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2025年11月20日木曜日

メキシコシティ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 メキシコシティ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L10 廃墟の上のエルサレム

メキシコシティMexico City, 連邦区 Distrito Federal,メキシコMexico

 


 東西のシエラ・マドレ山脈と南の横断火山帯に囲われた中央高原の南に横断火山帯に接してメキシコ盆地は位置する。最低部でも海抜2240mであり,かつてはその中央にテスココ湖が水を蓄えていた。中央高原の雨量は少なくなく流れ出す河川のない閉鎖水系をなす。かつてのアステカ帝国の首都テノチティトランがあり,その上に築かれたのがシウダード・デ・メヒコである。

ナトワル語で「石のように硬いサボテン」を意味するテノチティトランの中心には,壁で囲われた300m四方ほどの祭祀広場の中に主神殿,ケツアルコアトル神殿,太陽神殿,ツォンパントリ,球技場他45もの公共建築が建ち並んでいた(図①)。1519年にスペイン人が到来した時点で,その人口は,諸説あるが,2030万人に達していたとされる。テノチティトランは,先スペイン期メソアメリカ最大の都市であり,当時の世界最大級の都市であった。

エルナン・コルテスは、15198月,メキシコ盆地に向けての進軍を開始し,1 521813日に至ってついにメヒコ・テノチティトランを陥落させた。そして,都市の再建が開始されるが、都市計画官に任命されたのはアロンソ・ガルシア・ブラボAlonso Garcia Braboである。テノチティトランの基本的骨格は維持され,中心広場にはカテドラルや副王邸が建設された。まず,プラサ・マヨールの東西南北の各端を延長するかたちで,東西,南北4本の街路が設けられ,その街路に面するかたちで建設が行われた(図②)。東西街路については,さらに南北に街路が設けられ,街区が形成されている(1524)。北側には発展の余地が少なく,1526年に教会が建てられた段階で,ほぼそのかたちができている。ヌエヴァ・エスパーニャ最大のスペイン植民都市となるシウダード・デ・メヒコは,プラサ・マヨールの形状と規模(275ヴァラ×290ヴァラ)は,サント・ドミンゴやハバナとはスケールを異にする。

いくつかの都市図(図③)が残されており、その発展過程を知ることが出来るが、中に、メキシコ・カテドラルを設計した建築家のフアン・ゴメス・デ・トラスモンテJuan Gómez de Trasmonte(c.15801645/47)による都市計画図と透視図(1628年)があり(図③C,D),トラスモンテのいささか誇張した理想のイメージが描かれている。フランシスコ会の修道士フアン・デ・トルクエマダJuan de Torquemadaは,1615年に出版した『インド君主国Monarchia Indiana』の中で「テノチティトランは混乱と悪魔の共和国バビロンであったが,今やもうひとつのエルサレムであり,地域と王国の母である」と書いている。また,シウダード・デ・メヒコをアメリカにおける教会を主導する新たなローマに喩えている。シウダード・デ・メヒコをエルサレムあるいはローマに見立てるイメージは,トラモンテのこの透視図のイメージとともにヨーロッパに伝えられた。そして何よりもアメリカのエルサレムあるいはローマというのは,メキシコに住むクレオールたちに圧倒的に受け入れられていく。

シウダード・デ・メヒコは火山帯に位置する標高5000mを超える山々に囲まれ,流れてくる水は流れ出す川をもたず、テスココ湖はそうした水が貯えられた湖であり,テノチティトランは洪水の恐れが常にあった。そこで,テスココ湖の干拓が1620年から開始され,完全に陸地化されていくことになる。1758年の地図(図③E)には周囲を取り囲むテスココ湖がまだ描かれており,1793年の地図(図③F)によると,湖が消えている。テスココ湖が完陸化されたのは18世紀後半のことである。しかし,軟弱地盤であり,地下水を汲み上げることで地盤沈下も進行していく。20世紀初頭には9mも沈下した場所があるという。

18世紀中頃から新たな鉱脈の発見や鉱山技術の改善によって再び銀ブームとなると,都市は発展を始める。テスココ湖の干陸はその象徴である。征服以降激減してきたインディオ人口は,18世紀になると増加に転じ,18世紀末のシウダード・デ・メヒコの人口は13万人(1793)に達した。

メキシコがスペインから独立(1821年)するのはコルテスがテノチティトランを征服して丁度300年後のことである。その後対外戦争が相次ぎ政権は安定しないが、それを治めたディアスのクーデター(1876)による独裁体制を打倒したのがメキシコ革命(1910年)である。

1940年代以降、政権は安定し、メキシコシティはその首都として発展して行くが、1970年代初頭以降の人口爆発によって、都市問題、住宅問題、とりわけ公害問題に悩むことになる。1985年には大地震に見舞われている。

人口の地方分散政策が1980年代以降一貫して採られてきているが、必ずしも実効があがらない。今や人口2000万を超える世界有数のメガ・シティである。

 

参考文献

布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生,京都大学学術出版会

Keith A. Davies(1974)’Tendencias demograficas urbanas durante el siglo XIX en Mexico’, in Edward F. Calnek et al(1974)”Ensayos sobre el desarrollo urbano de Mexico”, Sep Setentas

Early, James(1994)”The Colonial Architecture of Mexico”, Southern Methodist University Press, Dallas

Dym, Jordana (2006) “From sovereign villages to national states  city , state , and federation in Central America , 1759-1839” , University of New Mexico



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