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2025年7月28日月曜日

日本建築の亡びるとき,対談:布野修司・宇野 求,建築討論002,日本建築学会,201409

日本建築の亡びるとき,対談:布野修司・宇野 求,建築討論002,日本建築学会,201409https://www.aij.or.jp/jpn/touron/2gou/jihyou003.html 


建築討論委員会 建築時評003 20140509

日本建築の亡びるとき

対談

布野修司(滋賀県立大学・建築討論委員会委員長)

宇野求(東京理科大学・建築討論委員会幹事)





布野:ようやく創刊号を立ち上げることが出来ました。いよいよ、出発ですね。2週間で1800ぐらいのアクセスがあったようです。

 ところが、今日は委員の皆さんが出席できないということで、宇野先生と対談ということになります。皆さんが売れっ子で忙しくてなかなか時間が取れなくなっているということはうれしいですが、もう少し、委員を若手に拡大しないと、活性化しないかもしれませんね。

宇野:委員会は、隔月開催です。委員の皆さんは、もっとも多忙な建築家や大学人で八面六臂の活躍をしているなかで、このメディアを立ち上げています。メンバー構成として充分アピール力はありますが、もう少し若手建築家や大学人に浸透していくといいなと思いますね。こうして記録がアーカイブとして残されるのは活動として大いに意味があることで、皆さんから認めて頂いているわけですし。1990年代までは、建築メディア上に活発に議論する場があったわけですが、建築や建築を巡る議論、あるいは意見を交わすそうした場の雰囲気というか意義について、そういう経験の薄い現在の若い世代の人たちはピンと来ない面があるかも知れません。その面白さと大切さを分かってもらうように努力しましょう。

布野:次回は、是非若い人たちにも声をかけましょう。建築会館の「建築書店」も30人ぐらい集まれるらしいから、「建築書店」で定例化するのもいいかもしれない。

 


夢と現実-香月真大君への期待

布野:始めましょうか?といっても、今回は007008、同じ設計者ですね。香月真大さですが、実は、Facebookで知っていて、会ったことないですが、活発に情報発信している若い建築家ですね。Facebookで建築討論委員会のことを紹介しますが、まだ応募が少ない、と書いたら、出します!と応答してくれました。どうも、石山修武さんの研究室の出身らしいですよ。弟子として認められているのか、破門?されたのかは知りませんけど(笑)。石山研究室からは随分ユニークな人材が育っていますね。僕が知っているだけでも、森川嘉一郎、馬場正尊、芦澤竜一、坂口恭平と多士済々です。

宇野:一見すると、同じ設計者の応募作品には見えません。石山さんの研究室の出身と聞くとちょっと納得いくところもあります。しかし、それはそれとして、007では、サルバドール・ダリの「建築は柔らかくて毛深いものになるだろう」という言葉を引いて、自作を説明しています。コンセプチャルにアプローチしているわけです。タイトルは、「柔らかい石」ですから、硬さと柔らかさ、抽象と具象、・・・相対するもの、相矛盾する事物の混交といったイメージでアプローチしているのですが、つくっているものはある種のシステムのように見えます。設計者なりの「幻庵」を目指しているのかもしれない。

布野:これは遊具でしょう。

宇野:遊具です。遊具ですが、これがどういう効果を及ぼすのか、僕にはちょっと分かりません。

布野:幼稚園に付属する展望台+遊具ということですね。1800モデュールの3600のキューブが傾いていて、中は三層、トラスで組まれている、「反住器」(毛綱モン太)までとは言わないけれど、面白そうな入れ子の空間構造を考えていますよね。ただ、木造と鉄骨とアクリルというけど大丈夫かなあ。

宇野:仙田(満)さんの初期の傑作の遊具を思い出します。メビウスという名前の遊具があって、とにかく本当に子供が喜びそうな遊具です。説明を要しない。だけど、この007の遊具で子供が楽しめるかどうかちょっと疑問な感じがします。着想が、観念的すぎるような気がします。

 二つ目(008)は、建売住宅です。これも言葉にひかれます。「ショートケーキ」という言葉に。石山さんが以前言っていた「ショートケーキハウス」は、多少デコラティブにおしゃれをした建売住宅をそう呼んで、建築批評的に扱ったということでした、ファンタジーを建築化することで、お弟子さんとしては感化されたかもしれないけど、ちょっと見ただけでは、普通の工務店さんがやるミニ開発とどこが違うかわからない。

布野:石山さんが「ショートケーキハウス」というのは、宇野さんが言うような意味であって、商品としての住宅を揶揄するニュアンスがあったけど、この香月さんは「ショートケーキのように切売りする住宅」というから、ちょっと違うんじゃないの、と言いたくなる。007の説明文には、「無力さを感じて何も出来ないと思って行動を起こしていない建築家は多い。だけど僕らがすべきことは復興に向けて提案し続けることではないだろうか?」と書いているから、建築することに対して随分意欲満々なことはわかるけど、ここでは何を仕掛けているんだろう?アイロニーなのかもしれないけれど、随分自虐的な気がしないでもない。

宇野:やるのであれば、批評性が欲しいところです。

布野:若い人が自立して設計を始める場合、身近なのは住宅ですよね。今や著名な大建築家になった建築家でもみんな最初はローコストハウスを如何に実現するかについて格闘してきた。ただ、1250万円で、全ての部材部品を標準化し・・・・、というだけじゃなくて、何か提案つまり全体としての表現が欲しい。

宇野:新しさを表現することがむずかしい。先輩たちがもう繰り返しやってきちゃったから、施工もノウハウを蓄え鍛えてきているし。

布野:デザイナーズ・ブランドの住宅もあれば、無印住宅」っていうのがある。

宇野:小さな家を建てて住む、というのは、日本の文化的伝統にもあるし、政府の持家政策がそう仕向けてきたという実状と、そこに課題もあります。しかし、そうした小さな夢を繰り返し再生産し続けていいのか、と思いますね。国交省は「100年住宅」とか「200年住宅」とか言い出したりはしてきましたが、それは持家-貸家問題、建材・ストック・廃材の同期問題だととらえるのが本質的でしょう。木造建築・木質建築についていえば、山林の手入れ、木材生産と木質建築の生産・ストック・廃棄の同期問題に帰着します。フローはフローできれいに流れるのが適切で、ストックはストックで長く使うというのだから、しっかりと計画設計施工運営をはかっていけばいい。

布野:石山さんが師匠だとすれば、住宅生産のあり方への提起も期待したいですね。僕は、木造住宅はスクラップ・アンド・ビルドでいい、と思っています。「200年住宅」というのは建築家の首を絞めると思うし、低炭素社会を本気で考えるのであれば、木を植えて消費する必要がある。ただ、戸建で高齢者が一人で住むのは余りにもエネルギー・ロスが大きい。木造のコレクティブハウスなり、複合施設のプロトタイプをつくる必要がある。とにかく、香月さんは、最前線にいるわけだから、そこから何ができるか見せて欲しいですね。

宇野:そうですね。

布野:是非二つの仕事を自分の中でつなげて欲しい。こっちは夢、こっちは仕事というように見えてしまう。

宇野:夢は夢で追って、現実には現実的に、っていうスタンスは、あまり感心できませんよね。両方が一致するところをねらって、頑張ってもらいたいと思います。

建築メディアの役割-『作品選集』と『建築討論』

布野:応募作品については以上ですが、あとは対談ということになります。どうしましょう。宇野さんと対談するのは初めてのような気がしますが、勝手にしゃべればいいというわけにはいかないので、まずは、宇野さんが前回提案されていたように、2014 作品選集』を覗いてみましょうか?学会賞(作品賞)も発表されて、この建築討論委員会の委員である山梨智彦さんが受賞されました(http://www.aij.or.jp/2014/2014prize.html#p3a)。学会賞委員会、作品選集委員会があるわけですから、個々の作品がどうこうというのではなくて、メタ・レヴェルの視点、最近の作品の傾向とか、作品選定の仕組みとか、メディアの役割とかを考えてみたらと思います。宇野さんは建築選集、建築選奨、両方の審査選考委員会の委員長として、『作品選集』201220132年間責任者として苦労されたわけですが、感じられていることはありませんか。討論委員会からは伊藤香織さんが委員として参加されていますが、選考の所感などざっと読ませていいただくと、『作品選集』がどんな価値をもつのかを議論してみてもいい、といったことを書いている委員もいらっしゃる。1年で100作品ですか。年間数え切れないぐらいの建造物が立つ中で100を選定するわけですよね。その評価のフレームというのは一体何か、ということですね。建築討論委員会に応募される作品はどういう位置づけになっていくのかということにも関係してくると思います。応募作品004は、2014 建築選集』にも選定されていますね。

宇野:『2014 作品選集』をざっと見て、水準は非常に高いと思います。また、この書籍の場合、英文テキストが載せてあることが重要です。

布野:最初の立ち上げは栗原嘉一郎先生(当時筑波大学)だそうです。建築計画委員会から『作品選集』のようなメディアが必要だという提起があったのがきっかけだと思います。

宇野:最初は、英文はなかった。25年、四半世紀継続してきたことが、とても大切なこと重要でしょう。10年で1000件の選抜された建築作品がアーカイブされたことになります。クオリティは高いし、規模も用途もヴァラエティがある。近年、アジアの都市が台頭してきて、そこでも多様な建築が建造されてきましたが、『作品選集』に掲載された建築の方が、製造物としての仕上がりの質は高いでしょう。

 アジアでは、ものすごい量の建設活動が行なわれて、コンピュテーションの普及もあって、見えがかりのデザインの水準は上がってきている。しかし、たとえば、南方だとモンスーン気候で、日射も強く激しい風雨にさらされるので、建築には厳しい気候だといえるし、高層建築のエレベータなど機械設備のメンテナンスの問題もある。近代建築を支える技術の移転継承などについても、『作品選集』は、日本の建築情報を俯瞰収集するのに重宝がられているのではないかと思います。長い間、アジアの国々の建築界では、欧米のArchitectural Recordhttp://archrecord.construction.com/)とかArchitects Journalhttp://www.architectsjournal.co.uk/)、Progressive Architectureなどの影響力が大きかったのだろうと思いますが、最近では、そうですね、ヨーロッパが統合して以降は、スペインのEl Croquishttp://www.elcroquis.es/Shop)とか、オランダの『MARK(http://www.frameweb.com/magazines/mark)などが影響力をもってきた。イタリアのCasabellahttp://casabellaweb.eu/)や『Domus    http://www.domusweb.it/it/home.html)などの古参メディアも、そろって英語を添えたweb版を出し始め、もちなおしてきている。他方、アジアの建築メディアは、シンガポール、香港、韓国、中国で立ち上がってきましたが、独自の建築文化都市文化を掘り下げるとことまでは、まだいっていません。そうしたなかで、日本の100選が継続的に記録されているこの媒体は、ユニークさとレゾンデートルを獲得できるのではないかと思います。

 付け加えますと、『建築選集』の選考の過程には、全国的に多数の建築家、技術者、建築学研究者が参加しています。数百万円もの予算を投じ、多数の専門家がたいへんなエネルギーをかけて選考が行われています。何重にも書類選考を行ない、現地審査を行ない、 公平厳正に選定しています。多様な価値観のクライテリアが現れる仕組みです。

布野:英文での情報発信の意義、クオリティの高さはその通りだと思います。しかし、アニュアルですし、作品当り見開き2頁という形式なので、『Casabella』などとは違う性格のメディアですよね。現地審査による相互学習、相互評価はすごくいいと思いますが、問題は、集められ方、そしてこうして集められたものの全体が意味するもの、発信するものは何かということだと思います。

 少し前の中国はすごかった。建築計画委員会を4年間(20062009)預かったんですが、春季学術研究集会は全てアジアの国の首都で開催した。ソウル(2006)は一緒でしたね。漢陽大学の朴勇煥先生と一緒に飲んだことを覚えています。翌年が北京で、台北、ハノイと続けましたが、北京で中国建築学会を表敬訪問したら、秘書長が200枚ぐらいのスライドを見せてくれました。各省の支部から集めたんでしょう、ものすごくヴァラエティがある。悪く言えばしっちゃかめっちゃかで、ポストモダンの百花繚乱といった感じでした。その時思ったのは、中国建築は一体何処へいくんだろうということでした。

宇野:日本大学の広田直行さんが、『作品選集』何年分かのデータを整理して分析していましたが、そうした分析を建築学会としてしたらいいと思います。巷で「失われた20年」といわれた時代に実際はどのような建築が評価されてきたのかとか、こういう傾向にあったとか、建築討論委員会として議論してもいいんじゃないですか。

布野:『作品選集』に集められたものは日本建築の実力ということで、それをアーカイブしていく意義はわかるんですけど、集められているものが全体として示しているのは何か、言葉を変えれば、日本の建築が目指しているものは何か、ということが気になる。そういう共通の目標や方向は最早ないんだ、ということでもいいのかもしれませんが、でも全体として、ある水準、クオリティを示しているし、共有化された何か、パラダイム、一定の雰囲気があるじゃないですか。2014作品選集』をざっとみて、もう10年ぐらい印象は変わりません。大きな組織の作品そしてプロフェッサー・アーキテクトの作品が多い。建築のクオリティという面では大きな組織の作品群が支えている感じがします。今回の作品賞の三作品のうち、二つは組織の作品ですね。作品賞については、選考委員を務めたことがありますが、作品賞は個人の賞だ、という方針が強くあったように思います。僕のときにも、ある受賞作品について、共同設計者を受賞者から外した例があります。委員長の独断だったので抗議しましたが。また、つい最近、同じように共同設計者が外された例があります。だから、二作品が組織の作品というのはある時代を表しているような気もします。僕自身は、建築作品は基本的には集団の作品だから複数の受賞者がいるのは当然と思っているんですが、ただ、個人を特定するのは原則です。象設計集団のように、集団名としてでなければ受賞しない、といった例もあった。難しいですが、音、熱、光、構造などについて様々なシミュレーション技術が要求されるようになってきているから、組織的な力が無いと仕事がこなせなくなっている状況があるんだと思います。もうひとつの篠原聡子さんの作品は、住宅スケールの作品ですし、『作品選集』には応募していないんですよね。それはそれでいいわけで、作品賞と『作品選集』そして作品選奨を別の次元のものとすべきだということは、僕も主張してきたところです。

宇野:『作品選集』の場合、300-330程度の数から最終的には100選びます。支部で現地調査を行い予選で選抜された130-50程度の建築が、本部審査委員会で書類選考されで100に絞られます。この段階では現地調査はされない。だから、100選んでみると、おっしゃるように比較的手堅い作品が選考される傾向はあるように思います。一方、作品選奨となると、必ずしも、組織事務所が手掛けた建築が選ばれるとはいえません(http://www.aij.or.jp/2014/2014prize.html#p6)。オリジナリティの点で少し及ばないんでしょうね。最終的には残れないことも少なくありませんでした。荒削りでも可能性のある作品をピックアップするには、審査委員の眼がポイントになります。審査そのものについては、公正公平に行われていまして、丁寧な手続きを踏んで学会あげてやっていますので、評価して頂いていると思います。審査委員の選考方法については多少の改革を進めていまして、やはり設計家としての実績を重視したいと思います。歴史家ももう少し入ったほうがいいと思います。長年やってきていますので、作品選奨受賞者も相当いらっしゃるわけで、半数以上は、選奨受賞者に審査委員になって頂ければと思っています。作品選奨については、信頼性が高く建築設計の顕彰制度として、もっとも水準が高くまた信頼性も高い賞として定着したと考えています。建築学会の「作品選集」は、選考が権威主義的だというご批判をいただいたりしてくこともあるようです。その辺は、各支部での選考についての議論であるようなのですが、改めるべきは改めていかなければ、と思います。「作品選集」の選考はプロセスも公開されますし、専門誌が特定の建築家を取り上げて応援するのとは違うスタンスで、むしろより多くの設計者に扉は開かれています。

布野:商業雑誌が若手建築家をプロモートしてこなくなったということが、そもそも『建築討論』の創刊のひとつの大きな理由ですね。そうすると、若手をもっと応援することを常に意識しておく必要がありますね。香月真大君頑張れ、ということですね。これからどういうものをつくっていけばいいのか、もうちょっとやれよ、これはちょっと!とか、走りながら考えていこう、というような感じでしょうか。

 もうひとつ、『建築選集』へのプロフェッサー・アーキテクトの先生方の投稿が目立つのは、大学で業績を求められることと関係していますよね。そもそも、その立ち上げにはそういうモメントがあったと思います。

宇野:黄表紙(論文集)と同等の位置づけということで、各大学それぞれですが、概ねそういう理解がなされるようになったと思います。大学の先生のみならず、別な観点からですが、組織事務所でもプロモーションの基準になっていると思います。

布野:そこで昨今の日本建築のシーンですが?

宇野:選ばれたものを並べてみたら、モダニズムが洗練されてきている、ということでしょうか。バロック的なものは選ばれていない。全体として数寄屋のほうに向かっているんじゃないか。モダニズムの洗練が評価基準になっているような気がします。

布野:もうずっと、そういう傾向が続いているんじゃないでしょうか。バロックではなくて、バラック・モダニズムと秘かに言っていたんですが、とにかく、ローコスト化を強いられる中で、スマートにまとめることが求められている。バラックは兵舎、この場合は安上がりというニュアンスで使うんですが。木村利彦さんと組んだ山本理顕さんの「はこだて未来大学」はその傑作だと思います。戦後の最小限住宅とか日本相互銀行本店(前川國男)の時代を思い出した。現在は、様々な道具が使えるから、性能をあげ、ディテールも色々工夫できる。それが蔓延している感じですね。しかし、バラックにはバラックの美学がある。石山修武さんが『バラック浄土』1982)を書いた頃も思い出します。2回「けんちくとうろん」公開座談会「日本近代建築の百年 19142014」(http://www.aij.or.jp/jpn/touron/touron2.html)でテーマになった「建築の1970年代」ですね。僕なんかは、基本的に表現派、コスモロジー派に興味があるから、もう少し、バロックも欲しいですね。ただ、リノベーションの作品がもう少し選ばれてもいいんじゃないですか?

宇野:東京スカイツリーにしても、NBF大崎ビルにしても、社会的には大きな意味があります。建築的な価値については議論すればいいと思いますが。確かに、リノベーションが少ない。僕が担当したときに、選奨に入ったというので大議論になりました。表現の多様性はありますが、その骨格になっているのはモダニズムの洗練ということだと思います。作品の背後には、少子高齢化する地方の問題とか、省エネの問題とか、数年後には顕在化するだろう様々な問題は見えているんですけど、それを建築作品としてピックアップできていない、その点が弱いかもしれませんね。

布野:『建築選集』の作品の背後にある問題を見開き2頁の情報からそれぞれ読み解くのはなかなか難しいですね。『建築討論』の役割のひとつはそこにあるような気がします。つまり、どういうテーマがあるのかを明示して議論することですね。

 

英語の世紀の中で-言語と建築

宇野:今日は、本を二冊持ってきました。ひとつは水村美苗さんの『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)、もうひとつは、歴史学者(日本建築史)、関野貞先生の『日本建築史講話』(岩波書店、1937年)です。

 最初の本は、数年前に出版された書き下ろしの評論です。タイトルがセンセーショナルで、日本語が亡びるというのですから穏やかな話しではありません。共通語としての英語は、19世紀の英国、20世紀の米国の時代を経て、21世紀にはインターネットの時代を迎え、世界共通語としてさらに普及、拡がりを見せています。情報の受け渡しには便利ではありますが、「母国語」ないし「国語」ではないために、深い内容や表現の記述力を身につけることが難しく、それ故、奥深い、込み入った話し、あるいは微妙なニュアンスや地域の環境文化に付随するコミュニケーションには適さない。「普遍語」としての英語で表現すると、すべてを平準化してしまう。グーグルがそれを加速していて、言語世界も図像世界もあらゆることをビット化、つまりデジタル化する作業を行っています。デジタル化された成果では、全てが均質化されます。言語は本来、それぞれの環境的文化的固有性に根ざして発生してきたわけで、日本の場合、古代の「現地語」から始まり、やがて「普遍語」としての漢語の到来、「国語」が同時に発生して環境文化との相関の内に発展する。こうした図式のもと、古今和歌集から始まって近現代の日本文学をクロノロジカルに振返る壮大なエッセイです。

布野:今、文部科学省は、グローバル人材の育成ということでやっきになっていますね。大学には、国際化せよ、というプレッシャーは相当かかっています。一方で、COCCenter of Community)といって、地域のことをもっとやれ!ともいうんですが、国際的に開いていかないといけない日本の現在がありますね。楽天やユニクロなどは、社内は全て英語で会議するという時代ですね。

宇野:この本で著者の水村美苗は、江戸時代から明治時代に移行したときの言語の混乱と近代後を創造構築する文学者の努力と葛藤について論考を加えています。たいへん面白い。文明開化を国是とした明治の日本では、まず、近代的な概念を表す言語としての西欧語を日本語に翻訳する努力が払われます。たとえば、「建築」という語は、「Architecture」および「Building」に対応する語として造語されます。日本社会では、奈良時代に導入された漢語、平安時代には仮名文字が発展し「国語」として独自の文学を生み出していきます。その後、公式文書は主として漢字に仮名をそえた文語で書き記され、口語を文字で記載することは、必要とされなかった。江戸時代に発展した芝居の脚本には、口語を文字で記述することがあり、また黄表紙などの戯作が庶民に愛されたことは知られていますが。さて、明治時代には、士農工商の封建階級制度が廃止され、江戸時代に培われた庶民文化が、導入された近代社会システムとシンクロナイズして爆発的に発展します。そうしたなかで、夏目漱石をはじめとする近代小説家たちは、新聞という媒体を通じて、ベストセラーを出していく。小説の創作を通じて、近代日本語を創造していきます。言文一致が目指され、口語体にマッチする新しい言語創造にむけた懸命な努力が払われます。そして、そこで創作された日本文学の数々は、世界水準の文学の高みに達していたと水村はいいます。なぜか。こうした文学者たちは、一方で、文語の素養を身につけていたからだといいます。儒教や漢学、江戸末には国学も展開されているなか、西洋の学問を導入する必要にせまられ、地域文化を表記表象する「現地語」、公用言語としての「国語」の高い素養を身につけて、さらに「普遍語」としての英語、ドイツ語、フランス語の日本語化に努めていたのだというわけです。そこに、近代社会が到来して、異質の文化が交差した明治から昭和に日本では水準の高い近代文学が成立した、という。しかるに、現代の日本文学は世界的には通用しない、なぜならば、「現地語」、「国語」の双方を培う地域文化地域社会が失われて、「普遍語」としての英語とさらにはインターネットを介する共通語としての英語の普及がすさまじいから、というわけです。ローカリティが喪失し、言語も「普遍語」だけで交わされるようになれば、日本文学なるものは失われ、日本語も亡びる。

布野:村上春樹なんか、欧米だけでなく、中国でも韓国でも翻訳されて読まれているわけですよね?

宇野:村上春樹は今日的な意味での普遍性を獲得したといえるのではないでしょうか。彼の小説は、日本文学ではなく、現代世界文学なのでしょう。はじめに綴られる言語が日本語だとしても、そこに描かれた世界は、日本ローカルの事象によっているのではない、ということがポイントです。だから、世界中で多くの言語に翻訳され、それで交感ができて、世界的に受け入れられている。建築で言うと、妹島(和世)さんの提示した建築が対応しています。「より薄くより軽く」は、伊東豊雄さんのオフィスで与えられた命題だったのですが、彼女は独立後間もなく、自分自身の問題として、強い形式性、あるいは少しずらした形式性を、現代の素材と技術を用いて揺すぶってみせた。世界の文脈から見たときに、欧米の建築史の延長上に、普遍性を獲得した世界建築がここにうまれたと解釈されていますが、彼女の建築も、また、伝統的な意味での日本建築ではない。もちろん、現代日本でないと、うまれようのなかった建築ではあります。文化的コンテクストとは別に、現代というものがもつ普遍性に触れることで、彼女の仕事は、中国でもラテンアメリカでも、ヨーロッパでも米国でも、人気を得てきました。とくに若い世代に人気があるのは、普遍性をそなえ現代的だからでしょう。

布野:普遍言語で書くという話と現代という普遍性を語るというのは次元が違うということですね。翻訳の問題もありそうですね。

宇野:建築のスタイルや形態を念頭に言うと、元来、世界各地には、それぞれ地域固有の建築言語がありました。一方、時と空間を隔てた遠隔地に、共通の建築語法が生じてもいます。文化伝達説では説明のできない遠隔地に共通の建築言語があったりもする。原(広司)さんは、その総体を「建築の文法:といっているわけです。話しをもとにもどすと、水村さんが日本文学について論じているのと同様のことが、日本建築にもあてはまる。そういう意味で、「日本建築」は亡びつつあるのではないか。先ほど、日本建築学会の「作品選集」を話題としましたが、そこでいう質とは、工業生産品としての質のことですね。工業技術の高さや高精度の施工など・・・しかし、「普遍語」の「Architecuture」としての評価基準となると、この水村さんの言語にかかわる議論と同じように、「ローカル」「グローバル」「現代」といった文化的でクリティカルなコンテクストとの関係におけるクライテリアが求められます。インターネット時代のクロスカルチュラルな建築についての多元的な議論のなかから抽出されるクライテリアが、建築的な質の水準をはかるメジャーとなるでしょう。槇(文彦)さんが、最近書かれたエッセイ「漂うモダニズム」で、50年前のモダニズムはだれもが乗っている大きな船であったと言えるが現在のモダニズムは最早船ではなく大海原、だと例えています。そこで、槇さんは、モダニティ、グローバリゼーション、ユニバーサリティについて、この1世紀の経過を建築言語と言語の比較を試みて、説明している。文化的な事象としての建築と文学に対する危機感は、水村さん、槇さん、両者に共通する時代性と文化人としての立場をみてとることができます。日本の現代建築についていうと、一見多様に見えるけれど、本質的には均質化しているのではないか。日本建築が依拠してきたもの、地域性とか日本文化とか・・が休息に失われている。水村さんの本に準えていえば、日本建築は亡びつつあるのではないか、世界を覆いつつあるのは現代的な超近代主義であり、現代的な超普遍現象ではないか。

布野:原(広司)さんの「均質空間論」は、まさにそうした提起でしたよね。それをどう超えるか、ということはずっと問われてきている気がするんですが、この問題の構図がグローバリゼーションの進展によってますます明確になったということでしょうか?原さんは「機能から様相へ」ということで全く新たな空間概念を求めるということだと思いますが、著者によると、日本語が亡びるとすると、日本語を復権せよ!ということになるんですか?その前に、日本語が亡びるというのは、若い人が使う言葉、僕らには理解できない造語、メールでの短縮表現なんかについては、触れていないんですか?

宇野:彼女は、子供時代からアメリカ合衆国で暮らしているようで、エール大学でフランス文学を専攻していたそうです。一方、少女時代深く日本文学に触れているようで、つまり、20世紀後期をクロスカルチュラルな環境で過ごした文学者であり研究者です。(経済学者の岩井哲人夫人でもあります。)アマゾンの書評にある読者コメントを見るとなかなか面白いのですが、ふたつほど指摘がされていました。ひとつは、近年の社会学や自然科学などの成果からすると知見がやや偏っている面があること、もうひとつは、まさに世代の問題です。彼女の価値観は、日本が西洋と出会い葛藤した1世紀半程度の期間の価値観にとらわれているのではないかという点です。文化多様性が世界のダイナミズムを産む源泉だという認識は、グローバル世界では一般に広まっていますが、日本においては真逆なことが起きています。言語も建築すなわち生活環境は、均質化の一途をたどり、社会も多様化を拒んでいる。

布野さんは、若者ことば、つまりスラングのことを指摘しましたが、それは、ビット化、デジタル化したアルゴリズムにのって、情報をやりとりしている現代の若者の言語空間から必然的に導出される言語で、世界的にこうしたビット系スラングは流通しているのが実状です。こうした言語空間からは地域文学はうまれえない、したがって、世界水準の文学はでてこないだろうというのが、水村のいっていることでしょう。しかし、ビット語から、またそうした言語空間における人間のありようは、それはそれで、現代的であり先端の事象ですから、そこから新しい世界文学がうまれないとは限らない。建築もしかりということでしょう。もっとも、建築の場合、土地に建設されて、そうは動かないものですから、ローカリティを表現すると、それが土地のユニークネスを造り出して、グローバルに展開するという、言語空間にはない特性があるので、日本建築と世界建築を追求するならば、建築情報空間といった視点からの分析と批評は、欠かせません。このweb版建築討論という媒体をつくったのは、そのためのプラットッフォーム兼アーカイブだけは、用意しておきたいと考えたからです。

布野:英語、英語と言われると、英語帝国主義という言葉が思い浮かびます。日本と同じような島国の英国の言語がこれほど世界を制覇しているのは、かつて七つの海を制覇した大英帝国の歴史があるからですよね。その最大の版図は1930年代で、地球の陸地の4分の1になります。植民都市研究を開始するにあたって、R.ホームの『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(布野修司+安藤正雄監訳:アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,2001年)を読んだんですけど、その冒頭に、歴史上の帝国主義者の中で最も偉大な都市輸出者で、「スポーツ、娯楽、英語の他に、アーバニズムは大英帝国の遺産を最も永らえさせている」といった誰かの引用(J.Morris1983)”Stones of Empire”、Oxford University Press)がありました。サッカー、ラグビーも英国発祥ですよね。ベースボールは米国起源かもしれないけれど、クリケットはコモンウエルスでは健在ですよね。近代建築や近代都市計画が世界制覇していくのも、基本的には英国的制度が輸出され植えつけられていったからではないか、ということなんです。ポスト・コロニアリズムが唱えられだして久しいけれど、現代のグローバリズムを捉えるには少し古いセオリーですかねえ。

宇野:そんなことはありません。旧英連邦のコモンウエルスやドイツ北欧のハンザ同盟、ユーラシアのシルクロード、南アジアの海のシルクロードなど、グローバリゼーションの進展でかたちを変えて浮かび上がってきた世界通商網は強力です。布野さんと初めてアジアに行った時(1980年)、マレーシアはほんとに若い国で、街が整っていた。マハティール大統領がすぐれていたのだと思いますが、教育制度も都市計画制度もきちんとしているので感銘を受けました。その20年後にクアラルンプールに行ってみると、英連邦のスポーツ大会(コモンウエルズ・ゲーム1998)をアジアではじめて誘致したころ、かたちのよい新しいサッカー兼陸上競技のスタジアム(Shah Alam Stadium)が建設されていました。設計者はAAスクールで学んだ建築家だと聞きました。

布野:宇野さんとは、まず、フィリピンに行ってマレーシアへ言ったんですよね。僕は、専らハウジングのあり方に興味があって、Freedom to Buildといったグループのセルフ・ヘルプ・ハウジングとか、エコ・ヴィレッジ・プロジェクトに関心があったけど、確かに、マレーシアとフィリピンはレヴェルが違いましたね。既に、AAスクール帰りの建築家が小奇麗なテラスハウス団地を設計していた。確かに、近代的なシステムという意味では、ヨーロッパに一日の長があり、アジアの国はそれぞれに学んできた。それを一概に普遍主義というわけにはいかない。「和魂洋才」とか「中体西用」とか、土着の文化との葛藤を受け入れながら学んできたわけですね。

宇野:アジアでは、われわれはつたない英語で各国の人とやりとりするわけですが、まあ、だいたいのかんじは、分かりますし、気持ちも通じます。自然環境と生活文化についての伝統に共通部分があるからでしょう。しかし、水本が例示しているような「岩にしみいる蝉の声」という言葉とその表現のニュアンス、響き、奥深さなどは、英語に訳して話しても、それだけでは伝わるはずもない。同様に、アジアの言語空間にも、英語を介してだと伝わらないことが多々あるでしょう。一方、近代英米文学の文脈でいうと、東南アジアでは、例えば、シンガポールのラッフルズ・ホテルでその滞在を好んだサマセット・モーム(英国)が世界各所の人間模様を描く平明な文体、あるいは、トルーマン・カポーティ(米国)の小さな自然の微妙な情景のニュアンスを英語(米語)でリズミカルに綴る文体・・・共通言語の英語では、表現力においてとても及びつかないわけですね。シェイクスピアから始まる近代英語の系譜は脈々とあるのでしょう。われわれの使うのは共通言語としての英語ですし、普及するのは平明で簡易な英語ですね。そうした言語空間でしか言葉を交わさなくなるならば、それは、われわれの思考のレヴェルを低下させてしまうでしょう。

布野:所詮われわれの英語はピジンPidgin・ランゲージというわけですね。ピジン語とは異なる言語の商人によって作られた言語をい言いますが、それ自体、面白いとは思っているんです。クレオール語ともいいますが、植民地生れで本国を知らないクレオールの話す言語ですね。カリブ海に行ったときは、パピアメント語ですか、ポルトガル語、スペイン語、オランダ語、西アフリカの諸言語が混ざっている。しかし、今、日本で英語、英語という時、経済の言葉、商売のための言語としてか考えられていない感じですね。なんか、建築も同じような流れにあるような気がしてきます。

宇野:グローバリゼーションもインターネットと共通語としての英語を介するコミュニケーションの流れを止めることはできないのですが、そこで、どうするか?建築についていえば、そもそも建築は、ひとつひとつつくっていく営為なので、そのなかでどうするのか?全体的な流れのなかでどのようなポジションをとるのか?このふたつの問題をごちゃごちゃにしないで、議論する必要があると思います。

布野:ひとつひとつつくるということでは、土着、地域への拘る作品はあるでしょう。2014 作品選集』には、芦澤竜一の沖縄の住宅が選ばれていますが、彼なんか、自然とか、土着とか、地域とかに徹底して拘っているように思えます。

宇野:工務店さんたちも含めていろいろな試みはあって、面白いからメディアがとりあげるのですが、全体量が少ない。いわば、絶滅危惧種だから注目されるというジレンマがあるように思います。

布野:絶滅危惧種ですか。

宇野:たとえば、僕は若いときに、原(広司)さんの事務所で、首里城の主礼の門のすぐ下の小学校(城西小学校)のキャンパスを設計したことがあります。バナキュラーなスタイルのオープンスクールです。沖縄の日射や気候、そして赤瓦を白い漆喰でとめた屋根並みを意図した建築で景観設計の走りだったともいえます。沖縄で活躍している建築家の福村(俊治)さんは、そのときのアトリエファイでの同僚でして、その福村さんは、地域に根ざした風土に合った建築を、ということで沖縄に残り設計活動を続けてきました。沖縄平和公園の沖縄県平和祈年資料館や記念碑「平和の礎」の設計を手掛ける一方で、沖縄に適した新しい住宅建築を勢力的に手掛けてきましたけれど、ここにきて限界を感じるというのです。高気密高断熱がいいんだということで、本土から大きな波がやって来て、皆さんそっちの方に行ってしまうということでした。空調と密閉空間、彼が目指した、日よけ、  風、空調なしの建築の逆に、閉じた箱のような家が増えつつあるようです。

布野:僕も同じような経験があります。小玉祐一郎さんの指導で、スラバヤ・エコハウスという実験棟をスラバヤ工科大学に建てたんだけど、日本で学んだインドネシアの若い先生に、何故高気密高断熱にしないんだ、と言われたんです。伝統的な民家にそんなの無い、気積を大きくとって、ポーラスにするのが原則ではないか、とやりあったんですけどね。

宇野:現場の課題と制度の課題がそれぞれあって、現場からの一点突破で、地域をよりよい方向に換えていくには、現状では困難さがありますね。個別具体的な突破をねらうとともに、一方で建築学会のようなアカデミーが指針を出して政策に訴えていく必要がある。かつてさかんに議論検討された中間技術(Intermediate Technology)論をしっかり展開する必要があると思います。実際のテクノロジーは、計算機と情報通信技術の飛躍的な進歩をともなって、かつてとは、比較にならないほど進歩していますから、実務的な可能性が多々あると思います。

布野:同感ですね。オールタナティブ・テクノロジーAT(代替技術)とか、1970年代には様々な動きがあった。僕なんか全く変わってない。ということは、戦略を間違えてきたということでしょうね。

『日本建築史講話』

宇野関野貞先生の本は、旧制武蔵高校の講演(講義)録で、昭和12年(1937年)の出版です。「関野貞 述」というちょっと変わったかたちで岩波から出されています。大正末に開校した同校が、東京帝国大学教官の関野工学博士を専門大家として招聘、高等科で開講した必修科目「民族文化講義」を纏めたものです。おそらく、日本で最初の体系的に書かれた日本建築史の教科書といえるでしょう。他界した関野が残した備忘録、訂正の筆記を更新の博士や文部省嘱託の専門家が校閲したと序文に書かれています。戦後の近代建築の流れを大きく方向付けた太田博太郎丹下健三は、この関野の教科書で日本建築の通史を学んだのではないでしょうか。とくに太田の場合、武蔵高校から東京帝国大学工学部建築学科に進学していますから、影響は少なからずあったものと思います。この講話を聞いて、建築史を志したのかもしれません。

出版当時の武蔵高校校長であった山本良吉が、序文に次のように書いています。ちょっと長くなるけれど、引用します。「明治19年に天皇が帝国大学に行幸あり、(中略)、(帝大)総長は日本に固有の哲学なしと(天皇に)御答申上げた。総長の奉答が典拠となったものが、その後幾十年の間、学校の数は年々増加したが、わが文化について教える施設は一般にきわめて少なく、またそれを教ふべきものとの意識も教育界全体に互って乏しくかった。従って、正式の教育を受けた学士といえば、特殊の士を除いては、自国文化について殆ど無識であり、反ってそれを誇る傾きさへもあった。」つまり、明治以来、西洋近代の先進的学門の習得はしてきたけれど、日本固有の思想や文化を研究し教える機関も人材も乏しく、関野博士をお呼びして、日本固有の建築通史を旧制高校の生徒に講話してもらったというわけです。文明開化で半世紀走ってきたけれど、昭和に入る頃に、どうも西洋追随だけだと、まずいんじゃないのといったリアクションが流れとして出てきた。西洋化に対する危機感があったのでしょう。一方、関東大震災による都市の壊滅が帝都復興事業に火をつけて、工学的近代化に走る時代でもあった。欧化と近代化と日本の見直しが、同時に混交しながら、日本社会に激流となって流れ込む時代でもありました。現在から、100年前、世界史でいえば、第1次世界大戦が起こり、世界の力学が大きく崩れ、20世紀が動きはじめた時代です。グローバルな現代の構図とも、共通するところが。少なからず見いだせるようにも思います。関東大震災、第1次世界大戦以降について「現代日本建築史」を次世代の若者に講演するべき時代になったのかもしれません。

布野:宇野さんも武蔵高校の出身ですね。最近、1960年代をふり返る書籍(『僕らが育った時代 1967-1973 れんが書房新社)を同期生で出したわけですが、読ましていただくと、1960-70年代の東京、その時代の高校生の雰囲気が伝わってきます。独特の校風は戦前にまで遡るのでしょうか。太田博太郎先生、内田祥哉先生も武蔵でしょう。

宇野:そうですね。建築に進んでだいぶ後に知るのですが、斉藤平蔵先生(計画原論)も武蔵の先輩でした。早稲田には、建築家の阿部勤さん、若い(?)世代だと工学院大学の後藤治さんなど、建築界には多数の同窓がいます。もしかすると、この関野先生の本がそうした源流なのかもしれませんね。

布野:関野先生の論文は東洋建築史については全て読んできたんですが、手堅い建築史学者という印象があります。こういう通史というか、総説があることは、迂闊にも見逃して来ました。伊東忠太とは同い年ですが、忠太の方が派手だったし、早く(1935年)に亡くなりますよね。

僕は、1930年代については、同じように明治維新以降進めてきた近代化の流れに対して、ある種のリアクションが起こった時代だと理解しているんですが、日本の場合の議論はスタイルの問題に集中してしまったんではないかと思います。象徴的なのは「帝冠(併合)様式」(下田菊太郎)の問題ですね。西欧建築に対して日本建築の伝統を見直そうとするんだけれど、屋根のシンボリズムのみに議論が集中することになった。一般に分りやすいですからね。一方、新興建築(近代建築)の側も、形だけ、四角い箱型の「豆腐を切ったような」フラットルーフの住宅を木造で実現するというレヴェルだった。関野先生が何を日本建築の伝統と考えていたのかは興味ありますね。

宇野:やはり、関東大震災の経験が大きいように思います。興味深い点は、いくつかあります。2-3紹介すると、まず、目次。第一章原始時代、第二章飛鳥時代、第三章寧楽時代、一帝都、とあります。平安時代の前に、一時代を画し、その始めに帝都という概念で、天皇歴代の都(難波の都、大津宮、藤原宮)を紹介、藤原京と続き、「唐の長安京の都城の制を参酌し、更に一歩進めた都市計画」と説明して、平城京を帝都として位置づけています。明治以降も面白い。「殊に、仏寺建築等に於ては廃仏毀釈の運動と相俟って殆ど見るべきものがありません。」と指摘していたりします。また、Diack(英国、明治3年来朝(来日))、M’Vean(英国、明治4年来朝)、Boinville(仏、明治5年来朝)、Capeletti(伊、明治9年来朝)などといった、あまり知られていない外国人建築家の名前に言及しています。

布野 ブルーノ・タウトがやってきて、「インターナショナル建築会」が呼ぶわけですが、日本の伝統建築を天皇芸術と将軍芸術にわけて、前者を桂離宮に、後者を日光東照宮に代表させた。新興建築(近代建築)側は、桂離宮の柱梁のシステマティックな構成に近代性をみるということで、天皇芸術だということを隠れ蓑にしようとしたんじゃないかという気もします。日本趣味とか、東洋趣味とか、帝冠様式はほとんど問題にしなかったと思います。桂離宮と日光東照宮をめぐっては、内田祥士さんの『東照宮の近代都市としての陽明門』(2009年)というすぐれた論考があります。日本建築の伝統をめぐってはより深い議論がなされていると思います。

 戦後にも、日本建築の伝統をめぐって伝統論争が展開されますが、そこでは基本的に戦時中と同じロジックが繰り返されたように思う。つまり、日本建築の伝統を伊勢や桂にみて、それと近代建築の方向は一致しているとみた。畳の床や障子、日本の伝統的住宅のエレメントがジャポニカスタイルとして海外にもて囃されたりもしたんだけど、それも日本建築の近代性(モダーン)という位置づけだった。様式建築の問題が一瞬にして消えて、近代建築の方向は確たるものとして共有されており、日本の伝統建築なんか問題ではない、ということだったのかもしれない。ただ、白井晟一の日本建築の伝統論は想起しておいたほうがいいですね。日本建築の伝統は弥生じゃなくて縄文だ、といったわけでしょ。白井の頭の中では、西洋建築VS日本建築と構図が強くあったと思うけど、一方で北京の天壇とかソウルの宗廟について、エッセイを書いている。日本建築の伝統をめぐっては色々議論があると思う。

 1970年代に入って、日本建築の伝統とか地域性が再び問われますね。日本が国際的にそのポジションを問われるときに、決まって建築における「日本的なるもの」、日本建築の伝統が問われる。当前ですよね。しかし、日本建築が滅びるという発想はなかった。これは、もう日本建築は滅びると考えて、建築の方法を考えたほうがいいかもしれない。

宇野:関野の講話は、「我々は、いまや日本の風土に適し、国史を背景として、日本人の趣味、生活に適合して独自な新建築様式を創造しなければならぬ時機の近づきつつある事を痛感いたすのであります。そして、過去の歴史を顧みる時、我々は必ずやかかる時機の到達する日のある事を確信して疑わないものであります。」といって閉じられています。要するに、外国文化、先進文化の輸入は、ほどほどにして、オリジナリティを追求しましょう、といっているんですね。時代背景を考えると、ナショナルな匂いもして、違和感もある論調ともいえますけれど、こうしたトーンが出てくるのは当時、自然なことなのだろうとも思います。昨今の日本は、この時代と比べられることも多く、気になるところではあります。話しを建築にもどして、技術的な近代化を達成した現代日本についていえば、輸入ではなく輸出に転じるべきなのでしょうけれど、それでは建築分野ではなにをエクスポートできるのか、ということが問われる時機となったということもできるでしょう。

布野:しかし、輸出と言っても、建築は基本的には地のものだし、スタイルや、畳や障子といった建築のエレメントじゃないとすると、何が輸出できるんだろう。突然、具体的になるけれど、日本が建築の分野で輸出できるとしたらサブコン技術じゃないの。いま、IT技術で、どこにいても、かたちはつくれて、構造計算が出来て、図面は描ける。問題は、どうつくるかだ。建設労働者の問題はあるけれど、現場で組み立てて収める技術は、日本に一日の長がある。

 しかし、やはり最終的に表現されるものが問題であるとすると、それは何かということですね。日本文化は玉葱みたいだってよく言われる。日本に固有なものは何か、日本起源のものは何かということで、皮を剥いていくと、最後には何も無い。全て、中国、朝鮮半島、あるいは東南アジア、そしてヨーロッパからもたらされたものではないか。あるいは、原さんがよく言っていましたが、日本に固有だと思っていることが、あるいは空間が、遠く離れた地域に存在することもある。

宇野:話しは変わりますが、つい最近、ニューヨークで、ザハ・ハディド、ノーマン・フォスター、レム・コールハース、リチャード・ロジャースが参加した超高層オフィスの設計コンペがあったようで、インターネット上で、各人のプレゼンテーションのビデオが紹介されていました。フォスターが勝ちましたけれど、そのプレゼンテーションは、マンハッタンの都市の成り立ち、景観、パブリックスペース、構造、設備ほかを丁寧に説明したもので、実にわかりやすかった。文化的背景や機能性を重視しつつ、歴史と都市のコンテクストに対峙して位置づける「ビルディング・アイデンティティ」というコンセプトが見事でした。ザハのプレゼンテーションは、ワーッとセンセーショナルなビデオ流すもので、まったくアプローチが違いました。面白いことは面白いのですが、結果、採用されませんでした。CG3Dモデルを駆使したプレゼンテーションが目新しかった時代は過去のものとなりつつあり、現場と技術に裏打ちされた信頼性のうえに、新しさや独自性を追求しようとする機運が出てきたのかなと思いました。建築は、地域文化を背景に、時を相手に勝負をしかける応用科学、テクノロジーを礎として、展開してきた実学実務の専門分野だといえるでしょう。中長期を見込みつつ、なにがしかの新しさを添えて、いま球を投げるという競技なのではないか。果たして、現在の日本の建築界の状況が、「日本建築が亡びる」過程にあるのか、近代性普遍性をそなえつつ見事に現地化した近代の「日本建築」は造り得たのか、グローバリゼーションは、日本建築を絶滅に追い込みつつあるのか、あたらしい日本建築の萌芽を認めうる状況なのか・・・そうしたことを鳥瞰する「世界建築講義」や「近現代日本建築講義」を著す歴史家が,若い世代から出てくることを望みたいところです。この建築討論では、市井の建築も含めて、新旧多様な建築をとりあげて、皆でディスかションできるようにしたいと思います。

布野:そうですね。「日本建築」めぐっても繰り返しやりましょう。ここで問題にしている日本建築は、世界文化遺産となるような過去の日本建築ではなくて、生きている日本建築、すなわち、日々建てられていく建築ですよね。日本建築が亡びるときというのを具体的に想定してみると、なんかヒントが得られるかもしれない。もしかすると、日本建築は既に滅びてしまっているかもしれないけどね。伝統というのは、トラデーレtradereというラテン語が語源なんですが、手渡すという意味なんです。要するに、未来に手渡すものは何か、何があるのか、ということですね。それがないのだとすると、若い世代がどうのこうのというより、われわれの問題ですね。香月真大君へ、われわれも頑張ります、と言わなきゃならないかな。

文責:布野修司・宇野求




 

2025年7月24日木曜日

建築時評:建築家の拠って立つ場所−多様なアプローチとその根拠,布野修司・宇野 求・木下 庸子・山梨 知彦・和田 章,建築討論001,日本建築学会,201404

 建築時評022014.03.14

 建築討論委員会 2014314日 日本建築学会会議室 17:0019:00

 https://www.aij.or.jp/jpn/touron/soukangou/jihyou002.html

 建築家の拠って立つ場所-多様なアプローチとその根拠

 

 出席者   布野修司

       宇野 求

       木下庸子

       山梨知彦

       和田 章

 

 

評価のスタンス-建築デザインとは?

布野 個々の作品(応募作品0306)についてはそれぞれ書いて頂くとして、応募作品を全体として議論しましょう。全体の印象、あるいはどういう視点で見るかというようなことをお話して頂ければと思います。まず、木下先生からお願いできますか。

木下 4つを見て、建築デザインとはなんだろうということをちょっと考えさせられました。04は、『新建築』でみたことがあるんですが、デザイン的にも以前から気になっていた集合住宅です。それ以外は、材料とか、バリアフリーとか、安心、安全だとか、ハード面の充実を中心に話が展開されている印象です。デザインよりむしろ、社会的なコレクトネスというか、そういう切り口で建築が語られているように思われます。

布野 日本建築学会は、学術、芸術、技術をうたい、様々な側面から建築にアプローチしてきているわけですよね。構造、材料、エンジニアリング部門もあれば、計画、デザインの部門もある。03の老人ホームについては建築計画委員会が取り組んでいるテーマですよね。

木下 わかります。さまざまな評価軸が存在するなかで、私自身の評価のスタンスを申し上げたとご理解ください。

布野 建築の評価は多様で多面的であるべきで、評者のスタンスを鮮明にすることは大事だと思います。私も04は気になります。しかし、随分余裕のありそうな作品ですね。

木下 そうなんですよね。かなりポーラスに出来ている。大都会では可能でない、地方都市だからできる集住のあり方に興味を持ち、共感しました。中と外が交互に存在する住宅は面白いし、住み心地もよさそう。ただ、中庭の使い方がちょっと見えにくく感じました。

布野 中庭は、何か起こりそうな雰囲気がある。しかし、「都市をつくる」というんですが、何世帯ですか?8世帯ですね。何か施設が入ってるんでしょうか。アパートといえばアパートなんだけど、長屋(ロンングハウス)じゃない、長屋は一般的には連棟形式をいうと思う。タイトルは甘いかなあ、キャッチコピーとしては?

和田 こういう建築、私が住んでいる場所の近くにもあるんだけど、多分有名な建築家の作品だけど、庇がなくていいんですかねえ。日本のような雨の多いところで、あとあと困らないんですか。汚れるし。

木下 まあ・・・雨の日はつらいでしょうね。庇はつけずにスキッとしたかったんでしょう。05は、窓と床の関係など断面的には面白いところもあるけれど、形態は法規を忠実に表現した結果という感じ・・・、方位が表示されてなくても、形態から読み取れる。

宇野 限定された条件の中で面積を最大限有効に確保しようとすると、外壁を沿道に寄せて中庭をインテリアに接して配しますから、こうなりますね。

木下 06の正面ファサードのシンメトリーと大屋根は、少なからず前川國男自邸を意識した結果でしょうか。空間的には全く違うけれど。木という素材の使い方には好感をもちますが、木の存在感が強すぎるせいか、デザイン意図が見えにくい。

山梨 デザインというのは確かにいろんなアプローチがある。空間をデザインするというけれど、部分的なエレメントからデザインするとか全体から発送するとか、方法は様々あるんだとおもいました。ただ、社会に対して何をアピールするかという視点が大事だと思います。そのためには、建築家は拠って立つところをはっきりさせる必要がある。何を根拠に表現しているかですね。そうした意味で、04は拠って立つところははっきりしている。しかし、これだけクローズでいいコンテクストに置かれているのか?周辺のいろんなが見えないのが問題だと思います。

布野 04は、これがプロトタイプになるんだとしたら、どう建ち並ぶ並ぶかという問題ですね。

山梨 そうですね、コンテクストが語られていないことで、この作品の本質が語られていない気がします。「都市をつくりたい」といいながら、これだけがコンテストから浮いたスタンド・アローンに見える。意外に郊外にしか建ちえない形式かもしれない。05が唯一敷地の状況が読み取れますね。限られた敷地に可能な限りの空間を確保するうまい解答かもしれない。意外にありそうでないかもしれない。これを突き詰めてやってるのが安藤忠雄さんだから、新味はないかもしれない。ただ、周りに対して、これまた閉ざしてしまってる。

布野 隣地との境界に塀を建てていないのがいいかな?敷地境界線を突破する工夫がみたい。

宇野 典型的な旗竿敷地ですが、間口の取り方と境界の位置に工夫があります。

山梨 06は完全にエンジニアリング的な提案だと思いますが、肝心の構造壁がどうなっているかが分からない。木造を露わしで使うのは日本建築の伝統だから、あらわしの構造壁ならば見てみたい。

宇野 僕は、「建築学的多様性」といっているのですが、色々な建築を認める立場です。創る立場として、もちろんハイ・エンドな建築も好きですが、人のテイストは色々あるわけで、多様な建築を認めたい。03については、ごく普通に考えて、施設として、近所にこういう老人ホームあるといいよね、ということでしょう。シビルミニマムというか、ある程度の機能と要求を満たしている建築だと思います。作品にはならないと設計者は説明文に書いていますけれど、投稿したいという気持ちは、よくわかります。建築文化的な意味で突出していなくても、一生懸命、丁寧に作られていることが大事なのだと思います。04の建つ高崎市のこの40年ほどの経緯を見ていると、自動車がないと暮らせない街を造ってきたといえると思います。新幹線の駅前だけはマンションが集まって徒歩での生活もできなくはないけれど、それ以外のところではすべて移動は車です。それが,高崎のアーバンコンテクストでしょう。作品は、8戸の集合住宅ですが、プランに車が4台しか描いてない。本当のところは、どうなっているの分からない。デザインとしては上手だと思いますが、一点いえば、この辺りは地盤がよくないでしょうから、杭と基礎に相当コストがかかっている。とても重い建築をここに造る意味やコンクリートでつくる意図について設計者に聞いてみたいと思いました。

和田 そうだねえ。かなり過剰かなあ。

宇野 05の吉祥寺の住宅については、こうした旗竿敷地の条件下で、青木淳さんとか千葉学さんがぎりぎりの条件で非常に完成度の高い解をすでに出していますね。それからすると、全体的に少し余裕があるため、設計のつめ方が緩いのかなという印象ですね。06については、自分の仕事が論評される適当な媒体がないと書いてられる。やっているのは、合板ではなくて地元の材を使って、板材を固めて盤にして組み立てるという構法です。これはこれで興味深い。内部空間としても質感にこだわりがあって、それなりに成功しているのではないか。建主さんも満足しているのではないか。正面のシンメトリーが強く平面が固いかなという印象はあります。

布野 私は、地(グラウンド)を作っていく建築と図(フィギュア)を創っていく建築をわけて考えるんです。それぞれに個の表現を追及するのは前提ですが、図をつくっていくのは、街なり村なりのベース、スケルトンに関わる。そこでは「型」を問題にします。研究事として、一貫して関心をもってきたのは、都市組織建築類型なんです。05については既に「型」になっちゃってる。これでいいのかという感じです。「型」といえば制度と裏腹ですね。現実を規定する「型」を超える「型」新たなプロトタイプに興味があります。03の老人ホームも「型」なんですけれど、制度がそのまんま自己実現している印象があります。空間の「型」になっていないんじゃないか。04は、新たな「型」になる可能性を持っているんじゃないかと直感的に思います。06は、構法的にひとつの型になるかもしれないと思います。建築生産システムを再構築するかは大テーマだと思っています。前回の二つ0102についても同様に思います。和田先生、0306如何ですか。

和田 それぞれ、言われていることにその通りだな、と思って聞いてました。興味あるのは景観ですね。この間、岩国に行って、江戸時代からの街並みを見たんですけど、すごくそろっててコントロールされている美しさを感じたんだけど、今の街をみていると、ごちゃごちゃしてて、みんなが好き勝手にやってる。どうしたらいいですかね。奈良の県庁辺りはいいんだけど、近鉄辺りに来ると、しっちゃかめっちゃかになっている。それぞれ一生懸命やってるんですけど、奇麗じゃない。

布野 一応、都市計画としてコントロールがなされてるんです。奈良ですと、美観地区とか風致地区がかかっている。最近ですと、景観法もあります。ただ、宇治市で都市計画審議会の会長を10年ぐらいやりましたけど、色々問題があります。街並み景観をめぐってはまた議論しましょう。個々の作品評はそれぞれお願いします。

 

東京オリンピックというテーマ-日本は何処へ

布野 さて、「第一回けんちくとうろん」(2014225日)では、「公共建築はだれのものか」ということで議論したわけですが、大きな話題として東京オリンピック新国立競技場をめぐって議論になりました。山梨さんは、実際に設計に関われているわけですが、具体的には話せない状況ですね。

山梨 はい、守秘義務があります(笑)。

宇野 国会で予算が通っていますから制度面と実務面からいえば、その枠内でやるしかない、ということだと思いますが、ザハの案をそのままつくると、実際のところ、コストが合わないでしょう。ですから、いずれ実行可能な代案がいくつか出されるのではないかと思います。

布野 和田先生は専門委員として審査に関わられたわけですが、ザハ・ハディド案しか構造的には可能ではないとお考えですか。

和田 あくまでプログラムを前提として、構造的要求水準を充たすという観点からですが、あと他の案では、伊東豊雄さんの案は可能性があったと思います。槇文彦先生の提起された問題は大いに議論して頂きたいですが、二年前に国が出したスペックに何かが言えたかが問われますね。構造エンジニアとしては、与えられた条件の中でベストの解答を出してもらいたいと思っていて、山梨さんのチームに期待しています。新国立競技場の問題は、今年の学会の大会で議論するんです。

布野 開閉式の屋根ということですけど、今年のドカ雪もあったし、議論すべきことはありそうですね。

山梨 新国立劇場の問題はおくとして、気になっているのはオリンピックのテーマが議論されていない。オリンピックは何のためにやるのか。オリンピックを辞めてしまえという議論は一杯あるんですが、国として国際公約した以上、何をテーマにするかを2014年は議論する必要もある。オリンピックそのものを、今の東京の中で、そして日本の中でどう位置づけるか、その前後をどう橋渡しするか、そういう大きい議論が必要だと思います。景観論も大切ですけど、オリンピックをどうするか、ですね。オリンピック景気に浮かれて、インフラに膨大なお金を使うおうといったような乱暴な議論が今後出てくると思うんですけど、その前にテーマを見据えなければいかないのでは?・・・

布野 もう出てますよ。今日午前中、テレビで予算委員会を見ていたら、環状線をつなげてください、と議員が質問していました。一方で巨大なお金を使うなという議員もいましたけどね。

山梨 オリンピックをドライビング・フォースにして、建築をどういう方向にもっていくか、東京をどういう方向にもっていくか、を議論する必要がある。

布野 同感です。前回の建築討論委員会(2014113日)でも、東京の都市計画をどう考えるかがが問題だという話が出ました。

宇野 日本では、建築家と建築技術者は、大きくても小さくても敷地内で敷地に与えられた制限の範囲内で建物を設計する仕組みになっています。「公共建築は誰のものか」といえば、本来は、税を払っている住民のものなのでしょうけれど。そして、これもまた本来は、議会は納税者代表が集まって税の使い道を審議する場でしょう。しかし、実状は、建築計画、都市計画ともに役所が起案企画して外部発注して公共建築が造られています。建築家でなくとも、たとえば、いわゆるコンサルやデザイナー、あるいは代理店がコンセプトを提供し、絵を描いて、それをもとに積算の図面を設計事務所が引く。そのままでは建たないのだけれど、優秀なゼネコンが建ててくれる。建築や都市プロジェクトがそうやってできちゃう。建築家や建築技術者をインハウスで抱える必要はなく、発注者にとってとても便利な社会になってしまっています。全体的に調整調和のとれたまちづくりにはならず、ちぐはぐな公共建築が地域計画都市計画とのかかわりなくできている。不都合なところが多々ありますが、批判ばかりしても始まらないので、ネクスト・ベストというか、今の状態を所与のものとして、どうしたらより健全でよりよい造り方ができるのか、前向きの議論に持って行きたいと思います。同時に、山梨さんがいう理念やヴィジョンを議論することはもちろん大事だと思います。21世紀をわれわれはどう生きていくのかという原点から再考することが望ましい。

山梨 今、旗印が見えないから、もし何をつくればいいか見えてくれば、それをめぐって議論も起こるし、評価も違ってくる。

宇野 いまの建築界は、ものいえば唇寒しというか、ここはあまりものを言わない方がいいといった雰囲気があるような気もする。いいことではないですよね。よりよい方向と方策を見定めるためにも、異なる意見をかわして議論を続けなが前に進むようにしたいものです。

布野 僕は、東京の今後を考えるために、まず、東京オリンピック1964の直前まで帰ってみたらと思うんだけど、「第一回けんちくとうろん」で松隈さんは、1936年の東京オリンピックまで帰っちゃった。確かに15年戦争期の大東亜共栄圏の首都・東京も今日的には時代の雰囲気のような気もしないでもないんですが、・・・まずは、原発ゼロ、高速道路ゼロ、超高層ビルゼロに立ち返って、2020とその後の半世紀を展望したらどうか。

宇野 僕は、それはもう20世紀中に出してあるんです。

布野 え、それちょっとしゃべってよ。具体的な東京計画について議論した方が面白い。

宇野 仮設と常設を組み合わせる、建築とインフラをマージ(統合)する、自律分散的な修復ネットワークをつくる、都市農場を臨海部につくる、などなど・・・岡河貢さんと発表した「TOKYO計画2001」で、アイディアをまとめました。

山梨 そうなんですよ。絵を描くというとすぐ都市のハードウエアを造ろうという発想になる。僕らは既にインターネットの世界にいるんだから、そのネットワークのほうが可能性がある。環状線の話にひっかけると物質的にネットワークにならなくても、交通制御システムをつくりあげることは可能なんだけど、いざオリンピックで巨大な投資が期待されるとハードウエアの話に戻っちゃう。半世紀前には、スマートフォンの「乗換案内」のアプリをみて電車に乗る人なんか想像すらできなかったわけでしょう。

布野 もうひとつ、オリンピックを契機にこの際、高速道路をとっぱらえ、という動きが日本橋である。こういう動きはいいんじゃないかと思う。東京の歴史の層を掘り起こしてみる、東京オリンピック1960に戻ってみるというのはそういう意味なんです。宇野先生がずっとまちづくりに関わっている日本橋ですが、小泉内閣の時に、小池百合子環境相がソウルの清渓川再生をみて、提案してちょっとした騒ぎになりました。1960年に戻って考えるという意味では、日本橋の上の高速道路をとっぱらうというのは象徴的ですね。しかし、高速道路をとっぱらって、環状線もそのままでいい、交通制御は可能というわけにはいかないでしょうね。防災を考えると、巨大地震が起こったら車が立ち往生して、大変なことになることは考えておかないといけない。

和田 東京も盆、正月は、住んできれいになる。地方から出てきた人はみんな地方に帰ればいいと思うけど、どう。

布野 それは東京っ子の和田先生が言わない方がいい。けど、要するに東京一極集中の構造をどうしたら転換できるかということですよね。それはこの間一貫する問題ですね。東京一極集中のほうが効率がいい、資本の論理としては。仕事があるから人が集まって、平均収入も日本で一番高い。オリンピックは財政力のある東京でしかできない。なおかつ東京に投資するという構造ですね。

宇野 日本の特殊事情があります。中央官庁が集中しすぎている。官庁が許認可権限をもっているから霞が関に近い方がビジネスしやすいので、企業も集中してしまった。また、台頭するアジアのメガシティを考えると、国際競争力のある東京に集中した方がいいということに、どうしてもなりがち。

布野 地方分権、地域再生自立といいながらそう動かない。巨大なメカニズムというか、運動ですね。しかし、地域分散のネットトワークシステムを実現していかないと地球は持たないと思う。資源問題、食糧問題、エネルギー問題、環境問題・・・を考えるとね。原発問題については、人類の歴史と能力を考えると制御不能だから、断念すべきだと思うけれど、産業界は50ヘルツ、60ヘルツ、100ボルトの安定した電力が欲しいという。

宇野 エネルギー問題といっていますが、それは、つきるところ、ライフスタイルの問題で、なにをして食べていくのか、ということでしょう。歴史的世界的に最高水準の生活を営んでいる現在の日本社会のこれからは、価値を生み出して財とする新しいビジネスモデルと多様なライフスタイルが鍵ですから、必ずしも大量のエネルギーを要さないでも済むのではないかと思いますし、そういう方向を探るのが得策だと思います。

布野 この間、株式会社エナリス池田元英さんに来てもらって話を聞いたんです。「エネルギー情報化とスマートグリッド関連ビジネス」というんだけど、実に興味深かった。若いんですよ、40代前半なんです。発電もするんですけど、売電、買電、電気の売買の調整するんです。大型のマンションなどから風水力発電まで扱って、上場するまでになった。電力量予測をするんです。気象予測もする。人がどう動くかが鍵だという。まあ、ビッグデータを扱っているということなんですけどね。言いたいのは、再生可能エネルギーを調整制御して使っていく技術は既にあって、実用化もされているということです。

宇野 そういう動きについて、これまで政府は熱心に後押ししてこなかった面があります。これからは、効果的な方策をうって、こうした動きを促進すべきです。

 

この国の構造欠陥!?-東日本大3周年

布野 東日本大震災3周年ということですけど、動きませんね。和田先生、地盤工学会と共同企画討論をされてリーフレット(『東日本大震災と向き合う』和田章・龍岡文夫・座庫小田・末岡徹2014315日)を出されていますけれど、いかがですか。

和田 いつも言うんですけど、なんでみんな同じパターンなんでしょう。嵩上げして木造住宅を建ち並べる、高台に島のように木造住宅団地を建てる。シンガポールの南端の町とか、シカゴの湖畔の超高層があって、高速道路が走って、広く公園があって市民はジョギングしてるという、ああいう街なら、津波が来ても平気なのに、なんで、同じように木造の昔風の建物が建ち並ぶそういう景観を目指すんでしょう。三井所清典先生(建築士会連合会会長)は、伝統的街並みの再生という方針でしょう。昔に戻そうというのは何故かなあ、とずっと思ってるんです。布野先生は、多様な解があっていいっておっしゃってるでしょう。最近の若い人は高層、といってもせいぜい10階、15階ですけど、そういう住み方をしてるわけだから。

布野 多様な解があっていいと思います。日本の戦後の団地だって、ウォークアップ可能で5階建て、階段室共用のバッテリー・タイプということでやってきたんですけど、モデルにした北欧では、高層にした集合住宅の周りに広い緑地をとるという方針でした。要するに「型」、まちのかたちが問題なんです。

和田 それと、最初は高台移転とか、防潮堤が必要といっていた人が、住んでいた場所に居させてあげたい、防潮堤は要らないなんて言い出すのはなんででしょうね。1000年後に津波が来たら、今度は助けませんよ、ということでやってもらわないと困りますね。先日、確定申告に行ったら、最後に2パーセントぐらいとられるんですよ。復興支援ということで。みんながサポートしていることを忘れないで欲しい。

布野 今度のような大津波が来ても誰も死なない、というのが原則だと思います。「フクシマ」は全く別ですけど。はっきりしているのは物理的に防ぐのは不可能だということです。高台移転にしても、これだけ長引くと、当初から予想されたことですが、合意形成できていたのに、一人かけ、二人かけして、計画自体がなりたたなくなるケースがでてきてる。非常にまずい状況ですね。宇野先生は、つい最近、被災地を回ってこられたわけですが、いかがでしたか。

宇野 犠牲者が概ね2万人、仮設居住ほか他県などへの避難者数がおよそ30万人といわれています。未曾有の被災ですが、日本の人口は13000万人もいますから、国民皆で支援すれば、割合(30/13000からいって、より円滑でスピードがあり適切な復興も可能だったと思います。しかし、3年もかけて復興が進んでいないのは、社会システムに問題があるからでしょう。社会システムの設計が実状現状に適していないので、エラーとバグが続出するのだと思います。都市(計画・設計・建設・経営の)システムにも課題が多々あります。加えて、非常時に平時のそれを援用したため、機能不全を起こしたといえるのではないかと考えています。誰がいいとかいけないとか言うのではなく、現時点でうまくいっていない部分を、部分部分からバグを取り除いて修正するといった、現実的な対応がいまは大事なのではないか。現実と理想とを突き合わせて、これでは駄目だ、駄目だといっていても始まりません。復興の現場では被災者の方々が依然としてたいへんな不自由をしている。現状を見据えて具体的に前進できる対応をしていく必要があります。一方で、中南海、南海大地震の可能性に対して備えることは大切ですが、東日本大震災に対応できなくてより大規模な被災の対応をできるわけがありません。被災者の皆さんは東北が忘れられていくのではないかと思い始めている。そういうことがないように、専門家としては支援を続けるとともに世間に訴えることも必要でしょう。

布野 この間、中国支部のシンポジウム(平成25年度「中国支部研究発表会」同時開催事業「地震,戦争,大災害と建築」・石丸紀興(広島諸事・地域再生研究所代表,広島大学名誉教授)「原爆と戦後復興関連」・杉本俊多(広島大学教授)「ドイツの近代建築と戦争関連」・武村雅之(名古屋大学教授)「科学技術と防災-関東大震災から学ぶ」・布野修司(滋賀県立大学教授)「戦後復興と東日本大震災復興」)に呼ばれたんだけど、司会の、先ほど名前が出た岡河貢先生が「これから被災地に行こう」と呼びかけてました。被災地の問題を地域の問題として受け止めるのは当然なんだけど、被災地支援は息切れしてるんじゃないか、という。実際そうです。滋賀の方から被災地支援というと結構大変です。第一に旅費がかかる。陶器浩一永井拓生先生、それに宮城大の竹内泰先生の気仙沼の大谷地区の支援ということで、総務省の「域学連系」というプロジェクトを獲って、去年は「浜の会所」を建てたんですけど、これから長期にわたって維持していくのは結構大変なことだと思っています。当該自治体も大変なんです。莫大な予算がついてそれをこなすだけで精一杯。人手が足りない。どう持続的に支援体制を組むかが問題ですね。学会の取り組みも少し息切れしてるんじゃないか。

木下 地震が起きた直後から、フットワーク軽く動けないような仕組みがあると感じてきたんです。私もこの一年半ほどアーキエイドとして釜石復興公営住宅に関わっているんですけど、当初の予定どおりには全く進んでない。1年かかってようやく3戸が完成し、入居が済んだという状況。当然、今建設中のものもありますが、スピーディーにこなすには仕組自体から考えなくてはならないと感じてます。皆考えは同じ方向を向いているんだけど、どうもスムースに回っていかない。

宇野 建築家たちが考慮すべきことに財源の問題があります。実は財源が無い。たとえば、陸前高田では、公共(的)サービスを提供する仮設建築、復興建設が多少なりとも進んでいる公共建築は、その財源がNPOとかシンガポール政府とか企業の寄付とかの外部資金が多いようでした。公的資金つまり税を投入しようとすると、その執行において制約がとても大きく、事務手続きが煩雑かつ大量にあって、使い勝手がよくない、それも事業毎に書式手順基準がまちまちで事業相互の連携など弾力的に計画することができない・・・そこに大きな問題があります。

木下 そうなんですよ。手続きにも時間がかかりすぎる。平等と公平に則った仕組みが、結果としてかなり足枷になっている。

山梨 それと工事費が上がっちゃってる。僕もアーキエイドの事務局をやってるんですけど、計画がまとまっていざという時に、結局工事費があわないんです。つまり、きれいごと言ってるんだけど、群がってる人たちがいて、利権が発生する構造がある。建築家側が理念的に提起しても、造る側が旧態然としている面がある。それがここ一、二年で見えてきているんだけれど、政府もわれわれも何もしてこなかった。その構造が足枷になってるんですね。新聞もあんまり書かない。

木下 そうそう。入札不調を繰り返せば、工事予算はその都度あがるわけだから・・・

山梨 一部の施工者は、建築家を追い出したいわけです。旧態然たる構造側としては。アイディアだけもらっちゃってね。

宇野 地場の建設会社に直接アプローチして信頼されたならば、もっとうまくいったかもしれませんね。残念なのは、旧来の社会構造を介してアプローチしたというところなのでしょうか。

山科 僕は大きな組織に属しているから、住宅の設計をうまくやれるとは思わない、僕らが担うべきは経済基盤をつくることだと思うけれど、未だにできていない。高台移転にしても、移転する人たちがどうして食べていくか何にも無い。

布野 高台に限界集落をつくるだけだ、という批判は当初からある。

山梨 「フクシマ」が象徴的ですが、震災当日の東京で学んだことは、実は東京と「フクシマ」は密接に結びついていた。東京では一棟も建物は倒れていないのに、東京の交通は完全にマヒをして、僕らは歩いて帰らないといけなかった。そして、まったく無縁のように見える東北の各地と東京は、魚や野菜のような小さくはあるが多様な結びつきを持っていたことを、震災後の生活の中で実感していったわけです。ほんとは経済学者が提起すべきだと思うんですけど、東北に経済基盤をつくる、というのが一番かけている。先ほど東京オリンピックのテーマの話をしましたけど、オリンピックと東北の復興を結びつけて大きな話をすべきだと思うんです。東北のディスクリートな地域のミクロな経済基盤と東京をどう結びつけるかという視点ですね。そこにオリンピックのテーマもありそうな気がしています。

宇野 僕は、当初から提案しているのですが、東北の復興と将来ヴィジョンは、ノルウエイをモデルにするといいと考えています。北国の広大な土地を少ない人口で民主的合理的に統治管理経営している彼らの社会システムに学ぶのが適切だとも思います。水産加工業、ワンストップの交通インフラネットワーク、観光資源として自然物の価値を高めて観光産業とするノウハウ、都市とは異なるライフスタイルなどなど、学ぶべきところが、たくさんあります。

山梨 でも100年以上も前にもじつは、そういうシステム、東京と東北のつながりはあったんですよ。イザベラ・バード『日本奥地紀行』(東洋文庫、全4巻、金坂清則)を読み直してみると、東北は一見悲惨なんだけど、東京とつながって成立している経済基盤の存在も読み取ることが出来る。あの時代にでもできていたことなのだから、もう一度そこを掘り起こしてみる必要がある。それは北欧のディスクリートな漁村のモデルとも繋がるんじゃないか。東北の経済構造を浮彫りにして、問題にすべきです。

布野 経済学の先生方も、建築学会の例えば農村計画の先生方も色々提起されているんだけど、表に出てくるのは、とにかくアベノミックスで、実体経済というより、為替と株と証券のヴァーチャルな操作による経済政策だけに関心が集まってる。

和田 文部科学省の復興プロジェクトで小学校の復興について、長沢悟先生、小野田泰明先生にお願いして学会はお手伝いしてきてるんです。昨年、石巻に行ったんですが、ようやく三つぐらいの学校を合わせて復興したんですが、浜と浜の間が意外に仲が悪かったりするんですね。そういう問題もある。

 

世界建築の行方-リヤドとハイチ

布野 その他、最近の建築事情はどうでしょう。山梨さん、外国へいかれてるんでしょう。

山梨 最新の建築デザインのヴィヴィッドな状況を見に行ってるわけではないですけど、興味あるのはリヤド(サウジアラビア)ですね。建築家はバブリーなところに集まるわけですが、ものすごい建設ラッシュですね。すごい量のオフィスが建設されていますが、需要は10分の1も無さそうに思える。石油が枯渇する前に、第二のドバイを建設してしまおうと狙ているかのようです。

布野 舛添新都知事は、東京をドバイに!とか言ってるようですが、大丈夫ですかねえ、ドバイは崩壊直前に行ったことがあるんですが、ロシアの富裕層が投資してたんですが、一体何処のマネーを呼んでるんですか。

山梨 石油で設けたお金がけた違いにあるはずです。は非常にすごいオフィスビルができていて、これから世界中から人を呼ぼうという、そういう順番ですね。とにかくお金は有るものの、これまであんまり開発してこなかった。ドバイは投資を呼び込んで開発したんですけど、リヤドは自らのお金でつくれちゃう。つくってから人を集めようということが起こりつつある。一方で、ムスリムの国だからパスポートがとりにくい国でもある。そういう国で、今後どういうことが起こるのか、興味芯々なんです。

布野 中国、インド、そしてアフリカかなあと漠然と思っていて、学生にはインドに行きなさいとけしかけてます。実際、スタジオ・ムンバイとか、ドーシのところに行ってる子たちもいるんですよ

山梨 そうインドでしょう。それからミャンマー、だけどミャンマーはマーケットが小さい。バブルがどうアフリカに軟着陸するか少し興味がありますね。

布野 建築家として具体的な名前があがりますか?こいつは面白いぞ!という建築家。

山梨 具体的な名前は出ないですが、スペインが終わって、これからは南米じゃないですか。スペインは素材感あふれる建築をつくる建築家が一杯いますよね。建築雑誌を開けば嫌というほど出てきてた。

布野 へえ、知らなかった。この半年、セヴィーリャ大学から学生が三人着てて楽しくつきあったけど、スペインでは就職が厳しい、日本で働きたいって言ってたけどね。ひとりは藤本壮介のファンだと言ってた。

山梨 だから、次は南米で同じことが起きるんじゃないかと思ってるんですけどね。

布野 和田先生は、地震で中国へ随分行かれてましたけど、最近はいかがですか。

和田 この前、ハイチに行きました。

布野 ハイチも全然復興してないですね。どうなってるんでしょう。

和田 人口が一千万人。島の西半分がハイチで、東がドミニカ共和国です。首都の200万人のうち30万人が亡くなってしまった、大変な災害です。

布野 ポルトープランスですね。

和田 もともとテントやトタン屋根のような家に住んでた人は大丈夫だけれど、15センチ角のコンクリートの柱にブロックの壁をつめたような家が壊れて、多くの人々が亡くなった。カテドラルがハイチ全体で11あって、首都にあったのが壊れて壁だけしか残っていない。二つはヒビだらけで、どうしたらいいかということでアドヴァイスに行ったんです。バチカンから派遣されてきた人がいて、お金はあるんです。東日本大震災の場合、津波の映像は流れるんだけど、あんまり悲惨な場面は流しませんよね。ハイチの場合、生々しくて、最初は瓦礫の下から声が聞こえているけれど、次第に聞こえなくなるとか、聞いてきました。とにかく貧富の格差が激しい。

宇野 日本で悲惨な場面を出さないのは自主規制でしょうか。ニューヨークタイムズなど外国メディアは、遺体の捜索、安置、埋葬の現場もリアルに報道していました。

和田 四川地震の場合も、亡くなった人の写真があって、残された家族はどうなるんだろう、といったコメントがその画面についていたりして、生々しいんです。

布野 いま、滋賀県立大のヒメネス・ベルデホ、ホアン・ラモン芦澤竜一、そして森田一弥の三人の先生がフィリピンセブ、ボホール、レイテに行って、復興支援を考えているんですが、あんまり日本で動きがありませんね。台風と地震で相当のダメージなんです。教会もかなり被害を受けています。レイテタクラバンは未だにテント生活で、計画ができていないんです。

和田 ハイチでもいろんな問題があります。アメリカは援助ということで米を配給するんだけど、もらうほうが楽だから、ハイチの人は作らなくなっちゃう。80%は無職なんですよ。アメリカは援助によっていうことをきかせようということですね。

布野 リヤドハイチ、両極端の世界がここで話できるのもすごいですね。僕は、スペイン植民都市研究ということでキューバと隣のドミニカ、2回カリブに出かけましたけど、ハイチ革命1804年ですが、フランス革命の影響を受けた最初の黒人革命、カリブ海最初の独立国なんですけど、その後、苦難の道を歩んできてますね。

山梨 さっきリヤドのことを話しましたけど、イスラーム圏というのは日本から一番遠いじゃないですか。そうした中でアジアでは仏教と出会うインドネシアが注目されるんじゃないかと思うんですが、いかがですか。

布野 インドネシアには30年通ってるんですけど、僕も当初はイスラームは遠かったですね。実はムスリム人口が世界で一番多いのはインドネシアなんです。ただ、西アジアのイスラームからみると、堕落したイスラームと見られている。基層文化が違うし、気候も違う。まず、インド化があって、その上にイスラームが乗っかってます。一神教と八百万のヒンドゥー、仏教との関係は面白い。話せば切り無いですが、現在再び光が当たりつつあるように思います。とにかく資源がある。今、中間層が育ってきてて、インドといい勝負かもしれません。

山梨 いやあ、布野先生の仕事のことを思い出したらインドネシアを思い出したのですが、意外とインドネシアが台風の眼になるかもしれない。新しいコンセプトが生れるような気がするんです。また、色々お話をうかがいたいです。

布野 気を使って頂いてありがとうございます。日本の話にまでは至りませんでしたが、次回にしましょう。

(文責 布野修司)














布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...