第八章 コラム:文化的景観
ユネスコの世界遺産委員会が「世界遺産条約履行のための作業指針」の中に「文化的景観」の概念を盛り込んだのは1992年である。ユネスコの文化的景観には,庭園のように人間が自然の中につくり出した景色,あるいは田園や牧場のように産業と深く結びついた景観,さらには自然それ自体にほとんど手を加えていなくとも,人間がそこに文化的な意義を付与したもの(宗教上の聖地とされた山など)が含まれる。文化的景観として登録された世界遺産の第1号は,トンガリロ国立公園(ニュージーランド)である[1]。日本もこの流れを受け,「文化的景観」を有形文化財,無形文化財,民俗文化財,記念物,伝統的建造物群に続く6つ目のカテゴリーとして文化財保護法に取り入れることになるが(2004年)、新たに保護の対象とした「文化的景観」は,「地域における人々の生活又は生業及び当該風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のために欠くことのできないもの」と定義される[2]。
アラビア半島のオアシス都市に住む人々は,沙漠に遠足に行くのを楽しみにしているのだという。日本人の感覚からするととても理解できない。しかし,世界には様々な土地そして景観がある。ここでは「文化的景観」について考えてみよう。景観とは「土地の姿」であり,日本も北から南まで,様々な景観がある。「日本の景観」ということで一括できるかどうかは日本文化の問題となる。「日本」を,どこか別の地域「○○」(例えばアラビア半島,例えばブラジル)に置き換えても,基本的に同じことが問題になる。土地を越えて伝播するものが「文明」であるとすれば,土地に拘束されるのが「文化」である。景観を考えることは,日本のみならず世界の「土地の姿」を考えることである。
風水
中国には古来、風水説がある。土地をどうとらえるか,どうかたちづくるかについて,極めて実践的な知,あるいは術の体系とされるのが風水説である。中国で生まれ,朝鮮半島,日本,台湾,フィリピン,ヴェトナムなど,その影響圏は中国世界周縁にも拡がる。「風水」は,中国で「地理」「地学」ともいう。また,「堪輿」「青烏」「陰陽」「山」ともいう。「地理」は「天文」に対応する。すなわち,「地」すなわち山や川など大地の「理」を見極めることをいう。「堪輿」は,もともと吉日選びの占法のことで,堪は天道,輿は地道を意味する。「陰陽」は,風水の基礎となる「陰陽論」からきており,「青烏」は,『青烏経』という,伝説上の風水師・青烏子に仮託された風水書に由来する。「山」は,「山師」の「山」である。山を歩いて(「遊山」「踏山」),鉱脈,水脈などを見つけるのが「山師」である。
「風水」は,「風」と「水」であり、端的には気候を意味する。風水の古典とされる郭璞(276~324)の『葬経』に「風水的首要原則是得水,次為蔵風」という有名な典拠があるが、風水の基本原理を一言で言い表すのが「蔵風得水」(風をたくわえて水を得る)である。また,風水の中心概念である「気」は、「夫陰陽之気噫為風,弁為動,斗為雷,降為雨,行乎地中而為生気」、陰陽の「気」が風を起こし,動きを起こし,雷を鳴らし,雨を降らし地中に入って「生気」となる,と説明される。
風水説は,この「気」論を核に,陰陽・五行説,易の八卦説を取り込む形で成立する。管輅(208~256)ならびに上述の郭璞が風水説を体系化したとされるが,とくに江西と福建に風水家が多く輩出し流派をなした。地勢判断を重視したのが形(勢学)派(江西学派)で,羅経(羅盤)判断を重視したのが(原)理(学)派(福建学派)である。
風水説は,近代においては「迷信」あるいは「疑似科学」すなわち科学的根拠に欠けるものとして位置づけられてきたが,この間,その見直しが進められ,建築,都市計画に関連しては,風水説を環境工学的に読み直す多くの書物が著されつつある。風水説の理論的諸問題についてはそうした少なからぬ書物に譲ろう。
風土記
「風水」とともに「風土」という言葉がある。すぐさま思い起こされるのは「風土記」であろう。唯一の完本である『出雲風土記』を見ると,まず出雲国の地域区分がなされ,それぞれの「郡」「郷」について,その地名のいわれ,地形,産物などが列挙されている。まさに「土地の姿」である。「風」は,空気の流れであるが,季節によって異なり,様々な気象現象を引き起こす。風土は,単なる土地の状態というより,土地の生命力を意味する。土地は,天地の交合によって天から与えられた光や熱,雨水などに恵まれているが,生命を培うこれらの力が地上を吹く風に宿ると考えられてきたのである。
風土すなわち土地の生命力が土地毎に異なるのは当然である。『後漢書』にはそうした用法が見え,二世紀末には『冀州風土記』など,風土記という言葉を用いる地誌が現われる。風土という言葉は,英語にはクライメイトclimate(気候)と訳される。クライメイトの語源であるクリマKlimaは,古代ギリシアで傾きや傾斜を意味した。それが気候や気候帯を意味することになったのは,太陽光線と水平面とのなす角度が場所ごとに変わることからである。風土をどうとらえるか,どう捉えてきたのか,については,あらゆる学問分野が関与する。景観あるいは風景,自然あるいは風土という言葉をめぐる著作に数限りがないのは,土地のあり方ひいては社会の根底,基盤に関わるものがそこにあるからである。
八景
江戸時代の半ば,享保年間に,「五機内」の「国」について,それぞれ,その沿革,範囲,道路,形勝,風俗を,また,郡ごとに,郷名,村里,山川,物産,神社,陵墓,寺院,古蹟,氏族などを記述した「五畿内」に関する最初の総合的地誌となる『日本輿地通志畿内部』(『五機内志』)全61巻(1734)がまとめられている。風土,風水によって,土地あるいは地域を把握する伝統は,江戸時代にも継承されていることを知ることができる。
そして,近世末にかけて,日本の景観享受のひとつの作法ができあがってくる。まず,「近江八景」を先駆として,景勝地を数え上げることが行われ出す。それとともに葛飾北斎(1760~1849)の『富嶽三十六景』のような風景画が登場する。そして、景勝地を比較観察して,それぞれの価値や品格を論評する,古川古松軒(1726~1807)の『西遊雑記』(1783頃),『東遊雑記』(1788頃)といった著作が現れ始める。
「近江八景」は、中国の「瀟湘八景」[3]あるいは「西湖十景」などにならったものである。「瀟湘八景」とは,洞庭湖(湖南省)に流入する瀟,湘二水を中心とする江南の景観が,宋代に,画題として,詩的な名称とともに8つにまとめられものをいう。
『日本風景論』
日本の景観あるいは風景に関する古典的著作として決まって言及されるのが,志賀重昴(1863~1927)の『日本風景論』(1894年)である。
『日本風景論』は,日本風景の特性を大きく「日本には気候,海流の多変多様なる事」(2章)「日本には水蒸気の多量なる事」(3章)「日本には火山岩の多々なる事」(4章)「日本には流水の浸食激烈なる事」(5章)と4項目に分けて記述するが、ひたすら日本の風景を美しい,と唱える。志賀は,平均気温や降水量の分布図を示したこの著書によって,日本の近代地理学の祖とも目される。『地理学講義』(1919)の他,『河及湖沢』(1901),『外国地理参考書』(1902),『世界山水図説』(1912),『知られざる国々』(1926)などを著わしている。志賀重昴は,1886年に,海軍兵学校の練習鑑「筑波」に従軍記者として乗り込み,10ヶ月にわたって,カロリン諸島,オーストラリア,ニュージーランド,フィジー,サモア,ハワイ諸島を巡っている。その後も,志賀は,台湾,福建,江南(1899),南樺太(1905)などへの踏査を続けるが,1910年には,アフリカ,南アメリカ,ヨーロッパなど世界周遊の旅を行っている。また,1912年には,アメリカ,カナダにも渡り,1922年には,世界周遊の旅を再び行っている。志賀の一連の著作は,当時の日本人としては類のない広範な世界見聞に基づくものであった。
世界の風土を大きく「モンスーン的風土」「沙漠的風土」「牧場的風土」の3つに分けて論じたのが,風土論の古典とされる和辻哲郎の『風土』(1935)である。この3類型は,土地の姿をもう少し細かく見ようとするものにとっては,いささか大まかであるが,沙漠型という一項を介在させることにおいて,西欧vs日本という単純な二項対立は逃れており、戦後の,梅棹忠夫の「文明の生態史観」,中尾佐助,上山春平らの「照葉樹林文化論」などにつながっていく。高谷好一の「世界単位論」などを含めて,キーワードとなるのが,風土であり,生態圏である。
こうして景観論,風景論は,「日本」という枠組みを超えていく。その方向で要請されるのは,モンスーン地帯,稲作文化圏,照葉樹林文化圏といった大きなフレームである。そして一方,日本の中でもそれぞれの地域の差異,土地の微地形,微気候を見極めるミクロなフレームが必要となる。
景観の構造
風景の基礎となる土地の物理的形状の視覚的構造,すなわち景観の構造を明らかにするのが、樋口忠彦の『景観の構造』(1979)であり、『日本の景観』(1981)である。
『景観の構造』は,第1に「ランドスケープの視覚的構造」を問題にしている。すなわち,景観の視覚的見え方を,①可視・不可視,②距離,③視線入射角,④不可視深度,⑤俯角,⑥仰角,⑦奥行,⑧日照による陰陽度,の8つの指標において捉える。
視覚の対象としての景観は,まず,見えるか見えないかが問題である(①)。景観は,視点からの距離によって異なり(②),近景,中景,遠景といった区別が一般的に行われる。この距離による見え方は,空気が乾燥し澄みきった日には遠くの山々が近くに見えるなど,天候など大気の汚濁度によって異なる。この原理を活かした「空気遠近法」という絵画の手法は古くから用いられてきた。視線入射角とは,面的要素と視線とのなす角度をいう(③)。視線に対して平行な面は見にくく,垂直な面は見やすい。不可視深度あるいは不可視領域というのは,視点の前にある対象物によって,視点からある地点(領域)がどの程度見えないかを示す指標である(④)。俯角(⑤),仰角(⑥)は,俯瞰景,仰観景に関わる。奥行き(⑦)は,連続的平面の前後の見え方に関わる。日照による陰影(⑧)も遠近に関わる。
『景観の構造』は,続いて,「日本において見られる地形の類型を7つに分類する。すなわち,①水分神社型,②秋津洲やまと型,③八葉蓮華型,④蔵風得水型,⑤隠国(隠処)型,⑥神奈備山型,⑦国見山型の7つである。①は山々や丘陵の間を川が抜け,山地から山麓の緩傾斜地に移って平地に開ける景観,②は四周を山々に取囲まれた平野部の景観,③は同じように四周を山々に取囲まれるが,平野部からは隔絶した山中の聖地,④は風水にいう「蔵風得水」のかたち,三方を山々に囲まれ南に拓いた景観,⑤は峡谷の上流に奥まった空間,⑥は神奈備山として仰ぎ見られる景観,⑦は山・丘陵から見下ろす景観である。
地形は,あらゆる人工構築物が「図」として立ちあらわれてくる「地」であり,土地の景観を考える上では,まず,地形のあり方,地形の空間的構成を問題にする必要がある。自然の地形は,必ずしも,単なる「地」ではなく,「図」としての意味を付与され,人工構築物(神社,仏閣,集落,都市)の建設にあたっては,地形のあり方を前提として選地がなされ,設計されるのが一般的であった。『景観の構造』で示された日本の地形の7つの空間的型は,歴史的・伝統的に大きな意味を持ち,日本の心象風景となってきた。
都市景観
さて以上のように,日本の風景,景観をめぐる諸説,議論は,基本的には,自然景観を対象とするものであった。
日本の景観の歴史的層を大きく振り返ると,第1の景観層は,日本列島の太古に遡る自然景観の基層である。『風土記』が記載した世界の景観は縄文時代に遡るが、それ以前の日本列島の景観は,「日本」という枠組みが形成される以前の景観の古層である。
そして,水田耕作が開始され,日本の農耕文化がほぼひとつの文明の完成に達した時点で現れた景観が第2の景観層である。18世紀末から19世紀初頭の日本には,わずかばかりの畜力のほかは,すべて人力でつくりあげた景観ができあがっていた。今日,日本の景観の原点として振り返られるのはこの景観層である。
明治に入って,日本の景観に新たな要素として,西欧風の建造物が持ち込まれる。開港場と呼ばれた港町(築地,横浜,神戸,長崎,新潟など)に諸外国との外交,交易のために建てられた諸施設がその先駆である。大工棟梁の清水嘉吉が木造で西洋風の建物として建てた「築地ホテル」は「擬洋風」と呼ばれる。やがて,銀座煉瓦街の建設や日比谷官庁集中計画など,洋風の都市計画が始められた。また,産業基盤を支える道路整備や鉄道の敷設,ダムの建設などが日本の国土を大きく変えていく端緒となった。この新たな都市景観の誕生が日本の景観の第3の景観層を形成することになる。
江戸時代までの都市の景観は,江戸,大阪,京都といった大都市も含めて,第2の景観層に溶け込んでいたとみていい。人口百万人を擁した江戸にしても「世界最大の村落」と言われるように,農村的景観に包まれていたし,街並み景観をかたちづくる建物も,木,土,石,紙など基本的に自然材料によってつくられていたから,その色彩にしても一定の調和が保たれていた。そして,この都市景観は,少なくとも昭和戦前期まで緩やかに維持されていた。
西欧においても,ランドスケープを基にしてシティスケープという言葉が初めて用いられたのは1856年,タウンスケープにいたっては1880年という。市区改正という言葉に関連して前章(Ⅰ-1)で触れたが,都市計画Town Planning,City Planning, Urban Planningという用語は,さらに新しく,都市のレイアウトThe Laying Out of Townという言葉が始めて使われたのは1890年のことだった。都市景観が問題になるのは20世紀以降のことである。
明治に入って,全く新たな建築様式が持ち込まれ,定着していくことになるが,鉄とガラスとコンクリートによる建築が一般化していくのは1930年代以降である。日本の近代建築は,明治期をその揺籃の過程とし,昭和の初めにはほぼその基礎を確立することになる。そして,日本の近代建築は,15年戦争期によってその歩みを中断され,戦後になって全面開花することになる。
[1] 日本の世界文化遺産,紀伊山地の霊場と参詣道(2004年)そして石見銀山遺跡(2007年),さらに富士山(2013年)も文化的景観として登録されたものである。
[2] 2006年に,滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」が重要文化的景観第1号。以後,2014年3月現在で合計43件が選定されている。
[3] 瀟湘とは,洞庭湖から瀟水と湘水が合流する辺りまでの湖南省長沙一帯をいう。風光明媚で知られるが,様々な伝説や神話にも彩られる。桃源郷の伝説もこの一帯から生れた。
0 件のコメント:
コメントを投稿