西山夘三論序説Ⅰ 新興建築と住宅・・西山夘三の初期建築論,建築文化,彰国社,199410(布野修司建築論集Ⅲ収録)布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー』(彰国社・1998年)
西山夘三[i]1論序説
Ⅰ.新興建築と住宅・・・西山夘三の初期建築論[ii]2
はじめに
西山夘三先生が亡くなった一九九四年四月二日、僕はインドのジャイプールにいた。何故、ジャイプールか、西山先生に報告し、議論する機会が永久に失われたことを実に残念に思う。
西山先生とは不思議な縁である。これまで三度、公式に対談、インタビューする機会があった[iii]3。直接面識を得る以前から、著書を上梓したり、論文を書いたりする度に厳しい批判と励まし(?)の手紙を頂いてきたのであるが、吉武研究室出身だからであろうか、弟子でもないのに繰り返しそうした機会を得たのはかなり珍しいと自分でも思う。そして、京都大学に移って所属した講座が「地域生活空間計画」という、西山先生が開設され、絹谷先生[iv]4が大きな道をつけられる筈であった、結果として西山先生が最初に引き受けられた講座なのである。
京都では様々な機会にお会いする機会が増えた。最後は一月四日の新年会である。「戦後日本の建築の歴史を是非書いて下さい」というのがこのところのお会いする度のお願いであったけれど、「その前に父親の鉄鋼所の歴史を近代史として書きたい、なかなか進まない」というのが前年に続く答であった。その後、二月四日付の手紙を頂いた。倒れられる二、三日前のことである。主旨は、僕が監修する形になった『建築文化』の京都特集「建都一二〇〇年の京都」(一九九四年二月号)へのコメントである。短い手紙であったが、編集委員としてお願いしていた『建築雑誌』への原稿は近々書きますとあった。その直後倒れられることになるとは夢にも思えない文面であった。
今にして不思議に思うのであるが、その手紙の追伸として、「いまちょっと思い出しましたが・・・」と、何故か「地域生活空間計画」講座の履歴と開設の想いが綴られていた。その歴史を踏まえて「御精進をお願いしたいと思います」という内容なのである。西山先生の業績をめぐっては西山スクールの諸先生を中心に様々な総括がなされる筈である。それにも関わらず、西山夘三論を思い立ったのは以上のような縁からである。「今こそ本格的な西山論を」という吉武先生の言[v]5も本稿執筆の動機になっているかもしれない。執筆に当たって、可能な限り論文を読み返したが、いずれにせよ序説にすぎない。西山夘三論のための議論の材料を少しでも提供できればと思う。
序
西山夘三が京都帝国大学建築学科に入学したのは一九三〇年四月のことである。まさに日本が一五年戦争期に突入する前夜であった。手元の年表に依れば、その四月にロンドン海軍軍縮条約をめぐって統師権干犯問題が起こっている。前年のウォール街の株式価格の大暴落(一〇月二四日)を発端とする世界恐慌は、この年日本へ波及(昭和恐慌)、米価糸価の大暴落による豊作飢饉の拡大、物価下落、輸出減退とともに、会社の解散、減資、操短が続き、労働争議、小作争議が頻繁している。国内外の情勢は風雲急を告げつつあった。翌年九月一八日、柳条講事件により満州事変勃発。大日本帝国はそれ以降一九四五年八月一五日へ至る一直線的な過程をころがり落ちるようにつき進むことになる。
一九三〇年はまた、日本の建築運動史上特筆される年である。七月、建築界の新進、中堅の建築家、技術者を総結集して結成された「新興建築家連盟」(会員約八〇余名)は、一〇月、第一回の大会を開催したのみで、一二月には活動を停止する。一一月一二日の『読売新聞』の記事(「建築で赤の宣伝」)によって、新興建築家連盟が一夜にして瓦解したという事実は、当時の建築界の状況を象徴的に示すものとして記憶されている。いわゆる「創宇社建築会の左旋回」[vi]6以降、日本分離派建築会の設立に始まる日本の近代建築運動は当時大きくその質を変えつつあった。すなわち、展覧会活動を主体とする芸術革新の運動から、社会意識、階級意識を鮮明にした建築界全般そして社会そのものの革新を目指す運動へ、その傾斜を深めつつあった。しかし、その建築運動の新たな展開は、一九二〇年代の後半、創宇社を中心としてわずかに胎動をみせただけで、この新興建築家連盟の結成即崩壊というエピソードを残してとだえてしまう。
西山夘三もまたメンバーとして関わることになる、青年建築家連盟[vii]7、建築科学研究会[viii]8、青年建築家クラブ[ix]9と小会派の活動はその後も続けられるのであるが、表だった動きは封じられたと言っていい。一九三〇年以降、戦後まもなくの新日本建築集団( )[x]10の結成まで、日本の建築運動の「冬の時代」は続くことになる。
西山夘三が京都大学を卒業した一九三三年四月、滝沢事件[xi]11が起こっている。『刑法読本』の自由主義思想が文部省の忌避にふれ、法学部・滝川幸辰教授は辞職要求をつきつけられる。それに対して、法学部全教授が連袂辞職、全国的な学生の反対運動がまきおこった事件である。卒業後とはいえ、滝沢教授がその前年中央大学で行ったた講演「復活にあらわれたトルストイの刑罰思想」に端を発しているから、既にその在学中にも、そうした空気、ファッショ的な思想統制の足音は身近に感じられていたと言っていい。事実、西山夘三は、その三月唯物史観に基づいて建築の歴史を叙述した卒業論文(「住宅計画の科学的考察」)の序文を削除することを審査時に求められている。
まさに日本のファシズム体制の確立期、準戦時体制から戦時体制へ突き進む、その帳が開けられようとする時に(というより、ある帳が閉じられようとする時と言うべきか)、西山夘三は建築を学び始める。その密度はすさまじいの一語につきる。もう一度、『建築学入門』を読み直して見て欲しい。大学での三年、そして卒業後の三年、わずか六年のことが四〇〇頁を超える一冊の著書に記されるのである。その記録へのパトスと記憶力のすごさには、漠然と大学時代を過ごしたものを呆然とさせる迫力がある。
その初発における建築への関心はみずみずしく実にグローバルである。そして、彼がその思考を収斂させ、最大の主題として取り組んでいくのが住宅である。一五年戦争期において、建築家として最も真摯に住宅の問題に取り組んだ建築家が西山夘三であった。幸いなことに、戦前期については自身によって、回顧録が書かれている[xii]12。必要に応じて、その貴重な自分史の試みを援用したい。まず、西山夘三の初期建築論における思惟の全体的フレームを確認しておこうと思う。
Ⅰ 新興建築と住宅ー西山卯三の初期建築論
日本に「近代建築」の理念がもたされ、定着するのは一九二〇年代から三〇年代にかけてのことである。その過程は、一般には「国際様式」(インターナショナル・スタイル)の受容の過程として跡づけられている。「日本趣味」、「東洋趣味」を基調とすることを規定した一連の競技設計(コンペ)に敢然と国際様式の作品を応募し続けた前川國男の軌跡はその象徴である。また、実際にも、三〇年代には「白い家」と呼ばれた住宅作品が現れ始め、それをもって日本への近代建築定着の一つのメルクマールとするのが一般的である[xiii]13。
日本への「近代建築」の定着の過程は、しかし、必ずしもスムースであったわけではない。「近代建築」を支える社会経済的な基盤を全く異にすることにおいて、むしろ、様々な圧礫、葛藤、齟齬、転倒が引起こされた過程である。決定的であったのは、ヨーロッパ、アメリカにおける「近代建築」の新たな動向をアプリオリに前提として、しかも、まずスタイルのみを導入しようとしたことである。インターナショナル・スタイルを実現するために、木造で陸屋根の住宅を敢えてつくるといった事例が数多くみられたのはそのいい例である。また、「近代建築」の実現をスタイルの問題としてのみ争うことにおいて、究極的には、挫折してしまったのが戦前の過程である。今振り返れば、実に単純に、屋根を冠するかどうかといった極めて皮相な争点であった。しかし、建築におけるインターナショナリズムとナショナリズムの相克は、究極的にはその一点において問われ、日本のファシズムの暗黙の強制は最もラディカルな「近代建築」の推進者たちをも屈服させ、「大東亜記念営造物コンペ」では、前川国男もまた屋根を冠した建造物を提示し、屈服したのであった、というのがわれわれの手にしている日本近代建築史のわかりやすいストーリーである。
西山夘三の思考の軌跡は、まさに、そうした過程、日本に「近代建築」の理念がもたらされ、定着して行く一方で、様々な矛盾が露呈し、圧礫が起り、一端は挫折する、そうした過程にオーヴァー・ラップしている。彼がまず何を問題としようとしたのか、初期建築論考にみてみよう。驚くべきことに、西山夘三の思惟のフレームは、その後も(戦後も含めて)大きな変化はない。その基本は全て初期論考に見出すことができる。もちろんその一貫性は、むしろ一つの大きな問題であると言っていい。戦時体制から、戦後改革、そして高度成長へと日本の社会が激動を続けるなかでフレームのみが固定化されていたのだとすれば、その思惟は柔軟性を欠いていたと言わざるを得ないからである。また、マルクス主義者として、その転向ー非転向の問題が思想的に堀り下げられなかったとしたら、決定的な問題と言っていいからである。
興味深いのは、折衷主義建築の評価である。戦後その保存が問題になるにつれて微妙にその評価が揺れ動いているように見えるのである。しかし、いずれにせよそうした問題は、後の展開に続する。初期建築論考には、素朴で生硬であれ、真摯な思考が息づいており、その初心を汲みとっておくことは、後の住宅論、住宅計画論を位置づける上でも欠かす異は出来ないだろう。西山にとって、まず、建築なり、建築家のあり方が問題なのであって、無前提に予め住宅を専門としたのではないのである。
西山夘三の初期建築論考の主なものを列挙してみよう。ここでいう初期論考とは、京大卒業後石本建築事務所に勤め、入隊するまでに書かれたものである。
一 様式の『黙殺』より『埋葬』へ、『 』四号、一九三一年六月
二 古建築巡礼、『 』四号、一九三一年六月
三 建築家のための建築小史、『国際建築』、一九三三年九月~三四年二月
四 建築美学、『国際建築』、一九三四年三月
五 非常時の建築界、『国際建築』、一九三五年三月
六 新建築論、『国際建築』、一九三五年四月~一二月
これ以降、西山の論考は、「建築計画に於ける動線」(『建築学研究』一九三六年五月)を経て、住宅に集中し出す。それら論考はやがて、『国民住居論攷』(一九四二年)としてまとめられるのであるが、日本の建築運動に関する二篇を除いて、実に精力的に住宅に関する論考が積み重ねられることになる。
七 『日本工作文化連盟』批判、『国際建築』、一九三七年五月
八 日本折衷主義と我国の建築運動、『国際建築』、一九三七年六月
西山夘三の初期論考をこうして年代順に並べてみると、建築論から住宅への展開は実に明快である。勿論、彼の思考がこのようにあざやかに順を追って積み重ねられてきたということではない。卒業論文である「住宅計画の科学的考察」の序文が「建築家のための建築小史の原型であったことを考えれば、既に在学中のデザムの活動の中で、全てが用意されていたと考えることができよう。しかし、この極めて明確な展開は、西山夘三の思考の軌跡をそのまま示しているとみていい。建築総体への関心から住宅へ、そこにははっきりとした問題意識が貫かれているのである。
初期建築論において論じられるテーマは多岐にわたる。特に時評として書かれた「新建築論」からは、当時の建築界の状況とともにその関心の広さを窺える。そこでは、例えば、「新興建築」論あるいは様式折衷主義批判、建築運動論、建築技術者論あるいは建築家論、建築史論、建築学および建築学会批判、美学の問題、建築批評の問題、建築技術論、建築行政の問題、建築生産の問題等が縦横無尽に論じられている。建築をめぐるほとんど全ての問題に関心が向けられていると言えようか。
こうした、建築と建築をとりまくものについての総体的な関心の提示は、それ以前の建築論には極めて希薄である。というより、それまでにない建築に関わる知のありようを展示するものであった[xiv]14。そもそも建築論の伝統は我国においては希薄なのであるが、明治・大正期の用美二元論や建築非芸術論[xv]15の立て方とは明かに異なっている。すなわち、それまでのように工学技術の枠内において建築を語ろうとするのでも、芸術の一ジャンルとして建築を語ろうとするのでもない。また、その両者をそのまま接合し、統合しようというのでもない。そこでは、それまでとは全く異なった形で、建築の全体理論、一般理論が求められており、建築を全体として捉えようとするパトスが、その多様な関心を支えているのである。
西山が依拠することになるのは、唯物史観であり、弁証法的唯物論であり、マルクス主義芸術論であった。当時、既に原沢東吾[xvi]16、山口文象[xvii]17、石原憲治[xviii]18らによって、唯物史観に基づく全く新たな建築史観、建築理論の必要性が主張され、具体的な作業が開始されつつあったのであるが[xix]19、彼の作業もその一翼を担うことになる。その作業を要約すればおよそ以下のようになるだろう。西山卯三が極めて素朴に出発点としたのは、
(一)様式建築(折衷主義、様式選択主義)批判
である。最初期の論考(Ⅰ、二)には、実に激しい、様式主義=折衷主義批判が書き記されている。そのいささか単純で過激な主張の背後には、西山自身が振り返るように「当時の建築界、そして大学での建築デザイン教育を支配していた様式主義に対する猛烈な反感」がある。その主張は二重三重の否定を含んでいる。すなわち、単に過去の遺物としての様式建築のみならず様式そのものが否定され、従って、当時既に現れ始めていた「新興建築」も、モダンなスタイルのみが問題とされることにおいて、また、装飾や様式の断片が残されていることにおいて否定され、さらに、建築の美や芸術としての建築も、芸術の美名のもとにパンのために様式の専門家となっている建築家とともに否定されるのである。
折衷主義、あるいは様式選択主義に対する批判、あるいは嫌悪感は、『建築学入門』でも繰り返し振り返られる。しかし、その回顧にはいささか歯切れの悪さがつきまとう。戦後、一九七〇年代以降、西山夘三は、古都の保存や歴史的建造物の保存の運動を精力的に展開するのであるが、その対象となる建造物はかってラディカルに否定した建築なのである。大阪の中之島保存運動に関わる中で、西山は次のようにいう。「・・・しかし私はかってこうした「様式建築」にはげしい反発を感じ、このようなデザインを駆逐しなければならないと主張していたことを思い出す。それはいささか単純で素朴な主張であり、おかしい所もあるが、今もって全く間違っていたとは思っていない。中之島の「名建築」も同様で、そのうえ必ずしもいい建築だとは思っていない。しかし、・・・」[xx]20
「おかしい所」とは何か。ここには西山夘三の建築論の大きな弱点があると見ていいと思う。様式、あるいは形式は、西山にとって外的なものでしかない。二義的、三義的、あるいはほとんど価値をもたない位置づけしかなされない。西山にとって「名建築」とは何か。いい建築とは何か。平たく言って、西山には形を組み立てる理論が一貫して極めて希薄なのである。
「建築はもはや芸術ではなく、乾燥した構築という言葉に還元されなければならない」[xxi]21という命題は、当時の芸術至上主義批判や素朴な機能主義一元論を背景として理解されるのであるが、こうした既往の建築および建築家に対する全否定は、必然的にありうべき建築なり建築家について明らかにすることを要求する。そのために、西山夘三が最大の課題としたのは、様式史学としての建築史学、建築史観を徹底批判し、
(二)唯物史観による全建築史の見直し
を行うことであった。そして、全く新たな建築観を打ち立てることであった。当時の、そうした作業についての建築史学における位置づけについては、既に評価が定まっていると言っていい。別なところで論じたことがあるので繰り返さないが[xxii]22、思い余って意充さず、極めて教条主義的な構えのみが先行し、具体的な展開は、戦後の建築生産史の展開をまたねばならなかったというのがその評価である。確かに、その作業をアカデミックな作業としてのみ見れば、極めてずさんかもしれない。支配階級のための建築と被支配階級のための建築といった二分法、あるいは社会の発展段階についての機械的図式によって、全建築史が裁断されている。しかし、その作業を、単に実証主義建築史学の枠内で位置づけても必ずしも意味がない。少なくとも、建築史学が本来果たすべき役割である、同時代の建築なり建築家に対して歴史的なパースペクティブに基づいた指針を与えようとしたことについての一定の評価を欠いては片手落ちであろう。
そうした意味では、西山の「建築家のための建築小史」は、明らかに、アジテーションとしての歴史であり、具体的な実践を強く意識した、方向性の提示にはるかにウエイトを置いたものである。そのため、
(三)建築家・技術者の役割を社会的に明らかにすること
が、歴史を見直す一つのおおきな軸となっていることも了解できるはずである。『小史』の冒頭に「建築家」という名で呼ばれている層の分析がなされ、また後に『国民住居論攷』の冒頭に建築家論(第一章 住居建築家)が置かれていることは、あくまでも同時代の建築家・技術者が果たす役割を示すことが問題意識となっていることを示していよう。西山に依れば『小史』の重点は「第一に、建築の社会的な役割、それをみたすために建てられた建築、これらが原始共産社会から現今にいたるまでいかに弁証法的に発展してきたかということを社会一般の歴史的発展の中から抽出し、それを明らかにすることによって「建築」という概念の下に把握されているもろもろの幻想をすてて、個々の現象を具体的発展の過程として把握すること」であり、「第二に、最近の段階においては、社会の人的構成員として独立してきた建築技術者が技術者・イデオローグとして技術の発展とともに社会の様々な階級関係を反映しつつ発展させる建築論の領域において、最も切実かつ興味ある分析を展開すること」である。全建築史の見直しとは言っても『小史』の三分の二は、産業革命以後の歴史に当てられている。また、過半は二〇世紀、特に第一次大戦後の展開に当てられている。そしてまた、「新しい建築家層の発展」、「建築生産の現段階とわが国の建築家層」というタイトルの二章がその大半を占めている。まさに、同時代の建築のあり方こそが問題であり、建築技術者の職能のあり方がその論考の中心を占めているのである。建築技術者が住宅の問題に積極的に取り組むべきことがこうした分析から導かれることは言うまでもないであろう。
建築技術者の役割を明らかにする上で、最もウエイトをおくのは、
(四)日本の建築生産のあり方についての具体的分析である。
デザムによる「建築と建築生産」( 七号一九三二年一二月)が「建築の正しき把握のために」というサブタイトルが附されていたことが示すように、それはまた、唯物史観に基づく新たな建築理論の提示でもある。そこでは、「歴史を科学としてはじめて成立せしめた」のが唯物史観であり、唯一正しい社会科学理論がマルクス主義理論であることが前堤とされている。以下の作業は、全て、そうした立場からなされることになる。
(五)既往の建築理論(建築美学、建築芸術論)の徹底批判
(六)建築学批判、建築学会批判
(七)「新興建築」批判
一九三〇年の日本に「近代建築」という言葉はない。「近代建築」という言葉一般化するのは戦後のことであり、当時は、「新興建築」という言葉が使われている。勿論、われわれにとっての歴史概念としての「近代建築」と同じ概念として使われていたわけではない。西欧で新しく興ってきた建築の総称という意味合いで一般には用いられている。当時、「新興芸術」、「新興文学」、「新興美術」と言った言葉が同様に用いられるのであるが、建築に限らず、諸ジャンルにおいて、世紀末から二〇世紀初頭のヨーロッパにおける革新的な動向が時間的序列や区分なく受容されたところに、日本の戦前期のモダニズムの一つの特徴があると言えるであろう。
しかし、西山はマーツァ[xxiii]23に依りながら、既に近代建築の諸動向を区別し、批判する。その区別は、「工業的現実の作用の下に生まれた建築的構成主義の名のもとに一括されるところの機能主義者・表現主義者の一群、形式主義者・合理主義者の一群、合理主義者・機能主義者の一群があり、また、工業的現実に対する反作用としての表現主義者・唯美主義者の一群、工業的現実の直接的な影響下に属しない折衷主義者・様式主義者の一群、さらに形式主義者・様式探求家の一群がある」といったものであったが、「工業的現実」への作用、反作用として新たに現れてきた動向に対しても、それは工業資本主義に対応する工業ブルジョワジーの様式にすぎないとして否定するのである。西山夘三のイメージする「新興建築」は、明らかに西欧で現れてきた新たな動向とは別なものであった。しかし、それにしても、西山がイメージした「新興建築」とはどのようなものであったのか。
一般にも「新興建築という言葉に、単なるモダニズムの建築という以上の意味が込められていたことは事実である。一般的に、「新興階級」(プロレタリアート)の闘争のための「新興建築」という言い方にも明らかにそうしたニュアンスがある。少なくとも「新興建築家連盟」という名称にはそうした色彩が強い。それは明らかに分離派批判が込められていたとみていいからである。その結成に大きな役割をはたしたと言っていい山口文象の「新興建築家の実践とは」[xxiv]24は、明確にその方向性を指し示している。彼は、そこで「機械的合理主義」を批判しながら「要するに正当な意味に於けるプロレタリアートの解放運動に参加し、そうして建築家としての任務を果たす、此事意外には私達には本当の意味に於いて建築を実践する道はないと思います。」と述べているのである。
既に、モダニズムとマルクシズムの対立を内に含んだ「新興建築」という概念は、西山にとって極めて重要である。その未成の概念こそ西山をして住宅へ駆りたてさせたものであったと言ってもいいのである。
「新興建築」の実現に向けて、具体的実践の方向性を提示するのが、
(八)建築運動論(既往の建築運動の総括)
である。
多岐にわたる論考のそれぞれについて触れる余裕はここではない。以上のような作業のフレームを確認するにとどめようと思う。その建築理論の具体的な展開については住宅に即してみることにしよう。
「新興建築」と住宅、確かに切っても切れない関係にある。西欧における近代建築運動が住宅の問題を大きな課題としてきたことは、ここで振り返るまでもないであろう。CIAMは二〇年代から三〇年代にかけて、住宅および都市に関わるテーマを掲げ続けるし、バウハウスはグロピウスを中心に実験住宅を試みている。ベルリンやフランクフルトにおけるジードルングの建設、ワイセンホーフのジードルング等々、具体的な活動についてもそのころになると、ほぼ同時期に情報がもたらされるようになっている。常に二〇年から三〇年先行していると考えられていた欧米の動きが同時性を持ったものと意識され出したのは、一九三〇年代前後のことである。そうした西欧での動きが大きな刺激を与えたことは言うまでもないであろう。近代建築運動がその基底に建築の大衆化を理念としてもっているかぎり、大衆の住宅を大きな課題とする事は必然的なことである。
しかし、日本において建築家が住宅へ取り組む回路は必ずしも用意されてはいなかった。B.タウトがマグデブルグやベルリンにおいて、またE.マイがフランクフルトにおいて、具体的な実践の場を見い出していたのとは大きな違いがある。市街地建築物法や都市計画法といった法的規制による制度対応を別とすれば、個別の「文化住宅」の設計が少しづつ仕事とされ出した時代である。自邸を実験住宅として造り続けた藤井厚二(西山卯三の師であり、その卒業論文の序文の削除を求めた)のような例はむしろ例外と言っていいであろう。
西山夘三の初期建築論においては、建築家がどのように住宅の問題に取り組むのかについて必ずしも具体的にイメージされているわけではない。建築技術者層の大衆化、そして建築(住宅)生産総体についての分析は、むしろ一挙に技術者運動へ、そして山口文象のいう「プロレタリアートの解放運動」へと突き抜ける構えをみせる。決して明言はされないのであるが、西欧の近代建築運動について、個々の差異は認めながらおしなべてプチ・ブル的運動として切って捨てるところから、そしてロシア革命以降のロシアの動向へ熱い期待を寄せるところから、それを窺うことができる。西山に限らず、新興建築家連盟の中心を担った建築家たちにとって、「新興建築」とは、社会主義革命を経てはじめて実現しうるものであった。その後の歴史を知るものにおいて、そのウ゛ィジョンは余りにも現実とかけ離れたものであったと言わざるを得ない。しかし、当時、「新興建築」の実現への期待は、実に身近なものとし意識されていたのであった。
そうした期待が現実に裏切られ始める中で、西山は、住宅そのものの問題へ具体的に向かい始める。小会派の研究会活動を続けながら住宅を科学すること、住宅の問題を科学的に考察することへ向かっていったようにみえる。一般的に戦前におけるマルクス主義運動がアカデミズムの中へ、科学へ、実証主義へと向かっていったのが転向の一つの形態であったとすれば、西山の場合もそういいうるかもしれない。勿論、西山の言う科学とは、当時の言葉でいう「プロレタリア科学」である。彼が、当時、激しいアカデミズム批判を展開し得たのは、そうした視座においてである。しかし、それもまた未成のものであったと思う。
Ⅱ.国家と建築家
西山夘三の戦後における住宅政策および住宅計画の理論の展開を直接的に用意したのは、戦時体制下における様々な調査研究である。戦前・戦後の間に理論的展開のレベルにおいては必ずしも大きな転換はない。西山夘三の『これからのすまい』(一九四七年)や、『明日の住宅』(一九四九年)が戦時体制下の蓄積をもとに書かれたように、むしろ、連続性をもったものとして捉えることができる。そうした意味では、戦時体制下における住宅をめぐる諸問題、様々なアプローチをふり返っておくことは、戦後の展開をみる上で必要不可欠の作業と言える。また逆に、戦後における住宅計画の基本的問題は、全て、戦時体制下の思索に根ざしていたと考えることができる。西山夘三の住宅計画理論の基本的構えを見てみよう。ここで主としてテキストとするのは、西山夘三の戦時中の著作『住宅問題』(一九四二年)および『国民住居論攷』(一九四四年)である。
『国民住居論攷』が上梓されたのは、一九四四年六月、終戦間近ことである。論攷の攷の字は、考と同じ意味だけれど、攻(せめる)をイメージさせるから用いたという。『国民住居論攷』は、書き下ろされたものではない。戦前において書かれたもののアンソロジーであり、膨大な「住み方調査」に関わるものを除けばほぼ集大成とみいい。「住み方調査」は、並行して学位論文『庶民住宅の研究』(一九四四年[xxv]25)としてまとめられるのであるが、一般には、『国民住居論攷』において、より広い視野でのプログラムを窺うことができるであろう。
勿論、戦前において、『国民住居論攷』が広く読まれ、影響力をもったということは考えられな。影響力を持ったという点ではむしろ、文部省推薦として版を重ねた処女作『住宅問題』(一九四二年[xxvi]26)である。しかし、いずれにせよ、西山夘三の著作が具体的に読まれるのは戦後であり『国民住居論攷』は、戦後まもなくの『新建築』誌の復刊第一号(一九四六年一月)の論文「新日本の住宅建設」、そして『これからの住まい』(一九四七年[xxvii]27)、『明日の住居』(一九五〇年[xxviii]28)などにストレートにつなげられることによって大きな意味をもったのであった。『国民住居論攷』を読む具体的な意味も、戦後との関わりの上でその思考の母胎を窺うことにある。
出発点としてのフィールド・サーヴェイ
西山夘三の初期建築論考において、住宅の問題がどのように浮上してきたかについては既にみた。一九三五年、西山は除隊した後、京都で大学院生活を始めることになるのであるが、すぐさま手をつけることとなったのが関西地区における住宅調査である。そのきっかけは大阪府建築課にあったクラスメイト、「デザム」の盟友、荒木正己と和田登の、独特の奇妙なスタイルの住宅が大量に建てられつつあるという報告であった[xxix]29。一九三〇年代半ばのこの住宅建設を、戦後高度成長期にあっという間に文化住宅が建ち並んだ時代に匹敵する出来事であったと西山は述懐する。今では少なくなった関西特有の木造長屋の住宅群である。それまでの都市住宅の伝統的な基本型であった「通り庭」型とはちがった、裏庭をもち、表に玄関と炊事場が並ぶ形式である。西山は、早速、荒木正己等の協力を得て、それがどのようなメカニズムで出現しつつあるのかを調べようと考える。「住み方調査」の開始であった。
平行して、「建築計画における動線」(一九三六年)のように、A・クラインの平面計画論[xxx]30に刺激を受けた形での、住宅計画の科学的考察を開始しつつあったが、それはあくまで理論的、観念的作業にすぎない。具体的な現実に則した考察が展開されるのは、この時以降の実体調査においてである。大阪府、名古屋市、堺市と、自治体をベースにその調査は展開される。住宅問題に対する行政的対応の問題をきっかけとして、リアルな状況の認識が出発点とされるのである。
こうして始められた住宅調査については、建築計画学の成立に関わって「アカデミズム」における議論の歴史が既にある。最初のまとめである「大阪市に於ける市外地型住う宅の平面についてーーー都市住宅の計画学的研究(一)」は、学会誌に掲載を拒否される。西山が繰り返し振り返るエピソードである。調査の手法(事例抽出の手法)そのものが問題とされたのであった。有意抽出の百例だけの数が問題とされたのである。結果として、さらに四年の時間と労力を費やして大量悉皆調査が行われ、「都市住宅の建築学的研究」[xxxi]31の中でまとめられることになるのであるが、小数精密調査か大量悉皆調査かといった形で、その問題は戦後にも尾を引いている。しかし、問題は単に調査の統計的処理の問題にのみあったわけではない。問題はその構えである。
第一に指摘されねばならないのは、その調査の全体を平面計画的思考が支配していたということである。平面(間取り)の合理的構成といった理念は、近代建築の理念と結びついており、建築計画学のパラダイムを特徴づけるのであるが、調査の対象とされたのは、建築届書類の中の間取りである。今日にわれわれが行う建築確認申請計画概要書調査である。勿論、具体的なフィールドサーヴェイも展開されるのであるが、最初の、そして大きな部分を占める調査が建築届書類の間取りの調査であったことは、その特徴を示していると言っていい。
第二に、調査がすぐさま「標準住居」、あるいは「住居水準」の問題へ結びつけられる構えがとられていることは、調査を大きく規定している。住宅問題に対する行政的対応の問題がそもそも調査のモメントであった。調査対象である住宅が予め「不良住宅」とみなされ、「『建築学』の恩恵に浴することのない大工・不動産業者・家主・地主らの共同作品」に対して、「これをそのままにしていいのか」、「もっとまともな住宅がつくられるように」すべきではないかといった意識が全体を支配しているのが大きな特色である。
第三に、結局は、西山夘三の住居(建築計画)学の体系そのものが問題となるのであるが、その問題把握の総合性(網羅性)にも関わらず、その理論構築が極めて限定的になされたことを初期調査は示していると言っていい。その調査は、独特の奇妙なスタイルの住居が大量に建設されつつあるそのメカニズムやプロセスそのものを具体的に明らかにすることへは至らない。それは、『住宅問題』第二編「住宅経済」における地代、家賃、借家経営、所有等をめぐる資本主義社会における住宅の生産・流通・消費のメカニズムについての考察等によって一般的に理解されるだけである。
第四に、都市住宅そのものについて、集団としての住居についての考察は具体的な調査は希薄である。当時、都市住宅の形式としてのバラエティーは少なく、そう問題にはならなかったと西山自身はふり返るのであるが、集住の形態そのものについての問題は、平面の分析において決定的に抜け落ちたことになる。さらに、生活の全体性を捉えるという視点は、充分意識されているのにも関わらず、調査のフレームからもれてしまう。生活の仕方、家族形態、地域社会との関連など、居住の実体を調べるために全国中学校の生徒への調査も企画されるのであるが、その構えについては、例えば、今和次郎の考現学の方法と比較すれば、その位置が明らかになろう[xxxii]32。
そしてまた、第五に、歴史的考察に欠けていたことは西山自ら後に認める所である。西山が常に、歴史への関心を示し続けてきたことはよく知られるとこるである。しかし、当時の彼は、既にみたように唯物史観による建築史の書き換えの作業に急であり、民家研究、建築史研究を趣味的、好事的仕事とみなしていたのである。
振り返れば、以上のように多くの疑問や限界を指摘することができるのであるが、西山夘三がリアリストとして、あくまで、具体的なサーヴェイを出発としたことは極めて重要である。西欧の住宅をモデルとし、それを日本へ導入するといった構えが支配的である中で、日本の現実に即した思考が開始されたと言っていいからである。西山は、いわゆる調査研究とは別に、町を歩き回っている。そのリアリズムは、統計的処理によった調査結果よりも、「不良住宅地」や「不法占拠」地区で採譜された独特の図面から窺えると言えるかもしれない。しかし、西山のそうした現実の認識は、当初から国家社会主義の大きなフレームによって限界づけられていたといわねばならない。庶民の生活のリアリティーへ下降しようとするまなざしは、予め逆転して上へ、国家へと向けられるのである。
『国民住居論攷』の構成
『国民住居論攷』の序は次のように書き始められる。
「住宅は生活の容器であり、總ゆる建築は住宅に出發するといはれる。此の意味で住宅は過去に於て多くの建築學者の研究對象としてとりあげられて来た。併し十年前まで國民大衆の住む住宅は、歴史的な或は民俗的な興味を以て眺められた過去の時代の若干のものを措いては、殆ど建築家や建築學者達の問題になるに到らなかった。
國民大衆の住宅は相も変わらず零細な家主と大工委せで建てられた。建築家の前に持って来られる少数の大邸宅や好事家の住宅のみが建築家の知能を搾させた。だから大學で教へる「住宅計劃」は敷地の選定から始まり、応接室、主人室、夫人室より令嬢室の解説に及ぶ「邸宅」の計劃法であり、女學校の講義も亦之の追随してはばからず、書店に氾濫する住宅書は之を矮小化し通俗化した「狭いながらも我が家」を夢見る人々の趣味の住宅書であり、住宅雑誌に至っては娯楽雑誌の分野に属した。
併し今や時代は大きく轉回しつつある。國民大衆の住む住宅は、単に、「住宅難」によつて社会の注視の焦点に現れ、或いは國家的な住宅供給機関たる住宅営團の事業對象として専門の建築家がその建設に関与するに至ったといふ点ばかりで新たな評価をうけるに至ったのではない。それは國土を構成する國民住居施設の最要の部分を占め、國民生活に於ける欠く可からざる重要な施設であるといふ点で、その國家的性格を明にして来たのである。大東亜戦争の遂行に伴う國民に對する國家的規制の強化は一層此の関係を明白ならしめた。
住宅は今や「國民住居」として把握されねばならない。
我々日本國民が如何なる居住形態を、郷土を、此の國土の上に創って行くかといふ重要課題に對する答案の中心点として、それは考えられなばならない。
併しその如き理念の成立は近々数年来の事実である。」
ここには、西山の基本的構え、理論の前提がストレートに示されていると言っていい。「少数の大邸宅や好事家の住宅」を別にすれば、「国民大衆の住宅」は建築家や建築学者の関心の対象になってこなかったこと、住宅雑誌は娯楽雑誌に属したことなど、興味深い認識が示されている。とりわけ注目すべきは、住宅の国家的性格が強調されていることである。また、そうした理念の成立が「近々数年来の事実である」とされていることである。すなわち、「大東亜戦争の遂行に伴う国民に対する国家的規制の強化」がそれを明らかにしたという認識である。国民大衆の住む住宅へ建築家が積極的に関与すべきことを主張しながら行きついた地平がそこにはある。戦時体制下における「国民住居論」の位相も同じである。
住宅問題を対象化することによる建築学批判がより広い視野におけるアプローチを要求することは必然である。しかし、そのプログラムが「国家」のプログラムに同化させられるとすればそこには大いなる飛躍がある。少なくとも質の転換がある。国民大衆の住宅のあり方へのアプローチがそこで問われるのであるが、唯物史観、マルクス主義を出発としながら国家的性格が強調されるのである。見事な逆転があるといっていい。。国民へというヴェクトルが逆転して国家へと向けられるファシズムそのものの持つ構造を西山においても見ることができるのである。
しかし、西山において、そうした屈折は必ずしも意識されていない。彼の立論は、予め国家社会主義的枠組みを前提とし、ファシズム国家の論理へと収斂していったようにみえる。そうした意味で、その理論は強力な国家の存在を前提としてのみ最も説得力のあるものである。『国民住居論攷』がまとめられるまでの数年、「大東亜戦争の遂行に伴う国民生活に対する国家的規制の強化」が住宅の国家的性格を明らかにするなかでこそ、まさに西山の理論はリアリティーをもっていたのである。西山理論の体系が戦時体制下の論理と密接に結びついていたという事実は、これまで必ずしも問題とされてはいない。しかし、専ら、その住宅計画の方法や学の確立を評価する以前に、その前提としての社会主義国家の樹立を常に意識しておく必要はあろう。例えば、建築生産の工業化の主張もそうした前提においてのみなされるのである。西山は戦後、一九七〇年代以降特に一貫して住宅産業批判を展開し続ける。工業化が市場(商品化)を前提として成立するという視点はないのである。
しかし、その理論体系の総合性にまずは着目すべきであろう。戦後そして今日に至る、わが国の住宅をめぐるほとんどの問題が西山によって押さえられようとしていた。専門分化が加速される中で、今日では、『国民住居論攷』に挙げられた問題は、それぞれ切り離されて問題とされるのが常である。寝食分離論に象徴される住戸計画のレヴェルにおいてのみ西山を捉えるとすれば全く不充分である。『国民住居論攷』は、個々に不充分な点を含みながらも、一つの全体的フレームを提示した点において評価さるべきである。建築家として、住宅についてこうしたプログラムを提示し得たものは他にはいなかったのである。『国民住居論攷』の構成は以下の通りである。
第一編 住居建築家
第一章
我国の建築家 『建築雑誌』一九三七年四月
第二章
住宅政策と建築家 『都市公論』一九三七年一一月
第三章
住居建築家覚書 『新建築』一九四二年一〇月
第二編 住居の質
第四章
標準住居と我国の住居水準 『建築と社会』一九三六年四月
第五章
国民保健と住宅の質の問題 『建築と社会』一九三七年八月
第六章
住居の質について 『建築雑誌』一九四一年六月
第七章
国民住居の質的改善 『社会政策時報』一九四一年七月
第三編 住居基準
第八章
住居計画学の方法論 『建築雑誌』一九四一年一〇月
第九章
住居空間に関する基礎的研究 『建築と社会』一九四一年四月
第十章
極小住宅の型と平面基準 『建築と社会』一九四一年一〇月
第十一章
居住方式の歴史的発展と寝食分離論 建築学会大会論文集一九四二年四月
第十二章
住居水準の切り下げと建設住宅の基準 『建築と社会』一九四二年一月
第十三章 居住慣習の指導方向 『建築雑誌』一九四三年二月
第四編 住居形式
第十四章
都市住宅の形式について 『都市問題』一九四一年五月
第十五章
長屋建住宅の防火構造法 『建築と社会』一九三八年三月
第十六章
二階建住宅の研究 『建築世界』一九四二年一月
第五編 住宅産業
第十七章
住宅産業の再組織 『不動産時報』一九四三年一月
第十八章
建築単位の改革 『建築と社会』一九四一年二月
第十九章
基準寸法論 『建築学研究』一九四二年一月
第二十章
住居空間の寸度よりみた基準寸法の探求 『建築学研究』一九四二年三月
第六編 住宅政策
第二十一章
人口配分と住居施設の供給 第八回全国都市問題会議一九四二年一〇月
第二十二章
既存住居施設の動員 『不動産時報』一九四三年八月
第二十三章
都市疎開と住宅問題 『建築雑誌』一九四三年一一月
第二十四章
決戦下の住宅対策 『厚生問題』一九四三年一二月
以上の目次から、西山卯三の住宅に関わるパラダイムのアウトラインを推測することができよう。個々の論考に重複はあるものの、全六編はそれぞれ中心的な考察のフィールドを示している。すなわち、住宅建設にたずさわる建築家・住居建築家の職能と性格を明かにすること(第一編)、住宅問題の核心として住居の質とは何かを考察すること、そしてそれが現実にどのように現れているかを明かにすること(第二編)、国民住居に対する建築学的研究の焦点として、住宅基準について方法論的に、また具体的に考察すること(第三編)、住宅の配列形式について、特に集合的住居形式について考察すること(第四編)、住宅産業の再編成の問題を論じ、特に、住宅生産における技術的問題の一つの核心として建築単位の問題を考察すること(第五編)、そして、住居建設における国家的配分の問題を中心として、具体的な住宅政策を論じること(第六編)が、大きな分野である。
考察の密度には差がある。中心は第三編である。続いて第二編である。第四編、第五編において残された問題は多い。第六編は、最も臨場感のある論述である。ここでは、従来、西山卯三の中心的な仕事と考えられている第二編、第三編をひとまず置いて、その他について触れてみよう。
「住居建築家」=「国家の建築家」
既にみたように、西山卯三の初期建築論においては建築家の職能の問題が大きなウエィトを持っていた。ここで冒頭に「住居建築家」という概念が提示されていることも、それを示していよう。そこでイメージされた新たな建築家像をどのようなものであったのか、それは実に興味深いものである。
わが国において、明治末から大正期にかけて、住宅問題、都市問題が新たな課題として意識化されることにおいて、建築家像の転換がもとめられつつあった[xxxiii]33。すなわち、佐野利器に代表される、国家当然の要求として建築科学の発展を位置づけながら建築家の社会的地位の獲得を目標とする流れと、後藤慶二に代表される自我という縮小した一点から、その拡張によって、宇宙、人類を自らへ引き寄せようとする流れが、都市、住宅へ向かう中で、岡田信一郎の「社会改良家としての建築家」といったイメージが提出され、また二つの流れを両面批判する関西建築協会の流れが既に存在していた。西山の立論も、基本的にはそれを前提とするものである。しかし、西山の提示する新たな建築家像は究極的に必ずしも具体的ではない。その曖昧さに実に大きな問題があったと言っていい。その曖昧さの中から浮かび上がるのが「国家の建築家」という理念なのである。
西山夘三がまず徹底的に批判するのは、小堀遠州や欧米のアーキテクトを理念化する芸術家としての建築家像である。ブルーノ・タウトの
『日本文化私観』における日本の建築家批判は、日本の建築家の歴史的、現実的特殊性を踏まえぬものとして反論される(第一章)。また一方、建築家を単に技術者として消極的かつ狭隘に規定することも斥けられる。両面批判の構えである。しかし、そこで西山が提示するのは、新たな建築家像というより、建築家が新たに果たすべき役割であり、新たな活動の領域である。一般に、それまでの素朴なアーキテクト像とは違って、昭和初期には専門分化を前提としてそれを総合する形の建築家像への転換がみられるのであるが、西山夘三が一般的に挙げる、建築の企画、構造計画、建築材料の生産指導・選択、生産過程の企画の問題とそれらを具体化する建築形態の芸術的解決、といった新たな課題(第一章)は、そうした脈絡で、すなわち、建築の生産体制の巨大化、複雑化を背景として理解されるであろう。問題は、それを担う主体としての建築家をどこに求めるかである。
西山夘三は、住宅問題の解決、住宅政策のフィールドに「住居建築家」の存在基盤を想定しようとするのであるが、そこでは最早、自由職業人としての建築家は必要条件とはされない。むしろ、各機関の設立こそが急務としてイメージされている。具体的に彼がイメージしたのは、以下の機構である。(第二章)。
A 全国住宅建設会社(半官半民国策会社)
B 建築技術工組合と技術工養成機構
C 地域別住宅経営会社
D 住宅組合
以上の提案は、住宅営団設立の二年前のことであり、個々の構想には興味深いものがある。戦後全く異なった形であれ、公団・公社・公営という形で公共住宅機関が整備されていく萌芽の構想がそこにはある。しかし、問題はその前提である。そこでは既に「東亜の長期建設と国防体制の完成」のため、「新標準化住宅の最大テムポの合理的建設」が絶対的なものとされ、建築家の任務は全て、国家による総合的住宅政策へ同化させられているのである。西山夘三は次のように書いている。
「現在所詮建築行政と称するもの、即ち建築警察は真の意味の「建築行政」の名に値するものではない。それは一つの補助的建築行政にすぎぬ。此処に謂ふ新展開とはかかるものの単なる拡充強化ではなくて建築行政その名にふさはしき建築政策・國土計劃及び住宅政策の都市計劃及び建築行政の機構を母胎とし、廣汎に相互に関連せる組織的な住居及び土地立法を根幹として之等両者の機能を総合止揚せる一体的機構の創設を目途とする。
かくてこそファサードと客間に匍匐する建築技術を解放し、之が國家的規模に於ける建設への建築家及び建築技術の正しい参劃の軌道が拓かれるのである。
それは既にのべた所に明かなる如く、
一.建築政策、住宅政策等の基本國策の樹立
二.建設私財及び労働力の指導育成及び統制
三.住宅建設及び住宅経営の指導監督
四.都市の合理的建設、区割り整理と一團地住宅建設のための土地利 用統制
五.都市の合理的発展に対する計劃的指導と建築群としての統制監督
六.以上の指導統制を補足すべき現存「建築行政」=建築警察の強化
等の廣汎な任務を管掌する。
斯るものとして、それは強力な企劃研究機関と之が実施機関を構成する都市建設(都市計劃の名は不適当である)・建築統制および國策企業を創設しなければならぬ。」
こうした課題、「国家的規模に於ける建設への建築家及び建築技術の正しい参画の軌道」において確立される建築家のイメージとは何か。西山夘三は、はっきり書いている。
「個々の建築施主の助言者、設計者としての関与ではなくして、『国家の建築家』として新しい建築行政を通じて、即ち建設の標準化的研究と統制的指導及びそれを可能にすべき新建築行政機構の創出ーーーこれが我国の建築家に与えられた特異なる新任務・新領域である。」(第二章)
西山夘三のいう「住居建築家」とは「国家の建築家」に他ならないのである。研究そのものも「『国家の建築家』としての我々の義務の一つ」(第二章)であった。彼の「芸術家としての建築家」批判も究極的にその根底に置かれるのが「国家の建築家」理念である。「国家の建築家」を理念化する時、西山は、シュペーアをめぐって混乱をみせる。
「ドイツのトットやシュペーアの例を担ぎだし、いい気になっているような素朴な誤りを我々は犯していないか。建築家が多年芸術家として芸術的造型に於ける絶対の発言権を承認され、而もその上に彼等の識見を発展させて行った国と、技術的使用人としてせいぜいお抱えの営繕屋の地位しかあてがはれずその地位の中にアクセクしていた国とが、急に同じ状態を生み出し得る訳のもではない。」(第三章)
ここでは、彼我の違いが強調され、眼前の急務こそが訴えられるのであるが、理想化されているのは「絶対の発言権を承認され」たシュペーアの立場であるかのようなのである。
「国家の建築家」というイメージは、明治以降一貫する建築家をめぐる最大のフレームであり、位置づけではある。西山夘三も、そのフレームにのみ込まれ、それを裏打ちするかにみえるのである。
新たな建築家のイメージとしての「住居建築家」が、究極的に「国家の建築家」に帰省したことは決定的な事実として確認さられてよいであろう。
『国民住居論攷』のあらゆる論考のベースには「国家の建築家」論がある。それまでのあらゆる論考は、国家的な一つの体系へと同化する形でまとめられている。その前者である『住宅問題』が言葉の上では、大東亜の長期建設をうちながらも、資本主義の矛盾を鋭く突く構えをとっていたのに対して、『国民住居論攷』は、ポジティブな体系の構築そのものが主題である。西山自身においては自覚されないのであるが、明らかにそこには転向がある。彼が、マルクス主義理論をベースとした初期建築論において展望した世界の、しかしそれは一つの帰結である。そして、日本のマルクシズムのはらんだ大きな問題がそこにはあった。
Ⅲ.『国民住居論攷』を読む
『国民住居論攷』の全体構成は、既にみた。その中心は「住居の質」(第二編)と「住宅基準」(第三編)についての考察である。何故、住居の質についての考察がまずなされねばならなかったのか、そのモメントは『論攷』全体に大きく関わっている筈である。また「住宅基準」の問題としてまとめられた「住宅計画学の方法論」(原題「庶民住宅の建築学的課題」『建築雑誌』一九四一年十月)は、その計画論の核となるものである。
「国民住居」の母体としての「庶民住宅」の計画のために、要求される諸基礎条件を生活様式の諸原則として明らかにした上で、居住方式を定立し(食寝分離、就寝方式、接客方式、家事作業方式等々)、住居の型として提示するその方法論が、戦後の公共住宅の計画論に大きな影響を及ぼすものであったことは衆知のことである。
その方法論が大きくは「国家の建築家」としての立場から、すなわち国家社会主義のフレームを前提として展開されたものであることは前号において明らかにしたところである。戦後においては、必ずしもそうした立論の前提は問われず、その方法論のみに焦点が当てられることになる。そこに大きな落とし穴があったことは最初に指摘しておかねばなるまい。強調されなければならないのは、西山夘三自身において、当初からその限界が、充分意識されていることである。
西山夘三は次のように書いている。
「…併し著者は住宅計画の方法論を打ち樹てて行く過程に於いて二つの根本的困難にぶつかった。第一、国民住居水準の現況及び国民住居経済の現機構を以てしては技術的に適正と考えられる状態を実現することが困難であること。此の場合技術的研究は如何なる方法に進むべきか。第二、かくあるべしとする居住方式の規定の下に居住者の構成に対応してつくられる型種の変化に対して、住宅が現実に選択されるよりどころは居住者の経済的能力であること、従って後者の差異に適合する住宅を用意しようとすれば理論的には二軸をもつ数系列の型種を必要とすることである。斯る複雑な型種の編成は現実に不可能であり、ことに計画理論の混乱を生ずる原因が形成される。この二つの立論上の困難は蓋し国民住居標準の探求てふ超現実的、国家的立場に計画者をおくことによって生ずる困難であり、「国民住居」が、論じられつつあるにも拘らず現実の歴史は未だ之を現実する時代に達していないという事実による。併し著者は国民住居の計画法を画き出すためには、かかる理想的立場に立たざるを得なかった。」(第八章、序)
以上のような限界は、必ずしも立論に内在するものとして考えられているわけではないかもしれない。一般的に言えば、理論(理想)と現実のギャップという限界の意識、要するに、「国民住居水準の現況」、「国民住宅経済の現機構」といった現実そのものが未だ理論を実現する段階に達していないという限界の意識である。また一方、立論上の困難が、そもそもその前提として、「国民住居標準の探求」という「超現実的、国家的立場に計画者をおくことによって生ずる困難」であることも表明されている。しかし、理想と現実のギャップにしろ、そもそもの立論の前提の限界にしろ、西山夘三のリアリズムにとっては決定的なものであったと言っていい。「住居の質」をめぐって、あらゆる合理的基準設立の困難性を明らかにしながら、「住居の質的規定は、これを歴史的・社会的問題として採りあげ、その本質を把握した高度の政治的性格を持つものとして考えられねばならないのである。従って政治性を抹消した分析的研究からは、我々はその規定の一片さへも学びとることが出来ないのである」(「住居の質について」第六章)と言い切っていた西山にとって、その方法論がリアリティーを当初から欠いていることは大きな問題であった筈である。そこでは、全ての問題は、社会経済の歴史的発展段階の問題に帰せられることになるのである。その唯物史観の位相については既にみた。一般的に言えば、単線的な進歩史観発展史観がそこでは前提とされているのである。
「住居計画学の方法論」についての立論の前提の問題とともに、さらに強調されなければらなないのは、『国民住居論攷』のフレームは、決して、住宅計画学の方法論にのみ帰着するものではないということである。西山理論が、戦後、その型計画の理論、さらには住戸計画の問題のみに関して問題とされてきたことは不幸なことであったと言っていい。少なくとも、その広がりを確認しておくことが必要である。『国民住居論攷』は、さらに「住居形式」(第四編)、「住宅産業」(第五編)、「住宅政策」(第六編)についての論考を含んでいる。確かに「住居の質」および「住宅基準」に関わる論考に比べれば、いずれも断片的であり、密度は薄い。例えば、「住宅産業」論において集中的に問題とされているのは、建築単位の問題であり、基準寸法の問題である。また「住宅政策」論として考察されているのは、「決戦下」を色濃く反映して、「既存住居施設の動員」、「都市疎開と住宅問題」といったテーマである。しかし、その論考が単に住戸計画のレヴェルにとどまるものではなく、その集合形式、生産技術や生産体制、住宅政策をも含んで展開されようとしていたこと、繰り返し、総合的なアプローチの必要性が説かれていることは、忘れられてはならないであろう。
全ての問題を網羅することはできないのであるが、『国民住居論攷』における基本的問題を整理してみよう。
(一)住居の質
西山夘三にとって、住居の質をめぐる考察は、住宅基準の問題をめぐる考察と密接不可分である。住居の質を問う背景には、劣悪な居住状態を改善する基準を設定するという現実的なさし迫った課題が前提されていたことは言うまでもない。しかし、住居の質を問うことと住宅基準を設定することはストレートには結びつかない。最初にあるのは、住居とは何か、あるいは住居をどう捉えるかという本質的問いである。住宅基準の問題は、計画論の問題として次の段階の課題である。事実、西山夘三が「住居の質」をめぐる考察において明かにしようとしたのは、むしろ、既往の基準において住居の質は捉えられないということである。その主張を要約すればおよそ以下のようになろう。
住宅の量質の側面はいわば盾の両面であって切り離すことはできない。
住宅のフィジカルな質と居住状態の質は厳密に区別し難い。住居の質はその両者を総合した広義の「住居状態」として捉えられるべきである。
住宅の質を具体的に規定しようとする場合、合理的基準を設立することは極めて困難である。質を規定する諸要素、諸属性は単独では意味をなさず、互いに相関すること、また属性の質的変化を数量的な尺度で表すことが困難だからである。
住居の質についての個々の条件の規定は、従って、その機能の全体的把握から導かれるところのものでなければならない。その機能とは、生活の輪廻の不可欠の一環をなす休養、労働力の再生産の場所としての機能であり、その内容は、全生活輪廻、全生活過程が展開される歴史的社会的様式たる生活様式に規定される。
住居の本質は、その歴史的、民族的、地方的伝統と遺産、生活様式 (生産諸関係、生活技術、家族制度)の構成に於いて全生活過程中、住居に分かたるべき生活部分の把握、及び之が気候・風土条件に基づく具体化の過程を通じて明らかにされる。特定の時代、特定の人口が特定の気候条件の下にもつべき住居に与えられる類型的特性を「住居様式」と名付ければ、住居の質は、様々の属性をもって現れるものと考えられる。
住居の質は、従って、何時の時代でもそうであったが、文化的問題として規定される。
以上の要約で、西山夘三の「住居の質」の規定において、生活様式、あるいは住居様式という概念が大きなウエイトをもっていることは容易に理解されよう。そして、それは極めて全体性をもった概念である。住居の質は、単に住戸の規模や衛生、日照や通風といった条件によって規定されるのではなく、住宅群の形態や住宅の構造、住居の内部構成を含めて全環境の構成の問題として捉えられるべきであることがそこでの基調である。一九七〇年代の半ばに至って、住ストック数が全世帯数を超え、にわかに「量から質へ」というスローガンが叫ばれ出したのであるが、少なくとも西山においては、当初から「住居の質」こそが問題である、また、常に問題であったと言えるであろう。
(二)「型」計画の特殊性
「国民住居」の計画という課題を前提とする時、建築家にとって個々の住宅の設計を行う場合とは異なった方法が要求される。そこで、西山夘三が提示したのが、「型による解決」である。一般に、標準設計のもつ問題が既にそこにはある。西山において、それが極めて特殊なものであることは意識されている。「型による解決」が支持される理由として西山が挙げているのは以下の理由である。
住宅は規模小にして、しかも数的に大量に建設されるものであり、しかもそれに対して提出される要求条件は国民生活の標準化と居住集団(家族・世帯)の類型化にもとづいて、一定の共通の気候的及び機構材的(ママ)条件の下に要求条件そのものが少数の類型に集中統一されるという使用者側の条件。
之が大量的・合理的建設のためには単にその材料素材の標準化・規格化のみならず、建築部品(半完成構成素材)から建築構成(室空間及びその組み合わせ等)にいたるまで規格化・類型化が有利とせられるという生産上の条件。
国民の各々をその分に応じた適性なる生活を営ましむべき観点よりする生活の標準化、国民にその生活環境を最大限に有意義に利用せしむべき生活訓練の容易なる遂行、のためにそれを統一整備するという、生活指導と教化上の条件。
国民住居の標準化と、それによる生活指導と教化、そして大量生産のための規格化、類型化といった条件は、そのまま戦後の公共住宅のあり方を支えてきたものと言っていいのであるが、一方で、戦時体制下の状況そのものを背景とするものでもある。型計画による方法は、西山に依れば「国家的総合的計画の下に住宅経済が運用され国民住居に対する国家的規制が居住状態の実現を全国民に対して一貫して実現せしめるといふ場合にのみー或いは少なくとも国民的最低居住条件が定立された場合の最低限住居に於いてのみー可能である。」(第八章)のである。
(三)標準型の問題
型計画による「国民住居」計画が極めて特殊な回路におけるものであり、しかも現実性を欠いていることは西山において当初から意識されている。しかし、標準設計あるいは規格設計の問題は、別の形で(例えば計画基準の問題として)問題としうる。西山は、一方で、庶民住宅の問題が、現実には「市場目当ての『商品』」のデザインと云う形をとって表れる」ことを踏まえながら、その商品としての住宅を、顧客の目先の要求に迎合する営利性に先導されたものではなくて、国民を教化指導し、それによって新しい国土を組織して行く国家的意図によって先導する」ことを主張しており、そうしたレヴェルで計画基準の問題を考えることができる筈である。
標準型(標準案)の設定に関しても、西山が極めて慎重であることは留意されていい。標準型は決して固定的に捉えられてはいないのである。その要点を記せばおよそ以下のようになろう。
標準型の前提として、いくつかの型系列が用意されていなければならない。住居者の要求に適合せしめるためには型が豊富であればある程よいと思われるが、現実には多過ぎても少なすぎてもよくなく、型を基本的に現実するものはその需要材料、住宅市場形成の具体的条件如何である。
標準案(標準型)は、基準規定が表し得ない各種条件の総合規定を具体的な形で表したというだけで、一つの過程的な存在とみるべきである。それは、諸条件に対する標本的解決であり、場合によっては、出発点においてうちたてた条件を変更することも要求される。
型の規定は、当面の状況では、家族構成の変化に対応した規定とならざるを得ない。家族構成が変化する度に住宅を変えることは今のところ不可能であり、型の採択にあたってはその各々が家族構成の数段階の変化に対し対応し得るように互いに重複した形で設定することが必要である。
基本型に対する種々の変種の数は豊富に設けられてよいが、居住者がその変種の利用損失を真にみわけて自己に適する住宅をみつける能力をもち、しかもそのしばしばおこる選択変更を差支えなく実行し得るような分配機構と、それを可能にする充分な量が与えられなければ、一般にはその豊富さは無意味である。
標準案は、具体的建設における特殊な条件に即してしばしば改善さるべきものであり、また、社会経済的条件の変化に伴って、絶えず改革さるべきものである。
西山は、戦後、「住宅産業」、「商品化住宅」に対しては頑なと思えるほどの拒否的態度をとり続ける。戦前期においては遥かに柔軟で透徹した思考が示されているといっていいと思う。
(四)食寝分離論
食寝分離論を中心とする具体的な居住方式の提案については、多くを論ずる必要はないであろう。食寝分離の主張に象徴される極小住宅における様々な提案は、極めて実践的な意味をもったと言っていい。住居水準の切り下げすら強いられる戦時体制下におけるそれは、「抵抗の論理」であった。しかし、それが西山の理論展開におけるほんの部分における提案であったことは以上からも明かであろう。食寝分離の主張は、戦後、ダイニング・キッチン(DK)という実に日本に独特の空間を生むことになるのであるが、西山にとって、「食室と寝室が分離される事は秩序ある生活にとって最低限の要求である」にすぎない。
「…将来に課せられた重要課題は何よりも住居水準の問題として、政治的経済的領域に於いて解決されるべきものであるが、同時にそれは個々の住居の形式の基本的制約条件たる住居施設の全体系の総合的再編成、及び之に基づく総合的生活様式、狭くは住宅内の居住者構成に対する慎重なる構想と、過去の封建的屋内作法秩序に代わるべき新住居構成に適合した新生活作法と生活倫理の樹立に関連する広汎な生活文化の問題である事を銘記すべきである。食寝分離は問題のかかる展開の第一歩である。」(第十一章)
以上はもとより言うまでもないことであった筈である。戦後半世紀を経て食寝分離論が問題にならないことは西山自身によって明言されるのである[xxxiv]34。
(五)居住習俗の問題ー伝統と地方性ー
『国民住居論攷』に収められた論考の中で、最も興味深いのは「居住慣習の指導方向」(第十三章)と題された小論である。軽いエッセイといった趣きもあり、論理の展開を主とする他の論考の中で一つだけ異質である。収録時に付された位置づけによれば、住居習俗、居住慣習の指導、教化は、つねに「高き国家的倫理性」によって貫かれていなければならず、「居住訓練」を実施すべきである、というのが主旨のように書かれているのであるが、今読んでそうした印象は必ずしもない。むしろ、「型による解決」において見落とされたかに見える問題がそこで断片的に扱われていることにおいて貴重なものといっていいのである。
具体的には「地方性」の問題、それを含んだ居住習俗の問題をどう捉えるかというのがそこでのテーマである。長屋建てか一戸建てか、一穴便所か、二穴便所か、椅子式か座式かといった具体的な問題を例としながら、西山が主張するのは、地方的に存在する住宅様式、居住慣習、住居観念を一方的に否定するのではなく、それぞれの価値によって再評価した上で発展的に総合することである。また、既存の居住習俗における多くの不合理性を指摘しながらも、一方、多くを学ばねばならないとも書いている。
勿論、基調は教化、指導による、新たな居住様式の確立にあり、地方性の問題、居住習俗の問題は、その過程における現実的な問題として提起されているにすぎない。地方的な型に独自性をみるという視点は希薄であり、また問題の指摘以上の掘り下げはない。しかし、西山がそこで東北農村の生活改善が、全く現実的な基盤を欠いて主張されていることを批判しながら、居住習俗のもつ価値の問題を提起している点は留意されていいのである。
西山のこうした視点は、戦後、必ずしも豊かに展開されてこなかったのではないか。
(六)住居形式の問題
住居形式の問題として、西山夘三が論究しているのは「長屋建住宅の防火構造法」(第十五章)と「二階建住宅」(第十六章)の問題であるのであるが、そこでの主題は、集合的住居形式の問題である。問題は当然、土地、住宅の所有関係に及ぶ。持家主義、同潤会、住宅営団の分譲住宅重点主義を徹底批判しながら都市住居の形式として集合的住居形式の可能性を説くのが基調である。当時、同潤会のアパートメントハウスが具体化されつつあったとは言え、集合的住居形式として具体的に検討しうる形態は庶民住宅においてそう多くはない。また二階建住宅もかならずしも一般的ではなかった。同潤会のアパートメントハウスを高々個室アパートにすぎないとしながら、関西を中心とした伝統的形式としての長屋形式を検討するところには、そのしっかりした視座をみることはできるのであるが、そこでの論考は今日の眼からみればものたりないと言っていい。西山の計画学の方法論が現実に存在するものを前提として組み立てられる以上、新たな形式としての集合住居形式についての論考は弱い。その限界を示すものと言えるかもしれない。しかし、その論の全体フレームの中で住居形式についての論考は不可欠であり、住戸計画の問題と等価の意味をもっていたことは明かであろう。
(七)住宅産業
住宅産業についての論考は、先述したようにその大半は住宅の大量生産のための規格化に伴う、建築単位、基準寸法に関する論考であるが、「住宅産業の再組織」(第十七章)には、住宅産業全体の編成の構想について簡単に触れられている。全体は、既にみた建築生産体制の変革についての主張に沿うものと言っていい。すなわち、住宅産業を近代的産業とすること、「整然たる分業組織と各部の徹底的専門化を追求する」ことによって、新たな技術体系にもとづいた住宅体制をつくることが基調となっている。ほとんどは将来の問題とされるのであるが、注目すべきは住宅営団を住宅産業の企画中枢として位置づけ、さらに具体的に建設事業を行う実践的組織体への方向性が示されていることである。そこには、「家主と図面建築家の集中管理機構」にすぎず、実際の仕事のすべてを中小の請負業者に委ねている住宅公団への大いなる不満が示されているのである。
「住宅生産における産業革命」という言葉が用いられるのであるが、全体の構想は「我国の建築家」(第一章)に依れば既に簡単に触れたように以下のようなものである。
全国住宅建設会社(半官半民国策会社):全国小住宅建設の三分の一程度を掌把する。全建築材料の全国的配給統制会社といて業務を開始、漸次、手工業的材料生産(畳、建具、家具、窯業等)を従属化、全国的統一建材規格と合理的材料生産機構の創出につとめ住宅生産の工業化を用意する。一方、建築労働者組合を統制下に結集、将来は、建築生産の大工業化を準備する。
建築技術工組合と技術工養成機関:現在の各職組合を統制組合とし、監督官庁の下に統一する。建設戦士の育成のため各種技術工の養成機関を設立して旧徒弟制度の崩壊にそなえ、労働者一般の能力、作業条件、賃金等を指導統制するほか、資格制度も設ける。
地域別住宅経営会社:住宅経営を目的とする。住宅形式は普通住宅及び短期住宅(バラック)の二種とし、建設は住宅建設会社に依頼する。
住宅組合:特に区画整理事業と結合する一団地住宅建設に対する住宅組合の活動を指導奨励し、低利資金の融通を有利にうけ得るようにする。
決戦下の、あまりに統制的で翼賛的な構想ではある。こうした構想に「国家の建築家」の行きついた地平をみることができるであろう。しかし、旧徒弟制度の崩壊にそなえるなど、今日的な課題も既に提出済みである。
以上、簡単に『国民住居論攷』のフレームに関わる要点について触れた。細かい点についての議論は残されていようが、およそアウトラインは押さえたつもりである。上記の整理は、論の全体のフレームが「国家」そのもののフレームと重なり合うことにおいて、しかも、強力な国家権力による統制を前提とすることにおいて意味をもつことを確認した上で、むしろ西山理論のカヴァーする領域の広さを確認する構えをとったものである。そうした意味では、西山理論をその部分において矮小化することへの批判が基調となっているかもしれない。『国民住居論攷』を今読み直す意味は、そこに既に今日の日本の住まいをめぐる基本的な諸問題のほとんど全てを見出すことができるからであってそれ以上でもそれ以下でもない。
戦前期において、住まいの問題をめぐって西山ほど総合的な提起をなし得た建築家はいない。そうした意味で西山夘三は偉大であった。しかし、西山夘三が前提とし、そして行きついた地平は、明らかにわれわれが再び目指すものではない。「国民の住居に望む希望よ高かれ。併し総ては戦後にーー之が今要求されているのである」(第二十三章)というのが、『国民住居論攷』の最後の言葉なのであるが、果たして戦後半世紀の歩みはどうであったのか。既に戦後まもなくそのフレーム自体は大きく転倒されねばならなかったのではないか。西山自身において、そのフレーム自体が固定的に保持されているとすれば、それこそ大きな問題であった。われわれがなすべきは、『国民住居論攷』における提起の総合性を引き受けながら、その全体を転倒させる新たなパラダイムを展開することであり、それを目指す実践を積み重ねることではなかったか。
小結
以上、三回にわたる連載は、基本的に「ハウジング計画論ノート」と題して『群居』に連載したもののうち、西山夘三に関するものを再編成したものである[xxxv]35群居七号、九号一〇号。必ずしも、新しい視点が付加されているわけではないが、全面的に手を入れた。但し、あくまで序説にすぎない。ただ、以上に繰り返し述べたように、基本的な問題は、戦前期において既に確認できると思う。御批判頂ければと思う。
問題は戦後である。戦後については、膨大な資料を整理する必要がある。西山文庫の構想があると聞くが、西山スクールの諸先生の総括がまず必要であろう。以上のささやかな論文への批判をまって、戦後についても機会を得られれば論じたいと思う。
[1]1 一九一一年三月一日大阪~一九九四年四月二日京都 建築学者 八三歳。京都大学名誉教授。住宅問題、住宅・地域・都市計画専攻。一九八七年日本建築学会大賞授賞。その精力的な調査研究を基に戦後日本の住宅のあり方に大きな指針を与えた。戦後住居の象徴となったダイニング・キッチンは、その食寝分離論によって生み出されたものである。
一九三三年、京都帝国大学(工学部)を卒業、石本建築事務所、住宅営団、京都大学営繕課を経て、一九四六年京都大学助教授となる。以後京都大学にあって、その庶民住宅に関する研究を基礎に日本の建築界に大きな足跡を残した。また、都市計画、地域計画の分野に多くの人材を育てた。京都帝国大学の学生時代にデザムというグループを組織、以後、戦前の青年建築家連盟、戦後の新日本建築家集団(NAU)などを組織し、一貫して日本の建築運動をリードした運 動家として知られる。晩年は、古都京都などの歴史的環境の保存の問題に取り組み、無原則な開発に対して異を唱え続けた。建築評論に健筆をふるい、その発言は一貫して建築界に大きな影響力をもってきた。著作は、『西山夘三著作集』全四巻、『日本のすまい』全三巻、『日本の住宅問題』、『住み方の記』など多数にのぼる。とりわけ、戦後まもなく書かれた『これからのすまい』は広く読まれ、その十原則は戦後の日本のすまいのありかたについての大きな指針となった。
[1]2 拙稿 「戦争と住宅ー西山夘三の『国民住居論攷』を読む(一)ーハウジング計画論ノート6」(『群居』7号)
拙稿 「戦争と住宅ー西山夘三の『国民住居論攷』を読む(三)ーハウジング計画論ノート8」(『群居』9号)
拙稿 「戦争と住宅ー西山夘三の『国民住居論攷』を読む(四)ーハウジング計画論ノート8」(『群居』10号)
[1]3 布野修司:「戦後住宅の揺藍ー西山夘三氏に聞く」、『群居』6号、1984年/西山夘三インタビュー 「都市における居住思想」、聞き手 布野修司、『建築雑誌』、1988年3月号/西山夘三氏インタビュー 「食寝分離論を超えるもの」 インタビュアー 布野修司、『年金と住宅』、1993年9月
[1]4 絹谷祐規、『生活・住宅・地域計画』、頚草書房、1965年、にその経緯が記されている。
[1]5 吉武泰水、「追悼 西山夘三先生」、『建築文化』、1994年6月号
[1]6 具体的には、逓信省の下級雇員であるという「階級意識に目覚め」、無料診療所や労働者住宅など社会性をもったテーマをとりあげるようになったことを指していう。
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[1]12 『生活空間の探求』上『建築学入門』、下『戦争と住宅』、頚草書房、1983年
[1]13 稲垣栄三、『日本の近代建築』上下、SD選書、1978年。および、拙著『戦後建築論ノート』、相模書房、1981年
[1]14 拙稿、「建築学の系譜ーー近代日本におけるその史的展開」、新建築学体系1『建築概論』、彰国社、1982年
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[1]19 原沢東吾、『建築哲学序説』、1956年、『都市と建築の哲学』、1972年参照。石原憲治には、『必然の建築』がある。
[1]20 『建築学入門』特に は、その揺れを窺う上で興味深い。
[1]21 『国際建築』、1930年10月号
[1]22 拙著、『戦後建築論ノート』
[1]23 イ・マーツア、『現代欧州の芸術』、蔵原・杉本訳、1929年、『世界芸術発達史』、熊沢訳、1931年など
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[1]25 論文の構成は、一.住居標準論、二.生活の全体構造と住居、三.我国都市庶民住宅の発展の歴史的考察、四.庶民住宅の現況、五.都市住宅の平面型的研究、六.庶民住宅における居住の状況、七.居住者集団の構成、八.庶民住宅の設計計画、である。学位が授与されたのは一九四七年四月である。
[1]26 相模書房。第一編 住居問題、第二編 住居経済、第三編 住居の質、の三部構成。「建築新書」シリーズの一冊として刊行。
[1]27 相模書房。この位置づけをめぐっては、『戦後建築論ノート』(拙著 相模書房 一九八一年)参照
[1]28 京都府出版共同組合。一般向けにかみくだいて書かれている。
[1]29 『戦争と住宅ーー生活空間の探求 下巻』 頚草書房 一九八三年 に詳しい。
[1]30 A.クラインの平面計画論をめぐっては当時盛んに議論される。棚橋諒「小住宅平面研究の新方法」(『建築学研究 第五集』 一九三〇年)、川喜田煉七郎「アレキサンダー・クライン氏の与えた小住宅平面への影響」(『建築画報』 一九三〇.三)、「ア・クライン氏の小住宅平面の研究」(『国際建築』 一九三〇.三~四)など。
[1]31 京都大学の『建築学研究』に、森田慶一と連名で連載。
[1]32 拙稿 「民家研究の出自ー今和次郎と柳田国男ー」(ハウジング計画論ノート三、四 『群居』三号、四号)参照
[1]33 ハウジング計画論ノート一 『群居』創刊号「初期住宅問題と建築家」 一九八二年
[1]34 西山夘三インタビュー「食寝分離論を超えるもの」『年金と住宅』( 年 月)
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