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2026年3月25日水曜日

『群居』50号 最終号 対談・群居回顧・・・未来のために/布野修司+野辺公一

https://drive.google.com/file/d/1_1desGB06pVldNeqddL5TGE9iPXGyYHy/view?usp=drive_link
対談 群居回顧・・・未来のために
布野修司vs野辺公一 
オブザーバー:大野勝彦 

 群居の初心

 野辺 50号ということだけど、当初計画していた年4回刊行ということからすると4×17年で68号出してなくてはいけない計算だけど、これが50号ということは通年でいくとやっぱり年3回体制だったということだね。『群居』が一貫してこだわり続けてきたものは何か、ということを議論しなくちゃいけなくて、当初布野プログラムでは、季刊だから年4回ということで一つは都市計画より、それからデザイナー論というかいわゆるアーキテクト論、生産論があって、住まい手論があった。バックナンバーを見ていくと一応忠実にやってきたんだけど、一九八三年以降建築家のかかわる領域が邁進する資本主義の速度に理念的に追いつかなかった。それからすごく古いイメージの建築家論と調整役としてのアーキテクト論とか、食える食えないということを別として身体的にも分離してきちゃったじゃないかというのが一方であったわけです。

 布野 最初何て言ったっけ?

 野辺 都市計画論。大野さんで言えば都市から住宅、住宅から部品まで一貫してシステムとして捉えていこうという発想があって、確かにその通りだということがあったんだけど、僕らの認識でいくとそこはすべて市場性みたいなところで分離されていったという形があって、それはわりと『群居』は抵抗してきたと思っているんだけど。ただ逆に言うと、その先に行っちゃう、要するにそいつらよりももっと先に行ってた部分もあるんだけど、まったく行ってなかった部分もあるなという、そんな感じがしてるんですが、それはやっぱり時代の動きということがあるから、例えばインターネットを使ってやりとり、なんことはかつて想定もしてなかったことだし、外部的な要因もあるんだけど、内部的には建築家というのが一方で脆弱化したんだけど、新たな業態に変更せざるを得なかった部分があると思うのね。

 布野 『群居』の編集の当初のフレームとして、都市計画、建築のデザイン、生産、それから住み手の問題、という四つを確かに設定していた、一年四回順にやっていけばいい、というのが方針だった。

 その前に今野辺さんが言おうとした、建築家はいったいどうなんだというところなんだけど、僕の中では、幻なんだけどHPU(ハウジング計画ユニオン)があって『群居』だという気がずっとあるわけ。

 HPUというのは結局何もしなかったという評価もあるんだけど、刊行委員会と会員のやってることの全体がHPUの活動という気もずっとあるわけ。それが一般的な建築家論というかそういう話にも繋がっていくんだけど、最初四人が集まった時に僕はアジられたんです。建築家はもっと住宅の問題にかむべきだという。大野さんはまさに先端でやってるし、石山は何もやってなかったかもしれないけどコルゲートいっぱい作ってある種の何ていうか住宅と言えば住宅だけど、理論的に言えば工業製品を使って既存の部品のメカニズムと違うところで表現を成り立たせるみたいなことがあった。渡辺さんも全然違うみたいだけれど、建売やってみせたり、標準住宅001とか言ったりして、何か大きな意識があった。まあ渡辺さんはRIAにいたわけだから、戦後にラムダハウスとか標準のプロトタイプをつくるとか、戦後建築の初心の意識も多少引き継いでいるからね。

 八三年段階では、これは僕の言い方になりますけど、建築家が高度成長期にバーッと絵を描いたりしてたけど、結局何もタッチしてなかった。結局日本の住宅を動かしてるのは六〇~七〇年代に成立したメーカーだった。公団公社もあるけどね。その辺で一番かんでやってる建築家は大野さんだった。僕は組織的に何かできないかと直感したんだ。

 当初、あまり記録に残っていないかもしれないけど、四人で長崎の島崎工務店とかいったり、なかなかスタートがうまくいかなかったけど、うまくのってたらもしかしたら別の会社が出来てたりしたかもしれないですよ。結局はほぼバラバラで動いて行くことになるんだけど、それぞれが表現すればよくて、その動きが『群居』の誌面に反映されればいいというのがあった。当初『群居考現行』なんていうのがあって、いろんなところに行って、アクション起こしてという企画があったけど、だんだん刊行することが自己目的化していった。一つは四人プラス刊行委員会といってる部分がこの十何年間で何ができたのか、まわりの環境と実態がズレてきたということがある。当初のHPUという幻想は最初だけあって一七年が過ぎたのかもしれない。それで、これからもズルズルっていうのもないんじゃないかっていう気も僕はするんですよ。

 冷静に見て、二〇年前と今とで建築家のあり方がどう違ってきているのか、野辺さんはどう思うわけ。僕はあまり整理ついてないんだけど。

 

  HOPE(地域住宅)計画

 野辺 一つは、『群居』を最初にやった時に、HPU宣言では島田建設のあれもあったんだけど、ビルダーとか工務店向けにも何か言おうよっていう・・・

 布野 一つはあったんだけど、大野さんの『地域住宅工房のネットワーク』を出したのは何年ですか?

 大野 一〇年前。

 布野 だから五年くらい経ってから出してるから、ハイムからは既に地域にターゲットがあった。

 野辺 要するにビルダーとか工務店のような生産組織と大野さんのいう地域建築家っていうか、そこをどうやってラッピングさせるんだっていうのがあったと思うんですよね。その場合ホープ(地域住宅)計画というのが非常に有力な手掛かりだったと思うんです。

 布野 それが重なったわけでしょ。

 大野 スタートが同じなんですよ、八二年で。

 布野 だから一つのイメージとしては、地域ビルダーっていうか、『群居』でも特集やったけど、一方でアーキテクト・ビルダーの路線があって、設計屋が図面書いて済ますんじゃなくて、施工も生産もおりていって、地域で何でもやりましょうと、住宅からまちづくりにつながらないかと。それがホープに重なってたわけです。だけど僕に言わすと、バブルにやられたというか、ほとんどそれが消されたということがある。建築家はバブルで羽振りがよかった。また、住宅の問題はふっとんだんです。バブルがはじけてからのの状況を今日話さなければいけない話なんだけど、あまり読めてないんだね。今、性能表示が出てくるのは一体なんだ。わかるけどね。

 大野 あともう一つは不動産屋をやれなかったですね。

 布野 だれがやれなかったんですか。

 大野 『群居』で。不動産屋を扱わないとどうも抜けてる感じ。

 

  何故、タウンアーキテクトか

 布野 話が前後するけど、たまたま僕の本(『裸の建築家---タウンアーキテクト論序説』)持って来てくれたから言うと、僕が考えたのは、同じ人間だから『群居』でやったことから切れて考えたって話じゃないと思うんだけど、一つは建築家は量的にいらなくなる、ということ。建築家がどうやって食っていくかって時にビルダーを含めて半減しなくちゃいけないって話だから、重要な話ですよ。一つはメンテナンスにいく。『群居』はあまり扱ってないですね。設備的なこととかメンテナンスとか絶対あると思うんですけど、エンジニアリング的なとこ欠けてるわけ。工法とか生産的なとこは得意だったかもしれないけど環境工学的な話なんかね。スラバヤでエコハウス建てて見てわかった。

 もうひとつ町づくりへ本格的にシフトしていかざるを得ない。それが『裸の建築家---タウンアーキテクト論序説』書いた理由です。そうすると、町内会のお世話なんとかじゃないけど、そういうとこで食うしかないかもしれない。どうやって食うかはあまりわかってないんだけど。

 野辺 これ読んでて、前に大野さん言ってたんだけど、日本全国そういう形での建築家はせいぜい一〇〇人もいればいいんじゃないかと。

 布野 僕の構想でいうと最低全国の自治体の数だけはいる。

 野辺 三三〇〇人? まあそのくらいはいるとしても、所詮そんなものだと。つまり一%ぐらいしか成立しないよっていうのがあるじゃないですか。

 布野 一〇〇万人、建築士ベースで。

 野辺 そうすると、そこのとこの淘汰っていうか再編っていうか・・・

 布野 ちゃんと計算してないけど、計算すればはめ込めるっていう気がするよ。

 野辺 じゃあ皆がしがみついている、なんだかんだ言って食ってる部分ていうのは何だ、そこをどうするんだっていうのを『群居』ではあんまりやらなかった。あともう一つは、住宅=町づくりということでいくと、大野勝彦のスタンスというのは一戸だろうと、一〇戸だろうと、一〇〇〇戸だろうと基本的には同じスタンスで設計すべきで、つまり一戸の住宅を設計するということは一つの町を設計することにつながるわけだから、一戸の住宅を設計することは一つの集住を設計することと同じことだというような概念が大野さんの中にはあったと思うんです。だけど、現実の問題としてはできないところがあって、もう一つ僕が気にしてたのは、それをやることによって町の古層をよんでいくっていうか、ようするに依拠するべきものが当然の手法としては一つあったと思うんです。その古層から地域性であるとか特性をどんどん洗い出していってもこれだけの剥き出しの資本性の中で、依拠するのに万能というか依拠し得る根拠だったのかっていうのは良くわからない部分。

 

 笑う住宅が二つ並んだら大笑いだ、でも「住宅=町づくり」へ

 布野 今二つ問題が出されて、前半の部分に関しては一戸つくることは町をつくることにつながるというのは本当はある、と思う。町づくりやるときにわれわれは当然フィジカルな街並み、景観に責任がまずある。コニュミティがどうのこうのとか言う前にね。もちろん、コミュニティにインヴォルブされなければ何もできないということもあるけど、一方で部品でせめた方が早いという戦線があるんですよ。団地計画でもエクステリアの用品を用意しとけば自然に町はできていくという発想が多分ある。それはディベロッパーなりメーカーの住宅地計画レベルでは多分あって、例えば亡くなった宮脇壇さんなんかがセキスイの団地開発でやったようなせめ方がある。一戸一戸つくればいいというときに、一戸が二戸並ぶ時の話をやったかどうかっていうのは記憶が薄いけど、ゼロロットラインとか、総合設計制度とか、法律の話になるとちょっと弱かったかな。

 野辺 例えば石山さんが『笑う住宅』とかいくつか出してくわけです。それで、それが隣にもさらにその隣にも並んだら大笑いになってしまう、それは違うだろうという。

 布野 確かに。石山さんの住宅がふたつならんだら大笑いかもね。ポストモダンはそれでも成り立つかもしれないけど。何か欠けてるんですよ。伊豆で屋根をみんな右近色に塗ったりするからわけがわかんなくなる。もう一つ二番目に野辺さんが言った古層を解読するっていうのは、僕は間違ってるとは思ってなくて、・・・。

 

 地域の古層を読む・・・でっちあげてもいいんだ。

 野辺 いや間違っるとは思ってませんよ。

 布野 部品をどういうスケールでディストリビュートするかということにも関わるけど、例えばバス・ユニットは何百万単位で生産するとか部品によっていろいろ違うかもしれないけど、理念的に、頭の中では、使える材料で作ってローカルにまいていく、それに地域性みたいなものがでてくるかもしれない、というのが理論ですね。そんなものどこでもできてないといえばそうだけど、方法としてはどんなとこでも、コンビナートがたってる工業地帯になっててもそれをさぐればなんか手掛かりがあるはずだ。それを手掛かりに町づくりにつなげていくのは一つの有効な方法だと思ってるわけ。

 野辺 当然ですよね。ただ結局八〇年代、

 布野 そうバブルが強烈だった。

 大野 実は僕の原型は鹿島から始まったんだ。

 布野 波崎ですね。こないだテレビ見てたら、日本一投票率が低いとこだったんだって。漁港ですね・・・。

 大野 変わったね。

 野辺 その頃僕も波崎に行ってたんだけど・・・

 布野 あそこ砂しかないけど、江戸時代の新田開発の跡があったり、戦時中に飛行場に使われていたり、それじゃ何でもいいじゃないかと、要するに、極端に言うと地域性というのはでっちあげればいいと、僕は思った。そこで生きている人の個性を束ねたのが地域性なんだから。投票率が低いのは漁港の地域性でしょう。伝統を守っていけばいいっていう話じゃないから。

野辺 そこを読み取り間違った奴等が大野さんの真似をして、真似をしてるんだけど読み間違っちゃった。ウルトラ原理主義みたいなところにいっちゃってる人がいるじゃないですか。要するにこの地域では極端に言えばくぎを一本も使わないような伝統的なものでいったほうがいいんだとか。あり得ない話がでてくるでしょ。例えば昭和初期のロマン主義っていうか、そういう匂いがしてて、一方で危ない手法なんだなというのがあって、大野さんはハイムとか部品論を持ってるからさーっとそこはやれた。地域というのはそういうもんじゃないんだ。要するに人間の集団の分布の集まりの状況の中で地域というのをつくっていくんだというところがあるわけですよ。

 布野 そうだよね。

 野辺 だけど他はそうではなくて、建物そのもので地域性を演じようとかあほなことやってきたから・・・

布野 それについて言っておかなければいけないのは、それは大野さんのせいでも何でもないとおもうけれど・・・

 野辺 違う違う。

 布野 ホープ計画っていうと、すぐ木造公営ということになった。また、地域型住宅という話になって、有力ビルダーがそれを商品住宅化して、あるいはプロトタイプ化して、売った。その地域型住宅というと、勾配屋根がついてて、伝統型でという、それは全国ありますよ。ステレオタイプ化されたパターンが。それをどう差異化できたか、ちゃんと批判できたかどうか、きわどいんじゃないですか。端々には書いたかもしれないけど。

 野辺 亜流だって一言で言っちゃうのは簡単なんだけど、その方が行政から支援を受けやすいとか、で現実には何のインパクトにもなってない、効果もない、というところで終始してて、一方で地域建築家みたいな匂いを出してきちゃったと言う臭さがあるじゃない。それはだめなんだ、そんなこといくらやっても絶対だめだということを言えたかというと、僕もそうですけど言えてなかった。その辺はありますよね。その一方で彼らはそこにいっていたというのはどういうことかと言うと、都市部を中心としてバブルというものへの攻撃、そこから弾き出されるもしくは避難するという意味でも行っていたというところがあったと思います。で、その一方で、資本的な再生拡大ということに建築家がうまく取り入れられてきた。どこまで自覚的だったかわからないけど取り入れられてきた。

 

  地域住宅生産システムは如何に成立するのか

 布野 そっちへいく前に、スタイルだけの地域型住宅とか、うわっつらの話ではなくて、その地域の住宅生産システムが問題なんですよ。

 野辺 もちろんです。

 布野 今の時代、今後二一世紀にかけて、地域住宅生産システムがどういう範囲で成立して、どうなるのか、エコロジカルな問題も含めてね。多分誰もモデルを作ってなくて、『群居』は終わるけども続けていくテーマとしてはあると思うんですよ。

 野辺 それからもう一つ、地域の生産システムの話からいくと、いきなり言説として従来二五年もしくは三〇年で壊して新たに建てていくから需要が続くんだというレベルの話が、いきなり五〇年とか一〇〇年もたせるんだという、これはエコの問題もあるだろうけど、どうせ人口が減ってくるから住宅投資はでてこないよ、というように急に話が変わっちゃったわけですけど、だから逆に言うと一〇〇年というところになっていったときに、新築での仕事はなくなる、といったとこでもっと地域の生産システムに深く関わざるを得ないんじゃないかというのはあると思う。

 布野 原理的には、五〇年、一〇〇年もつという話になったとき、住宅のコストも上がれば同じ量だけど、あがらないとなったら、それこそ昔の大工が出入りで世話して直しをしたりとかせざるを得ない。

 野辺 だから循環型、要するにそれが適切に機能するのはどの規模なんだというのは見つけられてないと思うんですよ。もう一つ法的な制度との兼ね合いがすっきりしていない。

 布野 昨日たまたまNEXT21の話になったんだけど、一〇戸か二〇戸かしらないけど、あれで成立するのか、エネルギー的に、もっと外部?レベルで成立するのか、地方で成立するのか、これは実験的にでもこれからやっていくべきだと思う。

 

 外国人居住問題の本質

 野辺 地域っていう概念をどれくらいのレベルで考えていくのかっていうのがあまり明快じゃないですよね。もう一つ気にしてるのは、外国人居住というのがもう少し経ったらかなり明確になってくると思うんです。受け入れざるを得ない状況が一方であるし、もう一つは不法入国でも何でもいいんだけど、そうした時に布野さんなんかがやってきた寄せ場というような居住が今後おおきな問題をはらむわけですよ。そういう中で地域の生産システムもしくはコミュニティということと、文化の違う居住スタイルをもった人たちとの融合性をどう考えていくのかということは、先端的な問題としてあるなと思ってる。それはアジア的居住をいろいろ見てきた布野修司としてはどう捉えていくか。

 布野 『群居』でも在日居住の問題やったよ。石山さんが。

 野辺 それは受け入れのスタイルとしての発想で、それを町づくりとかに更に展開していく方法、例えば基本的には今日本人しか建築やってないけど、極端な話半分がアジアの人で一緒にやっていくというような未来像がみえる?

 布野 作ることに関して?、それは大いにあるよ。欧米人呼べばいいっていうじだいじゃないよ、最早。産業構成の問題もはっきりしてる。多分今の日本の社会構造からすると、先進諸国化して、サービス部門を外国人労働者に頼るというのは見えてますよ。例えば、介護とか看護も。日本は景気悪いと言ってるけど皆結構金持ってて、海外出かけてる。サッカーの応援なんか。建設労働についても、今寄せ場って言ったけど、僕がいうのは寄せ場的な単純労働部門はあんまり見向きもしない、日本人はね。今は入管でコントロールしてますよ。建設に限らないけど、研修ならということで制度的には受け入れてる。今、企業単位で研修してますから本当の混住は見かけ的にはおきてなくて、島的に、例えば群馬の太田市にブラジル人がいっぱいいるとか、イリーガルには新宿歌舞伎町だとか新大久保だとかある。

 日本では明治以降から在日韓国人とかアジア人の問題があるし、朝鮮半島や台湾、満州を植民地化してたというのもある。戦後初めてでしょう、バブル期にわーっと外国人が流入したのは。今度モスクできたでしょ、渋谷に。あれはトルコの技術者呼んでやったし、そういうことおこってもおかしくなくて、現場レベルではすでに、例えばホテル川久(白浜)の時はイタリア人職人呼んだし、進行するでしょう職人レベルの話としては。

 そういう外国人たちがどういう住み方をするかというのは隠されてると思います。町づくりとしてももっと多様な住み方ができるスケルトンを作るべきだという気はします。グローバルに見たときに日本が絶対おかしい。インド行ったってインドネシア行ったって、いろんなやつがいるのが都市なんだもん。ドイツならトルコ人がいるとか、フランスなら植民地のアフリカの連中が入ってきてと。ヨーロッパの場合は階層社会だから、清掃とかサービス部門に入り込んでる。本当に日本が開くかどうかというのはありますよ。

 野辺 混住というか、そこのとこからみていかないと、一つのポイントとして、要するに地域の住宅、町づくりというのは一方で見失うものがでてきちゃう。

布野 今の話と繋がってないのは、日本の建設産業を半分にしなくちゃいけないという時に、外国人を入れるというのは多分計算が成り立っていない。

野辺 労働者として入れるんじゃなくて、例えば介護でも何でもいいんだけど、それ以外の人たちがもっと公然とっていうか、今までの植民地居住っていうのではない形でなっていくんだろうと、その時の町づくりというか住宅イメージというのは、布野さんはちょこちょこっと言ってたけど、誰もあまり言わないなっていうのが気になって。一番定型的なのは大野さんが言ってるけど、地価の問題とか、そのへんの尺度をどうみとくというのはあると思う。

 大野 建設地余ってるっていうけど、農業的基盤からつっこんだみたいに、その前は軍隊的基盤が建設省に入ってくる、もう一度農業で使うのか、考えていくと、ぜんぜんおかしいって感じ。

 布野 先進的に考えていくと、農業に還るっていうのもあり得るかもしれないけど、量ではそういかないでしょ。

 大野 昔は兵隊帰ってくるでしょ。群馬は農業多かったけどもう家に帰れないでしょ。それで日雇い労務ってことで建設労働始まる。その人たちが戻る場がないというのが問題だった。

 布野 建設産業労働者というのは雇用の調節弁みたいな扱われかたをしているでしょ。公共事業やってこれだけ吸収しましたって話が基本ですね。

 

 やっぱり建築家というのはうさんくさい

 野辺 最初に戻ると、建築家っていうのが極めて曖昧なんですよ。業務の幅としてもいわゆる代願やってる人から磯崎新まで、これひとつのつながりなのかということを考えていくとどうみても違うなと。その切れ目はどこにあるっていうのがあまりはっきりしない。

 布野 なんだかんだ言ってもそれが建築なんですよ。僕は実際に建築やらないけど、建築しかないかなという気はある。例えば都市コンサルタントの連中とか一般の町づくりがなんだかんだ言ってる連中の話聞くと、一体それは何なんだと、逆にこっちがわかんない部分がある。それはいっぱい大事なことはありますよ。地域とか介護の問題とか、彼らは別にフィジカルに住宅がなんであろうと別に気にしない、プレハブだろうとなんだろうと。スターアキテクトっていうか、安藤忠雄でもなんでもいいけど、やっぱり何かのイメージ、住み方とか建築の空間のイメージを出すとか、それをやってみせるとか、そういう役割はある。

 野辺 それがずっとおりてくると、・・・

 布野 変なのもいますよ、そりゃ。僕の最初の意識ではHPUとか始めるときの意識はそうなんです。イメージだけではリアライズされていかないし、絵を描いた。そのためには生産の仕組みにも手を出すべきじゃないかと。そんなこと言っても繋がってないじゃないかというのが野辺さんの言い方かもしれないけど。全然別の市場だったり、業界の動き方してて、乖離してるんじゃないかっていうんでしょ。だけど繋がるべきだと。

 野辺 資格とか別として、最近工務店みてると設計事務所、アーキテクト・ビルダーっていったらいいのかよくわかんないけど、設計行為しかしてなくて、あとは大工とか調達して請け負いをやってる人たちも結構いるんですよ。

 布野 それが普通。

 野辺 それを遠くからみると工務店という言い方をするし、請負じゃなくてそれだけやってると設計事務所と呼ばれる。両者の差異というのは実はリスクをどう受けてるかどうか。

 布野 責任の問題。

 野辺 そうすると「建築家」っていうのは何だっていう。

 布野 社会的に位置づかないのは責任とってないからですよ。実際とってるのは施工会社でしょ。工務店だったりゼネコンだったり。建築家ってとりえない。だからセコムの会長の保険論って一理あるかなと、要するに保険で担保するしかない。

 野辺 単純にリスクというのと、住まい手と施工業者を結ぶジャッジメントをするやつだという考え方をするやつと、あくまでも設計料としてお金は貰うけど基本的には工務店のチームとして、もちろん住まい手もチームなんだけど、そこで一緒になって最大の彼らの望みとリスクを、コストコントロールとか部品のコントロールをしながらリスクを受けてくというタイプがいると思うけど、そっちは極めて少ないね。何かあると、それは工務店が悪くてオレは悪くない、というようなスタイルは許せない。

 布野 それは許せないでしょ。だから信用が得られないし、設計料もあがらない、ということだと思いますよ。基本的な理念はヨーロッパではクライアントのある種の代弁をやりますと、弁護士の如くクライアントの利益を法廷で守る、医者の如くクライアントの命を守る、建築家もクライアントの財産を守る、ということで成立しているわけです。不法な業者の間に立って理不尽なことを排除しますという理念はあるわけですよ。日本でそれが成立したかというと、今まで相当あやしいわけでしょ。建築家の先生に頼むと金ばっかりかかるとか。

 

 自分で建てて自分で売れ、それが表現

 野辺 逆に言うと地域の住宅づくりのレベルで、何ゆえ建築家がかめないのか、というところに還ってくると思うんですよ。極端なこと言うと何で設計料がもらえないのか、というのが一つあって、もう一つは前に石山さんにも言ったんだけど、あんたそんなにへんな家いっぱいつくりたいんだったら自分で建てて自分で売ればいいじゃないかと。少なくとも他の表現者という人たちはそのくらいのリスクを皆負うぜ、と。そしたら石山さんただ一言「俺達は金もないし、気もちっちゃいんだ」と。それってかなり微妙なとこだと思うわけ、要するに一方でデザイナーとての表現にこだわりつつ、そのリスクはすべて他人に負わせる構造というのは、表現論としてかなりむずかいところにある。

 布野 それ賛成だよ。表現というのは自分でも成り立たせるレベルで表現しないとまずい。人の金使って好きなことやるって言われても。

 野辺 何ていうか、パトロネージュの構造っていうか、その辺がはっきりしないと建築家像がみえてこない。だから地域でもあいつらにたのむんだったら、要するに住まい手も俺達にリスクを感じない公共でも便所でもやってくれ、となっていっちゃう部分だと思うんだよね。

 布野 僕がタウンアーキテクトっていってるのは、フレーム、骨組みを提出するやつ、個々のデザインは差別化してもいいけど、この町はこういう骨格で作るというやつが必要だということなんだよね。

 野辺 確かにその通りで、昔から言ってたように大工のイメージができてて、例えば建て替えするならこれはこういうふうにしたほうがこの町としてはとってもいいんですよ、といった時にこれを担保する制度って何かあるの?

 

 みんな市長になれ・・・それで何ができるか

 布野 僕に言わせるとそれは市長なんですよ。市町村長なんですよ。町づくりというのは自治体が責任をもって、権限をもってやるべきなんですよ。市長が得意じゃなければ委員会でもいいんですけど。

野辺 もっと進めていけばそこの市ではこういう計画がある、おれが住むんだったらこっちよりあっちの計画の方がやりやすそうだとか、そういう選択性が明快じゃないわけですよ。そこまでいけばおもしろいのかなと思うんだけど。

 布野 それは別の話で動くと思いますよ。分権があって、税金とか、どう動くかわからないけど、もしシステムとしてうまくいけばここへ住むより向こうのがいいとか。メディアが発達したら山奥でも在宅オフィスシステムで動く可能性はあると思いますよ。町づくりという点では動くというより、それぞれやり方が違ってもいいと。

 野辺 それはかなり成熟した大衆社会というか、大衆性みたいなものを前提としてるわけよね。そこが非常にむずかいという感じがするけど。そこまで言った時に、マスターアーキテクトは三、三〇〇人いればいいんですよ。

 布野 大小ありますからね。それに三、三〇〇がいいかどうか・・・

 野辺 最大でも一万人いればいい世界ですよ。

 布野 淘汰の時代だから、差別化しましょうよ、って話でしょ。群居だってそうだったんじゃないかと僕は思うわけ。

 野辺 人材の問題もでてくるんですけど。そういう志向性というか理念性みたいなのが与えられてないとこで、建築教育とか職人教育もそうなんだけど、問題がある。

 布野 大問題ですよ。

 大野 それを今の二〇代、三〇代前半の人たちに質問したときに、どう返ってくるか。

 布野 今、タウンアーキテクト論を大学院で講義してるけど。

 大野 反応はどう?

 布野 すごくいいですよ。いいんだけど、他人事みたいなことをいうやつがいっぱいいるのが困る。おまえの話だろう、と言い返すんだけど。今神戸大でもしゃべってますけど反応はいいですよ。一理も二里もあるっていう。

 大野 『群居』始めた時、布野さん三三歳くらいだったと思うんだけど、今の同年代の人たちが、群居的じゃなくてもいいんだけど、どういうことをするかしないか?

 野辺 一番の問題は、おまえら理念があったって何か意味があるのかっていうのが多分若い方からは一方でそういう話があると思うの、あいつら感がいいから。

 布野 そんな若いやつがいたらいい方だよ。今、建設産業だめだから就職でもいまゼネコン離れなわけ。それにゼネコンがほしいのは施工なんですよ。施工へはいかない。

 

 やっぱり、現場が面白い

 大野 どういうとこなら手あげます。

 布野 やっぱり建築やりたい、例えばアトリエ的なとこ一割くらい。

 大野 そのパターンは変わらないね。

 野辺 具体的に作品をやってみたいわけでしょ。そういう志向性とタウンアーキテクトをやりたいという志向性ってあるの。

 布野 僕の研究室は、職人になって京都の町の現場へ行くなんてのがいる。ちょっと変わってるかもね。木匠塾なんか嬉々としてやる。あれ不思議なんだけど。具体的につくりたいんだよね。

 野辺 そこまでいったときに、じゃあ建築家的な役割と生産から統合的にやってしまう部隊と、その差異は何だっていうとこまで・・・・

 布野 一番おもしろいのは線引いてモノになるときの、その取り合いのとこなんだね。要するに現場を知らない。その訓練をするとこが、学生にそんなことを教えるやつがいないから、それがまず問題。それを訓練して世の中にだせばどっちでもいいわけ。うまいやつは職人をやればいいし、知ってるやつは線引いて、コンビくんで、現場とディテールとつながって全部やれるやつがアーキテクトでいいわけですよ。それが繋がってない。「裸の建築家」っていうのはそういうことですよ。ぜんぜん技術もないし、役に立たない。

 野辺 どうしてそうなったのかもわからない。

 布野 雨漏ったときにも何でかわからなくておろおろして何の手立てもできない。職人がちょっとやってふさいだほうが早い。

 野辺 最初に言ったリフォームだとかいうときにまったくわかってないから、設計事務所は部隊になり得ない。

 

 ストック型現場へ???

 布野 切り替えないといけない。ストック型の実践教育をしないといけないですよ。

 野辺 ストック型の現場へ行って設計事務所どうですか、って聞くと、じゃまなんだと。

 大野 若いうちにやらないとだめかもしれないね、頭でっかちになっちゃって。

 野辺 大野さんの話聞いてると、石山もそうだけど、現場行って石ころ投げられたりという話が冗談でも出てくるでしょ。でも今の人たちの話聞くとそういう話全然ないもんね。

 布野 若いから大工さん教えてくれるんですよ。あまりえらくなってしまうと言ってくれない。

 野辺 そういう意味でいくとタウンアーキテクトというチーム、それから一戸一戸現実に担うアーキテクトという像があったとすると、それに対する人材養成ってまったくないというのがあって、ぎゃくにいうと今までわれわれが向けてたビルダーとか工務店に対してもそういう意識をもってるかというと、もってないですよね。

 布野 僕は大学にいるからその辺は致命的というか、ひどいよ。今度ものづくり大学できるから、これも苦戦するかもしれないけど、予想はあたるかもしれないですよ。どういう教育をしてどういうふうにシフトして、とか本当はいろいろ議論しなくてはいけないけど一切ない。建築家が都市計画やるのはヨーロッパでは当たり前なんだって、大学の授業で英国の学生がいうんだ。日本はどうして・・・というわけ。

 

 リフォーム市場へ???

 大野 東大で都市工つくったときに、日本の社会が何かへんなふうになったかもしれない。

 布野 都市工はあってもいいんだけど、あと土木との関係かな。きのう会った同級生の川端直志って都市工でてるけど、おまえの武器は何だってなったときに都市開発論という。しかし、そうするとみんな制度でしょ、ヨーロッパの制度はこうなってるとか。それを知ってるのが武器なんですよ。

 大野 今若手の先生そこんとこやってるんだよね、だけどなぜかうまくつながらない。

 布野 それはやっぱり利権の構造がそうなってるから。例えば全部市町村でやれればいい。えらそうにいうとそれが自治体でしょ。

 大野 うまくいった場合は、市長は相当傷つきながらうまくまぜた場合ですよ。もう一つはその部署に土木でも建築でも設備屋でもいいけど、美意識をもった若いのがいる場合。

 布野 だからタウンアーキテクトが自治体の数だけ三、三〇〇人っていうの賛成なんだけど、建築主事はもうちょっと少ない二〇〇〇人、一七〇〇か、それでいい。だけどそれが能力がないとおっしゃるから・・

 野辺 あとは行政側というか権力側が理解度がまったくないから、こいつとこいつとこいつにここは託そうという話が全然ないじゃない。それに繋がって考えていくと、マンションの建て替えとか、ストックの再生という話の場合も、誰を何の根拠で選ぶのかというところにもまた一つ問題がでてくる気がしてる。

 布野 それは誰を、設計者を?

 野辺 設計者をどうやって選ぶのか、誰が選ぶのかというポイントがあるわけですよ。例えば妙に素人うけしてて実は何もないやつとか。そういうところでそれが選ばれていくとか。

 布野 マンションのリフォームとか、都会では市場になってると思うけど、これからでしょう。

 野辺 これからのことで、だからこそタウンアーキテクトというのが機能してもらわないと困るわけ。布野さんの考えてるのとちょっと違うんだけど、ストックの再生とか、現実にはドロドロした問題が起きるわけですよ。それをやり得るのは、多分ここでいうタウンアーキテクト的な資質をもったやつ。

 布野 それは含めてるよ、タウンアーキテクトの職能に。今の首長は公共事業で補助金システムで、土建業界がくっついてて選ばれる。だけど実際はもう終わるでしょ、河川とか道路とか皆整備されちゃってるんだから。単純労働で地域に日銭を落とすというけど、それを今後は修理の方に回せばいいだけでしょう。

 

 アトリエ作家の役割

 野辺 一方でそういう像がありながら、作家というかアトリエ派というか、建築家像がイメージとして強い。

 布野 野辺さんが過剰に思ってるだけで、実態は組織事務所とか、環境的システムの方が請け負っている。

 野辺 それは充分わかってる。

 布野 そこへ風穴を開けるためには個人の名前をもったアトリエ派の役割もあると思う。野辺さんはアトリエ派にきついけどね。

 大野 メディアが偏ってるからじゃないかと思うんだ。

 野辺 片方でそういうのがありながら、それとどうやって通底する、風穴が開くのかって。

 布野 だから群居はそれをやってきたって。

 野辺 そうだけど、

 布野 石山みたいなドンキホーテ使って繋げる。職人と町づくりをやるっていうことで彼は彼なりに踊ってきてる。

 野辺 僕言ってるのは若いやつの方イメージをしていって単純に何か一個できましたっていうような世界があって、簡単には繋がんないんだろうなって。

 布野 若いやつは修業して最後はタウンアーキテクトになる、それが上がりのイメージですと、その上はもっと国際的に。原点は仕事で食っていく。能力あるやつは公共建築やればいいし。フランスなんかでも若いときは公営住宅の図面引いたりしてそれでデビューしていくわけだから。

 野辺 もう一つは公共とくっつかない設計者というのの生存領域というのはたしかに布野さんのいうようになってて

 布野 民間はまた別でしょ。民間は自治体がコントロールするとかそういう関係でしょ。

 大野 公共の力はものすごく落ちてる。

 野辺 そうですね。お金ないですね。

 大野 パワーが落ちてるって最近感じてる。

 布野 僕に言わせると簡単で、限られたパイをどうやって分けるか。要するに一部の能力のあるやつに回す評価基準があればいい。地域で議論を積み重ねれば基準はできる。これは僕は楽観的なんだ。

 野辺 どっちだと思います?

 

 構想力が問題

 布野 現実にはいかないですよ、利権の方に動くから。いかないけど、それを利用してその中でモデルを作って、全体の制度なんていらない。どっかでやってみせればいいわけ。ただ、石山個人でやるようなものじゃだめで、もっと広げた話として一個の町や村をぱくってぐらいでやらないと。それは群居でやりきれなかった。大野さんホープいくつやった?

 大野 一〇個。

 布野 僕も島根県の松江だとか出雲はやろうと思ってるけど、こっちがあまりでっぱると今のシステムとかち合うわけ。だからしばらく引かないと。またあったら行くとかね。

 野辺 大野さんのみてると、モノを作るというより、あまり好きな言葉じゃないけど、人作るというか根付かせるというか。

 布野 人の人生を狂わせるわけですよ、アジって。僕も狂わされた。

 大野 モノがないと伝わらない。

 野辺 勿論そうですけど、メディアがモノだっていうことなんだけど、そっちのがいいんだなって感じはするんだけど。

 布野 概念とモノですよ。モノは反発もくらうけど、下手やるとね。

 野辺 他は圧倒的に建築家がもってる構想力が弱くなってる気がするんですよ。それがもっと先に出てくるというか、先を読めるというか、きちっといかないとだめだな、と。どんな提案してるかというと、何のことはない家一戸、それもろくな提案じゃないというところで終始しているから、だから僕はいなくていいと思ってるわけ。

 布野 概念提示。構想力のことでしょう。その言い方に関しては誰でも建築家になり得るんだよね。

 野辺 だからそこのところを、要するに建築家という制度が先にあるんじゃなくて、こういう業態やってるのそれ何?やっぱりそれ建築家なのよ、ってとこでいかないと、もっとおびやかさないと。一〇〇万人自動的に消滅するわけじゃないからもうちょっとおびやかさないといけなかったんじゃないかなっていう気はしますよね。

 

 家族のあり方

 大野 最終号の対談というより、次どうしようって話になってる。

 布野 総括して、次に渡すということだから。住宅のあり方とか家族のあり方とかまだ話したくて、はっきりしてんのは高齢化と・・・。

 野辺 少子化で、ストックが余ってくる。

 布野 余るし、家族の形が、今核家族で戦後の高度成長を支えるために核家族で、2DKでという労働単位をしてきたけど、それでいかないでしょう、というのがあるじゃない。今グループホームとかコレクティブとか、僕はあんなに急速に制度化されるとは思ってなかった。インドネシアのモデルは先進的だと行ってたんだけど、日本でもそうなった。しかし、いい設計はなかなか無い。今のところは。始まったばかりだ。

 大野 今年の一月号と六月号に住宅雑誌の住宅で発表されたものの住まい手は、一人住宅と二人住宅が二五%を占めている。しかも高齢者だけではない。

 野辺 それが特殊かどうかわからないですけども、少なくとも住宅メーカーなんかがもっているコンセプトでは対応できない居住が増加している。

 布野 所有の問題とリンクするからギャップがどうしてもできる。実際はそうなんですよ。

 大野 一方、都市部では実はオーナー一人二人だから複合居住的なマーケットが増えてる。それを引いてみると、最大六割くらいしか普通にみえる家族っていうのはいなくて、そのうちの半分くらいはまだ親と同居してるって感じだから、リビングっていっても三割くらいしか反応しない。それくらい変わってきてる。

 

 器を用意する

 布野 そう思いますよ。それは見えてたけど、じゃあ器の方がくっついていってるかっていうと、土地の問題があるから、なかなかそうはいかない。メーカー批判した方がいいと思ってるんだけどね。エコハウスとかみんなやってるけど、大丈夫かなあ。メーカーのモデル、学生連れて見に行ったら、二つバーンと作ってある、エコハウスとバリアフリーの住宅。そうなっちゃうわけ、それでめちゃくちゃ高い、エレベーターついてて段差がなくてとか。なんでこれがエコハウスって感じだけど。家族の形がこうなって、2DKでやってきたのがあわなくなるってのは見えてるじゃないですか。やっぱりコレクティブというのはあって個室型の、ただグループホームっていってもいい案がないでしょ。グループホームなのかもっとどうなのか。今の鉄賃というのはどういうのが売れるのか。従来型の学生や単身者入れとけばいいのか、高齢者になったときにどういうパターンがあるのかとか。本当は家族の話したいんだけど、今器の話になってんだけど、それは今の介護保険とか、相当の問題だと思う。

 大野 多様化してんだけど、わけちゃうくせがあるのかもしれないね。組み合わせを考えないっていうか。

野辺 高齢化してる、今のnLDKでは通用しないんだっていうけど、確かにそうなんだけど、これはストックとして残そうとした場合に、つぎのところに移ったと、要するに同じ住宅だけど住まい手がどんどん変わっていくというイメージを想起できるかどうか。

 布野 三階建てとかやったときに考えたでしょ。上は下宿とか

 野辺 大野さんの好きな大家さんシステムっていう話もあるんだけど、基本的には住宅メーカーレベルというのはそんなこと想起してないわけですよ。そこは決定的な違いなんですよ。いくらストックストックってわめきながらもその仕掛けは全然できてない。

 布野 土地の供給と今言ったようなことがずれてるから、そんな変わらないよね。

 野辺 例のリバースモービルだってとんでもない話ですよね、今や。こんなに皆が家持たせ過ぎたって発想も大野さんの中にはあるだろうけど、

 布野 オレなんかもってないよ。この年で持たないってヤバイと思う。町家借りようかな。

 野辺 家族の話した時に、住宅全能論みたいな、日経なんかのコラムにこういうふうに住むと子供が切れないとか、ばかなこといってるやつがいるじゃん。そんな甘くないよっていうなかで、そっちはそっちで建築家がいかにも家族に対応していますみたいな顔みせてるんだけど、本当はそうじゃないんだ、家族の状況がどうこうよりもっと町に広がってく構想を持ってない限り、そこに単純に一個の特殊な家族の話をもっていっても無効だということにどうして気がつかないのかなって気がするよね。

 

 グループホーム

 布野 誰が? 建築家が気がつかないの? 『群居』が非力って話もあるけど。だけど一個一個の家は勝手にやればいいわけで、すべてがインテリアデザイナーだし、建築家なわけだから。もうちょっと形式を、例えばグループホームなりを提案したりするのが建築家だと僕は思うけど。

 野辺 グループホームは、今の厚生省の制度とか関係するんだけど、ああいう考え方というのはこれからもっと出てくる。例えば我々が三人住んだとする、そういう考え方はあると思う。要するに家族で住む必要ないじゃないかというのは住宅の中で完全にある。

 布野 家族じゃなくてもいいけど、今の高齢シングルとか、ハイシングルも含めて、宅配がきた時とか困っちゃう、nLDK買って一戸一戸住む必要はまったくない。違うタイプを

 野辺 そうするとコストの問題、居住を担保する時のリスクの問題とか出てくる。

 布野 それを誰か開発してやればヒットすると思うんだけど。

 野辺 今小さなビルダーがグループホーム用の商品化住宅というのを開発したりしてるわけだけど。

 布野 それは厚生省から補助金がでるって話でしょ。

 野辺 そうそう。だけど、そうじゃなくて居住形態でそういうところがあって・・・

 布野 だって市場にまかせないじゃない。

 大野 補助金を食ってるだけ。

 野辺 そこがどうしようもないところなんですよ、今は。

 布野 外国人居住の話も、いろんなやつが住む空間を作っておけば対応できると思ってるわけ。それこそ市場原理でいいんですよ。福祉住宅の問題は別に立てる。ただ今の土地、戸建て一戸、持ち家という意識に入り込んだのと、今の経済的な、貯蓄とか、そんなに簡単には解けない。

 

 地価、土地の問題・・・バブル社会

 大野 地価がもうしばらく下がっていくと変わると思うけど。

 布野 それが一つの希望ですね。

 野辺 僕はそこは割りと悲観的で、限りなく下がっていくと、まとぞろ戸建て主義に回帰していくというふうに思ってる。それを止める担保、例えば環境問題とかいろいろあります、それによってコストが上がるから止まるという考え方もあるけど、それよりはそうじゃなくてその時にどうするんだという最初の構想、首長と組んだタウンアーキテクトなのかどうか別として、その手のところを押さえる人たちが多分いないだろうなと。要するに市場原理で、はいいただきますまた注文ありがとうございます、わが設計事務所にありがとうございますって話でいってしまう。

 布野 あのね、はっきりいって経済の話はわからない。腹立つくらいだ。何で不良債権なんだ、じゃあインフレおこさないと駄目だなんて、・・・経済学者って信用できないんじゃないの。

 野辺 あんなナンセンスな話はないですね。

 布野 直感的にナンセンスだと思うけど、例えば今や経済企画庁長官の堺屋太一だって以前として博覧会主義でしょ、イベントやってそれで投資やってと、今のITだって民主党まで言ってる、あんな話じゃ絶対ないんじゃないかと思う。だけどはっきり言えない、こっちは別に経済成長しなくてもいいんじゃないか、皆がそこそこ食えればいいんじゃないか、そのための住宅とは何かというのは絶対的少数派でしょ、多分。国の経済政策としてそんなこと言っていいのといわれたら黙るしかないでしょ。

 大野 居住してる個人の意識が高まってくると、国家とかそういう制度はいらないかもしれない。

 布野 それはそれでいいんだけど、

 野辺 今みたいなインフラ制度というのが、要するにインフラ、IT革命に名前を借りた公共土木ですよね、結局やろうとしていることは。だから相変わらず大規模なコストをかけて非常に小規模な効用しかもたらさない。今の仕組みでいけば何もしなくたってできるんですよ。あと一〇年経ったらどうなるのかよくわからないけど。我々も皆いい年になってきちゃったから同じようにどうせ世界史的な役割は終わってるんだから

 

 群居の精神・・・・変わるものと変わらないもの やれることとやれないこと

 布野 そうですよ。『群居』やめるのもそういうことだと思います。変わるものと変わらないもの、やれることとやれないこと、二〇年くらいやってだれでも見えてくる。同じ言い方はやめた方がいい。前向きにやめるっていうのはそういうことですよ。それぞれの器で発想して今後やればいい。僕はやりますよ。

 野辺 僕の考えていたことっていうのは、かつて大野さんからコーチを受けていた頃の大野戦略というのが全部インプットされているわけですよ。

 布野 やっぱそれはおかしいぞとか思ってるわけでしょ。

 野辺 大野さんのここはだめだ、ここはいい、ってところはあるわけですよ。それを現実に実務というかマーケットというレベルの中で考えた時に大野勝彦がやりきれなかったところ、もしくはお前がやれっていってることなのかもしれないなって部分をやっていかざるを得ないじゃないかっていうのがあって

 布野 それは受け継いで、バトンタッチしていかないといけない。

 野辺 それで、一つは藤澤先生と組んでやってるSAREXという工務店、工務店といいながら結構設計業態なんですね、その人たちとのネットワークというか、組合という名前だけど、二一世紀に残す生産部隊というのは何だろう、要するに残るのは何だろうということで今考えてやってるんだけど。

 布野 やっぱりそれは性能表示と対応してんじゃないの?

 野辺 そんなものがあろうとなかろうと、法律というのは一つの時代の表現というか鏡だと思ってる部分もあるから、その手のニーズはあったんですよ。だけどそれを制度でやる必要全然ない部分てあるわけで、例えば市場原理、市場経済でいけば性能表示なんて基本的にはガイドラインは国が作ったとしても、実行するしないは保険との制度の話だから保険会社が新たなシステムを作って、我々もこれにのったほうが資産価値としてはこうだよとか保険料はゼロになるよとかいうような話なんですよ。

 布野 それはそうだけど、行政が仕掛けてくるというのは問題だ。

 野辺 それはわかるけど、僕は言うんだったら性能表示の問題の前に基準法という問題を『群居』は徹底的にやっとくべきだったなと。

 布野 法の問題全然やらなかったね。

 野辺 そこはやっとかないと、性能表示とかいく前の前提として基準法の問題というのを

 布野 やらなかったね。

 野辺 そうすると、石山の違法建築というのはどういう意味があるんだとかいうことをちゃんとやっとかなくちゃいけなかった。誰一人として基準法の改正もしくは基準法を成立させてる思想というか、国家的な思考法みたいなとこをちゃんとやっとかないといけなかった。

 布野 基準法についてはいろいろあって、今は性能規定になったから性能表示ですよっていう流れの話かもしれませんけども、何か違う。それこそ今の地域型住宅とか地域の住宅生産システムとか地域的町づくりとかいったときに、圧倒的におかしいわけですよ、全国一律の研究とか。もっと地域バージョン、標準憲法と条例でもいいんだけど、例えば北海道と沖縄とどうして同じだっていう、

 大野 金融公庫がようやっと地域仕様を作り始めた。

 布野 その動きと今の性能表示というのは僕は矛盾してると思うけどどうなの。メーカーは一応ユーザーに対して一〇年保証とかそういう保証制度を担保できた。だけど中小はユーザーに対して何もしてないじゃないかという話でしょう。

 野辺 それは大いなるウソですね。逆に言うと中小の、まあいろいろあるわけですけど、少なくともまともな工務店というのはらくらくクリアーなんですよ。こんなとこで苦しむ必要ない。こんなとこでわざと叫んで、工務店はできない、あぶないって言ってるやつらの方が逆に言うと敵の回し者というふうに思ってて、

 布野 でもその意図があるんじゃないの。

 野辺 小規模というのは自在性があるからそんなにあんたたちの都合のいいようにはいきませんよというのが一方ではあるんです。また直感的に彼らが考えてるのは、大手系というのは結構弱いんじゃないのっていう考え方もでてきてますね。

 布野 その言い方は与したいけど、ユーザーの意識が低いからそんなこといってられるわけであって、いまの戦略で全部やられたら差別化がどんどん進むって話でしょう。実態はそこまでしっかりしてないって話こないだ聞いたからわかってるけど、戦略的にはそうじゃないかと思う。やっぱりプレハブ買うとかね。

 野辺 その辺は今精力的にやってるところですけど、それが足切りになるのかっていえば、もともと減ってくからもう足切りは起きてるんですよね。そこにたまたまタイミングよく法律がでてきたからこれで足切りされるんだというような気持ちになってるかもしれないけど、現実にはもう足切り始まっているわけですよ。分け合う量が減ってきてるわけだから当然そこでは新しい業態にシフトせざるを得ないわけです。そうすると今まで家をつくるというところがある種立脚点だったのが、家を作るというより家を維持する、もしくはストックとして管理していくというところが実は立脚点となる可能性があるだろう、その時に家だけつくれるっていうだけではだめで、作ってなおかつ守れる、維持できるというような立脚点に工務店もスタンス広げていかないと存在しない、そんなの当たり前じゃないかというところから考えていかないと、そんな法律は逆手にとって使いまくってやればいいんだというくらいの気持ちがないと、やっぱタフじゃないなって気がするんだよね。一方的に弱者意識というのが一番だめだとおもってる。

 布野 自民党的にはやっぱり弱者が組合作って、補助金もらって献金するという構造は残る。

 野辺 依然としてそういう構図はあるんだよね。

 大野 主事さんの配属の問題もあるし。不動産というのは売り手と買い手と両方からもらえるんだよね。設計料というのはクライアントからだけもらう、まずいんじゃないかと最近思ってる。

 布野 そういう話聞くと野辺さん、群居精神でずっとやってる気がするけどどうするの。








 

2025年8月28日木曜日

布野修司インタビュー メディアとコミュニティ,聞き手;市川紘司,『建築討論』,2021年1月

布野修司インタビュー メディアとコミュニティ,聞き手;市川紘司,『建築討論』,20211メディアとコミュニティ - 建築討論 - Medium 

メディアとコミュニティ 

インタビュー:布野修司(滋賀県立大学・日本大学)|063202201 特集:建築メディアは楽し

 

左手と右手──アカデミズムとジャーナリズムの分断?

 

──布野修司さんは、大学に所属する研究者として膨大な数の論文を書かれる一方で、評論活動も活発に行われてきました。さらにときには、ご自身でメディアそのものを立ち上げる。アカデミズムにとどまならないこうした活動スタイルはどのように生まれたのでしょうか。

 

布野修司:すべて成り行きみたいなものです。「アカデミズム」と言うけど、いまの建築学会の状況を前提にしていると分からないかもね。「黄表紙」(建築学会の査読論文の通称)といっても、誤解を恐れずに言うけど、いまのように細々したものじゃなかった。そ

もそも僕が東京大学に入った年(1968年)は「東大闘争」ですぐに全学ストライキで、ほとんど授業がなかった。いろんな問題があったけれど、学問そのもの、大学そのもの、学会そのものが問われた、そんな時代です。授業がないから初めて出会ったクラスメートと自主ゼミを始めたけど、大学というのはそういうもので、自分で勉強するところだといまでも思ってる。

 

東大では医学部のインターン制度の問題があったし、工学部では産学癒着の問題が指摘されていた。現在は、産学融合が当たり前のように言われていて、学術会議に内閣府が介入するそんな時代になっている、問題は変わってないよね。それ以前に、その場所にいない学生を処分する、大学組織の体質そのものの問題があった。これも変わってない。そういう諸「問題」を追求するということを、ほぼ学生全員が課題として共有したんだと思う。大学の体制批判にはじまり、ちょっとスコープを広げれば「戦後民主主義」の裏で何が起こっているのかということが、そもそも最初から問題意識として共有されていた。だから基礎的な勉強はしながら、それをもとに諸問題を問い詰めた。実際、都市工学科の大学院生が、公害問題をめぐって追求して、答えられない先生を辞めさせたりした。大学院生が教授に議論で勝っちゃうわけ。公害の問題や日照権の問題など、戦後日本の高度経済成長にさまざまな「負の部分」がある、それを追求すること、これが、まず僕らの前提にある。


 ──「問題を追求する」というのはジャーナリズムの基本的な構えですね。

 

布野:そう。その構えが一番先にある。「アカデミズム」の基本も同じでしょう。だから、「アカデミズム」と「ジャーナリズム」の区分けは、あまり意味がないと思う。僕からすれば、「問題を追求する」という根幹は同じで、日々の出来事の中に問題を追及するのがジャーナリズムで、それをより大きな歴史的なパースペクティブに位置付けるのがアカデミズム。アカデミズムは科学に依拠するといってもいいけど、アカデミズムといっても、T.クーンが明らかにしたように、それを支えてきた科学「界」(仲間内)のパラダイムがある。現実から逃避し「象牙の塔」に立て籠っている、というアカデミズム批判はいまでもあるでしょう。特に、社会科学、人文科学の分野では区別はできないと思う。まして、建築学や都市計画学の実践的分野で「アカデミズム」と「ジャーナリズム」の分断はほとんど意味がない。

 

──例えば、戦後建築ジャーナリズムで活躍した編集者の宮内嘉久さんは、建築における「アカデミズム」と「ジャーナリズム」の違いを強調していました。彼自身は在野の評論家、編集者であり、アカデミズムを建築の主流だとすれば、そのオルタナティヴを作ろうと著述活動やメディアの立ち上げをした。『建築ジャーナリズム無頼』や『少数派建築論』などの書名などにそのスタンスはよく現れています。布野さんの考えとは対照的と言えそうです。

  

布野:「象牙の塔」批判が根っこにはずっとあるから、スタンスとしては同じと思うけど、逆に、宮内嘉久さんの建築ジャーナリズムについての考え方に違和感があった。最近、福井駿さんが『編集者宮内嘉久の思想と実践について』という修士論文(京都工業繊維大学、20213月)を書いたんだけど、そのなかに、宮内嘉久さんが構想して、結局は僕が潰してしまったということになっている『地平線』という雑誌についての僕の証言が収録されています。ジャーナリズムはある意味ではその日暮らしのジャーニーで、そのための身過ぎ世過ぎの問題がある。編集者に徹した平良敬一さんと嘉久さんとはスタンスが少し違ったと思います。嘉久さんのアカデミズム批判というのは、ひとり自分は少数派であるという意識を特権化した建築業界全体についての批判で、編集者というより批評家だったと思う。後でも詳しく言うけど、僕が『群居』を始めたのは、この『地平線』というメディアの構想に対抗する意識もあったんです。

 

──ともあれ、研究者と評論家・編集者の双方で膨大な成果を出してきた布野さんのキャリアは、かなり異質に見えます。

 

布野:どこから見て異質なの?

 

──少なくとも、同じような活動をされている方は見当たらない、という意味で。

 

布野: その都度考えて動いてきた成り行きなんだけどね。東大では、定年前に筑波大に異動した吉武先生の指令(?)で博士課程に進学して、2年目の1976年には、鈴木成文先生に助手にしてもらった。かたちとしては公募で応募したんだけどね。でも、それまでいわゆる「論文」なんて一本も書いてなかった。助手になったんだから、建築学会でなにか発表しなきゃまずいぞ、くらいの意識。それで、助手になった当時の学部4年生には土居義岳、村松伸、宇野求、横山俊祐などがいたので、彼らと一緒に、建売住宅のファサード分析や公団住宅の増改築調査をやった。「51C型」を設計した建築計画研究室の助手になったから、北海道から沖縄まで同じ2DKを建てた「標準設計」の問題を考えようと思った。当時、建売住宅がバンバン建ったし、公共住宅では違反増築が大きな問題になっていたからね。

 

それでも、東大助手時代は学会大会発表用の梗概を書いたくらいで、いわゆる査読論文は書いていない。1978年には東洋大学に移るんだけど、助教授になるときに『週刊ポスト』に書いた記事を教授リストに入れたら、教授会で問題になったらしい。博士論文(「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究 ハウジング・システムに関する方法論的考察」1987年)をまとめたのは助教授になった後で、鈴木先生から定年になるので出しなさいと声をかけていただいたことが大きい。「黄表紙」は、1991年に京都大学に移るまでは1本も書かなかったね。論文が一気に多くなるのは、京大に異動してから。

 

──それはどのような理由で?

 

布野:単純な話で、京大では研究業績が求められたから。博士論文は書いていたけど、京大では研究業績を積み上げることに対するプレッシャーが相当あった。だから、研究室の弟子たちにも「論文は書いておきなさい」と指導し続けた。それと並行して、建築メィアで文章を書かせたりもしたけど。結果的に、布野研究室出身で教授になった人間はいっぱい出た。それは全部指導教員のおかげなんだよ(笑)。

 

そのときに言っていたのが、「論文は左手で書け、命を懸けて書く必要はない」。利き手(右手)では設計をしたり、まちづくりにかかわったり、より広い読者向けの文章を書くために残しておけ、だから論文は左手で書けと。本当の論文というのは一生に一本かけるかどうかでしょう。しかしそうは言っても、学生はなかなか査読論文を書き切れないわけ。修士論文をまとめる段階で終わっちゃう。それでは勿体ないから、僕が内容をさらに発展させて、連名で査読論文にするようにした。だから論文数が多いわけ。建築構造の和田章先生が建築学会会長になった時、僕は一緒に副会長になったんだけど、理事を決めるときに、和田さんが査読論文の数をバーっと出した。建築計画分野では、僕が論文数が一番多かった。いまでも博士課程の学生を指導しているから書くけどね。今年(2021年)亡くなった内田祥哉先生に言われて、日本学士院の紀要に論文(ShujiFuno: Ancient Chinese Capital ModelsMeasurement System in UrbanPlanning, Proceedings of the Japan Academy Series B Physical andBiological Sciences November 2017 Vol.93 №9, 721745.)書いたんだけど、これは和田先生より早かったんだよ。

 

メディエイター──建築と社会をつなぐ

 

──「アカデミズム」と「ジャーナリズム」を分裂させず、左手と右手でアウトプットを使い分ける、という布野さんのスタンスがよく分かりました。しかし、それでは、この左右両手を統合する布野さんのアイデンティティは一体どのあたりにあるのでしょうか。

 

布野:エディターとかメディエイター、という感じかな。建築と社会をつなぐ、その中間にいようと、考えたことはあります。前川國男が「今は、建てない建築家こそが最も優れた建築家である」と言ってたんですよ、当時。建築を建てると、日照権の問題が起こったりする。要するに建築することは自然に対する暴力なわけです。長谷川堯さんの『神殿か獄舎か』(1972年)はそんなタイミングで出た著作で、僕らの世代は大いに刺激されました。あと、実際のところ、僕はそんなに設計の手が動くタイプではなかった。だから、先輩の建築家たちには「そばにいて口は出すぞ」と言ったことがある(笑)。でも、村野・森事務所に行った「雛芥子」の千葉政継、ツバメアーキテクツの千葉元生くんのお父さんと一緒に5軒ぐらい住宅を設計したし、宮内康さんの山谷労働者福祉会館のセルフビルドには東洋大学の布野研究室全体が参加したよ。京大の布野研究室では鳥取の智頭町の町営住宅とかお寺の庫裏、それにスラバヤ・エコハウスを設計した。

 

設計にはものすごいエネルギーがかかる。それに比べれば論文のほうがずっと簡単、というと怒られるかもしれないけど、実際そうでしょう。だから、それは「左手」でやり、メディエイターとしての仕事を「右手」でやろうと決めたようなところがある。

 

──それで建築メディアのなかでの活動を始められたと。

 

布野:『建築文化』の「近代の呪縛に放て」シリーズ(19751976年)に呼ばれたのが、具体的には最初の建築メディアでの仕事だと思う。正確には、その以前に三宅理一や杉本俊多らと「雛芥子」というグループで批評活動をしていた(1971年〜)。安田講堂前での「黒テント」の芝居を手伝った縁で麿赤兒と知り合って、大駱駝艦の旗揚げ公演前に東大の製図室で芝居をしてもらったり、ドイツ表現派の映画会を、ドイツインスティチュートからフィルムを借りてきて、原広司さん呼んで上映会をしたり。そういう活動をしていたら、真壁智治さん、大竹誠さんの遺留品研究所の面々、コンペイトウの松山巖さん、井出さんなどから、雑誌『TAU』(編集長石川喬司、坂手健剛、商店建築社)への執筆の声がかかり、『同時代演劇』や『芸術俱楽部』に書く機会があり、そのうちに建築専門誌からも呼ばれるようになった、というのが経緯。


『建築文化』19754月号(「近代の呪縛に放て」シリーズ第3回掲載号)

そういえば東洋大学に在籍していたとき、『建築文化』の編集長をやってくれないかという依頼があったな。「冗談だろ」って思ったけど(笑)。相手はいたって真面目で本気だったらしい。引き受けてたらどうなっていただろうね。

 

──布野編集体制による『建築文化』の誌面を想像するのは興味深いです(笑)。ともあれ、1980年代の布野さんは、明確に「ジャーナリズムの人」だったんですね。アカデミーのなかでの研究者としてバリバリ論文を書くのは、その後。明確に順番がある。

 

布野:そう。当時よく議論していたのは、「建築社会学」か「社会建築学」か、ということ。建築を社会学的に考えることもできる一方で、「社会を建築する」という、社会建築学という立場もあるはずだと。建築は空間を扱うわけだから、その空間をどう配分するのかということを考えれば、それはもう社会をどうつくるかという、そのものだよね。大きな言い方をすれば。建築計画学をやっていると、この問題はとくにリアリティがある。標準的な2DKの住戸をただ積んでいけばいいのか、そうではないでしょう。

 

こういう問いは、本来は建築の問題でもあり、社会そのものの問題でもある。建築という「モノ」だけに視座を置いていると、それが見えなくなってくる。とはいえ、「モノ」を作ることができるのは建築という領域の最大の武器だからね。そのときに、作られる空間の社会的な意味を明らかにしたい、それによって建築することを応援したい、という考えがある。

 

『群居』へ

 

──布野さんの特異性は、単に建築メディアに評論を寄稿することに留まらず、メディアそのものを立ち上げてきたことです。実際、じつに多くの建築メディアの立ち上げに関わっています。宮内康氏と組織された同時代建築研究会の『同時代建築通信』(1983年〜)、大野勝彦・石山修武・渡辺豊和三氏と組織されたハウジング計画ユニオン(HPU)の『群居』(1982年〜)、あるいは磯崎新氏や原広司氏らとの連続シンポジウムなどを収録した『建築思潮』(1992年〜)。他方で、建築学会では『建築雑誌』の編集長を務められ(20022003年)、ウェブ媒体として本誌『建築討論』も2014年に創刊させている。

 

『建築思潮03 アジア夢幻』

なかでも、編集長だった『群居』は、2000年までに計50号も刊行されており、突出した仕事だと思います。このあたりのことを聞きたいのですが。

 

布野:『建築雑誌』は全部で36年関わっている。学会内だけど、分野を超えた議論の場は貴重だった。『群居』はたまたま僕がいちばん若かったので編集長を任されたけど、仕掛け人は建築家の大野勝彦さん。そこに石山、渡辺、布野が集まった。

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『群居』創刊号

『群居』では、片方には池辺陽さんや難波和彦さんのようにナンバリングされた住宅をつくる考えかたがあり、もう一方にはオープン部品を住宅に取り入れてシステム化する考えかたがあった。実は、建売住宅を最初に作品として発表したのは、渡辺豊和さんなんだよね。1978年頃の「テラス・ロマネスク桃山台」とか、「標準住宅001」とかね。渡辺さんも「住居のプロトタイプ」を考えていた。戦後まもなく住宅問題があって、最小限住居のいろいろな試みがあり、その後プレハブメーカーが台頭する。1960年代末〜1970年代になると、建築家に住宅設計を依頼できる層が形成されて、住宅メーカーのほうでも、現場小屋的なプレハブ住宅は売れないから商品化住宅へと切り替わる。そうした流れのなかで、本気でもういっぺん建築家が住宅の問題に取り組むべきだ、というのが『群居』の初心です。そういう思想を引っ張ったのは大野さんです。

 

──50号も続いた『群居』のサスティナビリティに注目しています。どのように制作、運営されていたのですか。

 

『群居』1982年〜2000年[写真提供=秋吉浩気]

布野:基本は会費制です。11,500円が販売価格だったから、年間4冊の刊行予定で、計6,000円。それを会費として前払いで銀行口座に振り込んでもらっていた。会員は最大で2,000人までいった。平良敬一さんが「それはすごい」と評価してくれたな。この会費を制作費にできたから、そこから執筆者への原稿料も出せていた。微々たるものではありましたけどね。

 

最初は16ドットのプリンターで出力して、みんなで集まって切り貼りして刊行していましたよ。ちょうどワープロが出だした頃で、これを使えば新しいメディアができそうだと、嬉しかった。その前はガリ版だからね。当時は椎名誠とイラストレーター沢野ひとしの『本の雑誌』というのがあって、そこは学生を集めて、刷り上がったら書店に持参するわけ。それで我々も、大手取次を通さないで直に書店に持って行ったし、学生にも制作作業に関わってもらった。さまざまな建築活動、そして研究と教育は一緒です。

 

──2,000人という会員数は、建築の同人誌的なメディアではそう簡単に集められるボリュームではないように思いますが、どのような方々が読者・会員だったのでしょうか。

 

布野:あまり詳しく分析してないけど、メーカーや工務店の関係者は多かったと思う。編集のときには、4号単位で特集テーマを分けることを意識していた。つまり、住宅を購入したい一般の人向けの特集、メーカーや工務店など住宅生産組織向けの特集、建築家やデザインに興味のある建築学生向けの特集、行政や都市計画に携わる人向けの特集。だから少なくとも、建築専門誌とはちょっと違う読者がついていたとは思う。

 

あとは年間購読する会員のほかに、当然ながら地道に販売努力はしてましたよ(笑)。たとえば大野勝彦さんが講演をするときに、そこで手渡しで売る。対面で思いを伝える、というのはメディアの原則だと思う。広告入れて売れたら楽だけど、ちょっと違うんだな。

 

──自前のメディアを持つと、現実的な作業が求められますよね。コンテンツを考えるだけではなく、会費を管理したり、注文を受けたら梱包して発送したり、実際に汗をかかないといけない。要するに事務作業。『群居』ではそのあたりはどのようにされていたのですか。

 

布野:実を言うと、事務作業は企業コンサルをしていた野部公一さんのオプコード研究所がおもに請け負っていた。大野勝彦さんのネットワークだったと思う。ただ、発送作業なんかはその事務所に我々も集まって汗かいてましたよ。石山だって来て作業した(笑)。創刊号準備号が完成したときは「出来たー!」と言って、ものすごく喜んでいましたね。会員の管理実務もオプコードがしていました。

 

──オプコード研究所の野部さんのお名前は、『群居』の編集後記などに見られますね。単なる事務作業の請負ということを超えて、制作同人の一人、という関係性であるように見えます。

 

布野:そうです。一種の同志かな。オプコードは、たとえば瓦屋のアドバイザーなんかをしていて、その頃は「ゼミ屋」と我々は言っていた。人を集めていろいろ情報交換したり、研修したり。あるいは住宅メーカーに販売促進やユーザー獲得のための仕事をしてい

た。

 

「スポンサーありき」という問題

 

──ところで、『群居』が建築専門家内に留まらない読者・会員を想定したという先程のお話が興味深いです。『群居』の創刊は1983年(創刊準備号は198212月)。直前の1970年代は野武士に代表される実験的な住宅作品がメディアを賑わせていて、それに対して、日建設計の林昌二氏が建築ジャーナリズムの偏向であると、厳しく批判したりもしていました(「歪められた建築の時代」『新建築』197911月号)。要するに、現実の社会や都市の問題とデタッチした建築作品をもてはやすだけでいいのか、と。『群居』の読者想定は、オルタナティヴな建築メディアとして、そのあたりの問題意識が背景にあるように見えるのですが、いかがですか。

 

布野:正直言って、そのあたりを意識した記憶はない。さっきも言ったように、『群居』の主たるテーマは戦後まもなくから続く住宅問題だったから。住宅問題を扱う以上、建築業界に閉じた議論にはならないから、なんらかの時代的な繋がりはあるのかもしれない。

 

むしろ、『群居』を始める前のことで覚えているのは、さっき話したけど、編集者の宮内嘉久さんのこと。彼は1960年代末に建築ジャーナリズム研究所(19671969年)をつくったもののすぐに解体することになり、その後は個人誌や同人誌を始めますよね。『廃墟から』(19701979年)、『風声』(19761987年)、『燎』(19871995年)。じつはその間、もういちど組織的に勝負しようということで、『地平線』というメディアの創刊を構想していた(1980年)。

 

でも、嘉久さんはもういっぺん勝負しようと言うわけなんだけど、結局スポンサーありきなんですね。『風声』は岡澤で、『燎』は伊奈製陶(INAX)。それだとメディアとしてはぜんぜん自立できていないわけ。

 

──「ジャーナリズム無頼」と謳いながも、実態としてはスポンサーありきだった。

 


 

布野:うん。彼はエディターというより評論家だったと思うから、そういうスタンスはわからないでもない。スポンサーありきという問題は、嘉久さんに限らず、建築メディアの根本的な問題なんだよね。平良さんも『SD』や『都市住宅』を仕掛けたわけだけど、それも鹿島建設の出版事業部のなかでのことだからね。

 

ただ、僕はそのことに問題を感じていたから、ちゃんと実売によって出版を成立させるべきだと嘉久さんに主張したわけです。さらに言うと、嘉久さんは個人的な人間関係によって、掲載する建築家の選別なんかもしていた。そういう選別は、どこかの党の機関紙ならあり得るかもしれないけど、僕としてはジャーナリズムではありえない。それで対立した。結局『地平線』はうまくいかず、そういう経緯もあって、僕が潰したことになってる(笑)。この時のことは「自立メディア幻想の彼方へ」(『建築文化』197810月号)にも書いています。

 

そんなときに会費制の『群居』の話が持ち上がったから、「これはいい」と思ったのね。

 

──宮内さんや平良さんは、いわば戦後建築ジャーナリズムを代表する伝説的な編集者であるわけですが、会費制の『群居』にはそうした世代への批判的意識が投影されていたのは、とても興味深いです。

 

運動と議論の場を求めて

 

──『群居』のもうひとつの特徴は、情報を取りまとめるスタティックなメディアというよりも、HPUでの住居やまちづくりの実務的実践と密接に絡み合っている点。現実を変えようとする「運動」としての側面があった点です。

 

布野:たしかに『群居』はHPUという運動体の機関誌的な側面はあった。HPUは地域の工務店と連帯していこうという意識もあったし、大野勝彦さんが仕掛けていた国交省の住宅計画(HOPE計画)も並走していた。ただ、大野さんが早くに亡くなって、そういう国とのつなぎ役がいなくなってしまった。そういう人材がいま必要なんだろうと思う。

 

建築メディアの現状に引きつけて言うと、僕はいまでも運動体的な建築メディアの動きがあったほうがよいと思うし、見てみたいと思う。でも、なかなか出てこない。みんな忙しすぎるんだよね。あとは『群居』にとってのオプコードのような、一緒に並走してくれるパートナーが必要。

 

──最初はガリ版、『群居』ではワープロと、布野さんのこれまでのメディア活動でもツールは変遷してきたわけですが、情報媒体の性質については、どうお考えですか。近年、メディウムはとても多様化しています。インターネットではテクストとは別に映像や音声などが自由に使われ、それによって届く層も変わってきている。

 

布野:市川さんも五十嵐太郎さんと「シラス」で建築系の動画をやっていますよね。そういう流れに抵抗するわけではないけど、個人的には文章化するプロセスが大事、という感じがある。放送だと、どうしても時間がかかるじゃない。最近は、映画評論家も見るものが多すぎるから何倍速かでみるらしい。しかし、映画批評は文章として必要でしょう。建築批評も文章として定着しておかないと、参照するのに困るんじゃない?酒飲みながらだらだらしゃべるのは大好きで批評のポイントは大体そんなときに浮かぶんだけど、それを録画で全部見せられてもね?編集が必要だよね。しかし、映像だと引用ができない。それとTwitter140字では掘り下げられない。このインタビューにしても、テープ起こして、双方で手を入れていく作業があって一つの記事になるわけで、このプロセスが大事だと思う。この時間感覚とか一覧性は文章独特のものなんじゃないかと思う。

 

紙媒体で定期的な間隔で議論を積み重ねる、というのが、僕の世代ではやはり基本的な考えかたかな。昨年、平良敬一さんが亡くなりましたね(2020429日)。著作集の『平良敬一建築論集──機能主義を超えるもの』(2017年)の出版記念会でお会いしたときに、最後の紙媒体の建築雑誌をやれ!と発破をかけられたんですよ。紙媒体はお金もかかるから、まだ考え中なんだけど。ただ、年寄りだけでやってもダメだから、若い人間と一緒にやれるような枠組みがあるべきで、それをいま模索中です。

 

──布野さん自身いまなおプレイヤーとして動こうとしているわけですね。振り返ってみると、アカデミズムとジャーナリズムを自由に横断する布野さんの活動には、ある種の「コミュニティ」をつくろうとするモチベーションが通底しているように見えます。同人的な組織をつくってメディアを立ち上げたり、あるいはアカデミックな研究活動のほうでも学生を巻き込みながら論文成果を出したり、横断的な専門家と「アジア都市建築研究会」などを組織したり。

 

布野:そうかもね。やっぱり議論がないといけない、そうでないと建築家たちの仕事のチェックや刺激にならない。だからメディアは必要だし、建築批評は必要。そのあたりは素朴にそう思います。若い学生なんかに聞くと、情報はいっぱいある、という。だけど批評はない。ああだこうだと議論をしないと、何をつくっていくかは考えられないわけで、そういう場所が一定程度維持されるべきだと思う。ただ、本音を言えば、要するに居心地のいい議論の場がほしいんですよ(笑)。そういうところにいて、議論をしたい、という思いが先。それは研究のほうでも変わらない。

 


布野修司編、アジア都市建築研究会執筆『アジア都市建築史』昭和堂、2003

──人を集めて議論することが純粋に楽しい、というのがまず先立つ。

 

布野:そう。自分が一方的に発信するだけだったら、Twitterやブログでできるしね。それを仲間と共有するために場所が必要。それで、その成果を発信して、一過性で消すことなく残していく。そこでメディエイターの役割が求められる。『建築討論』の3代目編集長になった市川さんにも大いに期待しています。

 

20211120日、A-Forumにて

文=和田隆介+市川紘司+齊藤光/写真(ポートレート)=和田隆介

 

布野修司| Shuji Funo

建築計画、建築批評。滋賀県立大学名誉教授、日本大学客員教授/

1949年生まれ。著作に『戦後建築論ノート』『カンポンの世界:ジ

ャワの庶民住居史』『布野修司建築論集』(全3巻)『大元都市 中

国都城の理念と空間構造』など。

 

 

 

 


 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...