サンパウロ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
L27 コーヒーの都―イエズス会の村からメガ・シティへ―
サンパウロ sao paulo,サンパウロ sao paulo,ブラジル Brasil
サンパウロは,今やブラジル最大の産業都市であり,人口1100万人を超える世界有数のメガ・シティである。
サンパウロの起源は,イエズス会士たちがアナンガバウAnhangabau
川近くの丘に拠点を構えた1554年に遡る。ブラジルのイエズス会士で嘱管区長であったマヌエル・ダ・ノブレガ神父が小さな家「コレギオ・デ・サンパウロ」を建て,以降コレギオのまわりにインディオの家が建ち,周囲の教化村を含めてヴィラに昇格し(1660),ヴィラ・デ・サンパウロと命名されたのがサンパウロ市の起源である。
ポルトガル領アメリカ南部の海岸線沿いのカピタニア(植民地時代の行政区分)では,1532年頃にヨーロッパ向けの砂糖産業開発が開始されているが,サンパウロから海サンパウロは,ブラジル内陸部の入口に位置する。岸線への交通は不便であった。16世紀末から17世紀にかけては,,人口もわずか1000名程で,家屋は120から150軒を数えるだけの小さな集落にすぎなかった。農業用地にも恵まれていなかった。
17世紀中頃からは奥地探検隊(バンデイランテス)の根拠地とな,る。そして,1681年にカピタニアの首都となり,以降,約3世紀にわたり内陸の高原地帯と海岸地帯,さらにヨーロッパ市場を結ぶ物資の集積地として,経済的に発展してきた。
ブラジルが独立して以降,1830年頃よりサンパウロ州各地でコーヒー栽培しかし,19世紀初頭までは都市らしい都市の形成は見られなかったい。In 1711年に市となるが,1748年にはリオ・デ・ジャネイロ・カピタニアに組み入れられている。 Sao Paulo became a city, but in 1748 the capitania
was incorporated into Rio de Janeiro. In 1765,やがてしかし,が始まり,サンパウロはサントス港へのコーヒーの送り出し基地として急速に発展。このコーヒー景気で財を築いた農園主のなかには,皇帝から爵位を授けられた者もおり,彼らはコーヒー貴族と呼ばれた。
1888年の奴隷制度廃止令により,コーヒー農園の人手不足は深刻化し,多数の外国人移住者労働者の導入が始まった行われしたすることになるる。サンパウロは、コーヒーによる好景気と移住者導入により増加によって新しい活気づきが生まれ,「コーヒーの都」として世界中に知られるようになった。1872年には人口3万人ほどであったが、1890年には24万人にも膨れ上がったが、その85%は外国出身者であった。この多国籍の人口構成は今日に至るサンパウロの特質となる。
19世紀末以降の工業の進展は、サンパウロをさらに大きく飛躍させ,1920年代には,南米第一の工業都市としての地位を獲得する。1920年には人口 58万人となる。ブラジル産業に占めるサンパウロの貢献度は1907年の8.3 %から1928年の21.5 %に増加する。
急速の成長によって、サンパウロの都市構造も大きく転換していくことになる。帝政時代の歴史的面影はなくなり,共和国としての近代的なサンパウロの様相が現れ始め、市の郊外住宅地が形成されていくことになる。旧中心街と1891年に新たに開発されたアヴェニダ・パウリストAvenida Paulistに形成された「コーヒー貴族」の居住地は極めて排他的な地区となる。高級住宅地区は,カンポスエリジオス地区から,ブリガデイロルイスアントニオ大通り,リベルタ地区,イジエノポリス地区,そしてパウリスタ大通りに広がっていた。英国企業が田園都市理念に基づく住宅開発を行い、後には超高層建築が建設される。そして、そのすぐ近くに、大規模な低所得階層が住む居住区が形成された労働者の住宅地はブラス,ベシガ,カブシ地区といった工業地帯に隣接した地区に形成された。。外国企業は水道や電気、ごみ収集のサーヴィスを供給される一方、大多数の人口はそうしたサーヴィスを受けられない、格差社会が形成されていった。結果として、伝染病が発生するなど深刻な都市問題を引き起こすことになった。1917年には無政府主義者に主導された都市暴動も起こっている。
1950年代には、自動車産業の中心となり、サンパウロはブラジルの国民総生産の37%を占めるまでになる。人口増加率は年5.4~6.1%となり、ブラジル北東部から移住者を引きつけ、1960年には470万人の大都市になる。
1990年代に入ると、サンパウロ経済は失速し、ブラジル経済に占める役割を減じていく。21世紀に入ってやや持ち直し、ペルーやボリヴィアからの労働移民が再び増加する。結果として、新たな貧困層が産み出されていく。こうして、サンパウロは、裕福な高所得者が居住するゲイティッド・コミュニティと大部分を貧困者が居住する二分化されたコスモポリスとして、グローバリゼーションの波に翻弄され続けている。
都市改造は必至となり、アヴェダニス計画として知られるマスタープランが立案された。道路拡幅、第2環状線が開通、,蛇行していたチエテ川の運河化などによって,交通ラッシュの緩和が図られた。また、,坂の多いサンパウロの町に多数の陸橋が架けられた。これらの交通インフラの改善事業によって,それまで市街化から取り残されていた地域がようやく埋められ,サンパウロは市街が一つにつながることになる。
【参考文献】
福井英一郎 『ラテンアメリカⅡ』 朝倉書店,1978年11月
国本伊代『ラテンアメリカ 都市と社会』株式会社新評論,2002年12月
増田義郎 『ラテン・アメリカ市Ⅱ』山川出版 2000年7月



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