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2025年4月27日日曜日

第Ⅳ章 ヒンドゥの建築世界…神々の宇宙布野修司編:アジア都市建築史, アジア都市建築研究会,昭和堂,2003年8月

 

第Ⅳ章 ヒンドゥの建築世界…神々の宇宙

 


panorama インド世界

インド世界ということで、空間的にはインド亜大陸、1947年までのインド帝国の領土、を対象地域としたい。今日一般的に南アジアと呼ばれ、インド、パキスタン、ネパール、ブータン、バングラデシュ、スリランカ、モルディブの七カ国がある。北をカラコルム、ヒマラヤ山脈、東をアラカン山脈、西をトバカカール山脈によって画され、南はインド洋に逆三角形状に突き出している。古来相対的独立性は高い地域である。

インド---サンスクリット語でシンドSindhu(インダス川)、ペルシャ語でヒンドゥHindhu、ギリシャ語でインドスIndos、漢訳されて、身毒、賢豆、天竺---がひとつの世界として認識されるのは紀元前三世紀頃だという。古くはリグ・ヴェーダに見える最も有力な部族、バーラタ族Bharataの領土=バーラタヴァルシャBharatavarsaと呼ばれた。仏教では、ジャンブド・ヴィーバ(閻浮提えんぶだい)あるいは転輪聖王(チャクラヴァルティンてんりんじょうおう)の国土である。

ここではこのインド世界の建築に眼を向けたい。

インド建築史の先駆であるジェームス・ファーガソンJames Fergussonの「印度及東洋建築史」"History of Indian and Eastern Architecture", London,1899は、一巻がⅠ書BOOK I仏教建築BUDDIST ARCHITECTURE、Ⅱ書ヒマラヤの建築ARCHITECTURE IN THE HIMALAYAS、Ⅲ書ドラヴィダ様式DRAVIDIAN STYLE、Ⅳ書チャルキア様式CHALUKYAN STYLE、続いて二巻がⅤ書ジャイナ建築JAINA ARCHITECTURE、Ⅵ書北方/インド・アーリヤ様式NORTHERN OR INDO-ARYAN STYLE、Ⅶ書インド・サラセン様式INDO SARACENIC ARCHITECTURE、そして東洋建築史がⅧ書インド遠方FURTHER INDIA、Ⅸ書中国と日本という構成である。ドラヴィダ様式では南アジアの、チャルキヤ様式ではデカン高原のヒンドゥ建築を扱っている。

伊東忠太の「印度建築史」は、緒言、第一章総論に続いて、第二章仏教建築、第三章、闇伊那教建築、第四章印度教建築という構成である。第四章ではファーガソンに倣って「インド・アールヤ式」「チャルキヤ式」「ドラヴィダ式」の三つを立てている。北部、中部、南部という三つの地域区分がその前提である。村田治郎は、1序説に続いて、先史時代と原始時代(2)を扱い、古代(3)、中世(4)、近世(5)という時代区分に従い、インド周辺のインド系建築(6)として、ネパール、セイロン、インドネシア、カンボディア、ビルマ、アフガニスタンを扱っている。最近作としてクリストファー・タジェルChristopher Tadgell, "The History of Architecture in India", Architecture Design and Technology Press London,1990は、時代を追う構成をとっている。初期インドEARLY INDIA1 仏教支配BUDDISTS PREDOMINANT 4C B.C.-4C A.D.2 仏教の変形と消滅 ヒンドゥ教支配BUDDISTS TRANSFORMED AND   HINDU PREDOMINANT 5C-13C3 イスラームの侵入 ヒンドゥ教、ジャイナ教の防御 THE ADVENT OF ISLAM; HINDUS AND JAINAS DEFENSIVE 13C-18C4 後期インドLATE INDIAという時代区分である。仏教建築、ジャイナ教建築、ヒンドゥ教建築(そしてイスラーム建築)という宗教建築別の区分、北部と南部(あるいは中部)という地域区分、インダス文明の時代以降、ヒンドゥ時代、イスラーム時代、英領時代、独立以降という便宜的な時代区分は前提とされている。

以上のようなフレームを前提としながら、本章で焦点を当てるのはヒンドゥの建築である。ジャイナ教の建築もインド世界独自のものとしてここで触れたい。インド世界の自然生態は極めて多様であり、民族、言語、宗教、社会経済文化のいずれの局面を見ても多様である。建築もまた多様な華を咲かせてきた。仏教建築、イスラーム建築、あるいは植民地建築の展開、そしてインドの都城については他章に譲ろう。実に多様なインド世界をひとつの地域として成立させてきた核にヒンドゥ教、そしてカースト制がある。その建築世界がここでのテーマである。そして「インド化」された東南アジアにも眼を向けよう。

 

1.    ヒンドゥ教の神々

1 ヒンドゥ教の成立

インドに最も早く住みついたのはオーストロアジア系の民族とされる。そして、紀元前3500年頃に西方からドラヴィダ系の民族が到来し居住域を広げていった。そして、紀元前2300年頃、インダス川流域を中心とする地域に一大青銅器文明であるインダス都市文明(ハラッパ、モヘンジョダロ)が生まれる。しかし、文献から知られるのは紀元前1200年頃からのアーリア人の進入以降である。ヒンドゥ教の世界が成立する過程はおよそ以下のようである。

 紀元前800年頃、鉄器の使用が始まり稲作が開始される。農耕社会の進展とともにバラモン(司祭)が台頭し、バラモン教の諸経典が成立するとともにカースト制度の原初形態としてヴァルナ制が成立する。紀元前600年頃になると政治経済文化の中心は東方のガンガー流域に移る。諸都市国家が覇を競う中で台頭したのがマガダ国である。紀元前4世紀半ばにはガンガの全流域を支配下に治めるが、この間、バラモン教に対抗する新宗教としてジャイナ教、仏教が成立する。

 インダス川流域はアケメネス朝ペルシャの属州となり、また、アレクサンダー大王の征服を受ける(B.C.326325年)。このギリシャ人勢力を一掃し、インド史上初めて統一帝国を成立させたのがマガタ国に起こったマウリヤ朝である。そのアショカ王はダルマに基づく統治を行い仏教を広めた。、紀元前Ⅰ世紀頃から再び西北方から諸民族が進入する。イラン系と見られるクシャーナ族が建てたのがクシャーナ朝である。そのカニシカ王は仏典結集を行い、仏教を手厚く保護した。

一方、紀元前後にかけて、ヒンドゥ教の核となる長編叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』、また、『マヌ法典』が成立する。二大叙事詩は紀元前数世紀に原形が成立し、34世紀には成立したとされる。マヌ法典は紀元前200年から紀元後200年に成立したとされる。

4世紀初頭に、チャンドラグプタⅠ世(在位319335)が出て、息子のサムドラグプタ(在位335376)とともにマウリヤ朝以来の強力な統一政権となるグプタ朝を打ち立てる。そのグプタ朝のもとで今日に至るヒンドゥ教的秩序が確立することになる。

 

2 ヒンドゥ教

 ヒンドゥ教は特定の教祖によって創始されたものではない。リグ・ヴェーダRg-veda、ヤジュル・ヴェーダYajur-veda、サーマ・ヴェーダSama-veda、アタルヴァ・ヴェーダAtharva-vedaといったヴェーダの聖典を基に発達したバラモン教が土着の民間宗教を吸収して大きく変貌をとげたのがヒンドゥ教である。広義にはバラモン教を含む。

聖典として、ヴェーダの他、二大叙事詩、その一部である『バガヴァッド・ギーター』、プラーナ(古譚)、そしてマヌ法典など膨大な数のサンスクリット文献がある。

ヒンドゥ教は多神教であり、太陽の神スーリヤ、月神ヴァルナ、の神アグニ、風神ヴァーユ、暴風雨神ルドラ、河の神ガンガ、英雄神インドラなど実に多彩である。全ての自然景観の要素(樹木、丘陵、山腹、洞窟、湧泉、湖沼・・・)に聖性が宿る神が宿ると考えられている。

 最もポピュラーなのはシヴァ神とヴィシュヌ神である。また、ブラフマーを加えて三神が一体(トリムルティ)と考えられる。ブラフマーは宇宙の創造を、ヴィシュヌはその維持を、シヴァはその破壊を任務としている。

 ヴィシュヌはラクシュミ(吉祥天)を妃とし、マツヤ(魚)、クールマ(亀)、バラーハ(猪)、ヌリシンハ(人獅子)、バーマナ(小人)、ラーマ、クリシュナ、ブッダなどに化身(アバターラ)する。

 ヒンドゥ教では数多くの女神が崇拝される。女神崇拝は古来行われるが、紀元後7世紀以降特に盛んになる。シヴァの妃パールヴァティーが有力で、貞女神サティー、水牛の魔神を殺すドゥルガー、血を好むカーリー女神、大母神マハーデーヴィーともなる。他にヴィシュヌの妃ラクシュミー、叡智の女神サラスヴァティー(弁財天)など多彩である。

また、方位に関わる守護神として、インドラ(帝釈天:東)、ヤマ(閻魔:南)、マカラ(魚:西)、クベーラ(財宝神:北)、アグニ(火神:東南)などがある。さらにヤクシャ、ガンダルバなどの半神半人、ナンディ(牛)、ハヌマーン(猿)などの動物、シェーシャ(蛇)・・・など枚挙に暇がない。

 大部分の宗派はヴィシュヌ派とシヴァ派であるが、他に重要な宗派としてシヴァ神の妃ドゥルガーあるいはカーリーを崇拝するシャクティ(性力)派あるいはタントラ派がある。イスラーム神秘主義(スーフィズム)の影響を受けヒンドゥ教とイスラーム教の融合を図ろうとして16世紀に成立したのがシク教である。

 ヒンドゥ教徒の社会生活を規定する法(ダルマ)はカースト制を基礎にしている。カーストはポルトガル語のカスタ(家柄、血統)に由来するが、インドでは同一血統の集団をジャーティといい、バラモン(司祭)、クシャトリア(王侯・貴族)、バイシャ(庶民・農牧商)、シュードラ(奴隷)の四姓をヴァルナという。ヴァルナは本来「色」を意味する。4ヴァルナの枠外に置かれるのが不可触民(指定カースト)である。このジャーティ・ヴァルナ制のもとでは、結婚、共食儀礼、職業などに様々な制限、ルールが設けられているのである。

 また、ヒンドゥ教徒の生活は実に多くの儀礼によって律せられている。一生に40を超える通過儀礼があるという。また、毎朝、川や池で沐浴し神像を礼拝してから食事を行う、掃き清めた出入り口にヤントラ図形を描くなど、日々の生活も種々の儀礼行為から成り立っている。そうした儀礼行為の場としてヒンドゥ教の寺院をはじめとする空間はつくられてきた。

 

3 神々の図像

 ヒンドゥ教の建築、そして空間を味わうためには、その神々の世界を思い描く必要がある。ヒンドゥ教の神々は仏教の中にも入り込んでおり、日本人には親しいものが少なくないし、動物など図像はわかりやすい。まず、ヒンドゥの神々を見分ける図像を知ることが大切である。

 手掛かりとなるのは、神像の持ち物、着物、乗り物である。また、神々の関係(家族、化身)である。神像は普通4本の手を持ち、それぞれ固有の持ち物を持っている。また、独特の着衣、髪飾り、首飾りをしている。そして、神々は固有の乗り物(ヴァーハナ)として特定の動物と関連づけられている。以下に主だったものをみよう。

 シヴァは裸体に虎の衣を纏い、首に数珠と蛇を巻きつけた姿で描かれる。額に第三の眼を持つのが特徴である。そして、手に三つ又の槍(三叉戟)と小さな太鼓、小壷を持つ。最大のシンボルは男根の形をしたリンガである。そして、乗り物はナンディ(牛)である。三叉戟、ナンディ、リンガがあればシヴァである。また、シヴァはしばしば妃パールヴァティ、また息子のガネシャ(聖天)、スカンダ(韋駄天)を加えてシヴァ・ファミリーとして描かれることが多い。富と繁栄、知恵と学問の神ガネシャは象顔でわかりやすいし、戦争の神スカンダの乗り物は孔雀である。シヴァは踊りの王ともされ、「踊るシヴァ」像が人気がある。

 ヴィシュヌは5ないし7頭のナーガ(蛇)の傘を頭上にし、アナンタ(永遠という意)竜王の上に通常半跏の形で腰掛ける。四本の腕は、円輪チャクラ、棍棒、法螺貝、蓮華をもつ。乗り物はガルーダ(神鳥)である。上述したように、魚、亀、猪、人獅子はヴィシュヌの化身である。ヴィシュヌの妃ラクシュミー(吉祥天)は富と幸運の女神であるが、水に浮かぶ蓮華の上に立ち手には蓮の花を持つ。富の象徴としてコインや紙幣、宝石類が描かれることが多い。乗り物は象である。

 ブラフマー(梵天)は4ヴェーダを表す四つの顔で描かれる。四本の腕には、数珠、聖典ヴェーダ、小壷、杓をもつ。乗り物はハンサ(鵞鳥、白鳥)である。ブラフマーの妃サラスヴァティ(弁才天)は、学問と技芸の神であり、一対の腕に数珠とヴェーダ(椰子文書)を持ち、一対の腕でヴィーナ(琵琶)を弾く。乗り物は孔雀である。水の神であり背後に川が描かれることが多い。

シヴァの妃パールヴァティは様々な異名を持ち性格を変えるが、武器をとって戦う女神となるのがドゥルガーとカーリーである。ドゥルガー女神は10本の腕に様々な武器を持ち、殺戮を行う場面が図像化される。乗り物は虎もしくは獅子である。カーリー女神は、さらに恐ろしく、生首などを持つ姿として描かれることが多い。

 その他わかりやすいのは孫悟空のモデルになったともされる猿の神ハヌマーンである。神々の乗り物である様々な動物へ着目することが、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』の世界とともにヒンドゥの建築世界に至る近道である。

 

2.ヒンドゥ建築

1 ヒンドゥ寺院

ヒンドゥ社会の中心にあるのがヒンドゥ寺院である。寺院は、神への礼拝の場として様々な儀礼が行われる場であり、教育の場であり、芸術活動(舞踊、彫刻)の場であり、ヒンドゥ教徒にとって全ての場である。実際、寺院での活動を核として村の経済もなりたってきた。ヒンドゥのコスモロジーと都城についてはV章で扱うが、宇宙そして都市の中心に置かれるのがヒンドゥ寺院である。

まず、ヒンドゥ寺院は、神の座あるいは壇(プラサーダ)、神の家(デヴァ・グリハム)である。神の像とその象徴がその中に収められる。神々は神像に一時的に宿ることによって顕在化すると考えられる。そして、人々にとってヒンドゥ寺院は礼拝という行為を通じて神との合一を体験する場である。すなわち、寺院は礼拝の場であり、神との交流のための儀礼の場である。儀礼を司るのがバラモンである。バラモンは地域社会の代表として、神と人間世界とを媒介する役割を担う。日々の祭礼を行うとともに、集団礼拝も司る。毎年定期の祭礼として、山車(ラタ)を用いる巡行の祭りもある。儀礼の場合、右肩回り(時計回り)で神像や寺院の回りを回繞(プラダクシナー)する。寺院の立地する場所、そして寺院の形式はこうした儀礼の形式に大きく関わっている

ヒンドゥ寺院は、神の家として宇宙と同一の形をしたものと考えられる。ヒンドゥ世界の中心、その宇宙の中心に位置するのはメール山である。また、シヴァの天上の住まいはカイラーサ山である。ヒンドゥ寺院はしばしばそうした至高の山にたとえられる。その形態は山の峰、山頂(シカラ)を象徴する。また一方、ヒンドゥ寺院は聖なる洞窟にたとえられる。洞窟は胎内であり、神が宿る場所である。そうした空間としてヒンドゥ寺院はつくられてきたのである。

 

2 マナサラの世界

インドには古来建築技術に関するマニュアルがある。『シルパ・シャストラSilpa Sastra』と呼ばれる諸技芸の書、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群のことである。最も完全なものは『マナサラ』Manasaraであり、他に『マヤマタ』Mayamata、『カサヤパ』Casyapa、『ヴァユガナサ』Vayghanasa、『スチャラディカラ』Scaladhicara、『ヴィスバカラミヤ』Viswacaramiya、『サナテゥチュマラ』Sanatucumara、『サラスバトゥヤム』Saraswatyam、『パンチャラトゥラム』Pancharatramなどがある。『マヤマタ』の著者はマヤMayaで、天文学書『スルヤシッダンタ』Suryasiddhant)の編者であると考えられている。内容は『マナサラ』と大差がない。『カサヤパ』は著者名が本の題名に成っている。しかし、著者は人類の先祖の一人で大洪水の時に生き残った7聖人の第一に位置する人であり、神話上の人物である。『ヴァユガナサ』も著者名を書名に用いている。著者は「ヴァイナバ」Vainava僧団の創設者である。内容は建築的というよりむしろ宗教的である。『スチャラディカラ』の著者はアガスタヤ Agastya とされている。この本にしかない項目もあり、彫刻に関しては優れている。その他は『マナサラ』と大差無い。『ヴィスバカラミヤ』も内容的には『マヤマタ』に基づくものが多く、『マナサラ』に近い。『サナテゥチュマラ』は、『ヴィスバカラミヤ』に基づくものであり、『マナサラ』の流れを汲むものである。従って、シルパ・シャストラに関しては『マナサラ』を参照するのが最適である。

『マナサラ・シルパシャストラ』という題名であるが、「マナ mana」は「寸法」また「サラ sara」は「基準」を意味し、「マナサラ」とは「寸法の基準」の意味である。『マナサラ』とは作者の名前であるという説もある。また、「シルパ Silpa」とは「規範」、「シャストラ Sastra」とは「科学」を意味する。「ヴァストゥ Vastu」は「建築」であり、「ヴァーストゥ・シャーストラ Vastu Sastra」は「建築の科学」の意である。従って、本来的には『マナサラ・バストゥ・シャストラ』と呼ばれる。

『マナサラ』はサンスクリット語で書かれているが、その内容はアチャルヤ P.K.Acharyaの英訳(1934年)によって広く知られる。

全体は70章からなる。まず1章で創造者ブラフマーに対する祈りが捧げられ全体の内容が簡単に触れられ、建築家の資格と寸法体系(2章)、建築の分類(3章)、敷地の選定(4章)、土壌検査(5章)、方位棒の建立(6章)、敷地計画(7章)、供犠供物(8章)と続く。9章は村、10章は都市と城塞、11章から17章は建築各部、18章から30章までは1階建てから12階建ての建築が順次扱われる。31章は宮廷、以下建築類型別の記述が42章まで続く。43章は車でさらに、家具、神像の寸法にまで記述は及んでいる。極めて総合的、体系的である。成立年代は諸説あるが、アチャルヤ によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものである。興味深いのはヴィトルヴィウスの『建築十書』の構成に極めてよく似ていることである。

 

3 ヒンドゥ建築の技法

まず寸法体系を見よう。第2章は、建築家の資格、階層(建築家、設計製図師、画家、大工指物師)を述べた上で、寸法の体系を明らかにする。八進法が用いられ、知覚可能な最小の単位はパラマーヌparama~nu(原子)、その8倍がラタドゥーリratha-dhu~li(車塵、分子)、その8倍がヴァーラーグラva~la~gra(髪の毛)、さらにシラミの卵、シラミ、ヤバyaba(大麦の粒)となって指の幅アングラanguraとなる。このアングラには大中小があり、8ヤバ、7ヤバ、6ヤバの三種がある。

建築にはこのアングラが単位として用いられるが、その12倍をヴィタスティvitasti(スパン:親指と小指の間)とする。さらにその2倍をキシュクkishku、それに1アングラを足したものをパラージャパチャpara~ja~patyaとして肘尺(キュービット)として用いる。すなわち、24アングラもしくは25アングラが肘尺とされるが、2627アングラのものもあって複雑である。26アングラをダヌール・ムシュティdhanur-mushtiというが、その4倍がダンダdandaで、さらにその8倍がラジュrajjuとなる。キシュクは広く一般的に用いられるが主として車、パラージャパチャは住居、ダヌール・ムシュティは寺院などの建造物に用いられる。距離に用いられるのがダンダである。

配置計画については9章(村)、10章(都市城塞)、32章(寺院伽藍)、36章(住宅)、40章(王宮)に記述されているが、マンダラの配置を用いるのが共通である。そのマンダラのパターンを記述するのが7章である。正方形を順次分割していくパターンがそこで名づけられている。すなわちサカラSakala(1×1=1)、ペチャカPechaka(2×2=4分割)、・・・チャンラカンタChanrakanta32×32=1024分割)の32種類である。円、正三角形の分割も同様である。

そしてこの分割パターンにミクロコスモスとしての人体、そして神々の布置としての宇宙が重ね合わせられるが、原人プルシャを当てはめたものをヴァストゥ・プルシャ・マンダラという。最も一般的に用いられるのはパラマシャーイカParama-s’a-yika9×9=81分割)もしくはチャンディタChandita8×8=64分割)である。

村落計画、都市計画についてはそれぞれ8つのタイプが区別されている。村落について挙げるとダンダカDandaka、サルバトバドラSarvatobhadra、ナンディヤバルタNandya-varta、パドマカPadmaka、スバスティカSvastika、プラスタラPurastara、カルムカKa-rmuka、チャトゥールムカChaturmukha8種である。都市および城砦についてはⅤ章に譲りたい。

建築の設計については、まず全体の規模、形式を決定し、それをもとに細部の比例関係を決定する方法が述べられている。一般の建築物については1階建てから12階建てまで、それぞれ大、中、小、全部で36の類型が分けられている。そして、幅に対して高さをどうするかに関しては1:11:11/41:1・1/2、1:113/41:2という5種類のプロポーションが用意されている。

 

4 ヒンドゥ寺院の類型

 以上のようにヒンドゥ寺院の様式には建築種別毎に、また規模毎にいくつかの類型がある。また、マナサラには、建築様式についてナガラNagara、ドラヴィダDravida式、ヴェサラVesara式という三つの区分がよく出てくる。ナガラとは都市を意味し、ドラヴィダは民族名、ヴェサラとは動物のラバ(雄ロバと雌馬との間の雑種)のことである。アチャルヤの翻訳・解説によると、頂部(26章)、山車(43章)、リンガ(52章)の形について、ナガラは四角形、ドラヴィダは八角形もしくは六角形、ヴェサラは円形をいう。しかしまた、ナガラは北方、ドラヴィダは南方、ヴェサラは東方という記述もある(52章)。地域類型としても説明される。

ファーガソンはヒンドゥ建築を大きく地域区分し、北方をインド・アーリヤ様式、南方をドラヴィダ様式、その中間を王朝名に因んでチャルキヤ様式と呼んで区別した。そして、E.B.ハヴェルHavellは、その地域区分をマナサラの言う三区分に当てはめ、それぞれナガラ式(北インド様式)、ドラヴィダ式(南インド様式)、ヴェサラ式(混成様式)と呼んだ。用語については多少混乱があるが、いずれにせよ、北部(ヒマラヤの麓から中部のデカン)、中部(デカン高原)、南部(タミル・ナドゥ州、マイソール州)という地域類型は一般的に認められている。また、西のグジャラート、東のオリッサなどにさらに地域的変化型が見られる。

 北方型と南方型のわかりやすい区別は上部構造の違いである。北方型を特徴づけるのはシカラsikharaと呼ばれる砲弾(玉蜀黍)形の頂部である。南方型の場合、基壇の上に柱梁が組まれたその上に頂部が載る。上に行くほど縮小していくテラスが重なった多層の屋根形態になる。多くのシャストラでは、前者をプラサーダprasada、後者をヴィマーナvimanaと呼んで区別している。シカラは北方では上部構造全体を指すが、南方では頂部のみを指す。南部では高塔全体をヴィマーナということから、シカラ式、ヴィマーナ式という分け方もなされる。

 北方型と南方型の違いは、さらに平面や装飾、聖像群の配列にもみられる。北方式の寺院は、ガルバ・グリハgarbha-griha(字義的には「子宮室」。寺院の内陣)と呼ばれる聖堂とその前に置かれるマンダパmandapa(ホール、柱で支えられた東屋)と呼ばれる礼拝堂からなる。前者には砲弾形、後者にはピラミッド(四角錘)形の屋根が架けられるのが一般的である。南方型を特徴づけるのはゴープラgopuraと呼ばれる楼門である。祠堂より遥かに高く、断面が台形、四角錐台に幌(ワゴン・ヴォールト)形の屋根がそびえ立つ。また、南方型の寺院は二重、三重の牆壁をめぐらす大伽藍配置をとるのが特徴である。そして、寺院を取り囲む牆壁の東西南北の中央にこのゴープラが建つ。この門があれば、インド以外の地でも南インドからヒンドゥ教が伝わったと考えていい。

ヴェサラは以上の中間形ということであるが、細かくは地域によって、各王朝によって異なる。地域的様式は各王朝の様式とほぼ一致することから、グプタ朝様式、チャルキア様式、チャンデッラ様式、パッラヴァ様式、チョーラ様式など王朝名による様式区分も見られる。以下に具体的にみよう。

 

Column 各部の名称・・・プラン

 

3.最初期のヒンドゥ寺院・・・北方型寺院の成立

ヒンドゥ建築もまた元々木造建築であった。様々なレリーフに描かれた建造物は木造であり、後の石窟寺院や石彫寺院が木造を模していることがそれを示している。石造寺院は4世紀のグプタ朝に成立したと考えられている。     

 クシャーナ朝の滅亡後、北インドは分裂状態にあったが、やがてマガダ地方の支配者であったチャンドラグプタⅠ世が勢力を得てガンジス川中流域の覇権を握る。彼はマウリヤ朝と同じくパータリプトラ(現パトナ)に都を置き、320年にグプタ朝を開いた。その子サムドラグプタ(在位335-380)からチャンドラグプタ2世(在位380-412)の治世下にグプタ朝は最盛期を迎え、東はベンガル湾から西はアラビア海にいたるまでの北インド一帯を支配する広大な帝国となる。グプタ朝の繁栄の下に文化芸術は発展を遂げインド的な古典文化が大成する。ヒンドゥ教が栄え、特にヴィシュヌとシヴァの二神への崇拝が盛んとなった。グプタ朝の王の多くはヴィシュヌ神の信奉者で、「ヴィシュヌ・プラーナ」や「バガヴァッド・ギーター」などヴィシュヌ信仰を支える聖典や叙事詩が編纂され、王朝の紋章にはヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダ(金翅鳥)が用いられた。造形美術においても、この時代に初めてヒンドゥの神々の聖像彫刻が現れる。

5世紀初期のマディヤ・プラデシュ州ティガワTigawaのカンカーリー・デヴィーKankali Devi寺院は初期ヒンドゥ寺院の原型をよく伝える。切石積みのきれいな外観で、平らな屋根をもつ方形の聖室と列柱に支えられたポーチが簡素な数段の基壇の上に建てられ、連続した軒まわりの刳形によって一体化される。この形式はサンチーの第17仏堂と非常によく似ていて、この寺院形式が宗教の違いを超えて適用されていたことを示す。サンチーの柱がまだ明らかにマウリヤ朝の様式であるのに対し、ティガワでは壺葉飾りの柱頭が採用されている。401年の刻文が彫られた最古のヒンドゥ遺構である中インドのウダヤギリの石窟寺院群でも柱頭の意匠は壺葉飾りであり、これらは新たな様式の現れを示す。

 5世紀後半になるとインドの寺院建築における基本的な主題が表れる。その主題とは(1)壁面の分節、壁面中央部の張り出しと飾り扉、(2)聖像を埋め込んだ刳形による礎石部分の装飾化、丸い台座の上に円環形の刳形が載り、その上を蛇腹が回る上端部。(3)上部構造(シカラ)の建立。(4)巡回する繞道の明示である。

 ウダヤプルUdayapurの初期の祠堂では、壁面が縦に三分割され中央の区画が張り出し、菱形模様が彫刻された刳形による帯が壁面を水平に二分割する。壁の下には装飾的な基部があり、上部には張り出した軒蛇腹が回る。軒蛇腹の上にはもう一段屋根板が加えられ、上部構造の端緒を示唆する。6世紀初期の建築であるデオガルDeogarhのダシャーヴァターラDashavatara寺院は、この時期の最も発展した段階のものである。広い基壇の上に建ち、後のヒンドゥ建築に一般的となる五堂形式(パンチャ・ヤタナ)がすでに見られる。上部構造はかなり損傷しているが、壁面の中央の区画に対応した張り出し部のあるピラミッド型の量塊が載る。聖室の扉口は、唐草模様が浅く刻まれた内枠が守門神から立ち上がり、上部中央には祭神であるヴィシュヌの聖像が掲げられ、神像のレリーフが周囲を巡る。その外側に、面取りをされ壺葉飾りの柱頭を戴く添え柱が立ち、まぐさには馬蹄形の切り妻屋根と柱廊が彫刻され、神の家の天蓋を表現する。最外枠の左右頂部には川の女神であるガンガ神とヤムナー神の聖像が置かれ、全体としてT字型の扉口が構成される。これはグプタ期の装飾芸術の傑作であり、その後の北方型寺院における扉口の様式を特徴的に表現したものである。聖室外壁面の飾り扉にはヴィシュヌ神や関連事物のレリーフが彫られ、添え柱間の基部は刳形や蛇腹を組み合わせて聖室の扉口と同様装飾される。

 デオガルの広い基壇は繞道の空間を提供したが、聖室を回る屋根付きの繞道形式の発達が知られる最も早い例は、ブマラのシヴァ寺院やナチュナNachnaのパールヴァティ寺院である。ナチュナでは、シヴァ神のカイラーサ山の住居を表現したと思われるルスチカ風石積みの基壇の上に正方形の聖室が建つ。水平の屋根で覆われ周囲の回廊よりも一段高くそびえる聖室の周囲には、かつては繞道の屋根と壁が巡っていた。

 聖室空間の上部化の流れは、シカラの建設を促進した。5世紀の建築であるビータルガオンのヴィシュヌ寺院は、この時代の現存する唯一の煉瓦造建築物である。高い基壇の上に建ち三つの部分に区画された聖室は付け柱によって分節され、ヴィシュヌ神やシヴァ神の神像がかたどられたテラコッタパネルが主要な区画にはめ込まれる。ミトゥナ像やシャクティ像による装飾帯を挟む二重の軒蛇腹の上にシカラが載る。シカラは上方ほど先細りする形で、半円形の装飾の列や刳形による層状の構成をしている。デオガルの寺院と同様、中央区画の張出が頂部まで連続することによって垂直性が強く強調される。全体の主題となるヴィシュヌ神の像に加えられた多くの半円形の装飾は、仏教石窟のレリーフに見られた積層屋根の装飾のようにも見える。ガルバ・グリハの前には入口ホールがおかれるが屋根は残っていない。ガルバ・グリハと入口ホールがともに持ち送り式ヴォールトであるのに対し、それらをつなぐ通路部分は、ヒンドゥ建築のとしてはきわめて例外的にアーチが用いられている。

 

4.石窟寺院 と石彫寺院

インドの石窟寺院は、前3世紀にマウリヤ朝のアショカ王がアージーヴィカ教に寄進したビハール州ガヤー北方のバラーバル丘の石窟群に始まる。前2世紀末からはインド西部を中心に仏教石窟の開窟が盛んとなり、アジャンター、バージャー、カールレー、ナーシクなどの前期仏教窟が開かれた。5世紀になると後期仏教窟の開窟に影響をうけて、ヒンドゥ石窟が開かれるようになる。ウダヤギリに最初のヒンドゥ窟が開かれ、6世紀中期から後期にはデカン地方北西部のジョゲーシュワリやバーダーミ、エレファンタ島などで開窟がおこなわれ、エローラではヒンドゥ窟に続いて仏教窟やジャイナ窟も展開する。またインド南東部、特にマハーバリプラムでも新たな石窟が開かれた。

ヒンドゥ窟は仏教のヴィハーラ窟から発展したと考えられる。しかし、ヒンドゥ教徒が修道的生活の必要がないことを自覚すると、僧坊が広間を囲む集中的形式は変化する。6世紀半ばに始まる前期チャルキヤ朝の都が置かれたバーダーミの第1~3窟は、内部ホールとその前面の柱廊型のベランダから構成され、奥の岩壁に石のリンガあるいは像が祀られた繞道のないガルバ・グリハが掘られている。仏教窟ではホールの両側面に設けられていた僧坊が、浮き彫りの彫像パネルに置き換わり、壁面は付け柱や半柱で区画された。天井に彫られた梁形の方向は、第1窟ではベランダと平行、第2窟ではベランダに直角、第3窟ではホールを囲むような同心状とそれぞれ異なり、さらに第3窟ではベランダの前面に矩形の前庭も設けられるなど、ヒンドゥ窟独自の空間構成への試みが窺える。

前期チャルキヤ朝、6世紀後半から開窟が始まったエローラでは、入口に相対して配置される聖室のまわりを巡回するという要求が解決され、繞道をそなえた聖室とホールとの間に洗練された関係が取られるようになった。初期のラーメシュワラ窟(第21窟)では、ナンディ像や小祠堂のある前庭が設けられ、石窟内部は横長の柱廊状のホールと、繞道を備えた大きな聖室からなる。これはヒンドゥ寺院の基本であるマンダパとガルバ・グリハからなる構成であるが、ホールの両端には副祠堂が設けられ、それらを結ぶ軸線と、ナンディ像と聖室を結ぶ軸線という二つの直交する軸線が両立する、より動的な空間構成となっている。こうした構成は、同じくエローラのドゥマル・レナ窟(第29窟/6世紀後半)やエレファンタ島のシヴァ寺院(第1窟/6世紀頃)で最も発展した形を見せる。両者ともほぼ正方形の列柱ホールの奥寄りに、壁で囲まれ四方に入口をもつ聖室が置かれる。入口と聖室とを結ぶ東西方向の主軸線は、天井に彫られた梁形によっても強調されるが、同時に聖室の前で直交する南北方向の軸線が導入され、全体として十字形の平面構成をとるのである。ドゥマル・レナ窟では聖室の奥は岩で閉ざされ主軸線の始まりと終わりをはっきりさせ、南北軸の両端は外部に開かれ入口が設けられる。一方、エレファンタ島では東西の主軸線の両端に外部に開いた中庭が設けられ、その一つは別な石窟の入口にも通じる。しかし軸線としては、むしろ南壁面中央の大きな三面のシヴァ像が焦点となる南北軸のほうが意識されやすい。

 8世紀になると、石窟をさらに発展させ、寺院全体を岩塊から彫り出す石彫寺院が現れる。ラーシュトラクータ朝(753-973)のクリシュナⅠ世(在位757-775)によって造営されたエローラのカイラーサ寺院(第16窟)は、幅45m、奥行85mにわたって岩山から彫り出されたもので、その規模の壮大さにおいて他に例を見ない。その構成は前期チャルキア朝の主要都市であったパッタダカルのヴィルパクシャ寺院を模したとされる。ゴープラ(楼門)を備え、前庭にはナンディ堂が置かれ、その両側に記念柱が立つ。さらにポーチとバルコニー、玄関がついたホールからガルバ・グリハへと導かれる。ガルバ・グリハの上部には4層のヴィマーナがそびえ、外側には屋根のない繞道が巡り、さらに5つの副祠堂群がそれを取り囲む。こうした石彫寺院が登場するに至って、石窟寺院の発展は終わりを迎えることになる。

 南方では7世紀頃からパッラヴァ朝やパーンディヤ朝および周辺諸国において石窟が造営された。中でもパッラヴァ朝の石窟は南方型寺院の諸要素が表れる最初期の事例として重要である。その基本的形式は、マヘンドラ・ヴァルマンⅠ世(在位580-630)の下で発展し、ダラヴァヌールのシャトルマッラ窟やティルチラパッリのラリタニクラ窟などがある。おそらく古来の木造建築の様式を取り入れたもので、東か西に面した正面に列柱が並び、内部の柱によって分節されるホールの奥や側面に、一つないしいくつかの聖室が掘られた。正方形あるいは八角形断面で初歩的な持ち送りの柱頭をもった柱に支えられ、簡素な基壇の刳形や付け柱、守門神をもつ聖室以外は、概して平板な空間である。

 彼の後継者、ナラシンハ・ヴァルマンNarasimha-varmanⅠ世マッマーラ(在位630-668)が新たな展開を指揮した。それは「ラタratha」と呼ばれているもので、彼が建造した新たな港マハーバリプラムにおいて岩の塊から全体を彫り出したものである。それらは630年頃に建造されたが、石窟の発展もこの頃同じ場所で頂点に達していた。その多くはマヘンドラ王による石窟で定型化された平面形式を踏襲していたが、柱はますます装飾的になり、壮麗な聖像のレリーフがホールやガルバ・グリハの内側、突出する聖室の入口まわりにまで彫られるようになる。柱頭はいまや台座のようになり、面取りされた円環体の上に盆のような台が置かれ、さらに正方形の水平の板が載る。それが波状の溝が彫られた持ち送りを支えるのである。面取りされた柱身をもつ柱の基部は、当初は矩形のブロックであったが、後に王家の象徴である獅子の座像を柱礎とするようになった。ファサードには、上端が丸く面取られた軒庇が導入され、馬蹄形アーチの窓の装飾が並ぶ。後にはファサードだけでなくガルバ・グリハの入口にも軒庇が付けられ、庇の上には寺院の縮小型彫刻が並べられるようになる。3つの聖室があるマヒシャマルディーニ窟と聖室が一つのヴァハーラ窟が、マハーバリプラムにおけるナラシンハ王の初期と後期を代表する石窟である。

 

 

5 5つのラタ…南方型寺院の原型

 南インドに残る最も古い建築遺構はマハーバリプラムのいわゆる5つのラタRatha(荷車、馬車、戦車、山車さらに寺院を意味する)である。パッラヴァ朝のナラシンハ・ヴァルマンⅠ世 の時代に彫り出されたこの5つのラタはまるで5つの建築形式の雛形である。興味深いのは、梁、垂木、斗供、柱など木構造を忠実に模していることだ。西からそれぞれダルマラージャDharmaraja・ラタ(No.1)、ビーマ・ラタ(No.2)、アルジュナArjuna・ラタ(No.3)、ドラウパディDraupadi・ラタ(No.4)、列を北に離れてナクラ・サハデヴァ・ラタ(No.5)と名づけられている。

No.1は方形平面にピラミッド状に段々の屋根が層状につくられ、最頂部には低い八角形のシカラが載っている。各層の庇には細かく馬蹄形の繰形(クードゥ、チャイティア窓)が設けられている。アルジュナNo.3はほとんどダルマラージャを小さくしたコピーである。No.2は長方形平面で幌(ワゴン・ヴォールト)形(シャーラーカーラ)の屋根、正面の二本の柱がライオンに支えられている。No.4はむくりのついた寄棟屋根で素朴な民家風である。No.5は、No.13)とNo.2の様式を併せ持つ。正面に2本の獅子柱をもつが妻入りである。しかし、最頂部の後部は円形になっている。これをエレファント・バック屋根と呼んだりする。平面も後円形である。まるでデザインを検討しているかのようである。伽藍としてつくられたわけではなく、No.1は未完のままである。No.1,No.3の屋根形態がいわゆるドラヴィダ様式、南方型の典型である。そしてNo.2はゴープラム(楼門)の屋根として一般的になる形態である。

 この石彫寺院は、ナラシンハ・ヴァルマンⅡ世 ラージャシンハRajasimha690-728)のもとで組石造に取って代わられたように思われる。その典型が海岸寺院である。

 海岸寺院は東西向きを異にする大小2つのシヴァ神殿から成っている。海(東)を向く大祠堂にはシヴァ・リンガ、小祠堂にはシヴァとパールヴァティとその息子スカンダが祀られている。ヴィシュヌの新臥像を祀る細長い祠堂が二つの祠堂を繋いでいる。二つの祠堂とも単純に浅いポーチをもつ正方形のガルバ・グリハのみの構成だが大小を巧みにずらす見事な設計である。5つのラタのモデルに比べると遙かに急勾配の屋根となっているのは石彫寺院から構築寺院へのひとつの大きな変化である。

 カンチープラムKanchipuramのカイラーサナータKailasanathaは同じくラージャシンハの時代に建造された。東西に並ぶ主祠堂と前室、礼拝室を小祠堂がびっしりと並ぶ周壁が囲み、東に突出する形で入口が設けられている。入口の外にもまず小祠堂が並び、三〇メートルほど離れてナンディ像が対峙している。主祠堂のヴィマーナは4層のピラミッド形で、入口のシヴァ祠堂には幌形の屋根が載っている。伽藍配置は僧坊が中庭を囲む形式に似ている。花崗岩が基礎と主要な構造材に用いられ、その他彫刻にレンガが使われているのを除くと砂岩が用いられている。全体は化粧漆喰で覆われ、彩色されていた。

 さらに重要なのがバイクンタ・ペルマルVaikuntha-perumal寺院である。主神殿と礼拝室を獅子柱が並ぶ回廊が囲み(内陣)、さらに前室が突出する(外陣)構成がはっきりとしている。主神殿は4層からなるが全ての層にガルバ・グリハがある。下3段にはヴィシュヌ像が納められ、至る所様々な聖像や王家のレリーフが壁を飾っている。

 

6  チャルキヤの実験…

 プラケーシンⅠ世によって6世紀半ばに興されたチャルキヤ朝は、バーダーミBadamiを都としてデカン一帯を治め、ラーシュトラクータ朝に滅ぼされる8世紀半ばまで存続した。この前期チャルキヤ朝の下でアイホーレ、バッタダカル、マハークータなどに多数の寺院が建設された。このチャルキヤ朝の建築様式はファーガソンがチャルキヤ様式というカテゴリーを立てたように、北方型、南方型の両方の要素を併せ持って多様である。

1 アイホーレの試行

アイホーレAiholeの初期の寺院は、グプタ朝のナチュナのパールヴァティ寺院のような北方型の流れに位置づけられる。

 ラド・カーンLad Khan(7世紀末)の入口には、12本(4×3)の柱をもつポーティコが設けられる。ナイン・スクエアの平面が拡張された主ホール(4×4)は、同心状の柱列によって二重の回廊からなり、中央にナンディ像が置かれている。コンティグディKontigudigudiは寺の意)群の寺院はより素朴な形式である。長方形のマンダパが太い柱列によって縦に分割されている。これら初期の寺院の柱は、石の量塊そのままでそれほど装飾もされていないが、木造架構の主要素を再現している。柱は単岩で正方形断面をし、柱礎はないが柱頭には簡単な持ち送りが載る。ラド・カーンの内部の柱のいくつかは八角形で持ち送りには波状の刳形が彫られている。

チャルキヤ朝の寺院は、ガルバ・グリハが中央になく繞道がさえぎられるというラド・カーン寺院の難点を克服するために、以降、最外周の回廊をなくし、中央の高い身廊部と両脇の低い側廊部に分割する構成をとる。一つはナイン・スクエア型のホールの後部にガルバ・グリハのための三間の繞道のない祠堂が付加される。もう一つは側廊部が伸ばされ、ガルバ・グリハを巡る繞道となる。前者ではホールとガルバ・グリハの間に前室的な空間が付加され、後者ではガルバ・グリハとホール内部の柱間を仕切ることによって前室的な空間が形成される。タラッパグディTarappagudi寺院とナラヤナNarayana寺院は前者、フッチマラグディHuchchimallagudi寺院は後者の例である。

 後者の形式の優美な変形例はドゥルガーDurga寺院であり、仏教のチャイティア堂の形式を踏襲している。アプス型(前方後円)の祠堂は主ホールと繞道が巡るガルバ・グリハを包含し、その外側に列柱回廊が周り、もうひとつの巡回路を形成する。

 プラケーシン2世を讃えた634/5年の刻文があるジャイナ教のメグティMeguti寺院はアイホーレで唯一年号が記された寺院で、インドにおいて正確な年号の記された最も古い構築式の寺院である。丘の上に建つこの寺院は、前述の二つの型と異なる独自の形式をもつ。マンダパとガルバ・グリハはそれぞれ一つの区画をなし、玄関部分は二つの区画の間に配置されているのである。

 

2 パッタダカルの競演

 メグティ寺院は、繰形のある基部や付け柱による壁面分割など南方型の要素を持つが、バーダーミの二つのシヴァラーヤ寺院はさらに南方型の要素が強い。上シヴァラーヤ(7世紀初頭)は、前室は失われているが聖室を繞道が取り囲む構成である。マーレギッティ・シヴァーラヤ(7世紀)は繞道を持たず、正室、前室、4本柱のポーチというシンプルな構成である。

さらにマハークータにも7世紀に遡る寺院群がある。マハクテシュバラ寺院は、繞道に囲まれた聖室、4本柱の前室、ポーチ、そして前方にナンディ祠堂という基本形式を完成させている。マリカルジュナ寺院も同様であるが、前室が8本柱の構成である。タンクを囲んで小祠堂が立ち並ぶ伽藍構成であるが、北方型のシカラもあり、まさに南と北が混交している。

 以上の初期の形式を経てより大規模な寺院群が建立されたのはパッタダカルである。ヴィルパクシャ寺院とマリカルジュナ寺院は、第8代ヴィクラマディチャⅡ世がパッラヴァ朝を破った記念に745年頃建てられたもので、カンチープラムの建築家グンダによるとされる。カイラーサナータの影響を強く受けているとされるが、マンダパの三方向に入口をつけるのが特徴的である。さらにサンガーメーシュワラ寺院も加えて3つの大寺院はパッラヴァ朝の影響下にあり南方型であるが、パーパナータ、ガラガナータ、カーシーヴィシュワナータ、ジャンブリンガなどは北方型のシカラを戴いている。

 

7  華開くシカラ…北方型寺院の発展

8世紀以降、北インド中央を支配したのはカナウジを都とするプラティハーラPratiharas王朝である。この王朝において北方型寺院は成熟への展開を見せる。そして10世紀中葉に取って代わったチャンデッラ朝はカジュラホを中心としてヒンドゥ建築の妖艶な華を咲かせることになる。

また、オリッサのブバネシュワラを中心として栄えたカリンガ朝、東ガンガ朝が数多くのヒンドゥ寺院を残している。その最初期のものがパラシュラーメシュワラ寺院(7世紀)で、ガルバ・グリハとマンダパからなる基本形式をとる。続く古例としてヴァイタル・デウル寺院(8世紀)があるが、シカラの形がヴォールト形で珍しい。民家の屋根に由来し、「カーカラ」というが、他に例はない。

オリッサ地方ではガルバ・グリハをデウル、マンダパをジャガモハンと呼ぶ。そして、砲弾形のシカラが載る聖室をレカー・デウル、ピラミッド状の屋根が載る前室をピダー・デウルと呼ぶ。その二つからなる典型にムクテシュワラ寺院(10世紀後半)がある。また、ブラフメシュワラ寺院Brahmeshwara(1060)が伽藍の四隅に小祠堂を建てる五堂形式(パンチャ・ヤタナ)を完成させている。他にラージャラニ寺院(11世紀初)も典型的オリッサの形式である。最も代表的なものは最大の規模を誇るリンガラジャ寺院(11世紀後半)である。デウル+ジャガモハンの前にナト・マンディル(舞堂)とボガ・マンダパ(献堂)を置いている。そしてオリッサのヒンドゥ建築として頂点に立つのはコナーラクのスーリヤ寺院(13世紀前半)である。レカー・デウルは失われているが戦車に見立てたピター・デウルは巨大であり、壁面の彫刻の豊かさは群を抜いている。

 プラティハーラ朝の寺院は東西にガルバ・グリハとマンダパが並び東面する構成が基本で、五堂形式はまだみられない。しかし、その平面構成は次第に複雑化する。初期のものとしてはオシアンOsianのハリ・ハラ・グループの寺院がある。また、異形ではあるが、グワリオールGwaliorのテリ・カ寺院Teli-ka-Mandirがプラティハーラ朝の遺構と知られる。さらに、バロリBaloliのガテシュバラGhateshvara寺院、ギャラスプルGyaraspurのマラ・デヴィMala Devi寺院がある。

 10世紀に入るとヨーガの行法などによって直接身体を通じて解脱を得るタントリズムが大きな影響を持ち始める。女性の力シャクティを崇拝し、男性原理と女性原理の結合によって至福を得ようとするこの運動はヒンドゥ教にも、仏教にも、そしてジャイナ教にも見られる。カジュラホの寺院群に鏤められた極めて開放的な男女交合の彫像はそのおおらかな世界を示している。

ダンガDhanga王(c.950-1002)のもとで中原を制したチャンデッラ朝は数多くの遺構を残している。首都カジュラホの遺跡群は西、東、南の三つに分けられる。最古の遺構は西群の南にあるチャウンシャト・ヨギニChaunshat Yoginiとされるが、その典型はラクシュマナLakshmana寺院(954年)に始まる。そして、ヴィシュヴァナータVishvanatha寺院(1002年)、チトラグプタChitragupta(1Ⅰ世紀初)寺院、デヴィ・ジャガダンバDevi Jagadamba寺院(11世紀初)、カンダリーヤ・マハデヴィKhandariya Mahadevi寺院(1Ⅰ世紀中葉)が続く。近接してシカラが林立する西群の寺院群は壮観である。まず基壇の上に祠堂がつくられること、また五堂形式をとること、そして、4つの祠堂が一列に連なり、シカラが次第に高くなることが特徴である。最大にして最も優美なのが・マハデーヴァで北方型寺院の代表作とされている。東群はジャイナ教の寺院群で中心はパルシュバナータParshvanatha寺院である。

オリッサ、カジュラホとは別に西インドで北方系ヒンドゥ寺院の展開が見られる。グジャラートのマイトラカ朝とそれを引き継いだソランキ朝、ラージャスタンのオシアンの建築群である。

ソランキ朝を代表するのが首都モデラのスーリヤ寺院である。寺院は東西軸状に並ぶ二つの建物、ホールと繞道の廻る聖室とマンダパ、そして貯水槽からなる。緻密で豊満な彫刻がソランキ様式を特徴づける。また、ソランキ朝はギルナール山他多くのジャイナ教建築を残している。 

 

8. 聳え立つゴープラ…南方型寺院の発展

1.チョーラ朝の建築

南方型ヒンドゥ建築をその頂点に導いたのはチョーラChola朝である。まずパッラヴァ朝からチョーラ朝への過度期の寺院としてナールッターマライNarttamalaiのヴィジャヤーラヤ・チョーリーシュワラVijayalayacholishvara寺院(9世紀半)がある。周囲に8つの小祠堂を従え円形のガルバ・グリハをもつのが特徴である。そして、初期のものとしてコドゥンバルアKodumbalurのムヴァルコヴィルMuvarkovil寺院(c.880年)がある。マンダパが失われ、ガルバ・グリハも3つのうち2つしか残っていないが、16の小祠堂をもつ伽藍が残っている。

 パランタカParantakaⅠ世(90749)の治世の初期になって作られたクンバコナムKumbakonamのナガシュバラシュヴァムNagashvarashvam寺院とプラマンガイPullamangaiのブラーマプリシュバラBrahmapurishvara寺院などにおいて重要な展開が見られるようになる。すなわち、ゴープラが主祠堂より高く聳え建つ伽藍形式が現れ出す。また、三祠堂形式となり、壁がんに彫像が置かれるようになる。

その後、ウタマ・チョーラUttama Chola969985)そしてラジャラジャRajarajaⅠ世(9851014)の治世下にティルヴァルアTiruvarurのアカレシュバルAchaleshvara祠堂のような精密に装飾化された見事な建築ができあがる。 これを引き継いだティヤガラージャシュバミThyagarajashvami寺院(1317世紀)は典型的な南方系寺院として知られる。             

ラジャラジャRajarajaⅠ世の最後の10年に、帝都タンジャヴルTanjavurに巨大なブリハデシュバラBrihadeshvara寺院が建造される(1010年)。全体は約75m×150mの回廊で囲まれ、60mを超えるヴィマーナが聳える。東西軸状にゴープラ、ナンディ祠堂、二つのマンダパ、前室、ガルバ・グリハが一直線に置かれる。前室には南北からも出入り口が設けられるのがチョーラ朝のヒンドゥ寺院の基本形式となる。ゴープラは未だ低く横長だが、規模において、またその見事な構成において、南方型寺院の頂点に立つのがこの寺院である。

そして、それに匹敵するとされるのがラジェンドラRajendraⅠ世(101444)による、新首都ガンガイコンダチョーラプラムGangaikondacholapuram(ガンガを征服したチョーラの都)のブリハデシュバラBrihadishvara寺院である。ヴィマーナは、前者が直線的、後者が丸みを帯びていてやや低いことから「男性的」「女性的」と評されるところである。

この二つのブリハデシュバラ寺院の延長として、チョーラ朝を締めくくるのがダラスラムDarasuramのアイラヴァテシュバラAiravateshvara寺院(12世紀半)とトリブヴァラムTribhuvanamのカンパレシュヴァラKampahareshvara13世紀初頭)寺院である。

 

2 後期チャルキヤ朝とホイサラ朝の建築

 後期チャルキヤ朝はチョーラ朝に抗しながら南インドに影響を及ぼす。その主要な建築は、ラックンディのカシヴィシュヴァラ寺院、イッタギのマハデーヴァ寺院、クカヌールのカレシュバラ寺院、ハヴェリのシデシュヴァラ寺院、ニラルギのシダラメシュバラ寺院などである。

 繞道をもたず、ガルバ・グリハ(聖室)+アンタラーラ(前室)+マンダパ(礼拝堂)が直線的に並ぶというのが基本構成であるが、平面形、規模はそれぞれ異なる。共通な特徴は、ヴィマーナを中心に極めて緻密な装飾が施されることである。特に、轆轤を用いて削り出される柱は寺院毎に独自のデザインがなされている。

西ガンガ朝のあとを受けてマイソール地方で栄えたホイサラ朝の建築は、首都ハレビード、そしてベルール、ソムナトプルを中心に見ることができる。

ヴィマーナが細かく分節されガルバ、グリハの平面がほとんど円形に近づくのが特徴である。それぞれ異なる姿態のヴィシュヌ神に献じられるヴィマーナを3つもつ特異な平面形であるが、ソムナトプルのケシャヴァ寺院(1268年)がその完成型とみられる。

 

3 ヴィジャヤナガルとナーヤカ朝の建築

南インドは、12世紀以降、パンディア朝、ヴィジャヤナガル王国、そしてナーヤカ朝によって順次支配される。そして、南インド型の寺院は大いに発展を遂げる。特に1516世紀のヴィジャヤナガル王国において、寺院は巨大化し、その伽藍は都市的規模をもつに至った。

聖室の周りに幾重にも囲壁が巡らされ、いくつもの門を潜って内陣に至る構成が一般的となるのである。そして、巨大な楼門ゴープラが建てられるのである。寺院が都市生活と積極的に関わり、寺院が拡大するにつれて、様々な施設を取り込むようになる。実際、シュリランガムのように、寺院が町自体を形成するようになった例もある。また、ヒンドゥの聖地マドゥライのミーナークシ寺院など境内に列柱ホールや人造池などを取り込んでいる。

 

 

Column 白亜の宇宙…ジャイナ教寺院の発達

 

1 ジャイナ教 Jaina

東インドのビハールに生まれたヴァルダマーナVardhamana・マハーヴィーラ(B.C.549-477あるいはB.C.444-372)によって興されたジャイナ教は、非殺生、非暴力(アヒンサー)を教義とし、苦行・禁欲を根本とした。そして、集権的な教団をつくらず、布教にも熱心ではなかったから、仏教ほど大きな影響力を持たず、インド世界から外へ出ることもなかった。しかし、13世紀にはインドから消えてしまう仏教に対して、ジャイナ教は西インドを中心として現在にまで生き続け、多くの建築遺産を作り上げてきた。

ジャイナ教とはジナJina(勝利者)の教えのことである。マハーヴィーラは30歳で出家して12年の苦行の末ジナになった。その時既に23人のジナ、祖師(ティルタンカラTirthankara、ティルタは渡しをつくる人、救済者の意)がおり、24人目の祖師がマハーヴィーラである。

ジャイナ教はバラモンの供犠や祭祀を批判し、ヴェーダ聖典の権威を否定して成立したのであって、本来無神論である。断定をさけ、常に「ある点からすると(スヤートsyat)」という限定を付す相対主義をとる。

マハーヴィーラの死後、その教え、教団は弟子に引き継がれ、マウリヤ朝にはチャンドラグプタ王の庇護を受け隆盛を誇る。その後、教団は白衣(びゃくえは)派Svetambaraと裸行派Digambaraの二派に分裂する。前者が僧尼の着衣を認めるのに対し、後者は無所有の教えから裸行の遵守を説き、女性の解脱を認めない。現在、白衣派の多くはグジャラート、ラージャスタン州など、裸行派は南インドに居住する。

 

2 ジャイナ窟

ジャイナ教もはやくから石窟を開いた。オリッサ州のカンダギリKhandagiri,ウダヤギリUdayagiriの諸窟(BC1-2世紀)が古例である。二つの丘が向かい合いそれぞれ15窟、18窟残るが、最大なものがラーニー・グンパーで柱列の奥に僧室が並びコの字型に前面広場を囲んでいる。他に虎口を模した、蝦蟇蛙のように見えるバーグ・グンパ、象の彫像が置かれるガネシャ・グンパなどがある。

マディヤ・プラデシュ州のウダヤギリに自然窟に近いジャイナ窟(5世紀)、バーダーミにはティルタンカラ像が至る所に刻まれたジャイナ窟(6~7世紀)、カツナータカ州のアイホーレにはマンダパを三方から祠堂が囲む形式のジャイナ窟(6~8世紀)、そしてエローラには5つのジャイナ窟(第30窟~34窟、9世紀)が残るがいずれもヒンドゥ窟と併存している。エローラの32窟が最も大規模で、二層からなり、堂はジャイナ教特有のチャトルムカ(四面堂)形式をとっている。

 

3 ジャイナ教寺院

ジャイナ教徒にとっての最大の巡礼地は、最初のティールタンカラアーディナータが度々訪れたというシャトルンジャヤ山である。10世紀頃から多くの寺院が建立され、一大山岳寺院都市を構成する。寺院の様式はシカラを戴く北方系で統一されている。

シャトルンジャヤ山に次ぐ山岳寺院都市が、22代ティールタンカラ、ネミナータの涅槃の地とされる聖山ギルナール山である。11世紀初めにソランキ朝が建設したのが起源である。各寺院は、ここでもシカラを頂くが、マンダパに白を基調とするモザイクタイルのドーム屋根が載っているのが目立つ。タイルはもちろん近年のものである。

ジャイナ教の聖賢バドラバーフは南インドのカルナータカ地方に移住したとされる。南インドの最大の聖地がジュラヴァナベルゴラである。チャンドラギリ丘に10寺院が建ち並んでいる。ここでは南方型ヒンドゥ寺院を踏襲しているのが興味深い。

 

 

9. ヒンドゥー・ヴァーナキュラー…土着化するヒンドゥ建築

  北方型、南方型、そしてその中間(中部)型という大きな区分はおよそ以上のようであるが、それぞれの王朝の核心域以外の周辺部においては様々な変化型が生み出されてきた。気候風土の違いによって、利用可能な建築資材が異なり、必要とされる建築技術も少しずつ異なるからである。グプタ朝時代において周辺地域であったカシミールやベンガル、南インドでもケーララなどにはヒンドゥ寺院の異なった形態をみることができる。

 

1 ベンガル

ベンガル地方は石材に恵まれず、古来、煉瓦、土、竹が主な建築材料であり、古代の建築遺構はほとんどない。もともと仏教の影響が強く、12世紀に勢力をもったセーナ朝も13世紀にはイスラームに取り込まれたこともヒンドゥ建築の遺構の少ない理由である。そうした中でヴィシュヌプルVishnupurに独特のヒンドゥ寺院の一群が残されている。ケシュタ・ラーヤ(1655)、シャーマ・ラーヤ(1643)など、17世紀から18世紀にかけての建造であるが、何よりもバンガルダールと呼ばれる棟が湾曲した独特の屋根である。明らかにこの形態はベンガル地域の農家バーングラの形態を模している。煉瓦の他ラテライトも用いられ、テラコッタのパネルで装飾される。平面は正方形で、求心性が高い。また、バンスベリアのハンセーシュワリ寺院(1814)などイスラームとヒンドゥの混交様式も興味深いところである。

 

2 ヒマラヤ

カシミールなど北インドのヒンドゥ建築も地域性豊かである。極めて雨の多いことから、急勾配の切り妻、寄せ棟、方形の屋根が用いられるのである。上部構造は失われているが、マールタンドのスールヤ寺院(750年頃)、アヴァンティプルのアヴァンティスワミ寺院(9世紀)、ブニヤールのヴィシュヌ寺院(900年頃)などが古例である。また、ヒマラヤ杉など木材が豊富な地域には、ナガル、スングラ、サラハンなど各地に木造のヒンドゥ寺院も見られる。山々に覆われたヒマチャル・プラデシュ州には、チャンバのラクシュミ・ナーラヤナ寺院群(14世紀)のようにシカラの上部を編み笠で蓋をするような木造屋根が見られる。

 

3 ケーララ

ヒマラヤ地域と同じようにインド亜大陸の最南端ケーララ地域も多雨地域であり、木造建築の伝統が生きている。トリヴァンドラムのマハデーヴァ寺院(14世紀)は壁体はラテライトであるが、屋根は木造である。ケーララ州を代表するのがトリチュールのヴァダクナータ寺院(12世紀)で円形の祠堂が独特である。

 

4 ラージャスタン

 ラージャスタンとは王の国という意味であるが、古来、ラージプートの国(ラージプターナ)と言われ、インドでも独特の地域として知られる。古代からのクシャトリアの子孫であると称し、ムガール帝国の支配下においてもヒンドゥ的要素を維持し続けた。

 18世紀初頭、ジャイシンⅡ世によって、ヒンドゥの都市原理をもとに建設されたジャイプルがいい例である。ジャイプルにはハワ・マハル(風の宮殿)、ジャンタル・マンタル(天文台)など独特の建築を見ることができる。また、ウダイプル、ジョードプル、ジャイサルメルなどラージプート族の築いた珠玉のような都市がある。

 アンベール城、アジュメール城、ジュナガル城など城郭宮殿に見るべきものが多い。チトールガルは、8世紀から15世紀末までメーワール国の首都であり、チトール城の他、名誉の塔、勝利の塔と呼ばれる他にない高塔が残っている。

 

5 ネパール

 カトマンズ盆地には、カトマンズ、パタン、バクタプルという三つの王都があり、リッチャビ朝時代(5~9世紀)から存続する30以上の小都市や集落がある。仏教とヒンドゥ教は、土着の慣習や信仰に加えて古くからネワール族に受け継がれてきた。ヒンドゥ寺院と仏教僧院や仏塔はごく近くに一緒に建てられ、ヒンドゥ寺院と仏塔が一つの伽藍を構成する例も多い。カトマンズ盆地の都市の街路や広場には都市コミュニティの日常生活のために、仏教僧院、ヒンドゥの神々を祀る寺院や祠、水場、休息所などが建てられ、独特の景観を形作っている。特に三都市の王宮とダルバール(王宮前)広場は建築の宝庫である。

 都市施設として、まずダルマサーラと総称される巡礼者用の宿泊施設、地区の集会施設がある。規模によってサッタル、パティ、マンダパ、チャパトなどの種類がある。カトマンドゥのカシタ・マンダパが最大のダルマサーラである。仏教僧院にはバハ、バヒ、そしてバハ・バヒと呼ばれる三種がある。バヒは独身者用、バハは妻帯者用として成立し、地区の中心的会堂となったものをバハ・バヒという。いずれも中庭を囲む集合形式をとり、街区を秩序づけている。

 仏塔、そしてストゥーパについてはⅡ章で触れた。ネパールの建築は木造を基本とし、煉瓦造が併用されるのが特徴である。特に、木造の塔が独特である。斗拱ではなく方杖(斜材)で軒先を支える点、煉瓦を併用する点など、日本の塔とは随分趣が異なる。 

 ヒンドゥ教寺院の中心はシヴァ派の総本山パシュパティナート寺院である。また、リッチャビ期に遡るとされるのがチャン・ナラヤン寺院である。

 

10. 海を渡った神々…東南アジアのヒンドゥ建築

東南アジア地域の「インド化」が開始されるのはおよそ紀元前後のこととされる。「インド化」とは、インド世界を成り立たせてきた原理あるいはその文化が生んだ諸要素、具体的には、ヒンドゥ教、仏教、デヴァラージャ(神王)思想、サンスクリット語、農業技術・・・などが伝播し受容されることをいう。

インド化以前の東南アジアには、水田稲作、牛・水牛の飼育、金属の使用、精霊崇拝、祖先信仰・・・など、ある共通の基層文化の存在が想定されている。セデスは先アーリア文化と呼ぶが、その段階でもインド亜大陸と東南アジアとの頻繁な交流はあり、インド先住民がアーリア人の進入とともに移動しその文化を東南アジアにもたらしたという説もある。カースト制は何故東南アジアには伝えられなかったか、など「インド化」をめぐる議論は興味深いが、ここではヒンドゥ建築の展開を中心に見よう。

東南アジアに現存する七世紀以前に遡るヒンドゥ建築の遺構はほとんどない。大きく地域区分をして、主要な王朝を軸にして概観したい。

  

1 クメール アンコール

 東南アジアで最も古いインド化国家はフナンであるとされる。メコン・デルタを支配域とし、最盛期は4世紀とされる。オク・エオ遺跡が知られ、南方上座部仏教も行われたがヒンドゥ教が卓越していたと考えられている。

 6世紀末頃にメコン河中流域に興り、フナンを征圧したのがクメール(真臘)であり、イーシャナプラ(現サンボール・プレイ・クック)に都を置いた。その周辺にはヒンドゥ教の祠堂の遺構が残されているが、基壇の上に直方体の身舎を置きその上に屋蓋を載せる形態には大きく段台ピラミッドを多層重ねるものと、高搭状のものと二種類ある。

 9世紀に入ってジャヤヴァルマンⅡ世、続いてジャヤヴァルマンⅢ世が現れる。そして、インドラヴァルマンⅠ世(在位877889)が登位してロルオスに首都ハリハラーヤを建設する。以降、1432年の廃都までアンコールはクメール王国の中心となる。アンコール・ワット(12世紀前半)、バイヨン(12世紀末)の建設がその最盛期である。

 クメールの諸王はシヴァ教を信奉し、リンガ崇拝が盛んであったが、ヴィシュヌ信仰、そしてハリハラ信仰も行われた。また、大乗仏教も混淆し、バイヨンの建設者ジャヤヴァルマンⅦ世は観世音菩薩を重視したことが知られる。

アンコール期の王都、王、主要な建築などを列挙すると以下のようになる。様式は装飾文様や浮彫によって区別されているものである。アンコールでは五頭、七頭のナーガの像が至る所に見られる。また、乳海攪拌のモチーフが特徴的である。さらに、観世音菩薩面を鏤めたバイヨンなど他に類例がない。

 

ハリハラーラヤ        インドラヴァルマンⅠ世(877889) 

  ロルオス遺構群:プラー・コー様式

プラー・コー 879  バコン 881  ロレイ祠堂 893

アンコール第一次(ヤショダラプラ)ヤショヴァルマンⅠ世(889910

               ハルシャヴァルマンⅠ世(910922

イーシャナヴァルマンⅡ(922928

  バケン様式

プノム・バケン ヤショダラタターカ プノム・クロム

  プラーサート・クラヴァン 921

コー・ケル           ジャヤヴァルマンⅣ世(928942) 

  コー・ケル様式

 

アンコール(第二次)  ラージェンドラヴァルマンⅡ世(944968

ジャヤヴァルマンⅤ世(9681001

スールヤヴァルマンⅠ世(100249

  東メボン 952  プレー・ルプ 961

  バンテアイ・スレイ 967・・・バンテアイ・スレイ様式

  タ・ケォ ピメアナカス クレアン・・・クレアン様式 

アンコール(第三次)ウダヤーディティヴァルマンⅡ世(104979

ハルシャヴァルマンⅢ世1066

ジャヤヴァルマンⅥ世1080

  バプーオン様式

バブーオン 西バライ ムアン・タム 

              スールヤヴァルマンⅡ世(11131201

 アンコール・ワット様式

アンコール・ワット ピマイ トマノン

アンコール(第四次)      ジャヤヴァルマンⅦ世(11621201

  バイヨン様式

バイヨン アンコール・トム タ・プローム バンテアイ・クディ プラー・カン ニャック・ポアン タ・ソム 

 

クメールにはストゥーパの遺構はなく、寺院を構成するのは祠堂である。祠堂は基壇、身舎、屋蓋の三つの部分からなり、インド的宇宙観としての三界観念-ヒンドゥ教にいうスヴァルローカ Svarloka(神の領域マハーメール)、ブーヴァルローカ Bhuvarloka(清浄無垢の領域)、ブールローカ Bhurloka(死すべきもの人間の世界):大乗仏教にいうカーマダーツKamadhatu(欲界)、ルーパダーツRupadhatu(色界)、アルーパダーツArupadhatu (無色界)<三身説>:南方上座部仏教にいうカーマローカ、ルーパローカ、アルーパローカを具象化したものと考えられる。

 寺院の形式は極めて幾何学的でありわかりやすい。平面形式としては、中心祠堂が一基のもの(①)、中心の一基を四基の副祠堂で囲む五基形式(②金剛宝座)、三基形式(③)、六基形式(④)などがある。また全体が平面状に展開するもの、段台ピラミッドの上に展開するもの(堂山形式)、山の斜面に段台テラス状に展開するもの、の三つの形式がある。

 ①にはバコン、ピメアナカス、バブーオン、メボン、トマノン、ピマイなどがある。大きく内陣が一室のものと平面分化が進んだ十字形平面をもつものとの二つにわかれる。②には、プノム・バケン、東メボン、プレー・ルプ、タ・ケォなどがある。タ・ケォは十字形平面をしており、段台ピラミッドの上に五基の祠堂が建つ。アンコール・ワットやバイヨン、タ・ブローム、バンテアイ・クディなどもこの五基形式が複雑化したものと考えられる。③にはプノム・クロム、バンテアイ・スレイ、ワット・シー・サワイ(スコータイ)などがあり、④はプラー・コーが知られる。

 伽藍配置は極めて求心的なマンダラ形式をとるが、本殿→拝殿→楼門を一直線上に配するものも少なくない。南インドあるいは東北インドとの類似性が指摘される。基本的に墓廟であるアンコール・ワットが西向きである他、ほとんどの主祠堂は東を向いている。

 

2 ジャワ

 アンコール期のクメールに先立ってヒンドゥ・仏教建築の華を開かせたのはジャワである。これまでに出土したサンスクリット碑文から5世紀にはジャワにインド文明が及んでいたとされるが、その起源については不明である。

チャンディ・アルジュナ、チャンディ・ビマなど最古の建築遺構は中部ジャワのディエン高原にあり、7世紀のものという。以降、シャイレンドラ朝(c7889世紀半)によるものを中心に、7世紀末から10世紀初頭にかけて建てられた数多くの建築が中部ジャワには残っている。

ヒンドゥ教であれ、大乗仏教であれ、ジャワでは寺院を一般的にチャンディcandiという。チェディと同様チャイトヤから来ていると考えられるが、内部空間を持たないストゥーパと考えられるチャンディ・ボロブドゥールとヴィハーラもしくは経蔵とみなされる多層のチャンディ・サリとチャンディ・プラオサンを除くと、全て神仏像やリンガを収める祠堂である。

 最も著名なのはチャンディ・ボロブドゥールとチャンディ・ロロジョングラン(プランバナン)である。前者はシャイレンドラ朝による大乗仏教の遺構であり、1814年に発見された。6層の方形段台ピラミッドの上に三層の円形段台が重ねられ、中心ストゥーパの周囲に72基の小ストゥーパが円形に並べられている。各層の壁面は仏典にまつわる浮き彫りのパネルによって飾られている。ボロブドゥールが一体何を意味するかをめぐっては様々な解釈がなされている。チャンディ・パオンとチャンディ・ムンドゥットが一軸上に並んでいることで1グループと考えられている。後者はシヴァ神を主神とするヒンドゥ寺院で856年の創建とされる。大小240のチャンディ群からなり、大きく外苑、中苑、内苑の三つの境内にわかれる。内苑には中心祠堂と両側の脇祠堂にそれぞれ対峙する少祠堂合わせて6つのチャンディが建っている。

 他にチャンディ・コンプレックスとして、チャンディ・セウ、チャンディ・ルンブン、チャンディ・プラオサンなどがあり、いずれも極めて幾何学的な構成をしている。

 10世紀中葉になるとヒンドゥ・ジャワ文化の中心は東部ジャワに移る。シャイレンドラ王のヒンドゥ教への改宗、シュリビジャヤ王国の脅威、ムラピ山の爆発など諸説あるが、ヒンドゥ王国の中心は、順にクディリ(c.9301222)、シンゴサリ(12221292)、モジョパイト(1293c.1520)に移る。いずれもブランタス川の上流に位置し、スラバヤがその外港である。

 東ジャワ期になるとヒンドゥ教と大乗仏教の混交は一層進み、密教化する。ストゥーパ、ヴィハーラはなく神像を収めた祠堂チャンディが各地に残されているが、中部ジャワ期と比べると、一般的に幅が短く高さが高い。また、カーラ・マカラ装飾のうち上部のカーラのみとなる。カーラは陸の、マカラは海の、いずれも想像上の動物で開口部の上下に用いられる装飾である。多くの遺構があるが、バリ島のゴア・ガジャ、グヌン・カウィはクディリ朝のものである。チャンディ・キダル、チャンディ・ジャゴ、チャンディ・パナタランがシンゴサリ朝の代表的チャンディである。また、トロウラン周辺にチャンディ・ジャウィ、チャンディ・ティクスなどマジャパイト王国の遺構が残っている。

マジャパイト王国は、16世紀初頭には、イスラーム勢力に追われてバリ島に拠点を移すことになる。このヒンドゥ教の衰退期におけるユニークな遺構がラウ山、プナクンガン山に残るチャンディ・スクとチャンディ・チョトである。

 

3 パガン

 クメール、ジャワと並んで、東南アジアにおけるヒンドゥ・仏教建築の三大中心とされるのはミャンマーのイラワジ河中流域のパガンである。

イラワジ川流域には、古来ピュー族の文化が展開していたとされる。古くからインドの影響が及んでいるが、例えば、ベイタノー遺跡には南インドのアーンドラ朝(c.B.C.250350)の影響があるとされる。また、シェリ・クトラ遺跡にはアマラーヴァティ地方、あるいはベンガル、オリッサ地方の影響がうかがえるパゴダが残されている。

 このイラワジ川流域に北方から南下してきたビルマ族が打ち立てたのがパガン王朝である。パガン朝の創始は二世紀初頭とする伝承もあるが、最盛期を迎えたのはアノーヤター王(在位104477)以降の250年間である。パガン朝の歴代の王らが造営した堂塔の数は5000にも及び今日なお2000を超える遺構が残っている。南方上座部仏教がパガン朝の中心であるが、8世紀以前には大乗仏教の影響が強く、さらにピュー族以来のヒンドゥ教の影響も色濃い。

 パガン朝の建築は、一般的に、北インド式の、すなわちシカラ風の、高塔を頂く。塔すなわちパゴダおよび祠堂ツェディの塔部についてはⅡ章で触れたが、モン人が移入してきた11世紀中葉にいわゆるビルマ型のパゴダが成立している。ヴィハーラの遺構としてはソーミンディ、タマニ、アマナなどがあるが、中庭を囲む方形平面の基本型がある。

 

4 チャンパ

 東南アジア大陸部の南シナ海沿岸部は古来中国の影響が強い。特に北部は紀元前111年に漢の武帝に征服され、1000年もの間その支配下に置かれている。この南シナ海沿岸部に興ったインド化国家がチャム族のチャンパである。林邑期(192758)、環王期(758860)、占城期(8601471)に分けられるが、2世紀末から15世紀末まで存続する。ヒンドゥ教を主、仏教を従とした。林邑期の中核域は、ヴェトナム中部のトラキュウ、ミーソン、ドンジュオンの一帯でアマラヴァティとインド名で呼ばれている地域である。現在残る遺構はほとんどがヒンドゥ教の祠堂でカランと呼ばれる。

 環王期になると中核域は南のクヮンホア、ファンラン(バーンドランガ)周辺に移る。ホアライには802年頃王位についたハリヴァルマンⅠ世が建立したというカラン群が残っている。

 占城期になると中核域は再び北に移動し、クヮンナム周辺となる。代表的遺構として残るのはミーソンの南のドンジュオンである。9世紀のインドラヴァルマンⅡ世が大乗仏教を奉じたとされ、この時期チャンパでは唯一仏教の興隆をみている。

 チャンパの建築様式については、隣接するクメールとの関係が深い。また、ジャワとの交流も古くから伺える。さらに、中国の影響も見ることができる。 

 

 

参考文献

・ジョージ・ミッチェル著、神谷武夫訳「ヒンドゥ教の建築」鹿島出版会、1993

  神谷武夫著・写真「インド建築案内」TOTO出版、1996

  神谷武夫、インドの建築、東方出版、1996

  佐藤雅彦、南インドの建築入門―ラーメシュワーラムからエレファンタまで、彰国社、1996

  佐藤雅彦、北インドの建築入門―アムリッツアルからウダヤギリ、カンダギリまで、彰国社、1996

  千原大五郎、東南アジアのヒンドゥー・仏教建築、鹿島出版会、1982

Christopher Tadgell, “The History of Architecture in India : From the Dawn of Civilization to the End of the Raj”, Phaidon Press Limited, London, 1990

・シャルマ・ラム・シャラン著、山崎利男/山崎元一 訳「古代インドの歴史」山川出版社、1985

Krishna Deva, “Temples of India Vol. I-II”, Aryan Books International, New Delhi, 1995

“In Praise of Aihore Badami Mahakuta Pattadakal”, Marg Vol.XXXII No.1, Marg Publications

P.K.Acharya:Architecture of Manasara, Oxford University Press, London, 1934

 

 

2025年4月6日日曜日

布野修司編:アジア都市建築史, アジア都市建築研究会,昭和堂,2003年8月

布野修司編:アジア都市建築史, アジア都市建築研究会,昭和堂,20038


布野修司編:亜州城市建築史,胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,200912 




2025年1月8日水曜日

布野修司編:日本当代百名建築師作品選,布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年(中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 1998年)

当代日本城市設計精選

 近代日本の建築家と都市計画

 布野修司

 

 はじめに

 日本の都市計画の伝統は古代に中国からもたらされた。藤原京、平城京(奈良)、長岡京、平安京(京都)と続いて建設された「都城」は中国の都城の理念に基づいて建設されたとされる。もちろん、『周礼』考工記が記述する中国の都城理念がそのまま持ち込まれたということではない。例えば、日本の古代都城は「中央宮闕」にはなっていない。平安京が左京は洛陽、右京は長安と名付けられたように、一般的には唐の長安を真似たとされる。しかし、長安と京都は東西南北のプロポーションも規模も異なっている。最大の違いは日本の都城が城壁をもたないことである。また、社稷、宗廟などが配置されないのも特徴である。

 一方、日本の都城も平城京、長岡京、平安京と時代を経るに連れて進化している。街区の寸法についてみると、平城京では、心々(芯々、真々)制ー道路の中心を寸法の基準にするーが採られている。平城京では内法制ー道路の端(内側)と端を基準とするーである。すなわち、平城京では街路の幅の違いによって街区の大きさは異なるのに対して、平安京では街路の幅に関わらず街区の大きさは一定である。藤原京については、最近の発掘成果からこれまでよりはるかに大きい「大藤原京」説が有力になりつつある。そうすると宮廷は都城の中心に位置することになり、『周礼』考工記に近いことになる。平安京の配置についても、風水説や道教の影響を指摘する論考もあり、興味深いテーマが残されている。

 日本の都市はその後独自の展開を開始する。理念は理念としてそのまま実現されるとは限らないのである。また、人々の実際の生活によって変容していく。平安京も左京はいち早くさびれ、重心は左京に移る。中国からもたらされた都市の理念は次第に日本化していくのである。外来の概念が土着化していく過程も興味深いところである。

 政治的中心としての都市は鎌倉、江戸に移るが、天皇の所在地としての京都は1867年まで日本の中心であり続ける。1994年に建都1200年を迎えた京都は世界的に見ても珍しい歴史都市である。1996年には,27の社寺などが世界遺産に登録された。今日に至るまで、様々な変化を経験してきたのが京都である。

 日本の歴史的大都市ということでは、江戸、大阪を加えて、三都市が挙げられる。18世紀初頭日本全国の人口は約3000万人と見積もられるが、江戸が50.1万人(1721)、大阪38.2満員万人(1721)、京都が34.1万人(1719)であった。江戸は螺旋状の構造をしており、明らかに京都のグリッド・パターンとは異なっている。城下町は日本のもうひとつの都市の伝統である。

 中世から近世にかけて、産業の発達とともに都市が発達する。日本の伝統的都市はいくつかに分類される。社寺を中心とする門前町(宇治山田、長野、奈良など)、なかでも浄土真宗本願寺派を中核とする寺内町(越前吉崎、石山(大阪)、山科、今井など)、港町(尾道、敦賀、小浜、大湊など)、宿場町(掛川、沼津、三島など)、自由都市(堺、博多)、そして城下町(一乗谷、小田原、山口、甲府など)である。

 江戸時代の幕藩体制において、各地域()に城下町が築かれた。京都も秀吉によってお土居が築かれ、城下町化が計られる。今日の日本の都市は、基本的には江戸時代の城下町を受け継いで発展してきたといっていい。

 19世紀半ば、新たな都市計画の伝統が移植される。きっかけとなったのは、長崎、神戸、大阪、横浜、新潟、築地(東京)など、開国に伴う開港場の建設である。西欧世界へ開かれた港町の建設を通じて西欧の都市建設技術がもたらされるのである。

 以降、一世紀半の歴史が流れた。この間の日本の近代都市計画の歴史を簡単に振り返り、その問題点について考えてみたい。

 

 近代日本の都市計画

 一般的には、1888(明治21)年の東京市区改正条例の公布と翌年の同条例施行および市区改正設計の告示をもって日本の近代都市計画の始まりとされる。「市区改正」とは今日の「都市計画」のことである。

 その歴史はいくつかの段階にわけることができる。石田頼房による時代区分がわかりやすい*1

 

 第1期 欧風化都市改造期(18681887)

 第2期 市区改正期(18801918)

 第3期 都市計画制度確立期(19101935)

 第4期 戦時下都市計画期(19311945)

 第5期 戦後復興都市計画期(19451954)

 第6期 基本法不在・都市開発期(19551968)

 第7期 新基本法期(19681985)

 第8期 反計画期(1982)

 

 第1期の欧風化都市改造期は、銀座煉瓦街建設(1972)、日比谷官庁集中計画(1886)などヨーロッパ風の都市計画が行われる時期だ。開港場が建設されてから、東京市区改正条例が制定されるまで日本都市計画の前史である。この過程については、藤森照信の『明治の東京計画』*2などが詳しく光を当てるところだ。この時期は、上海で活躍した英国人ウォートルス兄弟が銀座煉瓦街の計画、ドイツから招かれたエンデとベックマンが日比谷官庁集中計画に携わるなど、「お雇い外国人」としての建築家、都市計画が活躍した時期である。若干25才で日本を訪れた英国人建築家J.コンドルが日本の建築家の先生である。

 第2期が1880年からの区分とされるのは、既にその動きが始まっていたからである。こうした時代区分はある年を閾として截然と区切れるものではない。

 第3期において、東京市区改正土地建物処分規則(1889)などを踏まえて、都市計画法、市街地建築物法(今日の建築基準法)が制定(1919)される。戦前期における都市計画制度が1応確立された。1919年は日本の近代都市計画史にとって記憶すべき年である。この時期の関東大震災後(1923)の震災復興都市計画事業は、日本の都市計画にとって極めて大きな経験であったといっていい。同潤会による不良住宅地区改良事業、住宅供給事業、また、土地区画整理事業の即成市街地への適用など、具体的な事業展開がなされ出すのである。同潤会は、震災復興のために各国から贈られた義捐金によってつくられた日本で最初の公的住宅供給機関である。1940年に日本住宅営団に改組される。

 「15年戦争」(193145)下の第4期は、ある意味では特殊である。国土計画設定用綱(1940)にみられるように、国土計画、防災都市計画などが全面的に主題となった時期である。しかし、都市計画史の上では、決して空白期でも停滞期でもない。数多くの実験的な試みがなされた時期であり、戦後へ直接つながるものを残している。極めて大きな経験となったのは、植民地における都市計画の実践であった。

 戦後については、戦後復興期の経験の後は、1968年の建築基準法改正が画期になる。

 第5期は戦後復興が全面的な課題であった。戦後復興は経済復興という意味では予想外の成功をみせた。1955年には「戦後は終わった」と宣言され、高度成長期を迎える。第6期、1960年代は、盛んに都市開発が行われた時期である。そして、都市計画法が整備される第7期を迎える。オイルショックを経験し、成長の限界が意識される。

 そして、既成緩和策が取られた第8期は、バブル経済期にあたる。その崩壊後は、今日につながる時期である。従って、石田の区分にもう1期加えておこう。

 

8期 反計画期(198295)

9期 バブル崩壊期(1991)

 

 具体的な展開は他の書物に譲るとして、まず、以上のような日本の都市計画の歴史を貫いている課題を指摘しよう。建築家が都市問題に目覚めて以降、具体的なアプローチがさまざまに展開されてきたのであるが、残されている課題は依然として大きいと考えられるのである。すなわち、日本の建築家は西欧の都市計画技術の移入に追われて、独自の行動原理を現実の都市のフィールドから引き出してきたかどうかは大いに疑問なのである。

 ①西欧都市計画技術の移入

 日本の都市計画の第一の特徴は西欧の近代都市計画技術の多大な影響である。

 明治期の「お雇い外国人」による都市計画技術や建築技術の直接導入以降、常にモデルは欧米にあった。オースマン*3のパリ改造と「市区改正」、ナチスの国土計画理論*4と戦時体制下の国土計画理論、グレーター・ロンドン・プラン*5と首都圏整備計画、戦後でもドイツのB(ベー)-プラン*6(地区詳細計画)と地区計画制度(1980)など、基本的には欧米の制度を輸入してきた。日本の現実の中から独自の手法や施策が生み出されるということは必ずしもなかったのである。

 ②都市計画の主体の未確立

 都市計画の主体は誰なのか。誰が都市計画を行うのか。国なのか地方自治体なのか、行政なのか住民なのか。日本の場合極めて曖昧である。その点中国と日本では相当事情が異なっている。

 日本の場合、基本的には国が都市計画を主導してきた。三割自治体と言われるように国がイニシアティブをもっており、国の補助金事業によって全国画一的に都市計画が行われてきた。そうしたなかで、地方分権の主張とともに、都市計画は地方自治体が主体となるべきだという意見が次第に大きくなりつつある。また、住民参加論がさまざまに展開されてきている。すなわち、まちづくりの主体は地域社会(コミュニティ)であることが次第に認識されつつあるのである。

 ③都市計画の財源の問題

 都市計画の財源はどこに求められるか。何でまかなうのか。受益と負担の問題は日本の都市計画における一貫する問題である。これまでの日本の都市計画は、インフラストラクチャーの建設を主体とする公共事業を主体としてきた。あるいは一般的には民間の都市開発を行政がコントロールするかたちをとってきた。道路や鉄道などの建設を公共団体が行い、後の開発は民間の開発業者に委ねられるのである。特に巨大開発をめぐって、都市計画事業が生み出す開発利益の帰属をめぐっては、政、財、官をめぐって癒着の構造が成立してきたことがしばしば指摘される。また、公共事業誘致の地域間競争が繰り広げられるのが常であった。

 一般的な手法としてよく使われるのが博覧会である。博覧会の建設によってインフラ整備が終わった土地をイヴェント終了後に開発する手法である。大阪万国博(1970)、沖縄海洋博(1975)、筑波科学技術博(1985年)、また、1980年代後半に自治体設立百周年を記念して各自治体で行われた地方博覧会など、地域開発のための重要な手法とされてきた。

 日本には都市計画税という税があるが、都市計画に用いる仕組みがない。経済状況に関わらず、まちづくりに用いる財源を確保するのが課題であり続けているのである。

 ④土地問題、所有権と土地利用規制の問題

 土地問題、あるいは土地所有権と利用権、土地の公共性と私有権、所有権と土地利用規制の問題は、都市計画の基本的問題であり続けている。土地私有制は資本主義社会の基本である。この点中国と前提が全く異なる。

 日本においては土地の売買、建設は基本的には自由である。しかし、都市計画が都市計画として成立するためには、土地の利用についての何らかのコントロールが可能でなければならない。

 そのためにはある理念が必要である。例えばその前提となる公共性の概念は日本において極めて未成熟であり、曖昧である。そうした状況に西欧の都市計画モデルを導入するところにまず混乱の源があった。ある意味で、日本の都市のあり方を規定してきたのは、土地への投機行動である。そして、それを規制する法制度である。

 極端にいうと、規制と規制逃れのいたちごっこがあるだけで、結果として無秩序なまことに日本的な都市が出来上がってきたのである。

 ⑤都市計画の組織の問題

 都市計画のための組織も以上からうかがえるように日本では未確立である。その根底には日本の地方自治体の問題がある。また、都市計画の決定にさまざまな主体が絡み合い、その決定プロセスを不透明にする構造が一貫して存在してきた。いま、日本では非営利組織(NPO:Non Profit Organization)によるまちづくりが展望されようとしている。地方自治体と地域社会をつなぐ仕組みの確立が大きな問題なのである。

 以上を念頭に置きながら、戦後復興から今日に至る過程を振り返ってみよう。建築家にとっての都市と建築をめぐる課題は、いっこうに解かれていないことがわかる。しかし、その前に中国との関係において触れざるを得ない課題がある。「15年戦争」期(第4期)の植民地における都市計画の問題である。

 

 都市計画と国家・・・・植民地の都市計画

 「15年戦争」期において、大連、奉天、新京(長春)、ハルビン、撫順、牡丹峰、北京、上海、青島、京城、釜山、台北、高雄など、満州、中国、朝鮮、台湾の主だった都市で都市計画が実施される。大同都市計画、新京都市計画、など建築家も数多く参加したのであった。また、日本の都市計画法や市街地建築物法にならった法制度も施行されている。朝鮮市街地計画令が19346月に、台湾都市計画令が19368月に、関東州計画令が19382月にそれぞれ公布されたのであった。

 なぜ、植民地における都市計画が振り返って着目されるかというと、理念がストレートに実現されようとしたかに見えるからである。それまでに蓄積されてきた都市計画の技術や理念を初めて本格的に実践する一大実験場となったように思えるからである。

 越沢明は、なかでも新京の都市計画を近代日本の都市計画史のなかで看過できない重要な意味をもつとする*7。近代都市計画の理念、制度、事業手法、技術は、日本では1930年代にほぼ確立しており、新京における実践においてそれが明らかにできるというのである。新京の都市計画については、越沢によっても明らかにされていないことも多い。ただ、理念の実現という観点からみて、その計画の意義が全体として評価されるのである。

 理念をある程度「理想的に」実現させたものは、植民地という体制である。強力な植民地権力の存在があって、初めて、理念の実現が可能となった。都市計画は、その本質において、あるいはその背後に、強力な権力の存在を必要とする。植民地の場合、その都市計画の目的ははっきりしている。先の植民地の都市計画法も、それぞれ似ているけれども、日本の都市計画法とは全く異なる。その目的とするのは植民地支配のための「市街地や農地の創設と改良」であって、公共の福利や生活空間の創造ではないのである。また、さまざまな規定の強制力は比較にならないものであった。土地の収用権は、台湾でも朝鮮でも総督が握っていた。区画整理事業にしても強制施行がほとんどである。

 植民地期の都市計画の実験を理想化することは、こうして、都市計画に付随する暴力的側面を覆い隠すことにおいて大きな問題がある。しかし、都市計画の理念の実現に強力なリーダーシップが必要であること、私権を制限する強力な強制力が必要であること、都市計画が国家権力と不可避的に結びつくものであることを確認する上で、植民地における都市計画を振り返っておくことは無駄ではない。

 日本の場合、象徴的なのは後藤新平*8であろう。近代日本の都市計画の生みの親ともいわれ、東京市長として帝都復興計画を実現しようとした後藤新平にとって、一方で、「機関銃でパリの街を櫛(くし)削る」といわれたオースマンが理想であった。しかし、植民地台湾、植民地満州における経験もまた決定的であった。都市計画のひとつの理想をそこで見たに違いないのである。しかし結局は、彼の関東大震災後の帝都復興計画は挫折するのであった。

 白紙の上に都市計画を展開するという経験は、北海道のいくつかの都市を除くと、植民地においてしか日本はもたない。日本の植民地における都市計画が何を遺産として残したのかは注意深く検証されるべきであろう。

 第二次世界大戦の敗戦によって日本のほとんどの都市は灰燼に帰した。極わずかの爆撃でダメージを受けなかったのは京都などごくわずかしかない。東京は焼け野原であった。建築家にとってはまさに白紙である。その白紙の上にどのような都市が築かれていったのか。

 

 戦後の建築家と都市

 戦後まもなく日本の建築家にとって全面的な主題となったのは戦後復興である。具体的な課題として、早急な都市建設、住宅建設が焦眉の課題となった。戦災復興都市計画には数多くの都市計画家が参加している。

 戦災復興院は、典型的な13の都市について、建築家に委嘱して調査計画立案作業を行った。1946年の秋から夏にかけてのことである。高山栄華が長岡市、丹下健三が広島市、前橋市、武基雄が長崎市、呉市などの計画立案に当たった。また、東京都は、19462月に東京都復興都市計画コンペを銀座、新宿、浅草、渋谷、品川。深川といった地区をとりあげて行っている。新宿復興コンペで1等当選したのが内田祥文・祥哉兄弟などのグループである。この新宿地区計画は淀橋上水場を含んでいたのであるが、東京都庁舎を含むオフィス街を計画しており、今日の新宿新都心の姿を先取りしているのが興味深い。また、早稲田、本郷、池袋、三田の4地区において文教地区計画が立案されている。

 戦後まもなくの東京における復興計画についてこうしたコンペの企画を行ったのは石川栄耀*9(18931955)である。彼は、1933年以来、東京都の都市計画を手掛けてきたのであるが、知られるように戦前戦後を通じた都市計画界の最大のイデオローグである。驚くことに、1945827日には、石川が課長をしていた都市計画課は「帝都再建方策」を発表している。東京戦災復興の公式の計画である「東京戦災復興計画」は、19464月に街路計画、区画整理が、9月に用途地域が、19487月に緑地地域が計画決定されていくのであるが、それと並行して、いわば復興機運を盛り上げるために復興コンペが企画されたのであった。

 この復興コンペを含む「東京戦災復興都市計画」は、ある理想の表現であった。結果として、実施されなかった計画であり、そうした意味では未完である。否、現実の過程は、その計画とは大きく異なった方向に展開してきたのであった。紙の上にある理想の図式を描くスタイルがここでも踏襲された。そのモデルは、しかも、ヨーロッパのものであった。都市計画制度も都市計画技術もむしろ戦前との連続線上に前提されていた。欧米諸国が新しい都市計画制度を模索する取組みを見せたのに対して、日本の場合、あまりにも余裕がなかったのであった。

 1950年代初頭、朝鮮戦争の特需によってビル建設ブームが始まり、戦災復興が軌道に乗ると建築家の都市計画への関心は相対的に薄れていく。理想の計画案より、高度経済成長へむかうエネルギーが都市建設の方向を支配していくのである。

 こうして、関東大震災直後に続いて、日本の建築家・都市計画家は、理想の都市計画を実践する機会をまたしても失ったのだ、といわれることになる。

 東京オリンピックが開かれるのが1964年、大阪万国博が1970年、日本の1960年代は黄金の60年代と呼ばれる。日本の国土はこの十年でがらっと変わるのである。

 建築家が都市への関心を集中的に示すのは、1960年前後のことである。盛んに都市のプロジェクトが建築家によって描かれるのである。菊竹清訓*10の「海上都市」、「搭状都市」、黒川紀章*11の「空間都市」、「農村都市」、「垂直壁都市」、槙文彦*12・大高正人*13の「新宿副都心計画」、磯崎新*14の「空中都市」、そして丹下健三*15の「東京計画1960」などがそうだ。また、メタボリズムをはじめに都市構成論が展開される。アーバン・デザインという領域の確立、都市デザインの方法および発展段階についての整理、建築への時間性の導入とその技術化、槙文彦の「群造形論」、大谷幸夫*16の「Urbanics試論」、磯崎新の「プロセス・プランニング」、原広司*17の「有孔体理論」、西澤文隆*18の「コートハウス論」などがそうだ。60年代に至って、建築家が一斉に「都市づいて」いった過程とその帰結については拙著『戦後建築論ノート』*19で詳述している。要するに結論は以下のようだ。

 「西山夘三*20は、『60年代は日本の建築家が都市に対して眼を開き、かつて戦災のあとの絶好(?)の機会に能力不足で果たせなかった責任の償いをし、〈所得倍増計画〉という華やかな建設のかけ声にのって、大きな成果をかちとる時代である・・といった期待が語り合われ、少なからぬ人々が意気にもえている』と書いていた。おそらくそうであった。戦時中の中国大陸での経験を別とすれば、建築家は絶好の都市(都市計画)への実践の機会を戦後まもなくに続いて再びもったといえるであろう。」と書いた。

 しかし、帰結はどうか。

 「アーバン・デザインという1つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。……しかし、都市へのコミットの回路として、こうしたスタイルが衝撃をもち得たのは、60年代初頭のほんのわずかな幸福な時期に過ぎなかった。未来都市のプロジェクトは、ほぼこの時期に集中して提出されたのみで、急速に色あせていくのである。一面から見れば、60年代の過程は、彼等の構想力が現実化されていく過程であったといえよう。彼らのプロジェクトが色あせて見え出したのは、現実の過程がそれを囲い込み、疑似的な形であれ現実のコンテクストのなかでそれなりの形態をあたえることによって、追い越し始めたからである。それをものの見事に示したのが、日本万国博・Expo'70であり、沖縄海洋博であった。……」

 

 ポストモダンの都市論

 オイルショック(1973年)とともに建築家の「都市からの撤退」が始まる。若い建築家たちの表現の場は、ほとんど住宅の設計という小さな自閉的な回路に限定されていく。そうした状況を原広司が「最後の砦としての住居」と比喩的に呼んだことは1970年代の雰囲気をよく現している*21

 大規模なニュータウンの基本設計など具体的な仕事が日本住宅公団など当該機関に委ねられ、実践の機会が失われたということもある。しかし、建築家が自ら都市への回路を閉ざした点が大きい。自らの方法論やプロジェクトの提示によって引き起こされる現実のさまざまなコンフリクトを引き受けようとする意欲も余裕もなくなるのである。そういう意味では、建築家たちは二重に都市への回路を閉ざされ、また自ら閉ざしていったのであった。

 ところが再び、都市の時代がやってくる。バブル経済の波が日本列島を襲うなか、東京をはじめとする日本の都市はさらに大きく変容することになるのである。建築家は、またしても都市へと駆り立てられていくことになった。民間活力導入のかけ声のもと規制緩和による「反計画」の時代が始まる。建築家の無防備さも、無手勝流も「反計画」の時代に再び受け入れられたように見えたのであった。

 80年代から90年代にかけて都市への関心は次第に大きくなっていく。大都市東京をはじめとして、都市をめぐる様々な書物が洪水のように出版された。東京論、都市論の隆盛は都市への関心の大きさを示していた。その背景にあったのが、膨大な金余り現象からのさまざまな都市改造計画への蠢きであった。

 バブル経済期の都市論は、およそ3つに分けることができる。ひとつはストレートな都市改造論であり、都市再開発論である。

 なぜ、都市改造なのか、特に東京をめぐってははっきりしている。一言でいえば、「フロンティアの消滅」である。

 17世紀の初頭には東国の寒村にすぎなかった江戸が世界都市・東京へ至ったその歴史を振り返る余裕はここではないが、単純にその平面的広がりを考えても過飽和状態に達しつつあることは明らかである。東京一極集中がますます加速されるなかで、首都圏において都市発展のフロンティアが消滅しつつある。

 そこで、開発のためにまず求められたのがウォーターフロントである。また、未利用の公有地である。そして、ジオ・フロント(地下空間)であり、空中である。空へ、地下へ、海へ、フロンティアが求められた。そして、それが全国へと波及していったのである。

 もうひとつの都市論の流れは、レトロスペクティブ(回顧趣味的)な都市論である。都市化の進展によって失われた古きよき都市の伝統や記憶が次々に掘り起こされていった。都市の中の過去が、自然が現代都市への批判として対置されたのである。もちろん、そうした素朴な回顧趣味は都市改造のうねりに巻き込まれてしまう。水への郷愁がストレートにウォーターフロント開発へ結び付けられたことがそれを示していた。

 さらにもうひとつの都市論の流れは、いわゆるポストモダンの都市論である。すなわち、いまあるがままの現代都市、とりわけ、国際化し、ますます人工環境化し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す仮設都市をそのまま肯定し、愛であげる都市論である。ただただ、今都市が面白い、東京が面白いという都市論である。このポストモダンの都市論の系譜は、レトロスペクティブな都市論をすぐさま取り込む。ポストモダン・ヒストリシズム(歴史主義)といわれた皮相な歴史主義的なポストモダン・デザインが都市の表層を飾り出したのである。

 こうしてあえて3つの都市論の流れを区別してみてわかることは、全体としてそれぞれがつながっていることである。レトロスペクティブな都市論は一見都市改造への悲鳴であるようでいて、ポストモダンの都市論を介して過去の都市を疑似的に再現する回路に送り込まれたし、ポストモダンの都市論は、都市改造のさまざまな蠢きをその華やかさのうちに包み込むものであった。

 そうしてバブルがはじけた。そして阪神・淡路大震災がやってきた。

 

 阪神・淡路大震災の教訓*22

 戦後50年の節目に当たる1995年は、日本の戦後50年のなかでも敗戦の1945年とともにとりわけ記憶される年になった。日本の都市と建築を支えてきたものが大きく揺さぶられ続けたのが1995年であった。

 阪神・淡路大震災の教訓を列挙してみよう。

 a 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 

 b フロンティア拡大の論理・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。

 c 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であったことが反省される。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 e 地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 f 技術の社会的基盤の認識・・・ストック再生の技術の必要

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。

 g 都市(建築)の死と再生

 今度の大震災がわれわれにつきつけたのは都市(建築)の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にわれわれがみたのは滅亡する都市(建築)のイメージと逞しく再生しようとする都市(建築)のイメージの二つである。都市(建築)が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないだろう。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市(建築)の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。それはしかし、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後五〇年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。

 スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・アンド・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 そして、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。

 果たして、日本の都市はストックー再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。表現の問題として、都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の都市と建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。

 

 現代日本の都市計画

 以上に振り返ったように、建築家と都市のかかわりは、震災、戦災、高度成長経済、バブル経済による建設と破壊の歴史とともにあった。いま再び、建築家は都市から撤退する時代を迎えつつある。日本の都市計画は何処へ向かうのか。それが今われわれの問題である。

 

 ①新規開発プロジェクト

 日本のいわゆるニュータウン開発は1960年代初頭に始まる。千里ニュータウン(大阪)、高蔵寺ニュータウン(名古屋)、多摩ニュータウン(東京)など大規模な住宅地建設が長い年月をかけて行われてきた。

 日本のニュータウンは、ベッド(ドーミトリー)・タウンといわれる。ただ、睡眠をとるだけ、住宅機能だけしかない町という意味である。すなわち、工場や事務所など雇用を吸収する施設は十分に設置されず、居住者は仕事を得るために都心に通うかたちとなった。多くの国で田園都市の理念はそのまま実現することなく、田園郊外にとどまったように、日本のニュータウンも自立的で自己完結的な住宅地とならなかった。

  今日本のニュータウンの問題は高齢化である。ある時期に同じ世代が入居し、人口の大多数が高齢化しつつある。都市は老若男女バランスがとれていなければならない。人口構成の面では大きな失敗であったけれど、現実の問題として高齢者に向けてどう産業を起こすかは極めて重要な課題である。

 

 ②再開発プロジェクト

 新規開発プロジェクトに代わって、主流になりつつあるのが再開発である。都心のブライト(空洞)化、都心問題(インナー・シティ問題)は世界の先進諸国に共通の問題である。

 先進諸国の場合、産業構造の転換が再開発を必然的にしてきた。その一環がウォーターフロント開発である。産業構造が第二次産業からサーヴィス産業に移行することによって港湾部に立地した工場などの跡地が機能転換を余儀なくされるのである。1980年代から90年代にかけてニューヨーク、パリ、ロンドンなどと同様日本でも大規模な都市再開発がなされたのであった。

 大川端リバーシティを皮切りに、東京湾沿岸部の開発がなされた。横浜のMM(みなと未来)21開発も日本一の高さを誇るランドマークタワーが評判になった。千葉の幕張ベイタウン開発ではこれまでと異なった西欧的な町並みが目指された。天王州アイル、りんくうタウンなど大阪の臨海部、シーサイド百地、福岡の臨海部もすっかり面目を一新することになった。この間注目を浴びた大規模プロジェクトの多くが太平洋沿岸部に集中しているのである。ただ、都市博を梃子に計画された東京都の湾岸開発がバブルに乗り遅れ、都市博の中止とともにスローダウンしたのは上述したとおりである。

 既成市街地の再開発は、権利者の調整がネックになることから、時間がかかる。東京の都心部ではアークヒルズが先駆的である。鉄道用地、大規模な公有地、工場跡地がターゲットとなる。恵比寿ガーデンプレイスなど新しい東京のスポットとなった。

 

 ③歴史的環境の保存修景計画

 大規模な再開発によってこれまでにない町が建設される一方、歴史的な町並みの保存も日本各地で行われてきている。70年代の妻籠(岐阜県)を先駆として、様々な取り組みがある。大きな力になったのは文化財保護法の重要伝統建造物群保存地区の指定制度である。要するに、単体ではなく面として歴史的環境を保存する仕組みがつくられたのである。

 

 ④景観計画

 歴史的な地区に限らず、既成市街地の景観をどうデザインするかは極めて重要なテーマである。1980年から90年代にかけて、多くの自治体で景観審議会がつくられ、景観条例がつくられた。この景観条例は、法的な強制力はないけれど、地域の景観をつくりあげる一定のガイドラインになりつつある。

 景観の問題で、大きな問題は狭量や高架道路など土木スケールの構築物のデザインである。これまであまりデザインは問題にされなかったけれど、それらにもデザイナー、建築家が登用されだしている。

 治水のための河川工事や山崩れ防止の工事などにおいても、親自然型工法といった自然景観を考慮した工法が採用され始めている。

 

 ⑤地域住宅計画

 建設省住宅局は1980年代半ばにひとつの画期的な施策を打ち出した。HOPE計画(HOusing with Proper Environment)と呼ばれる。要するに地域に根ざした形の住宅供給が方針とされるのである。具体的には地域産材を用いるなど地域の住宅の伝統を生かした住宅の型の創出が目指された。戦後の日本では、北海道から沖縄まで、画一的な標準住居が公共住宅として供給されてきた。しかし、地域毎に固有のやり方が目指されるようになった。一大転換である。

 HOPE計画の主体は市町村である。これまで中央政府で全て決めてきた供給戸数なども地方自治体が決定する。画期的である。さらに興味深いのは、計画の内容も自治体毎に独自に決定できることである。喜多方(福島)の倉を利用するまちづくりなどユニークな取り組みがなされてきた。日本には3000を超える自治体があるが、10年でおよそ300近い自治体が建設省の補助を受け、独自の施策を競い合っている。

 

 阪神・淡路大震災がひとつのきっかけとなって、住民参加型のまちづくりが様々に展開されはじめている。ワークショップ方式と呼ばれる、自分たちの住んでいる町を調査し、問題点を話し合う集会やディスカッションを続けながらまちづくりを進めるやり方である。こうしたボトムアップのやり方は、これまでとは比較にならないほど手間暇がかかる。そこで期待されるのが、ヴォランタリーな活動である。上述したように、日本ではNPO(非営利組織)に法人格を認める法案が整備された。NPOが自治体と住民をつなぐ形のまちづくりがこれからの方向性として期待されている。そのモデルと考えられるのが世田谷(東京)のまちづくりである。小さな公園を整備したり、看板をそろえたり、植樹をしたり、身近にできることからやっていくのが特徴である。

  都市計画に関わる仕組み、法制度を変えていく試みも重要であるが、一方で事例を積み重ねていくことも必要である。試行錯誤の中から日本の独自の方法が生み出されることを大いに期待したい。

 

 21世紀へ向けて・・・集団の作品としての生きられた都市

 都市計画において基本的なのは部分と全体をめぐる問題である。全体から部分へか、部分から全体へか、部分の中の全体か、全体の中の部分か、都市と建築をめぐる、あるいは都市と住居をめぐる基本的問いがある。

 都市計画の起源というヒッポダモス風の都市計画がまず挙げられる。このグリッド・パターンの都市計画は古今東西実に広範にみることができるのであるが、知られるようにギリシャ・ローマの都市計画には別の伝統がある。都市を壮麗化し大規模な景観のなかに都市を構想する流れである。1方がグリッドという形で部分と全体にあらかじめ枠組みを与えるのに対して、他方は、自然の地形や景観を前提として、都市全体を記念碑化しようとする。もちろん、単純ではない。植民都市における実験としてヒッポダモス風都市計画が実践される場合、絶えず、危険性があった。都市の立地によっては、大規模な造成が必要となるからである。

 全体をあらかじめ想定した都市計画の伝統として、宇宙論的な都市の系譜がある。都市を宇宙の反映として考える伝統である。宇宙の構造を都市の構造として表現しようとするのが、例えば、中国や日本、朝鮮の都城であり、インドのヒンドゥー都市である。しかし、そうした理念型がそのまま実現されることはまずない。また、理念型に基づいて計画されても、大きく変容していくのが普通である。平安京や長安の変遷をみてもそれは明らかであろう。

 王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その2つの性格を併せ持つ都市、すなわち都城について、その都城を支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係をグローバルに見てみると、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。すなわち、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ないのである。また、都市構造と理念との関係は時代とともに変化していくし、理念型と生きられた都市は常に重層的なのである。

 西アジア、イスラーム圏には、都城の思想を表す書はない。イスラームの都市計画の伝統はそうした意味で興味深い。イスラーム都市は全く非科学的で、迷路のような細かい街路が特徴的である。しかし、都市構成の原理がないからというと決してそうではない。全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることによって全体が構成されるそんな原理がイスラーム都市にはある。イスラーム都市を律しているのはイスラーム法である。道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積が都市計画を律しているのである。街区を構成していく場合に予め全体像は必ずしも必要とされないのである。

 以上のような前近代におけるいくつかの都市計画の伝統から示唆されることは何か。少なくとも言えることは、都市というのは計画されるものであると同時に生きられるものだということである。そのダイナミックな過程を組み込まないあらゆる都市計画理論はそれだけでは無効であるということである。近代日本の都市計画の歴史が教える最大なものも、都市が無数の集団の作品であり、建築家の構想力や空間の創造も生きられてはじめて意味を持つということである。

 

*1 石田頼房、『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、一九八七年。

*2 岩波書店、一九八二年。

*3  Georges Eugene Haussman。一八〇九~一八九一年。パリ生まれの行政官、都市計画家。ナポレオン三世の下でセーヌ県の知事となり(五三~七〇)、パリ市の都市計画を大胆に実施した。

*4 G.フェーダーの都市計画理論がその典型であるとされる。

*5  1949年、P.アーバークロンビーが中心になって作成した。半径30マイルを計画域とし、同心円状に都心、郊外、緑地帯、周辺地帯の四つの環帯を区分した。

*6 地区詳細計画。特定の地区について遵守すべき建物の高さ、形態、色彩などを決める制度。

*7 越沢明、『満州国の首都計画』、日本経済評論社、一九八八年。

*8 一八五七岩手県~一九二九年。官僚,政治家。須賀川医学校卒。愛知県病院長,愛知医学校校長を経て一八八三年内務省衛生局に入る。九八年台湾総督・児玉源太郎の求めで台湾総督府民政局長となる。一九〇三年貴族院勅選議員。一九〇六~〇八年満鉄初代総裁に就任。児玉源太郎の死後、桂太郎に接近、第二次・第三次桂内閣に逓相として入閣。寺内内閣の内相、のち外相となりシベリア出兵を推進。二〇~二三年東京市長。帝都復輿院総裁となり、震災後の東京の大復興計画の立案を行う。

*9  一八九三山形県~一九五五年。都市計画者。一九一八年東京帝大卒。米国貿易会社に就職したが、二〇年内務省都市計画地方委員会技師となり、名古屋勤務となる。その後、東京都道路・都市計画課長を歴任し、五一年東京都建設局長で退職。早大工学部教授。名古屋では都市計画原案の作成に従事、土地区画整理事業を導入した。東京では戦災復興のため、駅前広場の建設とこれを中心とする盛り場計画を推進した。新宿歌舞伎町は彼の命名であり、組合施行方式の都市計画事業として完成させた。地方計画にも関心を抱き、「生活圏」の考え方を提唱、今日の国土計画の基礎を築いた。

*10 菊竹清訓▼きくたけ・きよのり▼《1928久留米~.》◇建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業(50)。竹中工務店、村野・森建築事務所を経て、53年菊竹建築研究所設立。川添登・黒川紀章・槙文彦・大高正人らと共にメタボリズム・グループを結成。「か・かた・かたち」論、「代謝建築論」など独自の建築論を展開した。「出雲大社庁の舎」(61)で日本建築学会賞受賞。「スカイハウス」(57)、「ホテル東光園」(63)など多くの作品がある。また、「塔状都市」(59)、「海上都市」(60)といった都市プロジェクトも多く、沖縄海洋博覧会(75)において、アクアポリスを実現させた。

*11 黒川紀章▼くろかわ・きしょう▼《1934.名古屋》◇建築家。京都大学工学部建築学科卒(57)。東京大学大学院で丹下健三に師事し、62年より黒川紀章建築都市設計事務所を主催。60年代の日本の建築界をリードしたメタボリズム・グループの旗手として知られる。後に「中銀カプセルタワービル」(72)に実現されるようなカプセル住宅によって構成される未来都市のイメージをいち早く提示した。「広島市現代美術館」(88)で日本建築学会賞受賞。「国立民族学博物館」、「国立文楽劇場」など作品多数。海外の作品も多い。多彩な活動で知られ、『共生の思想』など著書も多数ある。

*12  槙文彦 まき・ふみひこ。一九二八東京~。建築家。東京大学建築学科卒(五二)。ハーバード大学等で学ぶ。SOM建築事務所、ジャクソン建築事務所に勤務の後、ワシントン大学、ハーバード大学助教授を経て、槙総合計画事務所設立(六五)。東京大学工学部建築学科教授(七九~八九)。59年メタボリズム・グループ結成に参画。群造形理論で知られる。「名古屋大学豊田講堂」(62)、「藤沢市秋葉台文化体育館」(84)で日本建築学会賞。「代官山集合住居」(67)、「幕張メッセ」(88)、「SPIRAL(84)、「京都国立近代美術館」(86)など作品多数。著書に『記憶の継承』(92)などがある。

*13 大高正人 おおたかまさと。一九二三福島県三春町~。東京大学大学院卒業、(四九)。前川国男建築設計事務所を経て大高建築設計事務所。

*14  磯崎新 いそざき・あらた。一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*15 丹下健三。一九一三大阪~。日本を代表する建築家。東京帝国大学を卒業(三八)後、前川国男の事務所に勤務。同大学院卒業(四五)。一九四六年東京大学工学部建築学科助教授(四六)、東京大学工学部都市工学科教授に就任(六三)、東京大学名誉教授(七四)。その間、丹下健三都市建築設計研究所を設立。日本の近代建築は彼によってつくられたといっても過言ではなかろう。広島平和会館(五五)、東京都庁舎(五七)、香川県庁舎(五八)、国立屋内総合競技場(六四)、山梨文化会館(六七)、赤坂プリンスホテル(八三)、新東京都庁舎(八七)。その他、海外二〇数カ国にプロジェクトをもっている。日本建築学会賞、国際オリンピック委員会功労賞、イギリス王立建築家協会ローヤルゴールドメダル、朝日新聞朝日賞、アメリカ建築家協会ゴールドメダル、フランス建築アカデミー・ゴールドメダル、文化勲章等、受賞多数。

*16  大谷幸夫▼おおたにさちお▼《1924東京~.》◇建築家、都市計画家。1946年に東京大学建築学科入学、以後60年まで丹下研究室に在籍する。56年、建築家の運動体である五期会の設立に参加、その中心的な存在として活躍する。その後も一貫して、建築、都市のあり方をめぐって発言を続けている。61年、株式会社・設計連合を設立。64年~84年東京大学都市工学科で教鞭をとる。「国立京都国際会館競技設計」において最優秀賞を受賞(63)。「金沢工業大学」(66)「川崎市河原町高層公営住宅団地」(68)、「沖縄コンベンションセンター」など作品多数。

*17  原広司▼はら・ひろし▼《1936長野県~》◇建築家。東京大学生産技術研究所教授。東京大学建築学科卒業。「田崎美術館」で日本建築学会賞(86)。「ヤマトインターナショナル」(87)で村野藤吾賞。91年「JR京都駅ビル再開発設計競技」において一等入選。「飯田市美術博物館」(88)「新梅田シティー・スカイタワー」(92)「内子町立大瀬中学校」(92)など作品多数。また、世界の住居集落についての研究を展開してきた。主な著書に「建築に何が可能か」(67)「空間<機能から様相へ>」(87)などがあり、建築理論家としても知られる。

*18 西沢文隆 一九一五滋賀~八六。建築家。東京帝国大学建築学科卒業(四〇)。坂倉準三建築研究所入所。坂倉建築研究所設立(六九)代表取締役(~八五)。日本芸術院賞(五九)。日本建築学会賞(六六)。『西沢文隆小論集』全4(七四~七六)。『伝統の合理主義』(八一)など。

*19 拙著、相模書房、一九八一年。増補改訂『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年。

*20  西山卯三▼にしやま・うぞう▼《1911~一九九四。》◇建築学者、建築家。京都大学名誉教授。京都大学建築学科卒業(33)後、石本喜久治事務所、住宅営団研究部を経て、京大講師、営繕課長。戦後同大学助教授、教授を歴任。学生時代にDEZAMというグループを組織して以降、青年建築家連盟を始め、戦後の新日本建築家集団(NAU)など、一貫して建築運動に関わる。食寝分離論に代表される住宅計画理論を確立するなど、日本における住宅研究、住宅問題の理論的研究の権威としての位置を占めてきた。『国民住居論攷』(43)、『これからのすまい』(47)を始めとする住居論の他、地域空間論、建築論、建築家論などに関する著作も多い。

*21 拙稿、「世紀末建築論ノートⅤ デミウルゴスとゲニウス・ロキ」、『建築思潮』01、一九九二年一二月。

*22 拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』4号、1996年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、1996年2月号など。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...