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2024年3月5日火曜日

象徴交換とシミュレーションの時代,ボードリヤールの転換, KB Freeway,『建築文化』,198112

象徴交換とシミュレーションの時代

 

J.ボードリヤールが「ボードリヤール・フォーラム東京’81実行委員会」(代表安永寿延)の招きによって日本を訪れた。世界インダストリアルデザイン会議(一九七三年京都)に続いて二度目の来日である。

  最初の来日の時のJ.ボードリヤールの特別講演「デザイン/経済学と象徴交換のあいだ」*[i]は、ことにデザインの領域に対して極めてラディカルな問いかけを行うものであったが、当時、彼自身の作業は、必ずしも一般的に知られてはいなかったと言っていい。しかし、今、なぜ、ボードリヤールかについては多言を要しないであろう。現代社会のパラダイムを根底に転換する試みとして、『物の体系ーー記号の消費』*[ii]、『消費社会の神話と構造』*[iii]以下の一連の作業は、今ではさまざまな分野において広く関心をもたれている。実行委員会も「ボードリヤールが、すでに失われ、もはやシミュレーションとしてしか存在しない「象徴交換」を問題にするのは、価値の構造の変革に主たる狙いがあるからであり、現代社会のパラダイムを根底的に転換するために、人類学、言語学、構造主義などの理論的諸体系に回収することのできないあたらしい領域をを引き出すことにその作業の意味がある」という位置づけのもとに、J.ボードリヤールを招いたのである。

  三日間にわたる講演、パネル討論*[iv]のうち、 「キムラカメラ/象徴的暴力とシミュレーション」のみを聞くことができた。その日の討論を中心に、J.ボードリヤールの作業について思うところを記してみよう。その日の討論を聞く限りにおいて、J.ボードリヤールは、そのかつての視点や立場を大きく転換させたように思えた。それは、邦訳文献のみに眼を通している範囲でもある程度予想しえたことである。今村仁司が解説するように、『生産の鏡』*[v]においてすでに、その作業の方向転換が示されていると言っていいからである。しかし、その転換が極めて具体的に、木村恒久のフォトモンタージュ「キムラ・カメラ」の評価に即して示されることにおいて、実に興味深いものであったと言わねばならない。

  J.ボードリヤールは、前回講演において、現代の都市が象徴的な意味をもった空間を失い、それ自体死に至ったことをニューヨークを例にしながら述べる中で、ワールド・トレード・センターについて次のように言っている。

  「この現象の最も見事な例を、高さ四〇〇メートル、完全平行六面体で窓がなく、エアコンディショニングの完備した二つの相似の塔からなるニューヨークのワールド・トレード・センターに見ることができます。これこそ、目もくらむばかりの経済システムの記号です。しかし、なぜ塔はふたつあるのでしょうか。そのわけは、象徴的な引力を欠く現代の記号(西欧的記号)は、ちょうど鏡をのぞきこむように、ただくり返したり、二重像を写しだすことしかできないからです。ワールド・トレード・センターには、古代の大建築、ピラミッドの中心にあった小さな玄室(死者の室)がありません。この事実こそ、伝統的な都市構造と、現代の幾何学的で、田園を侵すような都市との根本的な相違をもたらすものです。」

  木村恒久の報告は、彼のワールド・トレード・センターをモチーフとするフォト・モンタージュが、まさにJ.ボードリヤールの現代都市、現代社会についての指摘を示唆としていることを告白することによって始められた。その作業が、一方で、バウハウス*[vi]以来のモダン・デザインの流れを総括することにあったこと、特に、ダダイズム*[vii]や構成主義*[viii]、そしてとりわけ、L.リシツキー*[ix]やJ.ハートフィールド*[x]0の方法に学びながら、モダン・デザインとしてソフィストケートされない初期の原型を確認すること、したがって「キムラ・カメラ」は自身の学習用のテキストであること、そしてさらに、それが現代日本の大衆社会(「アジア的大衆社会」)において、どのようなコミュニケーションを生むか、一九二〇年代との差異を確認することに狙いがあったことを簡単に振り返った後、木村恒久はフォト・モンタージュの方法について、およそ以下のような位置づけを行う。

  すなわち、フォト・モンタージュは、水と油の不協和音的両立、その異化作用と弁証法的統一によって、「もう一つの現実」を認識させる一つの方法である。そこでは、理性と感性、形式と内容を統一する象徴的能力が問われる。また、シンボルは、形態の直接的コピーと抽象化され一般化された形態としてのサインの統合であり、そのコピーとサインの関係は、文字の変遷に見られるように、社会的なシステムを形成し、また、社会的システムによって規定される。現代社会は、形態の直接的コピーのもつ呪術的、身替り的、犠牲的要素を合理化し、コード化、数値化可能なサインに還元する方向へ進んできた。それとともに、さまざまな物や空間のもつ象徴的意味が失われてきたのである。

  ヘンとツクリから成る漢字は、アジアの伝統において、コピーとサインのヴィヴィッドな関係をシンボルとして示す、格好の例であり、そこにはモンタージュの極めて重要な原則があるといってよい。フォト・モンタージュは、映像において漢字のもつ象徴を再認識する試みでもある。

  講演の内容は、以上に要約する範囲で、僕にとってわかりやすいものであり、「象徴交換」がデザインの領域で主題となる一般的な背景を的確にまとめたものであったと思う。

  問題は、むしろ、具体的な木村恒久の作品の評価をめぐって顕著になった。「ワールド・トレード・センター」をはじめとして、「都市はさわやかな朝を迎える」など一連の「キムラ・カメラ」作品に対して、J.ボードリヤールはむしろ否定的であり、木村の方法と自らの「象徴交換」の理論、シミュレーションの理論との差異を強調するのである。一つの批判は、木村恒久の作品のイメージそのものが表現となっていること、イマジネールなものを含み過ぎていることにあった。シミュレーション理論にとっては、イマジネールなものが排除されることが一つの条件であり、オブジェやイデーが象徴的アウラをもっている場合、シミュレーションは成立しないというのが、J.ボードリヤールの指摘である。

  J.ボードリヤールによれば、ハイパー・リアリズムは、意味領域を捨象することによって成立するのであり、ニュートラルなものの総合がシミュレーションであるというのである。彼がシミュレーション理論の例として挙げたのは、革命と資本主義の対立を中性化し、並置したままであるエロの作品であり、現代社会の象徴であるモーター・サーキットの地下に、古文書を収納する図書館をもうけたソルト・レーク・シティの例であり、また、ギリシャの建造物を模したサンディエゴの遺伝子工学研究所であった。木村恒久の作品は、例えば、ブルジョワ的なものと中国共産党的なものが中性化されず、一つの意味(現代社会批判)を構成している。二つのもの(意味)が、一つの意味を構成するのではなく、二重化されたまま並置されるのがシミュレーションであるとJ.ボードリヤールは言うのである。

  そうした指摘自体、少なくともデザイン論にとっては、極めて興味深いものと言ってよい。J.ボードリヤールは、引用について、意味を引用するのではなく、媒体(メディウム)を引用すれば二つのものは並置され、両義性を保持することができるという。その指摘は、むしろ当日司会であった磯崎新の手法論、引用論の位相とより近しく、それを裏打ちするものと言えるかもしれない。あるいは、そうではないのかもしれない。いずれにせよ、木村恒久のフォト・モンタージュにおける方法と磯崎新の引用論の差異を含めて、J.ボードリヤールのシミュレーション理論は、デザインと現代社会批判、社会変革上のラディカリズムとデザイン、またデザインと消費社会をめぐって、再び一石を投じているように思えるのである。

  かつて、J.ボードリヤールは、象徴的な関係を取り戻すために、デザインそのもの、デザイナーそのものの消滅をも主張していた。その一つの根拠は、「デザインされた物は、どんなことがあろうとも、シミュレーションのモデルとして僕らの目の前にあらわれ、そこには可能と不可能がまるで機能のようにあらかじめ組み込まれ、組合せの中に想像性さえも指示されている」ことにあった。「シミュレーションのモデルと化した結果、あたかも子供をさらうように想像性がうばい去られ、記号製造行為により象徴がうばわれ、記号の氾濫は人口的に創り変えられたひとつの世界の幻影を生む」ことであった。すなわち、そこではシミュレーションそのものは、きわめてネガティブにとらえられていたと言って良い。しかし、J.ボードリヤールは、シミュレーションの時代をよりポジティブにとらえようとしているかに見える。

  「私に対する批判は、そのままかつての師(J.ボードリヤール)自身に対する批判ではないか」という木村恒久の素直な問いに対して、J.ボードリヤールは、あっさりとそれを認める、かつての現代社会についての分析は、あまりに、否定的な観点のみからのものであった。シミュレーションの時代には、新しい世界の誕生を感じさせるすばらしい側面もあり、それを肯定的に評価すべきなのだと。彼は、それ故、シミュレーションという概念を、かつての立場とは異なって、微妙なニュアンスを含ませた言葉として用いているという。また、消費という概念は古くなったのであり、それでは分析できない領域をアスペクトを変えて扱うのだと言う。さらに、ユートピア的な視点、もう一つの(オールタナティブ)という視点ではなく、シミュレーションの実態の内部からの分析に向かうのだと言う。

  こうした視点や立場の転換の主張が、どのようにしてもたらされたのかについては、J.ボードリヤールは必ずしも明らかにしない。というより、トランスポリティークにしろ、シュミレーションにしろ、また、エクスターゼにしろ、J.ボードリヤールの用いる新たな諸概念が必ずしも一般化されておらず、したがって、その転換を理解することができないと言えるであろう。当日の会場の雰囲気から察する範囲では、むしろ、J.ボードリヤールの新たな概念の理解そのものが問題であったように思う。皮相に理解すれば、現代社会に対するラディカルな批判がペッシミズムの袋小路に入り込むのを回避することを急ぐあまり、以前の概念諸道具をあっさり精算したような印象であった。トランスポリティークにしても、第三世界や社会主義に根拠なき希望をもつことを批判するために、また、政治の中にのみ目的を設定してきたことを批判するためにのみもち出され、逆に、現実をなしくずし的に肯定するかのような印象であった。閉ざされた世界におけるシュミレーションの連続の評価やエクスターゼという概念は、一種の刹那主義ではないか、という質問がなされたのは、ある意味では当然であり、同時に、僕らの戸惑いを示すものであったと言えよう。

  古い図式、古い価値体系に固執し、発想する限り変化はない。というJ.ボードリヤールに異議はない。J.ボードリヤールは、僕らの戸惑いにもかかわらず、その展望について自信に満ちているかに見えた。彼は、出口を求めることができないとすれば、破壊しかないという。悲観論者でも、終末論者でもなくルネ・トム*[xi]1あるいはカネッティが言う意味での破壊主義者(カタストロフィスト)であると言う。その転換を見届けるために、今、少し、彼の作業を注目する必要があると言えるのであろうか。

  J.ボードリヤールのシュミレーション理論またカタストロフィーの理論について、三日目のパネル討論においては、より突っ込んだ討論が行われたことと思う。僕自身、それに参加できなかったこと、また、実行委員会の準備会にお誘いを受けながら、J.ボードリヤールをめぐって議論する機会を自ら逃したことは非常に残念であった。J.ボードリヤールの転換がどうあれ、少なくともJ.ボードリヤールの初期の仕事は、そして、象徴交換の理論は、現代社会をとらえるうえで極めて刺激的であり、重要なヒントを与えていると僕は思う。産業社会、消費社会のパラダイムそのものを問うことは、僕らにとって共通の課題であるはずである。

  象徴的なものの回復の試みをかつてのJ.ボードリヤールのように、シュミレーションのシステムを補完するものとして、消費社会における記号の消費システムの自己運動としてのみ位置づけることにおいて、いかなる展望が拓けるかは、僕らにとっても大きな問題であることは言うまでもないのである。そうした意味では、J.ボードリヤールは一歩、その歩を進めつつあるのかもしれない。

  J.ボードリヤールの反生産の概念とエコロジーの概念とは、どのように結びつくのか。あるいはすれ違うのか。彼が主として分析の対象とした西欧の現代社会に対して、日本の大衆社会はどのようにとらえることができるのか。そこに、日本的な、あるいはアジア的な特質を見ることができるのか、それとも、すでに全く同じ位相においてとらえるとができるのか。J.ボードリヤールの言う意味での「シュミレーションの時代」において、デザインあるいは芸術は新たな役割を担うのか、そうではなく全く別のものとなるのか。その場合、大衆、消費者のキッチュなもの、懐古趣味的なもの、擬似的自然、手づくりといった雑多のものへの要求は、どういう形態を取って自己を実現するのか。そして、究極的には、象徴交換の世界はいかにして回復することができるのか。J.ボードリヤールを媒介としながら、考察すべきことは多いのである。



*[i] 竹原あき子訳『工芸ニュース』一九七四年Vo l.41

*[ii] 宇波彰訳、法政大学出版局

*[iii] 今村仁司、塚原史訳、紀伊国屋書店

*[iv] 象徴交換とシミュレーションの時代・トランスポリティク|政治の光景(一〇月一〇日、J.ボードリヤール特別講演)、キムラカメラ/象徴的暴力とシミュレーション(一〇月一一日磯崎新(司会)、J.ボードリヤール+木村恒久)、象徴交換∥現代社会を読みとくために(一〇月一三日、前田耕作(司会)、J.ボードリヤール、今村仁司、多木浩二、平井正、宮島高、山田宗睦)

*[v] 宇波彰、今村仁司訳、法政大学出版局

*[vi]

*[vii]

*[viii]

*[ix]

*[x]

*[xi]