レシフェ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
L23 ブラジル都市の起源―丘と低地の興亡―
都市名 City,地域名 Region,国名
Country
レシフェRecife/オリンダOrinda、ペルナンブコPernambuco, ブラジルBrazil
レシフェは、人口155万5039人(2012年)のブラジル、ペルナンブコ州の州都である。
1500年にP.A.カブラルによって発見されたブラジルは、トルデシーリャス条約(1494)に基づいてポルトガルの植民地とされてきた。ポルトガルは、当初、海岸線に沿って15のカピタニアを設けるが、1551年にブラジル司教区を創設、ペルナンブコのオリンダを首都とした(世界文化遺産に登録(1982年)図①)。
このオリンダを襲ったのがオランダ西インド会社WICで、1930年2月にオリンダ攻略に成功する。以降、1654年にポルトガルによってブラジルから撤退を余儀なくされるまで24年間、オランダはブラジルに拠点を確保する。ポルトガルは丘の上にオリンダを築き、低地にオランダはレシフェを築いた。都市建設にもそれぞれ得て不得手がある。
オランダはまず、レシフェの町を、続いてマウリッツスタットをアントニオ・ヴァス島に建設する。要塞建設に続いて、行政施設や多くの修道院や教会が建設され、多くの人々が移住し、レシフェは、産業と貿易の中心となる。
レシフェには、オランダと同じような高密度の住宅地が形成された。住居の形式もオランダ風で、外部階段、カーブした戸口、三角形や鐘型の破風、先端装飾のついた破風、凹型と凸型のカーブの混合した破風を特徴とした。ダッチ・ゲイブル(切妻)が使用されたのは、単に郷愁からではなく、典型的なオランダの木組みは、伝統的なポルトガルの寄せ棟住宅よりも経済的で、都市的集住に適していたからである。
アントニオ・ヴァス島(西)に向けて腰を折った海老のような形をした市街は、同じ形に中央を走る街路の両側に街区が形成されていた(図②)。
マウリッツスタットの都市計画は極めて体系的に構想され、中心にまっすぐ南に流れる運河を通し、平坦な市街地はグリッド街区に分割、稜堡は東西に規則的に並んでいる。
運河と堀のシステムがまず目につく。ニーウ・マウリッツスタットの中央に南北真っ直ぐに運河が掘削され、カピバリベ川 とバピバリベ川の両方を繋ぐ。エルネストス要塞の周りを囲む堀は、バピバリベ川に連結され、水門が流れ制御する。この運河のシステムは防御の意味ももつ。明らかにオランダの都市計画が持ち込まれている。
同時期に建設が進められたバタヴィアと同様、マウリッツスタットの建設は、オランダ帝国の威信の表現であった。ブラジルにおけるユートピア建設のために、マウリッツは、ブラジルの首都の美しさをヨーロッパに知らしめるために、そしてレシフェを美しく創り上げるために、科学者、技術者、医者、芸術家、建築家など約45人のオランダ人を集めている。マウリッツが目指したのは、科学と芸術の中心となる都市建設であった。
ニーウ・マウリッツスタットの計画案にはシモン・ステヴィンの理想都市計画案の強い影響がある。ネーデルダッチ・マテマティカで学んだエンジニアはその理論に当然触れていた。グリッド・パターンの街路体系、2本に1本の道が稜堡に続くこと、骨格としての運河体系、2つの中央公共広場、全体が堀に囲まれていること、道路と運河と建物と広場のバランスの取れたプロポーションなどにそれが窺える。フロートクワルティール(マウリッツスタット)とニーウ・マウリッツスタットを繋ぐ都市の拡張システム、運河システムは最もステヴィン・モデルに従う点である。
近代のレシフェの核は、レシフェの中央からポンテ・マウリシオを渡りサント・アントニオ(かつてのアントニオ・ヴァス島)を横切って最終的には本土へと続く軸で形成されている。しかし、18世紀初頭、マウリッツスタット(アントニア・ヴァス)の水路と運河は規模も小さくなり、ほとんどの道路パターンは変更される。1808年のブラジル独立以後、大規模な土木工事が行われ、市域は拡大していく。1910年に地方自治体によって大規模な再編成がなされ、ほぼオランダの残したものは消える(図③)。
現在レシフェ地区Bairro do Recifeの保存修景計画が進められつつあり、12の建造物が保存建物に指定されている。18世紀末頃、統治者であったホセ・セザール・デ・マネセスJose Cesar de
Manezesによって、フライブルフは経済的な理由から破壊された。マウリッツの邸宅は1820年に保存された状態で残されていたが、今日統治者の宮殿がその敷地に建っている。マウリッツの余暇のための住宅、ボン・ヴィスタは17世紀の後半に消えた。ボン・ヴィスタの名前は現在ホテルと商業ビルが建ち並ぶ地区の名として残っている。ヨハン・マウリッツの橋は新しい橋に取って代えられた。
参考文献
布野修司編(2005)『近代世界システムと植民都市』京都大学学術出版会。
Hannedea Van Nederveen Meerkerk, “Recife The
Rise of a 17th-Century Trade city from a Cultural-Historical
Perspective”, Van Gorcum, Assen/Maastricht, 1989
E.van den Boogaart “Johan Maurits van
Nassau-Siegen 1604-1679 A Humanist Prince in Europe and Brazil”, The Johan
Maurits van Nassau Stichting, Den Hague, 1979


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