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2023年7月8日土曜日

2023年6月29日木曜日

景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

 景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

景観条例、全国初の勧告やむなし

                970301

 「建築物西側のバルコニーの外側の壁面から、建築基準法(昭和二十五年法律第二百一号)第四二条第一項第四号の規定に基づき指定された「都市計画道路三・三・十号袖師大手前線」の境界線までの距離を、五メートル以上確保し、その空地を高木により緑化すること」

 以上のような勧告に対して「当該勧告を受けた者がこれに従わないので、規定による公表する」との内容が県報に載った(一月三一日)。景観条例に基づく勧告が公表されたのは、全国で初めてのことである。

 幾人かの文学者が愛であげた美しい景観を誇る湖の畔(ほとり)にそのマンションは現在建設中である。九階建てのそのマンションは、当初一〇階建てで計画され、何故かこの間の経緯の中で一階切り下げられたのであるが、一見そう変わったデザインをしているわけではない。都会では一般に見かけるマンションであり、湖のある地方都市でもとりたてて珍しいわけではない。ただ、そのマンションが建つ場所が一九九一年に制定された景観条例に基づく景観形成地区に指定されているのが大きな問題であった。

 県の景観審議会は、景観自然課に届出の事前の相談があった時点から議論を重ねてきた。正式の届出がなされて以降は、建主や設計者からのヒヤリングも行った。景観審議会は原則として公開である。現在、全国二〇〇にのぼる景観審議会のなかでも先進的といえるだろう。新聞やTVの取材にもオープンである。従って、この間の経緯は全て公表されているのであるが、「勧告公表やむなし」というのが、審議会委員である筆者も含めた全員一致の結論であった。

 周知のように、景観条例は建築基準法や都市計画法に比べると法的拘束力がほとんどない。「お願い条例」と言われる由縁である。建築基準法上の要件を充たしていれば、確認申請を許可するのは当然である。裁判になれば、行政側が敗訴すると言われる。

 しかし、それにも関わらず勧告という事態になったのは、そのマンションがまさに条例の想定する要の地にあり、この一件をうやむやにすれば条例そのものの存在が意味がなくなると判断されたからである。「景観条例は一体何のためにあるのか」というのが委員共通の思いであった。

 県外の建主にとって理不尽な条例に思えたことは想像に難くない。近くには景観形成地区から外れるというだけで七五メートルの高層ビルが同じく建設中なのである。その高層ビルも景観審議会にかかったのであるが、その場合は条例の規定には抵触するところはなかった。今回は明らかに条例違反であり審議会としても認められなかったのである。

 景観形成上極めて重要な場所であり、公的な利用が相応しい敷地である。だから、公共期間が買収するのが最もいい解決であり、審議会委員の大勢もそうした意見であった。県にはそのための基金もあるのである。しかし、買収価格をめぐって折り合いがつかなかった。

 問題は、階数を削ればいいだろうと、建主が着工を強行したことである。その行為は「お願い条例」である景観条例の精神を踏みにじるものであった。地域のコンセンサスを得る姿勢が欲しかった。

 景観条例に基づく勧告公表は不幸なことである。その結果、景観条例の精神が貶められたのを憂える。しかし、一方、法的根拠をもつより強制力のある景観条例を求める声が高まるのを恐れる。それぞれ地域で、よりよい景観を創り出す努力が行われること、その仕組みを創りあげることが重要であって、条例や法律が問題ではないのである。

2023年3月22日水曜日

布野修司編:建築.まちなみ景観の創造,建築・まちなみ研究会編(座長布野修司),技報堂出版,1994年1月(韓国語訳 出版 技文堂,ソウル,1998年2月)

 『建築・まちなみ景観の創造』(韓国版)への序文

布野修司


 本書が趙容準博士を中心とするグループによって韓国語に翻訳されることを大変うれしく思います。本書が韓国の美しいまちなみ景観の創造のために寄与することを心から願います。

 論文でも述べましたけれど、景観は、本来それぞれの地域で固有な特性をもっています。それぞれ固有の土地(生態環境)に住む人々の生活が景観をつくりあげます。景観はそれぞれの地域の文化の表現だと思います。

 しかし一方、近代化の波が世界を襲い、地域に固有な景観は次第に失われつつあるように思います。寂しいことです。そうした中で、私たちはどのように対処すればいいのか、考えようとしたのが本書です。きっと、韓国でも同じような問題があるのだと思います。

 韓国のいろいろのまちや村を歩いたことがあります。それぞれ独特の景観を感じることができます。一方、日本と比較すると韓国の景観の共通の特徴も感じます。また、日本と似ていると思うような景観もあります。もしかすると、アジアに共通するような特性も議論できるかもしれません。地域毎に固有な景観なのですが、それを受け取る景観感覚(センス・オブ・ランドスケープ)には共通なものがあるのかもしれません。また、風水説は東アジアの景観についての共通の基礎を与えているのかもしれません。さらに、アジアに視野を広げて見る必要もあるでしょう。カオスのような、サラダボールのようなと形容される都市景観は、ヨーロッパとは異なったアジアに共通な特性であるように思います。

 本書は日本のコンテクストについてのみ書かれているのですが、本書の韓国誤訳を機会にもう少し広い視野で景観の問題を考えて見ようと思っています。

 もちろん、大事なのはそれぞれの地域で創造性を豊かな町並みを創り上げていく仕組みです。日本でも様々な試みを展開しようと思っているのですが、韓国でもユニークな取り組みを期待したいと思います。

                                           1996年10月1日

2023年2月24日金曜日

明日の都市デザインへ,雑木林の世界82,住宅と木材,199606

 明日の都市デザインへ,雑木林の世界82,住宅と木材,199606


雑木林の世界82

明日の都市デザインへ

布野修司

 

 (財)国際技能振興財団(KGS)の設立総決起大会(四月六日)は大盛会であった。現職大臣四名と元首相、国会議員が秘書の代理も合わせると三十有余名、住専問題で大変な国会の最中にも関わらずの出席であった。職人一二〇〇名の大集会というのは、大袈裟に言えば戦後、否、近代日本の歴史になかったことではないか。職人大学の実現に向けての動きもさらに加速されることになる。

 KGSには評議員で参加することになったのであるが、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)は全面的にKGSを支えて行くことになる。

 KGSの最初の仕事はスクーリングである。茨城で六月二日から一週間の予定だ。茨城は、ハウジングアカデミーで親しい土地柄である。第一回のスクーリングが茨城となるのも何かの因縁であろう。

 茨城ハウジングアカデミーも参加してきた木匠塾は、SSF、KGSの動きと連動しながら今年も準備中である。加子母村(岐阜県)にウエイトを移しながら、また、学生の自主性にウエイトを移しながら、新たな展開が期待される。バンガローの建設など実習プログラムに村は全面協力の姿勢である。

 

 去る四月二四日、「明日の都市デザインへ」と題した三和総合研究所(大阪)の「都市デザインフォーラム」に参加する機会があった。『明日の都市デザインへーーー美しいまちづくりへの実践的提案』という報告書がまとまり、コメントして欲しいということで出かけたのである。

 「都市デザインへの提案~アーバン・アーキテクト制をめぐって~」ということで、景観問題について、昨年の全国景観会議(一九九五年九月 金沢)の際の基調講演とそうかわらない話でお茶を濁したにすぎないのであるが、報告書そのものはなかなかに刺激的であった。というのも、その報告書の中には全国の景観行政、都市デザイン行政の様々な取り組みが集められているからである。理念や条例やマニュアルよりも様々な試行錯誤が興味深いのである。

 例えば、景観資源に関する調査として、「校歌に歌われる山、川」を調べたり、言葉のアクセントの分布を明らかにした例がある(栃木県)。市街地における湧水の分布を調べたり(八王子市)、海からの景観把握を試みたり(下関市)、必ずしもマニュアルに従ってワンパターンというわけではないのである。

 景観行政は、あるいは景観問題へのアプローチはまずデザイン・サーベイからというのは持論である。「タウン・ウオッチング」でも「路上観察」でも、身近な環境を見つめ直すことが全ての出発点であり得る。

 先の報告書は、実践的都市デザインの提案として、一連のプロセスを提示している。

 『建築・街並み景観の創造』(技法堂)をまとめた段階では極めて素朴であった。具体的内容は著書に譲りたいけれど、「景観形成の指針ー基本原則」として、地域性の原則、地区毎の固有性、景観のダイナミズム、景観のレヴェルと次元、地球環境と景観、中間領域の共有といったことを考え、景観形成のための戦略として、合意形成、ディテールから、公共建築の問題、景観基金制度などを検討してきたにすぎない。しかし、報告書は豊富な事例とともに大きなフレームを提示してくれている。大助かりである。実践的提案の部分を具体的に紹介しよう。

 全体のプロセスは、意識醸成→企画・計画→実践→評価→という螺旋状のプロセスとして想定されている。各プロセスのポイントは以下のように整理される。

 

Ⅰ 意識醸成         

  ①デザイン・サーベイの実施

 ②行政主導のコンセンサスづくり:住民参加型都市デザインの誘導

 ③キーパーソンの発掘と育成

 ④戦略的情報発信

Ⅱ 企画・計画           

  ①コンテクストを生かしたデザイン計画

 ②インセンティブの付与

 ③すぐれたデザインを誘発する発注方式

 ④デザイン誘導しやすい事業手法

Ⅲ 実践       

  ①デザインをコーディネートする「人」:アーバン・アーキテクト制度

 ②デザインと意志決定のオープンシステム

 ③行政のイニシアチブとデザイン誘導

 ④建築と環境のコラボレーション

 ⑤地域特性やデザインの目的に合致した「アート構築物」のデザイン

 ⑥技術の伝承とクラフトマンシップの再認識

 ⑦工業製品の活用と「固有性」への対応

Ⅳ 効果           

  ①評価

 

 こうして項目だけ並べても伝わらないのであるが、それぞれに具体的な事例をもとにしたアイディアの提案があるわけである。実践的提案を唱うそれなりの自負がそこにはある。このシナリオ通りに都市デザイン行政あるいは景観行政が動いて行けば日本の都市(まち)づくりは面白い展開をしていく可能性がある。少なくとも様々なヒントがある。

 ただ、最終的に問題になるのはこのシステムを動かしていく仕組みである。上で言う、「人」の問題である。あるいは、行政と住民との関係の問題である。都市デザインに関わる意志決定システムをどう具体化するかである。

 地方自治の仕組み全体に関わるが故にその仕組みの提案は用意ではない。しかし、報告書は面白い海外の事例をあげている。

 シュバービッシュ・ハル市には、二人の副市長がいて一人は建築市長なのだという。また、ミュンヘン市にはアーバン・デザイン・コミッティーがあって、デザインの調整を行っているという。構成メンバーは、フリーの建築家四人、都市計画課職員三人、建築遺産課職員一人、州の建築遺産課職員一人の八人で三年毎にメンバーを入れ替えていく。権威主義的なメンバーは排除されるのだという。

 日本の風土の中でアーバン・アーキテクト制はなかなか動かない。しかし、百の議論よりひとつの事例は変わらない指針である。

 






2023年2月3日金曜日

町全体が「森と木と水の博物館」,雑木林の世界59,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199407

 町全体が「森と木と水の博物館」,雑木林の世界59,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199407

雑木林の世界59

町全体が「森と木と水の博物館」

鳥取県智頭町のHOPE計画始まる

 

                布野修司

 本誌四月号(雑木林の世界  )でも触れたのだけれど、建設省の「HOPE計画」(地域住宅計画 HO           P      E         )は昨年十周年を迎えた。建設省の施策として1983年に開始され、この10年で、200に迫る自治体がこの施策を導入してきた。地域にこだわる建築家やプランナーであれば、おそらく、どこかの計画に関わった経験がある筈である。そのHOPE計画の十年を記念し、各地の試みを振り返る『十町十色 じゅっちょうといろ HOPE計画の十年』が出版された(HOPE計画推進協議会 財団法人 ベターリビング 丸善 1994年3月)。

 『十町十色』をみると、HOPE計画の内容と各市町村の具体的な取り組みは実に多彩だ。「たば風の吹く里づくり」(北海道江差町)、「遠野住宅物語」(岩手県遠野市)、「だてなまち・だてないえー生きた博物館のまちづくりー」(宮城県登米町)、「蔵の里づくり」(福島県喜多方市)、「良寛の道づくり」(新潟県三条市)、「木の文化都市づくり」(静岡県天竜市)、「春かおるまち」(愛知県西春町、「鬼づくしのまちづくり」(京都府大江町)、「ソーヤレ津山・愛しまち」(岡山県津山市)、「なごみともやいの住まいづくり」(熊本県水俣市)等々、思い思いのスローガンが並ぶ。「たば風」とは、冬の厳しい北風のことである。「もやい」とは、地域の伝統的な相互扶助の活動のことである。地域に固有な何かを探り出し出発点とするのがHOPE計画の基本である。

 その『十町十色』に、「地域の味方」と題して一文を寄稿したのであるが、その最後で次のように書いた。

 「HOPE計画を実際にやってみないかという話しがありました。鳥取県は八頭郡の智頭町です。智頭は杉のまちとして知られます。以前、「智頭杉・日本の家」コンテストの審査で関わったことがあるのですが、その後の智頭活性化グループ(CCPT)のめざましい活動にも注目してきました。少し手がけてみようかなという気になりつつあります。十年後を期待して下さい。」。

 「十年後を期待して下さい」といってはみたものの未だに自信はあるわけではない。しかし、この半年の議論でおよそ方向性が見えてきた。以下に、そのイメージについて記してみよう。HOPE計画策定委員会のまとめではなく、全く個人的な見解である。

 「町全体が「森と木と水の博物館」」で「町民全員が学芸員」というのが基本的なコンセプトなのであるが、


2023年2月1日水曜日

松江城周辺の建築物の高さを規制するべきか,否か,雑木林の世界57,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199405

 松江城周辺の建築物の高さを規制するべきか,否か,雑木林の世界57,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199405


雑木林の世界57

 松江城周辺の建築物の高さを規制するべきか,否か

 

                布野修司

 前回報告した「地域の住宅生産システムーーこの十年」と題されたシンポジウムに続いて、「文明の地域性」という、とてつもないタイトルのシンポジウムに出席する機会があった。文部省の重点領域研究「総合的地域研究」の一環で3月2日、3日の二日間にわたって、東大の山上会議所で開かれたものだ。「文明と地域性」ではなくて、「文明の地域性」である。文明というのは、諸文明というように複数の存在がありうるのか。文明と文化とはどう違うのか、と次々に疑問が湧いてくるのであるが、「地域と生態環境」、「地域性の形成論理」、「地域発展の固有論理」、「外文明と内世界」、「地域連関の論理」、「外世界から」と個々のセッションの報告はそれぞれ魅力的であった。

 基本的な問いは必ずしも明かにならなかったのであるが、どうも、文明化の地域性、文明の地域化のプロセスが問題らしかった。とにかく、論客を集めて、なかなかに刺激的であった。一応、東南アジア地域が主たる研究対象だから、知的な情報も有り難かった。南米のスリナムがオランダの植民地で、多くのジャワ人が移住していたという歴史的事実など全く知らないことであった。とにかく痛感したのは、地域性の問題がジャンルを超えた大きな問題であり、グローバルな文明史的な課題でもあることである。

 ところで、それはそれとして、近年になく面白いシンポジウムの司会を務めた。以下に紹介しよう。各地で、どんどん行われると面白いと思う。

 「ディベートによるモデル討論会」と主催者は呼ぶのであるが、「ディベートとは、特定の話題に対し、肯定と否定の二組に別れて行なう討論のやり方」で、「活発な議論が期待されるモデル討論会として、肯定と否定の組分けを、参加個人の主張とは無関係に役割として割り当てて行なうことにする」というものである。

 具体的にテーマとされたのは、「松江城周辺の建築物の高さを規制するべきか、否か」というテーマである。「市街地景観セミナー」のワンパートとして企画されたものである(3月12日 於:島根県民会館 松江市)。

 一九九二年度、島根県市街地景観形成マニュアル作成委員会の委員長として、「魅力ある建築景観づくりのためにー市街地景観形成の手引き」と題されたリーフレットを作成した経緯もあって、司会をやれということであった。直感的には面白い、と思ったのであるが、いささかしんどいな、という気もしないではなかった。実を言えば、実際、松江市の城山周辺で八階建てのマンション建設をめぐる「紛争」が昨年秋から続いており、モデル討論とは言え、かなりのリアリティーを持って受けとめられることは明らかだったからである。

 ディベーターは、規制に賛成、反対、それぞれ三人ずつ六人、鬼頭宏一(島根大学法学部)、湯町浩子(島根総合研究所)、原田康行(創美堂)、長谷川真一(長谷川染物店)、石原幸雄(石原建築設計事務所)、足立正智(建築設計事務所飴屋工房)の各氏である。

 ディベートに先だって、塩田洋三(島根女子短期大学)、矢野敏明(島根県建築士事務所協会理事)の両氏から、島根の景観についての講演があった。実は、「魅力ある建築景観づくりのためにー市街地景観形成の手引き」を作成する際に、建築士事務所協会会員たちは、島根県中の景観を撮影する作業を行っており、そのスライドを用いたわかりやすい講演であった。身近な環境を見直す意味でも、その景観を記録する意味でも、貴重な作業であったのであるが、折角の作業をこうしたセミナーの場で活かそうというねらいも面白いと思った。

 ディベートは、規制賛成派の冒頭陳述で始まった。アイデンティティー論が主軸であった。松江らしさ、松江の固有性にとって松江城周辺は極めて重要であること、京都、奈良に続く国際文化観光都市としてのアイデンティティーを保持すべきであるという主張であった。また、美の根源はコントロールにあり、というテーゼも出された。

 それに対して、規制反対派は、すぐさま活性化論を対置した。都心の空洞化をどうするのか、歴史的遺産を保護するのは当然だけれど、都心こそ開発すべきであるという。また、規制ではなく、生きたルールこそ大切だという主張に重点が置かれた。

 高層化は空洞化対策にはならない、地上げによって空洞化がますます進行するだけだという反論がすぐ出された。また、現行の規制は最低基準であって、公共の福祉を業者の利潤追求から守るために松江はもっと強化すべきだという論調が重ねて出された。

 司会は思ったより大変であった。双方に対する反論をメモしながら討論を聞き、噛み合わせるのは容易なことではないのである。

 模擬裁判というのがある。検察官と弁護人がいて論理を闘わせる。そして、裁判官役が判決を下す。しかし、この場合、判決を下すわけにはいかない。あくまで、景観問題の多様な広がりを多角的に考える素材を提供するのが目的である。

 どっちかが明らかに優勢になっても困る。しかし、司会者がどちらかに肩入れしてもまずい。せいぜいできることは、発言の時間が偏らないようにすることぐらいである。また、少しづつ論点をづらして、決着がつかないようにすることも必要かと思われた。しかし、途中から楽になった。ディベーターが充分場を盛り上げてくれたからである。

 市民の意識は高い、規制をする必要はない、という主張に対して、市民の意識は低い、といったかなり思い切った発言も飛び出したのである。

 ディベートに先だって提出された聴衆の意見をみるとそのほとんどが何らかの規制が必要であるという意見であった。しかし、どの程度の高さならいいのか、具体的にどのような地区区分をすればいいのかについては必ずしもはっきりしない。

 規制反対派が、あくまであらゆる規制について反対という以上、規制の中味については具体的な議論に入れなかったのであるが、丁々発止のやりとりは、司会をしながらも、結構楽しむことができたのであった。

 ディベートを終えて、各地区でこうした試みをやったらどうかという話になった。景観問題をめぐってはとにかく議論が必要であると思ってきたのであるが、こうしたディベート形式は問題を掘り下げる上でかなり有効ではないか。

 皆さんの地域でも、こうしたモデル討論を企画してみたら如何だろう。賛成反対の役割はあくまで籤で決める。論理のみ闘わせるのは、地域の訓練としてとてもいいと思う。

 


2022年12月27日火曜日

望ましい建築まちなみ景観のあり方研究会,雑木林の世界35,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199207

 望ましい建築まちなみ景観のあり方研究会,雑木林の世界35,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199207

雑木林の世界35

望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会

 

                         布野修司

 

 昨年暮れから今年の五月にかけて「望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会」という数回の集まりの座長をつとめた。建設省の小さな研究会でほとんどノルマのない自由な放談会の趣があったが、「景観問題」について随分と教えられることの多い研究会であった。

 京都は今再び「景観問題」で揺れている。およそ事情が呑み込めてきたのであるが、解れば解るほど難しい。そうしているうちに、松江市(島根県)から「景観対策懇談会」に加わるようにとの話があった。「まちの景観を考える」シンポジウム(6月6日)にも出てきて意見を言って欲しいとのこと。なんとなく、というより、否応なく、「景観」について考えざるを得ない、そんな羽目に陥りつつあるのが近況である。

 何故、景観問題か

 この十年、景観問題が方々で議論されてきている。各地でシンポジウムが開かれ、様々な自治体では、条例や要綱がつくられつつある。全国で半数以上の自治体に都市景観課、都市デザイン室、景観対策室などが設けられたと聞く。景観賞、都市デザイン賞など、顕彰制度も既に少なくない。建設省でも、都市景観形成モデル都市制度(一九八七年)、うるおい・緑・景観モデルまちづくり制度(一九九〇年)などの施策を打ち出してきている。何故、景観なのであろうか。

 まず、素朴には、古き良き美しい景観が失われつつあり、破壊されつつあるという危機感がある。もちろん、自然景観や歴史的町並み景観をめぐる議論はそれ以前からある。しかし、一九八〇年代のバブルによる開発、再開発の動向は、危機感を一層募らせてきた。また、日本の都市景観は美しくない どうも雑然としている 西欧都市に比べて日本の都市は見劣りがする、という意見もある。

 しかし、おそらく一番大きいのは、経済大国になったというけれど生活環境は果たして豊かになったのか、という疑問であろう。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すのみで、ちっともストックにならない。歴史的に町並みが形成されていくプロセスがない。望ましい建築・まちなみ景観を形成維持して行くためにはどうすればいいのか、少なくとも建築の世界においては大きなテーマになってきたのである。

 景観とは何か

  ところで景観とは何か。このところ「景観」とか「風景」をテーマにした本が目につく。そのこと自体、「景観」が一般にも大きな関心事となっていること示すのであるが、内田芳明氏の『風景とは何かーーー構想力としての都市』(朝日新聞社 一九九二年 他に 『風景の現象学』 中公新書 一九八五年 『風景と都市の美学』 朝日選書 一九八七年など)によれば、「景観」とは「風景」を「観」ることである。「景観」が自己中心の主観的な身勝手な見方、対象の部分を断片化する見方であるとすると「風景」は土地土地で共有された見方である。ヨーロッパでは、風景(landscape landchaft)とは「土地」、「地域」のことだという。中村良夫氏の『風景学入門』(中公新書 一九八二年)によれば、「風景とは、地に足をつけて立つ人間の視点から眺めた土地の姿である」。

 「風景」とは、風情=情景であり、心情(なさけ こころ)が入っている。風土、風、風化、景色、光景、・・など類語をさぐりながら「風景」の意味を明らかにするのが内田氏であるが、景観問題とは、そうした地域=風景が破壊されつつあることにおいて意識され始めた問題であるということができるであろう。

 景観問題を引き起こすもの

 景観問題を引き起こすものは何かというと、例えば、全国一律の法制度がある。大都市も小都市も、同じ規制という日本のコントロール行政は大いにその責任があるだろう。建築家だってかなりの責任がある。やたら新奇さを追うだけで、風景の破壊に荷担してきた建築家は多いのである。

 そもそも近代建築の論理、理念と風景の論理は相容れない。鉄とガラスとコンクリートの四角な箱型の建築は、もともとどこでも同じように成立する建築を目指したものである。国際様式、インターナショナルスタイルがスローガンであった。合理性、経済性の追求は、結果として、色々なものを切り捨ててきたことになる。その論理に従えば、本来地域に密着していた風景が壊れるのは当然のことなのである。

 近代建築は面白くないといって喧伝されてきたポストモダニズムの建築もかえって都市景観の混乱を招いたようにみえる。徒に装飾や様式を復活すればいいというものではない。地域性の回復ということで全国同じように入母屋御殿が建つというのも奇妙なことである。

 景観形成の指針とは

 景観、ここでいう風景を如何に形成していくかについては少なくとも以下のような点が基本原則となろう。

 ●地域性の原則 地域毎に独自の固有な景観であること

 ●地区毎の固有性 地区毎に保存、保全、修景、開発のバランスをとること

 ●景観のダイナミズム 景観を凍結するのではなく、変化していくものとして捉えること

 ●大景観 中景観 小景観という区分 景観にも視点によって様々なレヴェルがある

 ●地球環境(自然)と景観  自然との共生

 具体的にどうするか、ということで、まず、前提となるのは、どのような景観が望ましいかについて常に議論が行われ、地域毎に、あるいは地区毎に共通のイメージが形成されることである。地域の原イメージを象徴するものとはなにか、その地域にしかないものとは何か、その地域には要らないものは何か、等々議論すべきことは多い。

 次に原則となるのは、身近かな問題から、できることからやるということである。議論ばかりでは進展しないし、景観というのは日々変化し、形成されるものである。清掃したり、花壇をつくったり、広告、看板を工夫したり、といったディテールの積み重ねが重要である。

 建築行政としては、いいデザインを誘導することが第一であるが、地区モニター制度、景観相談、景観地区詳細提案など制度として検討すべきアイディアが色々ありそうである。






 

 


2022年10月10日月曜日