デルフト:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
C21 デルフトDelft
アムステルダムを含め、デルフト、ライデン、ハーレムといった北海沿岸の「低地」地方の諸都市は、運河都市kanaal stedenと呼ばれる。「低地」地方の住人は、古来、テルプterpと呼ばれる人工的なマウンドを築造し、堤防=ダイクdijkによって干拓を行い、ポルダーpolderと呼ばれる干拓地をつくって居住してきた。ライデンは、スペインのライデン包囲(1573~74)に耐えた砦ブルフトburchtのある小高い丘を中心に発展してきた町である。ダイクによってポルダーをつくることによって居住地がつくられ、同時に運河が張り巡らされる建設方法は各都市共通である。ダムdam=堰、スライスsluis=水門の設置は、ポルダー建設に不可欠であり、アムステルダム、ロッテルダムという名称はまさにダム建設がその町の起源となっていることを示している。
オランダの都市形成は、以上のように、ポルダー形成と排水のシステムによって理解することができる。まず、河川(運河、排水路)の堤防沿いの帯状の片面ポルダー型集落がその原型である。続いて両面ポルダー型の集落が発展する。そして、ダム、水門、水路(運河)の配置によってヴァリエーションが生まれる[1]。ロドヴィコ・グッチアルディニが絶賛した[2]というデルフトについてその形成過程を見ると以下のようである。
デルフトがウィレムⅡ世から都市自治の特許状を獲得するのは1246年であるが、その名は、フィレー川とスヒー川を繋ぐ水溝=デルフに由来する。中央にアウデ・ケルク(旧教会、1200頃)のある並行するアウデ・デルフト(1100頃)とニーウ・デルフトで囲われる街区が原型である。1070年に建てられたゴドフリー公爵一族の城を中心に発達してきた。二つの運河の北側に、北東に向けて斜めに走る運河オーステインデOosteinde(東橋)が整備され、3本の運河が基本的骨格を形成する。デルフトは交易の中心地として発展していくが、バター、織物、敷物、そしてとりわけビールの醸造で栄えた。ニーウ・デルフトの北側に、現在、新教会(1383~1510)と市庁舎[3]のある矩形の広場が1436年にフィリップ善良公から授与され、行政的にも地理的にも都市の統一がなされた。16世紀初頭には、他の運河都市と同様1万人規模の都市に成長していた。
1536年の大火、そしてその直後に襲った伝染病で市は一旦衰退するが、オランイエ公ウイリアム[4]が1572年に移住してきた頃にはかつての栄光を取り戻している。地図を見る限り1582/88年から1609/17年の間に大きな変化はない。北側に大きな稜堡が設けられたのは1634/35年の地図以降である。1645年に起きた弾薬庫の大爆発で多くの建造物が破壊されたが、17世紀後半に市の中心部は再建され今日に至る。
[1] 石田壽一、『低地オランダ 帯状発展する建築・都市・ランドスケープ』、丸善株式会社、1998年
[2] ミヒール・C・プロンプ、「17世紀デルフトの町を訪ねて」、『フェルメールとその時代』、毎日新聞社、2000年
[3] 16世紀初頭の建設。Hendrick de Keyserの設計になる。
[4] 城壁のないデン・ハーグより防御しやすいデルフトを選んだ。にも関わらず、反プロテスタントによって、オランイエ公ウイリアムは1584年にデルフトの自宅プリンセンホーフで暗殺された。ヘンドリック・デ・ケイゼルによってデザインされたその墓は新教会に置かれている。デルフトがウィレムⅡ世から都市自治の特許状を獲得するのは1246年であるが、その名は、フィレー川とスヒー川を繋ぐ水溝=デルフに由来する。中央にアウデ・ケルク(旧教会、1200頃)のある並行するアウデ・デルフト(1100頃)とニーウ・デルフトで囲われる街区が原型である。1070年に建てられたゴドフリー公爵一族の城を中心に発達してきた。二つの運河の北側に、北東に向けて斜めに走る運河オーステインデOosteinde(東橋)が整備され、3本の運河が基本的骨格を形成する。デルフトは交易の中心地として発展していくが、バター、織物、敷物、そしてとりわけビールの醸造で栄えた。ニーウ・デルフトの北側に、現在、新教会(1383~1510)とHendrick de Keyserの設計になる市庁舎のある矩形の広場が1436年にフィリップ善良公から授与され、行政的にも地理的にも都市の統一がなされた。16世紀初頭には、他の運河都市と同様1万人規模の都市に成長していた。
1536年の大火、そしてその直後に襲った伝染病で市は一旦衰退するが、オランイエ公ウイリアム[1]が1572年に移住してきた頃にはかつての栄光を取り戻している。地図を見る限り1582/88年から1609/17年の間に大きな変化はない。北側に大きな稜堡が設けられたのは1634/35年の地図以降である。1645年に起きた弾薬庫の大爆発で多くの建造物が破壊されたが、17世紀後半に市の中心部は再建され今日に至る。
【参考文献】
·
Edwards, Henry Sutherland. Old
and new Paris: its history, its people, and its places (2 vol
1894)
·
Fierro, Alfred. Historical
Dictionary of Paris (1998) 392pp, an abridged translation of his Histoire
et dictionnaire de Paris (1996), 1580pp
·
Horne, Alistair. Seven
Ages of Paris (2002), emphasis on ruling elites excerpt and text search
·
Jones, Colin. Paris:
Biography of a City (2004), 592pp; comprehensive history by a leading
British scholar excerpt and text search
·
Lawrence, Rachel; Gondrand,
Fabienne (2010). Paris (City Guide) (12th ed.). London:
Insight Guides. ISBN 9789812820792.
·
Sutcliffe, Anthony. Paris:
An Architectural History (1996)
[1] 城壁のないデン・ハーグより防御しやすいデルフトを選んだ。にも関わらず、反プロテスタントによって、オランイエ公ウイリアムは1584年にデルフトの自宅プリンセンホーフで暗殺された。ヘンドリック・デ・ケイゼルによってデザインされたその墓は新教会に置かれている。

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