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2023年12月31日日曜日

建築における一九三〇年代,KB Freeway,『建築文化』,198001

 建築における一九三〇年代

 

 七〇年代の幕が閉じ、八〇年代が幕を開ける。一〇年を一区切りとして、時の流れをとらえていくことは、もとより便宜的でしかないとは思いつつも、過ぎ去った一〇年を振り返り、来るべき一〇年を展望する問いに,多くはとらわれる。いくつかの雑誌が七〇年代の総括を試みる特集を組み、また、八〇年代を展望する特集を組んでいる。目に触れる多くの文章が一つの区切りを意識している。一〇年は一昔である。

 しかし、明確な形に集約される問いが、そこにあるわけではない。便宜的な区切り以上の何ものかがそこにあるわけではない。問えば問うほどむしろ、八〇年という時間的な閾が単に経過点にすぎないという意識のみが浮かび上がってくるようにみえるはずである。「七〇年代から八〇年代へという時間的な推移が七〇年代の対自化ということを要請しているとしても、七〇年代がいかなる時代であったと問うことは、基本的には空しい営みに終わるほかない」、「七〇年代においては実際に何ごとか起こってはいる、と言いうるだろう。それが何であるかということは明確に指摘できはしないし、あるいはこれからやって来るであろう八〇年代という時代においてそれが明瞭な像を結ぶということでもないかもしれない」「だからここではもはや七〇年代から八〇年代へといった方向性を問うことはやめて、そのような問いを曖昧さの中に差し向けてやることしかできないのである」といった言い方こそが、そこでは支配的なのである。

 問題は、そうした問い方自体にすでに存在していると言ってもよい。しかし、そうした問い方によって明らかにされる地平は、すぐれて状況的であると言える。おそらく、七〇年代的パラダイムと呼びうるものによって、その時代を振り返へることは可能であろう。解体の時代、空白の時代、不在の時代、引用の時代、周縁の時代。知の戯れの風景において、頻繁に発せられた言葉たちによって、七〇年代という時代を特徴づけることができる。しかし、われわれはその時代の終焉を確認することができない。やがて八〇年代のパラダイムと呼ばれるものが明確な差異をもって現れてくるかどうか、その予感はないのである。六〇年、七〇年という時点と比べてみれば、それは一層明らかなように思える。一九六〇年代という時代区分が単なる便宜的な区切り以上の意味をもっているのは、六〇年安保、七〇年安保といった政治的課題のメルクマールがわれわれの時代意識に大きな影を落としているからであり、しかも、それが戦後復興・・戦後の終焉・離陸・・高度成長・・破錠という戦後過程に対応しているように思えるからである。そして、それぞれの時点ですでに、ある一つの先行する時代の終焉が意識され、少なくとも具体的な課題がそれなりに共有されていたように思われるからである。しかし、われわれは必ずしも、七〇年代を一つの区切られた時代として意識化しえない。八〇年代へ向けて具体的な課題が共有されているわけでもないのである。七〇年代は、その時代を特徴づける求心的な何ものかを生み出しえなかった。拡散的な経験のみがそこには存在している。七〇年代の総括の試みが、個別の作家や作品、出来事についての記述の羅列という形をとるのはそれ故にでもある。ある意味では、六〇年代末から七〇年代初頭にかけて確認された一つの時代の終焉を、確認し続けたのが七〇年代であったと言ってもよいのである。

 「私たちは七〇年代の思想状況を二重の解体のコンテクストとして読むことができる。ひとつは幻想的な普遍性のエクリチュールの解体過程であり、もうひとつは、知的な普遍性のエクリチュールの解体過程である。そしてこの解体が多様な現実を私たちに見せると同時に、思想的な求心性の解体であることによって、人々は根拠と希望を求めてさまよったのである」と小阪修平は言う*[ii]。そのさまよいは今なお続いているし、ここしばらく続くであろう。七〇年代の経験に、確実な何かを見いだしえないが故に、そう言わざるをえないのである。

 「観念的ラジカリズムの終焉」という、小阪が七〇年代に対して与える総括は、ある意味で七〇年代という時代をくっきり浮かび上がらせると言ってもよい。しかし、「私はこの小論で、観念的ラジカリズムをひとつの自然過程としてあつかってきた。したがって、私が七〇年代に読んだ、観念的ラジカリズムの終焉というコンテクストに、正の価値を与えるか、負の価値を与えるかは読者の自由である。」と、あえて注記するように、その終焉の確認において、八〇年代がくっきりと見えてくるわけではない。むしろ逆である。確かに、観念的ラジカリズムは、七〇年代において、市民社会の外部=周縁ーー第三世界、土着、辺境、日本的なるもの、差別、身体……ーーへ向かい、それを一つの希望としてとらえようとしてきた。ある意味では、その希望が拡散的な状況を生み出してきた。しかし、それぞれの希望が裏切られ続けてきたのが七〇年代なのではないか。自然過程としてとらえる限りにおいて、そうした意味で観念的ラジカリズムは終焉したのだ、と小阪修平は言うのである。こうした認識の地平から何を展望しうるのか。少なくとも、その終焉を負の価値ととらえるものにとってそれは厳しい。安易に希望を語りえない状況の困難性が、根底的なレベルで意識されるはずである。確かに、周縁的なるものへの希望は知の表層で語られ続けたのであるが、周縁的なるものへの具体的な回路を見いだしえなかったと言いうるからである。

 建築における七〇年代は、近代建築の解体と建築そのものの解体(商品化)という二重の解体のコンテクストにおいて、多様な表現を生み出してきた過程であった。ポスト・モダニズムとかポスト・メタボリズムとか呼ばれる状況がそれである。しかし、それはまた、その時代を特徴づける求心的な何ものをも生み出しはしなかった。拡散的な七〇年代の経験のみがそこに同じように浮遊したのである。

 そうした状況を最も的確にとらえ、体現してきたのが磯崎新である。彼は、中心性の解体を逸早く予感し、主題の不在、空洞の時代がかなりの深さと長さで進行していくことを予想しえていた。それ故、彼は、そうした状況に対して有効な戦略を展開しえたのであり、広範な影響を及ぼしえたと言ってよいの。「建築の解体」、「主題の不在」、「引用」、「手法」、「修辞」、「記号論」………。彼の発した言葉、論の展開などすべてそのまま建築の七〇年代におけるパラダイムを形成したのである。

 しかし、彼は七〇年代を通して、「建築の解体」状況を、そしてそれによる拡散状況を突破する確実な方向を提示しえなかった。「空洞の中心への吸引を常に感じながら」「中心の空洞にむかい合うことを避けられなくなりつつある」ことを予感しながら、「建築の地層」をさぐり当てねばという意識に駆り立てられながら、次なるステップは必ずしも彼のうちで収斂していかないのである。ある意味では、きわどいバランスの上に位置してきた彼にとって、そうだとすれば状況は次第に困難となりつつあると言える。例えば、次第に大きくなりつつある概念建築に対する否定的な声は、状況が次第に困難となりつつあることを彼に意識させているはずなのである。

 日本における建築のそうした状況は、とりわけ、若い世代の建築家たちの評価をめぐる議論において確認することができる。石山修武の「新傾向の一部について」*[iii]と林昌二*[iv]の「歪められた建築の時代ーー一九七〇年代を顧みて」*[v]をひき比べることによって、あるいは槙文彦の「平和な時代の野武士達」*[vi]と鈴木博之*[vii]の「貧乏くじは君が引く」*[viii]を読み比べることにおいて、建築の小状況における対立の構図の一端を手に入れることができる。

 ある規模意識、使命感、秩序意識に照らせば、建築の七〇年代は「平和な時代」であり、「実りの少ない時代」であり「歪められた建築の時代」でしかない。そうした規範意識を強烈に提示するのが林昌二である。それは、観念的ラジカリズムの終焉を建築において、まさに正の価値として確認しようとするものと言ってよいであろう。

 市民社会の外へ向かった暴力(反日武装戦線による三菱重工ビル爆破事件、間組、鹿島建設など海外進出企業に対する一連の爆破事件)が建築とその環境を閉鎖的なものに変えたこと(暴力による歪み)、建築ジャーナリズムの演出によって、高度成長、学園紛争の落とし子たちによる、「虚しくも華麗な、実物大小住宅のあだ花が咲いたこと」(情報による歪み)、日照権をめぐる紛争が法律化までゆきついた事件に象徴されるように、ほしいままの権利主張が建築の自由を奪ったこと(権利主張による歪み)、さらに、エネルギー・ショックが、建設から維持、撤去まで含めた全過程をとらえて資源の節減・再利用を図るためには、どのような取組み方が必要かという形では論じられず、省エネルギーのための代替装置の開発にすり換えられていることを指摘しながら、林昌二は過去への復帰(保存、伝統的様式)は何ものも生み出さない。今ようやく、高度に発展した工業を背景として現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟したのだ、と言うのである。

 そこには、テクノロジー、テクノクラシーを基盤にする建築家の極めて正統的な価値意識が示されていると言えるであろう。そこで示されている規範意識は、依然として支配的である。それは、ある意味では近代建築を支えた規範意識である。また、「建築が健康さを取り戻すよい機会」とか「変転を越えて生き続ける建築の生命」という言い方に示されるような、「建築」に対する限りない信頼において書かれる価値意識である。

 しかし、建築あるいは建築家のアイデンティティそのものが問われていると考え、近代建築の解体を見据えようとするものにとって、そうした支配的な意識こそが問題であった。工業的なるものがもたらしたものが、商品と交換の世界の一般化にほかならないのであり、工業社会そのものに対する根底的な懐疑から出発するものにとって、決して「高度に発展した工業を背景として、現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟した」と見ることによって、新たな展望を語ることはできないのである。若い建築家たちや、保存や日本の伝統的様式への関心に対する林昌二の評価は,極めて厳しくポレミカルである。しかし、問題の構図は停止したままであることに変わりはない。テクノロジーあるとは工業的なものに対する評価の決定的差異がそこにあり、それを前提とするものが支配的な現実に対峙し得、それを否定的媒介とするものが、「社会性を欠いた小世界」に閉じ込もり、あるいは芸術や文化や知の領域へ平面をずらしていくという構図がそれである。七〇年代において、若い建築家たちに大きな影響を及ぼした磯崎新にとって、少なくとも、それは出発点において見えていた構図である。「テクノクラートに味方するか、あるいはデザインを放棄するか、この二者択一しか残されないとしたら、建築の思考は,当然のこととして不毛に陥らざるを得ない」のであり、それに陥らない新たな地平の模索こそが、彼の七〇年代の作業であったと言いうるのである。それが「アートとしての建築」、「小世界への自由」として現れざるを得なかったとすれば、またその限界すらも見えてきたとすれば、その新たな地平の模索がますます困難な状況を迎えつつあることが意識されるだけなのである。

 もとより、そうしたアポリアは、若い建築家たちにおいてより意識されている。「まさに千載一遇の大世紀末へと雪崩れ込んでゆく時の巡り合わせに遭遇した」ことをあえて「僥倖」と言いながら、「現在を大世紀末の洞穴への入口であるとするならば、その漆黒の大迷路をくぐり抜けるためには、よほどの身構え、気構えが必要なことは明白で、そのための準備、修練をおさおさおこたってはなるまい」「千載一遇の大世紀末洞穴へくぐってゆくのには余りに軽装備、灯りも小さく、ほとんど丸腰,無防備なものの多さばかりが目につく」と石山修武が言うとき、それは明らかであろう。石山修武自身がいかなる根拠と希望に基づいて「漆黒の大迷路」をくぐり抜けようとし、いかなる準備、修練をつんでいるのかそれ自体は興味深いことである。しかし、そこには、極めて鋭く状況の困難性が予感されており、したたかな覚悟が示されているのを見ることができるはずである。単に、建築ジャーナリズムにおいて、「高度成長の、あるいは学園紛争の落とし子たち」が「虚しくも華麗なあだ花を繰り広げて見せた」「幕間の寸劇にしては長すぎる舞台」の幕が下り、「本舞台」の幕が開くといったレヴェルでのみとらえられてはならないものが、そこにはあるはずである。状況は、若い層においてはるかに厳しいと言えるのである。七〇年代の疾走を雑誌の特集という形で振り返る機会を得た原広司もまた、繰り返し状況の厳しさを語っているはずである。固化しつつある状況を逆手にとり、いかに活性化、流動化しうるか、それこそが問われているのである。

 建築界がますます分断化されていく状況の中で、共有化された場はますます待ちえなくなりつつある。そうした状況において八〇年代を展望することは気が重い。われわれの日常のさまざまな局面につきまとうどうしようもなさは、漠然と暗鬱なる世紀末を予感させる。そうした漠然とした危機感がやがてとてつもない方向へ組織されるのではないかという不安が先に立つ。そうした中で、中心の空洞へ向き合うことがいかに可能か。共通の地層,地下水脈を果たして探り当てることができるのか。われわれは、ここしばらくは、さらに、希望と根拠を求めてさまよわねばならないのである。

 七〇年代における建築の拡散的状況は、いくつかの関心を浮上させてきた。それらは、「市民社会」、工業、テクノロジー、近代といった中心が排除してきた、周縁的なるものへ眼を向けてきたものであると言ってもよい。第三世界、亜細亜、東洋、ヴァナキュラーなもの、様式・装飾・折衷主義、沖縄、被差別部落、和風・数寄屋・日本的なるもの、地域、共同体………。しかし、それらは、いくつかの例外を除いて、単に眼差しとして対置されたにすぎない。単に眼差しとして対置する限りにおいて、それが現実をつき動かす支配的趨勢に対して力を持ちえないことは明らかであった。

 いま、われわれはおそらく磯崎新の『建築の一九三〇年代』がいち早く提起したように、少なくとも建築における一九三〇年代を想記すべきであろう。そうした関心をめぐるプロブレマティークのほとんどを見いだすことができるからである。そうしたさまざまな関心が、やがて、産業合理化、生産力増強、節約、建築の統制、建築新体制といった過程でなしくずしにされていったことを見ることができるからである。それを支えたのが、テクノロジーを基盤とする実務の思想であったからである。

 



*[i] KBFreeway、『建築文化』、一九八〇年一月。

*[ii]  「観念的ラジカリズムの終焉」、『流動』七九年一二月号 特集「検証ーー七〇年代の思想と文学」)

*[iii]  『都市住宅』、七九年一二月。

*[iv] 林昌二

*[v]  『新建築』、七九年一二月。

*[vi]  『新建築』、七九年一〇月

*[vii] 鈴木博之

*[viii]  『新建築』、七九年九月。




 

2003年1月 静かな年明け?  1500号記念特集順調! 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌           布野修司

 

2003年1月    

 静かな年明け?

 1500号記念特集順調!

 

2003年1月1

 静かな年明けであった。暮れから、専ら『近代世界システムと植民都市』(仮)の執筆。また、ついに年を越すことになった『アジア都市建築史』の最後の校正。昨年末書いたけれど、最後に来て、応地利明先生からかなりの赤が入った。冷や汗ものである。でも、一段とレヴェル・アップしたと確信。まあ、4月の新学期までには出るであろう。

 海外から新年のメール3通。スリランカ、北京、フィリピン。

 暮れも押しつまって、伊加賀さんも、ようやく時間がとれたのであろう。5月号特集案ヴァージョン3が送られてくる。かなり煮詰まったと思う。タイトルには、もう一工夫いるか。

 

建築雑誌20035月号企画案3  (全40ページ)

建築物の総合環境性能評価とラベリング:建築界はどう対応するか?

建築主と設計者が、環境に関する成績で格付けされる時代に突入した。厳しさを増す建築界を生き残るのは、そのような動きに対応できる者だけかもしれない。

英国のBREEAM1990年)、米国のLEED1995年)、国際的取組みのGBTool1998年)など、建築物の資産評価につながる評価・表示システムが次々に公表・改定されている。 

日本では、建築物の環境配慮計画書の提出を建築主に義務付け、内容をインターネット上で公表するという東京都の施策(2002.6施行)など行政側からの動きも加速している。また、国際標準化機構(ISO)では、サステナブル・ビルディングの評価とラベリングに関わる国際規格化作業が進行し、本会地球環境委員会が発信した「サステナブルビルディング普及のための提言」や国土交通省住宅局の支援で進められている建築物の総合環境性能評価システム(CASBEE)の研究成果が引用されている。

本特集では、建築物の総合環境性能評価とラベリングに関わる国内外の最新動向を基に、厳しさを増す建築界を生き残るために、今何をすべきかを考える材料を提示する。

          【担当編集委員】伊香賀俊治(日建設計東京環境計画室長)

                 石田泰一郎(京都大学大学院助教授)

羽山 広文(北海道大学大学院助教授)

岩下  剛(鹿児島大学大学院助教授)

 

●座談会 (2月上旬までに座談会開催)

建築物の総合環境性能評価とラベリングに建築界はどう対応するか?1,2 8ページ

1:周辺環境との親和性評価、町並み景観評価をどうやっているのか?事例を挙げながら討論

2AIJ総合論文誌創刊号(2003.2)掲載予定原稿「ケン・ヤン(マレーシア):今日のエコデザインを考える」(現状の環境性能評価システムを手厳しく批判)、()建築環境・省エネルギー機構の「IBEC20031月号:建築物の総合環境性能評価特集号」を事前配布予定。

●巻頭解説

(1)総合環境性能表示を巡る世界の動向(仮題)  6ページ(和訳)

レイモンド・J・コール(ブリティッシュ・コロンビア大学教授)

翻訳:横尾昇剛(宇都宮大学助手)

ブリティッシュ・コロンビア州におけるLEEDの急速な普及など、世界的な潮流となりつつある建築物の環境性能ラベリングの動向をはじめ、BREEAM(英国を中心にアジア、オセアニアで普及)、LEED(米国を中心にカナダ、アジアで普及)、CASBEE(日本から世界へ)などの世界の動向を通して、いまなぜ、環境性能ラベリングなのかを読者にわかりやすく述べていただく。

サステナブル・ビルディング国際会議(2002.9オスロ)と日本・カナダ共同ワークショップ(2002.10バンクーバー)での基調講演をベースに。

(2)総合環境性能評価・表示手法の国際規格化(仮題)   4ページ

 ISO/TC59/SC17Sustainability in Building Construction)における国際規格化の最新動向(アセスメント規格検討WGコンビナーとして)、日本の建築家は世界で通用しなくなる?

ISOを説明する背景情報として、LEEDBREEAMCASBEEが各国でどのように位置づけられつつあるかについて、R.Cole教授の原稿をもう少し補足?

●行政の取り組み

(3)建築物総合環境性能表示を巡る住宅・建築行政(仮題)     2ページ

住宅性能表示制度、省エネ法改正、CASBEEの展開、サステナブル・ビルディング国際会議2005(東京)など、国の最新動向を紹介していただく。

(4)インターネットを活用した建築物環境情報公開制度の波紋(仮題)    4ページ

東京都建築物環境制度に基づくインターネットでの70件の環境情報公開に対する建築主、都民の反応を、日本・カナダワークショップ(2002.10)でのカナダ側の反応も含めて紹介していただく。また、地球温暖化対策計画書提出義務付け(2002.4施行)、CO2排出権取引市場創設検討など、建築主の意識改革を促す取り組みも合わせて紹介していただく。

●環境先進企業の取り組み

(5) 環境経営と建築(仮題)     2ページ

環境先進企業における環境経営について、建築への注文も交えながら述べていただく。

(6) 企業の環境格付けと建築(仮題)     4ページ

環境経営学会の環境格付け研究、本会建築設計ブリーフ特別研究委員会での研究を通して、企業の環境経営に建築界はどのように貢献できるか、すべきかを述べていただく。

●巻末解説

(7)建築物総合環境性能評価でわかること(仮題)  8ページ

伊香賀俊治(日建設計東京環境計画室長) 

産官学で開発されたCASBEEの概要と評価事例(建築学会賞、環境・省エネ賞などを受賞した10件程度の評価事例(匿名となるか?)を交えて解説

 

2003年1月2日

賀状に返事を書く。「なんとか頑張ってます」という書き添えがやけに多い。不況感はますますつのる。しかし、それにしても、海外で暮れ、正月を過ごす日本人は史上最大だという。まだ、余裕があるということか。史上最大にマンションが建つと言うし、どこかおかしい。お金の使い方が違ってきているのであろう。

 この間、送って頂いた本を読む。というか、ぱらぱらと頁をめくる。本も売れないのであろう。建築洋書の東光堂の倒産はびっくりだけれど、さもありなん。

坂本一成、『住宅-日常の詩学』、TOTO出版、200111・・・・・・一昨年の展覧会に合わせた作品+論考

飯島洋一、『現代建築・アウシュヴィッツ以後』、青土社、20025・・・・・テロ後に合わせるように出たタイムリーな現代建築論。

リチャード・ロジャース、『都市 この小さな惑星の』、野城智也・和田淳・手塚貴晴訳、20025・・・・・・・ロジャースの都市論。都市再生への7つの提言。

 鈴木成文、『デザイン大学学長日記Ⅲ』、神戸芸術工科大学、20025・・・・・現在は『文文日記』とか。

仙田満、『環境デザインの展開 コンセプトとプロセス』、鹿島出版会、2002年7月・・・・・・・・これまでの作品を具体例として、教科書、参考書として書かれたもの。作品の数が多いのにびっくり。

 青木義次・浅野平八・木下芳郎・広田直行・村坂尚徳、『一目でわかる建築計画 設計に生かす計画のポイント』、学芸出版社、20028・・・・・・設計のポイントがイラストつきで344例。教科書としてまとめられたもの。建築計画の原点のような本。アメリカの建築設計製図教育のための本がヒントになっているという。

 山口昌伴、『日本人の住まい方を愛しなさい』、王国社、2002年9月・・・・とにかく多産な作家の最新日本住宅論。随分読んだけれど、それでも随所に、え、という指摘があるのがすごい。

柏木 博、『20世紀はどのようにデザインされたか』、晶文社、20022月。『モダンデザイン批判』、岩波書店、200211・・・・・柏木さんも実に多産。

南 泰裕、『住居はいかに可能か』、東京大学出版会、200211・・・・・原研究室出身らしいタイトルになつかしい。京大ではすれ違いで南君とはじっくり話したことはないけれど、期待したい。処女論集。

 

2003年1月5日

 昭和堂松井さんから、メール。産休もあけて、本格的に仕事に復帰とか。『アジア都市建築史』が初仕事である。

 

2003年1月6日

 仕事始め。

 早速メール。3月号原稿が何本か入った。正月休みに時間を使って頂いたらしい。

明けましておめでとうございます。
今年はいよいよ後半戦、今年も頑張ります。
本年も宜しくお願い申し上げます。
建築学会 小野寺・片寄

 

田中麻里委員から

皆様
昨年は大変お世話になりありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

2月号の尾坂氏の改訂原稿送付します。
茅葺き屋根に対するお考えは以前よりも分かりやすくなったのではないかと思います。親方によって異なる葺き方や補修の仕方があり、優れた技術や方法もよく知られないまま個別に対応している状況に危機感を持たれていて、今回は本差しという補修の仕方を紹介したいとのことでした。職人として茅葺き屋根を持たせる方法は思考錯誤しながら考えるので、建築雑誌の読者で設計に携わる方々には、茅葺き屋根を残しながら現代の生活様式に適応した住宅(または改築)を積極的に提案してほしいとのことでした。いかがでしょうか。よろしくお願いします。
田中麻里

 

茅葺き屋根をもっと残すために
                             尾坂 勝
 京都府美山町は、茅葺き集落が伝統的建造物群保存地区に指定されている自治体です。この美山町には10年程前には300棟を超える茅葺き屋根がありましたが、現在は200棟を切り、年々減少の傾向にあります。この減少の原因は様々ありますが、第一には葺き替え費用の大幅な負担にあると思います。昔ながらの生活様式が続いていた間は、茅葺き屋根は矛盾のないものでした。しかし、今の生活様式は昔とはあまりにも隔たっています。このような中で材料の茅を刈ったり、乾燥、保存をしていくのは、かなりの負担となります。しかし、このような負担がありながらも、茅葺きの良さには多くの方が気付かれてきているように思います。
 茅葺き屋根が減少する状況のなかで、職人としていかに寿命を延ばすことができるかを考え、補修方法の一つを提案をさせていただきます。補修方法には「葺き替え」、「差し屋根」(差し茅とうもいう)、「本差し」などの方法がありますが、紹介するのは本差しと呼ばれる方法です。一般の補修は「差し屋根」と言い、傷んだところとその周辺に短い茅を差し入れて補修するので、例えていえばタイヤのパンク修理のようにまるでツギを当てたようなものです。これに対して、「本差し」は風化して傷んだ所を引き出して、新しい茅を入れて元の厚みにしてもう一度刈り揃えて、まるで葺き替えたかのようにする技術です。あまり知られていない方法かもしれませんが、優れた技術の一つです。本差しの利点は葺き替えのように屋根を解体せずに補修できることです。したがって、材料の消費が少なく、工期も短く済みます。また、差し屋根のように長い茅だけを使うのではなく、切った短い茅、少し長い茅、強い茅と様々な材料を組み合わせて使うことによって、材料を無駄なく使いながら、耐久性を持たせることができる方法です。
 その方法は簡単に言うと、風化した古い部分を削り、新しい茅を補充して屋根の厚みを増やします。具体的な工程は、(1)屋根草を手で引き出します。このとき引き出す長さは風化した部分を削って仕上げる長さより少し長いくらいです。(2)風化して傷んだ部分をハサミで切り落として揃えます。(3)押さえ竹の下に茅を差し入れます。この差し入れる量は片手一握りの量です。そして茅の一部を重ねて、一枚の板のように入れていきます。(2)(3)の作業で厚みが不足している所へ茅を補充します。(4)厚みがそろったら「たたき」と言う道具で突き揃えて屋根の表面をならします。(3)(4)までの作業を繰り返して、棟際まで補充できたら刈り込みをして仕上がりです。写真を参照して頂けば、よくおわかりになると思います。
 なぜこのようにしてまで、一軒でも多くの萱葺き屋根を残したいのか。これは茅葺き職人の仕事が少なくなることを憂えて言うのではありません。茅葺き屋根の減少は単に古い形式の家屋の減少ではなく、伝承文化の消滅を意味しているのではないでしょうか。今日、我々は日本固有の文化を秒単位のスピードで失いつつあるのです。では、どうすればいいのでしょうか。その手本がイギリスにあると思います。イギリスの茅葺き職人であり、茅葺き学校(サーチスクール)副校長のロジャーRoger Evansさんは、こう言います。「40年前のイギリスは、ちょうど今の日本と同じ状況だった。しかし、我々は学校を作り、すべての地方の葺き方を調査し、職人の技術の向上を目的として合理的な葺き方に統合した。そして職人たちは研修を通して葺き方のレベルを向上させた。そうして茅葺き屋根をより信頼しうるものとすることに精魂を傾けた結果、現在の繁栄を迎えることができたのだ。」茅葺き屋根やその補修技術が一定の質を保つようになれば、居住者の方々の信頼も得られるというわけです。もちろん、今すぐ茅葺き学校を作ったり、研修をしたりということは無理かも知れませんが、その前に文化財以外の多くの茅葺き民家が減少しては意味がなくなります。一度失ったものを取り戻すのは、気の遠くなるような努力が必要となります。職人としては、茅葺き屋根の寿命を延ばす技術を考えますので、多くの建築家の方々には茅葺き屋根を残しながら、現在の生活様式に適応することができるような技を考えて頂きたいと切に願います。

 

2003年1月7日

 第19回編集委員会。議題は以下の通り。

1.前回議論の確認……………………………………………………………(資料1)

2.特集企画について

  ○進行状況の確認

  ・2月号「アジアのなかの日本建築」表紙・扉のアイデア…………(資料2)

  ・3月号「巨大地震を前にして」

  ・4月号「建築コストと市場-バブル崩壊後の展開と将来」(岩松委員)

  ○企画案の審議 …………………………………………………………(資料3)

  ・5月号「建築物の総合環境性能評価とラベリング」(伊香賀委員)

  ・6月号「異種混合が生むデザイン」(古谷幹事)

  ・7月号「建築形態の数理」(大崎幹事)

  ・8月号「日常生活の環境知覚・行動」(岩下委員)

  ・「高齢者社会のデザイン」(小野田委員)

3.連載について………………………………………………………………(資料4)

   ・6月号までの執筆者確定

 メインは、6月号。最近のデザインの最前線を紹介する、ということであるけれど、なかなか煮詰まらない。しかし、古谷、小嶋、塚本、勝山の委員が出席で何とかなる、と一応安心。ハイブリッド、というか、異種のものの組み合わせが新たなものを生む、というストーリーである。

 8月号も若干議論。

 9月号の建築年報号。2002年のテーマとして、①豊郷小学校問題、②コンヴァージョン、③東京開府400年、④2003年問題、⑤構造改革特区、⑥          、・・・などあがる。

 

2003年1月8

宇治市景観審議会。東京国立のマンション問題で、条例違反の部分をカットするようにとの画期的判決が出て、広原盛明会長、かなりの意気込みであった。

地域の眼、羽深先生から原稿届く。忙しい中、手を入れて頂いた。感謝に堪えない。

 

林業復興と保存再生      羽深久夫 札幌市立高等専門学校助教授

 

林業復興

 明治2年(1869)に蝦夷地から北海道に改名されて現在に至るまで、林業は北海道の基幹産業の一つと考えられてきた。しかし、現在では道産材育成は林野庁の補助事業に頼るしかなく、育成した檜(ヒバ)や杉も知名度の低さから本州材として市場に供給されている。このような状況下にある道産材の活路を見い出すために、平成149月に3ヶ年計画の「木の良さ再発見事業(古材の再生)検討委員会」(事務局:北海道空知支庁経済部林務課)が設置された。目的は、道民が木の良さを再認識できる仕組みを構築するという啓蒙精神に貫かれている。空知支庁管内に残る昭和30年代初頭までに建築された木造建築の残存状況を調査した上で、①建設廃棄物と処理される木材の廃棄物量の削減しながら木材のリユース・リサイクルを促進すること、②木材の良さ・大切さを再認識しながら古材の再利用を通して木材の需要拡大に対する意識を向上させること、③古材の再利用を促進するために提供者と供給者をつなぐ情報ネットワークを確立し新たな流通システムを構築して産業の活性化を計ること、を目指している。同時に、歴史的建造物の保存再生も視野に入れ、積雪寒冷地において再利用する時に求められる耐震性能や気密・断熱性能確保についても検討を行う。

北海道版保存再生

 木の良さの啓蒙を踏まえながら従来の文化財や新たな建設市場の開発とは異なった視点で歴史的建造物の保存再生を考えることは、北海道発の新たなモデルケースになれるのではと委員長を引き受けた。京都府農林水産部林務課の呼びかけで発足した「古材バンクの会」(会長:永井規男)はその先駆的な活動であるが、本州とは大きく歴史的環境が異なる北海道での活動は異なった歩みをたどるであろう。「歴史的建造物」や「保存再生」のとらえ方は、ユネスコのベニス憲章や文化庁の精神を遵守した上で、国や地域の特性を活かしたものでいいのではないだろうか。㈶建築保全センターから発行された『公共建築物の保存・活用ガイドライン』は有効な指針と思われるが、歴史的・経済的環境の異なる北海道ではマニュアル化された保存再生方法では適用できない事例が多いように思われる。今年度新たに国重要文化財指定を受けた明治初期建築で現役の旅館である福住旅館は、国文化財指定に新たな視点を開いたと同じように、空知支庁の委員会が日本や世界に向けて新しい歴史的建造物の保存再生の考え方を示せればと考えている。

保存再生の展望

 空知支庁では旧道立滝川畜産試験場機械庫(旧農商務省滝川種羊場機械庫 大正10年)が道有財産の民間活用第1号として移築再生されている(写真1)。また、北海道は近代化遺産(16施設)等を対象とした道建設資材リユースシステムの施行も検討している。開拓以来、炭坑と農業で栄えてきた空知地域は炭坑施設が注目されてきたが、木造建築の恣皆調査を進めるにつれ、茅葺農家が予想以上に残っており、昭和47年にまとめられた民家調査を補完することができることも分かってきた。空知郡栗沢町砺波地区の宮森家住宅は、富山県砺波市からの入植者の住宅で、明治35年の建築である(写真2)。一部は砺波から移築したものと伝えられるが、広間部分の「枠内」と呼ばれる梁組は砺波地方の民家のものであり、入植者の故郷の民家形式と北海道の民家形式の関係性は、大工の出身地を含めて今後の民家研究の視点になるであろう。

 建築史の研究者として、歴史的建造物の保存再生が、林業の復興、建設廃棄物のリサイクル促進、地元産業の活性化、民家調査の補完と民家研究の新たな展開と確実に社会的認知度と研究領域を拡大させていることは望ましいことである。また、建築設計教育に携わる者としては、保存再生の方法論やデザイン手法を取り込んでゆかなくては今後の建築設計教育が成立しないと考えている。

はぶかひさお

1955年新潟県生/東京工業大学大学院博士後期課程満期退学/熊本大学大学院博士後期課程修了/近世住宅史/博士(工学)

札幌市文化財保護審議会委員、放送大学大学院客員助教授

 

2003年1月9

 昨日の宇治市景観審議会について、傍聴人からの意見がメールでおくられてくる。

  ○ 都市景観形成の基本方針についての事務局作成の冊子について、活発な議論がなされ、より身近な問題として都市景観を考えることになりそうです。

  ○ 事務局(行政側)と審議会委員メンバーとの意見の「乖離」も、折々うかがい知ることができました。市民の立場からすれば、良い適格なメンバーを選んでいただいて心強く思います。

  ○ これからの経過を、ずっと見続けていきたいと思います。宇治の景観を私たちの手で作っていく、このことを実感しましたが、それをはばむものの正体も見えたような気がします。

  ○ 宇治市は、商業・工業都市になることを考えているのですか。それとも、世界遺産をグローバル的にアピールして静かな観光地とその保存を市の姿勢とされますか、どちらをとるかが宇治市の将来につながっていくと思います。特徴のある市にしていただきたいです。

  ○ 人は、宇治に世界遺産を見にやってくるのだと思います。そして宇治川畔で宇治茶をゆっくりいただいて、心を非日常に遊ばせ、また忙しい個々の生活に戻っていくのです。また宇治を訪れたいと思いながら。このような人の営みを大切にして、平安時代からの宇治の地を静かで雅な市として発展していって欲しいと思います。

  ○ 平等院からの高層ビルには、マスキングを早急にお願いいたします。お客様を案内するときに、いつも恥ずかしく思っています。

        ○ 宇治の持つ歴史的・文化的景観を、維持し発展させるのは行政と市民の協同の任務と思う。

        ○ 本日の審議会を傍聴して強く感じたことは、行政側の担当者の発言と審議会委員との間に論点の差があるということである。

  ○ 冒頭担当者(市側)が言われたように、「市が全てのことを知っているわけではないので、広く市民の声を寄せてもらって景観形成地区を考えていきたい」であれば、審議会委員の発言を積極的に受けとめる姿勢がみられてもいいのでは。なにか躊躇するものが感じられたのは、なぜか。

  ○ 問題の中心となった世界遺産の平等院の背景の問題について、広く市民が本当に誇りに思えるものならば、双方で一致点を見いだすことができると思う。その努力を市はしていないのでは。宇治橋通付近の方々だけにアンケート調査をされたようですが、狭い考えと思い行政の責任者の知性と品格を疑われても仕方がないのでは。

  ○ 基本方針案については、市民の声を聞く姿勢も伺われ市民として大変うれしく思う。

審議会委員長の広原先生をはじめ、今日の委員の方々を推選された方に声援を送りたい。力量の良さ、人間的にも素晴らしさを感じた。

 

2003年1月10

最初の授業。来週がセンター試験の準備で休講だから、いきなり試験。大変な出席で、こんなに授業受けていたのかいな?

 佐藤浩司先生から、

『普通の生活 2002年ソウルスタイルその後』(INAX出版)

が年賀状代わりに届いていた。

 

渡辺豊和さんの京都市文化功労賞祝賀会の打ち合わせ。案内状の文章を書く。

京都からの発信 建築のフラクタル

渡辺豊和先生の京都市文化功労賞受賞祝賀会

 

ご案内

 この度、私たちの敬愛する渡辺豊和先生が京都市文化功労賞(2002年度)を受賞されました。その快挙をお祝いすべく一夜の宴を企画いたしました。皆様、お誘い合わせの上、是非、ご参集下さい。

 ご承知のように、渡辺豊和先生は、この数年、満を持して作品の構想を練っていらっしゃいました。そして、昨年、新しい方法が閃いたのだそうです。それと期を一にする受賞は実に絶妙のタイミングと言えるでしょう。

 新たな構想については、ホームページをご覧下さい。URL:http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/

 鍵は宇治の平等院であります。その新たな方法の秘密の一端を少しばかりご披露いただき、お祝いの酒の肴に致したいと考えます。

題して、「京都からの発信、建築のフラクタル」

お酒を片手に、30分程度、そのさわりをご講演頂く予定にしております。

久し振りに豊和節を堪能しましょう。

未曾有の不況の真っ只中でありますが、お目出度い受賞は私たちを勇気づけます。お目出度い受賞から元気を分けてもらおうではありませんか。

渡辺豊和先生は京都市文化功労賞を受賞したのだから、これを機会に京都でも仕事をしたいとおっしゃっています。京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動もその一端でありますが、さらにステップ・アップする謀議もしたいのだそうです。

是非、お集まりいただけますよう、重ねてお願いいたします。

日時 20033月1日 18:00会場 18:30開宴

場所 京都市国際交流会館 

   〒606-8536 京都市左京区粟田口鳥居町2-1

    tel 075-752-3010

 

20031

2月号、1500号記念特集号、座談会原稿が続々届く。

ライデンで会った。プライオから、建築のアジア用の原稿届く。結構面白い。検討してもらおう。多分採用になるだろう。

 

Rumah Gedong as Euro-Asian Transcultural Architecture

in Indonesian Archipelago

 

By Pratiwo

Rumah Gedong is a manifestation of the transcultural context between European and Asian culture. They emerged from the 18th century in Java until the mid of 20th century and in other island from the mid of 19th century till before Independence Day.

In the interior of Kalimantan Rumah Gedong were firstly built by the Dutch located at a river bank side by side with the market and indigenous houses. Later on the Banjar merchants built their houses in similar architectural style using wooden material.

The traditional house in Kalimantan, called Betang, belong to the indigenous Dayak people. The houses are long and large in which live several families. The houses were built on a wooden pile and at least 2 meters high above the ground. To enter the house one should pass through a narrow stair from a tree trunk.

This traditional house had influence on the development of Rumah Gedong, both in scaffolding construction, or just the image of long house in different style. They were also built in wood and crafted, has pyramidal roof on which top there is hip knops. The house construction was built on piles of one meter high. The wooden wall plane of the building is divided into vertical lines as the lines of doors and windows. The proportion between the wall plane and the roof is 1:1.

The interior of the houses are following the spatial organization of common town house in Indonesia, The guest room as located at the front side. The kitchen and the bathroom are located outside of the main building. The house has several bedrooms that are adjacent one to another.

The building is located in the oldest part of inner city that is on the river bank near the quay. The Rumah Gedong in many Kalimantan cities is town house with single roof in which live a nucleus family. In opposite to the Betang houses, Rumah Gedong is smaller and has many windows.

The best Rumah Gedong ever found in Kalimantan was the house of the resident in Sampit. It takes the image of long house so that the façade was tall column supporting the second floor. The construction of the Rumah Gedong is in wooden material that crafted ornamentally. The window is swinging of which centre is at the centre of the window frame. The floor is using Chinese ceramics of the best quality. The roof is using sirap. The house facing to the east is oriented to a large saw mill. By standing at the balcony the resident could see the activity inside the saw mill.

Rumah Gedong represent a meeting of European and Asian architectural tradition in the urban of Indonesian archipelago spread from Sumatra in the West to Papua at the most eastern side of the archipelago. It generated several town houses with different finishing but in the same style.  They still exist today, await to be demolished in the near future for urban modernization.

[1] Trained as architect and urban planner at Gajah Mada University (Ir) and Katholieke Universiteit Leuven (M Arch), and attending summer course at Institute for Advanced Architectural Studies in Barcelona. Received his PhD in architecture from Technische Hochschule Aachen 1996

2 See Yudomo et al, Research on Traditional dayak Architecture, Udayana University,      1981: 41, Kampffmeyer, Anno, Die Langhäuser von Zentral Kalimantan, Anacon München, 1991.

3 Sirap is roof cover from wood

 



 

200313

山形酒田の井山武司さんのところに修行に行っていた運営委員長渡辺菊真が一時帰ってきたので、今年の京都CDLをめぐって打合せ兼新年会。

 

200314

英語の授業。嫌でしょうがないけれど、まあしゃべれた。毎年同じようなことをしゃべっているから慣れて当然か。しかし、リフレッシュする必要がある。目次は以下の通り。毎年尻切れトンボになるけれど、なんとか話をまとめることができた。

Cities in the 21st Century 14.01.2003 

The Cities  and  Housing Problems in Developing Countries

 

1.Cities and Urbanization in the Developing Countries(Regions)

 (1)Characteristics of Urbanization Process in the Developing Countries

        Levels and Velocity of Urbanization

     Primate City and Urbanization

        Over urbanization, Urbanization without Industrialization

    Colonial City-Plural Society-Dual Economy-Urban Village

    

 (2)The Process and Structure of Urbanization

    Theory of Urbanization and Developing Countries

         ortho genetic-hetero genetic   generative-parasitic

         urban involution

    Subordinate-Urbanization

  2.Cities and Urbanization in Indonesia

       Typology of Indonesian Town

        Kampungs that has own values

        Dominant Issues of Kampungs

 3.Housing Policy and Technologies in Developing Countries

 (1)The Outline of Housing Strategies

     A. LOW COST HOUSING

    B. SLUM CLEARANCE

    C. SLUM UPGRADING

    D. SITES & SERVICES

    E. RESETTLEMENT IMMIGRATION

    F. RURAL HOUSING

 (2)Housing Projects

 4.Global Environmental Problems and Sustainable Development

  The Club of Rome 1972 The Limits to Growth 1992 Beyond the Limits to Growth

 Sustainable Development 1987 UN Conference on Human Environment

 South-North Issues

 

4月号の座談会をめぐって、岩松さんからメール。

 

来年の第5回国際アジアの建築交流委員会について栗原さんからメール。

各地の補助金について調査しておりました中から(12月の補助金説明会において)4つの地方都市から積極的なアプローチがあります。
 転送いたしましたのは,島根県松江ですが,その他 新潟,金沢,宮崎です。いずれも700万~800万円は補助いただけるとのこと。
皆様 重慶のように4泊かまたは3泊はされると思いますので,参加者(県内宿泊者数)が300名になれば,上限いっぱいの補助が受けられます。
さらにそのうち50名以上が外国人参加者(県内宿泊者数)であれば,プラス100万ほか様々なサービスが受けられそうです。ちなみに,福岡市は2004年開催分は申請が多く既に予算一杯に決定済みであり,残額が無いとのこと。
お隣の北九州市はお話した感触では,300万から500万ぐらいといった感じでした。次回委員会にはこれらの都市からの提案資料も一応提出しようかと思いますが,予算獲得はこの不況時においては大変な問題ですので,一応ご検討いただけますでしょうか。
日本建築学会事務局
栗原いず美

 

2003年1月19

 宇治市都市計画マスタープランのためのワークショップ。日曜日だけれど、出掛ける。びっくりしたことに、市民百人参加。全体を6グループに分けて、宇治のまちづくりをめぐって意見を出し合う。

 開催に先立って、京都大学防災研究所の岡田憲夫部会長が名講義。参加していて楽しい会となった。結構盛り上がった。

 

 ワークショップ風景。


2003年1月21

一月号が一足早く届く。年末が入ったのに優秀だと思う。既に、2月号がふる回転である。 磯崎・藤森・松山鼎談も小野寺さんから届く。

 

2003年1月24

2月号特集のための写真送る。前書き書く。

2003年1月27

研究室のP.パントさんの論文にJAABEの結果が不採用と届く。理不尽な理由で、審査員がちゃんと査読したかどうかを疑う内容。異議申し立てできないのは大いに問題。

 

 

2003年1月28

 先日の宇治市都市計画マスタープランのためのワークショップの意見が届く。概ね好評だったようだ。 

◆自由意見・ワークショップの感想◆

今後も参加したい、20年後といわず10年後を具体的な計画が必要

今後もこういう機会をどんどん持ち、住んでよかった町にしたい。

活発な意見を聞け、いい勉強に、皆宇治を愛しているんだな。これからも期待してます。

楽しく参加でき、勉強になった。20年後すこしでも住みやすい街になれば。このような機会を何度も持ってほしい。

自分の住んでいる宇治の事を考える時間が持てて感謝です。実行は大変だが、行政、研究者、市民の意見交換をかさねていくべき。

今日はマスタープランとはどんなことか聞かせてもらったが、地域間の話題がいろいろありおもしろかった。若い人の参加を多く。

20年後いないかもしれないが、皆と意見交換でき楽しい経験になった。

宇治の良い所、改善する点などなかなかできないものだと感じた。

初めての事で戸惑ったが、積極的な意見がありよかった。20年後を担う若者の参加し多くの市民の生の声を聞き計画に反映しすばらしい未来を。

鳥が来る、木・森が増える地を再生する思いが皆の心にくすぶっている事がわかりうれしかった。

決められた時間内に進行・まとめられるのが、ワークショップではないのか

今日のキャッチフレーズでは、若者は来ないと思った。

今回のワークショップ良かった、どれだけの意見が検討されるのか

もっといろんな事でワークショップを開いて欲しい。

◆自由意見・ワークショップの運営方法◆

今回のような会を多く行い、市民にPR、ホームページにも情報を載せ、参加できなかった人にも情報公開の場をもてるようにしてほしい。

今後も多くのワークショップを開き、近未来的な話題の設定をしてほしい。

ワークショップを広く、多くできるよう努力し市民レベルが上がればよい。

年齢構成を考え、ワークショップを各地域で多く開催し、意見等のフィードバックも忘れずに。

ワークショップの立ち上げ支援をどうするのか。

今回の報告まとまり次第見たい。

市民が主体的にワークショップなど、協議する場をつくってほしい。

ワークショップを地域別に開催するのは問題あり。もっと生活圏を基に見直すべき。

多くの人と、地域でワークショップを定期的に開催し、行政と一緒のほうがよい。

各地域ごとが良い。事前に内容の連絡があればよい。勉強会できるよう指導してもらい、行政にも足を運んで意見を充分反映してほしい。

国、京都府全体の整備計画の中で、宇治市はどうあるべきか、地域とのつながり、少地域にしぼると全体的な未来が見えてこない。

次世代の若者が興味をもつような、ワークショップになるよう、上の人だけでなく、広く参加者を求め、ジェスチャーにならないように

5年、10年の区切りをつけ、確実に取り組みを。ワークショップの状況を市民全体に伝えてほしい。

都市計画の地域の用途見直しが必要、もっと実状の解るひとに委員になって欲しい。

KJ法より討論型式の方が内容がわかり易く、役所関係の出席はよくない。形にこだわり過ぎ。

この話合いが、どのように行政に反映するのか。リードする人間が必要。

住む地域により、考え方、感じ方の違いを感じた。事前にPRし市民の声を聴き、フィードバックしてほしい。

メンバー選択方法が知りたい。事前に自己学習しておくと効率的。将来的にも若者の参加を。

課題が多く、時間が少ない。広く市民にアピールし、意見を集められるように。

もっと多くの市民参加を、情報公開も積極的に知らせ、きめ細やかなワークショップづくりを。

もっと多くの人が参加し、多様・多層の意見が必要。

若者の参加と、内容の理解が大切。

地域別ワークショップに期待はあるが、参加者の年代・性別、若者の参加を考えて欲しい。

各町内会長、自治会長が多く参加した方が良い。

このような機会を、小さい単位でやってほしい。言いっぱなしではなく、成果を。

◆自由意見・まちづくり一般◆

道路、交通網の整備等生活者の視点で考えてほしい

急がず、市町村合併は先送りでもマスタープランを優先し、多くの会合を設けて欲しい。

20年後の宇治市について、大いに話合い、住み慣れた、楽しみのある街づくりを。

地域住民の意見を聞き、よりよい宇治への反映を。

行政と市民の協力で、行政優位でないスタイルの定着を期待する。

全体会合も大切だが、地域をまとめ、行政参加できる街づくりを。

多くの中学、高校の学生にも参加してほしい。

地域の大切なことを、具体的に議論できる場ができれば。

これからの行政は、市民と双方が協力し進めるのが大切。たくさん会を開き、意見を汲み上げ、ずれが生じないように軌道修正し、20年後の街づくりを。

時間をかけ住民の意見を聞き、人情・街づくり的によくなるように、参加しない人にも状況報告し興味あるものに。

早く合併し、高齢者に住みやすい、新しい宇治の都市になってほしい。

木幡六地蔵の北玄関町づくり。

20年後の街づくりは、市民の意見・考えを集約し行い政も支援したシステムのもとで、市民が責任を持ち安心して誇れる街に。

市民の一部だけでなく、関心のない人と相対する会は意味がない。身近に発表・発信できる場を、官・民ともにつくるべき。

世界遺産をもつ宇治市だが知名度は低く、これからの売りは大切。市民と市職員の理解と協力があり、市民ボランティアの補助も必要。

 

2003年1月31

今月も2冊送ってもらう。

 尾島俊雄監修、『完全リサイクル型住宅Ⅲ』、早大出版会、200212・・・・尾島先生には早稲田大学理工学研究センターのシリーズを次々に送って頂いている。すごい生産量である。

 辻本敬子、ダーリング益代、『ロマネスクの教会堂』、河出書房新社、2003年1月・・・・名古屋大学の辻本誠先生から奥様の最新作。