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2026年8月1日土曜日

宮崎恒二・伊藤真・山下真司編:インドネシア (暮らしがわかるアジア読本) ,河出書房新社, 1993年:「住居」執筆

 宮崎恒二・伊藤真・山下真司編:インドネシア (暮らしがわかるアジア読本) ,河出書房新社, 1993:「住居」執筆

インドネシア読本 日々の暮し 住居

                                                     布野修司

 

 インドネシアの住居もまた実に多様である。民族によって、地域によって、ヒンドゥー、イスラーム、中国、西欧列強の様々な影響が混ざり合うことによって、住居の様相は異なる。しかし、一方、ある程度共通に語れる側面もある。例えば、木造住居の伝統が支配的であることがそうだ。インドネシアの住居を総覧しながら、いくつかの局面を浮かびあがらせてみよう。

 

 ベタウィ(ジャカルタ原住民)の住居

 人口800万人を超える大都市ジャカルタ、そのジャカルタの南西部にチョンデットCondetと呼ばれる地区がある。現在の行政区域でいうとバレカンバン Balekambang、カンポン・テンガ Kampung Tengah、バトゥ・アンパル Batu Ampar という三つのクルラハン Kelurahan(行政単位 連合町内会) からなるチリウン Ciliwung 川沿いのかなり広大な地区である。ジャカルタは、スンダ・カラパ Sunda Kelapa と呼ばれた頃からチリウン川とともに発達してきたのであるが、その遥か以前、先史時代からこのチョンデットには人々が居住してきた。様々な出土品がそれを物語っている。

 住民の八割は、ベタウィ Betawi と呼ばれる。ジャカルタ・アスリ(原住民)である。五〇万人と推定されるベタウィは、もちろん、他の地区にも分散して住むのであるが、その中心はこのチョンデットである。今猶独自の文化を保持していることで知られる。

 今、訪れてみると、チリウン川は、汚染され淀んで強烈な臭いを放つ河口の様子からは想像できないほど豊かな樹木に覆われ、美しい。辺りには、果樹園が多く、のどかな農村の風景が広がる。家々が密集し、車が走り回る、騒々しいジャカルタにもこんなところが残っているのかと思う。

 ベタウィの住居をみてみよう。ベタウィの伝統的住居といっても、その原型をとどめるのは極めて少ない。また、イスラム化、植民地化の過程で様々な要素が混じり合ってきたし、時代と共に変化もしてきている。図は、原型と思われるベタウィの住居である。屋根の形態は、寄棟、切妻などいくつかタイプがあるが、テラス、ルアン・タム(客間)、ルアン・ティドゥール(寝室)、ダプール(厨房)、カマール・マンディー(浴室・トイレ)、スムール(井戸)が前から後ろへ一列に配置されるのが基本的パターンである。

 

 カンポンの住居

 考えてみればチョンデットの今日の風景はかってのジャカルタの姿である。急速な都市化の波はあっという間にジャカルタを襲い、人家の海にしてしまったのであるがもともと周辺部は農村であった。インドネシアに限らず東南アジアでは、都市の伝統は希薄である。今日の都市の住居も農村の住居が基本になっているとみていい。都市村落(アーバン・ヴィレッジ)の特性をもっているから、都市の居住地もカンポン Kampung(ムラ)と呼ばれるのである。

 事実、ベタウィの住居の基本パターンは、今日、都市のカンポンでもよくみることができる。平面の構成(間取り)は地域によって多少異なるが、こうした住居が密集するのが都市である。インドネシアの都市人口の割合は今のところ二割を超える程度であるが、都市に住む一般庶民はおよそ以下のような住居に住んでいるのである。

 図は、スラバヤの事例であるが、どのように都市カンポンの住居ができあがっていくかを示している。まず、一室ないし二室の空間がつくられ、やがて、寝室や客間が付加され、分化していく。そして、井戸やカマール・マンディーの部分が室内化されていく。住居はひとつのプロセスとしてつくられていくのである。

 カンポンの住居といっても多様である。上述したのは、カンポン住居の標準型ともいうべきパターンであるが、規模が小さいものももちろん多い。一室、二室に数人が居住するパターンも少なくない。平屋建てで人口密度ヘクタール当たり千人、二千人といったカンポンもジャカルタ、スラバヤといった大都市にはある。都市の居住問題は極めて厳しいのである。

 どうやって暮らすのか。幸い、インドネシアの場合、気候がいい。日常生活のほとんどは戸外である。炊事、調理、洗濯、水浴び(マンディー)、そして就寝ですら戸外で行われる事があるくらいである。

 一方、大規模な住居ももちろんある。その場合、カンポンの住居の標準パターンを横につなげていく形で住居がつくられる。場合によると、その付加した部分を地縁血縁の家族に賃貸したりする。長男が都会に出て、やがて家族を呼ぶパターン、同じ村の出身者が巡回的に移住するパターンと様々あるが、カンポンには強い人的ネットワークが存在する場合がある。一般的にもコミュニティー組織はしっかりしており、アリサン arisan(頼母子講)、ゴトンロヨン gotong royong(相互扶助)といった活動がカンポンの日常生活を支えているのである。

 

 インドネシア住居の原像

  西スマトラの一帯にミナンカバウ族が居住する。世界最大の母系制社会を形成することで知られる。また、ムランタウ merantau (出稼ぎ)慣行が著名だ。そのミナンカバウ族の住居が極めて特徴的である。棟が空へ向かって弓なりに反り返り、妻側が尖塔になっている。ミナンカバウとは、「勇敢なる水牛」(menang(勇敢な) kerbau(水牛))を意味し、水牛の角をシンボライズしたものともいわれるが、大きな家になると三対、六本の尖塔を持つものもある。

 多様なインドネシアの住居のなかでも、代表的な例とされるのがこのミナンカバウの例である。あるいは、サダン・トラジャ族(スラウェシ)やバタック・トバ族(北スマトラ)の住居の例である。この屋根が反り返った、また妻側の破風が前に転んだ屋根形態をした高床式住居は確かに世界の他の地域には見られないインドネシア(東南アジア)に特徴的なものといっていい。

 実は、こうした住居がかってインドネシア(東南アジア)一帯に存在していたのではないかという推測がある。根拠とされるのが、中国は雲南、石寨山出土の貯貝器や家屋模型である。実に、ミナンカバウの住居によく似ている。

 あるいは、東南アジア各地で発見されたドンソン銅鼓の家屋紋やボロブドゥールなど、中部ジャワ、東部ジャワのチャンディーのレリーフに描かれた住居がある。特に、スンバワのサンゲアン Sangean で発見された銅鼓の家屋紋をみると、古くから、ミナンカバウやバタック・トバやトラジャのような住居が存在してきたのは間違いないようである。

 

 高床式住居

 インドネシアの住居の特徴のひとつとして、高床式であることをまずあげねばならない。形態は様々であるが、スマトラのアチェから西イリアンまで、高床式住居は今日猶広範にみることができるのである。しかし、例外がある。ジャワ、バリ、ロンボクの一部の住居がそうである。

 ジャワといっても、スンダは別である。スンダ地方のナガ Naga やバドゥイ Baduiといった古くからの集落は高床式であり、ベタウィにしても海岸部では現在でも高床式である。ジャワにしても、もともとは地床(土間)式であったと考えられるのであるが、何故、地床式になったのか。政治的な理由から高床が禁じられたとか、土の感覚を大事にするヒンドゥーの影響が根強いとか、諸説あって決着しがたいが興味深いことである。

 もともと、高床式住居は、水上や湿地などで湿気を防ぐため、また、猛獣や害虫から身をまもるため、さらに通風をとったり、床下利用をするためなど様々な事由から成立したと考えられるのであるが、床の高さや床利用の形態は地域によって様々である。

 地床式といっても、全ての生活行為が地面で行われるわけではない。就寝にはベットが用いられる。地床式であるジャワ、バリ、ロンボクにしても、床を使いわけている点ではそれぞれに独自性がある。バリの場合、基壇を持つし、床から三〇~四〇センチのところに床(腰掛け、あるいはベッド)をもつ棟もある。ロンボクの場合、地床(土間)が二段に分かれる形が多くみられる。また、穀倉やブルガ Berugaq と呼ばれる露台、晒し台は高床式である。生活様式に応じた床面の選択がなされているのである。

 ロンボク島の場合、床は土と馬糞を固めてつくられる。寝るとひんやりと気持ちがいい。高床式住居が支配的である中で、地面に直接寝たり、座ったりする文化が維持されていることは、インドネシアの多様な住文化の一面である。

 

 住居とコスモロジー

 高床式住居の場合、その屋根裏、床上、床下という三つの空間の区分は、世界観、宇宙観としての、天井界、地上界、地下界という三界観念に結びつけられることが多い。もちろん、それだけでは極めて図式的な理解にすぎないともいえるのであるが、住居とコスモロジーの深い結びつきをみることができるのがインドネシアである。とりわけ、ジャワ、バリ、東インドネシアにはそうした事例が多く報告されているのであるが、一般によく知られているのはバリの住居とコスモロジーであろう。

 バリの場合、宇宙、バリ島、集落、屋敷地、建物、柱、身体と、マクロコスモスとミクロコスモスの間の各レヴェルにコスモロジカルな秩序が貫かれていることが意識されている。集落には、カヤンガン・ティガ Kahyangan tiga と呼ばれる、プラ・プセ pura puseh(起源の寺)、プラ・デサ pura desa(村の寺)、プラ・ダレム pura dalem(死の寺)という三つのプラがセットで置かれ、それぞれ、頭、胴体、足に擬せられるし、屋敷地は、ナワ・サンガ Nawa Sanga と呼ばれる方位観に基づいて個々の建物の配列が決定される。カジャ kaja(聖なる山の方向)ークロッド kelod(汚れた海の方向)、カンギン kangin(日の登る東の方向)ーカウ kauh(日の沈む西の方向)といった方向によってスペースの重みが違う。東西南北それぞれにウタマ utama、マディア madia、ニスタnistaの三つの領域が区別される。例えば、バリ島の南だと北東のカジャ・カンギンの方向が最も聖なる場所として屋敷神が置かれるサンガのスペースとなる。各建物も九分割されたサンガ・マンダラに従って場所が決められ、建物の隣棟間隔は身体寸法に基づいて決定される。屋敷内で様々な儀礼が行われるのであるが、礼拝の方向、祭祀のプロセスなどが住棟の配置に深く関わっているのである。 

  各建物は屋根、柱・壁、基壇の三つに分けられる。また、柱は柱頭、柱心、柱脚に分けて装飾がなされる。その一貫性は驚く程である。

 

 米倉   

 インドネシアの住居をざっとみてみると一棟だけで完結するケースはほとんどない。当然のことであるが、様々な付属屋や共用施設が一緒になって一つの屋敷地が構成され、集落が構成されるのが一般的である。いくつかの棟からなる分棟式のバリの住居はその典型である。

 付属施設として、インドネシアの住居を特徴づけるのはなんといっても米倉である。稲作文化の建築的表現が米倉である。各地に、実にヴァラエティーに富んだ形の米倉をみることができる。

 ミナンカバウの場合、家の前に一対の米倉が置かれるのがフォーマルな形式である。母屋と同じように尖塔をもっている。バタック・トバやトラジャの場合は、家の形と同じである。東インドネシアにいくと、円形の米倉が多くなる。極めて面白いのは、ロンボク島の米倉である。竹で編んで篭状の構造をしているのであるが、実に独特の形である。

 その形のヴァラエティーの面白さは別として、米倉が興味深いのは、それが高床式住居の原型になったのではないかという点である。建築技術的には、住居と倉は同じである。実際、インドネシアにも、米倉(と同じ構造物)を住居とする例があるのである。

 

 ロングハウス

 住居と米倉など付属施設がどのように配置されるかは様々である。先のバリの住居はかなりユニークである。しかし、以上は、バリ島の南部、ゲルゲル、ギャニャール、クルンクンといったバリ・マジャパイトの中心域において高度に形式化された例であって、バリでも住居は多様である。階層の低い人々の住居は様子が異なるし、他に、バリ・アガと呼ばれるバリ原住民の住居がある。例えば、東部のタガナン Tenganan がそうである。タガナンの場合、住居棟と共用施設が平行に並ぶ極めてきれいな集落パターンをしているのである。

 住居棟と他の付属施設が平行に並ぶ集落パターンは他でも多い。極めて原初的なパターンといえるかもしれない。バタック・トバやトラジャは、米倉と住居棟が平行に並ぶ。マドゥラ島でも、住居棟と作業小屋や家畜小屋が並列される。いずれも間のオープン・スペースが共用スペースとなる。マドゥラの場合、その西端にランガー langgar(礼拝所)が置かれる。スンバワ島の集落のように、もちろん、地形に沿って、円形に建物が配置される例も少なくない。しかし、ニアス島の場合、ロンボク島のワクトゥ・テル waktu telu(敬虔なイスラーム教徒であるワクトゥ・リマ waktu lima に対して、ヒンドゥー教や土着の宗教的伝統を保持する集団をいう。)の集落の場合など、他にも、こうした素朴な配列パターンは多いのである。

 住居の集合という意味で興味深いのは、カリマンタンから西イリアンにかけてみられるロングハウス(長屋)である。インドネシアの場合、集合住宅の伝統はほとんどないのであるが、このロングハウスは数少ない例とみていい。イバン族、ダヤク族など民族や地域によって少しずつその形態は異なるが、大家族居住ではなく、それぞれ自立した家族が単位となって結合する形態といっていいからである。

 

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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...