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2025年1月23日木曜日

延藤安弘 京はこんな町になったらエエナ ―広原盛明の<はんなり・まちづくり>へのつぶやき―、広原盛明さんの京都市長選立候補表明を支援する 建築・すまい・まちづくり関係者の集い 、2003年12月20日(土)午後3時~5時

 京はこんな町になったらエエナ

―広原盛明の<はんなり・まちづくり>へのつぶやき―

 

1.「ひと・くらし・いのち」ありき、がエエナ。     (ひと・まち・くらしづくり)

わけあって今までは

「もの・かね・せいど」中心。

そやからまちのかたちも

ひとのこころもかとうなってきてるんとちがう?

京都はほっこりしたぬくもりある

しなやかなひと・まち・くらしづくりへ。

 

2.論も大切やけど実行もっと大切にしたいナ。         (スポーツ人間)

  中学の頃から陸上競技やってきました。

  走り高跳びでは、関西学生一部で優勝しました。

  スポーツでは、からだを動かしながら

  からだがいちばんはずむ理屈がわかっていくように、

  京のまち、ようしていくのに

  現場でいろんな人々と話し合いを重ね

  実行のうねりを細く太く育くんでいきたい。

 

3.はっきりいうて京の町がいちばん好きや。          (京都との出会い)

  人間だれでも青春時代の出会いが人生決めるもんや。

  京都大学の西山研究室との出会い。

  京都市内の田中、楽只、竹田、崇仁地区の調査やりながら

住み手にとってくらしやすい住まい・まちづくり

  を問い、実践することに人生をかけてみよう

  という志が心の片隅に広がっていったんや。

  私の生きる方向を示し、いろんなことを教えてもろた

  京のひと・まちに心からお返しすることに

  いま再びの青春してみたい。

 

 

 

4.「嵐電」みたいに「市電」が走るまちにしたいナ。          (公共交通)

  1970年代の8年間

  京都の市電守る運動に青春かけました。

  自動車交通の限界をこえて

  ひとにも環境にもやさしい

  移動しながら京の町の風情・風景をながめられる

  「新型市電」の実験路線をつくってみたいナ。

今走っているバスもひとにやさしい心配りをしたい。

 

5.もりもりと緑ひろがり、そよそよと風はらむまちがエエナ。      (歴史都市)

  盆地と鴨川に象徴される

  山紫水明の生命みちる京の都。

  軒先の草花から山の端にかかる月に至るまで

  自然美も工芸美も構築美も

  慈しみあい照らしあいもてなしあう

  環境共生の歴史都市を守り育くんでいきたい。

 

6.りんとした「勇気」「公開」「参画」の姿勢を基本にしたい。      (基本姿勢)

  複雑でやっかいな対立の状況や

  硬直した事態をゆるやかに開くためには

  烈け目や葛藤をのりこえていく勇気をふるいたたせたい。

  勇気とは次の瞬間への意図、いさぎよいふるまい。

  そのためには

  何事もつつみかくさない公開のしくみと

  市民の多様な参画の場づくりをすすめていきたい。

 

7.あがないつつ、伝統的アートの価値を継承したいナ。         (伝統工芸)

  1960年代、清水焼の団地を山科につくった時

  伝統的な登り窯をうかつにもないがしろにした。

  均質なものができないことを理由に。

  それは近代的な効率性をものさしにした考え方。

  しかし、登り窯が生むかけがえのない個性と、

  出来損いをワリ、破片にひそむワザを

  アーチストたちがわかちあう「競争的共存」。

  これは新しい時代の芸術家や事業者の生きる価値。

 

8.記憶を呼びさまし、記憶をふりつもらせたいナ。         (まちなみ景観)

  1本の電柱をなくすことは、まちなみの記憶をよびさます。

  1本の電柱を地中に埋めると、1軒の家をきれいにしたくなる。

  1軒の家がきれいになると、まわりの家々は連鎖的にきれいになる。

  京の人々のまちなみへの記憶を呼びさます動きは

  次世代の子どもたちの記憶をふりつもらせていく。

  電線ない町は町への愛が伝染していく。

  電線のない町は町への愛が伝染していく。

電柱と家々と青空のすき間に降りしきる記憶

  それは京の町の内なる力を育くむ。

  

9.反芻する住民の知恵が子どもの楽しい学びを高めるとエエナ。  (学区コミュニティ)

  京都は日本ではじめて住民が町組ごとに小学校をつくった。

  小学校をコミュニティのセンターとして

  地域の多世代のチエとワザとココロを生かして

  子どもとまちの生き生きとした出会いの機会を高めたい。

  「タンケン・ハッケン・ホットケン」は

  子どものココロの感動をよびさます。

  感動を絵地図や紙芝居などに表現・発表・交流すると

  子どもも住民も双方が高まりあう

  学校と地域が相互に呼吸しあう学区の育くみへ。

 

10.難儀な空店舗にまちの力をまぜあわせてみよう。           (商店街)

   まち中でもはずれでも商店街にアキが生まれたら、

   お年よりたちの安心居場所のデイサービスを営んでみよう。

   散髪屋や美容院が髪をすき、歯医者が歯をみて

   和菓子屋が季節の香りを届け、花屋が四季の彩りを飾り…

   ひととまちの力をまぜあわせて

   「おでん」のようなおいしいコミュニティの拠点を創りたい。

 

11.理性も感性も豊かな市民力を育くむまちにしたいナ。         (市民力)

   千年の都の歴史に蓄えられた人間の知恵の深さのある市民力。

   「もう一度考えときます」ということは

   京では時には否定を意味するけれど

   「ことわります」と言い切ってしまわない

   お互いに閉ざさない、孤立しないという

   京ならではの裏表の微妙なバランス感覚。

   個人の役割をきちんとこなしつつ

   ゆるやかに周りと協働していく連帯感覚。

   伝統の市民力に期待をよせたい。

 

12.なんと観光客が伝統産業にかかわる、そんな場をひろげたいナ。 (観光と伝統産業)

   京の多様なタカラの外面を見にくる観光をこえて

   織物紡いだり陶器をこねたり扇子をつくったり

   立花を生けたりと伝統の文化・産業にジカにかかわる

   観光客がふえてくると、まちなみに勢いが発露するし

   伝統産業の元気がよびさまされていく。

   究極の観光は創り制作することへの参加と体験

   そのことで京の町の内なる力はきたえられていく。

 

13.これからは多世代交流のコミュニティづくりをしたい。     (多世代交流)

   子育て支援と高齢者福祉をたてわりにせんと

   横につなぐゆるやかな世代間の結びあう場づくりは

   決して見なれた風景とはちがうけれど

   静けさを尊ぶ存在と

   動きの中に生を育くむ存在の

   せめぎあいのエネルギーがほとばしる時

   思いがけない偶発的な関係の中で老若共に育ちあう。

 

14.交番、路地、地蔵さんは京の町の安全安心の象徴。        (安全安心)

   六地蔵は平安時代のおわり頃に

   京に至る街道に安置された道祖神。

   のちに家内安全、無病息災などを祈願して

   地蔵尊を巡り拝むようになった。

   古い時代の安全・安心のコミュニティ・シンボルとともに

   現代のそれを育くむことを目指したい。

   地域の人間関係を日頃から育くむことが

   震災や犯罪などの危機管理とのりこえの基本の基。

 

15.ろくでもないゴミに生命をよびさましたい。           (ゴミ問題)

   資源をムダ使いして大量のゴミを出す

   建てては壊すやり方はやめて

   古材を新しい柔らかい場所づくりに生かしたい。

   日常の生活ゴミも丁寧に分別すると

   資源がめぐりめぐって生きつづけられ

   うらうらとした朝日の中で

   人のくらしの営みの叡知の種子は発芽し

   人もまちも健やかに育くまれていく。

 

16.ところで、これまでの各頁の第1行を束ねてみよう。

   

「ひと・くらし・いのち」ありき、がエエナ。

   論も大切やけど実行もっと大切にしたいナ。

   はっきりいうて京の町がいちばん好きや。

   「嵐電」みたいに「市電」が走るまちにしたいナ。

   もりもりと緑ひろがり、そよそよと風はらむまちがエエナ。

   りんとした「勇気」「公開」「参画」の姿勢を基本にしたい。

   あがないつつ、伝統的アートの価値を継承したいナ。

   記憶を呼びさまし、記憶をふりつもらせたいナ。

   反芻する住民の知恵が子どもの楽しい学びを高めるとエエナ。

   難儀な空店舗にまちの力をまぜあわせたいナ。

   理性も感性も豊かな市民力を育くむまちにしたいナ。

   なんと観光客が伝統産業にかかわる、そんな場をひろげたいナ。

   これからは多世代交流のコミュニティづくりをしたい。

   交番、路地、地蔵さんは京の町の安全安心の象徴。

   ろくでもないゴミに生命をよびさましたいナ。

   

   各行の頭文字を束ねてみたら

<ひろはらもりあき はんなりなこころ!>

広原盛明は京都らしいはんなりとした

品格の高い陽気ではなやかな志と

明瞭な政策としての「はんなり・まちづくり」を

市民とともに紡ぎだすために

ささやかな力を尽くしたい。

広原盛明はひたすらそう念じています。

ここ一番のジャンプに誠意と渾身の力をこめて…。

 広原盛明さんの京都市長選立候補表明を支援する

建築・すまい・まちづくり関係者の集い

のよびかけ


 
今年も残り少なくなりました。皆様いかがおすごしでしょうか。話題の総選挙も終わり、政治の季節もひとまず過ぎ去ったように感じられますが、来年2月8日には京都市長選挙が行われます。そしてこの京都市長選に広原盛明さん(京都府立大学前学長、京都大学建築学科1961年卒業)が立候補されることになりました。

 
日本人の心の故郷といわれる京都は、世界的にも貴重な社寺城郭を有し世界遺産にも登録され、また地球温暖化防止国際会議が開催されて「京都議定書」が採択されるなど、世界の歴史文化都市としてその環境保全に重大な責任と役割を課せられた都市です。にもかかわらず、京都南部においては巨大な高架高速道路が市内に向かって建設が進められ、俵屋、柊屋など老舗旅館が立地する中心市街地では高層マンションの乱立に歯止めがかからない状況です。また世界遺産の背景地においても宅地開発が進行しています。京都はいま歴史都市として存亡の岐路に立っているといっても過言ではありません。

 
広原盛明さんは、はやくも1960年代から住民参加のまちづくりに取り組んだ先覚的なまちづくり研究者です。また8年間にわたる京都の市電存続市民運動(197078年)を通して、環境保全の視点から都市交通とまちづくりのあるべき姿を追求した実践家でもあります。阪神・淡路大震災ではいち早く救援活動に駆けつけ、建築士・弁護士・不動産鑑定士・土地家屋調査士などの職能団体によって組織された「阪神・淡路まちづくり支援機構」の代表委員として活躍されてきました。

 
私たちは、京都の現状を憂い、京都の明日を切り開く見識をもった広原盛明さんがこのたび京都市長選に立候補表明されたことを、勇気ある行動として心から歓迎し、支持したいと思います。
 
つきましては、建築・すまい・まちづくりの分野でご活躍の皆様方に広原盛明さんへの支援をお願いしますとともに、「広原盛明さんの京都市長選立候補表明を支援する建築・すまい・まちづくり関係者の集い」(12月20日、京大会館)へのご案内を申し上げます。ご多忙中とは存じますが、ご参加をお待ちしております。
                                                       
2003年11月

よびかけ人(予定)

陣内秀信(法政大学教授)、鈴木成文(東京大学名誉教授、前神戸芸術工科大学学長)、林泰義、山岡義典、内田雄造(東洋大学教授)、藤本昌也(建築家)、峰政克義氏、曽田忠広(愛知工業大学教授)
白砂剛二・湯川聡子・高口恭行・延藤安弘・安藤元夫(近畿大学教授)・森本信明(近畿大学教授)・海道清信(名城大学教授 、横尾義貫(京大名誉教授)・田中喬(京大名誉教授)・中村泰人(京大名誉教授)、小島攻(近畿大学教授)、千葉桂司(都市公団OB )、渡辺豊和(建築家・京都造形大教授)、若林広行(建築家)、安原秀(建築家)

青木志郎(東京工業大学名誉教授・元日本建築学会副会長)、石田頼房(東京都立大学名誉教授・元自治体問題研究所副理事長)、牛見 章(東洋大学名誉教授・元埼玉県都市計画審議会会長)

大谷幸夫(東京大学名誉教授・建築家)、岡田光正(大阪大学名誉教授)、小川信子(日本女子大学名誉教授・元生活学会会長)、片寄俊秀(関西学院大学教授)、柴田徳衛(東京都立大学教授・元東京都理事)、住田昌二(大阪市立大学名誉教授・元福山女子大学学長)、吉田あこ(筑波技術短期大学名誉教授・元国際女性建築家協会副会長)

 

 

広原盛明さんの京都市長選立候補表明を支援する

建築・すまい・まちづくり関係者の集い

 

1.日時:2003年12月20日(土)午後3時~5時
2.会場:京大会館
3.次第(1)よびかけ人挨拶、(2)広原盛明さん挨拶、(3)参加者スピーチ、(4)事務局からの

     支援活動についての訴え、(5)今後のスケジュールなど

4.会費:3千円
5.出欠:同封の葉書あるいはFAX用紙で12月15日(月)までにお返事下さい。
  
   なお欠席の場合も趣旨にご賛同の場合はカンパ(1口5千円)をお願いいたします。
 
  宛先:〒612-0846  京都市伏見区深草大亀谷万帖敷町455  広原盛明宛
     tel/fax 075-643-8524  Email: hirohara@skyblue.ocn.ne.jp
         
郵便振替:京都市伏見区万帖敷郵便局 口座番号(申請中)

          銀行振込:京都銀行墨染支店 普通口座(開設中)

 



2024年12月19日木曜日

traverse04 前書、traverse, 2003

 

traverse 4 新建築学研究第4号

  

 9.112001)以降何かが変わってしまった。圧倒的な軍事力を背景にアメリカ合衆国は世界を動かし始めたようにみえる。イラク戦争は、たった3週間という短期間で、多くの予想を裏切って、終結したのであった。果たしてパックス・アメリカーナPart2がくるのであろうか。もしかすると、テロという火種を孕むことによって世界史は半世紀後退したとみるべきではないのか。

 しかしそれにしても、メソポタミア文明の遺産がバクダード博物館や各地の遺跡から大量に略奪されたという事実には唖然とするばかりだ。イラク戦争の連日の報道は、ウル、ウルク、ラガシュ、バビロン、そしてバクダード、サーマッラーなどの古代都市の位置関係を叩き込むように教えてくれた。チグリスとユーフラテスに囲われた人類最古の都市文明を育んだ肥沃な土地が戦場であった。この人類史に対する横暴冒涜は絶望的である。

 そしてSARS(新型肺炎)の発症である。医療技術の進歩にも関わらず、次々と新たなウィルスが出現するのは、現代文明のどこか致命的欠陥をついているのではあるまいか。また、SARSの蔓延はグローバリゼーションの複雑な関係を明るみに出し、世界経済をも翻弄しつつある。

 日本では2003年問題が進行しつつある。未曾有の不況であるにも関わらず、この空間の供給過剰は一体何故なのか。東京だけではない。京都の都心も時ならぬマンション建設ラッシュである。建築業界が存亡の危機を迎えているにもかかわらずである。

 この奇妙な現実を分析したい。そして、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。traverseの願いである。                 

 

             

(布野修司 / 編集委員会)

2024年10月12日土曜日

京都からの発信 建築のフラクタル 渡辺豊和先生の京都市文化功労賞受賞祝賀会、日時 2003年3月1日 18:00会場 18:30開宴 場所 京都市国際交流会館

 京都からの発信 建築のフラクタル

渡辺豊和先生の京都市文化功労賞受賞祝賀会

 

ご案内

 この度、私たちの敬愛する渡辺豊和先生が京都市文化功労賞(2002年度)を受賞されました。その快挙をお祝いすべく一夜の宴を企画いたしました。皆様、お誘い合わせの上、是非、ご参集下さい。

 ご承知のように、渡辺豊和先生は、この数年、満を持して作品の構想を練っていらっしゃいました。そして、昨年、新しい方法が閃いたのだそうです。それと期を一にする受賞は実に絶妙のタイミングと言えるでしょう。

 新たな構想については、ホームページをご覧下さい。URL:http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/

 鍵は宇治の平等院であります。その新たな方法の秘密の一端を少しばかりご披露いただき、お祝いの酒の肴に致したいと考えます。

題して、「京都からの発信、建築のフラクタル」

お酒を片手に、30分程度、そのさわりをご講演頂く予定にしております。

久し振りに豊和節を堪能しましょう。

未曾有の不況の真っ只中でありますが、お目出度い受賞は私たちを勇気づけます。お目出度い受賞から元気を分けてもらおうではありませんか。

渡辺豊和先生は京都市文化功労賞を受賞したのだから、これを機会に京都でも仕事をしたいとおっしゃっています。京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動もその一端でありますが、さらにステップ・アップする謀議もしたいのだそうです。

是非、お集まりいただけますよう、重ねてお願いいたします。

 

 

日時 20033月1日 18:00会場 18:30開宴

場所 京都市国際交流会館 

   〒606-8536 京都市左京区粟田口鳥居町2-1

    tel 075-752-3010

会費 6,000円(ご祝儀歓迎)

 

発起人

安藤忠雄 新井清一 池上俊郎 石山修武 磯野英生 乾 亨 井上えり子 歌 一洋

内田康博 梅林克 遠藤秀平 大石義一 大野勝彦 大森正夫 金城一守 貴志雅樹 

岸和郎 北村陸夫 木下龍一 木村博昭 京極廸宏 久保清一 久保田晃 小林大祐 

小山雄二 佐々木葉二 鈴木隆之 平良敬一 高崎正治 高島直之 高田光雄 竹山  聖 中谷礼仁 中林浩 新居照和・ヴァサンティ 西澤英和 西巻 優 新田正樹 野辺公一 

葉山 勉 久徳敏治 人長信昭  平尾和洋 広原盛明 船越輝由 布野修司 古阪秀三 古山正雄 本田昭一 本田友常 松岡拓公雄  松村秀一 松本正 三澤文子 室崎生子 毛綱千恵子 森田茂夫 山根 周 山本理顕 横内敏人 吉村篤一 リム・ボン 六角鬼丈 若林広幸 

渡辺菊真 

 

梅原 猛 芳賀 徹

 

 

2024年10月10日木曜日

ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915

 ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915

書評 内井昭蔵 再び健康な建築

ゆるやかな統一

建築はひたすら健康であれ

調整者としての建築家 

               布野修司

 ポストモダンの建築が華やかなりしバブルの時代、建築界に「健康建築論争」と呼ばれる論争があった。著者はその中心にあって矢面に立たされた。近代建築の単調さ、画一性に対して仰々しく異を唱えた若いポストモダニストたちには、建築はひたすら自然で健康であれ、という素朴な主張は反動的で敵対的なものと思われたのである。

 時は過ぎ、帰趨は明らかになった。「再び健康な建築」と題された本書には「健康な建築」を求め続けた建築家の一貫する真摯な声を聞くことが出来る。

しかし、「健康」とは何か。論は単純ではない。「「健康」であることは「病気」であることと同じである」と書かれている。また、「自然」とは何か。建築するということはそもそも自然に反することではないか。「人工」は病なのか。テーマは多岐に亘るが、装飾、生態、環境といったごく当たり前の普通にわれわれが用いている概念が繰り返し繰り返し問われている。 

建築論の展開とは別に、著者の提起したマスター・アーキテクト制にも当然触れられている。建築家と言えば唯我独尊、頑固な独裁者というイメージが流布する中で、「ゆるやかな統一」を前提とする調整者(コーディネーター)としての建築家像は、ワークショップ方式のまちづくりが進展するなかで根づきつつある。京都コミュニティ・デザイン・リーグの運動もその流れのひとつである。

内井先生とは京都大学で三年ご一緒した。また、京都市の公共建築デザイン指針策定のための委員会で一緒であった。氏と京都との縁は深い。身近に接して第一に思い起こすのは、その思考の柔軟さである。景観についても予め色や形態を決めて規制するのは反対であった。さらに活躍が期待される大建築家であったが、昨年急逝された。本書は遺稿集でもある。その精神を学ぶ手掛かりがまとめられたことを喜びたいと思う。2003.0908



2024年7月21日日曜日

建築現象の全的把握を目指して: 吉武計画学の過去・現在・未来?, 建築雑誌、2003

 建築現象の全的把握を目指して:

吉武計画学の過去・現在・未来?

 

布野修司(京都大学大学院)

 

吉武計画学とはいったい何か、その成果は如何に継承され、また、今後どう展開しようとしているのか。ありきたりの追悼文ではなく、その総括を、というのが編集部の依頼である。筆者は、東京大学吉武研究室最後の大学院生であった。ともにその学の成立を担った青木正夫・鈴木成文両先生以下綺羅星のごとく並ぶ諸先輩ではなく指名をうけたのは世代的に距離があるからである。また、ともに建築計画学の成立に大きな役割を果たした西山(夘三)スクールの拠点であった京都大学に奉職していることもある。とてもその任にあらずとは思うけれど、吉武計画学の継承発展は日々のテーマである。その総括をめぐっては筆者も編集に携わった『建築計画学の軌跡』(東京大学建築計画研究室編、1988年)があり、それ以上の新たな資料を得たわけではないが、以下は、いずれ書かれるべき吉武泰水論のためのメモである。

吉武計画学がスローガンとしたのは「使われ方の研究」である。ベースには西山夘三の「住まい方の研究」がある。西山の住宅調査の手法を不特定多数の利用する公共的空間に拡大しようとしたのが吉武計画学である。使用者(労働者)の立場に立って、という視点は戦後民主主義の流れに沿ったものであった。

第2に、吉武計画学を特徴づけるとされるのは「施設縦割り研究」である。また、「標準設計」である。吉武計画学の成立を中心で支えた研究会LV(エル・ブイ)のごく初期に、住宅、学校、病院、図書館といった公共施設毎に情報を集め、それぞれに集中する専門家を育てる方針が出されている。「標準設計」は、「型計画」の帰着でもあるが、戦後復興のために要請される公共建築建設の需要に応えるためにとられた研究戦略であった。また、各施設について多くの専門家が育つことによって一大スクールが形成されることとなった。

第3に、吉武計画学には「平面計画論」というベースがある。つけ加えるとするともうひとつ「生活と空間の対応」に着目し平面を重視した。素朴機能主義といってもいいが、その平面計画論には、人体にたとえて、骨格として建築構造、循環系としての環境工学に対して、その他の隙間を支える空間の論理を組立てたいという、すなわち建築計画という分野を学として成立させたいという意図があった。吉武先生の学位論文は知られるように規模計画論である。数理に明るいという資質もあるが、まずは論理化しやすい規模算定が選択されたのであった。しかし、その最初の調査が銭湯の利用客に関する調査であったことは記憶されていい。

以上のような吉武計画学の成果はやがて「建築設計資料集成」という形でまとめられる。体系化以前の段階では、フール・プルーフ(チェックリスト)にとどまるのもやむを得ない、というのがその立場であった。

吉武計画学の展開に対して批判が出される。ひとつは「作家主義」か「調査主義」か、という問いに要約されるが、創造の論理に展開しうるのかという丹下研究室による批判である。また、あくまでも「設計」に結びつく研究であることを主張する吉武研究室に対して、性急に設計に結びつける以前に、縦割り研究には地域計画が抜けているという西山研究室の批判である。そして、研究室内部からの空間論の提出である。さらに、吉武計画学には建築を組み立てる建築構法さらには建築生産に関わる論理展開が欠けている。いずれも調査、研究、設計、計画の全体性に関わる吉武計画学の限界の指摘である。筆者が研究室に在籍した1970年代初頭に既に、上記のような限界は明らかであった。オープンスクールの出現や様々な複合施設の登場に対して縦割り研究や制度を前提にしての使われ方研究の限界は充分意識されていた。

まず確認したいのは、戦後の出発点で行われた調査が、銭湯調査を含めて今日でいう都市調査を含んでいることである。都市のあり方を明らかにする中で公共施設のあり方が探られようとしたのであって、逆ではない。縦割り、標準設計、資料収集は時代の産物であり、少なくとも最終目的ではなかった。

また、当初から求められたのは単なるチェックリストではなく、空間と人間の深い次元における関わりである。読まされたのは専ら文化人類学や精神分析、現存在分析に関する書物であった。読書会を組織するように命じられたのだが、わずかな人数の会に毎週熱心に出席された。後に夢の分析に繋がる関心は既にあり、文学作品による空間分析もわれわれに既に課されていた。建築に関わる諸現象の本質をどう捕まえるかという関心は当初から一貫していたという強い印象がある。

調査はどうやるんですか?といういかにもうぶな質問に、「とにかく一日中現場にいなさい、そして気のついたことは何でもメモしなさい。あらゆるデータは捨てては駄目です」、という言葉が今でも耳に残っている。 

 

京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987  日本建築学会賞受賞(1991)』など。

 

2024年4月30日火曜日

2003年5月  任期満了?  されど、しばらくは居残り作業! 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌              布野修司

 

2003年5月    

 任期満了?

 されど、しばらくは居残り作業!

 

 

2003年5月1日

授業の一環で京都の南区調査。

共同通信に「1500号記念特集」の記事。井手さんから送っていただく。

 

2003年5月2日

最終(第23回)編集委員会。最後ということでかなりの出席率。大崎、石田の両幹事は泊まりがけの構えである。

メインは、12月号の特集「建築を学ぶ若い人たちへ」(仮題)。

・「初学者に読ませたい本」をアンケートでリストアップする。

・アンケート先は、学会役員(支部長含む)、調査研究委員会委員長および運営委員会クラ スの主査、学会賞受賞者とする。

・アンケートの主旨は、建築を学ぶ学生(初学者)に読んでほしい本を、専門書1冊、一 般書1冊を目安に挙げてもらう。自著と教科書は外すことが原則。

・アンケート依頼状を整えメールで依頼する(事務局)。次回委員会まで結果を用意する。

 という作業を急遽行ったのだがアンケートの集まりが悪い。いささか不満。

・実際の誌面では1分野=1ページとし、36分野を掲載する。各分野ごとに推薦理由2/3 ページ、学生からの読後コメント1/3を掲載する。分野の選択は布野委員長が検討する。・単なるブックガイドにならないよう、専門性をきちんと抑えてもらうようにする。

 という方針であるが埒があかない。そこで、委員それぞれに執筆候補を挙げてもらう。かなりの人数が上がる。

 結局最終決定できず、編集委員長と松山さんが預かるかたちで終結。

 まずは打ち上げ会へ(一次会)。

 続いて、二次会。予定通りの大カラオケ・パーティ。何故か伊藤圭子委員の夫君府中市長も飛び入り参加。

 気がついたら夜が更けていた。

 

2003年5月7日
次期編集委員長、神奈川大学の岩田衛先生に決定との報。

 そして、早速、新会長インタビューの日程調整。

 

2003年5月10日~12

 親父の見舞いのために松江行。たまった庭仕事に汗を流す。のどにプラスチックの器具をとりつけ、声が若干出せるようになる。

 

2003年5月13

 島根県しまね景観小委員会。久々出席。11年目になるとかで見直したいとか。財政問題もある由。

 

 

2003年5月14

理事会。その後懇親会。若干の感慨を挨拶。この日掲載された日経新聞の松山さんの記事を紹介する。

 

2003年5月15

「6月号担当の皆様
 標記について、「NPOが生む建築」がボツになったため3ページの空きが出ました。古谷先生と相談した結果、勝山さんの巻頭原稿を1ページ増、座談会を2ページ増とします。座談会には写真を沢山掲載したいと思いますので、下記のご提供をお願いいたします。」

と小野寺さんからメール。こういうこともあるから、しばらくはまだ大変だ。

 

2003年5月16

 10月号座談会。石田幹事による鼎談メモは以下の通り。

建築雑誌20038月号特集「日常環境の心理と行動 -実験室からフィールドへ」

2003年5月16日(金)1820時,建築会館

鼎談テーマメモ

■ 環境心理研究との関わり

        簡単な自己紹介を兼ねて

■ 環境心理研究の現状

        現状認識

        問題点は何か

■ 日常環境における心理と行動

        複雑で多様な環境要素

        生理,適応,個人差,履歴,文化...(個別性/共通性)

        具体的な研究,建築作品,事例

■ 環境と人間をどのように捉えるか?

        標準値にかわる設計の考え方は可能か?

        人間⇔空間⇔建築

        環境⇔人間のモデル

■ 将来展望と課題

        取り組むべき課題は?

        環境心理の研究と教育

        学会での位置付け,役割

        建築設計,設備設計との関係

 鼎談者が親しすぎたのか、若干不発の印象。手を加えていただくことを依頼。

 

2003年5月19

宇治市景観審議会(広原盛明委員長)。バスで市内を一周。傍聴人の発言許可について若干の議論。

 

2003年5月22

宇治市都市計画マスタープラン検討部会(岡田憲夫部会長)。

この間、編集委員会で議題になっていた投稿文について、掲載を決定することにする。田中淡先生の原稿が届いたので6月号である。経緯は以下の通り。なんらかの議論に繋がればと思う。

 

 本年1月、経済学を専攻する北海学園大学の川端俊一郎教授から、建築雑誌編集委員宛に「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」と題する短い論文が送られてきた。中国五台山の南禅寺と仏光寺、日本の法隆寺が、北宋の将作監・李誡の編纂した『営造法式』にみえる「材」(方桁の)をモジュールとして設計されており、前者が唐尺(1尺=約29.6㎝)、後者が南朝尺(1尺=約24.5㎝)を基準尺とすることを述べた短文である。川端氏は、この論文を委員会に投稿してきたのではない。その手紙には「ご笑覧ください」とだけ記してあるのだが、むしろ編集委員会を騒然とさせたのは、同封されてきた以下の2編の論文であった。

 ・「法隆寺移築説への拒絶反応 -日本建築学会論文集の査読委員が不採用とした理由  の検討-」『北海学園大学学園論集』第113号、20029月(以下、論文①と略称)

 ・「南朝尺のモジュール『材と分』による法隆寺の営造」『計量史研究』Vol.24-No.2、 日本計量史学会、200212月(以下、論文②と略称)

 じつは、この問題は若山滋前編集委員長の代にまで遡って本誌と関係している。20012月、奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が、法隆寺五重塔心柱の最外層年輪が西暦594年に遡ると発表し、古代史・建築史の専門家に大きな衝撃を与えた。その最外層年輪は樹皮に近いシラタ部分にあたり、常識的にみて、心柱の伐採年代は594年以降数年程度に納まるだろうから、『日本書記』天智天皇九年(670)に記された斑鳩寺全焼の後に法隆寺西院伽藍が再建されたとする定説との時間差があまりにも大きく、法隆寺非再建説に有利なデータが出現したかにみえたからである。しかし、大半の研究者は冷静を装い、「心柱の転用説」や「部材放置説」を示唆するにとどまっていた。さらに多くの部材の年輪データを集成しない限り、実証性の高い解釈を示しえないと判断していたからであろう。

 ところが、建築史学の門外漢である川端氏が、この心柱の年輪年代に着目し、法隆寺は隋朝成立直後に竣工していた「X寺」を移築したものとする独自の推論を展開し始める。氏は同年6月、まず『北海学園大学学園論集』第108号に「法隆寺のものさし-南朝尺の材と分」と題する論文を発表し、その要約論文「法隆寺の木割」を本誌の建築論壇に投稿した。これに対し、当時の編集委員会(若山滋委員長)は「掲載を見送る」という判断を下したため、氏は正式に建築学会に入会し、同年9月、「中国南朝尺のモジュール〈材と分〉による法隆寺の営造」と題する論文を学会論文集に投稿したのだが、査読の結果は「不採用」であった。この結果を受け入れられない川端氏は、ただちに異議申し立てをおこなったが、特別審査小委員会からも異議申し立てを却下された。

 上記論文①は、建築学会論文委員会から「不採用」と判定されたことに対する猛烈な批判であり、論文②は「不採用」と判定された論文が日本計量史学会誌にそのまま採用されたものである。川端氏の主張は論文②に言い尽くされており、その内容は、

 1)心柱の伐採年代からすると、法隆寺は元の法隆寺が焼失するよりも前に、どこか別の  所で造営されており、それが移築されてきた。その「X寺」はおそらく筑紫にあった。

 2)法隆寺の造営尺は北宋の『営造法式』に記す「材分」のモジュールに基づき、しかも  その基準尺は、関野貞が非再建説の拠り所とした高麗尺ではなく、南朝尺である。

という2点に集約できる。今回編集委員会に送付されてきた短文については、2)の「材分」モジュールを法隆寺だけでなく、中国唐代の木造建築にまでひろげて解釈したものである。これら川端氏の持論は、最近、日本経済新聞2003321日の文化欄に「法隆寺のモノサシ」と題して掲載され(図◆)、また同じく320日には北京の清華大学建築学院において講演されており、徐々にその発言範囲を増幅しつつある。

 編集委員会としては、論文委員会で「不採用」と判定された論文について、その判断を蒸し返すつもりはまったくない。基本的に今回送付されてきた「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」を掲載するかどうか、を審議の対象とした。率直に言うと、「掲載すべきでない」という意見も相当強かったのだが、あえて掲載に踏み切ったのは、①法隆寺五重塔心柱最外層年輪年代をいかに解釈すべきか、②『営造法式』の「材分」制度が唐代から南北朝にまで遡りうるのか、③南朝尺が本当に復原可能で、かりに可能ならば、その基準尺により法隆寺の木割が説明できるのか、などの重要な問題を孕んでいることを重視したためである。これらの諸問題が現状でどこまで解明されているのかを把握するため、川端氏の論文を掲載するとともに、このテーマと係わりの深い日本建築史・中国建築史の専門家にコメントを依頼することにした。ご多忙のなか、貴重な論評をご寄稿いただいた鈴木嘉吉先生、田中淡先生、山岸常人先生に深く感謝申し上げたい。                   (編集委員会)

 

 今年の京都CDL一日断面調査の予定が送られてくる。

200367日第回京都断面調査要項

「平安袈裟斬西南行(へいあんけさぎりせいなんこう)」

  


■主旨

 「京都断面調査」とは京都を人体に見立て、「CTスキャン」を行うかのように、京都盆地内において任意に設定された帯状断面を機械的に踏査するものである。京都のもつ歴史的文脈や地域性をあえて考慮せず、あくまで図式的に調査領域を設定することで、「京都」に対して我々が抱いている様々な先入観・固定観念を払拭し、そこから見えるもう一つの京都像を浮上させることが目的である。
 今回は「断面調査」の原点に還り、意味や場所性が濃厚に附随する軸線(「~通」や「~川」など)沿いを歩行するのを破棄し、「古代平安都城の対角線」(以下、「袈裟斬線」)という、おおよそ意味を見出せないような帯状断面を設定した。
 京都をまさに「袈裟掛け」に突破することで、「京都」概念をも「袈裟斬り」しようという野心的調査である。
 「袈裟斬った」刹那、見える新たな京都を是非堪能していただきたい。

■調査エリア

 古代平安都城の東北角(現御所)と、西南角(現西京極)を結んで得られる「袈裟斬線」沿い。ちなみに袈裟斬る行政区は、上京区、中京区、下京区、右京区、南区の5つにも渡る。
 
 

■調査日時と調査スケジュール

2003年6月7日(土曜日)

 ※雨天の場合は翌日の8日に、8日も雨天の場合は15日に延期される。

 □調査スケジュール

 10:00 御所内饗宴場広場 集合

 10:30 調査開始

        調査 (昼食は各自でとって下さい

 17:00 桂川沿い堤外児童公園 集合

 17:30 懇親会(桂川河原(桂大橋そば))

 19:30 解散

 

2003年5月23

59回アジア都市建築研究会。講師:重富淳一(大阪大学大学院)。
「ムンバイにおける密集地改善手法としての沿道整備に関する報告 植民地期のPMロードとプリンセスストリートにおける沿道整備事業」 ムンバイにおいて行われた既成市街地の過密化にたいする改善事業、PMロードとプリンセスストリートにおいて行われた改善事業を題材に、都市の形成・過密化から再構造化・改善の過程について報告し、現地の現状について報告する。
 ムンバイは旧大英帝国の植民港湾都市である。旧大英帝国の植民港湾都市においては、その歴史的経緯から人口増加による密集市街地の問題を抱える都市は多い。ムンバイでは、それらの植民都市のなかでも早くから過密化の問題に直面し、改善策が講じられてきた。他の植民港湾都市に先駆けて1896年にムンバイ改善トラストが作られたことや、1910年にボンベイ都市計画法が施行されるなど、当時としては先進的な取り組みがなされてきたのである。この事はムンバイが他の旧植民都市よりも過密化の問題に関して(実験的な)経験を蓄積していることを意味する。 PMロードとプリセスストリート沿道において行われた密集市街地の改善策は、19世紀末から20世紀初頭に執り行われスラムクリアランス的な手法が用いられている。このスラムクリアランス的な手法については、開発時のコスト面及びインパクトについてはゲデスによって批判がなされている。しかし、その改善策に伴う長期的な空間構成の変遷といった観点からの考察はなされていない。それらの事業が行われてから70年から100年経ち、今改めて考察しようとするものである。

2003年5月26

 毎年行っている留学生向けの授業「日本の都市と建築」。どんどん質問が飛んできて、楽しい。

 ライデン大学のアジア研究所に出した掲載原稿が送られてくる。英語のチェックを受けたものだという。

Tokyo: The Declining Capital

From its origins as a small castle town until the end of the Edo era, Tokyo’s urbanization followed an orthogenetic process. In the mid-seventeenth century Tokyo’s population numbered one million, in a league with London and Paris. By the eve of the Meiji Restoration in 1868 Tokyo resembled a huge urban village. Twice destroyed in the twentieth century – by earthquake in 1923 and aerial bombardment in 1945 – Tokyo emerged as a speculator and builders’ paradise, a true global city, in the 1980s. Today Tokyo proper counts over 12 million inhabitants while one-fourth of the Japanese population lives in the greater metropolitan area. The mega-city, warns the author, is awaiting another catastrophe.

 

By Shuji Funo

 

The politically powerful construction industry was one of the motors of rapid post-war economic growth. Relying heavily on the ‘scrap and build’ method, concrete and steel transformed the Japanese landscape. In the late 1960s, construction accounted for over 20 per cent of GDP. High growth gave way to a period of stable but lower growth in the wake of the 1973 energy crisis; heavy industries lost ground to light industries based on advanced science and technology. The focus of urban development shifted from outward expansion to the full development of already urbanized areas. Money generated by the speculative bubble of the 1980s transformed Tokyo into a global city, wired to the dynamic movements of the world capitalist economy.

 

The postmodern city: Tokyo at its zenith

The urban issues Tokyo faced in the mid-1980s were quite different from those it had faced in the past. The city had reached its limits for horizontal expansion. The ‘Tokyo Problem’ and ‘Tokyo Reform’ became pressing issues for debate: scholars and critics discussed the negative effects of Tokyo’s political, economic and cultural dominance, as well as possibilities for relocating the Japanese capital.

In the 1980s Tokyo’s status as one of the world’s financial centres attracted an unprecedented influx of foreign businessmen and workers. The resulting demand for centrally located office space and 24-hour facilities sparked a speculative building rush that dramatically transformed the cityscape. Western architects with postmodern designs were invited to give Tokyo a fashionable facelift, befitting its status as a global city.

Further urban development necessitated the search for new frontiers. The first frontier was unused public land in the city centre. Downtown properties were snapped up by investors, while large real-estate companies launched re-development projects. Many of these destroyed the fabric of existing downtown communities. The second frontier was the sky: Tokyo still had more space in the air than New York. The Manhattan Project, revived after a long hiatus, is currently renewing the central business district around Tokyo Station. The third frontier was under the ground, the so-called geo front. A project to create an underground city of 500,000 inhabitants was seriously proposed. The fourth and final frontier was the Tokyo waterfront, hitherto the home to dockyards and factories. Under the title ‘Urban frontier’, the World City Exposition Tokyo ‘96’ directed expansion towards Tokyo Bay.

New technologies, production systems, and building materials shaped Tokyo’s urban transformation. Since the 1960s air-sealing aluminium sashes have been de rigueur, meaning that all dwelling units are now air-conditioned. So-called intelligent office buildings came into fashion in the 1980s. Domed, climate-controlled stadiums allow football games to be played in the midst of storms. The daily lives of Tokyo’s citizens have become completely divorced from nature; most space in Tokyo is artificially controlled by computer. Electronic conglomerates enjoying symbiotic relations with government are prominent players in this development process. So are the large construction companies, still wielding considerable political power. Tokyo is a temporary metropolis that is constantly changing: in this repeated process of scrap and build, the city is losing its historical memory.

 

‘The 2003 Problem’

Nobody controls a global city like Tokyo; nobody knows who is behind the constant change. Something invisible, which we might call the World Capitalist System, guides the transformation of the Japanese capital.

With the glory days of the bubble economy long gone and Tokyo suffering from economic stagnation and post-bubble debt, a curious phenomenon can be observed. Along the Tokyo waterfront many new office buildings and flats are under construction. The number of high-rise flats newly built in 2002 is said to be unprecedented. Now as before, this construction is driven by the speculative activities of real estate agents and investors. While rumour of ‘The 2003 Problem’ is spreading – companies will move to the waterfront leaving old inner city office buildings unoccupied – predictable oversupply is the result of individual realtors and developers pursuing their own short-term interests, even as they know they will later suffer.

The central government has tried to influence the fluctuating annual number of dwelling units built by reforming tax incentives. The current slogans of the central government are ‘Restructuring’ and ‘Urban rebirth’. What is actually happening, however, is the hollowing out of the inner city. Ishihara Shintaro, governor of Tokyo Metropolitan Municipality, has declared sixteen policy goals, the first of which is to ‘Create an urban city that facilitates a balance of jobs and residences’. It consists of two strategies: ‘Promotion of inner city residence’ and ‘Fundamental reform of the Metropolitan housing system’. The former includes bringing workplaces and residential areas together in the suburban Tama area. The results have thus far been disappointing: the only change for most people has been their place of work. The remaining hope is that old inner city office buildings will be converted into homes.

The central government has established a special board called ‘Urban rebirth’ and has opted to deregulate building codes and urban planning laws to stimulate building activity. Local governments can now rezone areas and make decisions on the restructuring of districts. Most local governments, however, are suffering from financial pressures and lack funds to realize new projects. And while policymakers believe promoting building activity through deregulation is the only way to economic recovery, the idea seems far-fetched.

Tokyo has its natural limits; the city cannot grow indefinitely. Obviously, the city needs powerful leadership and the participation of citizens to implement new ideas. Unfortunately, while formal procedures for citizen involvement have been proposed, they do not function effectively: people seem reluctant to participate when their private circumstances are not affected. Without citizen input, ‘The 2003 Problem’ seems here to stay. Though blackouts and drought already threaten the metropolitan area each summer, the current system of the production and consumption of spaces, however, is controlled by the profit motive, not social or ecological responsibility. Tokyo, on its current course, is awaiting catastrophe.

 

Dr Shuji Funo is professor at Kyoto University and a specialist in the field of Asian design and urban planning. The Architectural Institute of Japan (AIJ) awarded him for his PhD dissertation ‘Transitional Process of Kampungs and Evaluation of Kampung Improvement Program in Indonesia’ (1991). He recently designed Surabaya Eco-House, an experimental housing project, and is now conducting research on Dutch colonial cities.

 

2003年5月30

 京都造形大の授業。吉武先生葬儀。お花を送る。ご冥福を祈る、合掌。

2003年5月31

 任期満了。

 つたない編集長日誌、ご愛読多謝。

 岐阜県加子母村の村役場での木匠塾の打ち合わせに一泊の予定で行く。中津川で藤澤好一先生、安藤先生、藤澤彰先生と待ち合わせ。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...