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2025年10月28日火曜日

インド洋大津波 スリランカで遭遇記 2004年12月26日

 二〇〇四年一二月一九日 コロンボ

東西の交流刻む土地の名はスレイブランドにシナモンガーデン

二〇〇四年一二月二十日 コロンボージャフナ

インド洋遥かに円い地平線くっきり浮かぶ(スリ)()()()

降り立つと見渡す限りの草の原検問ばかりのまるで戦場

ココヤシの樹々の間に点々と民家が見える焼け落ちた屋根

にぎやかな通りの中にエアポケット迷彩服が抱える銃

在りし日の栄華を偲ぶ城塞が近代兵器に見るも無惨

荒れ果てて草むす古城に兵士の影戦い続ける人の定めか

美しき海岸線を遠ざける鉄条網の棘や悲しき

ジャフナ城地雷注意の立て札に古の思い後ずさりする

整然と区画割られた旧市街無数の弾痕廃屋の壁

二〇〇四年一二月二一日 マンナール

一本のビール取り持つ縁かな軍事施設も平気で入る

君知るや自ずと滲む我が臭い見知らぬ人が酒場へ誘う

まれびとを鋭く捉える悲しい眼一期一会を飲んで語らん

二〇〇四年一二月二二日 アヌラーダプラ

耳慣れぬ鳥の囀り木霊する植民住居の庭の深さよ

傘竿を空に突き刺す大覆鉢仏の教え今も変わらず

樹々の間に岩の連なり息を飲むここに棲みしか穴を穿ちて

時を超え生きながらえるボーディー・ツリー祈りを捧ぐ信者は絶えず

森の中ひっそり眠る精舎址深い思索に思いを馳せる

久々に蚊に襲われて思い出す熱く楽しい調査三昧

二〇〇四年一二月二三日 アヌラーダプラーコロンボ

スリランカ 二〇〇四年一二月一八日―二九日

 

 

マヒンドラティッサと問答山の上見下ろす先に大覆鉢

シーギリア天上の館何故につぶやきながら階段登る

ダンブッラ何故おわす仏たち窮屈すぎはしませんか

シーギリア比丘尼の姿はトップレス誰に見せんとこの崖の上

天上の館が仮にありとせばああそはここかああシーギリア

ナーランダヒンドゥー仏教ナーランダ二つの神々親戚同士

キャンディーの王につかまり二十年数奇の体験歴史に残る

二〇〇四年一二月二四日 コロンボーゴール

由緒あるコロニアルホテルで式挙げる新郎新婦の晴れがましき顔

道問えば笑って答える子どもたちトライリンガルアンビリーバブル

たそがれに紳士淑女が群れ集うゴールフェイスに夕日が沈む

シンプルに自然にデザイン力まずに心豊かなジェフリーバウア

列柱と椰子の林のその向こう見通す海はああインド洋

荒波がゴールロードにふりそそぐ船乗り運ぶ南西モンスーン

二〇〇四年一二月二五日 ゴール

ゴール・フォート二本のマストが海に浮くライトハウスにクロックタワー

着飾った西洋人が群れ集うクリスマス・イブのニュー・オリエンタル

あれはゴムブトゥル・ナッツにビンロウ樹お茶の畑にココナツ林

二〇〇四年一二月二六日 ゴール 大津波

突然に水が溢れる晴天にこれが津波と知る由も無し

高波が襲ったという人の声あるわけないよこの晴天に

城壁に人が連なり海を見る氷のように一言も無し

道端に座り込んでる母子の眼宙を彷徨い震えるのみ

一瞬に召された命数知れずああ大津波神のみが知る

口々に逃げろと叫ぶ声空し迫り来る二波後ろに気づかず

大津波バスを転がし押し流すビルに突っ込みようやく止まる

気がつけばクリケット場に舟浮かぶフェンス破ってバスもろともに

大車横転後転繰り返す押し流されて皆スクラップ

シュルシュルと獲物を狙う蛇のよう運河を登る津波の早さよ

気がつくと昨日撮った橋がない津波に飲まれ跡形も無し

海岸線全てズタズタ引き裂かれ大型バスが山道塞ぐ

救急車サイレン鳴らし向かい来る命を思って皆道を空ける






二〇〇四年一二月二七日 コロンボ 大津波

転がった列車の中から幼児が生還名前名乗るも住所を知らず

 

二〇〇四年一二月二七日 コロンボ空港

怪我人でごった返しの飛行場痛々しげにその時を語る

パスポート荷物もろとも流されて出国できない空港ロビー

傷ついて緊急帰国安堵の顔全員揃ってチケット獲れて

 

 

 

2025年5月24日土曜日

インタビュー連載「日中建設交流史を考える」 第9回:布野修司 先生, インタビュアー 、市川紘司、日中建築住宅産業協議会『日中建協news』

 日中建築住宅産業協議会『日中建協news』掲載

インタビュー連載「日中建設交流史を考える」

9回:布野修司 先生

 

2023919

市川紘司

 

質問リスト(順不同)

·     戦後(1949年)生まれである布野先生は、青年時代、中国という国やその文化・社会に対して、どのような印象を持たれていましたか。とくに、10代の頃に起こった文化大革命については、どのような印象を持たれていましたか。

·     戦後日本の多くの学問分野でそうであったように、布野先生の専門領域である建築計画では、西山夘三氏をはじめ、社会主義をめざす新中国にシンパシーをもつ学者が少なからずいらっしゃったと思います。布野先生が受けた建築教育のなかで、新中国および社会主義・共産主義はどのように扱われていたでしょうか。

·     布野先生は1970年代末から東南アジアのフィールドワークを展開されていますが、中国を初めて訪問したのは何時でしょうか。また、その際の動機や印象をお聞かせください。

·     また、その後、大部『大元都市』に結実することになる中国での都市史研究をどのように展開されるようになったのか、そのあらましを教えてください。

·     1990年代なかば、布野先生は戦後日本の建築ジャーナリズムにおいて「アジアはネガティブ・タブーだった」と指摘されています。改めて、戦後日本の建築界におけるアジアおよび中国がどのように論じられてきたのか(/こなかったのか)、あるいはそうした全体的な状況のなかで、印象的なメディアの取り組みや論文があれば、教えてください。

·     布野研究室では数多くのアジア・中国からの留学生を受け入れてきていますが、そうした留学生に対する考えや印象などをお聞かせください。

·     2010年代後半からは、北京工業大学や西安工程大学で客員・特任教授をされています。中国での教育実践の感触はいかがでしょうか。また、中国の建築教育については、どのような印象を持たれていますか。

·     戦後日本は東南〜東アジア諸国に戦後賠償やODAとして建築・土木工事を実施してきました。アジアをフィールドにする研究者として、そのようなプロジェクトとの付き合いなどがあれば、教えてください。

·     1990年代以降、中国でも現代建築が盛り上がっていきますが、布野先生の視点からは、現在に至るまでの中国の同時代の建築(現代建築)はどのように見えていますか。

 

※以上の質問リストにかぎらず、当日はざっくばらんに、布野先生の中国にかんする「すべて」を聞き出せたら、と思っております。どうぞよろしくお願いします。

2025年5月11日日曜日

地球の行方--東南アジア学フォ-ラム,雑木林の世界32,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199204

 地球の行方--東南アジア学フォ-ラム,雑木林の世界32,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199204


雑木林の世界31

地球の行方

東南アジア学フォーラム

                         布野修司

 

 京都大学に東南アジア研究センターという研究機関がある。設立は一九六六年で昨年二五周年を迎えた。この東南アジア研究センターには印象深い思い出がある。東洋大学で東南アジア研究を始めた頃、東南アジアについて右も左もわからず手がかりを得たくて何度か通ったのである。その頃、一九七九年から八一年にかけてだったと思う、センターでは学生や若い研究者を対象とした夏期セミナーを開講しており、それを受講するのが主目的であった。今振り返ると、渡部忠世、高谷好一、前田成文、矢野暢といったそうそうたる諸先生から東南アジア学の手ほどきを受けたことになる。実に幸運なことであった。

 その東南アジア研究センターで昨年「東南アジア学フォーラム」が開始された。これまでのプログラムは以下のようである。

 ●第一回 一九九一年九月一八日・・国民国家の政治文化 土屋健治 ディスカッサント 山室信一/世界単位概念の設定 高谷好一 ディスカッサント 応地利明

 ●第二回 一九九一年一一月一六日・・アダットと人間関係 前田成文 ディスカッサント 宮本 勝/マレー世界の自然と文化 古川久雄 ディスカッサント 田中二郎

 ●第三回 一九九二年二月一五日・・東南アジア的人口史観 坪内良博 ディスカッサント 足立明/地球資源・環境問題と南北問題 福井捷朗 ディスカッサント 森田学

 最初の二回は、ばたばたしていて出席できず、三回目にようやく参加できたのであるが、全国から百人もの研究者が出席する、なかなかに刺激的な会であった。鶴見良行氏、中村尚史氏の顔も見えた。東南アジア学フォーラムは、単なる研究会ではない。東南アジアに関する知識を深めるというのではなく、現代世界の問題を如何に解くかをめぐって、思い切って発言し、議論する場として設定されている。実に魅力的なのである。

 とりわけポレミカルであったのは、福井捷朗氏(東南アジア研究センター)の報告である。またそれに対する森田学氏(京都文化短期大学)のコメントである。福井氏の報告は、地球環境問題に関する基本的考えの変遷をレビューし、とりわけ南北問題に焦点を当てながら資源問題を展望しようというものであった。

 環境問題に関わる主な出来事と見解の展開をざっと振り返った上で、検討に足るものとして、福井氏が取り上げたのは、ローマクラブの「成長の限界」(一九七二年)と国連のまとめた「持続的発展」(ブルントラント報告 一九八七年)である。ローマクラブの「成長の限界」における世界認識はいささか古いのではないかというコメントがディスカッションの時に出されたのであるが、氏の問題にしたのは理論構成であって、地球がそもそも存続し得るかどうかという大テーマなのであった。

 ローマクラブの結論は、現在の成長率が不変のまま続くならば、「破局」に達するだろうということであった。そして、その提言は、「破局」に至ることなく持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能であるということであった。その安定化の条件は人口に関しては出生率と死亡率が等しく一定であること、資本についても、投資率と減耗率が等しいこと、資源消費、生産および公害の汚染量は一九七〇年の四分の一となること、消費選好は物財からサービスへ向かうことなどである。

 それに対して、十五年後に出された「持続的発展」論はどうか。その結論は、悲観的将来予測に基づくゼロ成長に代わって、環境資源を持続、拡大させる政策によって、従来とは異なった成長が可能であるというものである。発展の限界はある。しかし、それらは環境資源利用の技術および社会組織の限界と、生物界の許容限界とであって、前二者が絶対的でない限り、限界も絶対的ではないというのが「持続的発展」論である。

 二つは一見異なる。一方が悲観的であるのに対して、他方は希望的である。十五年の間に状況は果たして変わったのであろうか。福井氏は、二つの立論を詳細に検討して見せたのであるが、将来展望に関する限り、実は二つの論にそう差はないのである。そして、環境問題において、南北問題こそが決定的であるというのが福井氏の主張である。

 「成長の限界」も「持続的発展」も、世界全体を平均化した指標によって問題にしているのであるが、例えば発展途上国だけを対象としてシミュレーションを行ったらどうか。破局は異なった時期に異なった形で現れる筈だ。既に南の国の一部には破局の前兆が現れているのではないかと福井氏は言う。南の国の破局によって、北の国の破局が先延ばしが可能になっている。南の貧困は、地球資源・環境問題の先取りの結果であると考えるのである。

 下手な要約でホットな提起を伝えていないのであるが、森口学氏のコメントは、森林資源の問題に即して、以上を補足するものであった。

  森口氏は、焼き畑農業などアグロフォレストリーの研究で知られる。これまで二回ほど研究報告を聞いたことがある。農業と林業の共存こそが生態学的に意味があるという指摘が記憶に残っていた。当日のコメントの骨子は、森林保全に関して、「持続的発展」のための三つの方向がこれまで出されてきているというものであった。

 ひとつは今日の林学の基礎をつくった一八世紀ドイツにおける森林経営、ひとつは、イギリスがインド、ビルマといった植民地で展開した森林経営、そしてもうひとつがインドネシアのタウンヤ法と呼ばれる森林経営である。いずれもよく理解するところではないのであるが、ドイツの場合は市場価値の高い樹種を毎年一定生産するところ、農業と林業を有機的に関連づけ、共同体の植林労働をベースにするところに特徴があるという。それに対して、イギリスの場合、多種多様の樹種を熱帯林に近い形で植林するのが特徴だ。インドネシアの場合、多少理解できた。過剰人口を背景として労働集約的な焼き畑移動耕作をベースとするのである。また、森口氏が森林の農民的活用として推奨するのがジャワのプカランガンと呼ばれる屋敷林である。プカランガンとは、野菜、一年生の樹種、バナナ、ヤシ、用材といった形で多様な樹種が植えられる、生活に合わせた利用が可能な農地林である。

 福井氏の結論とは何であったか。

 「熱帯林の破壊は、南の持続的発展にとってマイナスであろう。しかし、南にとってだけの問題ならば、これほど声高には言わない。北をも含んだ地球全体にとってマイナスであるからこそ(温暖化、遺伝資源)、問題とする。しかし、同じく温暖化の原因となる化石燃料の使用に関しては、自らの成長を犠牲にしてまで規制はしない。ゴルフ場造成のために木を伐る国の人が、子供の学資をうるため焼き畑をする農民を非難するのは不道徳的である。」と氏はいう。それでは希望はあるのか。「できるところから始める」は、有効か。あるいは、全く異なった社会、経済、国家のあり方が要求されているのか。結論は、重く聴衆に開かれ、預けられたままであった。

 


2025年3月20日木曜日

東洋大学祭シンポジウム,いま建築に何が可能か,制度・文化・商品ー同時代と建築,討論「制度と空間」,布野修司・毛綱毅曠・石山修武・伊東豊雄・宮内康, 東洋大学,198009;「鯨の会」通信 ⑥みんな、偉くなった!? M.A.P工作集団、1980、東京大学、1988

 ⑥みんな、偉くなった!? M.A.P工作集団


 いま、研究室は、合宿の準備で大忙しだ。今年は、群馬県川場村で布野研究室、芝浦工大藤沢研究室、千葉大学安藤研究室の三大学合同合宿である。千葉大とは三年連続。安藤先生は遠くロンドンの空の下なのだけれど、鬼の居ぬまに何とやらである。総勢40人を超える。

 それに今年は、井出建さんが参加、HOPE計画のための調査を手伝うことになった。7月28日には、川場村村長をはじめ、村の重鎮が大勢参加でレクチャー。建設省や建築センターからも何人か参加するという。7月29日~30日は川場祭り。29、30日は調査である。もうどうなることやら。行く前からしっちゃかめっちゃかである。何かが絶対おきる。乞御期待だけれど恐ろしい。

 産経新聞で6月から毎週一回コラムの連載を始めた。月曜日の朝刊、「周縁から」というタイトルでとりあえず半年ということだけど、どうなりますことやら。「中心から」とかにしたっかたのだけれど、似合わないという、そうかもしれない。結構楽しんで書いてるのだけれど、ネタちょうだい。産経では、一年前から月曜日に建築だけで一頁作っている。しらなかったんだけれど、建築界にとっては画期的なことかもしれない。例によって村田憲司さんという担当者に出会って意気投合したのが始まりだ。三回ぐらい夜明けまで飲んで、OKしたのだ。最初からやりますと言えばいいものを、酒飲みたさに返事を延ばし延ばしして・・・・悪い癖だ。もっと素直になれば、原稿依頼ももっとくるのにと思うけどどうしょうもない。

 ここまで書いていて、扇風機を今年初めて回した。ガタガタとすさまじい音がする。止めてみると羽根が一枚欠けている。誰だ!。壊した奴は!。この前の扇風機もやっぱり羽根が壊れて、去年買ってもらったばかりだ。もう買ってもらうわけにはいかない。もうクソ暑くて頭にきた。壊した奴は、こっそり買って研究室に返しなさい、88年度卒業生諸君、特に北川君責任をとること。今年の夏、扇風機がないと大変なことになるのだ。クーラーは依然としてわが研究室にはないのである。

 さて、連載を続けよう。

 80年についての一つの思い出は、工学祭だ。工学祭には、あんまり参加したことはないのだけれど、研究室としてシンポジウムを行った。

 タイトルは、

「'80 SYMPOSIUM

 いま建築に何が可能か」である。プログラムは以下の通りだ。

 Ⅰ REPORT       10:00~12:00

  1.「建築における実と虚」  M.A.P工作集団

-いま、都市をみることから何かが始まる-

Ⅱ LECTURE 13:00~16:00  1.「建築の無限」   毛綱毅曠

-宇宙と建築-

2. 「和風、技能、亜細亜」 石山修武

-現実と建築-

3. 「装飾、記号、平面」 伊東豊雄

-コミュニケーションと建築-

4.「制度、文化、商品」 宮内 康 -同時代と建築-

Ⅲ DISCUSSION 16:00~17:00 テーマ「制度と空間」 司会 布野修司  毛綱+石山+伊東+宮内+M.A.P+・・・・

 11月16日、日曜日のことだ。東洋大学工学部106講義室(今の114番教室)。 入場料 500円。そして主催がM.A.P工作集団

 M.A.P工作集団とは何か?何故、M.A.Pという名前なのかは忘れた。何でだっけ。当時も聞いてないような気がするんだけど、教えて欲しい。とにかく、布野研究室が全員、主体となって取組んだ筈だ。今、手元に、その時の記録「見聞録」というのがある。大事にファイルしてる。中味は、石山、毛綱、伊東、宮内へのインタビューの全記録が中心だ。関係者で、なつかしく読みたい人はコピーをあげるから連絡ちょうだい。

 しかし、なかなかよくやったと思う。建築家の書いた文章を集め、作品を見て回り、会って話を聞いて、それをまとめて発表したのである。大変なエネルギーがかかっている。それにひきかえ、最近の学生は・・・・なんて言わないけれど、熱気があったなぁと思う。もうあれから10年になるのである。

 と、ここまで書いて、今、川場村だ。7月30日、ほぼ合宿のスケジュールを終えた。これから川場祭りのハイライト、花火大会だ。花火を見ながら後を書くことになる。最高である。民宿は、岩田渡(いわたど)。打ち上げパーティーをしながら花火が目の前にみえる特等席である。

 この合宿について4年生の誰かが書いた方がいいと思う。なかなかのプログラムであった。これまでの合宿で初めて、本格的な調査を行った。また、二日目の晩は、韓国の仮面劇(風物ノリ、マダン劇)をみることができた。最初の日は、シンポジウム「若者がつくる未来農村」を聞くことができた。そして、今日は川場祭りでみこしが町中練り歩いていた。千葉大、芝浦工大は、今朝、次の予定地に出発。今日は、東洋大だけだ。夜、M2の中村君(音響)が来るという。千客万来、大歓迎である。今日は、午前中、調査の続きを行って、午後は恒例のリクレーション。今年は、マスのつかみとりだ。ナント、20匹つかんだ。そのうち8匹は僕だ、エヘン!!すぐに焼いて、清流で冷やした缶ビール(千葉大の加賀さんからの差入れだ)で乾杯。

 これから、花火を見て、川場祭りのクライマックスへ皆で出かける。オートバイやビデオがあたるクジをもらった。誰かが当たる、そんな予感が今している。

 川場はいい村だ。しばらく通うことになりそうである。

 ところで、 M.A.P工作集団が呼んだ、ゲストはどうだ、当時は、まだそう作品のなかった建築家が、今はみんな偉くなった。シンポジウムの後、皆でカラオケやったり、楽しく酒を飲んだのだけれど今、呼ぶとなるとギャラが大変かもしれない。M.A.P.のめのつけどころは大したものだったのである。4年生の諸君またこういうのやったら。どんな大物でも電話ぐらいかけてあげますよ。来るか来ないかは別として。君達の熱意とやる気があれば、何でもできる筈だ。 M.A.P工作集団も、もう全員、三十路(みそじ)を超えた。みんな頑張っているとつくづく思う。

 今、最初の花火が上がった。


















布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...