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2025年11月15日土曜日

天津:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 天津:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

J10 天子の津―中国北方海運拠点

天津Tianjin,直轄市,中華人民共和国People’s Republic of China

 

 

 


 天津は、北京の東南約120km、華北平野を流れる海河が子牙河、大清河、永定河など5つの支流を集めて渤海湾に流れ込む河口に位置する。北に丘陵部があるが、最も高いのは標高約1000mも九山で、全体的に平坦であり、沿岸部は湿地となる。今日では、首都北京から高速道路、新幹線で1時間程の距離にあり,中国の一大首都圏を形成する。 中華人民共和国の成立とともに直轄市となるが、市人口は約1550万人(2015年)、北京と合わせた首都圏人口は15400万人にも及ぶ(2018年)。

 しかし、20世紀末の天津は、未だ第二次世界大戦以前に遡る建物がそこここに残っており、欧米諸国の租界そして日本租界のそれぞれの趣ははっきり維持されていた。また、天津古城内にも胡同の雰囲気が色濃く残っていた(図1)。この間の天津の発展には著しいものがある。

 天津の起源は必ずしもはっきりしないが、その名は天の津(浅瀬、渡し場)である。天津の名が現れるのは明代であり、朱棣(永楽帝)が皇位簒奪(靖難の変)の際に渡河した場所に因むという。星座の名、川の名という説もあるが、いずれにせよ、海河の河口に成立した漁村、港市が起源と考えられる。天津の発祥の地は、北運河と南運河が交差する現在の金鋼橋近辺(三岔河口)とされている。

 天津が歴史の舞台に登場するのは、随の煬帝による大運河の建設以降である。随を建国した文帝(煬堅)の淮水と長江を結ぶ邗溝に続く大運河建設構想を引き継いだ煬帝は、まず、黄河と淮水を結ぶ通済渠を建設、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠を建設する。そして長江から杭州へ至る江南河が作られ大運河が完成するのは610年である。永済渠建設のひとつの目的は高句麗遠征であったが、中国南部からの物資輸送に大きな役割を果たすことになる。

 後に北京と杭州総延長2500Kmを結ぶことになる京杭大運河は、中国の南北をつなぐ大動脈である。中国歴代王朝が大いに活用してきた中国の歴史的インフラストラクチャーであり、現在も中国の大動脈として利用されている。この大運河は、2014年に、シルクロードなどと共に世界文化遺産に登録されている。

 京杭大運河は、こうして天津発展の大きな基盤である。唐代には、長江下流域からの食糧を中原へ輸送する基地となった。また、食糧輸送以外にも軍事拠点としての要衝とされ、金代には直沽寨、元代には海津鎮が設置されている。

 天津が大きく発展する上で決定的であったのは、クビライ・カーンによる大都の建設である。モンゴル・ウルスがユーラシアの東西をつなぎ、さらに大元ウルスが海の交易ネットワークを押さえるその玄関口になったのが天津なのである。

 明代には、軍事基地としての衛が設置され、天津左衛と天津右衛が設置された。清代には天津衛(1652年)、天津州(1725年)、天津府(1731年)が置かれた。天津府は、下部の行政単位である天津県、静海県、青県、南皮県、塩山県、慶雲県、滄州を管轄した。清末には天津は直隷総督の駐在地となる(図2)。

 そして、天津がさらに大きく転換することになるのは清末である。アロー号戦争(第2次アヘン戦争)(1858年)で清朝は英仏連合軍に敗北し、北京条約(1860年)によって天津は開港されることになるのである。そして、19世紀末から20世紀前半にかけて、英、仏、米、独、墺・洪(ハンガリー)、白(ベルギー)、伊、露、日本が相次いで租界を設置することになった。結果として、天津は旧城区、租界、新開区がモザイク状に隣接する極めてユニークな都市となる。

 天津城のすぐ南を占めたのが日本租界であり、さらに南へ向かって海河の西岸に仏、英、独、日本(第二)の租界が形成された。そして、天津城の東、海河東岸に墺・洪、伊、南に向かって露、白の租界形成された(図3)。旧仏租界は金融街であり、アパート、オフィス、銀行が通りに面して建ち並んだ。パリとまではいかなかいけれど、立派なヨーロッパ風の街並みである。中国人民銀行、中国銀行などがかつての植民地建築を使い、横浜正金銀行も仏租界にあった。租界ごとにそれぞれ多彩な街並み景観が形成され、今日にその姿を今日に伝える。中でも、伊租界は現代風にリノヴェーションされて「意太利風情旅游区」となり、多くの観光客を集める人気スポットとなっている(図4)。

 中華民国が成立すると天津市となるが、日中戦争の間は1937年から1945年まで日本軍に占拠された。また、戦後1945年から1947(までアメリカ軍基地が設置され。

 中華人民共和国の設立以降、直轄市として中国の工業及び貿易の拠点として発展し現在に至る。天津は、中国北方最大の対外開放港であり、コンテナターミナルの他工業地帯も建設された渤海新区は、環渤海湾地域の経済的中心地である。経済規模は、上海、北京、広州、深圳に次ぐ中国第5位である。 

                              孫躍新+布野修司


図1:天津旧城 1995 写真:布野修司

図2:天津城図構成

Antique Map Of Tianjin, China, 1899 is a drawing by Studio Grafiikka

図3:天津市街地図 

天津の租界

Madrolle's Guide Books: Northern China, The Valley of the Blue River, Korea. Hachette & Company, 1912. 

天津 1919

図4:意太利風情旅游区 写真:布野修司

 

【参考文献】

孫躍新1993中国都市における近代空間の形成過程及びその特性に関する研究―天津の旧城空間、租界空間、新開空間の形成及び相互関連を中心に―』学位論文(京都大学)

 


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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...