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2025年11月25日火曜日

京都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

京都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日 


JX02 平安の都

京都Kyoto,京都府Kyoto-fu,日本 Japan

 

 

 


 京都は、もともと「京(きょう)」あるいは「京師(けいし)」に由来し、「京都(けいと)」すなわち王権の所在地「都(みやこ)」を意味する一般名詞であった。「京」、「京都」(きょうと)、「京の都」(きょうのみやこ)が平安京の固有名詞として定着したのは平安後期という。

 桓武天皇が、平城京から長岡京(784年)、さらに続いて遷都造営した平安京(794年)は、日本の古代都城の完成形であり、以来、天皇が所在し続けた千年の古都である。建設そのものは、805年に中止され、右京は未完のままに残されたけれど、平城京(心々制)から平安京(内法制)へ、その条坊割の寸法体系の完成度は世界に例をみない(図1)。

 大路によって区画された「坊」(1180(550)は,さらに縦横各3本の小路(幅約12)16「町」(140(120))に区分され,4町を「保」とした(1坊=4保=16町)。「町」は、さらに、東西4分割,南北8分割され,32の宅地に分けられた(四行八門(しぎょうはちもん)制)。宅地の最小単位(南北5丈・東西10丈)は戸主(へぬし)と呼ばれた。一般の「町」には南北小路が1本,大路に接する町には2本,市町(いちまち)には3本設けられた(図2)。

 京都は、古来、長安、洛陽と呼ばれることがあり、平安京の右京を長安、左京を洛陽と呼んだように、北辺に宮闕(宮城・皇城)を置く形式は隋唐長安城(大興城)をモデルにしたとされるが、北闕型の起源は鮮卑拓跋氏の北魏平城(大同)に遡る。北魏で、坊を壁で囲う坊牆制が成立するが、北闕型、坊牆制ともに北方遊牧民によってつくられたとする説が有力である。

 律令制の形骸化とともに、平安京はその理念型にとらわれない、大内裏・御所そして鴨川とする都市に変化していく。平安末期には、鴨川の左岸に六勝寺、東山山麓に法勝寺が建設され、六波羅には平氏一門の屋敷地、南郊に鳥羽に貴族の別荘地が形成された。承久の乱(1221年)以後、鎌倉幕府(1185頃~1333)は、公家の監視のために六波羅探題を設置する。

 整然と区画された坊・保・町も時代と共に崩れ、1街区は、小路に接する4面によって構成されるようになる(「四面町」。四面は、それぞれが自立して「丁」と呼ばれ、さらに道路を挟んで向かい合った「丁」が結びついて1つの「両側町」へと移行していく(図3)。

 南北朝時代(133696)には、京都争奪戦が行われ、4度にわたって京都は占拠されるが、足利尊氏が御池高倉辺に屋敷を構えて室町幕府が設置されると、武家が市中に進出、足利義満以降、北小路室町の御所が将軍家の在所となる。

 応仁の乱(146777)で京都の大半が焼失し、荒廃、その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。この戦国時代には、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ「構」によって囲まれた。その間は畑と化し、室町通でかろうじてつながる状況であった。

 秀吉による御土居の築造は京都の領域(洛中、洛外)を確定するものであり、聚楽第、武家町と公家町、寺町の建設を行う大規模な都市改造は、京都の城下町化を図るものであった(図4)。

 秀吉は、中央に新たに南北小路を設け、「町」を2つに分割する(1590年)。「天正地割」と呼ばれるが、「あんこ」と呼ばれる街区内部の宅地利用が目的であったとされる。地割が行なわれたのは、東西は寺町通から大宮通、南北は五条通から丸太町の区域であるが。南北は、後に延長されたものが少なくない。「下京」、四条烏丸を中心とするいわゆる「田の字」地区は、既に市街地化されており、地割は実施されていない。

 江戸幕府を設置した徳川政権は、京都の拠点として二条城を建設、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄した。江戸時代、京都は文芸、工芸の中心地として栄え、江戸、大坂に並ぶ「三都」として栄えた。

 大政奉還(1867年)により新政府が誕生すると、天皇が江戸で政治を行うために、江戸を東京に改名、奠都が行われる。

 明治以降の京都は、近代都市としての装いを整えていくことになる。京都策と呼ばれる、勧業場を中心とする勧業政策、全国に先駆けた小学校建設など教育政策などとともに、都市計画として実施された第一は疎水、そして水力発電所の建設(18851890年)である。また、平安遷都千百年を記念して開かれた内国勧業博覧会(第四回)のために岡崎公園が整備され、平安神宮が建設された1895年には、市電の軌道が敷設された。また、道路拡幅、水道の整備も合わせて行われた。

 第二次世界大戦において大きな被害を免れた京都は、近代化施策を進める一方、古都の景観を今日に伝えることになった。1994年には、宇治市、大津市も含めた17の歴史的建造物を構成資産が世界文化遺産に登録されている。

 京都は、平安京と同時代に、100万の人口を誇った平安の都(マディーナ・アッサラーム)と呼ばれたアッバース朝の都バグダードと姉妹都市である。


参考文献

秋山國三・仲村研『京都「町」の研究』法政大学出版局、1975

足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984

西川幸治・高橋徹『京都千二百年(上)(下)』草思社、1999

京都市編『平安建都1200年記念 蘇る平安京』京都市、1994

布野修司『大元都市』京都大学学術出版会、2015


1 平安京計画図(京都市編『平安建都1200年記念 蘇る平安京』京都市、1994

2 四行八門制(秋山國三・仲村研『京都「町」の研究』法政大学出版局、1975


3 四面町・四丁町・両側町(足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984

4 御土居 (京都市編『平安建都1200年記念 蘇る平安京』京都市、1994



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