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2024年12月19日木曜日

traverse04 前書、traverse, 2003

 

traverse 4 新建築学研究第4号

  

 9.112001)以降何かが変わってしまった。圧倒的な軍事力を背景にアメリカ合衆国は世界を動かし始めたようにみえる。イラク戦争は、たった3週間という短期間で、多くの予想を裏切って、終結したのであった。果たしてパックス・アメリカーナPart2がくるのであろうか。もしかすると、テロという火種を孕むことによって世界史は半世紀後退したとみるべきではないのか。

 しかしそれにしても、メソポタミア文明の遺産がバクダード博物館や各地の遺跡から大量に略奪されたという事実には唖然とするばかりだ。イラク戦争の連日の報道は、ウル、ウルク、ラガシュ、バビロン、そしてバクダード、サーマッラーなどの古代都市の位置関係を叩き込むように教えてくれた。チグリスとユーフラテスに囲われた人類最古の都市文明を育んだ肥沃な土地が戦場であった。この人類史に対する横暴冒涜は絶望的である。

 そしてSARS(新型肺炎)の発症である。医療技術の進歩にも関わらず、次々と新たなウィルスが出現するのは、現代文明のどこか致命的欠陥をついているのではあるまいか。また、SARSの蔓延はグローバリゼーションの複雑な関係を明るみに出し、世界経済をも翻弄しつつある。

 日本では2003年問題が進行しつつある。未曾有の不況であるにも関わらず、この空間の供給過剰は一体何故なのか。東京だけではない。京都の都心も時ならぬマンション建設ラッシュである。建築業界が存亡の危機を迎えているにもかかわらずである。

 この奇妙な現実を分析したい。そして、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。traverseの願いである。                 

 

             

(布野修司 / 編集委員会)

2024年10月12日土曜日

京都からの発信 建築のフラクタル 渡辺豊和先生の京都市文化功労賞受賞祝賀会、日時 2003年3月1日 18:00会場 18:30開宴 場所 京都市国際交流会館

 京都からの発信 建築のフラクタル

渡辺豊和先生の京都市文化功労賞受賞祝賀会

 

ご案内

 この度、私たちの敬愛する渡辺豊和先生が京都市文化功労賞(2002年度)を受賞されました。その快挙をお祝いすべく一夜の宴を企画いたしました。皆様、お誘い合わせの上、是非、ご参集下さい。

 ご承知のように、渡辺豊和先生は、この数年、満を持して作品の構想を練っていらっしゃいました。そして、昨年、新しい方法が閃いたのだそうです。それと期を一にする受賞は実に絶妙のタイミングと言えるでしょう。

 新たな構想については、ホームページをご覧下さい。URL:http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/

 鍵は宇治の平等院であります。その新たな方法の秘密の一端を少しばかりご披露いただき、お祝いの酒の肴に致したいと考えます。

題して、「京都からの発信、建築のフラクタル」

お酒を片手に、30分程度、そのさわりをご講演頂く予定にしております。

久し振りに豊和節を堪能しましょう。

未曾有の不況の真っ只中でありますが、お目出度い受賞は私たちを勇気づけます。お目出度い受賞から元気を分けてもらおうではありませんか。

渡辺豊和先生は京都市文化功労賞を受賞したのだから、これを機会に京都でも仕事をしたいとおっしゃっています。京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動もその一端でありますが、さらにステップ・アップする謀議もしたいのだそうです。

是非、お集まりいただけますよう、重ねてお願いいたします。

 

 

日時 20033月1日 18:00会場 18:30開宴

場所 京都市国際交流会館 

   〒606-8536 京都市左京区粟田口鳥居町2-1

    tel 075-752-3010

会費 6,000円(ご祝儀歓迎)

 

発起人

安藤忠雄 新井清一 池上俊郎 石山修武 磯野英生 乾 亨 井上えり子 歌 一洋

内田康博 梅林克 遠藤秀平 大石義一 大野勝彦 大森正夫 金城一守 貴志雅樹 

岸和郎 北村陸夫 木下龍一 木村博昭 京極廸宏 久保清一 久保田晃 小林大祐 

小山雄二 佐々木葉二 鈴木隆之 平良敬一 高崎正治 高島直之 高田光雄 竹山  聖 中谷礼仁 中林浩 新居照和・ヴァサンティ 西澤英和 西巻 優 新田正樹 野辺公一 

葉山 勉 久徳敏治 人長信昭  平尾和洋 広原盛明 船越輝由 布野修司 古阪秀三 古山正雄 本田昭一 本田友常 松岡拓公雄  松村秀一 松本正 三澤文子 室崎生子 毛綱千恵子 森田茂夫 山根 周 山本理顕 横内敏人 吉村篤一 リム・ボン 六角鬼丈 若林広幸 

渡辺菊真 

 

梅原 猛 芳賀 徹

 

 

2024年10月10日木曜日

ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915

 ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915

書評 内井昭蔵 再び健康な建築

ゆるやかな統一

建築はひたすら健康であれ

調整者としての建築家 

               布野修司

 ポストモダンの建築が華やかなりしバブルの時代、建築界に「健康建築論争」と呼ばれる論争があった。著者はその中心にあって矢面に立たされた。近代建築の単調さ、画一性に対して仰々しく異を唱えた若いポストモダニストたちには、建築はひたすら自然で健康であれ、という素朴な主張は反動的で敵対的なものと思われたのである。

 時は過ぎ、帰趨は明らかになった。「再び健康な建築」と題された本書には「健康な建築」を求め続けた建築家の一貫する真摯な声を聞くことが出来る。

しかし、「健康」とは何か。論は単純ではない。「「健康」であることは「病気」であることと同じである」と書かれている。また、「自然」とは何か。建築するということはそもそも自然に反することではないか。「人工」は病なのか。テーマは多岐に亘るが、装飾、生態、環境といったごく当たり前の普通にわれわれが用いている概念が繰り返し繰り返し問われている。 

建築論の展開とは別に、著者の提起したマスター・アーキテクト制にも当然触れられている。建築家と言えば唯我独尊、頑固な独裁者というイメージが流布する中で、「ゆるやかな統一」を前提とする調整者(コーディネーター)としての建築家像は、ワークショップ方式のまちづくりが進展するなかで根づきつつある。京都コミュニティ・デザイン・リーグの運動もその流れのひとつである。

内井先生とは京都大学で三年ご一緒した。また、京都市の公共建築デザイン指針策定のための委員会で一緒であった。氏と京都との縁は深い。身近に接して第一に思い起こすのは、その思考の柔軟さである。景観についても予め色や形態を決めて規制するのは反対であった。さらに活躍が期待される大建築家であったが、昨年急逝された。本書は遺稿集でもある。その精神を学ぶ手掛かりがまとめられたことを喜びたいと思う。2003.0908



2024年7月21日日曜日

建築現象の全的把握を目指して: 吉武計画学の過去・現在・未来?, 建築雑誌、2003

 建築現象の全的把握を目指して:

吉武計画学の過去・現在・未来?

 

布野修司(京都大学大学院)

 

吉武計画学とはいったい何か、その成果は如何に継承され、また、今後どう展開しようとしているのか。ありきたりの追悼文ではなく、その総括を、というのが編集部の依頼である。筆者は、東京大学吉武研究室最後の大学院生であった。ともにその学の成立を担った青木正夫・鈴木成文両先生以下綺羅星のごとく並ぶ諸先輩ではなく指名をうけたのは世代的に距離があるからである。また、ともに建築計画学の成立に大きな役割を果たした西山(夘三)スクールの拠点であった京都大学に奉職していることもある。とてもその任にあらずとは思うけれど、吉武計画学の継承発展は日々のテーマである。その総括をめぐっては筆者も編集に携わった『建築計画学の軌跡』(東京大学建築計画研究室編、1988年)があり、それ以上の新たな資料を得たわけではないが、以下は、いずれ書かれるべき吉武泰水論のためのメモである。

吉武計画学がスローガンとしたのは「使われ方の研究」である。ベースには西山夘三の「住まい方の研究」がある。西山の住宅調査の手法を不特定多数の利用する公共的空間に拡大しようとしたのが吉武計画学である。使用者(労働者)の立場に立って、という視点は戦後民主主義の流れに沿ったものであった。

第2に、吉武計画学を特徴づけるとされるのは「施設縦割り研究」である。また、「標準設計」である。吉武計画学の成立を中心で支えた研究会LV(エル・ブイ)のごく初期に、住宅、学校、病院、図書館といった公共施設毎に情報を集め、それぞれに集中する専門家を育てる方針が出されている。「標準設計」は、「型計画」の帰着でもあるが、戦後復興のために要請される公共建築建設の需要に応えるためにとられた研究戦略であった。また、各施設について多くの専門家が育つことによって一大スクールが形成されることとなった。

第3に、吉武計画学には「平面計画論」というベースがある。つけ加えるとするともうひとつ「生活と空間の対応」に着目し平面を重視した。素朴機能主義といってもいいが、その平面計画論には、人体にたとえて、骨格として建築構造、循環系としての環境工学に対して、その他の隙間を支える空間の論理を組立てたいという、すなわち建築計画という分野を学として成立させたいという意図があった。吉武先生の学位論文は知られるように規模計画論である。数理に明るいという資質もあるが、まずは論理化しやすい規模算定が選択されたのであった。しかし、その最初の調査が銭湯の利用客に関する調査であったことは記憶されていい。

以上のような吉武計画学の成果はやがて「建築設計資料集成」という形でまとめられる。体系化以前の段階では、フール・プルーフ(チェックリスト)にとどまるのもやむを得ない、というのがその立場であった。

吉武計画学の展開に対して批判が出される。ひとつは「作家主義」か「調査主義」か、という問いに要約されるが、創造の論理に展開しうるのかという丹下研究室による批判である。また、あくまでも「設計」に結びつく研究であることを主張する吉武研究室に対して、性急に設計に結びつける以前に、縦割り研究には地域計画が抜けているという西山研究室の批判である。そして、研究室内部からの空間論の提出である。さらに、吉武計画学には建築を組み立てる建築構法さらには建築生産に関わる論理展開が欠けている。いずれも調査、研究、設計、計画の全体性に関わる吉武計画学の限界の指摘である。筆者が研究室に在籍した1970年代初頭に既に、上記のような限界は明らかであった。オープンスクールの出現や様々な複合施設の登場に対して縦割り研究や制度を前提にしての使われ方研究の限界は充分意識されていた。

まず確認したいのは、戦後の出発点で行われた調査が、銭湯調査を含めて今日でいう都市調査を含んでいることである。都市のあり方を明らかにする中で公共施設のあり方が探られようとしたのであって、逆ではない。縦割り、標準設計、資料収集は時代の産物であり、少なくとも最終目的ではなかった。

また、当初から求められたのは単なるチェックリストではなく、空間と人間の深い次元における関わりである。読まされたのは専ら文化人類学や精神分析、現存在分析に関する書物であった。読書会を組織するように命じられたのだが、わずかな人数の会に毎週熱心に出席された。後に夢の分析に繋がる関心は既にあり、文学作品による空間分析もわれわれに既に課されていた。建築に関わる諸現象の本質をどう捕まえるかという関心は当初から一貫していたという強い印象がある。

調査はどうやるんですか?といういかにもうぶな質問に、「とにかく一日中現場にいなさい、そして気のついたことは何でもメモしなさい。あらゆるデータは捨てては駄目です」、という言葉が今でも耳に残っている。 

 

京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987  日本建築学会賞受賞(1991)』など。

 

2024年4月30日火曜日

2003年5月  任期満了?  されど、しばらくは居残り作業! 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌              布野修司

 

2003年5月    

 任期満了?

 されど、しばらくは居残り作業!

 

 

2003年5月1日

授業の一環で京都の南区調査。

共同通信に「1500号記念特集」の記事。井手さんから送っていただく。

 

2003年5月2日

最終(第23回)編集委員会。最後ということでかなりの出席率。大崎、石田の両幹事は泊まりがけの構えである。

メインは、12月号の特集「建築を学ぶ若い人たちへ」(仮題)。

・「初学者に読ませたい本」をアンケートでリストアップする。

・アンケート先は、学会役員(支部長含む)、調査研究委員会委員長および運営委員会クラ スの主査、学会賞受賞者とする。

・アンケートの主旨は、建築を学ぶ学生(初学者)に読んでほしい本を、専門書1冊、一 般書1冊を目安に挙げてもらう。自著と教科書は外すことが原則。

・アンケート依頼状を整えメールで依頼する(事務局)。次回委員会まで結果を用意する。

 という作業を急遽行ったのだがアンケートの集まりが悪い。いささか不満。

・実際の誌面では1分野=1ページとし、36分野を掲載する。各分野ごとに推薦理由2/3 ページ、学生からの読後コメント1/3を掲載する。分野の選択は布野委員長が検討する。・単なるブックガイドにならないよう、専門性をきちんと抑えてもらうようにする。

 という方針であるが埒があかない。そこで、委員それぞれに執筆候補を挙げてもらう。かなりの人数が上がる。

 結局最終決定できず、編集委員長と松山さんが預かるかたちで終結。

 まずは打ち上げ会へ(一次会)。

 続いて、二次会。予定通りの大カラオケ・パーティ。何故か伊藤圭子委員の夫君府中市長も飛び入り参加。

 気がついたら夜が更けていた。

 

2003年5月7日
次期編集委員長、神奈川大学の岩田衛先生に決定との報。

 そして、早速、新会長インタビューの日程調整。

 

2003年5月10日~12

 親父の見舞いのために松江行。たまった庭仕事に汗を流す。のどにプラスチックの器具をとりつけ、声が若干出せるようになる。

 

2003年5月13

 島根県しまね景観小委員会。久々出席。11年目になるとかで見直したいとか。財政問題もある由。

 

 

2003年5月14

理事会。その後懇親会。若干の感慨を挨拶。この日掲載された日経新聞の松山さんの記事を紹介する。

 

2003年5月15

「6月号担当の皆様
 標記について、「NPOが生む建築」がボツになったため3ページの空きが出ました。古谷先生と相談した結果、勝山さんの巻頭原稿を1ページ増、座談会を2ページ増とします。座談会には写真を沢山掲載したいと思いますので、下記のご提供をお願いいたします。」

と小野寺さんからメール。こういうこともあるから、しばらくはまだ大変だ。

 

2003年5月16

 10月号座談会。石田幹事による鼎談メモは以下の通り。

建築雑誌20038月号特集「日常環境の心理と行動 -実験室からフィールドへ」

2003年5月16日(金)1820時,建築会館

鼎談テーマメモ

■ 環境心理研究との関わり

        簡単な自己紹介を兼ねて

■ 環境心理研究の現状

        現状認識

        問題点は何か

■ 日常環境における心理と行動

        複雑で多様な環境要素

        生理,適応,個人差,履歴,文化...(個別性/共通性)

        具体的な研究,建築作品,事例

■ 環境と人間をどのように捉えるか?

        標準値にかわる設計の考え方は可能か?

        人間⇔空間⇔建築

        環境⇔人間のモデル

■ 将来展望と課題

        取り組むべき課題は?

        環境心理の研究と教育

        学会での位置付け,役割

        建築設計,設備設計との関係

 鼎談者が親しすぎたのか、若干不発の印象。手を加えていただくことを依頼。

 

2003年5月19

宇治市景観審議会(広原盛明委員長)。バスで市内を一周。傍聴人の発言許可について若干の議論。

 

2003年5月22

宇治市都市計画マスタープラン検討部会(岡田憲夫部会長)。

この間、編集委員会で議題になっていた投稿文について、掲載を決定することにする。田中淡先生の原稿が届いたので6月号である。経緯は以下の通り。なんらかの議論に繋がればと思う。

 

 本年1月、経済学を専攻する北海学園大学の川端俊一郎教授から、建築雑誌編集委員宛に「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」と題する短い論文が送られてきた。中国五台山の南禅寺と仏光寺、日本の法隆寺が、北宋の将作監・李誡の編纂した『営造法式』にみえる「材」(方桁の)をモジュールとして設計されており、前者が唐尺(1尺=約29.6㎝)、後者が南朝尺(1尺=約24.5㎝)を基準尺とすることを述べた短文である。川端氏は、この論文を委員会に投稿してきたのではない。その手紙には「ご笑覧ください」とだけ記してあるのだが、むしろ編集委員会を騒然とさせたのは、同封されてきた以下の2編の論文であった。

 ・「法隆寺移築説への拒絶反応 -日本建築学会論文集の査読委員が不採用とした理由  の検討-」『北海学園大学学園論集』第113号、20029月(以下、論文①と略称)

 ・「南朝尺のモジュール『材と分』による法隆寺の営造」『計量史研究』Vol.24-No.2、 日本計量史学会、200212月(以下、論文②と略称)

 じつは、この問題は若山滋前編集委員長の代にまで遡って本誌と関係している。20012月、奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が、法隆寺五重塔心柱の最外層年輪が西暦594年に遡ると発表し、古代史・建築史の専門家に大きな衝撃を与えた。その最外層年輪は樹皮に近いシラタ部分にあたり、常識的にみて、心柱の伐採年代は594年以降数年程度に納まるだろうから、『日本書記』天智天皇九年(670)に記された斑鳩寺全焼の後に法隆寺西院伽藍が再建されたとする定説との時間差があまりにも大きく、法隆寺非再建説に有利なデータが出現したかにみえたからである。しかし、大半の研究者は冷静を装い、「心柱の転用説」や「部材放置説」を示唆するにとどまっていた。さらに多くの部材の年輪データを集成しない限り、実証性の高い解釈を示しえないと判断していたからであろう。

 ところが、建築史学の門外漢である川端氏が、この心柱の年輪年代に着目し、法隆寺は隋朝成立直後に竣工していた「X寺」を移築したものとする独自の推論を展開し始める。氏は同年6月、まず『北海学園大学学園論集』第108号に「法隆寺のものさし-南朝尺の材と分」と題する論文を発表し、その要約論文「法隆寺の木割」を本誌の建築論壇に投稿した。これに対し、当時の編集委員会(若山滋委員長)は「掲載を見送る」という判断を下したため、氏は正式に建築学会に入会し、同年9月、「中国南朝尺のモジュール〈材と分〉による法隆寺の営造」と題する論文を学会論文集に投稿したのだが、査読の結果は「不採用」であった。この結果を受け入れられない川端氏は、ただちに異議申し立てをおこなったが、特別審査小委員会からも異議申し立てを却下された。

 上記論文①は、建築学会論文委員会から「不採用」と判定されたことに対する猛烈な批判であり、論文②は「不採用」と判定された論文が日本計量史学会誌にそのまま採用されたものである。川端氏の主張は論文②に言い尽くされており、その内容は、

 1)心柱の伐採年代からすると、法隆寺は元の法隆寺が焼失するよりも前に、どこか別の  所で造営されており、それが移築されてきた。その「X寺」はおそらく筑紫にあった。

 2)法隆寺の造営尺は北宋の『営造法式』に記す「材分」のモジュールに基づき、しかも  その基準尺は、関野貞が非再建説の拠り所とした高麗尺ではなく、南朝尺である。

という2点に集約できる。今回編集委員会に送付されてきた短文については、2)の「材分」モジュールを法隆寺だけでなく、中国唐代の木造建築にまでひろげて解釈したものである。これら川端氏の持論は、最近、日本経済新聞2003321日の文化欄に「法隆寺のモノサシ」と題して掲載され(図◆)、また同じく320日には北京の清華大学建築学院において講演されており、徐々にその発言範囲を増幅しつつある。

 編集委員会としては、論文委員会で「不採用」と判定された論文について、その判断を蒸し返すつもりはまったくない。基本的に今回送付されてきた「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」を掲載するかどうか、を審議の対象とした。率直に言うと、「掲載すべきでない」という意見も相当強かったのだが、あえて掲載に踏み切ったのは、①法隆寺五重塔心柱最外層年輪年代をいかに解釈すべきか、②『営造法式』の「材分」制度が唐代から南北朝にまで遡りうるのか、③南朝尺が本当に復原可能で、かりに可能ならば、その基準尺により法隆寺の木割が説明できるのか、などの重要な問題を孕んでいることを重視したためである。これらの諸問題が現状でどこまで解明されているのかを把握するため、川端氏の論文を掲載するとともに、このテーマと係わりの深い日本建築史・中国建築史の専門家にコメントを依頼することにした。ご多忙のなか、貴重な論評をご寄稿いただいた鈴木嘉吉先生、田中淡先生、山岸常人先生に深く感謝申し上げたい。                   (編集委員会)

 

 今年の京都CDL一日断面調査の予定が送られてくる。

200367日第回京都断面調査要項

「平安袈裟斬西南行(へいあんけさぎりせいなんこう)」

  


■主旨

 「京都断面調査」とは京都を人体に見立て、「CTスキャン」を行うかのように、京都盆地内において任意に設定された帯状断面を機械的に踏査するものである。京都のもつ歴史的文脈や地域性をあえて考慮せず、あくまで図式的に調査領域を設定することで、「京都」に対して我々が抱いている様々な先入観・固定観念を払拭し、そこから見えるもう一つの京都像を浮上させることが目的である。
 今回は「断面調査」の原点に還り、意味や場所性が濃厚に附随する軸線(「~通」や「~川」など)沿いを歩行するのを破棄し、「古代平安都城の対角線」(以下、「袈裟斬線」)という、おおよそ意味を見出せないような帯状断面を設定した。
 京都をまさに「袈裟掛け」に突破することで、「京都」概念をも「袈裟斬り」しようという野心的調査である。
 「袈裟斬った」刹那、見える新たな京都を是非堪能していただきたい。

■調査エリア

 古代平安都城の東北角(現御所)と、西南角(現西京極)を結んで得られる「袈裟斬線」沿い。ちなみに袈裟斬る行政区は、上京区、中京区、下京区、右京区、南区の5つにも渡る。
 
 

■調査日時と調査スケジュール

2003年6月7日(土曜日)

 ※雨天の場合は翌日の8日に、8日も雨天の場合は15日に延期される。

 □調査スケジュール

 10:00 御所内饗宴場広場 集合

 10:30 調査開始

        調査 (昼食は各自でとって下さい

 17:00 桂川沿い堤外児童公園 集合

 17:30 懇親会(桂川河原(桂大橋そば))

 19:30 解散

 

2003年5月23

59回アジア都市建築研究会。講師:重富淳一(大阪大学大学院)。
「ムンバイにおける密集地改善手法としての沿道整備に関する報告 植民地期のPMロードとプリンセスストリートにおける沿道整備事業」 ムンバイにおいて行われた既成市街地の過密化にたいする改善事業、PMロードとプリンセスストリートにおいて行われた改善事業を題材に、都市の形成・過密化から再構造化・改善の過程について報告し、現地の現状について報告する。
 ムンバイは旧大英帝国の植民港湾都市である。旧大英帝国の植民港湾都市においては、その歴史的経緯から人口増加による密集市街地の問題を抱える都市は多い。ムンバイでは、それらの植民都市のなかでも早くから過密化の問題に直面し、改善策が講じられてきた。他の植民港湾都市に先駆けて1896年にムンバイ改善トラストが作られたことや、1910年にボンベイ都市計画法が施行されるなど、当時としては先進的な取り組みがなされてきたのである。この事はムンバイが他の旧植民都市よりも過密化の問題に関して(実験的な)経験を蓄積していることを意味する。 PMロードとプリセスストリート沿道において行われた密集市街地の改善策は、19世紀末から20世紀初頭に執り行われスラムクリアランス的な手法が用いられている。このスラムクリアランス的な手法については、開発時のコスト面及びインパクトについてはゲデスによって批判がなされている。しかし、その改善策に伴う長期的な空間構成の変遷といった観点からの考察はなされていない。それらの事業が行われてから70年から100年経ち、今改めて考察しようとするものである。

2003年5月26

 毎年行っている留学生向けの授業「日本の都市と建築」。どんどん質問が飛んできて、楽しい。

 ライデン大学のアジア研究所に出した掲載原稿が送られてくる。英語のチェックを受けたものだという。

Tokyo: The Declining Capital

From its origins as a small castle town until the end of the Edo era, Tokyo’s urbanization followed an orthogenetic process. In the mid-seventeenth century Tokyo’s population numbered one million, in a league with London and Paris. By the eve of the Meiji Restoration in 1868 Tokyo resembled a huge urban village. Twice destroyed in the twentieth century – by earthquake in 1923 and aerial bombardment in 1945 – Tokyo emerged as a speculator and builders’ paradise, a true global city, in the 1980s. Today Tokyo proper counts over 12 million inhabitants while one-fourth of the Japanese population lives in the greater metropolitan area. The mega-city, warns the author, is awaiting another catastrophe.

 

By Shuji Funo

 

The politically powerful construction industry was one of the motors of rapid post-war economic growth. Relying heavily on the ‘scrap and build’ method, concrete and steel transformed the Japanese landscape. In the late 1960s, construction accounted for over 20 per cent of GDP. High growth gave way to a period of stable but lower growth in the wake of the 1973 energy crisis; heavy industries lost ground to light industries based on advanced science and technology. The focus of urban development shifted from outward expansion to the full development of already urbanized areas. Money generated by the speculative bubble of the 1980s transformed Tokyo into a global city, wired to the dynamic movements of the world capitalist economy.

 

The postmodern city: Tokyo at its zenith

The urban issues Tokyo faced in the mid-1980s were quite different from those it had faced in the past. The city had reached its limits for horizontal expansion. The ‘Tokyo Problem’ and ‘Tokyo Reform’ became pressing issues for debate: scholars and critics discussed the negative effects of Tokyo’s political, economic and cultural dominance, as well as possibilities for relocating the Japanese capital.

In the 1980s Tokyo’s status as one of the world’s financial centres attracted an unprecedented influx of foreign businessmen and workers. The resulting demand for centrally located office space and 24-hour facilities sparked a speculative building rush that dramatically transformed the cityscape. Western architects with postmodern designs were invited to give Tokyo a fashionable facelift, befitting its status as a global city.

Further urban development necessitated the search for new frontiers. The first frontier was unused public land in the city centre. Downtown properties were snapped up by investors, while large real-estate companies launched re-development projects. Many of these destroyed the fabric of existing downtown communities. The second frontier was the sky: Tokyo still had more space in the air than New York. The Manhattan Project, revived after a long hiatus, is currently renewing the central business district around Tokyo Station. The third frontier was under the ground, the so-called geo front. A project to create an underground city of 500,000 inhabitants was seriously proposed. The fourth and final frontier was the Tokyo waterfront, hitherto the home to dockyards and factories. Under the title ‘Urban frontier’, the World City Exposition Tokyo ‘96’ directed expansion towards Tokyo Bay.

New technologies, production systems, and building materials shaped Tokyo’s urban transformation. Since the 1960s air-sealing aluminium sashes have been de rigueur, meaning that all dwelling units are now air-conditioned. So-called intelligent office buildings came into fashion in the 1980s. Domed, climate-controlled stadiums allow football games to be played in the midst of storms. The daily lives of Tokyo’s citizens have become completely divorced from nature; most space in Tokyo is artificially controlled by computer. Electronic conglomerates enjoying symbiotic relations with government are prominent players in this development process. So are the large construction companies, still wielding considerable political power. Tokyo is a temporary metropolis that is constantly changing: in this repeated process of scrap and build, the city is losing its historical memory.

 

‘The 2003 Problem’

Nobody controls a global city like Tokyo; nobody knows who is behind the constant change. Something invisible, which we might call the World Capitalist System, guides the transformation of the Japanese capital.

With the glory days of the bubble economy long gone and Tokyo suffering from economic stagnation and post-bubble debt, a curious phenomenon can be observed. Along the Tokyo waterfront many new office buildings and flats are under construction. The number of high-rise flats newly built in 2002 is said to be unprecedented. Now as before, this construction is driven by the speculative activities of real estate agents and investors. While rumour of ‘The 2003 Problem’ is spreading – companies will move to the waterfront leaving old inner city office buildings unoccupied – predictable oversupply is the result of individual realtors and developers pursuing their own short-term interests, even as they know they will later suffer.

The central government has tried to influence the fluctuating annual number of dwelling units built by reforming tax incentives. The current slogans of the central government are ‘Restructuring’ and ‘Urban rebirth’. What is actually happening, however, is the hollowing out of the inner city. Ishihara Shintaro, governor of Tokyo Metropolitan Municipality, has declared sixteen policy goals, the first of which is to ‘Create an urban city that facilitates a balance of jobs and residences’. It consists of two strategies: ‘Promotion of inner city residence’ and ‘Fundamental reform of the Metropolitan housing system’. The former includes bringing workplaces and residential areas together in the suburban Tama area. The results have thus far been disappointing: the only change for most people has been their place of work. The remaining hope is that old inner city office buildings will be converted into homes.

The central government has established a special board called ‘Urban rebirth’ and has opted to deregulate building codes and urban planning laws to stimulate building activity. Local governments can now rezone areas and make decisions on the restructuring of districts. Most local governments, however, are suffering from financial pressures and lack funds to realize new projects. And while policymakers believe promoting building activity through deregulation is the only way to economic recovery, the idea seems far-fetched.

Tokyo has its natural limits; the city cannot grow indefinitely. Obviously, the city needs powerful leadership and the participation of citizens to implement new ideas. Unfortunately, while formal procedures for citizen involvement have been proposed, they do not function effectively: people seem reluctant to participate when their private circumstances are not affected. Without citizen input, ‘The 2003 Problem’ seems here to stay. Though blackouts and drought already threaten the metropolitan area each summer, the current system of the production and consumption of spaces, however, is controlled by the profit motive, not social or ecological responsibility. Tokyo, on its current course, is awaiting catastrophe.

 

Dr Shuji Funo is professor at Kyoto University and a specialist in the field of Asian design and urban planning. The Architectural Institute of Japan (AIJ) awarded him for his PhD dissertation ‘Transitional Process of Kampungs and Evaluation of Kampung Improvement Program in Indonesia’ (1991). He recently designed Surabaya Eco-House, an experimental housing project, and is now conducting research on Dutch colonial cities.

 

2003年5月30

 京都造形大の授業。吉武先生葬儀。お花を送る。ご冥福を祈る、合掌。

2003年5月31

 任期満了。

 つたない編集長日誌、ご愛読多謝。

 岐阜県加子母村の村役場での木匠塾の打ち合わせに一泊の予定で行く。中津川で藤澤好一先生、安藤先生、藤澤彰先生と待ち合わせ。

2024年3月31日日曜日

2003年4月  「見本誌」一週間早まる?  ラスト・スパート!  イラク戦争開戦 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                  布野修司

 

2003年4月    

 「見本誌」一週間早まる?

 ラスト・スパート!

 

 

2003年4月1日

遠藤和義委員から教授昇進のメール。遠藤委員は彼が学生の頃から知っている。京都大学に赴任したとき、彼は助手で色々お世話になった。実に目出度い。

 

諸先生方
拝啓 日頃より大変お世話になっております。
私事で大変恐縮ですが、本日41日付で、本学の教授に昇格させていただきました。これまで賜りました先生方のご指導に深く感謝致します。分不相応と十分心得、今後も地道に活動していく所存です。略儀で大変恐縮ですが、これからもご指導賜りますよう、よろしくお願いいたします。 敬具
工学院大学 遠藤和義

 

東大の学生の頃お世話になった愛知工業大学の曽田忠宏御夫妻が来京。天龍寺で精進料理をご馳走になる。

 

CNN、イラク戦争報道にかじりつく。

 

2003年4月2日

 編集委員会のために上京。新幹線の中で、松山さんから頂いた『建築批評』(西田書店)を読み直す。東京芸術大学美術学部建築科大学院「特論第6・建築計画Ⅱ」(20024月~7月)の最終成果であるが、出版コードも得た正式の出版物である。文庫本サイズで186頁。真っ黒の表紙に小さく建築批評と白く文字が抜かれている。なんとなく『群居』創刊準備号を思い出した。

 「いかなる時代であれ、卓れた創造は時代への批評を含んでいる。批評が新たな創造の源泉であることはいうまでもない。」という「批評について」という松山さんの短い前書きに続いて12人の建築批評が収められている。

 修士一年の作品であるけれど、まず、その文章の水準にびっくりする。そして、それぞれの建築へのアプローチの多様さに驚く。文章を書くことと、建築作品をつくることは決して遠くはない、というより結びついていることを今更のように確認する。批評の対象として取りあげられている建築作品がまず興味深い。リットリオ宮設計競技案(石橋伸介)などテラーニの名前を知っていても知る人は少ないのではないか。「せんだいメディアテーク」(渡辺樹)「RISE」(加藤由樹子)「世田ヶ谷村」(小高ちひろ)などに混じって「都営高輪アパート」(宮沢宏平)「祖母の家」(加用真美子)などもある。それぞれ眼が確かである。読んでいて、一般の読者を考えると図面が欲しい、ような気もしてきたが、文章で勝負というのが松山さんの指導方針か。末尾に置かれた「車窓の向こう-東京拘置所-」(鈴木貴宇)には特に才気を感じた。

 

22回編集委員会。もう大詰めである。8月号「日常環境の心理と行動-実験室からフィールドへ」(小特集)、9月号「建築年報2003」、10月号「高齢社会のデザイン」について確認した後、11月号「建築構造学の夢と憂い」について議論する。構造の分野は、なかなかテーマがみつからなかった。それを素直にテーマにしよう、というのが方針である。色々意見が飛び交うもまとまらない。決定は次回に持ち越した。続いて、12月号「建築学の行方」について議論するが、全員あまり乗らない。

困っていると、「建築を学びたいと思って入学した学生に、いま何を教えたらよいのか。東大出版会の『UP4月号では「東大教師が新入生にすすめる本」を特集していた。12月号でも新入生に読ませたい本(専門書、一般教養)を挙げ、それを実際に読んだ学生からの反応を併せて掲載してはどうか。」という松山さんの発言が飛び出して、一気に流れが出来た。

 取り上げる本は執筆者に委ねるか、編集委員会でオーソライズするか。前者では重複する可能性もあるので、そこをどう考えるか。執筆者が挙げた本を、自身の学生に読ませてコメントをもらってはどうか。学会の先生方にアンケートを取り、その結果をリストにまとめてはどうか。学生をまきこむしくみを考える必要がある。学生がいま何を学びたいかから考えてみてはどうか。学生の座談会を開催してはどうか・・・など多くの意見が出た。

 とりあえず、「初学者に読ませたい本」をアンケートでリストアップすることにする。アンケート先は、学会役員(支部長含む)、調査研究委員会委員長および運営委員会クラスの主査、学会賞受賞者、アンケートの主旨は、建築を学ぶ学生(初学者)に読んでほしい本を、専門書1冊、一般書1冊を目安に挙げてもらう、自著と教科書は外すことが原則とするなど即決。例えば、実際の誌面では1分野=1ページとし、36分野を掲載する。各分野毎に推薦理由2/3ページ、学生からの読後コメント1/3を掲載、アンケート結果は資料編として掲載する(4ページ)などが頭に浮かぶ。

 

2003年4月5日

早速、小野寺さんがアンケートの文案をつくって下さる。相変わらず仕事は速い。

 

日本建築学会役員 各位:調査研究委員会委員長・主査 各位:学会賞(論文・作品)受賞者 各位:         『建築雑誌』編集委員長・布野修司
 先日、標記のメールをお送りしましたが、ぜひご回答いただきたく再度お送り申し上げます。よろしくお願い申し上げます。
『建築雑誌』編集委員会では、12月号特集「これから建築を学ぶ若い人へ」(仮題)を企画しております。そのなかに「初学者に薦める本」をリストアップしたいと考え、アンケートを実施することにしました。このメールの「返信」で、事務局宛てご回答ください。ご協力をよろしくお願いします。
【ご回答いただく内容】
・建築を学びたいと思って入学した学生に、いまどんな本を薦めますか? 御専門をふまえて、「専門書および一般書」を挙げてください。
・冊数の制限はありません。
・自著と教科書は原則として除きます。
・可能であれば、出版社と出版年(初版)をお知らせください。
・アンケート結果は集計して『建築雑誌』12月号に掲載します。

 

 イラク戦争とともに、学会でも選挙戦。様々なメールが飛び交う。

 

2003年4月6日

 新型肺炎SARSの猛威。インドネシアからメール。建築のアジアで原稿を依頼したPratiwoからである。

How are you? Do people crazy with SARS in Japan? In Indonesia people is getting panic with the desease.
sincerely
   Pratiwo

2003年4月7日

 土木学会誌編集委員会委員長、六郷恵哲先生に手紙をしたためる。

 

  土木学会誌編集委員会

   委員長 六 郷 恵 哲 様

                                              社団法人 日本建築学会

                           編 集 委 員 会

                         委員長 布 野 修 司

 

建築雑誌・土木学会誌共同企画について

 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

 標記につきましては、土木学会誌編集委員会の前向きな姿勢に敬意を表するものです。また、正副会長会議を通じての協力推進は、建築学会・土木学会のみならず、わが国においても大変意義深いものと認識しております。

 さて、建築学会編集委員会においても、共同企画について議論を重ねました。「学際的・国際的・横断的」を重視するわが委員会としては、大いなる賛同をもって積極的にお応えすべき立場です。しかしながら、建築学会はいま役員交代の時期であり、編集委員会は5月をもって任期満了を迎えます。現在、12月号までの企画を固めて新委員会にバトンタッチすべく議論を急いでいるところです。

 こうしたことから、現編集委員会による対応は難しいと判断し、共同企画については次期委員会に申し送ることを結論としました。今後、一読者として共同企画の実現を楽しみに待ちたいと存じております。

 折角の申し出にお応えできず恐縮ですが、ご理解賜りたくお願い申し上げます。

                                 敬 具

 

ウィーンで活躍する三谷克人さんが京都へ里帰り。何故か、僕のところに連絡があって四方山話を楽しむ。同級生の古阪先生を誘って飲む。作品選奨初の海外作品受賞果たせず、残念でした、となぐさめる。

 

2003年4月10

4月号はとっくに編集部の手を離れて、5月号にかかるも遅れ気味で心配。連休もある。6月号の締め切りが今日だ。編集部よりメール。

 

6月号ご担当の皆様
お世話になります。標記の原稿締切が本日となっております。各執筆者より、原稿チェックの依頼が届いていると思いますが、何卒よろしくお願いいたします。下記の方からは遅れる旨、連絡がありました。
・赤松佳珠子さん
・鵜飼哲矢さん
・迫慶一郎さん
ほかの方には督促を行います。
それから、古谷先生からご連絡があったかと思いますが、
表紙のアイデアをお出しください。刺激的で楽しいアイデアを期待しております。
宜しくお願い申し上げます。建築学会 小野寺

 

 学会から以下の依頼。作品賞と作品選奨については思うところがある。議論に参加させて頂く旨、返事する。

作品賞と作品選奨検討小委員会案

委員長 仙田 満

趣  旨

 1995年より「学会賞(作品)」の候補には、応募作品のほかに「作品選集」掲載作品が加えられることとなった。そして、同じ年に「作品選奨」が新設され、当該年度に発行される「作品選集」の中から学術・芸術・技術面で高度の質を有する12件を基準とした作品が毎年選ばれている。また昨年来、「作品選集」の掲載数が60作品から100作品に増やされている。このような経緯から、「学会賞(作品)」と「作品選奨」は実際にはかなり重なる母体から選考されるという状態にある。

 一方、「学会賞(作品)」に一昨年から3年続けて重賞となる作品が選ばれたことで、これまで新人賞的と言われてきた賞の性格・役割は、賞に期待される水準の維持、その活性化のためにあらためて問い直す時期に来ていると思われる。

 以上の点から、「学会賞(作品)」と「作品選奨」の2つの賞の性格(選考基準、位置づけ)を明確化することを検討願いたい。

 あわせてアジア建築賞の創設の可能性についても検討願いたい。

検討の方向

 この問題は以前から何度も繰り返し議論されている。そのひとつの結論は、作品賞は長い伝統を持ち、そのときどきの選考委員会が時代状況を反映しながら、その委員会の責任で賞を選定してきており、評価・選考基準、重賞問題については選考経過・推薦理由を明らかにすることで選考委員会の責任を果たしている、というものである。

 今回の検討においては、作品選奨の数を増やす(倍増)ことによって作品選奨の性格をより鮮明にし、2つの賞の性格を明確化する方向で検討いただきたい。

 検討の結論は2004年学会賞の審査開始(20039月下旬)までに得ていただきたい。

委員案(五十音順、敬称略)

  委員長 小倉 善明

  委 員 岡部 憲明

      香山 壽夫

      坂本 一成

      布野 修司

      細田 雅春

      村松 映一

      柳澤 孝彦

      渡辺 邦夫

 

2003年4月11

 4月号見本誌が届く。見本誌完成を6日早めることが出来た。残念なのは、論文集がちょっと追いつけず、会員に届くのは20日前後になることである。無理を言って急遽4月号に繰り上がった特集であったが、岩松委員が頑張った。

2003年4月16

理事会。各賞受賞者の承認を行ったが、その中に、編集委員の名がなんと6人も。早速、小野寺さんにメールを打ってもらう。なんとなく鼻が高い。

 

編集委員各位
 
本日理事会において、2003年学会賞ほか一連の受賞者が正式に決まりました。 編集委員会からも沢山の受賞者が出ましたので、取り急ぎお知らせします。受賞者一覧は、『建築雑誌』4月号p.91に掲載しております。

受賞者の皆様、おめでとうございます。
 
学会賞(論文)
  福和伸夫先生:構造物と地盤の振動現象の解明と都市地震防災への活用に関する研究
 
学会賞(作品)
  小野田泰明先生:苓北町民ホール(阿部仁史先生と共同受賞)

 奨励賞
岩松 準さん:建設プロジェクトにおける入札戦略に関する研究-公開された入札データから読みとれる入札者の行動

藤田香織先生:静的水平加力試験に基づく伝統的木造建築の組物の履歴モデルと剛性評価

 作品選奨
 小嶋一浩先生:宮城県迫桜高等学校(三瓶満真氏、赤松佳珠子氏、新谷眞人氏、高間三郎氏と共同受賞)
 古谷誠章先生:ジグハウス/ザグハウス

 

Mayaというアメリカの学生からメール。インドで聞いたと言うから、僕もインターナショナルになったものである。インドネシアの建築について聞きたいという。続いて電話、21日に会うことにする。

Professor Fuo,
I recieved your contact information from a man in Varanasi named Rana Singh. I would be interested in speaking with you about Indonesian architecture. I plan on doing research next year for ten months in Indo. I would like to learn more about your research and any recommendations you have. I am staying here in Kyoto for a week. If you have time, maybe we can meet, or at least talk on the phone. When is a good time for you?
Thank you so much,
Maya

 

2003年4月17

アジア建築交流委員会。出席は、飯塚キヨ,石東直子,岡田保良,高偉俊,小浦久子,竹下輝和、友田博通,八木幸二,八代克彦の先生。事務局からは、真木康守,大野智洋,栗原いず美の三人。審議の中心は、第5回アジアの建築交流国際シンポジウムの企画である。いくつか決定しないと間に合わない。まず、開催日程は200461日~4日とすること、開催地については、島根県松江市での開催を決定する。島根県ならびに松江市からは総額800万円の補助金が得られ,開催会場,宿泊施設,アクセス状況等諸条件についても開催上問題ない。松江は僕の育ったところだ。メインテーマについては、仮に、「Global Environment and Diversity of Asian Architecture」とすることとした。

 以下、栗原さんの議事録を借りよう。

・サブフィールドについては,AFまで計6つを設定することとし,明確かつ特色ある具体的なものを設定するのか,または大枠で6分野を設定し,今後具体化していくかについて審議した。

・前回例に鑑み,参加者の希望である「論文の発表」は大前提とし(前回4thISAIA中国開催では選抜発表で,全体の約1/2しか発表できなかったことへの参加者の不満が多かった。),基本的に論文は全題発表(質疑応答含め約15分,6室使用)することが基本方針として確認,決定された。サブフィールドについては,①構造デザイン,②防災,③地球環境,④まちづくり,⑤伝統・土着・地域・居住,⑥歴史・保存・技術協力・歴史環境の6フィールドが候補としてあがったが,今後さらに検討を重ねることとした。

・明確な特色あるテーマは,オーガナイズドセッションを行い,そのテーマとして設定することとし,①歴史・保存・技術協力・歴史環境をテーマとしたもの(例「アジアの建築の起源」),②地球環境をテーマとしたもの,(地球環境委員会担当),③アジア建築賞創設に関するものの計3テーマとし,今後さらに検討を重ねることとした。

・オーガナイズドセッションについては,開催第3日目に論文発表を6室で午後3時頃まで行い,その後3室で3テーマのセッションをしてはどうかとの意見があり,検討された。または,第3日目は全日論文発表とし,2日目午後に講演と同時並行してオーガナイズドセッションを行うという案もあり,プログラムについては次回委員会で決定することとし,2nd Announcement10月発送予定)にはプログラムを掲載し(6月発送予定の1st Announcement には簡単な予定スケジュールのみ掲載),告知することとした。

・スケジュールについて,基本的には1日目夕刻から歓迎会,2日目の午前は開会式,午後講演,3日目はセッション,4日目にエクスカーションとすることとし,今後内容をつめていくこととした。

・講演については,海外からの参加者からも好印象であり,かつ市民動員もはかれるような著名建築家を招くという基本方針のもと,今後候補者を選定することとした。

・ウェルカム・フェアウェルパーティー,エクスカーションについては担当者を決めて次回委員会で企画内容について審議することとした。

1.  5回アジアの建築交流国際シンポジウム準備スケジュール 資料No.2

資料No.3にもとづき,第5回アジアの建築交流国際シンポジウム準備スケジュールについて確認,審議した。

・本日の審議・決定事項により1st Announcement and Call for Papersを作成し,6月に発送,HP掲載することとした。

・第2回実行委員会は20039月に開催することとし,次回委員会での審議・決定事項について確認した。

・その後の日程については今後の委員会で随時確認・修正することとした。

2.  5回アジアの建築交流国際シンポジウム予算                資料No.3

資料No.4にもとづき,第5回アジアの建築交流国際シンポジウム予算について,収入,支出それぞれについて確認後,審議した。

Registration Feeは,一般2万円,学生15千円とし,論文集一冊,ウェルカム・フェアウェルパーティー,第23日目の昼食が含まれることとした。エクスカーションについては,別料金とし,企画内容値段について担当者案を次回委員会で審議することとした。

3.  5回アジアの建築交流国際シンポジウム組織構成          資料No.5

・資料No.1-15にもとづき,布野委員長が組織構成について説明した。今後検討を重ね,人選を行ったうえで,次回実行委員会で各構成メンバーについては正式に承認,決定することとした。

組織構成にあたり,各委員に研究室等所属の助手・院生等 最低3名以上の運営担当メンバーの推薦を依頼することとし,次回実行委員会で審議することとした。

 

2003年418

 同僚の竹山聖先生からメール。母校である北野高校の同窓会館が竣工した。相当の自信作らしい。

 

布野先生
北野高校同窓会館(六稜会館)がようやく竣工しました。ただ大阪府の予算執行の遅れで、本格オープンは11月になります。それまでは工事用仮囲いに囲まれたまま。そこでお披露目を一日だけやることになりました。
1階サロンではバザー、3階ホールではシンポジウムがあります。そして地下のギャラリーでは、会館建設をめぐるワンデイ・エキシビションが同時開
催されます。
4月20日、午後1時半から5時まで。
阪急十三駅から西に徒歩8分といったところでしょうか。十三駅西口を出て、短いアーケードを抜け、大通りを左、つまり南の梅田を望む方向に曲がって、最初の大きな交差点まで行き(南西角に高松建設の本社ビルがあります)、そこを右折して西に向かってずっと歩くと高架の道路の走る交差点があり(すぐ見えます)そこをわたってすぐの左側です。道路沿いに同窓会館が見えてきます。僕は終日います。いらっしゃる時間がわかれば十三駅まで迎えに行きます。
うちの研究室の学生たちは、12時半に河原町木屋町口、13時半に十三駅西口に集合です。お忙しいところ、また休日で出にくいところに、急なお誘いで申し訳ありませんが、いらしていただければ幸いです。もちろん研究室のみなさんもご一緒に、よろしければ。イベント詳しくは、北野高校のホームページ、特に以下のサイトを見てください。
http://www.rikuryo.or.jp/events/pre-open.html
では、よろしくお願いいたします。竹山聖

 

 『アジア都市建築史』の最終ゲラ出る。年度末、印刷屋が混んでずるずる伸びた。応地先生、昭和堂の松井さんと最後の打合せを行う。まあ、夏までには出ると思う。

 

2003年421

午前中、MayaMiya Buxton)さんにあう。インドネシアの住居とコスモロジーについて論文を書きたいというので、R.Watersonの“Living House”を知っているかというと、いや、ウォータソンに触発されたという。それ日本語に訳した(生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,19973)の僕らだと訳書を見せるとびっくりした様子。インドネシアで接触すべき研究者などアドヴァイスする。しかし、各地に2ケ月づつ滞在する奨学金を得ているのだという。うらやましい精度だ。

午後、PFIに関する委員会。PFIの問題点がかなり見えてきた。

 

20034月22

宇治都市計画マスタープラン検討委員会(岡田憲夫部会長)。宇治市を6地区に分けてワークショップを開催し、都市マスタープランを作成することになる。タウンアーキテクト制のひとつのモデルとなりうるかもしれない、と思い出す。

 

2003年424

UCバークレイのマーシャ先生からメール。

 研究費がとれなかったとかで規模は縮小であるが、京都CDLとの共同作業のために数人の学生を連れてやってくるとか。

 

4.23.03

Hello Funo-sensei:

I write hoping you are well.  It is still my plan to come to Kyoto in June with 6 students who have been doing case studies of 3 neighborhoods on the Los Angeles River.  We would very much like to present them to your students or KCDL.  We also were hoping we could work on your neighborhood projects with your students for 3 or 4 days.  What do you think?  We could help do field work, we could do a design charrette on neighborhood landscape interventions, whatever would be useful to you.

We arrive on May 31st and leave on June 14th.  Please let me know if you and your students would like to meet with us and if you have time.

Sincerely,

Marcia McNally

 

2003年4月25

58回アジア都市建築研究会。下平わか奈先生の「諏訪大社の御柱祭」
 一本の柱がかかえる精神性
 日本における生活空間の歴史を、「柱」の視点から再考することで、これからの生活空間に必要な「柱」の在り方を探っていくことを目的とし、現在、諏訪大社の御柱祭を事例として研究を行っている。
 信州の諏訪にある諏訪大社は、諏訪湖を隔てて南に上社(本宮・前宮)と北に下社(春宮・秋宮)、いわゆる二社四宮の宮である。その社殿の四隅には直径約1m、長さ約15mもある御柱がたっている。その御柱を寅申歳の7年目ごとに建て替える祭儀が御柱祭であるが、四宮に4本ずつ、あわせて16本の柱がたてられる。上社の8本は約25キロ隔てた八ヶ岳の中腹から、下社の8本は霧ヶ峰から約12キロを、諏訪地方の氏子が奉仕し、樅の巨木を山から伐り出し、曳き下ろし、木落し、川越し、里曳きを経て、御柱をたてる祭である。
 この御柱祭を事例としたのは、信仰の意味は変化しても、長い年月、諏訪人の生活を支え、御柱祭を来年に控えた現在も諏訪人の魂を揺さぶる柱立ての祭であり、歴史を通して、「柱」がかかえる精神性について考察できるのではないかと考えたためである。
 今回の発表では、諏訪の御柱祭の概要とその歴史とともに、諏訪大社成立前の原始信仰であるミシャクジ信仰による神事といわれる上社例大祭、御頭祭の調査報告を行う。原始的な信仰の姿を残しているといわれる御柱祭の起源、また柱信仰の起源はどこにあるのか、御頭祭の神事にある諏訪大社のもう一つの柱である御杖柱から、一本の柱がかかえる精神性について考察していく。

 

小野寺さんからメール

編集委員 各位
お世話になっております。
5
2日(金)15:00~ 202室にて第23回編集委員会を開催します。
布野編集委員会の最後の委員会です。ぜひ御出席くださるようお願いします。
いつものように二次会を行い、そのあとカラオケ大会の予定です(??)。
二次会への参加もぜひお願いします。詳細は決まっておりませんので、またご連絡します。
1)ご出欠をお知らせください(すでに連絡を頂いている方は不要です)。
2)当日は、11月号「建築構造学の夢と憂い」、12月号「建築を学ぶ若い人たちへ」の最終決定です。
3)連載のご担当の方、年内の予定を固めてください。
4)前回議事録を添付しました。
よろしくお願い申し上げます。建築学会 小野寺・片寄

 

 

 

2003年4月26日~4月27

 京都CDL2003年度春季リーグ。26日の土曜日は今年はワークショップ。題して、「まるしぼりワークショップ「新風景創出大作戦」色ゲーム「まちは何色?」」。「まるしぼり」????、若い学生諸君は独特の言語感覚をもっている。

 

昨日、『京都げのむ』3号(総ページ128ページ、内カラー8ページ、折り込み2枚)が刷り上がってきた。少しずつプロっぽくなっていく。

目次は以下の通り。

 【巻頭グラビア】 SEXY★KYOTO
 
【巻頭論考】 歴史都市の光と影 リム・ボン
 
【断面調査地図】> [ Full Score of SHIJO ]& [ Full Score of KAMOGAWA ]
 
【特集】
 
断面調査とは!?
 
京都の図鑑(11)京都らしさ/Feti/開始点としての断面調査と「セクシー京都」/ L][K O/R【ロンドン→←京都メール交換/公衆裸体/消えゆく花街/流出するセクシー/[小説]セクシー赤色/トイレ礼讃
 
【CDL活動報告】
 SYMPOSIUM REVIEW
 2002 SPRING/左京区民ふれあい祭り2002SYMPOSIUM REVIEW 
 2002 AUTUMN
/地区調査分析2002/ちくびでこん/CDL International
 
【連載】
 
京都私的探求/通りゃんせ: 寺之内通/京外国人の遊び方/げのむアーカイブ: 京都の意匠・デザイン考察BOOK/京都メカニズム: ヤンキー ゴー ホーム/京都黒穴/CDL不動産/京都やま企画/京都近代化の亡霊/げのむギャラリー: 京都精華大学京都市内の保存地区のスケッチ/京都データベース: 銭湯(後編)京都CDL銭湯文化愛好会編

【監督コラム/私だけの京都】神楽岡界隈/垣のある風景・銀閣/私のお薦め京都のキャンパス景観/京都に想う

 

ワークショップの目的と内容は以下の通り。

会場の龍池小学校周辺の地域を「色」というキーワードで観察し,町の新しい風景をつくり出すことを目標とします。こちらの用意する様々なゲームに挑戦しながら地域の色を集めたり、それらの色をテーマに、楽しみながらまちの新しい魅力を発見する企画です。
 一概に「色」といっても人によって様々な捉え方があることでしょう。今までの学生中心の企画とは異なり、様々な人が参加することが出来るこのワークショップイベント。全員で考え、形にしていくことを通じて、普段は意外と気づかない地域の魅力や新しい問題点を発見する新鮮な機会になることを期待しています。
スケジュール

945受付開始:10:00龍池小学校集合・チームわけ・前半説明:10:30まちへ出て色集め:12:00龍池小学校集合・休憩&昼食(写真現像)、龍池地区の名所紹介:13:00後半説明:13:30色合わせ神経衰弱ゲーム製作と自由課題プレゼン開始:14:30色合わせ神経衰弱ゲーム:15:00カラーチャート制作:16:00カラーチャート完成・自由課題プレゼン・結果発表:17:00WS終了・解散
■集合場所;元龍池小学校講堂:京都市中京区両替町通押小路下る金吹町452
 地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」2番出口から徒歩1
■用意するもの;特にありません。昼食は各自で用意してください。(コンビニや飲食店は会場近くにあります。)床での作業がありますので、動きやすい格好でお越しください。


 

2003年4月27

京都CDL2003年度春季リーグ、シンポジウム。事務局長として、この一年の活動を報告。今年は、基調講演者として佐伯啓思先生(京都大学大学院人間環境学研究科教授)を招いた。今回のワークショップの指揮を執った竹山研究室の井関君の友人が佐伯研究室の所属だったという縁による。ところが縁は異なもの奇奈もの、この今や売れっ子の文明批評家、佐伯啓志先生、僕の同級生である。18で上京して住んだ寮で同じフロアであった。僕は出雲出身、彼は奈良出身である。経済学部と工学部に分かれたけれど随分議論した記憶がある。お互い京都大学に赴任して、一度だけ旧交を温めたことはあるが、それからでも数年ぶりである。実に懐かしかった。

演題は、「構造改革に翻弄される地域」。小泉構造改革路線が根本的に間違っている、という迫力ある講演であった。不思議な気もしたけれど、その主張にそう違和感はなかった。


続いて、広原コミッショナー、渡辺菊真運営委員長司会によるパネル・ディスカッション「地域は都市をつくれるか」。パネリストは、リム・ボン、竹山聖という京都CDLの監督に、オリガナイザーの井関君、さらにゲストとして中谷礼仁氏(大阪市立大学建築学科専任講師)が加わった。テーマがいささか難解。しかし、なかなかに興味深い議論が展開された。

 

懇親会は、例年通り、大いに盛り上がった。

 


 

京都CDLは、NPO法人を目指しつつある。

 

京都コミュニティ・デザイン・リーグ
2002年度(2002.0401-2003.0301
事務局日誌
20024月 第3回京都CDLシンポジウム:2002年春季リーグ開催。
200249日 シンポジウムへ向け第一案として、京都CDLブース企画「監督決闘座談会」が決定する。
2002411日 「ミニげのむ」の活動の一つとして選手同志の交流を深めるため選手名鑑を制作し、シンポジウムの開演時に配布することが決定。
2002427日 2002年春季リーグ、京都商工会議所(烏丸丸太町)にて盛大に開催。キャッチコピーは「京都観察万華鏡」。「監督決闘座談会」「地区分析パネル展示と講評会」「地区ビデオ上映会」「私の京都風景描写コンテスト」など各企画は大盛り上がり。終了後は懇親会へ。
参加大学:池坊短期大学・京都大学・京都市立芸術大学・京都工芸繊維大学・京都嵯峨芸術大学・京都女子大学・京都精華大学・京都造形芸術大学・京都府立大学・京都文教短期大学・滋賀県立大学・平安女学院大学・立命館大学・龍谷大学
20025月 断面調査に向けた準備。
2002510日 京都断面調査の「唐突断面準備」開始。今回の断面調査は鴨川縁辺を鴨川出現点(高野川/賀茂川合流ポイント)から、鴨川消失点(鴨川/桂川合流ポイント)まで。(前回は四条通を八坂神社から松尾大社まで。)同時に「唐突断面事前調査隊」入隊募集受付開始。(事前調査隊:本番までにコースを視察して、その長さ、面白さなどをチェックして本番ルートを決定するための準備隊。)
2002516日 断面調査隊長の米津(京都大学)より各大学へ京都断面調査要項配布。
2002522  断面事前調査決行。「距離的には去年よりだいぶ長いですけど、ずいぶん面白かったです。南北格差というようなものを垣間見ることができ、本当の京都を知ったような気がします。」と隊長の米津(京都大学)。参加者: 米津・柳沢・菊池・鈴木・大城・上野・春原
2002524日 断面調査の単一調査項目の内、浮浪者住居という項目は、川岸調査隊が担当することが決定。単一調査項目に新しく、不法投棄物・路上駐車・鉄塔と煙突・ミニ開発と伝統住宅を追加。
2002527日 京都断面調査「京都蛇行(へびゆき)大南下」に先立ち、運営委員長渡辺菊眞がKBSラジオ「日産フラッシュジャーナル」に出演。午前7時より「京都断面調査」をPR。
2002529日 京都CDL理事会(チーム監督を主体とする会議)。河原町二条ビル7Fにて。
参加者:広原、布野、渡辺、菊眞、柳沢、魚谷、長野、米津、春原、金剛、中村、井関
昨年度の活動報告と、今年度の骨格となる活動方針(例えば全チーム担当の重点調査地区を設定するなど)重点調査地区の設定、京都CDL規約案などについて話し合う。
20026月 第2回京都断面調査。
200261日 第2回京都断面調査京都CTスキャン「京都蛇行(へびゆき)大南下」。一般参加者を含む100人余りが午前9時半賀茂川と高野川合流ポイントに集合。今回のルートは鴨川縁辺を鴨川出現点(高野川/賀茂川合流ポイント)から、鴨川消失点(鴨川/桂川合流ポイント)まで。隊長は京都大学米津(終始テンパリながらも上機嫌)。左京区役所の神山氏取材同行。事後の懇親会(BBQ)盛大に行われる。
2002620日 京都大学にて断面座談会。調査結果を報告。
2002625日 北大路駅徒歩3分の小山東大野町を対象に行われる、ゼロコーポレーション企画のアトリエ作家による競合街づくりコンペに京都CDLの共催参加が持ちかけられる。
20027月 京都げのむ第2号発刊。合同重点調査決定、実施。
200271日 京都げのむ第2号ついに発刊!!!今号のテーマは「京都売ります!」。「その前に、げのむが売れるだろう」と誰もが思ったハイクオリティー。定価も800円と創刊号より2割値下げになり、期待膨らむ。2000部発行。
200273日 運営委員会「京都重点地区調査」について話し合い。重点地区調査とは、CDLの通常の調査のように調査地区を研究室毎に分担するのとは対照的に、年度毎に重点調査地区を設定して京都CDLの有志で担当するもの。京都の中心部の田の字地区を対象とした「断面調査ならぬボーリング調査」修士論文のネタを探していた魚谷(京都大学)が隊長をやることに決定。
200276日 京都げのむ第3号編集委員会準備会(兼2号完成打上げ+反省会)防空壕ガッツ(心)にて。参加13名。第3期編集委員会始動。編集長:長野良亮
200277日 左京区役所より「左京区ふれあいまつり」出展依頼あり。
200278日 京都げのむ創刊号精算&第2号書店置きキャンペーン。げのむ販促委員長の佃(京都大学)以下、3台の車に分乗して京都中の書店を周る。
2002712日 京都げのむ書店置き集計。新規、継続、中止など結果は色々。
2002717日 「秋季リーグ」のプログラムと会場の決定。「パネル展示会」について。「秋季リーグ企画隊」の結成について、「げのむ書店置きの結果報告」、「げのむ特売隊」の結成、「げのむ3号編集準備会模様報告」、「げのむ3号編集作業の開始」、「重点地区調査進行状況と今後」について、「ゼロコーポレーションのコンペ企画の参加の仕方」についてなど議題盛りだくさん。
2002720日 重点地区調査の打ち合わせ。
2002年7月28日 京都市勧業館「みやこめっせ」にて「左京区民ふれあいまつり2002」開催。
京都CDLからも小ブースを出展。企画準備:春原(池坊)、山本(京女)出展内容:「左京区まるごとHow Much」、「げのむ販売」、「左京区の大学のパネル展示」、「CDLの資料配付」
20028月 引き続き京都げのむ第2号販売奮闘中。
200282日 重点地区調査第一次調査終了。参加者:参加者:魚谷(京大)、今池、上野、金光、山本(京女)、金剛(立命館)中村(滋賀県大)他。京都府建設業協会より、鴨川フェスタ参加要請。
200288日 秋季シンポジウムが龍池小学校で開催されることが決定。
2002819日 「京都ゲノム」第2号を龍谷大学生協書籍部に卸す。京都中の書店の他、各大学生協に続々と置かれる。
2002828日 秋季リーグの大枠決定。
1017日、18日、19日の3日間、龍池小学校にて開催。17日、18日:パネルの自由講評、その他の企画。19日:シンポジウム、パネルの表彰
20029月 京都げのむ第3号編集開始。
2002911日 秋季リーグのキャッチコピーの決定。「決戦!十四のサムライ」。京都市立芸大の菊池の案。圧倒的多数の支持で決まりかけているのに、高橋(京都大学)が「CDL大戦」がいいとダダをこねた。
2002915日 京都げのむ第3号2003年正月に発行をめざし、表紙デザインコンペ開催。
2002928日 京都府建築士会より情報交流依頼。
200210月 第4回京都CDLシンポジウム:2002年秋季リーグ開催
2002109日 京都げのむ第3号表紙デザインコンペ審査会。永澤真美(嵯峨芸術大学)案採用決定(エントリー八点、提出六点)
20021014日 地区ビデオコンテストエントリー募集開始。
20021017日 京都CDL秋季リーグ「決戦!14のサムライ」開幕!秋季リーグ初日は学生だけによるプレゼンテーションと審査会「ウリでゴリ押し」が開催された。企画・進行の隊長は京都市立芸大の菊池。立命館平尾研究室チームを振り切り、京都市立芸大が「裏CDLキング」の栄冠を手にする。
20021018日 引き続き、パネル展示を行う。
20021019日 秋季リーグ最終日。企画運営は京都大学・大辻・川畑。午前、一昨日のイベントを受けて、急遽、討論会「ゴリ押しがウリ」が催される。午後、各大学のパネル・プレゼンテーションと各チーム監督によるパネル審査。結果は「茶室」をテーマとした池坊短期大学チームの勝利。特大のトロフィーをゲットした。チーム・リーダー春原談「うちの研究室は狭いので置き場に困ります(笑)」。その他の結果は以下。最優秀賞 CDLキング 池坊短期大学岩崎研究室 「京都の茶室の再発見」コミュニティ賞 京都女子大学井上研究室 「町へ出よう」デザイン賞 京都大学高田研究室 「’境界線の相対化’による都市空間の再生」リーグ賞 滋賀県立大学松岡+山根研究室 「都市空間における近代化と祠による‘ずれ’に関する調査」秋季リーグ閉幕後は懇親会へ。2次会、3次会、4次会・・・東の空が白くなるまで飲みまくる。ちなみに、CDLキングならぬCDLクイーンの春原は2次会で爆睡(爆酔)。そういえば、駆けつけた岩崎先生(池坊短大監督)が能を舞っていたような・・・。
20021024日 嵯峨芸術大学の文化祭で秋季リーグのパネル展示を提案。
20021028日 池坊短期大学の文化祭で秋季リーグのパネル展示を提案。
20021029日 京都CDL本拠地お引っ越し。作業は永谷・川畑・高橋により、京都大学の事務局から資料・げのむ等を新本拠地(京都市下京区油小路通綾小路風早町56-9)へ移動。11月より、新本拠地で京都CDL活動。
200211月 京都CDL新拠点 油小屋開所 カリフォルニア大学バークレー校よりマーシャ先生来京。第2回地区ビデオコンテスト
2002115日 京都CDL新本拠地油小屋オープニングパーティー
20021116日 カリフォルニア大学バークレイ校マーシャ先生来日。
20021118日 京都大学にてマーシャ先生、永橋為介さんとミーティング。講義「Investigating The Neighborhood Landscape---A Field Guide For Knowing and Planning for Change In Your Neighborhood」。永橋さん名通訳、調査方法をめぐって議論。京都女子大:パネルを英語版になおして展示。京大4チーム:パネルは日本語で英語で発表。立命平尾研・京大竹山研・嵯峨芸大・池坊短期大学:日本語パネル展示、学生参加。
20021119日 マーシャ先生と南区、重点調査地区へフィールド・ヴィジット。バークレーの調査用キャップを全員プレゼントされる。永橋、大辻、布野、歩きながら調査地区について議論。午後、渡辺、魚谷、高橋、長野加わる。
20021120日 マーシャ先生と共同研究計画ディスカッション。2003年6月にバークレー校から学生来日、共同研究を行うことが決定。CDLもいよいよ京都の外へ拡大していく。それにしても、いきなりカリフォルニア!?
20021123日 第2回地区ビデオコンテスト。油小屋にて。9チーム参加。
地区ビデオとは、パネルなどでは表現できないような、地区の隠れた魅力を映像作品によって表現しようというもの。優勝は京都文教短期大学。カラオケ調で進む物語の随所にはユーモアがあふれ、会場を笑いの渦に引き込んだ。立命館平尾研作品の余りのハイクオリティーに一同息を飲んだ。
20021128日 高橋、渡辺?マーシャ先生と山科を見て歩く。東山五条~峠越え~山科中心部(山科寺内町跡付近)
20021130日 マーシャ先生、帰国。また来てください。
200212月 京都げのむ編集
2002122日 京都造形芸術大学チーム監督の渡辺豊和氏ホームページ上で「京都からの発信、建築のフラクタル」連載開始。(毎週月曜日更新30周にわたり連載。RL:http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/)平等院鳳凰堂断片を使用した、これまでにない空間構成法を披露。(京都市文化功労賞02受賞記念)「京都美の典型といえば建築ならば平等院鳳凰堂であろう。(以下略)。」
2002125日 運営委員長渡辺菊眞、12月半ばから2月末まで山形出張のため、米津代行。
20021219日 拠点にて忘年会。
20031月 第5回京都CDLシンポジウム2003春季リーグへの準備始動。NPO法人に向けて
2003119日 今年の春季リーグは2003426日(土)・27日(日)に決定。
企画に関するラフなフレームが立案される。(基調講演・監督座談会・ワークショップ・京都CDL活動発表・パネル展示)シンポジウム名が「まるしぼり京都」に決定。
2002122日 春季リーグ「まるしぼり京都」のポスターコンペ告知。
2002125日 春季リーグを通してのテーマワードについて「地域」という単語が認識され始める。ワークショップ、基調講演に関して様々なアイデアが出される。
2003131日 米津、永谷NPO法人化の相談に京都府に出向く。京都げのむ販売に関して川畑報告を受け、代理運営委員長・米津より販売体勢の確認が宣告される。「書店任せではなく、選手一人一人が売っていきましょう。」
20032月 京都げのむ3号編集追い込み 
200322日 ポスター制作者が決定。(京大歴史研M1藤田慶)
200325日 春季リーグゲストとして、基調講演に佐伯啓思氏(京都大学人間・環境学部教授)、監督座談会に中谷礼仁氏(大阪市立大学建築学科専任講師)に依頼。
200327日 春季リーグ座談会メンバーとして、リム先生、竹山先生、総合司会として広原コミッショナーに依頼。
2003212日 運営委員会引継ぎ。年間活動報告。春季リーグへ向けて各チーム幹事引継ぎ。
2003215日 今回の春季シンポジウムの「地域」というテーマワードに対する京都CDLなりの定義付けが完成。ワークショップのタイトル、サブタイトルが決定。 まるしぼりワークショップ 『新風景創出大作戦』―「地域」の隠れた力を引き出し、風景化する―座談会のタイトルが決まる。「地域」は都市をつくれるか
2003221日 各方面へ春シンポジウムの広報活動。広報の隊長は藤田慶(京都大学)に決定。
ワークショップに関して「色」を取り扱うことに決定。

2003年2月28日 米津NPO法人化へむけて規約案完成。

2003年3月 京都げのむ3号編集追い込み

2003年3月1日 渡辺豊和先生の京都市文化功労賞受賞祝賀会。大盛況。

「みんなで考えよう! できたらイイナ : こんな右京区総合庁舎・体育館」ワークショップ開催。右京消防署3階講堂

200332日 ワークショップに関する出てきたいくつかのアイデアに関して、実際にワークショップ班で予行演習。

200337日 隊長の藤田を中心に京都三条ラジオカフェ(NPOの放送局)への告知依頼を検討するなど、今までにない大規模な広報を企画する。

313日 春季リーグ新規パネル展示チームの最終確認(京女、立命平尾研チーム)。広報隊が美術館や図書館などにポスター掲示の依頼をする。

ポスター・DMの発送開始。京都CDL活動報告に関する作業が始まる。

321日 各チームの年間活動報告書が出そろう。

329日 「みんなで考えよう! できたらイイナ : こんな右京区総合庁舎・体育館」:第2回ワークショップ「あなたもまちの建築家(その1)・・・まずは今の区役所・体育施設について考えてみよう!」:右京消防署(太秦広隆寺横)3回会議室で

330日 京都CDLの定義する「地域」4箇条が紆余曲折のすえ完成。

 

2003年4月28

建築雑誌7月号特集「建築形態の数理」の鼎談「構造美とデザイン」(仮)、原広司、斎藤公男、渡辺 誠に大崎幹事と出席。特集の主旨は以下の通り。

 

建築は芸術作品であるとともに,科学技術によって実現される人工物であるから,自然界の原理を無視したか形は許容されない。また,仮に許容されたとしても美しいとはいえない。したがって,ドームや橋梁などの大スパン構造物では,力学原理に従った最適な形態が探求されてきた。一方,最近のコンピュータの進歩にともない,数理的な手法によって形態を生成する方法や,自然界の原理を直接的に取り入れて新しいデザインを見出す試みも行なわれている。

本特集では,自然界の原理に学び,数理的手法を駆使して,建築の形を決定するための手法を紹介することにより芸術と力学の接点をさぐる。また,他分野の例を通じて,建築デザインの新しい方向を模索する。

 

大崎幹事が用意したテーマ設定は以下。

1.   建築の形態はいかにして決定されるか。数理的に決めることは可能か,あるいは現実的か。

2.   大スパン構造の形態はどのような手続きで決定されるべきか。力学とデザインのトレードオフは,いかにして解決されるべきか。

3.   いわゆる進化的手法はどこまで利用可能か。

4.   感性の定量化は可能か。

5.   建築のコンセプトとしての数理的手法の役割。

6.   構造・施工技術の進歩により,無理のある形態が実現可能となるのは望ましいことか。

 

 斉藤先生とは初対面。本当に構造デザインが楽しそうでうらやましい。原さんは相変わらずの建築少年ぶり。渡辺さんとは広島での学会賞記念シンポジウム以来。斉藤先生がまずは渡辺さんにジャブ。学会賞を受賞した渡辺さんの飯田橋のインスタレーションが「構造」になっていないのが大いに不満のよう。原さんは構造デザインをやってるんじゃないんだよなあ、計画論の時に読んでくれればいいのにと不満そう。聞いている方はそれぞれのスタンスの違いが面白かった。面白い鼎談になったと思う。

 大崎委員と新幹線で帰京。

 

2003年4月30

 日本大学の宇杉和夫先生から大著『日本の空間認識と景観構成 ランドスケープとスペースオロジー』(古今書院、2003228日)が送られて来たのは4月初旬であったが、ついに読めず。古くから学会などでお会いしたけれど、初めて、その中心テーマを知る。空間認識あるいは景観をめぐって、考える機会があれば是非精読させて頂きたいと思う。