成都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
J11
四川の古都
成都 Chengdu,四川省Sichuan,中国China
四川省の省都成都は、三国時代の蜀の都として知られ、唐代から蜀錦を産してきたことから錦城、芙蓉の花で知られることから蓉城とも呼ばれる。市内には、劉邦、諸葛孔明、杜甫など、中国史を彩る人物や事績に所以のある寺廟などが維持されている。
その起源は古く、成都の北30kmの広漢市にある新石器時代末から殷初にかけての都城址とみられる三星堆遺跡(1986年)に続いて金沙遺祉(2001年)が発掘され,中原とは異なる古蜀文明の存在が着目されてきている。現在までの考古学の成果によると,その拠点は都江堰付近から南東へ移動し,成都市内の十二橋遺祉は殷代,金沙遺祉古城は殷末から周初に比定され,開明都城が建設されたのは春秋戦国時代だとされる。この開明都城の拠点としていた古蜀を滅ぼして建設されたのが秦成都である。
興味深いのは、秦の恵王(BC.337~311)が蜀を滅ぼした後,張儀(?~BC.310)らに命じて,国都咸陽にならって成都を築城したとされていることである。
現在の成都の都市形態を俯瞰すると整然とした街区割りを確認できるが(図①),実にユニークなのは,正南北軸をもとにしたグリッドと35度ほど東に傾いた軸をもとにしたグリッドが交差していることである。正南北軸が採られるのは三国蜀(屬漢)以降で,それ以前は東に傾いた軸線を基にしていたと考えられている。張蓉(2010)がこの開明都城を『周礼』「考工記」をもとにして復元しているが,具体的な手掛かりは少ない。四川省文史館(1987)の復元によれば,西に小城,東に大城を連結する形態である (図②)。
唐代の成都は養蚕、絹(蜀錦)そして紙を特産品として大いに栄えた。人口は50万人にも達し、揚州と並ぶ商業都市であった。宋代の成都の商業も引き続き発展し、以降、四川さらには西南中国の中心地となる。明代には四川布政使が駐在し、清代に四川省に改称された。清初期の抵抗運動や軍の反乱などで清前半までは荒廃が続いたが、湖北省、湖南省、広東省などから移民を受け入れ、徐々に復興を遂げた。
1928年に中華民国国民政府は成都市を設立するが、1949年に成都が解放されると、四川省が復活する(1952年)。
現在の成都市内には、清末から民国期にかけての古街で「寛窄巷子」と呼ばれる歴史的街区が保存再開発されている(図③)。寛窄とは、広い、狭いという意味であるが、住居の基本型となるのは、中国の伝統的都市住居の「四合院」と狭小間口の店舗併用住宅「店屋」である。
「店屋」と呼ばれる都市住居の形式は、成都の店屋には江南地方から中国南部にかけての地域で成立したと考えられている。そして内陸に位置する四川地域に、廊坊(アーケード、亭仔脚)を伴う住居形式をもつ集落が多数存在している(図④)。このアーケード付の「店屋」の形式は東南アジアに拡がっていったと考えられているが、「寛窄巷子」の「店屋」にはアーケードはない。
成都は歴史的遺産が豊富で、1982年に国家歴史文化名城に指定され、周辺には峨眉山と楽山大仏(1997年)青城山と都江堰(2000年)などの世界遺産もある。一方2000年以降、西部大開発の拠点都市として経済発展を遂げている。

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