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2025年11月3日月曜日

リマ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 リマ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L16 王たちの都

リマ Lima、リマ郡 Provincia de Lima、ペルー共和国 Piru Republika

リマは、ペルー共和国の首都であり、政治・文化・金融・商業などの中心として人口800万人を抱える都市であり、南米でも有数のメガ・シティある。

市内をリマク川が東から西に流れ,街は旧市街地と新市街地に2分されるが,旧市街地のリマ・サントロ地区は1988年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

リマ市の設立は,フランシスコ・ピサロが、インディオ制圧のために拠点としていたハウハの町をリマ(王たちの都市La Ciudad de los Reyes)と名づけ建設宣言を行った1535118日とされる。フランシスコ・ピサロが2003隻の一団を率いてペルーに到達したのは1531年初頭である。ハウハすなわちリマの地は,インカ帝国以前の諸文明の興亡の中で,必ずしも中核的な地域ではなかったが、水質のいい水と燃料が得られ,リマク川を通じての海上交通の便がよかったこと,また地元のインディオのカシーケたちが敵対的でなかったことが理由としてあげられる。

ピサロは,リマ建設と平行してさらにトルヒージョを建設している(1535)。そして、リマの外港としてカジャオを建設したのは1537年である。どちらもスペイン植民都市の典型であるグリット・パターンの都市であり、都市が建設されてから市壁が建設されている。

リマは、ペルー副王領(15421821)の首都となり大きく発展していくことになる,南アメリカのスペイン帝国全体の首都として,16世紀から18世紀にかけて君臨した。王立教皇庁立サン・マルコス大学が置かれ,全ての銀はリマを通じてパナマ地峡経由でセヴィーリャに送られるなど政治経済宗教の中心であり続けるのである。

リマク川に近接してプラサ・マヨールが設けられ,カテドラルの建設が開始されたのは1544年である。プラサ・マヨールの北に副王邸,西にカビルド,東に主教会が配されているのはインディアス法(「フェリペⅡ世の勅令」1573)に適っている。当初の計画は,単純な正方形グリッドのパターンである。

ポトシ銀山が発見(1545)されて以降,さらに発展は加速されるが、16世紀末の段階では規模はそう大きくはなかった。1599年から1606年にかけてリマに住んだヒエロニムス会士ディエゴ・デ・オカーニャは,リマは村のようだと書いている。大半の住居は平屋もしくは2階建ての日干煉瓦造であった。リマは1615年には人口25000人を数えたとされる。それでも,1619年に描かれた絵をみると,そう巨大な都市のようには見えない(図1)。その人口の過半はインディオ,メスティーソ,黒人であった。

しかし、17世紀の前半には,少なくとも中心街区はスペイン風の景観を整えたと思われる。プラサ・マヨールの中心に,ペルー副王マルキス・デ・モンテスクラロスによって噴水が建設されたのは1606年である。バロック・スタイルのカテドラルの再建が開始されるのは1626年である1626年の図には,78)×11のグリッド街区が描かれている(図2)。半円形に大砲が配置されているのはユニークである。一連の都市図を見ると,街区規模は150×150(ヴァラ)と他と比べると大型である。特徴は畑や果樹園など郊外に余地を含んで市壁が建設されていることである。

しかし,リマは,その後安定的に発展することはできなかった。1655年には大地震にみまわれている。また,インディオとの関係は必ずしも良好とはいえず,1656年頃にはインディオの暴動が起こっている。さらに,1665年から1668年にかけては,鉱山主が植民地政府に反乱を起こしている。

スペイン王室は、海賊対策のために主要な都市に要塞建設資金を供給するが,最初にハバナに要塞が建設されたのは1558年である。続いて、ペルーに赴任した副王たちも,太平洋岸の港を要塞化する。カジャオの要塞化は1624年に行われ、リマ(1682) とトルヒージョ(16851687)にも市壁が設けられた(図3)。サント・ドミンゴ,ハバナ,ヴェラクルス,パナマに続いて,リマは14の市壁をもつスペイン植民都市のひとつである。

リマは1687年と1746年に大地震に見舞われる。カジャオは、1746年の大地震の津波で壊滅的被害を受けた。リマでも多くの建築物が破壊されたが、現在残っている歴史的市街地は、災害を逃れている。その後、大規模な都市計画が行われ,18世紀にはリマはさらに発展していくことになる。リマの市壁は破壊されたのは1872年である。

18世紀末のリマの人口は約5万人に過ぎない。19世紀末の段階でもせいぜい10万人(1875)であった。大きく変貌するのは1930年代以降である。1940年には大地震が起き,以降スラムが拡大し,第2次世界大戦後にはペルー各地から人々が移り住んできたことから市街が急速に拡大し,一大都市へと変貌していく。

人口は33万人(1931),66万人(1940),190万人(1961),342万人(1972),484万人(1981),643万人(1993),728万人(2004),847万人(2007),現在では1000万人にならんとする大都市である。ペルーの全体人口は約3000万人であり、典型的なプライメイト・シティ(単一支配型都市)である。

リマ旧市街のアルマス広場の周りには、統治時代に建てられた壮麗で豪華な建造物が数多く建ち並び、往年の繁栄を現在に残している。1988年にサン・フランシスコ修道院とその聖堂が世界文化遺産に登録された。1991年に登録範囲はかつてのプラサ・マヨール周辺の歴史地区全体に広げられ,そのオリジナル・グリッドを今日に伝えてくれている。 





) グリッド都市 -スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生- 布野修司著 第Ⅴ章5王たちの都 リマ 




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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...