン・サイトの住環境改善に移行しつつあるのである。

●カンポン・ハウジング・プロジェクト

 こうした中で、J.シラス(建築家、スラバヤ工科大学)を中心とする仲間たちは、ひとつの実験に手をつけ始めた。KIPの延長としてハウジングのプロジェクトを展開しようとするのである。それは、いってみれば、立体コアハウス・プロジェクトといえるようなプロジェクトである。都心部のカンポンは、既に建て詰まりつつあり、その再開発が具体的に問題となりつつある。KIPを一歩進め、あくまでオン・サイトでハウジングも行おうというパイロット・プロジェクトである。

 立体コアハウスというのは、トイレ、バス、キッチンを思い切って共同化した、3階建ての集合住宅だ。カンポンの雰囲気をできるだけ生かしながら、再開発しようというのである。各戸のバルコニーの庇に瓦が用いられている。もちろん、既往のカンポンに住んでいた人がそのまま住み続けるのが条件である。各階には共同の礼拝スペースが設けられている。トコ(店舗)やワルン(小店)はまとめられて一棟平屋でつくられている。集会所もそうである。

 住民たちには好評のようであるが、J.シラスたちは慎重である。こうした住居形態が根付いていくかどうか、じっくりモニター(追跡調査)しながら、進めていくのだという。

 

2026年8月10日月曜日

H.T.カールステン H.M. ポント,東南アジアの建築世界3,GLASS LIFE,セントラル硝子,199009

 H.T.カールステン  H.M. ポント,東南アジアの建築世界3GLASS  LIFE,セントラル硝子,199009


●オランダーインドネシアー日本

 

 東南アジアの近代建築といってもピンとこないかもしれない。そもそもそう顕著な動きが見られなかったせいであろうか、西欧の近代建築の歴史からは全く無視されている。しかし、それぞれの国や地域にとって、近代建築の受容が大きなインパクトとなったことは言うまでもないことだ。そして、その受容の過程にも、それぞれに固有の歴史があるのは当然のことである。

 東南アジア各地に近代建築をもたらしたのはそれぞれの宗主国である。それ以前の植民地化の過程で、西欧建築の影響は徐々に東南アジアに及んできた。まず、初期の段階では、ヨーロッパの建築様式がそのまま持ち込まれようとする。材料や職人も本国から運ばれてきた。しかし、気候条件などの違いからヨーロッパそのもののスタイルでは合わないこともでてくる。少しづつ変更が加えられ、土着化の動きがおこる。土地土地の建築が研究され、学ばれる。一方逆に、ヨーロッパのスタイルが土着の建築に取り入れられ始める。西欧化である。西欧建築の受容の過程は、一般化して言えば以上のようであろう。その影響は既に建築文化の深層にまで及んでいる。西欧建築の影響は既に建築の伝統になっているとも言えるであろう。近代建築もその延長として宗主国の建築家を通じてもたらされるのである。

 インドネシアについてみてみよう。インドネシアに近代建築をもたらしたのはオランダである。アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、あるいはデュドックの影響などを様々にみることができる。実に興味深い。これはアムステルダム、これはロッテルダム、明らかにドュドックだろう、と、ジャカルタ、バンドン、スマラン、スラバヤなどの大都市を歩いていると、そんな建物をあちこちで見かけるのである。思わず影響と書いた。しかし、そうした建築が建てられたのは本国と全く同じ時期である。当然のことだ。オランダの近代建築の祖といっていい、H.P.ベルラーヘが設計したアルヘメーネ(生命保険会社)の社屋がスラバヤに竣工したのは    年のことである。また、彼自身、    年にインドネシアを訪れている。オランダの動向はストレートにインドネシアに及んでいたのである。

 オランダの近代建築運動が日本の近代建築運動に多大な影響を与えたことはよく知られている。日本分離派建築会の初期のプロジェクトにははっきりうかがえるのである。オランダ建築についての関心は極めて高かった。それを示すのが堀口捨己の『オランダ現代建築』(岩波書店     年)である。オランダと日本の関係も歴史的に深い。オランダーインドネシアー日本との連関で近代建築の歴史を見直してみるのも興味深いだろう。

 ハーマン・トマス・カールステンとヘンリ・マクレーン・ポントといっても、もちろん知る人は少ないだろう。二人はインドネシアの近代建築の歴史に大きな足跡を残したオランダの建築家である。    年、H.P.ベルラーヘがインドネシアを訪れ、「オランダの近代建築の発展に匹敵するほど重要となるであろう、来るべきインドネシア建築に全てを捧げた二人の建築家」として言及したのがこの二人である。二人は、実は、デルフト工科大学の同級生であった。

 

 

●H.M.ポントとH.T.カールステン

 

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは    年、  才の時のことである。しかし、もともと彼が生まれたのは、ジャカルタである(    年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。    年に卒業した後、アムステルダムの建築事務所で二年実務に携わった後、スマランーチレボン鉄道会社の本社屋を設計するためにジャワへ赴くのである。その本社屋には、ベルラーヘの影響が色濃くにじみ出している。

 この仕事を終えた後、H.M.ポントはスマランに個人事務所を開設する。そして次第に仕事が増えていく。そこで、招いたのがH.T.カールステンである。H.T.カールステンがスマランにやってきたのは    年の暮れのことであった。

 H.T.カールステンはアムステルダムの裕福な家庭に生まれた     年 。父親はアムステルダム大学の哲学の教授である。    年、デルフト工科大に進み、H.M.ポントと出会った。学生時代、カールステンは極めて活動的であり、社会民主運動組織に加わるのであるが、    年には住宅問題委員会の主要なメンバーになったという。後に、インドネシアで都市計画にも精力的に取り組むのであるが、その素地は学生時代に形づくられたのであった。卒業後、カールステンはベルリンで実務につく。H.M.ポントからの手紙が届いたのは、第一次世界大戦前夜のベルリンへであった。

 しかし、二人のパートナーシップは、わずか二年しか続かない。性格が合わなかったらしい。H.T.カールステンは、アクティブであり、H.M.ポントはどちらかというと学究肌である。それに、H.M.ポントの健康がすぐれなかったことも大きい。彼は、    年にオランダに戻り、    年まで戻らない。    年には、H.T.カールステンに事務所の権利を売ってしまう。その後、二人は別々の道を歩むことになったのである。

 

 

●H.M.ポントの仕事ーーーバンドン工科大学(ITB)からポサラン(         )の教会まで

 

     年、帰国中のH.M.ポントは工科系の教育機関の設計を以来される。    年に竣工した、現在のバンドン工科大学(ITB)である。僕が最初にITBを訪問したのは、竣工して  年を経た、    年のことであったが、いささか度肝を抜かれた。とにかく迫力がある。ミナンカバウ族、バタック族の民家をイメージさせる屋根が連なっている。一見、インドネシア版「帝冠様式」か、と思ったのであるが、深みがある。不思議な魅力がある。調べてみるとオランダ人の建築家である。それがH.M.ポントであった。

 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究にウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それをうまく用いようとするのである。

 ITB以降の彼の作品は、そうした試みの積み重ねである。    年から    年まで、彼は東ジャワのトゥラウラン(       )に住んだ。マジャパイト時代について、考古学的、歴史的研究を行うためである。このためポントは、結果的に建築の仕事から遠ざかることになるのであるが、それでも珠玉のような作品を残している。トゥラウランの野外博物館の建物がそうである(    年)。そして、何よりも傑作だと思うのが、東ジャワのクディリの近郊にあるポサランの教会である。H.M.ポントの最後の作品である(         年)。

 昨年(    年)、初めてポサランを訪れてじっくりと見た。小さな作品だけれど、実に見応えがある。インドネシアの友人たちは、H.M.ポントをインドネシアのA.ガウディーという。何故だろうと思っていたのであるが、この作品をみて、なるほどと思う。石積みのベルタワーやフェンスをみるとそんな雰囲気もあるのだ。

 教会は、伝統的形態をとるかのようであるが、極めて意欲的に、大胆なテンション構造が採用されている。H.M.ポントは、インドネシアン・ゴシックと呼んだのだという。伝統の形態と近代的架構方法が緊張関係の中に釣り合っている、そんな感じである。

 H.M.ポントは、第二次世界対戦後、帰国し、公共住宅や空港、大規模な建築など多くの建築を手掛けている。しかし、このポソランの教会に込められたものは、極めて大きかったはずだ。

 

 

●H.T.カールステンの仕事ーーーカンポン・フェアベタリングと都市計画

 

 H.T.カールステンは、ポントに比べるとはるかに多くの作品を手掛けている。    年に、H.M.ポントから事務所を譲り受けると、まず、依頼を受けたのが、ソロ(スラカルタ)のマンクヌガラ宮殿(                    )の増築である(         年)。H.T.カールステンもまたジャワの伝統建築と否応なく出会うのである。

 これも昨年、ユネスコのセミナーの会場としてじっくり見る機会があった。なかなかのものである。    年に建てられたプンドポ・アグン(主殿)の改修より、居住棟の小さなプンドポ(ダイニング・ホール)がこじんまりといい。気に入られたのであろう。    年から    年にかけてもマンクヌガラ宮の仕事をしている。

 スマランの保険会社のオフィス(    年)、ソボカルティー劇場          年 を始めとして、ソロの中央駅(    年)、ジョクジャカルタのソノブドヨ博物館(    年)などが、H.T.カールステンの代表作である。

 H.T.カールステンにとっても、伝統建築と近代技術をどう調和するかは大きなテーマであった。力説したのは、ヨーロッパのスタイルをそのままジャワへ持ち込むことが誤りである、ということである。あくまで、生きているジャワのスタイルを出発点にすべきことである。また、彼は、伝統的な建築技術を新しい材料や建築に適用しようとしている。鉄骨を用いたソロの中央駅がいい例である。

 そして、H.T.カールステンの仕事は、さらに広がりをみせる。住宅問題や都市計画の分野の仕事である。H.M.ポントと違って、社会への関心を失わなかったのがH.T.カールステンである。その都市計画思想について詳述する余裕はないのであるが、前提として予め退けられていたのは、ここでも西欧の理論をそのまま適用すればいいという態度である。スタティックなマスタープランではなく、ダイナミックな計画、有機的な全体性の必要も彼の強調するところである。

 具体的に携わったのは、スマランとマランの都市計画である。いくつか興味深いのは、民族毎に居住地を分けるのではなく、収入階層毎に近隣住区を設定していること、自然の地形をできるだけ大事にすること、都市基盤設備については、可能な限り合理的に配置することなどである。

 こうしたH.T.カールステンの仕事は、一方で、都市計画法の制定につながっていくのであるが、戦前期のインドネシアで注目すべきなのがカンポン・フェアベタリング(                   カンポン改善事業)である。このオランダによるカンポン・フェアベタリングは、今日のカンポン・インプルーブメント・プログラム(                             )の先駆とも見なされる。カンポンの居住環境にも意を注いだのがH.T.カールステンである。

 H.T.カールステンは、    年、日本軍の収容所で死んだ。  才であった。

 

参考文献                                                                                   

                                                                                                                                      

佐藤浩司 「スラバヤのベルラーヘ」 『建築雑誌』    年 月












2026年5月29日金曜日

村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子編:現代インドネシアを知るための60章,布野修司:住居ー地域の生態系にもとづく多様な形態ー(第19章),明石書店,2013年1月30日

 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子編:現代インドネシアを知るための60章,布野修司:住居ー地域の生態系にもとづく多様な形態ー(第19章),明石書店,2013130

第19章            住 居                   【布野修司】

インドネシアには実に多彩な木造建築の伝統がある。赤道を挟んだ熱帯島嶼域であるけれど高度3,000mを越える山々もあり、高所には針葉樹が生育する。木材が豊富なところに木造文化の華が開くのは道理である。日本も木造建築の手法を洗練させ、その伝統を維持してきたという点では世界有数であるが、インドネシアの場合、その形態、平面形式(間取り)、架構の方法(構造形式)など、地域の生態系に基づいてはるかにヴァリエーションが多く、その多様性は世界でも例をみない。

インドネシアを代表する伝統的住居として知られるのが、水牛の角のように棟がゆるやかに反り上がった独特の屋根形状をもつミナンカバウ族(西スマトラ)の住居である。青銅器であるドンソン銅鼓など考古学的出土品に描かれた家屋紋や家型土器にこの屋根形状が見られる。雲南の石寨山で発見された貯貝器の取っ手はミナンカバウ族の住居にそっくりである。ドンソン銅鼓は、ベトナムのみならず、中国南部からニューギニア東部のサンゲアン島でも発見されており、古くから相当広範囲に同じような屋根形状の住居が分布していた可能性があるーその源郷は台湾(あるいは中国南部)という説が有力であるが、東はイースター島から西はマダガスカル島までの広大な海域に居住していたオーストロネシア語族が同じ居住文化を保持していたとされるー。実際、形態は少しずつ異なるが、棟が反り返った屋根形状の住居は、バタク諸族(北スマトラ)、サダン・トラジャ族(南スラウェシ)などの住居にもみられる。馬の鞍あるいは舟の形に似ているというので、鞍形屋根(舟形屋根)と呼ばれる。屋根形状は、まさに様々で、ジャワの住居は、屋根形式によって、ジョグロ(寄棟高塔)、リマサン(寄棟)、タジュク(方形)、カンポン(切妻)などに類型化される。ジョグロは、4本柱の中央を高く突き出す形態で、興味深いことにスンバワ島によく似た形式がある。東インドネシアに行くと半球状の屋根も見られる。

鞍形屋根とともに、インドネシア(さらにオーストロネシア世界)の住居のもう一つの特徴は高床式住居であることである。ボロブドゥールやプランバナン(中部ジャワ)のチャンディ建築のレリーフに描かれた家屋紋様は全て例外なく高床式住居である。ただし実際にはいくつかの例外があり、ジャワ、マドゥラ・バリ・ロンボク西部、マルク諸島のブル島は高床式の伝統を欠いている。ジャワ島でも、西ジャワのスンダ地方は、バドゥイの住居のように高床式である。ジャワ・マドゥラ・バリが地床(土間)式である理由については、南インドのヒンドゥー住居の影響、イスラームによる高床の禁止など諸説ある。

高床式住居の系譜として注目されるのが、倉型住居(高倉)である。倉が鼠返しのついた高床の形式で建てられるのはごく自然であり、地床式のジャワ・マドゥラ・バリ・ロンボクでも米倉は高床式である。日本の神社、貴族住宅(寝殿造り・書院造り)も高倉から発達したとされるが、倉そのものが住居の原型となる。フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯には、高倉の屋根をそのまま降ろして壁で囲う入れ子状になった住居があり、日本の南西諸島の高倉との関連をうかがわせる。また、東インドネシアにも、同じように小さな倉型住居が分布する。今のところ、高床式住居は稲作が行われる以前から存在すると考えられるが、稲の東南アジアへの伝播とともに、この倉型の建築形式が伝播していったことは大いに考えられる。

多様であるにもかかわらず、共通の要素や系譜をもつのが東南アジア木造建築の興味深い点であるが、その根拠となるのが木造架構の原理である。すなわち、木材の組み合わせは無限ではなく、とりわけ構造力学的制約によって、架構方法はいくつかに類型化されるのである。G.ドメニクの構造発達論は、日本の竪穴式住居の架構から様々な形の鞍形住居の架構ヴァリエーションをうまく説明する。湿潤熱帯を中心とするため、木を横に使ういわゆる校倉造り、井籠組(ログ)は少ないが、北スマトラのカロ高原の南に居住するバタク・シマルングン族の住居などなくはない。トロブリアンド島のヤムイモの収納倉が高床式の校倉造りであることはよく知られる。形態として興味深いのは、円形もしくは楕円形の住居で、ニアス島からチモール島にかけて分布する。ニアス島の住居は床下に斜材を用いるのがユニークである。

インドネシアの住居とコスモロジーの関係も興味深い。バリの住居はヒンドゥーの世界観に基づく、一貫する配置原理、寸法体系で知られる。ジャワにもプリンボンと呼ばれる建築書(家相書)が伝えられる。その他数多くの地域について、住居集落をミクロコスモスと見立てる事例が文化人類学者によって数多く報告されている。

住居の平面形式(間取り)は一般に極めて単純である。集合形式として、島嶼部のカリマンタンからニューギニアにかけての地域にロングハウス(長屋)が分布する。インドネシアでは双系制の親族原理が支配的であるとされ、大家族が居住するのではなく三世代が同居する独立した住戸単位を並べる集合住宅の形式である。そうした中でユニークなのが、世界で最大の母系制社会を形成するのが上述のミナンカバウ族の住居で、既婚女性の住戸を単純に連結するシステマティックな形式をとる。また、父系的であるバタクらん諸族は、一室の大空間に複数の家族が居住する形式をとる。バタク・トバやサダン・トラジャが典型的であるが、住居と倉を平行に配置する集落形式はマドゥラ島など他にも見られる。スンバワ島には、広場を円形に囲む形式も見られる。

時代は下るが、都市住居として、南中国で成立したと考えられる店屋(ショップハウス、街屋)の形式が港市都市に成立する。

西欧列強の進出によって、いわゆるコロニアル住居が建てられ始める。オランダ東インド会社の拠点であったジャカルタをはじめスマラン、スラバヤなどジャワの諸都市の都市核に植民地建築の遺産が残されている。西欧の住居形式がそのまま導入される一方、土着の空間形式や架構方法が様々に取り入れられ、新たな住居の伝統を形成することになるのである。

インドネシアの以上のような伝統的な住居形式は、急速に失われつつある。アラン・アラン(茅)やイジュク(砂糖椰子の繊維)で葺いた屋根がトタン(亜鉛塗鉄板)屋根に置き変わっていくのがその象徴である。そして、大都市を埋め尽くすのはいわゆるカンポン(ムラという意味)住居である。劣悪な居住環境に住むカンポンガン(都市住民)は少なくないのである。







2026年4月18日土曜日

布野修司監訳:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著,アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in SouthーEast Asia,学芸出版社,1997年3月

 布野修司監訳:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著,アジア都市建築研究会,The Living House An Anthropology of Architecture in SouthEast Asia,学芸出版社,19973




布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...