ストラスブール:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
C10 境界都市-ラインラントの攻防
ストラスブールStrasbourg,バラン県Bas-Rhin、グランテスト地域 Grand Est,フランスFrance
ストラスブールは、ゲルマン語起源で、ストラスブルグ、すなわち、道Straßの都市burgという意味である。古来、交通の要衝に位置したことをその名が表すが、現在も鉄道・道路ともに主要な幹線が交差し、ライン川にフランス最大の河川港をもっている。パリから真東約500kmに位置すし、ドイツに接しており、カールスルーエ、シュツットガルト、バーデン・バーデンに近い。ストラスブールは、フランスの東の玄関口としての役割を担う。
しかし、ストラスブールの名はその起源から用いられていたわけではない。イリ川とライン川に挟まれたその地は肥沃であり、旧石器時代から人類が居住してきたが、都市としての起源はローマ時代に遡り、最初の街はアウグストゥスの義理の息子で皇帝クラウディウスの父となる大ドルーススことネロ・ドルースス(紀元前38~9年)によって建設される。その名はアルゲントラトゥムという。「銀の要塞」という意味である。 ライン川はガリアとゲルマニアの境界となっていたが、大ドルーススは、ライン川を初めて越え、ゲルマニア遠征を行い、エルベ川に達した軍人として知られる。 紀元12年までにアウグストゥスは、木柵と土塁による市壁を築き、ブリタニア遠征に出発する紀元43年まで、19.5haに及ぶ市域を維持した。要塞は、69~70年のガリアーゲルマン叛乱によって破壊されるが、マインツの第14軍団が再占領、第8軍団が石灰石による市壁を建設、アルゲントラトゥムは、80年代終わりまでに市域240haまで成長している。そして、357年にコンスタンチヌスⅡ世(位337~334)がアレマン人の叛乱を収めるためにユリアヌス(位361~363)を派遣、市壁を強化し、362年以降、司教座が置かれた。現在のアルバルド通りがデクマヌスに比定されるローマ・クアドラータの内部(グラン・ディル)には、プラエトリウム(官衙)、公衆浴場が建てられ、城壁外にフォルムと円形劇場が建てられていた(図1)。
406年にヴァンダル族がライン川を越えて侵入、455年にはフン族によって破壊されるが、フランク族によって再建されることになる。この時、フランクク族がつけた名前がストラスブールである。
こうして、古代においてはローマとゲルマンの境界に位置したストラスブールは、フランク王国そして神聖ローマ帝国に属することになる。司教座都市として発展する。
13世紀半ば、ストラスブール市民は、司教ヴァルター・フォン・ゲロルズエックの強権的支配(1231~1263年)に反乱、ハウスベルゲンの戦いで勝利して帝国自由都市となる(1262年)。そして、ルター、カルヴァンの宗教改革にいち早く呼応、1523年にはプロテスタントを受け入れ、市内にはプロテスタントの教会がカトリック教会と並んで建てられるようになる。
ストラスブールにおけるカテドラルの建設は、8世紀のカール大帝の時代に遡るが、現在のカテドラルの起源となるのは1176年に司教H.v.ハイゼンブルグが建設開始し、1439年に完成したものである(図2)。主な建設者としてエルヴィン・フォン・スタインベックが知られ、1277年から1318年まで建設に携わった。一般にゴシック建築の代表作とされるが、その多くはロマネスク様式である。
その尖塔は、高さ142メートル、シュトラーズブントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた1647年からハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した1874年まで世界一の高層建築だった。現在でも、教会建築としては世界第6位の高さである。
17世紀末、ルイⅩⅣ世が三〇年戦争によってドイツ圏のアルザスーロレーヌ地方を獲得すると、フランス王国に編入されて、フランス語風にストラスブールと呼ばれるようになる(1681年)。
1871年、普仏戦争の結果、ストラスブールは再びドイツ帝国のものとなり、第一次世界大戦の結果フランスに返還される(1918年)。世界第二次世界大戦時の1940年ドイツの占領下に置かれ、1944年にナチス・ドイツの降伏と共に再々度フランス都市となる。
1988年、イル川とライン川に挟まれた中洲にある旧市街「グラン・ディル」(図3、4)は世界文化遺産に登録された。「グラン・ディル」は、古代に遡るライン川の河床と人工水路を今日に伝え、カテドラルをその中心にもつラインラント・ヨーロッパ都市に特徴的な都市構造を維持していること、ストラスブール大聖堂はゴシック建築を代表する傑作であること、カテドラル周辺の景観は都市空間と水辺空間の調和を示していること、そして、フランスとドイツの影響を混在させていること、すなわち、ヨーロッパの歴史の重要な舞台となり、古代ローマ、中世、ルネサンス、フランス古典主義、近代都市の様々な様相を重層させていることが、その登録理由である。 (布野修司)
【参考文献】
McEvedy, Colin(2011), “Cities of the Classical World”, Allen Lane, 2011
内田日出海(2009)『物語 ストラスブールの歴史 - 国家の辺境、ヨーロッパの中核 』中公新書
UNESCO,World Heritage Center(2014), “Plan de Gestion Strasbourg Grande-Île”



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