このブログを検索

2025年11月24日月曜日

平壌:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

平壌:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J26 熱山荘―五族協和の陪都

平壌Pyongyang,平壌直轄市Pyongyang,朝鮮民主主義人民共和国Democratic People's Republic of Korea

 

 

 

 

 


 平壌は、朝鮮半島全土を戦場と化した朝鮮戦争(1950625日~)において、アメリカ軍を中心とする国連軍による激しい空爆によって、また、国連軍の支配下に置かれた後の朝鮮人民軍や中国人民志願軍による反撃によって、壊滅的な被害をうけた。現在の平壌は、停戦(1953727日)後に、ソ連の援助によって復興を遂げた全く新たな平壌である(図1)。大同江の南岸の主体塔(図2)から南を望むと、ソ連流の社会主義都市計画による一面に団地が建ち並ぶ都市景観をみることができる(図3)。一方、北岸の中心部には社会主義リアリズム風(スターリン様式)の国家施設が建設された(図4)。「平壌市復旧建設総合計画」(1951年)を立案したのは、朝鮮建築家同盟創設メンバーのひとり、日本で建築を学びモスクワ建築アカデミーへの留学経験をもつ金正熙である。

 平壌の起源は、衛氏朝鮮(紀元前195108年)の王険城であり、前漢の武帝がこれを滅ぼし、楽浪郡治を置いた(紀元前108年)ことが知られる。以降、紀元4世紀後半に百済に占領されるまで、中国王朝の朝鮮支配の拠点となる。

高句麗の建国は,紀元前1世紀に遡る。その700年をこえる歴史は,前期「卒本」時代(前1世紀初~後3世紀初),中期「国内」時代(3世紀初~427年),後期「平壌」時代(427年~668年)に分けられる。高句麗が遷都した当初の王都は,平壌城と呼ばれたが,現在の平壌市街地ではなく,東北郊外の大城山城および清岩里土城の一帯に位置した。現在も城壁や安鶴宮の跡などが残る(図5)。王都の中心がこの大城山城一帯から,平壌市街地に移ったのは586年である。長安城とも呼ばれたことから,平壌時代は,前期平壌城時代と後期平壌城時代あるいは長安城時代に分けられる。平壌城の発掘に当たったのは関野貞であり,前期,後期に分けられることを指摘して,清岩里土城を王宮址と推定したのも関野貞である。関野が推定した王宮址は,その死後寺址であると確認された。

長安城は、内城・外城と北城の三つの部分からなっていたと考えられている。内城は丘陵地帯であり,現在も万寿台議事堂などがある.高麗時代には行宮の中心となり,李朝時代には平壌府の官衙が置かれていた。外城には,条坊制の痕跡も確認され,一般民の居住地である。北城は離宮である。条坊制は,不整形な外城を区画するため不規則であるが,大路は発掘で確認された箇所があり,中路には両側に道路界を示す石標がかつて立っていたことから確認される。6070㎝の側溝をもつ12.612.8mの大路が南北に3,東西に1本走り,その中を4.2mほどの中路が通っていたことがわかっている。大同江に面した外城南側の城壁は,後代にも改修されながら用いられるが,高麗時代には「羅城」と呼ばれ,朝鮮時代には「外城」と呼ばれている。

高句麗は、668年に唐に滅ぼされる。唐は平壌を含む南満州から半島北部を管轄する安東都護府を設置して当該地方の直接支配を図るが、新羅の反乱によって遼東より南を失う。

 統一新羅時代の平壌は辺境として荒廃するが、王建が打ち立てた高麗王朝は,高句麗の領土の回復を目標とし,風水地理の説を唱えて,旧都平壌を復興して「西京」とする。開城(開京)を王都として三京の制度を導入,南京を漢陽・漢城(ソウル),東京を慶州とするのである。

 漢城に王都が移った朝鮮時代にも,平壌は平安道の首邑であった。漢城と北京との間に位置する平安道は「西学」の受容の窓口となる。壬辰倭乱では,秀吉軍は漢城を攻略すると,平壌さらに妙香山も襲っている。小西行長軍は朝鮮王朝,そして明との和平交渉を模索して平壌で北進を停止し,援軍として来た祖承訓率いる遼東の明軍を撃退している。

「韓国併合(韓日合邦)」以前,20世紀初頭までは市街地には城壁がかなり残っていたが、戦災と復興の過程でほとんど消滅し,現在はわずか一部が残るのみである。

 平壌は朝鮮戦争で壊滅的な打撃を受けた。当時の人口は約40万人で,42万発の爆弾を落とされたという。平壌は,東京が戦災によってその歴史的景観を失ったように,一旦は白紙還元され,その後復興を遂げたのである。平壌の人口は約251万人(2015年)である。廣法寺も牡丹峰(モランボン)の乙密台・七星門も,大同門(図6)・練光亭・平壌鐘も普通門も全て復元である。                      (布野修司)

【参考文献】

布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民:韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-京都大学学術出版会,2010





0 件のコメント:

コメントを投稿

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...