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2024年12月22日日曜日

2007年日本建築学会大会(福岡大学) 建築計画部門パネルディスカッション 「住宅とマチの関係のデザイン―新たなプログラムの展開を目指して」 日時:2007年8月30日(金) 9:00-12:30

 2007年日本建築学会大会(福岡大学)

建築計画部門パネルディスカッション

「住宅とマチの関係のデザイン―新たなプログラムの展開を目指して」

 

日時:2007830() 9:00-12:30

司会:初見学(東京理科大学)

副司会:徳尾野徹(大阪市立大学)

記録:阿部順子(椙山女学園大学)

 

趣旨説明

杉山茂一先生:

今日は朝早くからお集まりくださいましてありがとうございます。

本日のPDは「住宅とマチの関係のデザイン―新たなプログラムの展開を目指して」というタイトルで行うが、このテーマは建築計画全般で言われていることで、ビルディングタイプの定型を壊すとかプログラムの定型を問い直すということである。これは社会の動きとも連動していることで、昨日の研究協議会でも同種の問題が取り上げられた。ここでは必ずしも建築計画という立場ではなく、研究や実務といった立場の垣根を取り払って議論したい。

まず、出発点として分譲マンションにどのような風穴をあける手がかりがあるか探っていきたい。マンション供給を担う事業者は商品として扱う以上、コストパフォーマンスが大事である。そこで、住宅とマチの関係が等閑にされている。これが住宅とマチの関係を貧困にしている。行政の対応も明確な空間像がないままに、対症療法的な規制にとどまっている。この状況に風穴をあける手がかりを得るために、資料にもあるように4つの切り口を用意した。ひとつめは当たり前のマチをつくる、二番目は敷地境界を消す、三番目はコミュニティを仕掛ける、四番目は資産価値をデザインする、というテーマである。これらは現状に対するアンチテーゼとして掲げたものである。

 

少し具体的にいえば:

「当たり前のマチをつくる」というのは、戸建住宅地を蚕食するようなマンションは持続可能なものではない。では持続可能なものはどのようなものか、

「敷地境界を消す」というのは、住宅というと戸建と集合住宅に二分されるのが普通だが、戸建・集合住宅の中間的なものに可能性があるのではないか、

「コミュニティを仕掛ける」というのは、マンション問題を形ではなくコミュニティの問題としてとらえたもので、

「資産価値をデザインする」というのは、事業者の論理に対し、金の計算のできない設計者は無力である。それにどう立ち向かうか、ということである。

 

これら4点に対し、具体的な事例をあげて議論をすすめる。

 

最後に資料集の構成について説明させて頂く。資料集は主題解説、続いて4つの切り口に対して、それに沿うように3、4事例ずつあげてある。実は、ここにあげてある事例は事前に調整してあげていないので、全体と通して筋になっているかどうかというのは今のところわからないが、今日の議論を通してそれぞれの事例の共通性と違いが浮かび上がってくると、ひとつの成果になるかと思う。このパネルディスカッションは進め方も打ち合わせしているわけでなく、どういうふうになるかわからない、いろいろな事例があったという、事例の羅列でおしまいになる危険性もなきにしもあらずだが、どうなるかわからないけれども、あまり整理すると本当の面白さも消えてしまうだろう。これは司会者にまかせて、趣旨説明を終わる。

 

(1)「あたりまえのマチをつくる」野沢康先生(工学院大学)

いろいろな分野から垣根を取り払ってということで、垣根から出てきた。建築計画のPDでお話するのは初めてだが、都市計画の側面からお話をしたい。資料集のなかで杉山先生が書かれているが、小委員会のこれまでの活動のなかで、私は密集市街地の地区計画の事例について話をした。その後小委員会で議論したところ、その事例ではなく、大規模な建築物のコントロールをする手法としてのまちづくり条例を今日は中心に離していきたい。

タイトルは小委員会のなかで議論してつけたもので、私自身がつけたものではないが、なかなかわかりやすいようでわかりにくい。本来はそこから解題していかなければならないかなと思う。東京の人間である私は日常的に「マンション反対」ののぼりをよくみかける。日常生活をおびやかすものが近所に突然できるということがおこるのは、東京のようなところでは日常茶飯である。

実際に、巨大なマンションが、突然計画が明らかになって建ってしまう。私は府中市の仕事をしているが、府中市内の企業大規模跡地の大規模マンションの事例を紹介する。周りはまだ農地が混じっていたり、2階建ての戸建を中心とした市街地であるが、こういったものが建ってしまう。この軍艦のようなマンションも府中市だが、建ってしまう。これはマチから浮いた存在になる。

タイトルにある、当たり前のもの、当たり前のものを考えるとき、二つのキーワードがあげられると思う。ひとつはマチの「コンテクストcontext」、文脈といわれるものだが、もうひとつはマチの「グレインgrain」粒粒である。例えば、建築物もしくは敷地を「グレイン」と考えられる。

「あたりまえのマチをつくる」ためには、逆説的な発想、きわめて都市計画的発想だが、逆に「あたりまえではないもの」をどうやって排除するか、どうやって未然に察知してそれをいかんとするかという方法論、ルールをつくるというのが、都市計画の人間がずっとやってきていることである。

マチをコントロールするルールとしては、まずベースにあるのはいわゆる都市計画、つまり12色の用途地域、それと連動している斜線制限、建蔽・容積も含んだ形態規制であろう。それから二点目は、それは地域限定であるが、地区計画や建築協定といった限られた範囲でのローカル・ルールを構築することである。三点目は今日の話の中心になるのだが、最近地方分権がどんどん進む中で、条例をつくるというのがわれわれの世界では流行になっている。まちづくり条例であるとか、景観条例といったひとつの自治体のローカル・ルールでなんとかコントロールしようというのが、各地方で行われてきている。

ひとつめの都市計画の話だが、これはベースの塗り絵は大雑把に塗られているので、きめ細かさという点ではあまり期待できない。用途地域の指定基準は数ヘクタールの単位で指定せよと都道府県が言っているので、きめ細かさがあるわけではない。もうひとつは、私はどうしたものかとずっと気になっているのだが、土地利用のコントロールと形態のコントロールを一括してやっているように見えながら、それがマッチしていない部分がかなりある。町工場があるから町工場を認める用途地域を指定するがために、実は巨大なマンションを容認してしまう。また、古い商店街で、実態があるかないかわからないくらいの商店街を認めるために、やはり中高層のマンションが建ってしまい、最初にお見せしたようないろいろな近隣紛争がおこる種になっている。その辺がいまだに解決されていない問題であろう。

それから、用途地域や形態規制は都市計画なので、都市計画として決定する手続きをふまなければならない。このスピードは土地利用転換するスピードとはマッチせず、やや遅い。

敷地規模が大きくなるほどいろんなことができてしまう。私は密集市街地の研究をしている人間なので、敷地の細分化を防止するというのがひとつの大きなテーマであるが、そんなサイズの話ではなくて、敷地が大きくなるほどいろいろなボーナスが加算され高いものが建ってしまう。敷地が大きくなれば、空地もとれるのでその分上乗せの容積がもらえたり、敷地サイズが大きいものに優遇制度があるのが今の都市計画法である。だからあまり期待できない。住民の方に都市計画の話をするときは、建築基準法と都市計画法でとりあえずこういう制限がかかっているが、これはあまりみなさんのためにならないと最初にお話する。だからむしろみなさんで自分たちのマチのことを考えて下さいと話す。

まとめると、今の用途地域をベースとする都市計画制度では、合法的にコンテクストやグレインを無視できてしまうというのが問題点である。

 

地区計画・建築協定

二番目にあげた建築協定・地区協定は、一緒に語られることも多いがしくみとしては全然違う。一応、地区固有のローカル・ルールを決める切り札と思われているふしがある。地区計画をつくって、建築条例をつくると、規制コントロールする拘束力をもつので、実効性はあるだろう。ただ、いつからかわからないが、後で小浦先生に補足してもらいたいのだが、地区計画をつくるときは8割合意をしなさいという、まことしやかな数字が流れているから、合意形成を図るにはかなり難しさがある。なんかやるときは地区計画をつくりなさいと行政は必ず言うが、結構時間も手間もかかる。合意形成をうまくスムーズにいかせようとすると、あまり厳しいことをやるとのちのち自分たちの首を絞めることにもなるので、最大公約数的な、あたりさわりのないコントロールの内容になってしまう。よって、極端におかしなものを排除するというという程度の機能しかおそらくないだろう。ただ、議論の過程で、この地区のコンテクストは何か、あるいはこの地区にマッチするグレインのサイズはどのくらいだろうかという議論はできるだろうから、ある程度の共有化はされるだろう。ただ、あたりまえのもの、あたりまえではないもの、の捉え方は当然個人差があるだろうから、いろいろな人々がいろいろなイメージを持ってしまうこともあるかと思う。この辺までの議論は地区計画の議論のなかでもおそらく深められないのかなと思う。

 

まちづくり・景観条例

三点目にあげたのが、まちづくり条例と景観条例である。景観条例は、まちのコンテクストをうまく導くということでは、わかりやすい手法だ。景観条例は全国各地にたくさんできている。景観法に基づく委任条例としての景観条例はまだ少ないけれども、自主条例の歴史はかなり長い。大雑把にみてみると、ちゃんと分析したわけではないが、景観に対する規制値を条例のなかで明示するタイプと、なんらかの建築行為をするときに手続きをかませるという、大きく二つのタイプ、規制値事前明示型と手続付加型に分けられそうだ。

手続付加型の、私がかかわっている千葉の景観条例の例でいえば、一定要件以上、大規模といっているが、高さと面積でしばりをかけていて、建築行為をするときは届出をし、助言・指導を受けてくださいという手続きを付加している。これはどんな内容かというと、敷地計画や建築計画をみながら助言内容を考えるもので、植栽や建築物の色、景観なのでかなり色の問題が大きい。その他、千葉あたりの小規模マンションは付置義務駐車場をつくるので、無理やり立体駐車場ができてしまう。そういう立体駐車場は景観に配慮されていないので、駐車場の話をする。エアコンの室外機などの設備関係、ごみの集積所などを助言指導する。なんとか、見えたら困るような醜いものを隠して下さいというようなスタンスで話をする。

しかしこの景観条例に基づく大規模開発のコントロールでは、そもそもの建築物の高さやヴォリュームまでは助言指導できないという限界がある。しかも千葉市の景観条例は自主条例なので、指導といってもお願いに過ぎない。

さらに、千葉市のコンテクストってなんだろうかといわれてもなかなかわからない。千葉市の市民に共有されたコンテクストがないという難しさもある。

今、景観法にもとづいて景観計画をつくるところで、条例改正も行おうとしている。そこで、あたりまえでないものをこの条例のなかでコントロールしていくか、あるいは欠如しているコンテクストをどう創出あるいは誘導していくかという議論をしているところである。

もうひとつは、まちづくり条例であるが、これも大規模開発のコントロールをしている例を挙げる。冒頭でマンションの写真をお見せしたが、ああいうマンションをきっかけとしてつくられた府中市の条例だ。府中市の条例は大規模開発のコントロールだけではなく、地区のまちづくりを進めて地区計画をつくっていこうなどとも書いてある。

私自身がかかわっているのは、大規模土地取引の届出、大規模土地利用構想の協議という部分で審査会のメンバーとしてずっと関わっている。

この大規模開発のコントロールについては、大規模な開発をするときには事前に届出をして下さい、といっている条例、あるいは開発指導要綱としてやっているところもまだ多い。そういった自治体は多いのだが、府中市はむしろphase1に特色があって、大規模な土地を取引する場合は6ヶ月前までに市長に届け出をして下さいという珍しいというか、変わった項目をつくっている。府中市内、先ほどの写真でいうと大企業の工場がまだいくつもあるし、ちょっと郊外なので企業の運動施設といった福利厚生施設が用途転用されようとしたり、農地が宅地化されたりということがまだ続きそうだということで、事前に察知する制度を条例の中で位置づけている。これは農地であろうと企業の土地であろうと、5000㎡以上の土地取引では届出をしてもらう。

それから、phase2と書いているのが土地利用構想、実際に建設をする、宅地分譲をするというときに、利用構想を3ヶ月前まで、かつ計画変更可能な時期までに公開して協議する。1のほうはいろいろと懐にかかわることなので公開ではやらない。市のなかでやるだけだが、2のほうは完全に審査会も公開するし、必要に応じて公聴会等も開くという制度になっている。

これがその条例のスキーム(パワーポイント13)だが、一番上のこの部分が大規模土地取引、この期間が結構長くて、大規模開発の手続きというのは少し長く書いているが、開発事業に先立ってという意味ではかなり前に行われる。この図は、去年都市計画学会誌に出ているので、詳しくはそちらを参照されたい。

今日のテーマである「あたりまえであるもの」「あたりまえではないもの」に引き寄せて考えてみると、ここでの協議プロセス、わかりやすい具体例として府中市の国立大学跡地の払い下げについて話す。

都市マスタープラン、それから用途地域上は中高層の住宅地である。というところで、あるまとまった敷地が払い下げられる。中高層の構想がありながら、周辺は2階建てを中心とした低層住宅地である。住環境をまもるためのまちづくり活動が始まっていて、地区計画導入を検討しているマチである。他に都市計画道路の線が入っていたりするので、住民の意識としては高かった。そういったところが、国のほうから競売に出すということで、国であろうとちゃんと市に届けてもらうということで、届出があった。その届出を受けて、土地利用調整審査会で議論をして、構想としては中高層の住宅地を目指しているのだけれど、現状は2階建ての小さな戸建住宅が多いところなので、そこに配慮して下さい、そして、まちづくり条例のなかで府中市はこういうことを位置づけているので、開発事業にあたってはまた事前にちゃんと届出をして下さい、ということを国にお願いした。

これが入札案内書の物件調書に書かれる。一般の土地取引でいうと重要事項のひとつになったということが、払い下げにあたってなんとかがんばれたひとつの根拠である。

ここで「土地に関する権利を取得する三ヶ月前までに土地利用構想の届出を提出し」という文言が書かれて、審査会で出した指導内容として、周辺に低層住宅地が形成されているために、利用計画の際には周辺環境に配慮する必要がある等の助言がなされているということを書いてもらえというのが、ひとつ大きなポイントになると思う。

そしてphase2の大規模土地利用構想のなかで、最初の案から徐々に変わっていく。ものすごい回数の住民説明会や公聴会をしたり、非公式に役所がなかに入っての話し合いをしたりして、A案からC案に変わってきた。最初は容積率200%のところで、199.9%とほぼ使い切り、最高の回数が12階という計画が出される。最終的に落ち着き先としては、もう完成しているのだが、C案、やや容積率が下がって、それでも188%とかなり使い切っているが、最高階数が8階で2/3になり、高さも35m位が25m程度に落ち着いた。こういう協議の成果があげられた。

これは平面図だが、一番高いのが南の端、この辺が最初は12階だった。また地形が非常に悪く、この飛び出した盲腸の部分を当初は戸建3個分の宅地分譲という計画だった。最終的には、青いところは8階建てに落ち着いているし、戸建分譲というところはオープンスペースに変わった。それからデベロッパーはある部分自分たちがかぶるということで、非常に条件の悪そうな住戸をいくつか入れて、それでも住戸数をあまり減らさないところが

デベロッパーのすごいところかもしれない。

これが当初の戸建住宅地にこれだけの壁、12階建ての34mが建つところが、少し下がって10mくらい高さも低くなったというところで、条例の手続きを課すことで一定の成果が得られたのかと思う。ここまでやらないと、最初にお見せしたようなマンションの問題は解決できないところまで、実はきているのだという気がする。できたマンションはこんなものだ。

おそらく後で、小浦先生から敷際という話が出ると思うが、少しセットバックして歩道を自主的にちゃんととって頂いて、共用庭じゃなくて個人の一階のお住まいの方の庭と駐車スペースになっていて、それなりの沿道空間になっている気がする。ここが最初3戸の戸建住宅が計画されていて、建っていたら大変だと思うが、オープンスペースになって公開された。

この協議プロセスで、求められている役割というのは、コンテクスト、周辺の市街地にできるだけ摺り寄せる役割を果たすことができるだろう、それからこの条例の特徴でもある、早い段階から周知し議論を始めて調整するということが、この協議プロセスをかませることで成り立っていくのだろうと思う。

ただ今までお聞きになって、ちょっと待てよと思われた方もいらっしゃるかもしれないが、マスタープランなり将来構想としては中高層を目指すんだと言っていながら、周りは低層だから低くしなさいというのは、ある意味行政の側で自己矛盾をもっているということで、これは都市計画の問題だと思うが、これはマスタープランの位置づけ自体が本来考え直さなければならないのかと、やや反省している。

もうひとつは、どうしても大規模な敷地が中小の敷地に紛れ込むというのはありうることだが、ではそれを細分化すればよいのか、そしてあまりよくもない戸建を建てるのがよいのかといえばそうでもない。そこに結論をもっていくのもどこか間違いがある。そのへんは私も答えが見つからないので議論をしたいところだ。

ここまでは私が都市計画屋なので、都市計画の視点からコントロールするということでルールの話をしてきたが、お手持ちの資料集のなかで「あたりまえのマチをつくる」というパートのなかに他に2篇の投稿論文があって、1篇は関西大学の江川先生が設計者の視点からかかれたものがあり、その中でふたつのキーワード「親空性」「親街路性」を示され、特に集合住宅団地のあり方について書かれている。もうひとつはURの千葉さんが書かれた、事業者としての視点というか、密集市街地の連鎖型の都市整備の話が書かれている。これは密集市街地ではないが、有名な代官山のヒルサイドテラスだ。一人の建築家が長い年月をかけて連鎖的に街並を構成していった、日本で一番有名な例である。もうひとつは、東オオトシ、大阪の寝屋川市のスクエアタウン、密集市街地のどまんなかのアンコの部分にこういった集合住宅、それもあまり巨大なものではなくて、3階建て4階建てくらいのスケールの集合住宅をいくつか連鎖的に埋めていくというような手法について書かれている。

まとめたい。あたりまえのマチをつくるためにということで、ひとつは数値化できる要素というのは予防措置をとっておく必要がある。これは都市計画制度が不十分なので、プラスアルファのローカル・ルールをつくらなければならない。そういったものと、一方でマチの適切なコンテクストやグレインをどうやってみんなで共有していくか、そういう議論の場をどう設定するか、あるいはもう少し広くいうと、そのマチの規範や将来のビジョンをどうやって構築して明確化するかというのは、今後われわれ都市計画の人間に課された大きなテーマ、ずっと大きなテーマでずっと課題が続いているのかと思うが、解決しなければならないものかと思う。

私のプレゼンテーションは以上である。どうもありがとうございました。(終了)                            

 

(2)「敷地境界を消す」田中友章先生(フォルムス):

私は設計者なので建築計画の研究者ではないので、体系的にリサーチしているわけではないが、先人の事例を参考にしていると、これはと思う、先導的な事例を見つけることがある。今日はそれをみなさんと見ていくなかで、今日のテーマを考えていきたい。

実際に敷地境界を消すことはできないが、一見見えないかたちで整備したり、本来だったら敷地境界がでてしまうようなケースで敷地境界なしでつくっていくという事例について、少しはなしをしていきたい。

先ほど杉山先生から趣旨説明があったし、今の野沢先生のお話にも共通すると思うが、住宅を中心とした市街地の整備・更新を考えていくとき、いくつかのテーマがあると思う。周辺環境との調和、街並みの連続性の確保、多様なコモンスペースの内包が求められていると思うのだが、なかなかうまくいっていないということだ。

今日のプレゼンテーションでは、こういう場合に複数の敷地区画を協調的に整備して住宅群をつくる、これは集合住宅群でも戸建住宅群でもよいのだが、こういう場合のことを考えてみたい。そのときに先導的な事例をいくつかとりあげて比較することで考えてみようと思う。

今日お見せするのは11事例ある。赤く塗られている6つの事例が、私の資料集の原稿に取り上げているものだ。

考察にあたって、まずどういう集合形式にするか、どういう方法でそれを生み出しているのか、あるいはどういう配置計画で空間を作り出しているのか、結果としてどういう空間像ができているのか。それぞれどれをどういう順番で考えるということではなく、総合的に考えていくのではないか。これは事例を見た後考える、もしくは後半のディスカッションで議論してみたい。

まず、どういう開発手法、方法で生み出すのかということから考えてみたい。ある区域、敷地のエリアがあったとき、ふたつの方法があると思う。ひとつはそれを複数の敷地区画に分割して住宅群を建てる方法、もうひとつは敷地を一敷地のまま建てるという方法である。前者については、そのまま接道をちゃんととって、例えば間口が大きい敷地であれば接道をとったり旗竿敷地を設けたりして敷地を分割していく方法があろう。なかなかそうはいかないので、開発道路や指定道路を引き込んでそれに接道して敷地を分割する。あるいはそのなかにコモンとなる共有地を設ける。この三つ位のやり方があると思う。

次に一敷地の場合は、一建物を建てて建築基準法上共同住宅、東京都であれば安全条例の対象になるが、そういうものをきちんとたてる。あるいは長屋建、これは基準法上、共同住宅より若干緩やかな規制がかかっているが、それをうまくつかう。三番目は一敷地に複数建物を建てていく。これは基準法86条の対象になるものを建てることで、でかい団地もあるだろうし、後ほど紹介する連担建築物設計制度もこれにあたると思う。

一般には先ほどお話したように、定型1の場合でやる。これはミニ開発に代表されるもので、マンションも含めた定型2が中高層、これが今世の中で建てられているものの9割くらいかもしれない。定型の話ではなく、定型を超えるにはどういう可能性があるのかということで、いくつかの事例をお見せする前に便宜的にこれを三つにわけて話を進めたい。

ひとつは協調的発展タイプ、これは具体的には定型1を発展させたようなイメージである。2番目は創造的変形タイプである。3番目は連担建築物制度の活用である。この3つのタイプについて事例をみていきたい。

ひとつめの協調的発展タイプというのは、ミニ戸建というパターンでよいのだが、敷地分割をして6つとか9つの住宅を建てるとき、ただバラバラっと建てるのではなく、この中にある協調的なルールを持ち込んだり、例えばコーポラティブ方式みたいなものを供給することで、一定のまとまりのある整備をするというようなものだ。このような事例をいくつか見ていきたい。

【事例1】川崎市宮前区桜坂

地主の意向で既存の豊かな緑をできるだけ残した。定期借地権を全域にかけて9棟の住宅群を供給した。「道ひろば」というコモンスペースをとり、建物はあまり見えない。建物のデザインよりもコモンや配置のデザインが重要な計画だった。薄いグレーがある種のコモンスペースで、左側のダークグレーの部分は開発道路を入れて5つに分割した。残った部分は地主のもので、大きな木が植わっている。同時に無電柱化もしている。そういう形で全体の開発をした。

【事例2】資料集2の野川エコヴィレッジ

これはある企業の社宅跡地をコーポラティブ方式で9棟の戸建分譲をしたもので、これは非公式で民民の協定として環境協定を定めて、そのローカルルールに基づいてそれぞれの住宅を開発している。それによって植栽やセットバックの基準やペーヴメントの一体化などなど無電柱化も含めてやっている。真ん中に開発道路が入って、回転広場があってミニ戸建と同様に9棟の住宅が連なっているが、これを協調的に整備している。加えて、コーポラティブなので建設組合をつくって供給している。配棟計画図を見ると、ここはグレーの部分はセットバックなど整備の基準が決まっているので自由にならない。実際、一体的に建物のファサードなども統一しているのでもっと広いエリアになるが、そういうところがコモンとして囲まれている。手法自体は簡単で、これが開発道路で、基準に合わせてつくっていて、こういう空間を生み出している。

【事例3】

同様のやり方としては資料集にも投稿されているが、ナラアオヤマのコーポラティブ住宅も基本的に同様のやり方でつくっている。これも真ん中にかなり大きい共有地を設けて、敷地分割をしている。具体的には配棟計画をこのようにやって、実際にはこのような区画割となっている。この場合も、ある種の協定を求めているので、協定のエリアを敷地をはみ出すようにルールが決まっている。

 

今までお見せしたのが協調的発展タイプであった。次に、創造的変形タイプと私が呼んでいるものをいくつかお見せしたい。これは先ほどお見せした1と2の定型を少しこんな風にしたらこんなこともできるぞと知恵を絞って創造的に変形させたものと考えている。例えば、普通だったら1敷地でできるものをわざわざ敷地を分割する。普通だったら複数建物になってしまうものを1建物として、うまく確認申請をとって建てている。このタイプは建築家が主導的に関わっているものが非常に多いというのが特徴で、それによって空間像が担保されている部分もあると思う。

【事例4】アパートメント鶉

最初の事例は、資料集の鈴木さんの論文にも取り上げられている、アパートメント鶉である。これは東京都内の豊島区にある、施主自宅に12戸の賃貸住宅を併設されて計画されたもので、中庭を囲むようにたくさんの住宅が建っていて、ギャラリー、ビオトープ、路地空間をたくさんもつ計画である。路地空間が一体的に整備されている。実際に行ってみると、まわりのコンテクストに非常に配慮して設計している。グレインもそうだ。共用空間が間のスペースに展開している。これを実現するために、このような区画割りをしている。これは要するに1敷地1建物の原則でいうと、住宅長屋長屋と建てていけば、それぞれが敷地に対して接道をとって基準法を満たして建っている。ただ実際に行ってみると、敷地境界はほとんどわからない。もしかしたら、工事をしたときには境界杭をうったのかもしれないが、それは問題ではなくて、むしろこういうものを実現するには今の法規を満たすと、こういうやり方がひとつあるよねと思っている。

【事例5】アビタ戸祭

次にお見せするのは、資料集の寺岡先生が紹介されているが、アビタ戸祭りである。これは大きな住宅の跡地、建替えに際して4棟の住宅分を位置指定道路を入れて計画したものである。これは配置図を見れば、ここに位置指定道路が入っていて、4棟の住宅が建つわけだが、もともとあった住宅の樹木をできるだけうまく残したり、移設したりしながら計画した。既存の大きな木を植え替えないような配置計画である。もうひとつの特徴は、2階レベルにテラスが連続して行き来できるようなコモンが2階デッキ部分につくられている。

あともうひとつは、位置指定道路とこの部分を一体的にコモンとして整備しているということだ。実際の敷地割りとしては隅切りなど位置指定道路が入って、4敷地あるわけだが、それを全体として計画している。加えて、上のレベルが連続したテラスであるので、居住者の人たちがOKならば、一緒に行き来してコモンのように使える。

これも3人の建築家が一緒にグループで設計されているわけだが、こういうのを一体的に設置して満たすということだ。

 

この二つは敷地分割したものを少し発展させたものといえる。次に、一敷地でやっているものをお見せする。

【事例6】ネイキッドスクエア(資料集にあり)

これは大阪府住宅供給公社が定期借地権を設定したうえにコーポラティブ方式でつくったもので、37戸の住宅である。実際は別々の住宅が2重壁で接続しているので、1敷地に長屋建1棟で建っている。実際はほとんど1建物とは思えない。ポーラスに通り抜け通路があり、真ん中にオープンスペースがある。空間構成としては一筆書き上の街区がにょろにょろとあるので、ひとつの建物の中にオープンスペースが内包されているものだ。これは1敷地に長屋建で必要とされる4本の通路を設けて、そこに全ての入り口を接道させて計画している。よって、普通で言えば分割してこういうスキームをやるわけだが、一筆のままやっている。ただ、定期借地権の設定は戸別にやっている。

【事例7】ステージハウス等々力(資料集にあり)

世田谷区の11棟の供給例である。これも先ほどと同様、1棟建であるが、こちらは共同住宅である。地下に駐車場があって、コンクリートの人工地盤のうえに11棟のツーバイフォーの木造住宅群が立ち並ぶ構成である。ここは風致地区・1種低層なので北側斜線や敷地境界からのセットバックなど規制が厳しいが、1敷地とすることで、効率よく設計ができる。真ん中にコモンをとる構成になっている。これは非常に単純に敷地建物を構成している。

 

以上お見せしたのが創造的変形である。

 

(3)連担制度

最後に連担制度を活用したタイプをお話したい。みなさんご存知のように、連担建築物設計制度は1989年に創設されたが、住宅群の整備にももちろん使える。これは一定の基準を満たした、これは特定行政上ごとに認められる認定基準を満たしたものに対して、総合的に設計されたものについては1敷地に既存の建物を含めて、1敷地にあるものとみなして前進的に建設することを認めるという制度だ。

これを住宅群の整備にどう使えるかということを話したいが、残念ながら例は非常に少ない。唯一といっていいほどのものだが、京都市にいくつか実現例がある。京都市が定める袋地再生、これは他にお詳しい先生方もいらっしゃるので後で補足して頂きたいのだが、これにそってつくったものだ。実際、摂動に問題のあるところで合意形成をして、認定基準に合わせて計画をつくって整備をするというのはなかなか(テープ交換のため録音なし)

これを建替えて、実現した空間としては普通の建物がやや雑然として建ち並ぶ感じだ。ほとんどコモンスペースもなく、普通の住宅地のミニ戸建と変わらない。ほとんど要求されている通路だけがあって、コモンのようなものがない。

本当はこの制度はもっと可能性があると思われるが、現時点ではこの程度の整備しか進んでいないのが現状である。

 

そこで次にお見せする事例は、住宅群の整備ではないのだが、連担制度をつかって、私が今までみたもののなかではいいなと思うものである。それは長野市のパティオ大門という建物である。

【事例8】パティオ大門

善光寺のすぐそば、蔵が残っているところを再生した事例である。ごらんのように角地だが、木造4階建未接道建物を含む13棟で、既存不適格だらけである。上の写真のような状態だったものを下の写真のように整備した。これは連担制度をつかって既存のものを認めながら、一部引屋等してやっていく。

長野市は独自の認定基準をもっておらず、既成の東京都のものなどに準拠して認定した。これは認定計画書だ。イエローのものが既存の建物、白いやつが新規に整備した建物である。この赤いのが連担制度の認定基準にある通路、これにそれぞれの敷地がぶら下がっている。こういう形で次の写真にあるような空間がなかに整備されている。

私は実は以前、連担制度をつかって東京都で建築群を設計しようとしたことがある。なかなか基準と合わないといろいろもめたことがあって、それを見るとパティオ大門は目からウロコがでるようにすばらしい。特定行政庁ががんばるとここまでできるのかと思った。

さらに細かくみていくと、例えば通路はこのように緑あふれる階段もあって、ちゃんと建物の間隔は4mとれているけれども避難もできる。こういう路地のクオリティ、もともとあったよさをうまく活かしながら整備をしていく。こういうような形でもともとあったよい資源を残しながら、コモンスペースをとるといった整備をしている。さらに実際は、連担で求められる幅4mの通路を確保し、そこに建物を配置する。こんな変な形では危ないじゃないかとおっしゃるかもしれないが、実際によく見ていくと、建物1階部分のピロティで逃げられるし、細い80cmの通路があるなど、逃げられるルートは相当多い。そういう意味では、基準で求められているものに対応するものはこれだけれども、それを超えるスペックのものがいろいろ準備されている。そのような総合性のようなものを、こういった制度のなかでうまく活用していくのは大いに可能性があると思う。

 

連担の可能性を見ていくために、連担制度を使ったものをさらに2例みていく。

【事例9】

ひとつは都市建築の発展と制御にかかわる設計競技で最優秀を頂いたものだが、これもの連担制度をつかって3棟の住宅を建てている。詳しくは発表されたものをご覧ください。これは川崎市の実在の敷地で設計したもので、先ほどお話した認定基準が非常に厳しく、このままでは建てられない。よって、より好ましいと思う認定基準の骨子を提案して、それに合わせて設計をしていくというものだ。だから基準のつくり方によって、非常にいろいろな可能性がある。3棟あるなかでも避難経路、ポーラスな空間構成をしながら、まんなかのコモンスペースをとっていく。

もうひとつ連担で可能性があるところは、この敷地はもともとは公営住宅の跡地であるが、これをがさっと一気に建設してしまうのではなく、全体を計画しながら漸進的に順番に建てていくことだ。

【事例10】幸町プロジェクト

最後にもうひとつだけお見せするのは、設計案である。川崎市では2005年に、密集市街地住宅型という認定基準をつくった。これは密集市街地の6地区のみで使える制度だ。通路の要件などはだいぶ緩和されている。それにあわせるとどういうことができるか、というのを試設計したものだ。

こういう接道のなかで、4棟を建て替えていくもので、これは実際に動いているわけではないが、特定の敷地において川崎市の連担の基準に準拠した形で設計したものだ。こういうものも可能になっている。

【事例11

これも実際1敷地で4棟が取り囲むようなコモンスペースがあって、京都もののようにL字に通路をとって、ここにも実際に抜けられる細い路地があり、1階部分のピロティで逃げられるという形で設計している。これもダークグレーのところが認定基準の通路、それにかぶって生まれているコモン、それに接して4棟が建つ。こういう空間が可能になるのではないかと思った。

今まで、こういう3つのタイプに分けて11の事例をみてきたわけだが、私が言いたいのはどれが優れたタイプとかどのやり方が定番だといいたいのではなく、それぞれに可能性があるといいたい。それぞれに共通する事項がいくつかあるのかなと思ったので、簡単にまとめてみたい。

ひとつは、一体的な空間像をともなうような敷地計画がなされているという点である。これは例えば囲み型、分散型の配置であったり、それによってとり囲まれるコモンであったり、そこに面する部分が統一的に外観や外構がデザインされるということが言えよう。

ふたつめは、協調的整備を推進するしくみがあって、それをうまく複合的に選択して使っているというものだ。ひとつは整備方針や協定等をつくって、それに基づくまとまりのある整備をしていくというもの、もうひとつはコーポラティブ方式をつかっているものが多いということ。コーポラティブ方式をつかえば、整備をしていく過程で協調的整備について話し合う機会を持つことも多いし、そういうことを持ち込みやすい。これは協調的整備のためのしくみと考えている。それから、創造的変形タイプによくみられるが、一人の企画者・設計者が全体に目配りして担当している、そして結果についても担保する。

三番目に、まとまりのある整備を支える事業手法が使われているものである。ひとつは例えば定期借地権、底地を分割しないで複数の住宅をつくる手法としてありえる。二番目はコーポラティブ方式で、この場合は事業方式という意味で、建設組合をつくって一括でうわものを発注していくという意味でこういうものにも可能性があろう。

そこまでいかなかったとしても、例えば外構部分や斜面地の基礎部分などを一体的に発注したり共同は注したりするのも、可能性かなと思う。今ご説明した3つの要素を、これも定番があるのではなくうまく選択をしながら、敷地の特徴や獲得したい目的に合わせて、非常に目的指向型に活用するのではないかと考えている。こういう敷地分割、いろいろな方法をとっているわけだが、これはこういうふうにとったからよい住宅ができる、ではなく、こういうものをつくるためにはむしろこういう方法がいいのか、ということである。

最後にもう一点付け加えると、敷地の境界に依存しない形でコモンをつくる等、ある要素が全てを律するのではなく、コモンが敷地を越えたとき、結果としてあたかも敷地境界がないような形にしていけるのではないか。これが敷地境界を消されている状態なのかと思う。そういう意味では、最後の連担制度もうまくつかっていけば、今後いろいろな可能性があるのかなと思っている。

先ほどの3つの要素をうまく相互につかっていくことによって、こういう敷地境界を消したり、さらには全体を整備したり、それによって住宅とマチに良好な関係を生み出していけるのかなと考えている。

以上で発表を終わる。

以上

 

(3)「コミュニティをしかける」小浦久子先生(大阪大学)

 

それでは「コミュニティをしかける」ということで少し話題提供をしていきたい。

ここでコミュニティといいながら、くらしをつなぐ空間を仕組むというタイトルで資料集のほうにも書いているが、住まいというものがもっている公共性から、いったいコミュニティをしかけるというのはどういうことかということを考えていきたい。

これまでの二つの話を聞いて思い出したことがある。初めて高田先生と一緒に言った役所の委員会で、初めてキレたのだが、あるマンション業者、非常に初期からいいマンションをつくってきた商社の方が「最近は大きな敷地がないからまちづくりができない」と言った。では、大きな敷地を仕入れてそうして全部自分でやることがまちづくりなのか、とキレたわけだ。つまり、ひとつひとつの住まいをどういうふうにマチのなかでつくっていって、それがどういうふうにつながっていくか、そしてそこにコミュニティが現れてきて、結局その状態が形にでてこなければコミュニティではないだろうというのが基本にある。

というわけで、コミュニティをしかけるとか仕組むというのは、必ずしもそういう共同のスペースをつくるとかコモンをつくるというプロジェクト型だけで実現するものだけではなくて、もちろんそれもひとつの方法論としてあるわけだが、一般的な市街地、つまり野沢先生が最初にお話されたようなアタリマエのマチをつくるというのは、ひとつひとつの敷地が個別に動いている。ひとつひとつのものが動いていくときに、どうやってそこにマチをつくっていくのか、そこに人と人の関係をつくっていくのか、そこに集まったときの結果としての環境をどう質として担保していくのか。そういったところが形にあわられてくるなかでのコミュニティをしかけるということなのではないか。

つまり、住まいというのは居住空間としては非常に私的な空間である。けれども、ひとつひとつの住まいをつくるということがまちなみをつくることでもある。そこには相隣関係が生まれてくるし、ひとつひとつの住まいが集まることによって地域のひとつの環境が構成されてくる。ひとつひとつの住まいをうまく管理・メンテナンスすることで、地域環境というものの質が保たれていく。つまり、ひとつひとつ住まいをつくりメンテナンスをするという行為が、そのコミュニティ・その地域に形となって表れるそれが、ひとつの環境をつくっていくと考えていく。

だから、コミュニティをしかけるとは、ということに対して、先ほど杉山先生は前のふたつは空間からと解説でおっしゃったが、私はやはり空間のかたちから考えてみたいと思うし、そこにあらわれてくる、それをつくるのが一個一個の敷地で建てていく建築物ではないかと。

ではそういうものをどういう視点で考えるかということで、とりあえずふたつの視点を設定してみた。それは近隣との関係、気遣いがわかるような、あるいは誘発するような住まいの作り方はなんだろうか、ということである。もうひとつは、個々の住まいの関係性を調整するような空間の作法というものがあるのではないか、ということだ。そういう視点からみとたきに、それが例えば先ほど野沢先生がおっしゃったような条例であったり地区計画であったりというような、制度的なしくみをどうのせていけるのか、その前の段階としての空間のかたち、作法というものを探し出していく、そこにコミュニティというものが見えてくるのではないか、という視点で考えてみたいと思う。

それを三つのかたちとしてみていこうと思う。

ひとつは建築物と建築物の間、そこは道コミュニティにしたが、道というのは道ができて敷地が決まって、建物が建つと建築基準法的には考えられるのかもしれないけれど、しかし普通に生活している空間としてみれば、それは建物と建物の間である。そこには緑があったり、道があったりするわけだが、そこを介した、建物と建物の間のコミュニティというものを考えてみようというのが一個目の視点だ。

それから、二つ目が、同じことだが、建物と建物の間は道だけでなく、敷地の中の庭やバックヤードや隙間といった、いろいろところに空間がはめ込まれてくるのだが、そういった空間の型と住環境の関わり、つまり、あまり基準法のなかとか都市計画の制度上も扱いにくい、配置であったり空地のルールというものをいかに読み替えながら、いかに関係性をデザインしてくかというところを見てみようというのが二つ目である。

三つ目は、今個々に建物が変わっていくとき、そういう住まいの変化をどうつないでいくかという手がかりを探しみようというところを見ていきたい。つまり、大きなプロジェクトで共用空間をつくったりコミュニティスペースをつくったり管理のしくみをつくったりというのは、資料集にもたくさん出ていると思うが、そうではなくて私は都市計画の立場からいうと、一個一個の敷地が動くときに、どうやって普通のマチのなかでコミュニティということを考えられ得るのか、そのあたりを、そこを手がかりとした制度の作り方、デザインの考え方というものを考えていきたいと思う。

別に田中さんと相談したわけでは全くないのだが、間って何なのだろう、ということでわかりやすいものをもってきた。左側はミラノの大聖堂のあたりの地図だが、つまり図と地の空間、都市計画でみたとき、黒く塗られているところが建物がたっているところ、白いところが空地、教会は全て白である。つまりサイドのドアを開け放すと後ろも通れるということで公共空間なのだ。これはミラノ市の公式の市街地図、日本でいえば2500分の1地形図である。それと同じものがこういう形でつくられている。つまり、市街地の空間というものが、建物が建っているところと建物が建っていないところと認識されている。そういうように認識されていると、つくるルールであったり、全体をコントロールする、考えるしくみが、こういった空間認識から生まれてくるということがひとつ。一方、右側、これは大阪の船場である。白いところが道、グレーぽいところが敷地の中の空地、黒いところが建物の建っているところだ。日本の場合は、大阪の船場というのは400年以上前の城下町の骨格、街区のままであるが、マチ割をして道路と敷地をつくって、そこに建物が建っていく、そういう作り方になっているので、道と建物の間にこういった敷地の中の空地ができてくる。そうすると建物と建物の間を考えるときというのは、道と敷地の関係、道と敷地と建物の関係、そういったところを考えることが必要になってくる。そのひとつめが道でつなぐということだ。これは二項道路の路地を地区計画でルールを決めて、4mの道路プラス50cmのセットバックをとってそこを緑にしていくというかたちで道をつくっていくという例である。これもひとつひとつの建物が建て替わることによって、結果的に、環境が出てくる。

みなさんもご存知と思うが、永田の震災の後の復興まちづくりの中でできてきているところなのだが、 ここで延焼が止まった。ここまでは全焼した。このコミュニティロードができていて、ここで火が止まって、こっちは被害はあったが焼けなかった。こちら側は区画整理で、こちらは区画整理で道をつくって敷地を整備して一戸一戸建てた。こっち側は細かい路地、これは4mない二項道路だが、これをうまく活用しながら、路地のまとまりを活かしながら、まちづくりをしていこうというようなことだ。本当は密集市街地なので、狭小宅地の中の建替え更新をどうやってうまくやっていくかというルールがありわけだが、それを路地の単位で、路地に面する皆さんが合意することによって、舗装もみんなで決めて、いろいろな路地の舗装ができているのだが、そういう風なつくり方をしている。つまり路地の単位がひとつのものを決めていく、ものを考えていく、あるいは個別に建替えていくのだが、この空間をつくっている単位になっている。これを模式的に言うと、制度としてはまちなみ誘導型地区計画ということで、 高さを10mにして斜線をとばしている。近隣住環境制度、これは神戸市の条例だが、それで外側にこれだけ道があるので、道に囲まれている範囲をひとつの敷地としてみなすという考え方で、全部角地適用で建蔽率をあげている。そうすることで、狭小宅地の建替え更新を促進する。

それから町並み環境整備事業がはいっている。これによって中心性を決めるということと、ずっとここの舗装の整備というものができている。運用的には、路地に面する土地建物の権利者が合意することによって中心性を確定して、路地の舗装のデザインを全員で決めて準備ができるわけだ。そこにひとつひとつの敷地の建物がその部分のなかでつくっていく。空間から見ると、路地が居住者をつなぐてがかりになる空間になっていて、ある意味、共同性の空間単位をつくっていっているということだ。マチのなかというのはベターっと用途地域、都市計画の範囲で非常に大きい。だけれども敷地になると、基準法のなかで中に閉じこもってしまう。やはり敷地と敷地をつないでいく、そういう空間単位だとか、ものを考える単位というものを、どれだけ小さく考えていくかということがひとつ、コミュニティを考えていくうえでの手がかりではないか。神戸市の近隣住環境制度というのは向こう三軒両隣が基本単位でよいと言っていて、路地の単位といった小さな単位でみんなで合意することによって、基準法の中に書かれている「ただし」や「など」といった一連のものを飛ばしていこうというなかで、望ましい空間、 先ほど田中さんがおっしゃったようなことを、一戸一戸の敷地の建替えのなかでどこまでがんばれるか、というようなことをやろうとしている制度だ。なかなかできない。たとえ向こう三軒両隣が6軒でも、合意するのが今の都市部のなかで非常に難しいというのが現実としてある。今回のこの場所のように、被害を受けて、同じような建替えの必要性だとか、同じ時期に同じような行為をするときに初めて合意

というものが進むが、ばらばらの動きのなかでは難しいというのが既成市街地の実態だと思う。

次に同じ空地のなかでも敷地の中の空地も大きな手がかりだというところからみていきたい。これは京都で、京都は特殊ではないかと思うかもしれないが少し聞いてほしい。これは京都のど真ん中の、カマザワというところのビルから見たところであるが、こういう小さな後ろのお庭だったり、後ろのスペースが、建て方が安定することによって、つまり敷地の中の建物の配置に作法というか、型があることによって、なんとなく空地がつながっていく。それによって、通風や採光が相互に確保されるという生活環境の質というものが生み出されている。これが敷地を使うときに建て方に型があるときの全体像としての環境を担保できるというものだ。ところが、ここに建ってしまう。これは大体高さ問題として議論される。しかし本当はむしろ、空地の配置が変わったり、コミュニティの型を崩したり、そういったことのほうが、長期的には問題が大きいと思っている。空地の配置からみると、これは道路から大きくセットバックして建っている。だから町並み的には、連続する表のファサードラインを分断するし、もちろん高さも高くなる。しかし、前に空地がとられて後ろの空地がなくなるということは、先ほどのこのマチが持っている、建物の建て方の型を変えるということによって、相互の関係性が変わって環境の質というものが維持できない。 

もうひとつは、京都の場合、二つのタイプの街区があるが、両側町になっていて、道を介した両側の敷地がひとつのお町内をつくっている。そこに対して、お町内をこのように敷地がたっていく。このように敷地をコントロールできない、今の日本の制度化ではコミュニティを壊していくような、ものの建て方というものができている。これは大きな敷地ができる、あるいは大きな敷地が極端に細分化されるというふうに、敷地のコントロールがなかなかできないということは、ひとつ、建物の建て方、順番に建替わっていくときに大きく市街地に影響を与える要因だと思う。

当然こういった、これは船場だが、マチのなかでも住まいと言いながら超高層が建っていく。果たして、住宅地でも都心でも同じだが、敷地とマチをつなぐルールが、そのあたりがなかなかうまく今の一般的な制度のなかではできない。だからそこでやろうとすると、景観条例に基づくルールであったり、地区計画になってくるわけだ。

これは先ほどみて頂いた、路地が交換単位になってルールができるよといった地区の北側になる。ここは景観条例に基づく、景観形成市民協定家並み基準というものをつくっている。ここで赤い字で書いてあるところだが、隣同士の隙間をできるだけ狭めるようにしましょう、つまりゼロロットで建てるほうがいいよと言っているわけだ。普通これを言うと、住宅地というのはできるだけ周りに空間を空けてつくると考えがちだが、こういう狭小宅地の場合、隣同士を狭めましょう、その代わりに前と後ろに空間をとりましょう、とする。つまり、空間をまとめて、それは先ほどの京都と同じだが、後ろ側にまとめて空間をとるほうが、中途半端な隙間のような、隣接敷地との間に隙間をとって、開かずの窓をつくるよりも、結果的には集合体としてのマチの環境がよくなる。つまりコミュニティ全体としての住み心地がよくなるということをみんなで決めたということだ。しかも道路に面した生垣以外の塀や柵も設置しないようにしようとしている。できるだけ道とセットバックしたところに緑で一体感をつくることによって、空間としての質をつくっていこう、そういった生活の環境であったりとか、共通できる道の空間であったりとか、そういうものの質を一戸一戸の建物の建て方であったりとか、一戸一戸の建物の配置、それから空いたところの敷地の建物の建っていないところの空間をどのようにつくっていくか、ということによって作っていこうということを決めているわけだ。どうしても建物をどうつくるかということについてはいろいろな基準やルールがあるが、建物を建てないところをどうつくるか、あるいは配置をどうするか、敷地をどうするか、それを道とどうつなぐか、それを全体像としてどう空間像をつくるのか、そういったところがなかなかうまく今の都市計画の制度のなかで表現しきれない。いかに表現していくか、いかにそれをみんなで共有化していくか、というのがひとつのこれからのコミュニティをつくっていく、つまり、みんなでやるというところがコミュニティをつくるということになるのではないかと思う。ばらばらのものが集まることによって、ある種の空間ができる、環境ができる、つまり集まるというところを仕組んでいく、つくりかたを仕組んでいく、というところがコミュニティにつながっていくのではないかと思っている。それは結果として空間にでてくる、あるいは空間像をもつことによってみんなで考えることを仕組んでいける、ということがあると思う。

これはよく見る空間だ。一戸一戸の敷地が動くと、こういう風になる。もともと古い長屋があったりしたところが、個別に建替わっていくのもあれば、マンションになるのもあれば、ミニ開発になるのもある。これはごく普通の市街地である。あたりまえのマチをつくっていると基本的にこうなるわけだ。激変緩和をやめてもこういう商品住宅はできる。これは京都大阪神戸の各地区のミニ開発はこうなっていく。地域性も消えていく、マチとの関係も薄れていくなかで、一番敷際に手がかりがあるのではないか、と震災の後、いろいろとこうなっていくなかで調査したときに、庭があるタイプというのがどんどん、本設、昔からある建物、新設、新たにつくられた建物、建替えられると庭がなくなって駐車場が増えて、敷際がオープンになってくる。これはある程度しかたがないと考えたときに、それでも何かつなげないかというのが、手がかりになってくるのではないかと思う。敷際をどのようにつくっていくのか、メンテナンスしていくのか、ということを一戸一戸の建物が建替わっていくときに隣との気遣いであるとか、相隣の関係であるとか、心遣いであるとか、そういったものが目に見える形で現れてきているのがある。それが景観になったり、地域の特徴にもなったりしていく。だから、一戸一戸の建物がどんどん変化していくときに、ひとつの手がかりとして敷際がある。これは多分建築を、うちの学生なんかとやっていても建物をつくることばかりに一生懸命になっていて、どうやって敷地をつかうか、どうやって敷地とマチをつなぐかという、このあたりというのは、意外と残ったところで考えるとなっているが、実はここから考えるということも、これからの住まいをつくっていくというところで重要な要素ではないかと思う。建物がある程度ぐちゃぐちゃになっても、つながる要素というものをお互いの気遣いとしてつくる、そこから新しいお町内会だったり自治会だったり、そういう人のつきあいだったり、お隣に植木屋さんが入ったからうちもついでにとか、隣のガーデニングの鉢がかわいいからこっちもとか、何かそういう話の種にもなる訳だし、こういった敷際を気遣っていく、それは日常的には別にベタベタするわけではないけれども隣を気遣う、そういうようなところをやはりつくっていく側も住む人に話していく、そういうことが重要だと思っている。

最後に、コミュニティをしかけるとは、住まいとマチをつなぐデザイン、住まいと住まいをつなぐデザインをどう考えていくかということだと思っている。それは町並みや地域の環境に関わる住まいをつくっていくことで、ある種の関係性をいろいろな、多様な関係性をはたらきかける、ということがコミュニティをしかけるということではないかと思う。それを結果的に空間のデザインとして提案し、それをルールに置き換えていったり、そのための小さな共同の空間単位のつくりかたの工夫をしたり、つくるだけではなく、ずっと顔の見える環境管理につながっていくような、そういうようなつくりかたの提案ということが重要になってくるのではないかと思っている。今後の議論のひとつの手がかりとしてお話させていただいた。ありがとうございました。(以上)

 

 

(4)「資産価値をデザインする」山下昌彦先生(UG都市建築):

純粋な設設計屋なので学術的な話はできないのでご勘弁下さい。私どもは設計屋として実際にデベロッパーと戦っている立場なので、これまでに伺った非常にレベルの高い話と比べてお恥ずかしいところもあると思うが、我慢して聞いていただきたい。

 

【事例1】杉並の住宅地

これは杉並の住宅地だ。35年住んでいて非常に好きなマチだ。ここを歩いているたび、これが本物のマチだろうかと思うことがある。敷地が塀に囲まれていて、その塀の中でお父さんがステテコ姿でゴルフクラブを振り回していると、それもなかなか外から見えないようなかたちにつくっている。いったん、相続がおきると、敷地が分割されたり、なかなか相続人が決まらなくて空き家がずっと続いたりすることもある。田園調布などで大きな問題になっていようなことで、皆さんご存知のとおりだ。

【事例2】幕張ベイタウン

幕張の写真だ。私自身15年間位のかかわりで、幕張ベイタウン1万戸中1000戸にかかわってきた。杉並の住宅地に比べるとだいぶ対照的なつくり方で、パリやアムステルダムの地方をお手本としてつくった。これは二番街で、これをふりだしに幕張ベイタウンで私は1000戸くらい関わったわけだが、この二番街では千葉大学の宇野さんと二人でデザインを行い、なるべく小さな建物の分節を心がけてデザインした。これは二番街公園西のマチである。右上の建物は隈賢吾さん、右下の建物は竹山聖さんに協力して頂いて建てた。ご両人とも外観デザインを手伝って頂き、やっていただいたのだが、なかなか中には入っていくことができず、内部は彼らに設計してもらうわけにはいかなかった。

これも幕張ベイタウンだ。右は集会室で、できるだけ開放的につくるようにした。右下は中庭の人口地盤の散歩できるようなスペースになっている。

これは一番最近にやった????という建物で、左側が隈賢吾さんが設計して下さって、右側は私がデザインした。幕張ベイタウンの場合、周辺の住宅地と比べて再販価格や販売価格も非常に高く、15年間くらい非常に人気がある。それは最初に整った町並みに魅かれて、外国帰りの商社マンなどが住んだりして、小学校のレベルも高くなり、それを目指して引っ越してくる方などが増えて、非常に人気になった。それでマンションの価値があがって、その余力でコミュニティ活動が盛んになるといった、どんどん相乗効果で人気がでて、資産価値としても非常に高くなったということだ。イベントなども頻繁に行われており、コミュニティ形成もうまくいっており、それがまた人づてに人気になって、どんどんどんどん資産価値としてあがってきた。中古になってもなかなか値段が下がらないという現象が起きている。

【事例3】アーバイン(ロスアンゼルス近郊)

これはアーバインというロサンゼルス近郊のマチで全米でも人気がある。これも全体をひとつの会社が開発した。非常にきれいなマチで、分譲住宅が基本的に中心で、コンドミニアム、日本で言うマンションもたくさんある。これはなぜ人気があるかというと、管理会社(association)がいくつもあって、100くらいあって、公共の緑とか戸建住宅の緑、集合住宅の緑など一括して非常に安い値段で管理してくれる。例えば、戸建住宅でときどきしか来ない人のためにメンテナンスをやってくれるアソシエーションもあったりする。いろいろなアソシエーションがある。ガードマンのような警備保障のアソシエーションもあり、いろいろな治安に気を配ったりいろいろなことをしている。台帳をみながら毎日パトロールをしている。これによってアーバインのマチの資産価値は全米のほかのマチに比べて大体200%位の、倍ぐらいの評価額である。幕張が先ほど高いと申し上げたが、大体2割ぐらい高いということなので、それに比べるとアメリカの場合は非常にダイナミックなことがおきている。マチを売る、住宅を売るとかマンションを売るとかというより、マチを売るということをやっているということだ。

 

ここで私どもがやってきたことを宣伝させて頂くと、敷地に閉じこもらないということで、なるべく周辺の模型をつくったりしながらいろいろ考えてきた。二番、なるべく建築・公共空間の連続・連携を図ってきたということだ。なるべくつなげようということをやってきた。三番、建築をできるだけ開くということをやってきた。これは集合住宅、マンションを設計するときに、できるだけこのようなことをデベロッパーに主張してきたということだ。さまざまな専門家との協働ということ、特にランドスケープアーキテクトとか、そういう方たちとできるだけ協働しながらやってきた。五番目にデザインを一生懸命それぞれなるように努めてきたということだ。

【事例4】外苑東通りプロジェクト

私ども右上の小さなところに本社が最初あって、最初はまわりにサテライトオフィスを借りていて、そういったことで周りの皆さんと仲良しになり、コーヒー飲みながら茶飲み話というか、会うようになり、私のところは建替えたいのだがどうしたらよいか、と相談をうけるようになった。皆さんで考えましょうよと、でかい模型をつくりそこにどのようにやろうかとうちの会社で土曜日などにやるようになった。その結果がだんだん実るようになって、青山タワープレイス、左上の上の建物ができて、それからTSビルという左側にアクシア青山という建物が2003年にできて、最後に青山一丁目の駅の近くだが、都営青山団地建替というプロジェクトもできあがった。これはもともとの敷地は全体がひとつであったり、二つをひとにしたり、みっつをひとつにしたりと、全体を大きくつくった。

【青山タワープレイス】

これは最初につくった青山タワープレイスだ。上は高級な賃貸住宅、下はオフィスだ。周りに公開の通路をつくって、誰でも通り抜けられるようにした。周辺のオフィスワーカーもここへ来てお弁当を食べたりしている。これが、できあがった三つの建物で、大体一番左が先ほど紹介したオフィスと住宅の建物で、真ん中は私どもの本社が2,3階に入っていて、4階以上は分譲住宅だ。一番右の建物は都営住宅の建替えだが、のっぽのビルは三井不動産の賃貸住宅だ。この賃貸住宅のあがり、儲けで右下の都営住宅の建替えをただでやった。外観をニュートラルな、オフィスと住宅の混在している地域なので、あまり生活臭のない、白っぽい薄い色でいこうというコンセンサスを得てやった。足元まわりはなるべく、エントランスや商業をガラスでつくってオープンにして、その残りはできるだけ広場や通路にして後悔しようと意図した。この辺りで私どもが一番自慢にしているのは、一番左を私が設計したわけだが、右と後ろの建物は既存だ。植栽を切り開いて、ぺイヴも石も同じ石を使って一体的な空間として整備しようと、右から左、左から右に通り抜けできるよう、縦横無尽に表から裏へ裏から右左に行けるよう通路を整備した。一部は時間が過ぎると、夜の間は閉じられてしまうところもあるが、昼間は基本的に開いているということだ。

【アクシア麻布】

これはアクシア麻布という建物だ。この建物は同じようなコンセプトでできている。地下鉄南北線の麻布十番駅の上にあり、駅の真上で駅からエレベーターで身障者対策であがってこられるというシステムになっている。玄関ホールや店舗が全部ガラスで夜もこのあたりを通過する人たちには光がもれてきて危険ではない。住人が自慢にしているのは外観で、個性的な人がたくさん住まれるということで、芸能人や色々なプロデューサーなどが住む。構造的に相当頑張っていただき、エムラさんという構造家だが、3階と4階、9,10階等の22階中4セットの中間の梁を抜いた。特に3,4階の梁を抜くのが実はすごく大変だったのだが、抜いて頂いて、非常に変化に富んだものになった。この階はオールメゾネットの住宅になっている。それを排することによって、いろんなタイプの住宅を用意して、それを外観に反映させた。それで全体としては白黒でかなりシンプルな感じで、少し個性的でありながらやや控えめでマナーを守っている、という表現を試みたつもりだ。内部は梁がないので開放的な感じにできている。これはクリアータイプといって、真ん中にガラスのお風呂が入っている。賃貸住宅ではかなりこういうことをやっているが、分譲住宅ではこれは非常に難しい。分譲住宅の悪口をここで言うと問題があると思うので差し控えかえがあるが、分譲マンションで色々な試みをするのは実は大変だ。ここでは相当色々なことをやったわけだが、案の定色々な問題がおきた。簡単に言えば、クレームという問題だ。青田売りという言葉があるが、出来上がる前にパンフレットで売ってしまうので、出来上がったものを見たときに、私はこういうつもりではなかったなど色々な問題がおきてしまう。模型をつくって十分説明してもクレームがでるのは分譲住宅の宿命だ。梁をあのように外周抜いている。マンションの構造はハイRCといって、60m以上の建物はみんなそれをやるが、単純にいえばコンクリートでつくる。だから、梁を抜くというのが非常に難しい。オフィスなどはほとんど鉄骨構造なのであまり実は難しくない。マンションの場合は構造的に特殊なことをやるのが難しい。工事費も非常に安いし、RCの限界もある。

これは展望集会室で、宿泊もできる。

【ベルリン】

最後にベルリンの話をする。これはソニーセンターだ。私自身ドイツに住んでいたことがあって、ベルリンに毎年のように行く。戻ってきてから18年、東西が融合してベルリンを首都にすると当時のコール首相が言って、そのときに今から17年前だったか、10年たったらパリのような街にすると言い切ってやり始めて、18年たったがパリにはなっていない。しかし毎年毎年整備が進んできていて、面白い街になってきている。リーダーはそうでなければいけないということだろう。

左側はソニーセンター、右側はクーダモというもともとの建物で、全体にお金をつぎ込んで投資をして整えていっている。それもリーダーがどんどん代わっても一度やると決めたらやり続ける。

これはイベントの風景だが、イタリアンフェストをやっている。建物をつくるだけではなく、街としてもお金を集めて、商店街の人がお金を出してイベントをたくさんうったりする。そういったソフトが非常に重要である。まちづくりには非常に政治的な判断だとか、デベロッパーも含めて、全て巻き込むような強い指導力というものが必要なのではないかと思う。ドイツでは実際そういうことをきちっとやっているということを申し上げた。どうもありがとうございました。

 

 

質疑・討論

 

初見学先生:後半のディスカッション、質疑を含めて始めたい。前半の部分でご紹介があり、お手持ちの資料集にも原稿を依頼した江川先生から、その解説も合わせて発言して頂きたい。

 

江川直樹先生(関西大学)

何かしゃべれということだが、まず、私は建築計画委員会の中に、住宅と都市の間の空間デザイン小委員会があることを大変うれしく、好ましく思っている。つい先日もあまり関係はなかったが、建築雑誌にこのことを紹介させて頂いたことがある。いずれにしても、この小委員会の活動に非常に期待している一人である。それで、今日のお話を伺って、小浦先生が、どちらかというといつも私が考えていることをうまくまとめられて発表されたと思う。

空地、空間をデザインするという話だったと思うが、F.L.ライトが、空間は素材と素材の間であると言っている。マチの空間の場合、建築と建築の間にあるとすれば、建築がマチに対する素材になっているかどうか、ということも結構重要なことである。空間をどうデザインするかということと同様に、空間を成り立たせている素材、つまり建築が空間の方を向いてきちんとデザインされているのか、ということが一番問題なのかなといつも考えている。

もうひとつは、例えば普通の市街地の中には大規模マンションや小規模な戸建が実際には混在して一般の市街地はできているから、そういったものを、建築がいわゆるビルディングタイプの分類から脱却しなければならない、といっているのと同様に、マチを考える側ももう少し分類から離れた、小さな住宅だからこうだ、集合住宅で大規模だからこうだといった分類から離れた、もう少しそれらをつなぐ、全体として混沌とした、混在しているマチの空間を考えていくような、市民やデベロッパーが共有できる言語を見出して、制度などにうまく影響していく形をつくっていかなければならないのではないか。そういうような「概念」をうまく共有できる言葉が結構要るのではないか。あるいはそういった言語が制度などにうまく影響していく形をつくっていかなければならないのではないか。

野沢さんの例で言うと、確かに非常に高かったものが何階分か低くなり、以前よりよくなり一定の成果があったといえるが、本当に求めているものはそのことなのかどうかというのが問題だ。それを高さとか容積という言葉でいうと、それだけになってしまう。私が資料集に書かせて頂いた「親空性」や「親街路性」といった言葉は、例えば大規模なものでも、親空性や街路性を意識してつくるつくり方があって、少なくとも今の用途制度のなかでマチがつくられていくなかで、全体がうまく調和していくためには、規模の大小やビルディングタイプに関係なく、みんながマチに対して共通して理解できるような言葉がいるのかなということで、親空性や親街路性あるいはタウンスケープという言葉を使った。タウンスケープというのは建築が連なってマチをつくっていくという話だが、まちなみというのともちょっと違ってもう少し具体像が見えるかと思い、書かせて頂いた。「あたりまえのマチをつくる」という言葉でしみじみと思うのは、住民が参加して、住民と一緒になってやるプロジェクトでは、デベロッパーや公共主体と話しているときにはでてこないようなアイディアが出てきて、結果的に目指していた、あたりまえのマチをつくることができたりすることが多い。その辺にあたりまえのマチのひとつの意味があるのかと思ってずっとお話をしていた。そういう意味でも、そのときになぜ住民が一緒だとできるかというと、常識的に考えられないけれど、空間としてはあたりまえの普通のものができるというのは、共通認識ができるということだ。先ほどの親街路性という言葉はとっかかりの言葉に過ぎないが、もっと道と親しくつきあっていけばどんなことができるの、といったことが応答しながら共有できる。そういう概念が共有できる、共有できる社会化された概念があるともっとうまく前進するのかと考えた。

 

初見学先生:

どうもありがとうございました。

今ご質問ではないが、先ほどのパネリストの野沢さんのお話のなかでマチと社会、マチの姿を好ましいものに変えていくとき、いろいろな手法ややり方を組み合わせていくことが重要だというお話があったと思う。しかし制度的なことのみでは当然できないことがたくさんあって、野沢さんは制度やコントロール手法がご専門だが、どのへんまでが制度の整備でできることなのか、制度の限界をどのようにお考えかお聞かせ下さい。

 

野沢康先生:

都市計画というのは、実は我々は正解をもって仕事をしているというよりは、AとBの両極端の中間のどこに落としどころを見つけるかという仕事が多数を占めている。先ほど事例でご紹介した大規模建築をコントロールするというのも、低層を求める周辺の住民と容積を使い切って経済効率を高めようというデベロッパーの間のどこに落としどころを見つけるかという調整ばかりやってきていて、実はあまり明確な空間像を持たずに仕事をしている部分も結構多くて反省している。先ほどの江川先生のコメントも目からウロコというか、耳が痛いというか、これからの糧にしたいなと思っているところだ。

江川先生は昨日パネラーをされていたが、都市計画委員会の住環境小委員会で「住環境ビジョンの再構築」で、どういう住環境ビジョンをつくるべきかという議論で、私も含めて制度設計とか参加型の調整のしかた、というのがずっと都市計画だとここ1020年やってきたが、それだけではなかなかいいマチができないということがだんだんわかってきていて、どういう空間像を描くかというところにもっと踏み込んでいくべきだと、私は昨日言ったつもりだがあまり伝わっていなかったようだ。

昨日のPDに江川さんが入っていたことと、今日の建築計画のPDに私や小浦さんが入っていることの意味として、これからの展開としてありえるのかなということを、実は昨日今日とずいぶん痛感しているところである。

 

初見学先生:

今のお話でご本人もおっしゃっていたが、いままで空間像なしにマチをどうするかということがある時期進んでいた。そして気がついたらこんなマチになっていたということが最近あちこちで見受けられる。少なくとも都市をやっている方にはもうちょっと空間のイメージ、空間像をいろいろ定義するような作業をして頂きたいという感じが、建築のほうから見ればあるように思う。

二番目の田中さんのお話でも、色々な制度はあるのだけれども、田中さんが最後におっしゃていたように、こういうふうな場所にしたいんだという意志が明確にあったときに、色々な制度をうまくつかったりして、方法を考えてやった。そこに相当救いがあって、みんなが知恵を出し合っている。そこには強い想いがある。そういう例をいくつか見せて頂いたと思う。敷地境界を消すということころについては特に質問がないので、また後で話題になるかもしれない。

もうひとつはコミュニティをしかけるという話では、小浦先生が普通ソフトを思い浮かべるけれども、あえてハードだと言い切られたことで、都市計画やっている方も相当危機意識をもっていると感じた。小浦先生に質問がひとつ、三重大の高井さんから「山下さんの取り組みについてコミュニティをしかけるという視点で感想を聞かせて下さい」という非常に難しい質問がでている。

 

小浦久子先生:

先ほどの野沢先生のお話と関係するのだが、これまで色々なしくみだったり、もののつくり方はつくる計画だった。要するに、拡大していく、ものを床をつくっていく、場所をつくっていくという、つくってつくってつくるための緩和だったり方法論が多かったと思うし、都市計画もつくるという、拡大成長していくという状況がずっと続いてきた。それに対して今ようやく、つくりなおしたり、なくなっていったり、なくなったものをもう一回新たにちょっと時間をおいて次のそのときの状況のなかでつくったり、本来そういうふうにマチが動いていく、一戸一戸の建物をつくっていくモチベーションとか動き方が変わってきているなかで、枠組も制度も事業者の制度も変わっていない、簡単にいえば。つないでいくかということをなんとかしようとしてきたのがようやくここ数年で、それが結果として、形から攻めようが、コミュニティというしくみから攻めようが、そこのところが今なんだか先ほどみなさんがそれぞれの言葉でしゃべったけれども、つながってきている部分だと思う。

山下さんのプロジェクトについて何かコメントをという話だが、そこの難しさは、足元をなんらかの形でつないでいこうという努力はひとつのつなぎ方と思うが、私は一応景観的なことが専門なので、景観というのは第一義的にヴォリュームと考えている。何も形態を操作することではないと基本的に思っていて、そうすると当然、ヴォリュームとヴォリュームの間の空間だったりとか、そのスケール感や連続感の次に、色や素材や、形態操作的なことがそれにともなって出てくるのではないかと思っている。そういう意味でいうと、山下さんの、あそこでさっきも言ったように、マチが動いていく、つくりなおしていく、変化していく、つないでいくという時代に入っているんだけれども、制度も事業者も変わらないわけだから、必然としてでてきた形だし、必然として捉えた選択だと思った。そのなかで、いかに足元をつないでいくか、景観としての見え方をどうなじませていくかとか、どう主張していくかとか、どう意味をもたせていくかというものだったと思う。そこでコミュニティとは何かと聞かれると、少なくとも足元をなんとかしていこうというところに、周りとの連続感をなんとか、人と人とのつながりや気配だったり気遣いを作られたと思う。ただ、見てないのでその空間がどういう状態になっているかが、コメントすることは今できない。ただ気持ちは伝わったというのがひとつある。けれども事業として成り立たせる、しかもそれを可能としている枠組みのなかであれば、あの形はある種今の必然であって、あれをもっと違うなじませ方をしようと思えば、もう少しエリアを取った中で容積を落とすなり色々なことが必要となってくると思う。

その次、住む人だが、その場所を選んだ人は、そのライフスタイルを選び取っている。そういう新たな人たちの空間になったとき、そうでないライフスタイルの人が横に住んでいる。私の苦手なところなのだが、その調整はどのようにしたのか?

 

山下昌彦先生:

非常に大人の返事をして頂きまして、小浦先生ありがとうございました。今日はもう始まってから30分もしないうちに帰ろうかどうしようかとだいぶ悩んでいた。場違いだというのはだいぶ前からわかっていたのだが、あえてしゃべらざるをえないかなと話したが非常に冷や汗が出た。

冒頭、初見先生からお話があったように、江川先生もそうおっしゃっていたが空間像の共有ができていない状態の中でどこまでできるかという観点でみると、あえて申し上げると、私がやっていることと小浦先生がおやりになっていることはベクトルは同じ方向にあるのかと思う。ただできあがったものについていい悪いということになると、全体の空間像をそもそも日本人全体が共有しているかと開き直りたくなる部分がある。空間像をもててないというのは実は日本中の問題だ。空間像を示すのは誰かというと、最後にベルリンの話をしたが、それはひとつは政治の問題であり、国民全員の問題ではないかと思う。国民の問題でもあり、地域の人々の問題でもあり、向こう三軒両隣の近隣住民で合意していけばよい問題かもしれない。その辺についていうと、私も内心忸怩たるものがあり、そういう空間像は模索しつつやっているわけではない、申し訳ないが結果としてあの形になった。

ひとつだけ言い訳をすると、そもそも日本の住宅地とかマンションもそうだが、ほとんどの部分を今デベロッパーが開発している。かなりの部分をデベロッパーがやっているわけだが、建築家がかかわるのは非常に少なくて、ツチダ先生の説によると戸建住宅でも1%、マンションでも、私の推測でも1%以下である。3年ほど前、建築家協会で柴田知彦さんとか南条ヒロオさんと一緒にこういうことを問題にしてだいぶやったのだが、基本的にデベロッパーが自分たちが儲けるためにだけにお金をつかっていて、単純にいうとまちづくりが彼らに必要だと思ってこなかったから建築家は全然起用していない。早川邦彦さんや横川健さんなど高級なマンションでいくつかやっているが、基本的には建築家なんかは使わない。幕張で初めて無理やり建築家を使うというのをやったが、相当戦いがあちこちでおきて、デベロッパーはある程度建築家をつかってデザインをしてマチをつくると、マチを売るというのが少し商売になるということに気がつき始めたので、最近は少し建築家を使い始めた。少し使っているが基本的にはほとんどつかっていない。建築家なんて使わなくても確認申請は通るし、むしろそうでないほうが色々便利なこともある。それについては解説しないが。そういう構造のなかで、われわれがやれることは非常に限定されているということを訴えたくて、こういうところに出てきたということだ。

 

初見学先生:

今のお話を伺って私から質問だが、空間像を示すといったとき、幕張パティオスは中庭型といわれたり、沿道型と言われたり、ひとつのマチをつくろうとひとつの空間の形を示して見せた。はじめてみた多くの日本の人たちが新しいもの好きもあったかもしれないが、なかなかいいじゃないかと、人々が集まってきた。先ほどお話にあったように学校のレベルが上がるなど、マチとしての資産価値があがる、ということは、デベロッパーにしてもマチとしての資産価値が上がるとわかったのだから、他にも出てきてよさそうだが、何故でてこないのだろうか?

 

山下昌彦先生:

私が本当は答えないほうがよいと思うが、関係されている方も会場にいらっしゃるだろう。幕張は建築基準法どおりだが、容積率だけがほとんどフリーである。特に中層街区はフリーで、7階建てで建っているきれいな町並みのところがフリーである。あそこは都市計画の先生方のご尽力もあってデベロッパーを抑え込んでそうなった。ところが5,6年経ってから、まわりの高層街区をやり始めた。高層街区、超高層街区、そこのあたりは、高層街区は14階建てられて、超高層街区では100m30階くらい建ててよいという話になったときに、あそこには容積率が決まっていた。容積率をぎりぎりまで伸ばしていくということをやってしまった。幕張のマチが評価されているのはほとんどのところ中層街区である。高層街区はむしろ他の団地、野沢先生が映された大規模集合住宅よりもっとひどいのではないかという議論さえある。その辺の評価は非常に難しく、幕張自体もそういうことが起きている。ましてや他のところで容積率が決まっていると、その限度いっぱいにとれというのがデベロッパーの指令になる。それをとれないと設計者は失格とされるのでそういうことがおきているのだと思う。ただ、いくつかの団地では幕張のことを学習して相当景観に配慮して、例えば中庭をとるとか、建物としてもきれいなデザインをつくらないとなかなか最近の目の肥えた方達にはアピールしないと、がんばっているものもある。多少よくなっていると私は感じている。

 

初見学先生:

幕張の話ばかりですみませんが、宇野さんの顔が見えたので、一緒に設計なさって、あのマチとしてどんなコミュニティ像があったのか質問したい。

宇野先生:

コミュニティ像というものはあったのだろうか。ライフスタイルという意味では京葉線ができて東京駅にも直結しているし、中央区がまだどかどか作り始める前に、ビジネス街が、超高層ビルが集約した形でどんどん目の前で建っていくと、幕張メッセもできて、なんか新しいことが始まるなという期待感のようなものがあった。だからそういう意味では、アーバニズムをベースにしたライフスタイルというものが基本的にはイメージされて、ただ今までの団地と違って、共有の中庭を持っていて、わかりやすくいうとストリートスマートというか、そんなイメージをなんとなしに設計者はみんな共有していたと思う。

今山下さんがお話されたが、その後続いていっていない大きな理由のひとつは、ストリートスマートではないけれども、マチのライフスタイルとしての超高層マンションというものに対する憧れのようなものが、急速に日本の社会のなかで広がって、それにデベロッパーが飛びついて、ゼネコンさんも技術的にも非常に面白いということで、高強度コンクリートで施工していくとか。あれは実は単価が非常に安くて、ゼネコンさんも一番儲かるしデベロッパーさんもものすごく儲かるので、ああいうものに飛びついて、バーチャルなライフスタイルが非常に大きく膨らんだ。それがマーケットを刺激して、なんかへんてこなことになってきちゃったなという感想をもっている。中層の中庭をつくっていた頃には想定もしていなかった状況になってきているという感じだ。

 

初見学先生:

超高層の話はまた来年度以降いろいろ議論になると思う。今日の話に戻すが、先ほど小浦先生がコミュニティの話をなさったときに、マチをどうするか、家とマチの関係を考えていくときに、たぶん時間という軸がすごく重要で、マチというのは最初できた形で全て決まるわけではなくて、そこに住む人たちがそれを育てていくとか、いろいろな関係が生まれて、そのマチが魅力的になったりする。その辺が大きく変わるし大事な点だという指摘をなさったと思うが、そういう意味で、そういうことを意識して設計されたと私は勝手に思っているのだけれども、横山さん、いらっしゃるか。公営住宅の設計などで、いいコミュニティがあることが住環境をよくしていくんだということで、ずっと設計も主張もされてきたと思うが、寄稿もされているので、今回のテーマについて感じておられることがあればご紹介ください。

 

横山俊祐先生(大阪市立大学)

コミュニティを形からつくると今日小浦さん意外な攻め口だったので、驚いている。たぶん、形でつくれるものもあると思うが、コミュニティは本当につくれるんだろうかと最近思う。全く何もないところから形をつくり始めて、そこでコミュニティを育てていくのというのは、僕は非常に難しいような気がしていて、そういう意味で、新しくマチをつくるというのはやはりそこでコミュニティを育てるのは難しくて、既成の何らかの市街地であったり古い団地の建替えであったり改修であったり、何らかの手がかりがあるときにそこでコミュニティをつくるのではなく、どう育てていくのかということに建築なり都市計画なりいろいろなアクションなりは、力を発揮しうるのではないかという気がする。

そういう意味で基本的に僕はもう、つくることよりも育てることを重視していて、育てるためには住んでいる人が元気にならなければならない。元気になるひとつの要素はやはり自分が住んでいる地域とか住まいに対する愛着、誇り、関心といったものをどうやって高めていけるかという、そのところにわれわれはどうコミットできるか、ということで、あまり規制的なものよりも、あるいはむしろ誘導的であったり、ムーヴメント的なものであったり、というところにひとつの可能性を感じている。例えば、先ほど参加の話がでたが、参加でマチをつくっていく。ムーヴメントによってコミュニティをつくる。それは先ほどの野沢さんの規制の話と全く逆というと怒られそうだが、少し違うスタンスで、規制することよりも何かムーヴメントをどうおこしていくのか、それが最終的に規制という形になるのか、ある具体的なビジョンという形になるのかわからないが、そういうアプローチの方に与したいなと思う。最初からある枠を決めて、そこでビジョン、ある形を設定するのではなくて、何かもっと色々な可能性のなかからおぼろげながら方向がみえてくるようなマチの作り方があるような気がしている。

今日の議論でもうひとつ、すみません、今度僕が質問してよいですか?今おそらく、住宅とマチの関係

、要するに住まいとマチの間のデザインをどうするかという議論が中心になっているが、本当は住まいの中からマチまでずっと連続的なものがあって、その中で今日はたまたま住まいとマチという話になっていると思うが、その間の関係を考えると、失礼かもしれないが「ガワ」の部分を考えていくと、「アンコ」の部分はどう変わるのか、要するに住んでいる人のライフスタイルとかコミュニティということも含まれるかもしれないが、「アンコ」の部分はどう変わるのか、お聞かせください。

 

初見学先生:お答えになる方はどなたが結構か?

 

横山俊祐先生:どなたでも結構だ。

 

田中友章先生:

的確な答えが用意できるかわからないが、先ほどお見せした事例の中でも、いくつかちゃんと、「ガワ」はガワで整備して、「アンコ」は知りませんということではなくて、「アンコ」も「ガワ」も一体的に整備できているようなものも含まれていると思う。そういうものがひとつヒントになるのではないかと思う。今のコミュニティの話をちょっと申し上げると、たぶん、よいコミュニティをつくるのは、目標ではあると思うが、目的ではない。結果としてそれが現れる。結果としてそれが発生したときに、結果を評価したときに、よい評価だという構図だと思う。そういう意味では、僕は設計をしているが、設計して建物をデザインするというのは、よいコミュニティが入りうる器をつくるということだ。空間も外観も含めて。おそらく、先ほど私が最後に整理したときに、空間像のデザインの話と制度、ツールの話、仕組み、事業手法の話、あえて三つにわけて提示したのは、しばしばこの手の議論をするときに、コミュニティをつくることを目的とした建築計画の話になって、それを無理やりつくる。だけど結果としてそれがどうかというものもあるし、それが市場に対するアンチテーゼ、これは当初杉山先生が使われた言葉なのであえて申し上げるが、アンチテーゼになり得るかもしれないけれど、そこで単発で終わってしまうので、決してオルタナティヴにならない。この構図を何とかしていかないといけないと思う。そのためには今言っていた三つの要素というのは、それぞれがそれぞれの役目を果たしてもらわなければならなくて、しばしば制度やツールをつくる側が空間像にあまり踏み入りすぎたり、あるいは無関心だったりすることも問題だし、事業手法が伴わなくて、結果求められるものに到達できない。このケースも多いと思う。

先ほど幕張の話がでたが、蒸し返すつもりもないが、私も幕張の中層街区の設計に関わったので、かつての事務所で幕張11番街にかかわったから、先ほどの山下さんのお話の中で、幕張の中層街区の中古の価値が周辺より2割高いというのは、お話を伺ってすごくうれしかった。これは市場に評価されているということだ。市場は絶対だとは思わないが、やはり市場はある種の価値を伝える役割をもっているから、そこで評価されているということは、かなりオルタナティヴとして受け入れられているということだと理解する。そのときに幕張のデザインの話、空間像の話もあるが、それを支える事業手法や協調的整備を支えるツールもあったと思う。中層街区は明らかに容積を使い残している。容積を使い残した計画が可能になるような事業スキームがあったということも同時にあって、そういうことも重要だと思う。さらに踏み入って言うと、空間像を共有してそこに到達しよう、それをオルタナティヴにしようという共通目標があったとして、制度をつくったり運用する人たちがそれに応じられる空間リテラシーというのを十分持ちえているかどうか、あるいは事業を組み立てる企画屋さん、企画サイドの人たちが同等の空間リテラシーをもっているのかどうか、これもやはりすごく重要でそこに力をもっと注いでいくというのが大事だと思う。私は建築学科の卒業生だが、建築学科でそういう教育をしているわけだ。正しい数字かわからないが、年間1万人くらい建築系の大学を出る学生を社会に出しているのだから、そういう人たちがきちんとした空間リテラシーをもって、ある人はそれを使って企画サイドにいき、ある人はそれを使って制度サイドにいき、ある人はそれを使って設計サイドにいき、というようないい意味のトライアングル、スパイラルをつくれるようになっていないのが、もうひとつ問題なのではないかと思う。ちょっと脱線した。以上だ。

 

小浦久子先生:

横山先生の「ガワ」が「アンコ」を変えるかという話だが、たぶん、つくる時代には「ガワ」が「アンコ」をつくってきたと思う、ある意味で。今、変わっていく段階だ。次につくるものが、新しい「ガワ」が新しい「アンコ」をつくるかという質問かと私は思ったのだが、私は今からつくるものは、ある人が入れ替わっても、あるいは時代が変わっても、ある程度もっていく、たとえ建物が建て替わってももっていくある種の空間性みたいなものをもつべきだと、そういうストックとしての住まいをつくるべきだと私自身は思っている。だから、ガワがアンコを変えるという発想は私にはあまりない。住まい方というのは、逆にガワに出てくると思う。しかし、フレームとしての空間性のようなものは、ある程度これから変化することをコントロール、調整しながら、何かうまく共通項がつくれたらいいな、と、これは夢見たいな話だが、思って、都市計画とか景観の話をずっとやってきているつもりだ。だから、いかに持続可能なそういった空間性をつくりえるかというのが私にとって今一番重要な、特にそのヴォリュームを生み出している住まいというものをいかにそれにつなげていくかということがすごく重要なことだと私自身は思っている。先ほど建築家が少ないと山下さんがおっしゃったが、今田中さんがおっしゃたようにマチのヴォリュームの空間の形をつくっているのはたくさんの建築に携わっている人たちだ。その人たちの意識が敷地を超えてマチにつながっていく、ある種の空間性をつくっていることだというふうにやっていかないと、買う人とか住んでいる人への刺激にもなっていかないし、伝えていくこともできない。当然人は変わる。震災の後、たった10年で人口の半分が替わった、私が住んでいるマチは。しかし、持続していくようなマチの住まい方だったり、そういうものがいかに変化の時代、ものがうつっていく時代につくれるか、そこを建築サイドも考えていくべきではないかと私は思っている。

と考えている。

 

初見学先生:

色々本音がきけた。意見が飛び交っている。会場の方でもものを申したい、考えていることを表明したいという方がいらしたら、まだあと15分くらい時間があるのでお聞きしたい。いかがだろうか。

 

宇杉和夫先生(日本大学)

今日のなかでマチがどういうものかというのが、もう少し一緒に議論できたらいいかなと思って、街区のなかのものをもう一度繰り返して広げていっても多分マチができるのではないかというのがひとつ感想としてある。空間像としては結構なかに含まれているものがあって、それは1920年から30年につくられた空間像とか、あたりまえのマチとかそういうものも普通の家も含めて、1965年くらいから議論されていることも結構たくさんあったと思う。それがうまく広がっていったのか、いかなかったのか、特にどうして広がっていかなかったのかというのが結構大事で、それがそこに変えていくというしくみに価値があるので、大事で、私もそういう提案をしているが、一方ではすでに存在するものについては意味があって価値がある。その価値の意味をマチの人たちに伝える、表現する役割は建築家ができるかできないかはわからないが、とても大事なのではないか。それができる人が逆に街区を設計すべきで、街区のなかだけでなくそのマチの周辺、今の計画のなかでもすぐ建物の1宅地をはさんで水路があったりするような形がいくつか見られたが、周りの全体のものをどう逆に守っていくか、そういうものを考えられるしくみの人が設計する、そういう側面の計画論と方法も必要ではないかとちょっと思った。簡単に言うと、新しいモデルに変えていくというのではなくて、すでに存在するものなかに何か皆さんに誇りをつくる仕事が建築家の役割として結構大事なのではないかと思った。

 

初見学先生:今の宇杉さんのご主張ですよね。

 

宇杉和夫先生:横山先生とかなり似ていると思う。

 

初見学先生:それでは他にいらっしゃらなければ指名する。例えば布野さん、こんな議論についてはいかがか。

 

布野修司先生(滋賀県立大学)

小浦先生の途中まで聞いて、さっき戻ってきた。全体を全く理解していないが、指名されたので何がしかのことを言おうと思う。みなさんがおっしゃっていることを私の言葉で言えばこうだと思いながら聞いていた。日本については、みなさん戦っているという感じだ。私自身、もう10年くらい宇治市の都市計画審議会の会長をしているが、東京でおこったこの間の規制緩和路線に閉口した。地方に一律に波及してくる。ぼーっとしていると総合設計制度が自動的に決まってしまう、慌てて審議会を開いて、わが市はやりません、と決めたことが二度ある。大変なめにあって翻弄された。その中でもやれることをやってきた。多分初めてのことだと思うが、マンション問題が起こってダウンゾーニングをやったりした。こういうのはみんなが現場にいて戦いながらやるべきことだというのがひとつの感想だ。

もうひとつは、私の関心は、今宇杉先生がおっしゃった街区組織というのにわりとシフトしている。要するに都市型住宅から、街区のかたち、都市組織に興味がある。今日の話はその辺にからんでいると思う。田中さんが実例を色々紹介していて大変面白かったのだが、多分面白いことができるのは一定のスケールまでだと思う。今普通に考えて設計組織がもう少し都市の骨格に関わるような単位としての街区レベルで展開すると、都市計画の話とうまくリンクしていくのかなと思っている。私はアジアを歩き回っていますが、人類が500年とか1000年かけてつくってきた街のなかから何かヒントを得ようかなと思っている。日本を離れてしまっているように思われるかもしれないが、ターゲットはまず日本だ。個人的には、アジアの町の中に色々な空間的な仕組みのヒントがたくさんあるのではないかと思う。事実ある種の実感もある。もうひとつは、今の形からいくのか、コミュニティからいくのかという点では、こんな皆さんがいらっしゃる前で宣言してしまうと、私はやはり、建築家は空間のしくみをセットすればいい、コミュニティは勝手にできるもの、できなければできません、という立場である。以上のような感想でよろしいでしょうか。

 

初見学先生:

最後におっしゃったことは気になるのだけれども、空間とコミュニティとはあまり関係ないんだよというお話だが、例えば布野さんが調べておられる、インドの古くからある都市のなかの裏路地側はまさに空間が、ああいう人のつながり方を担保しているような空間構成のように僕には見えるが。

 

布野修司先生:

一番わかりやすいのは例えばイスラム都市です。細かいディテールのルールだけが決まっている。これはシャリーアというイスラム法の規定と相隣関係の判例の積み重ねで、要するに隣のうちの前にドアのところに面と向かってドアをつくっちゃダメよ、みたいな、そういうルールさえきちっとセットしておけば、ある程度マチはできていくという感じだ。

それからもうひとつは多分、小浦先生も同じようなイメージでおっしゃっていたと思うが、昨日も計画系の協議会で出ていたが、スケルトンとインフィルというような言い方をすると、永続的なスケルトン、インフラだったりストリートファニチャーだったり樹木だったり色々してもいいのだが、そういうものをセットしておく。そういう役割が少なくとも建築家がやるべきことで、それから先はとてもコミュニティをつくったり、壊したり、壊すほうは簡単かもしれない、意図的にできるかもしれない。そういう感じだ。

 

初見先生:いらっしゃらなければまた指名する。鈴木先生いかがですか。

 

鈴木成文先生(神戸芸工大)

うっかり初見さんと目が合ってしまってイカンと思った。神戸芸工大の鈴木です。やはり家とマチをつなぐ、道路とつなぐ関係が大事だという話は大変よくわかるし、私も前から主張しているところだ。今日の事例でも概ね小規模のものでそれが可能だが、今そういう事例がだんだん増えてはいるかもしれないが、逆に東京でも大阪でも大都市がどんどん壊れていく。それは先ほど山下さんが言われたように、デベロッパーの力がものすごく強いし、そこにほとんど建築的なコードが入っていない。だから今日の話では大変みなさん面白かったが山下さんの話が私は大変面白かった。とにかくそういうデベロッパーの力に対して建築家がどうやって対抗しているかという、とても尊い話があったと思うが、そういう建築家は大変少なくて、少なくてというよりも建築家が入っていなくて、デベロッパーに席巻されてしまって、どんどんマチが壊れていくというのが今の現状だと思う。山下さんのお話で最後に言われたことでとても感心したのは、結局それは政治の問題なんですよという一言だ。つまり今、布野さんも言われたように規制緩和というようなことで、これは政治の問題だが、どんどん市場原理に任せよう、そうしてせっかくそれはアメリカの影響でどんどん日本が情けなくなっていくのかもしれないが、これは建築やマチの問題だけではなく、ちょっとここが離れてしまうかもしれないが、軍事の問題にせよ、経済の問題にせよ、さらに教育まで大学が儲けなければならないという時代になっているわけだ。これは全く情けない話で、それをなんとかしなければいけない。しかし、黒川記章が政治家に出てもたいしたことはできないと思うが、何か今日本が危ない、政治的な危機に立たされている、これはちょうど私が若い頃、ちょうど中学高校生の頃の社会情勢ととても似ているような気がするので、そういう意味では危機感をもっている。これは建築の話から離れるが。

だから小規模の敷地関係のことでできるようなことを、もっと大きな敷地なり都市のなかで本当にできるのか、それは建築計画の問題以前に、建築の企画のところに建築的常識を持った人が入っていかれるかどうかという問題になってきている気がする。今日はとても楽しいシンポジウムだった。どうもありがとうございました。

 

初見先生:ありがとうございました。せっかくの機会ですから他の方もどうぞ。

 

鮫島和夫先生(長崎総合科学大)

長崎総合大学の鮫島です。みっつくらい感想のようなものですみません。ひとつは都市計画の分野でやらなければならないことは、住宅とマチを関係付ける条件をつくっていない。先ほどから容積が問題になっていたが、どうしてこんな巨大な容積を与えたのか、これについて本当は建築学会でも言わなければならないと思うのだが、なぜ住宅地のなかに200%なのかとか、商業地域の中には住宅は建たないということを想定して相隣関係を規定するような日影規制はないわけだ。こういったもので環境がつくれるのかという基本的なところができてないな、と思う。こういうところををなおさないと今日の議論の前提がなりたたないのではないか。

ふたつめには、国民的な議論をおこさないといけないが、自動車産業によりかかって生きてきた60年ということを考えると、どこまでも家の中にまで車を持ち込みたいという国民の意識をつくったわけだ。こういうことの結果として、1階に車を入れて、人間が23階に住むとか、どこの細い道までも限りなく車がいる幅でなければならないという構造をつくることで、歴史的な都市も、僕が住むのは斜面地だが、道路がなければ住めないという考え方を国民に植え付けてしまった。歴史的な街区であれば、確かにマイカーの自動車化を否定するものではないが、一定のブロックのなか、塊のなかではもはやそこからは歩いて良いのではないかと、どこかで車を降りる都市構造を考えるべきではないか。今問題になっていた100200戸というマンションを考えてみたら、この人が25階の自分の家まで誰も車を運びたいと思っていない。ところが戸建住宅もしくはそれに近いような接地型住宅では限りなく家の前まで持ち込みたいと思っている。片一方はエレベーターを使って自分の部屋まで歩くということを拒否していない。ここではそういうことは無理だと思っているから。マチのつくりかたとしてもそういう構造をどうつくったらいいか、きちっと提案すべきだと思っている。

みっつめはコミュニティをつくるということだが、布野さんがおっしゃっていたように、形をやはりつめないといけない。コミュニティとは何だといえば、それはベタベタすることではないのだが、少なくとも挨拶を交わして、誰が住んでいるのか、どこの子どもかわかるという構造はつくってやらなければならない。2百数十戸のマンションでエレベーターで動いていたら、いったいどこの誰かわからない。色々な調査によると、30100人までは認識できるといわれている。ではそういう単位につくっていくことを原則にして、それで一定の戸当たり敷地面積を決めてやれば、必ず出会うようにしておけば、アクセスするところ出入口は一定の顔を合わすように作りなさいとか、単位は30戸くらいと分節すべきではないか。日本人はお上に弱いので、そういうものが原則だというものをきちっとつくれば、不動産業者の人もそれを前提として計算する。それでやらねばならないことを前提にして全部組み立てていくから、制度を変えることで改善されるのかと思う。このようなことを前提として整えることで、だいぶ違ってくるのではないかと思いながら聞いていた。田中さんとか山下さんがやられているようなところだが、今の限界の中でがんばっておられるというのはよくわかるが、やはりそういう工夫が、あまり無理しないでもっと楽しいところで努力できるような構造をつくったらどうかなと思った。

 

初見先生:ありがとうございます。今のお話も政治的に具体的なところを期待しようというようにも聞こえる。その辺みなさん自分ならどう考えるか今日ゆっくり考えていただきたい。他になければ、そろそろまとめに入りたいが。高井さんどうぞ。

 

高井宏之先生(三重大)

三重大学の高井です。冒頭に非常に乱暴な質問をさせて頂いた件、ちょっと話が戻るかもしれないが。小浦先生にお尋ねしたのは、大都会、オフィスも多くてというような場所において、実際は公開空地とか1階のテナントにスタバを入れるというようなやり方があると思うが、地域との接点、コミュニティを仕掛けるという意味では例えば、会員制のクラブ組織のようなものを住宅で足元に入れて、それで地域の人たちとある領域を線引きしながら地域に対して根を下ろしていく、というような方法が大都会における住宅という意味では色々あるのではないかと思い、質問させて頂いた。なにかそのあたりで、オープンスペースという意味ではなく、足元の用途をどういうふうに設計していくのかひとつ手がかりになるのではないかと思っているのだが。

 

小浦久子先生:

先ほどからここ苦手ですからと山下さんにふったところだが。それはひとつの売り方とか事業のしくみとして、そういうことをするというのはあると思う。そこは私が思っている、マチとしてのかたち、それが結果的に人のつながりとか、周りに対する心遣いといったことは、用途も含めてだ。周りに対して、周りの人がどう使えるかとか、あるいはどういう出会い方ができるかという、そういうところは当然あると思う。 それは用途もそうだし、空間もそうだし、空地のつくり方だったり、あるいは動線、どう抜けていけるか、あるいは、どこにエントランスを向けるとか、まさにそういうところみんな、周りに対する心遣いだったりとか、気遣いだったりとか、管理だったりとか、そこがまず、そこのなかのひとつとして、今おっしゃられたような用途の組み込み方も基本的にあると思うし、それが周りに反響を起こすというのもあると思う。だけれども、それが必要かと聞かれると、事業サイドとして必要な場合もあるだろうし、場所的にそういう働きかけが有効なところもあるだろうし、色々だと思うので、ひとつの選択肢としてはあると思う。ただ、先ほど申し上げたように、結果やはりコミュニティというものが、どう育っていくか、どういくかというところにどれだけ空間としての手がかりを残しえるかというのは 重要なところではないかなと思っている。

 

初見先生:そろそろ時間なので、特になければ最後に、企画側のメンバーだが京都大学の高田先生に今日のディスカッション、企画について総括をお願いしたい。

 

 

総括

高田光雄先生(京都大学)

京都大学の高田でございます。大変熱のこもった議論が行われて、しかも幅が大変広い議論だったので、これをまとめるというのはほとんど不可能なので、少し私なりの解釈で最後コメントさせて頂きたい。今日最初に、趣旨説明としては、この問題意識は分譲マンションの建ち方から始まったという杉山先生の解説から始まって、その説明を聞くことによって、今日の研究会の問題意識が非常に抽象的、大きな漠然とした問題ではなくて、具体的な個別の問題をふまえて大きな問題を扱っているのだという理解ができたように思う。それをひとつの切り口として、色々な議論が行われたと思う。

パネリストの方々の解説は資料集には載っているのだが、必ずしも資料集に書かれていることと現実にしゃべられたことは一致していないというか、完全には対応していなかったので、私なりにそれぞれの方が言われたことをまとめさせて頂きたいと思う。

 

最初野沢さんは、今日の議論のかなり重要な基礎的な問題を解説されたと思う。とりわけ、グレインとコンテクストという概念をつかって、あたりまえのマチというものの構成をとらえるというものの見方、そしてそれをルールという、都市計画という視点からいうとルールというかたちで、どのように表現するのかというお話を頂いた。色々なお話があったが、最終的に規制値を与え、どういう高さとかさまざまな容積といった規制値を明示する方法と、手続きを示す方法と手続きを付加する方法と色々なことを言われたことが大変重要な指摘と思った。ルールについては三つの視点で、用途の規制、形態規制というような方法、それから地区計画建築協定という方法、三番目にまちづくり条例景観条例等のと自治体が主体的に行うルールというのがあって、特に三番目について重点的にお話を頂いたと思う。この討論の基調になるお話を頂いたと思うが、全体として枠組みとして、私は野沢さんの整理は非常に客観的な整理をして頂いたと思うが、手続きの問題と規制値の問題は実際には連動するわけだ。それで特に、排除のためのルールといわれたが、それがどういうものを排除するかという、むしろ手続きのルールによって先ほど言った最終的には空間像というかたちで表現されていたようなものをつくりあげていく プロセスというか、そういうものを実現していくための規制値的な手法、そういうことが現実にはあるように思う。例えば先ほど少し話が出たダウンゾーニングというのも、ダウンゾーニングによって高さを低くするとか容積を小さくするという方法もあるけれど、それを使って協議の、話し合いをする条件をつくって、その上で地域固有のルールをつくっていくという方法も最近注目されているわけで、許可制という方向へ向けてのプロセスとして、今のようなお話を受け止めると大変基礎的な認識としては重要だと思う。私はやはり、地域ごとに協議によってルールをつくるというプロセスが最終的にないと空間像にはいたらないと思うし、逆にそれが都市計画と建築を最終的につなぐプロセスかなというふうに感じていた。

 

ふたつめの田中さんのプレゼンテーションは、大変具体的な事例をひいて、わかりやすいプレゼンテーションをして頂いたと思う。複数の敷地の区画を協調的に整備する方法について、田中さんはプレゼンテーションの中で三つに一応、タイプ分けといわれた。これは多分組み合わせもあるし、つながっているものだと思うが、協調的な発展タイプ、創造的な変形タイプ、連担制度活用タイプと一応整理をしてお話をして頂いた。こういった手法を私自身も関西でいくつか経験があって、大変この部分は重要な手法だと認識しているが、ひとつ私自身今のお話を聞いていて思ったことだが、例えば協調するということ、それ自体は大変なエネルギーが必要だ。しかしながら、協調した結果が、今日比較的うまくいった例が紹介されたが、なかの関係は確かにうまくいっているのだけれど、かならずその外側というものがあり、輪郭というものがある。例えば連担建築物設計制度というものは、なかの調整が非常に大変で、うまくいった場合には非常にいいことがあるかもしれないけれど、連担のまた外側には敷地の境界があって、その敷地は超えられていないという問題がある。これは制度的な枠組みとしてそういうふうになっている。だから、ただ敷地をここでは消すと書いてあるが、私は相対化していると言ったほうが正確かなと私は思っているが、敷地が相対化されて大きくはなるのだけれど、そのまた外についても考えなければいけない。今の制度的な枠組みではそこを乗り越えられないというところがあって、もっと入れ子構造の空間構成のしくみができるといいなと普段から考えているところだ。 

 

三番目の小浦先生のコミュニティをしかけるというところは、小浦先生のプレゼンテーションは、実は私には親しみのある事例で、普段同じことをしゃべっているとそうだそうだと聞き流して

 

基本的に小浦先生が主張されている 関係性 空地のデザインとしていかにきめ細かくやるかということだと思うが、今日それに加えて、特に変化するマチをどのように調整していくかというか、つなげるかということの重要性を強調されたと思う。先ほどの横山先生の質問とのやりとりのなかでもでてきたが、つくる計画というものに対して、マネージメントという視点からの計画論のあり方について触れられたと思うが、この部分は実際にそれをどういうふうに敷際の計画としてやっていくか、具体的には方法論で考えると、なかなか難しくて、特に都市計画的な手法でこれができるかどうかということについては大変難しいのだが、今日ご紹介頂いた例えば神戸の例はそういうものに対して色々な挑戦をしている例として、私はもっとこういう問題を取り上げるべきだと思うが、ただ、これも普段言っていること、小浦先生と同じ場で言っていることだが、自治体が大変色々な工夫をして、例えば先ほどの近隣住宅環境計画制度をつくって、やっていること自体の意味合いは大変高いのだが、そういうことをやること自体すばらしいということよりも、なぜそういうことをやってしまうことになるのかというと、国のやはり宅地政策というのが基本的に、例えば建築政策に比べてもプア、宅地政策自体の枠組みがない。 よって建つところがないので結局、建築基準法の42条の2項とか3項とか43条の、そういういわば法律のすみっこにあるようなものを解釈して色々工夫して、創意工夫で運用してやっている。そういうところが現実の関係性のデザインにかかわる手法ということになっている。もっとこれは本流のきちんと した宅地政策というものをつくっていくという姿勢が私はこれからいるのではないかと考えているところで、こういう個別の努力というものを評価するということも大事だが、一方でもっと大きな流れに達していかなければいけないと考えているところだ。 

 

最後の山下さんのプレゼンテーションについては、私も先ほどの鈴木先生のご発言と同じようなことを大変強く感じた。資産価値をデザインするというタイトルでお話を頂くということだったが、実際には自ら取り組まれた事例について、具体的な敷地を、仕事の成果についてプレゼンテーションして頂いた。たぶんそれをつくりだすプロセスに本当は色々なご苦労があって、そこの部分を本当は聞き出せるとこの会としてはもっとよかったと思うのだが、必ずしもこういう公の場では言いにくいことも色々あるのだろうと推察している。デベロッパーとの関係のなかでどのように、どういうことはできてどういうことはできないのかいうあたりを、しかし、われわれ研究としてもやっていかなければならないと強く感じた。一方でも、建築家として自らがやったことを社会に対して説明していくしくみを逆につくらないと自主的な方法では不可能だ。マンションの景観に対する影響について設計者が説明するべきだといいと思う。しかし、今のしくみのなかではできない。だからむしろそういうことが、設計者の立場を社会に対して説明できるようなしくみづくりということを私は考えていかなければならないのではないかということを同時にを感じならが聞いていた。

 

全体としてその後、色々な議論が行われたが、みっつくらい大きな問題があったと思う。

 

ひとつは、空間像の共有が重要だということが、一番時間を費やして議論された事柄と思う。これについては先ほどのプレゼンテーションでは図と地の関係、建物と空地の関係の図が何回も出てきたし、それからヴォリュームが重要だとか、要するに空間像を記述する方法について色々な提案なり、具体的なご説明がパネラーからもあったし、フロアからもこれに対して江川さんから共通言語がいるという話もあった。要は空間像というものを共有するための方法、それをどのように表現するかということにも 議論が必要だと思う。

 

これに関連してコミュニティ像という議論もでた。コミュニティというのが目的かどうかとか、横山先生からはつくるのではなく育てるものだとか、一方で小浦先生からはハードがむしろ多く考えないとコミュニティの議論はできないという、そういう最初の挑発的なもの言い方があったので横山さんから今の話がでてきたということなのだが。要するに逆に言うと、ハードがコミュニティが育つことを阻害している、そういう可能性があって、その問題を建築あるいは都市計画の視点からもう少しみなければいけないのだという、多分小浦先生のそういうもともとの問題意識だったのだろうと思う。いずれにせよ、コミュニティの問題をどのようにとらえるかということについても、布野先生から、建築は入れ物を考えればよいのでコミュニティは結果としてできる、そういう、これも非常に挑発的なものの言い方で、いわれた。この辺りの議論を今後していく必要がある。

 

みっつめに、しくみの問題というのを今後議論しなければいけないと思った。建築と都市計画の専門性の関係について多少火花が散っていたところもあったと思う。われわれの専門領域全体としては、そういうことを超えた、要するに、まさに今日のテーマの住宅とマチの関係をつなぐような専門領域をどのようにつくっていくかということがひとつは課題だと思う。それとともに、住民やデベロッパーとの関係についてもう少しきちっとした総合的な視点からの主体間の関係というか、別の言い方をすれば、 市場の中で利用者と供給者と社会のしくみをつくっている行政とか産業とか、そういういろんな主体があるわけで、プレーヤーのそれぞれの立位置を踏まえて、その主体間の関係としてこういう問題を捉えていかないと結局は、なんらかの表面的な問題を扱ったに過ぎないということになってくるのではないか。政治が重要だというご指摘もあったが結局は、政治に参加する色々な主体の問題に還元されていく問題だと思う。特にデベロッパーの問題は、建築学会としてこれまで十分扱ってきていない問題のひとつで、最初の杉山先生のまさに問題提起というのは、そういうところにあったと思う。こういった問題について今後研究をしていかなければならないと感じた次第だ。 (以上)

 

初見先生:それでは予定の時間も少し過ぎた。司会の不手際もあったようで申し訳ございませんでした。長時間にわたってパネラーの方々どうもありがとうございました。それではこれで散会とさせて頂きます。(PD終了)

2024年12月15日日曜日

司会:パネル・ディスカッション,布野修司,鬼頭梓,林昌二,松山巌:「前川國男のモダニズム」,東京海上火災ビル,2006年01月19日

 前川國男建築展 記念第一回シンポジウム

「前川國男をどう見るのか」 前川國男のモダニズム

鬼頭梓/林昌二/松山巌/布野修司

 

 

■前川國男とモダニズム

 

【松隈】「生誕一〇〇年・前川國男建築展」は、二〇〇五年の暮れに始まりましたが、展覧会だけで終わらせたくなかったので、会期中にシンポジウムを開催することになりました。今日は、その第一回として、「前川國男とモダニズム」というテーマを掲げました。前川國男は、ル・コルビュジエやアントニン・レーモンドからどのような考え方を学び、日本という風土の中で、何を大切にして近代建築を育て上げようとしたのか。その方法を、仮に「モダニズム」と名づけるとすると、彼にとってモダニズムとは何だったのか。それを現時点で検証しておくことが、これからの建築や都市のあり方を考えるために大切だと思いました。今日は、前川國男について詳しい方々に、幅広くお話しいただきます。それでは、司会の布野さん、よろしくお願いします。

 

【布野】前川國男については、私自身、『建築の前夜―前川國男文集』(而立書房、一九九六年)という本をまとめるときに関わりました。前川さんにも、生前に一度だけ、お会いしたことがあります。最初に口頭試問のようなことを受けまして、ドギマギしたことを憶えています。そのことも含めて、『建築の前夜』の巻頭に、「Mr.建築家」という論考を書き、サブタイトルに、「前川國男というラディカリズム」とつけました。ラディカリズムというと、急進主義でテロリストみたいですが、そこに込めたかったのは、根源的に建築を考え続けた人ということなんです。

 それにしても今回の展覧会は画期的な出来事です。これを機会に、前川國男を巡って幅広く議論がなされ、その精神が再確認されればと思います。前川さんに会った際のエピソードは、後ほど、松山さんからお願いします。それでは、まず、前川國男の下で学ばれた鬼頭さんから、口火を切っていただきたいと思います。

 

■前川國男との出会いと事務所の様子

 

【鬼頭】私は、一九五〇年に大学を卒業して前川事務所に入り、一九六四年までいました。前川さんの四十五才から五十九才までの間です。当時は、今のように建築の情報が溢れている感じではまったくなくて、ほとんど情報がないに等しかった。例えば、『新建築』は、厚さが五ミリくらいしかなく、ザラ紙でした。もっとも、載せる作品もなかった。その時代に私が知った前川さんの建築は、木造の「紀伊國屋書店」と「慶應病院」です。

当時、新宿駅東口の周辺には、闇市もあるような時代で、建物は木造のバラックばかりで、その中にポツンと「紀伊國屋書店」が建っていました。そこだけ、別天地みたいで大変感激したんです。大きな吹抜けがあって、とても明るい空間でした。「慶應病院」は、前が広くて芝生があって、二階建ての真っ白な建物で、すっきりした印象が強かった。とてもいい雰囲気でした。学生の頃、私には設計ができる能力はなさそうだから、何になろうかとだいぶ迷っていたんです。当時の大学は三年制で、三年になった頃、それでも設計がしたくなって、助教授の丹下健三さんの研究室に入りました。そこに、もう亡くなられましたが、浅田孝さんがおられて、「本気で設計を志したいのなら、前川國男のところに行くんだね」と言われて、たまたま二つの建物を知っていたので、それはいいなと思い、気楽に前川さんの所に、同級生の進来廉さんと二人で、入れてくれとお願いに行ったんです。

当時、前川事務所は目黒の自宅にありました。今、現物は、「江戸東京たてもの園」に移築保存されています。驚いたことに、三〇坪ほどの住宅が事務所になっていました。前川さんのプライベートなスペースは、前川さん夫妻の八畳の寝室とトイレ、浴室、台所だけでした。その他は全部事務所として使っていました。四谷に事務所ができるまでのほぼ十年間、そうした状態で、僕が入所したのはその中頃のことです。自宅に行って、すばらしい家だなと思いました。いよいよ入れてくれることになったとき、前川さんが、いきなり、「建築の設計という仕事は建築家一人ではできないんだ。それにはチームの力がいる。自分は今までこの事務所のチームを育てるのに苦労してきた。そして、このチームの力があるから設計ができるのであり、僕が死んでもこのチームが残っていけるようにしたいんだ。僕の事務所に来るならそのことを君も考えてくれ」と言われたのでびっくりしました。また、「君たちには、僕がやってきたような苦労をもう一度してもらいたくない、僕の苦労の上に別の苦労をしてほしい」とも言われて、これは大変なところに入ってしまった、と思いました。

 

■近代建築実現への熱気

 

【鬼頭】私が入所した頃は、前川さんにとって、初めての本格的な近代建築である「日本相互銀行本店」の設計の最中でした。前川さんは、戦前から戦中にかけて、近代建築を作りたくても、戦時制限もあってチャンスがなく、あり合わせの木造でモダニズムを追求していました。自宅も木造でした。ですから、戦後に建築制限が撤廃されて、ようやく鉄筋コンクリートや鉄骨を用いた本格的な近代建築ができるようになったとき、ともかく、事務所を構えてからずっと暖めてきたこと、やりたくてもできなかったことを、この建物で全部やろうと意気込んだのです。近代建築を成り立たせるボキャブラリーはすべて試みてみたい、という熱気が事務所全体にありました。僕もその中に入っていったのです。カーテン・ウォールでアルミ二ウムのサッシュ、純鉄骨で全溶接、しかも、実際にはそこまで実現しませんでしたが、当初の計画では、床も階段も全部プレキャスト・コンクリートでした。前川さんは、「今は大変だけれど、これができたらあとは楽になるぞ」と言っていました。ぜんぜん楽にはなりませんでしたけれどね(笑)。でも、そういって励んでいた時代です。

 

■日本相互銀行本店の失敗

 

【鬼頭】私の入所した一九五〇年は、戦争が終わって五年ですから、まだ至るところ焼け野原で、建築の技術レベルも低かった。それで、前川さんは悪戦苦闘するわけです。この「日本相互銀行本店」で、一つ失敗をします。外壁のプレキャスト・コンクリートから雨が漏ったんです。これは大変だ、ということで、前川さんは雨が降るたびに飛んで行って見ていました。私もつかまって、ある日、まだ暗いうちに起きて現場に行きました。足場からホースで外壁に水をかけると、たちどころに内側に水が入ってくる。今なら、こんな馬鹿なことをする人はいませんが、プレキャスト・コンクリートの目地が、全部モルタルで詰めてあった。当時は、目地というのは、モルタルで詰めるものだったのです。工事を請け負った清水建設も疑いを持たなかった。そこに細かなヘア・クラックができて水が入る。それを突き止めて、結局その目地を全部外して、コーキング・コンパウンドにやりかえました。当時、コーキング・コンパウンドはとても高価で、たしかアメリカ製のバルカテックスという製品を使いました。その費用を、前川さんは全部自分で支払ったのです。建築家の責任で問題が起きたのだから、補償は建築家がしなければいけない、と言って、自費で修復したのです。大きな失敗でした。

 

■技術を建築家が手にすることの意味

 

【鬼頭】その時、前川さんは、もう一つのことを発見します。建物のコーナーにバルコニーが出ていて、そこに両開きのドアがついています。その召し合わせ部分は、合わさっているだけの簡単なものです。でも、そこには空洞があるから、中には雨が入らない。前川さんはそのことに気がついたのです。そこで、外壁のジョイント部分の処理はこれでなければいけない、中に空気層を作れば雨は入らないんだ、ということを発見して、その後はそう改良していきました。

その「日本相互銀行本店」の完成直後、前川さんは、『国際建築』(一九五三年一月号)に掲載された「日本新建築の課題」という文章に、「単なる造形的興味からする絵空事ではなく、技術的な経済的な前提からの形の追求をいま身につけなかったならば、日本の新建築は永久にひとつのファッションに終始せねばならないであろう」と書いています。当時、前川さんは「テク二カル・アプローチ」というテーマを掲げていましたが、これは誤解され、技術至上主義とみなされた。

しかし、テク二カル・アプローチは、技術至上主義的な考えではなかったし、それが建築を作る主要な道筋だと考えていたとは、私には思えないのです。前川さんの真意は、近代建築は技術革新に支えられて生まれてきたのであり、それをメーカーとかサブコンとかに任せるのではなく、建築家が関与しなければいけない、それを抜きにして建築を考えてはいけないのだ、という意味だったと私は受けとっています。つまり、建築家の在り方を言われたのだと思います。

 

■プランの大切さ

 

【鬼頭】私が知っているのは十四年間だけですから、前川さんの全貌を伝えることはできませんが、僕がいた頃は、ともかくプラン(平面図)、セクション(断面図)、とりわけプランにうるさかったですね。前川さんは新しく入った者に、すぐプランをやらせるんです。新米には、ディテール(詳細図)は描けませんから。プランなら、自分の思ったように描かせられるという思惑もあったと思いますが、ともかくプランを描かせられました。そうすると、「君ね、プランというのは、間取りではないんだよ」と言われ、「間取りではないって、どういうことですか?」と聞くと、「プランというのは、空間を作ることなのだ。プランを見ただけで空間が彷彿としないようなプランは、プランではない」と言われたりしました。

また、私たちが、まず柱の列を書いてからプランを描いていると、「君、それは逆さまだ。柱は後から考えるんだ。どういうスペース(空間)がほしいかをまず考えて、それにどういうストラクチャー(構造)がいいかを考えるのが順序だぞ」と言われる。ですから、プランで時間を食ってしまう。たいていエレヴェーション(立面図)を描く頃になると、時間が足りなくなって、先輩の大高正人さんなんかは、「早くエレヴェーションを描こうよ」といつも言っていましたね。でも、エレヴェーションを描いたときには、矩計の図面がないと、また怒られてしまうのです。「このエレヴェーションは、どういう矩計になっているのか」って。少なくとも、矩計のスケッチができていて、このようにします、と言わないと、「そんなエレヴェーションをいくら描いたって、絵空事だからやめたまえ」と言われてしまう。これは、私たちだけではなくて、戦前に丹下健三さんが前川事務所にいた頃も同じだったようです。丹下さんが言っていましたが、「お前はすぐエレヴェーションを描く」と前川さんに怒られていたそうです。

戦前の話ですが、あるとき、前川さんが丹下さんと浜口隆一さんに、「前川さんは、いつもプランだ、セクションだと言うけれど、本気でそう考えているのですか? 建築ってプランとセクションでできるものではない。造形のことはどう考えているのですか?」と、だいぶ突き上げられたことがあると述懐していますが、本当にプランに執着していましたね。

 

【布野】それでは続いて、鬼頭先生の話を受けて頂いて、、林昌二さんに最初の発言をお願いします。

 

■日本相互銀行本店の衝撃

 

【林】私は、前川さんの話で出てくる立場ではないのですが、出されちゃったからしょうがない(笑)。前川さんについては、わからないことがたくさんあるのです。本当は、少しはわかりますが(笑)。

 私が建築の世界に入ったときに、ちょうど「日本相互銀行本店」ができあがります。当時、日本相互銀行本店は、圧倒的な影響力を持っていました。東京にいればなおさらです。日本相互銀行本店の一部始終は、話題になり、関心が注がれたわけです。たしかにえらいことをいろいろやっています。例えば、軽量化も大変なもので、三階までは別として、四階から上のオフィス階の重量は、平方メートルあたりわずか〇・四六トンなのです。そんな建物は、その頃はなかった。一般的には一トンを越えていましたから、その半分以下でできていた。驚異的なことでした。どうしてそうなったのかというと、床スラブが九センチしかない。普通は十二センチありました。しかも、九センチのコンクリートが軽量コンクリートを使っているのです。床スラブは、構造的には二次的なものですから、軽量コンクリートでもいいのかもしれませんが、そこまでする人はいなかった。

 

■前川國男の変節の謎

 

【林】また、カーテン・ウォールは、全体の重量に対して、それほど影響がないと思いますが、それも徹底して軽量化して、アルミ二ウムを使っている。どうしてアルミなのか。前川さんは、鉄のサッシュがお好きな方だと思っているのですが、この場合は、アルミを使って、おかげで雨が漏ってしまった。でも、雨が漏ることは、当時、いろいろなビルでもあったわけです。ニューヨークの「国連ビル」も漏りましたし、その他の高層ビルでも、だいたい漏っていました。今日のようなコーキング材はありませんでした。当時は、セメント・モルタルを左官屋が塗って、目地を作る程度で外装ができていた。そうすると、当然失敗もする。でも、失敗しても、何としてでも、工業化された建物を実現しよう、という意気込みがすごかったですね。それにみんな感心して、若い人たちは何らかのツテを頼って、何度も見に行った。今は、そういう迫力のある建築はないと思います。東京駅に近い便利な場所にあったせいもありますが、ともかくよく足を運びました。あの建物が「教科書」になった感じが強かった。その通りやってよかったかどうかは別問題ですが()、教科書的迫力を持っていた。前川國男というのは、私たちの年代にとって、そのくらい大きな存在でした。

当時は、そういう前川さんの姿勢が頭に刷り込まれていましたから、その線上で仕事を展開していかれると思って見ていたのです。しかし、その後あまりそうならない。「日本相互銀行本店」を発展させたような建築は作られなかった。それどころか、ある時を境に、傾向ががらりと変わった。特に晩年です。一番びっくりしたのは、「弘前市斎場」です。

考えてみれば、最初と最後だから、違うのは当たり前かもしれない(笑)。でも、その違いがあまりにひどい。まあ、コルビュジエだって違いますけれども。じつは、弘前は、最近見に行ったのです。たしかに、よいといえばよいのですが、同じ人がやったというのは、いかがなものかというのが、私の感想でした。弘前には、前川さんの処女作の「木村産業研究所」もありますが、これはとても面白い。初々しいと言いますか、日本相互銀行本店ほど遮二無二やっているのではなくて、普通の姿勢で取り組んでおられ、サッシュもスチールで、プロポーションやディテールに、どこかコルビュジエの雰囲気が感じられる。コルビュジエのところから帰ってきて、すぐにやった仕事だから、当然かもしれませんが、弘前にその二つの建物があることが、とても面白いと思いました。

 

【布野】さすが林さんですね、まずは、最初と最後、ケツを押さえた(笑)。「木村産業研究所」はあまり知られていなかったですね。「弘前市斎場」については、胸が痛くなる人がおられるかもしれません。前川さんが変わったという話は、もう少し前のことだと考えられていますね。MIDO後出??ミド・グループの戦後まもなくの時代の転換もありますが、普通は、打込みタイルが出てくる時代に変わったと言われますね。いきなり「弘前市斎場」となると、変わっているのは当然かもしれません。

 

■愚直な建築への姿勢

 

【林】そうですね、ちょっと行き過ぎかもしれません(笑)。前川さんは、軽量化といいますか、テク二カル・アプローチの時代から、打込みタイルを使う時代に入って、面白い開発をいろいろと試みていきますね。それには感心したんです。コンクリート打放しの外壁ではなく、その外側に焼き物を外装として使うやり方です。最初は難しいけれど、難しいことをあえてなさるのが前川さんで、そういう意味では「愚直」と言いたいですね。失礼かもしれませんが、愚直という態度で設計をなさっている。コーキング材が日本にはないので、輸入して、ご自分で費用を払ったことも、愚直そのものであり、それがプロたる者の覚悟である、という気がします。

 一方、愚直の典型として、防水にも感心しました。私たちが設計を始めてしばらくの頃、丹下健三さんと前川さんの公共建築が、交互に建つような風景が展開されるようになります。その際、前川さんは必ずアスファルト防水なのです。一方、丹下さんはセメント防水で軽々と仕上げてしまう。そうすると、防水の端部がきれいに収まる。サッと終わるんです。アスファルトですと、それを立ち上げて、押さえなければならないので、きれいに納まらない。だけど、前川さんは断固アスファルトでした。丹下さんはセメント防水でやって、たちまち漏ってしまう。僕らは、丹下さんの方がきれいに収まっていて、うらやましいので、何とかセメント防水でやりたいと思ったのですが、日建設計には、まわりにうるさい先輩が大勢いて、「冗談じゃない、屋根防水はアスファルトでなければいけない」と言われて、私も愚直にそれを守った。それで弁償しなくて済んだ()。そんな思い出もあります。

 

【布野】続いて松山さんに、日本近代における前川國男の位置について、お話いただけますか?

 

■前川國男という存在

 

【松山】大変なテーマを与えられたのですが、先ほど、布野さんから、前川さんに会ったときのことを話せと言われたので、その話から始めます。当時、布野さんと僕と宮内康さん、堀川勉さんらで、「同時代建築研究会」という会をやっていました。戦前から戦後にかけての建築思想をもう一度問い直そう、ということで、近代建築を作り続けてきた先達に話を聞くことを続けていました。例えば、山口文象さんや高山英華さんなどに会いに行って、証言を取るようなことをしていた。そうした中、前川さんにも一度だけ会う機会があったのです。そのとき、びっくりしたのですが、前川さんから、「近代建築をどう捉えるのか。そのことをはっきりしない限り、インタヴューには応じられない」と試験みたいなことを言われた。そこで、一番よくしゃべる布野さんに任せた。

布野さんは、近代というのは、セメントとか鉄骨とかガラスとか大量生産のものが出てきて、その中で建築が生まれる時代だ、というようなことをしゃべったのです。つまり、生産構造ができた上で、近代建築が生まれてきた、というようなことを、言ったのか言わされたのか、その辺がわからないのですが。前川さんは、「生産構造や下部構造がしっかりしない限り、近代建築はできないということを認識しないと君たちとは話さないよ」という感じでした。ちょっとびっくりしたのです。あの話を聞いたのが、今から三十年前ですから、「日本相互銀行本店」ができてからずいぶん経ったころです。一般的には、テクニカル・アプローチと言われる工業技術がなければ近代建築はできない、というような、社会の生産構造が上がらない限りダメだ、というニュアンスでした。後で考えると、丹下さんのような仕事を横目で見ながら言われたのかも知れませんが、造形的なものに対しては拒否をする、というニュアンスでしゃべっていたのだと思います。

当時は、大阪万博で丹下健三さんたちが頑張って、磯崎新さんが「建築の解体」と言っていた時期ですから、印象としては、ずいぶん固いなと思いましたね。でも、前川國男という人の個性を、僕は認めていた。前川さんという人がいなければ、日本の近代建築は遅れたのではないか。あるいは、前川さんの力は大きかったのではないかと思っていた。ところが、前川さんがそう言わないことにびっくりしたんです。先ほど、鬼頭さんが、「前川さんのテクノロジカル・アプローチは、建築家がいかに関わるべきか、技術にゼネコンやメーカーではなくて、建築家がもっと関わるべきだということであり、技術をそのまま重視して考えれば建築ができる、ということではなかった」と言われたので、なるほどと思いました。

それから、林さんが「日本相互銀行本店」を教科書的だと言われました。私もできてずいぶん経ってから見に行って、安っぽい建築だなあと思いました。ああいうものにどのくらいエネルギーをかけたのでしょうか。今、見ると、私と同じような感性で見る人が多いと思う。ねずみ色でポソッと建っている。いまだに使われていることにびっくりするくらいです。でも、そういうことを、前川さんは率先してやった。けっして、世の中の生産構造が充実したから歴史が動くのではなくて、前川さんがいたから動いたのではないかと思います。

 

■「公共」という教科書を作った前川國男

 

【松山】私は、前川國男は、日本近代の文化史の中でもかなりの巨人であり、思想や文学を含めて大きな人物だと思います。ただ、建築家というのはほとんど知られていない。知られていないからこそ、前川さんは、建築家の立場を確立するためにがんばった。彼の一番のすごみは、教科書を作ったこと、それも、「公共」という教科書を作ったことです。前川さんは、美術館、音楽堂、図書館、市庁舎といった公共建築をいくつも作っていますが、逆に言えば、彼が作ったがために、ありふれてしまった。でも、広場があって、それを囲んで回廊がある、そういう教科書的な文法は、前川さんがいなければ、日本には作られなかったのではないか、と思う。

私は、今から四十年前に東京藝術大学の建築科に入って、できたばかりの「東京文化会館」の二階の食堂に、チャプスイという安い食べ物を、週に一度くらいは食べに行っていました。上野には、前川さんの「東京都美術館」や「東京文化会館」の他に、師であるコルビュジエが作った「国立西洋美術館」や、戦前のコンペで前川さんと因縁のある「東京国立博物館」があります。その他、いろいろな美術館がありますが、前川さんの建築は違う。塀と門がないんです。コルビュジエの「国立西洋美術館」ですら、長い間、門扉で閉ざされていました。それに比べると、「東京文化会館」には、前庭だけでなく、場所としての広場がある。それもいくつか抜けられるようになっているから、閉じていない。単純なことですが、公共の広場という文法を、公の概念とでも言いますか、近代の中で、これだけ明快に作った人はいなかった。さらに言えば、前川さんの広場を作る方法を、みんなが真似したんです。その教科書作りをしたことが、前川さんのすごみです。それは一見、見慣れているけれども、上野の現状を見ても、実はそれだけの力がなければできなかったことだと思う。

前川さんは、最初から広場を作りたいという気持ちが強かったのではないか。戦前の「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」は、書院造りのような大屋根を載せ、日本の伝統的な建築様式を真似したと問題視されましたが、あのプランニングは見事です。中庭と渡り廊下があって、内外の空間が伸びやかにつながっている。おそらく、前川さんは、戦前に考えたこのアイデアを、戦後になって練り上げようと努力したのではないか。林さんが、前川さんが守勢に回っていると指摘されました。それもわかるのですが、今の世の中では、ああいうやり方しか、前川さんとしては守りきれない時代に入ってしまったのではないか。後に、「東京海上ビルディング」という超高層ビルを作ってしまったのは問題ですが、私は、前川國男は、教科書、お手本を作った人として立派だと思います。

 

【布野】松山さんの話で思い出すのは、戦前と戦後の連続・非連続の問題ですね。転向の問題と言ってもいいんですが、丹下さんについても言われていることですね。せっかく水を向けていただいたので、戦前のことにも、触れたいと思います。松山さんから「在盤谷日本文化会館コン応募案」が戦後の公共建築を作る原点になっているとの発言がありましたが、鬼頭さんはどう思われますか。

 

■戦時下に育まれた建築思想

 

【鬼頭】「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」についてのご意見には、私も賛成です。戦争中に、前川さんが激烈な文章を書いています。国粋主義的な圧力が強まる中、帝冠様式が出てきて、日本の伝統をいかに考えるか、に否が応でも応えざるを得ないところに、前川さんはいたのだと思います。それに対して近代建築を持ち込むときに、伝統と近代建築は前川さんにとって大問題で、そこできちんと伝統への対応を論破しないと、帝冠様式に負けるわけです。前川さんは、「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」の説明書の中で、日本の建築文化をここで表現しなければいけない、日本と西洋の建築空間とはどこが違うのか、日本の建築空間は閉ざされたものではなくて、建物の内と外とが有機的につながって展開されるのが日本的な空間だ、と書いています。それが、前川さんの伝統把握だったのだと思う。戦後も、それにずっとつながっていく。「神奈川県立図書館・音楽堂」のプランもそうです。あのプランを考えているときに、前川さんは、しきりに「一筆書き」のプランを描いていました。空間がどのようにつながって、人間がどう流れていくのか、それを建築的にどう表現するのか、が一筆書きになったのだと思う。晩年の「埼玉県立博物館」の空間構成はもっと複雑になっていきますが、一連のものは、戦前から育てていったものだと思います。

 

【布野】林さん、前川さんの戦前の評価はどうなんですか。

 

【林】戦前のことはわかりません(笑)。でも、最近になると、少し変わってきたのかもしれませんが、戦後、ずっと国粋主義とか帝冠様式に対する反感が強すぎたため、日本の建築的な形態とか伝統に対しては、否定的な時代が続きました。否定し過ぎたと私は思っているのです。いまだに抜けきっていないようにも思います。やはり、戦争に負けるとひどいものですね。六十年経っても、まだ敗戦の傷が癒えない、という気がしてしょうがない。伊勢神宮とか、日本の古典的な建築の良さは、みんな知っているわけですから、それをことさら否定しようとしたのは、まずかったと思います。

話は飛びますが、今、私は、清家清の本を作っていますが、彼は、戦後、グロピウスに招かれてドイツに行って、しばらくして帰ってきて、仕事を始めるわけです。驚いたことに、清家さんから、西洋の印象とか、影響をほとんど聞いたことがないし、作品にも出ていないのです。頭の中が戦前から連続しているんですね。本当はそういうものだと思うのです。

 

【布野】清家さんの場合は、ドイツに行ったけれども、その影響がまったくなかったわけですか?

 

【林】ドイツに行って、グロピウスのところで、仕事を手伝ったり、勉強したりして、それからヨーロッパをスクーターで見て回って帰ってこられたのですが、帰ってきた後で、「いかがでしたか?」と聞いても、「う~ん、いろいろくたびれた」とか(笑)。あの人は本当のことを言わない。でも、その影響が言葉にもなっていないし、仕事にも出ていないのは、大変珍しいことではないか、と最近になって思っています。

 

【布野】前川さんと比較すれば対照的だし、ドイツといえば、山口文象とも違いますね。清家さんの場合、伝統という意味では、日本の伝統へスーッと入っていったという意味ですか?

 

【林】スーッと入っていったようにも見えますが、ずっと前から入っていた()とも言えます。

 

【布野】ヨーロッパ的な影響を受けていないで、スーッと入ってきたとすると、前川さんとは別のタイプということですね。

 

【林】前川さんとか、坂倉さんとか、外国の影響を受けている人が、日本にはとても多いですね。でも、その影響を受けずに死ぬまでやった人は、日本の原住民としては珍しい(笑)。

 

【布野】今までにない座標軸が出てきました(笑)。松山さん、いかがですか?

 

■前川國男の変わらない眼差し

 

【松山】私は、むしろ、変わるのが当たり前だと思うのです。若いときに、「東京帝室博物館コンペ応募案」でフラット・ルーフをやった人が、最後に瓦屋根をかける。不連続なのが普通だと思う。前川さんの場合は、啓蒙しようという意識が強かった人でしょう。戦前の文章を読んで一番感じるのは、そのことです。建築家で文章を書ける人は珍しい。どういう内容かというと、呼びかけている文章です。連帯しましょう、君らも一緒にやろうよ、とほとんどアジテーションに近い。

前川さんが、建築家になりたいとどのように思ったのか、詳しくは知りません。でも、前川さんには、ヨーロッパ型の自立した個人主義、そういう人間像をこれからの日本は作らなければいけないという自覚があった気がします。その一番の証が、建築家という職能へのこだわりだと思う。建築家イコール自立した個人、という意識が、彼の中にはありましたね。だからこそ、建築家はプロフェッションとして、仕事をしながら、きちんと報酬をもらい、レクリエーションも勉強もする人にならなければダメだ、と何度も繰り返して言うわけです。彼には、近代日本人の在り方として、自立した人間を日本は作るべきだ、という使命感がものすごく強かったと思う。その点は、丹下さんと比較するとわりやすい。

丹下さんは、「群集」で考える人だった。「広島ピースセンター」以来、大衆というか、ワーッとお祭りのように集まるか、整然と並んでいるか、一九七〇年大阪万博で、お祭り広場の大屋根の下に、無定形に動くマスのような群集を想定していた人です。でも、前川さんは、思索する「個人」を考えていますね。だから、丹下さんのように、集まってお祭りをするような広場のあり方は、絶対にイメージしません。何か憩って考えている人が、そぞろ歩いているような広場です。普段見ると、少しさびしいのかも知れないけれど、そういう個人を中心において、建築を考えていた。そして、そのことを、床タイルから壁、ストリート・ファーニチャー、照明器具、そういうものすべての文法を作りながら考えようとした。そこが、前川さんのすごみだと思う。それが、今の大衆社会のようなもの、高度資本主義といってもいいのかもしれませんが、そうした流れが出てきたときに、前川さんとしては、時代とずれてしまった、という意識があったのだと思う。だから、逆に、晩年の作品に見られるように、中庭のような「小さな場所」を守ろうとしたのではないか。

 先ほど、林さんが、「テク二カル・アプローチ」に触れて、戦後、前川さんは、技術的なものを指導していかなければならないと思ったのだろう、と言われました。おそらく、それは、「日本相互銀行本店」で実現したのだと思います。当時は、コルビュジエから受け継いだ、透明な空間を作ろうと本気で考えていたのだと思う。ところが、焼き物の打込みタイルの建物、例えば、「東京海上ビルディング」を見ると、はっきりとわかりますが、超高層ビルで、全面ガラス貼りのミース・ファン・デル・ローエみたいなものを、彼は、違うな、と直感的に思ったのではないでしょうか。人間をマスで並べて、ツルンとした表情がないような建物に収容することに、自分としては納得ができない。それは、人間に対する正しい考え方ではない、と思ったに違いない。ですから、前川さんは、人間への眼差しという点では少しも変わっていない。逆に、だからこそ、建築の姿は変わっていったのだ、と思うんです。

 

【布野】八束はじめさんが、『思想としての日本近代建築』(岩波書店,二〇〇五年)という本で、前川さんの戦時中に触れていて、前川はファシストだ、とはっきり書いています。八束さんは、私に論争しましょう、と言ってきてるんですが、何で私なんでしょう。最近の京都大学の修士論文で、前川國男の書いた「覚書」が、京都学派そっくりだという指摘がなされています。ここへきて、再び、戦前への関心が巡ってきていると思います。大切な視点です。

 

■近代建築は「人間のための建築」になり得るのか?

 

【布野】先ほどの松山さんの位置づけで、なるほどと思ったのですが、前川國男が公共建築の教科書を作ったとすると、前川さんにとって、近代というのは、松山さん流に言うと、止揚されてしまったわけですね。要するにできてしまった。それが、ある意味で、現在の日本の空間、風景になってしまったとも言えますね。一方、鬼頭さんの言われた「テク二カル・アプローチ」の延長上では、あるいは、建築家の職能確立という目指してきた線の上では、「未完」ではないのか。建築家というプロフェッションの自立について未成という思いで前川さんは亡くなられたのではないか。鬼頭さんはどう思われますか?

 

【鬼頭】前川さんは、当初は、本気で近代建築は人間の幸福を約束する、と思い込んでいた、そう思いたいと願っていた。その最後の作品が、「神奈川県立図書館・音楽堂」だと思います。あそこまでは迷いがなかった。でも、それからだんだん近代建築に迷い始めた。こんなことも言っていました。コンクリートと金属とガラスは、優れたものだと思っていたけれど、コンクリートは風化する、クラックが入る、どんどん汚くなってくる、アルミ二ウムは火事に合ったら熔けてしまうし、頼りない。近代建築は、人間の存在から離れていってしまうのではないか、近代建築の本質は、金持ちのためではなくて、普通の人々の生活を支えることにあったのではないか」。 

 「人間のための建築」が、前川さんには大きな課題で、それが、近代建築では怪しくなっていって、その中で苦しみ抜いて、どこか不可解な建物も作っていったのだと思います。   私たちが仕事をしていた頃は、「建物には、マントを着せなければいけない」と言っていましたね。「建物は、裸ではダメだ、打放しコンクリートのままではダメなんだ。耐久力もないし、何を着せるのかが問題だ」と、しきりに言っていました。その上に着せる物として、焼き物にたどり着いたのだと思う。そして、晩年になると、「人間は、はかない存在だから、建築に永遠性を求める」と言っている。近代建築は人間の建築だ、という気持ちから始めた前川さんだからこそ、最後まで、模索してもがいていた、という気がします。

 

【布野】林さん、その話を受けてもらえますか?

 

■前川國男の自己否定の意味

 

【林】「神奈川県立図書館・音楽堂」までは、真正面に明るく進んでこられた、という意見には同感です。その後、ちょっと暗くなっていく。わからないのは、その理由なんです。世の中、思うようにいかないものだ、ということかもしれないけれど、その心境の変化に興味があります。晩年になると、前川さんは、パーキンソン氏病という、難しい病にかかって、体を壊されますね。そういう前兆が、いつ頃からあったのかは知りませんが、体の調子が悪くなると、仕事も変わります。そうなったら、どうしても、それまでの自分を否定するようになる。多くの作家がそうかもしれませんが、変わるだけではなく、自己否定が出てくるのが、少し辛い思いがします。

 

【布野】私たちの世代に、衝撃的だったのは、「今、最もラディカルな建築家は、何も作らない建築家だ」という前川さんの言葉です。一九六〇年代末から七〇年にかけての発言です。自己否定と言われたので思い出しました。打込みタイルは、六〇年代における、一つの転機というか迷いというか、課題だった。そして、七〇年代冒頭に、「作らない」という言葉が出される。林さんもよくご存知だと思いますが、どんな心境だったのでしょう。

 

【林】でも、作る人間としては、言うべきではなかったですね。作らなければいい()。にもかかわらず、作るから、それまでと違うものができてくる。マントという話も、私にはわからなかった。裸の打放しコンクリートでは所詮ダメだと考えられて、もう一枚外に衣を着なければいけない、ということになったのかもしれませんが、それが焼き物になるというのが理解できない。今は、みんなガラスを貼って済ましていますが、ガラスでなくても、金属でも、初心に戻れば「日本相互銀行本店」のアルミでもいいわけです。どうして、鈍重な焼き物という、日本的なものを外に貼るような心境に変わったのか、本当は知りたい。でも知りたくない(笑)。

 

【鬼頭】前川さんは、焼き物が好きだったんです。「神奈川県立図書館・音楽堂」の図書館の日差しよけも焼き物ですし、ことあるごとに、庇の先端だとかに、焼き物を試みていました。焼き物を使うと、コンクリートは収縮しても、焼き物は収縮しないから、焼き物が落下する失敗も起きます。でも、焼き物は好きでしたが、タイル貼りは嫌いでしたね。タイルで貼りめぐらせた建物を見ると、気持ちが悪いと言っていました。レーモンド事務所時代に、タイルを団子貼りして、裏に水が入ってそれが悪さをしてしまうから、タイルを貼ってもコンクリートが思うようにならない。ペタッと貼ればいいというのはよくない。タイル貼りは反対だったけれど、焼き物は好きだったと思いますね。

 

■日本の近代建築は未完だったのか?

 

【布野】松山さん、今回の展覧会を見ても、前川さんは、愚直なぐらい一貫していますね。そして、その方法が一般化していったときに、前川さんは、丹下さんと主役の交代みたいなことになっていきますね。そのあたりの位置づけというか、彼にとって近代建築とは未完だったのか、迷ったのか。前川國男の遺したものという点についてはいかがですか?

 

【松山】近代は、あらゆるものがコピーされる世紀です。前川さんは、公共建築というもので「教科書」を作ったがゆえに、そのまがい物、コピーが次々に出てきてしまった。前川さん風のものを作れば、市民に供することができる、というような定説ができあがるわけです。前川さん自身も、そのようにやろうとしていた。でも、それができたときに、例えば、広場があって、渡り廊下があって、図書館があって美術館がある、箱物行政みたいなものに陥ってしまった。それこそ、一九七〇年前後に、明治一〇〇年に合わせて、そのようなものが出てきてしまった。前川さんが作った定型をやれば、一応は、Aランチ、Bランチというようなものになっていく。そういう事態に、前川さんは困ってしまったのではないか。ある意味で、自分が扇動したことなのかもしれないけれど、同じようなものがドンドンできてくる。時には、ポストモダン風になる。前川さんも、アーチをやって表情をつけ始める。それだけ豊かになったのでしょうが、外皮をつければ、耐久性だけではなくて、外側から見ると、生姜焼き定食に海老フライがついている。そういう感じもしないではない()

 

■三菱一号館のこと

 

【松山】話は違うのですが、松隈さんに、このシンポジウムで話すように依頼されたときに、なぜ私がふさわしいのですか、と聞いたんです。私は、前川さんをそれほど知っているわけではないですから。そうしたら、二〇〇五年一月の丸ビルでのシンポジウムの話を持ち出されたのです。そのシンポジウムの話をしてもいいですか?

鈴木博之さんが司会で、パネラーが、私を含めて五、六人、コンドル「三菱一号館」を復元することについてのシンポジウムだったのです。私だけが反対した。なぜかと言いますと、そこに来た歴史家の人、ランド・スケープの人、三菱地所の人、東京都の人、全部が、取り壊された明治時代の煉瓦の様式建築を復元するから良いのではないか、という話しかしないのです。ところが、その話は、その街区の中の半分だけで、後の半分は超高層なのです。実は、東京都が、復元すれば容積を上げる、という法律を作ってしまったのです。さらにひどいことに、東京駅の周辺には、現在、戦前のオフィスビルの典型は、「東京中央郵便局」と「八重洲ビル」しか残っていないのですが、その「八重洲ビル」をわざわざ壊して、コンドルのレプリカを作ろうという計画なのです。レプリカを作ると、五階分くらいの容積が割り増しされるからです。

 

■「東京海上ビルディング」と前川國男の孤独

 

【松山】前川さんが「東京海上ビルディング」を作ったときに、こう言っている。「構造的に問題があると言われるが、それはない。環境を壊すようなことはない。交通量も増えない。交通量が増えないのは当たり前で、それまでの高さ制限が容積率に変わったのだから、広場を六割にして公開空地をとれば、高層でも容積が変わらない。だから、交通量も増えない。環境も公開空地に緑ができるのだから、むしろよくなる」と。そういう論理で説明しているのです。さらに、「アメリカの摩天楼に対するコンプレックスではない。都心で問題になっているハウジングを作ったらどうか」とも言っています。

残念ながら、前川さんが亡くなって二十年経って、話は逆転している。どういうことかというと、その頃は、容積率は一〇〇〇%でしたが、今や一三〇〇%に上がりました。さらに、公開空地を作ると、ボーナスが付いて容積率が上がり、保存したり、レプリカを作ると、さらに高く作ることができる。高く作ると、人も物も増えますから、交通量は違いますよ。いろんな制度が変わって、汐留の汐サイトなど、もともと四〇〇%だったところを、一二〇〇%に上げてしまった。これはひどい話ですよ。つまり、そういう問題が、「東京海上ビルディング」以降に、出てきてしまった。

前川さんは、「東京帝室博物館」のコンペのときに、誰に向かって、自分が今、言葉を使って伝えられるのか悩んだと思う。同じように、そのときも誰も賛成しないのです。そんな馬鹿なことをどうしてやるのか。ひどい話ですよ。三菱地所は、土地を持っているから、一街区ごとに超高層が建ちます。今後、大手町、有楽町あたりに、九十八棟も建つんです。汐サイトなど問題ではない。でも、そういうことを言っても伝わらない。非常に困った時代に入ったなと思いましたね。

それが、前川さんにしてみれば、自分もやってしまったと。後で「巨大なものは胸につかえるね」と書いています。よくわかるんです。オフィスならともかく、超高層マンションがどんどん建っていますが、前川さんはよく知っていますよ、ヨーロッパに超高層マンションなどありません。ホテルくらいです。「東京海上ビルディング」は、前川さんにとって、失敗だったのではないか。もし、前川さんが生きていたら、今回の動きに絶対反対してくれると思います。

 

■土に戻るような壁の建築を求めて

 

【松山】だから、私は、そういう時代に入ったときに、前川さんとしては、焼き物のタイルが本当に良いかどうかはわかりませんが、何も使わない空地を作ろう、という思想に戻ってしまったのではないかと思う。その中で、土に戻るような壁を作っておいて、その中に開いた中庭のような場所を作っておこう、という地点まで戻ってしまった。だから、林さんに言わせると、ずいぶん反動的に戻っている気がするだろうと思うのです。でも、せめて、そういうことしかできないのではないか、と前川さんは考えた。それで、もう作らないほうがいい、というような発言になってしまったのではないか。あれだけ責任をとって先導をしてきた人だからこそ、自分のやってきたことが一人歩きをして、違った方向に行ってしまったことに対して、考えざるを得なかったのだと思います。

 

【布野】今度の展覧会では、「時間の中で成熟する都市環境の試み」という視点から、最後のブースで、前川さんの未完に終わった計画のスケッチが展示されています。そこには、前川さんの問いかけを現代へとつなげたいという主催者の願いも込められていると思います。今の松山さんの話を受けて、林さん、前川國男が遺したものについてはいかがですか?

 

■建築家という職能確立への努力

 

【林】先ほどのお話で、超高層にしたことではなく、敷地の中での建物の作り方について、中庭を作ったり、アプローチをいろいろ工夫したり、その巧みな外部空間のデザインは、前川さんの残した大きな功績の一つだと思います。

さらに、ひと言つけ加えたいのですが、前川さんは、MIDOという組織を作って、建築家はどういうかたちで仕事をしていくべきか、と大変苦労をして、いろいろな試みをされました。しかし、それは未完に終わったのではないか、と思います。というのも、プロフェッショナル・コーポレーション、というような組織形態を残してほしかったからです。もちろん、前川さんに誰かが頼んだわけではないですが、そういう方向に、一歩でも踏み出してほしかった。

例えば、坂倉さんも、同時代にいろいろ工夫をしておられるけれど、あの方は、事務所を株式会社にはしなくて、個人の事務所としてがんばった。それはそれで見事ですが、やはり、両方とも極端で、今、会計監査法人とか、職能に応じた法人形態を作っている世界がいくつもある中で、建築家の世界は、それを作れずに今日まで来ていて、おかげでいろいろまずいことが起きている。「前川さんでなくて、お前やれ」と言われると、反論の余地もないのですが、前川さんの時代に、一歩でも踏み出しておいていただいたら、今日、実現していたのでないかと思います。それはとても残念なことです。

 

【布野】プロフェッショナル・コーポレーションとは、どんなものなのですか?

 

【林】これを話すと長くなりますが、私は、株式会社というのは、設計事務所にはまったく関係のない組織形態だと思うのです。ですから、資本金がいらない。もちろん、利益はある程度出さなければいけないのですが、利益のための組織ではなくて、プロフェッショナルな仕事をやっていくために人間が集まって仕事をする、という法人形態のことですね。

 

【布野】日本建築家協会の会長をやられた鬼頭さん、そのあたりを含めて、お話し下さい。

 

【鬼頭】前川さんは、それを志して、自分の事務所で実現したいと思っていたのですが、林さんが言われるように、その前川さんでも難しい。特に、自分の事務所でやろうとしたので、よけいに難しかったのかもしれません。事務所の中では雇用関係がある一方、一緒に仕事をやっていく仲間という関係もあって、それがうまく重ならない。基本的に矛盾しているところもあるので、事務所の組織形態が新しい形になかなかならない。たぶん、アメリカでやっているパートナー・シップについても、ずいぶん考えていたようです。私が前川事務所に入るときの話は先ほどしましたが、辞めた後、何度も事務所の中に委員会を作って、どのような組織にしたらよいかを議論していました。その度に犠牲者が出て(笑)。でも、前川さんは「うん」とは言わずじまいでしたね。

 

【布野】林さん、「やってほしかった」ではなく、「自分がやる」でいいのではないですか?

 

【林】そうですね(笑)。それで、身近なところでは似たことを試みたのです。日建設計は株式会社になっていますが、株主は社外にはいないんです。社員が株を持っている。株式会社という公共的な法人形態としては、良くないことかもしれませんが、外に変な株主が出て、この頃のように買い取られては大変だから、やらなくてよかった(笑)。持ち株会のようなものを作りまして、社員がみんな株主で運営している形態が今日でもできるのですが、人に言っても関心を示してくれないし、宣伝のしようもないですから、きちんと公に法人形態を作らなければいけない。これからの課題だと思います。

 

■前川國男展をどう見るか

 

【布野】今の日本建築家協会はどうなのでしょうか? この間の耐震偽装問題で、会長の小倉善明さんが、銀座でビラを配っていました。「自分たち建築家と、今回の問題を起こした建築士は違います」という内容のビラです。本当にそれで良いのかどうか、疑問ですね。前川さんなら、けっしてそうは言わなかったはずです。

 それでは、最後に一言ずつ、今回の前川國男展を、若い人にどう見てほしいか、をお話いただけますか。

 

【鬼頭】どう見てほしいって、よく見てほしい(笑)。展覧会には作品が出ていますが、松山さんも言われたように、同じく会場に展示されている前川さんの文章がすごいんですよ。若い方には、ちょっとわかりにくいとは思いますが、ぜひ読んでほしいですね。

 

【布野】私は、「バラックを作る人はバラックを作りながら全環境に目を注げ」という言葉が一番好きです。

 

【鬼頭】『建築の前夜』が、文集としては一番充実しています。会場でよく見てよく読んで、もういっぺん文集も読んでいただくといいな、と思っています。

 

【松山】今、耐震偽装問題が騒がれていますが、そうした事件が起きた中で、展覧会をきちんと見てほしい。世の中はコンピュータを動かすと儲かる仕組みになっていますが、建築という実体を伴ったモノを作ることがどれほど面白いことか、責任はありますが、それをぜひ感じ取ってほしいですね。

「モラル」という言葉の意味を勘違いして、「法律を守ればモラルだ」、などという馬鹿なことを言う人がいますが、とんでもないことです。モラルが一番なくなるのは戦争のときです。当たり前ですが、戦争になれば、法律も教育も人を殺せというのです。そういう時代の中で、彼はデザインの自由がなくなるからと、日本的な屋根だけでなく、いろいろなデザインがあることを主張したのです。そうした深く考え抜かれたものが実感の中で育てられて生きていく。建築とは、本来そういうものです。でも、先のことなど考えず、とりあえず作ってしまえばいい、ということで、今の建築や都市の末期的な状態がある。前川國男は、そういうことと一番遠いところで考え続けた人です。それを読み取ってほしいと思います。

 

【林】前川國男について、もう一つ、記憶に残ったことがありました。前川さんが作った建築は安物というかバラックだと言った人がいました。私もずっとそう思っているのです。「日本相互銀行本店」などは、今にして思えば、安物ですね。しかし、当時はそれどころではなくて、とても贅沢な感じを我々は持った。それだけ、世の中が変わって贅沢になったのです。でも、贅沢になった意味は何なのだろうか、とこの頃ずっと考えさせられています。贅沢になる意味はあるのかないのか。建築というのは安物ではいけないのか。むしろ安ものだっていいではないか。ものがなくて、お金がなくて、非常に貧しい状態で作ったものに、とても貴重なものがあるぞ、ということを、今日は最後に言っておきたいと思います。

 

【布野】今日は、みなさんには迷惑だったかもしれませんが、自分自身が楽しむつもりで司会をしました。充分楽しみました。これで、シンポジウムを終わらせていただきます。

 

【松隈】パネラーの方々が、舞台裏を見せるような形でお話しされたので、かえって前川國男についての視点が広がり、次の機会につなげていける印象をもちました。

私自身は、前川國男は、現在の建築や都市のあり方を考える上での大切な手がかり、「ものさし」を残してくれた人だと思います。それを共有することによっていろんなものが見えてくる。そのために展覧会を組み立てたつもりです。会場では、そうした点も見てほしいと思います。