Traverse版 建築学のすすめ
第3章 建築家なしの世界―原初の建築
布野修司
本章では、古今東西、これまでに書かれてきた「建築書」のいくつかを紹介しよう。 建築書」とは、文字通り、「建築」について書かれた書物のことである。建築書」にとって、そもそも「「建築」とは何か」というのが問題となる。だから、「「建築」とは何か」をめぐっては、古来様々な論考があり、「建築(理)論」と呼ばれる膨大な言説の蓄積を相手にすることになる。しかも、「建築論」というと、往々にして、難解で高尚な「哲学的」「思想」を展開するものと考えられている。
しかし、ここでは、「「建築」とは何か」、と真正面から問うことはやめよう。「建築」とは、もう少し簡単で身近なものである。「建築」と「建物(建造物)」はどう違うのか、「芸術としての建築」と「非芸術としての建築」はどう区別されるのか、等々の区別(差別)、「建築」という概念の特権化は、近代において成立したにすぎない[1]。ここでのテーマは、「建築」とは何か、ではなくて、「建築」をどう「つくる」か、である。大切なのは、「建築に何が可能か」(原広司[2])である。
前章(竹山聖先生)がいうように、「全ては建築である」(H.ホライン)。そして「誰もが建築家でありうる」というところから出発しよう。誤解を恐れずに最初に言い切ってしまうと、「建築書」と呼ばれてきた書物のほとんどは、「建築」を「つくる」ためのマニュアル、手引書のようなものである。
1 都市に寄生せよ:セルフビルドの世界
まず、課題を出そう。A3一枚の紙にどのような表現でもいいから描いてみて欲しい。
「都市に寄生せよ―――ある日あなたは突然家族も家も失った。身よりも何もない。あなたは誰にも頼らずたった独りで生きていくことを決意する。いわゆるフーテンである。家を建てたり借りたりする気はもはやなく、またその余裕もない。都市そのものに住もうと考える。しかし、そのためにも生活上最低限の装置は必要である。時には地下鉄の入口で、あるいは橋の下で、あるいは路上で寝なければならない。都市に寄生して生きていく。以下の条件を最低限満足させる装置をデザインせよ。1.寝られること、2.食事ができること、3.人を招待できること、4.ひとりで持ち運びができること。」
決してふざけているわけではない。山本理顕[3]さんと二人で考えて、色々な大学の「設計演習」の課題として実際に出してきた「定評ある」課題である。「フーテン」というと「フーテンの寅さん」という山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズが思い浮かぶけれど、知らない人も多いかもしれない。日本語の辞書(広辞苑、大辞林)を引いてもないが、何故か、和英辞書(研究社)を引くとbumと出てきて、a 《口》 浮浪者、 なまけ者、
飲んだくれ、 フーテン、金持ちのなまけ者.b 《口》 のらくらした生活; 《口》 飲み騒ぎ、
放蕩.・・・などとある。まあ、「ホームレス」と言ったほうが今ではわかりやすいかもしれない。
「ホームレス」が、「ホーム」を設計するのは矛盾のようであるが、「建築」の原点がここにある。ホームレスといえども、雨露をしのぐ覆い(シェルター)がなければ生きてはいけない。身に何かを纏う、覆いをつくる、道具をつくってテーブルや椅子をつくる、・・・というのは、最初の建築行為なのである(全てが建築である)。
この課題は、「理想の住まいを設計せよ」という課題より、余程想像力を刺激するらしい。まず、場所を想定しなければならない。また、材料を手に入れなければならない。さらに、材料を組み立てて空間をつくらなければならない。様々の発想が生まれ、楽しい創意工夫が生まれる。この創意工夫が「建築」の原点である。
発展途上国のみならず先進諸国にも、現在、数多くのホームレスが存在している。この課題は、従って、思考実験どころか、実に現実的な課題である。日本でも、第二次世界大戦後まもなく、廃墟を前にして、人々は、自らバラックを建てて住まざるを得なかった。柱と梁が足りないので壁を省いた「三角住宅」、空き缶を潰して屋根を葺いた「ブリキ住宅」、防空壕や埋設管を利用した「豪舎住宅」、「鉄管住宅」、さらには「バス住宅」「汽車住宅」もあった。無我夢中の、やむにやまれぬ必死の建築行為であるが、今日振り返れば、実に様々なアイディアである。
「建築」は、こうした身近な「住居」の問題と無縁ではない。誰だって、自分の部屋のレイアウト(家具や機器、様々なお気に入りのものの配置)を考え、カーテンの色や柄を選んでいる。そして、自分の住宅の間取りを描いたりする。基本的に「誰もが建築家」なのである。
しかし、自らが建てる(セルフビルド(自力建設))という経験は、日本ではますます少なくなりつつある。家は買うものであって、建てるものではない。しかし、建築の原点は、自らが自らの身体を使って建てるという行為にある。M.ハイデッガーに「建てるbauenことと、住むことwhonen、そして生きることlehben」[4]という論考がある。われわれが、セルフビルドの世界に魅かれるのは、「建てること」が「生きること」と全く同一でありえた位相を想い起こさせてくれるからである。
『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』[5]でも紹介したけれど、J.ワンプラーの『すべて彼ら自身のもの』[6]という小さな本には、自ら自分の住世界を建てた様々な人々が活き活きと描かれている。
2 ヴァナキュラー建築の世界
ヴァナキュラーvernacularとは、「その土地固有の」、「土着の」、あるいは「風土的」という意味である。ラテン語のヴァナクルムvarnaculumが語源で、「自家製」、「家で育てた」という意味から、「根づくこと」あるいは「居住すること」をいう。ヴァナキュラー・アーキテクチャーというと、住宅に限らないけれど、日本語でいう「民家」というニュアンス(語感)で一般的に使われる。
B.ルドフスキーが『建築家なしの建築Architecture without Architect』[7]を書いて、ヴァナキュラー建築の世界の魅力を喚起したのは1960年代初頭のことである。世界を見渡せば、実際、いわゆる「建築家」が関与しない「建築」の方がはるかに多い。ごく最近まで、住居は、大工さんや職人さんによって建てられるのが普通で当たり前であった。すなわち、セルフビルドの世界が普通であって、出来合いの「建売住宅」や「プレファブ住宅」あるいは「マンション」を買うのは近代以降のシステムである。
建築生産の工業化、建築の工場生産化(プレファブリケーション(前もってつくる))という「建築」のつくられ方の変化が決定的である。かつては、それぞれの地域で採れる材料(地域産材)を使い、その土地の気候に合った建築がつくられてきた。だから、ヴァナキュラー建築と呼ばれる。しかし、今日では、建築の材料、部品などは予め工場でつくられ、敷地には運ばれていって据え付けられるだけである。この方法だと、世界中同じように建築を建てることができる。
世界中の大都市が似たような景観となるのは、鉄とガラスとコンクリートのような工業材料を用い、同じような建設方法で建てられるからである。ヴァナキュラー建築の世界が注目されたのは、近代建築の理念や方法に対する疑問、反省、批判からであったとみていい。
ところで、このヴァナキュラー建築の世界には、一般に、「建築書」はない。しかし、建築をつくるための方法やルール、知恵の体系のようなものは必ずある。そうでなければ、それぞれの地域で同じような形態の建築が建てられ、美しい結晶のような集落を生み出すことはできない筈である。
セルフビルドの世界が現場の即興的な創意工夫、ブリコラージュ[8]の技法に支えられているとすれば、ヴァナキュラー建築の世界は、人類が長年それを繰り返し、地域の伝統的知恵として蓄積されてきた地域技術、ローカル・ナレッジ[9]に支えられている。「建築書」と呼ばれるものは、この地域の現場の知恵と技能を、応用可能な知識、技術の体系としてまとめたものと考えていい。「建築書」によって、建築の知識、技術は伝播可能なものとなるのである。
従って、建築を学ぶためにはまずヴァナキュラー建築の世界に学ぶ必要がある。また、自分で建ててみる必要がある。各地で行われている「木匠塾」[10]や集落調査[11]は、建築の原点に触れる最初の機会である。住居や集落の構成原理を研究することで、地域の生態系に基づいてつくられてきた建築のあり方を明らかにすることができる。「地球環境」問題がクローズ・アップされるなかで、それは今日的課題ともなっている。
まず、学ぶべきは建築の構造原理、架構方法である。テント構造、柱梁構造、井籠(校倉)構造、アーチ、ヴォールトなどヴァナキュラー建築は既に多様な架構方法を教えてくれる。柱や梁の太さや壁の厚さなど、自然や歴史の経過に耐えてきた適切なプロポーションを身体で感じることができる。
建築の架構方法は建築構造原理的に限定されるが、それだけで建築はできあがるわけではない。建築のかたちを規定する要因にはさらに様々なものがある。通常、住居のかたちを規定すると考えられる要因として挙げられるのは、①気候と地形(微地形と微気候)、②建築材料、③生業形態、④家族や社会組織、⑤世界(社会)観や宇宙観、信仰体系などである。地域が社会文化生態力学[12]によって形成されるとすれば、その基礎単位である住居も自然・社会・文化生態の複合体として捉えることが出来るであろう。世界中の住居を総覧する『世界住居誌』[13]は、以上のようなヴァナキュラー建築の構成原理を考える手掛かりとして編まれた。是非、参照して欲しい。
建築のための様々な知恵は、当初は口伝によって、また経験そのものの伝授によって世代から世代へ伝えられたと考えられるが、やがて書物の形としてまとめられるようになる。一般に生活の全体に関わる知恵がまとめられ、その部分として建築に関わる事項が記される。日本の「家相書」、さらにそのもとになった中国の「風水書」がその例である。「家相」も「風水」も近代科学技術理論からは「迷信」とみなされてきた。しかし、本来、以上のように、土地に蓄積されてきた知恵の体系である。中国、朝鮮半島、日本、台湾は風水文化圏といっていいが、各地に同様の「建築書」が成立してきたと考えられる。フィリピンには「パマヒイン」、ジャワには「プリンボン」、バリには「アスタ・コサラ・コサラ」「アスタ・ブミ」などが知られる。それぞれの相互関係については、今後明らかにすべき建築研究のテーマである。
3 ウィトルウィウスの『建築十書』 建築論の原典
世界中の建築を学ぶほとんど全ての人が最初に教えられるのが、前章でも触れられているウィトルウィウスMarcus Vitruvius Pollioという名前である。前1世紀の古代ローマの建築家で、カエサルと知己であり、オクタウィアヌス(アウグストゥス帝)のもとで建設関係を統括し、ファヌムのバシリカの設計を行ったことが知られるが、その他生没年も経歴もほとんど知られないその名が建築の世界で最大の有名人であるのは、彼が現存最古の「建築書」とされる10巻からなる『建築十書De architectura libridecem』を書き、世界の建築史に多大な影響を及ぼしてきたからである。
『建築十書』は、古代ギリシア・ローマの建築の状況、建築家の教育、建築材料、構法、各種建築の計画法などを知るうえで欠くことのできない史料であるが、建築や都市計画のみならず天文、気象、土木、軍事技術、絵画、音楽、演劇などの記述を含んでおり、総合的な技術の書、まさにアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)に関わる書である[14]。
今では、ほとんど読まれることはないかもしれないが、およその構成は以下のようである。
ウィトルウィウスは、第一書の第1章において、まず、建築家の素養について書いている。建築家は制作(実技)と理論の両方に精通しなければならないとした上で、願わくは、「文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識を持ちたいものである」という。建築家に必要とされる素養は古来実に幅広い。今日でも極めて多くの複雑な要素をひとつにまとめあげるのが建築家の役割であり、そのために幅広い素養が必要とされるのは同じである。
様々の要素のうち、どういう要素に着目し、何を重視するかは建築家によって異なる。ウィトルウィウスは、用utilitas、美venustas、強の理が保たれるべきだという(第一書第3章2)。用の理は、計画理論、強の理は、構造理論、美の理は、造形理論あるいは美学理論ということになろう。その三位一体の上に建築理論が成り立つと考えるのである。
ウィトルウィウスは、建築を構成する基本原理として、オルディナーティオーordinatio(量的秩序に関する一般原理)、ディスポシティオーdispositio(質的秩序に関する一般原理)、ディストリブーティオーdistributio(配分・経理を内容とする実践的原理)を挙げ、基本概念として、エウリュトミアeurythmia(質的秩序に基づく美的構成)、シュムメトリアsymmetria(量的秩序に基づく格にかなった構成)、デコルdecor(建築構成の基本原理として要請されるふさわしさ)を主張する。こう書くと、『建築十書』は難解な理論書と思われるかもしれないが、実際各書は極めて具体的である。
第二書は、ほとんど建築材料に関する記述である。砂、石灰、石材、木材などについて、その製法、施工法が書かれている。また、第七書には、仕上げや塗装の方法がまとめられている。さらに、第八書は、水脈探査法、雨水の利用方法、水道・井戸などについて書かれ、第九書は、天文学、占星術、日時計の作り方について、第十書は、水車や各種器械の作り方について書かれている。すなわち、建築のために必要な事項が書かれた「マニュアル書」なのである。
第三書、第四書は、神殿について、第五書は、劇場、浴場など公共建築について、第六書が、住居について書かれている。
住居について書かれた第六書では、まず、住居の向きと太陽との関係が問題とされている(第1章)。そして続いて、上述のシュムメトリアが問題にされる。シュムメトリアは、シンメトリー(左右対称)の語源であるが、住居の各部分の比例関係、割付のことである(第2章)。さらに、主要な部屋の構成(第3章)、各部屋の向き(第4章)、デコル(第5章)というように順次説明がなされる。デコルとは、装飾、仕上げ方である。
この『建築十書』は、しかし、ウィトルウィウスの独創によるものではない。ウィトルウィウスが、古典期・ヘレニズム期のギリシア建築に心酔し、執筆にあたっては現在には伝わっていない多くのギリシアの建築書を下敷きとしていたとされる。第六書の第7章にはギリシアの住宅について書かれている。また、メソポタミア文明に遡る建築技術の流れがささらにその基になっていることは容易に想定できる。長い歴史の流れの中で人類が蓄積してきた建築の技術を集大成する「建築書」の代表が『建築十書』である。
ルネサンス期になって、この『建築十書』は大々的に再発見されることになる。すでにローマ時代にもたびたび引用され、中世には修道院を中心として研究が行われていた。特に、カール大帝の時代には、ローマ帝国再建のための技術的手引きとして熱心に読まれたことが知られている。しかし、ルネサンスの文芸復興の大きなうねりの中で、L. B. アルベルティの建築書[15]をはじめとする多くの注釈書、訳書があらわれることによって、それは確たるものとなり、西欧における建築学の基礎とみなされるようになるのである。
4 ヴァストゥー・シャーストラ:マーナサーラ
建築という概念が西欧起源であることが示すように、建築論の伝統は西欧のものといっていいほど,西欧的価値形態に根ざしている。しかし、建築をつくるためのマニュアルとしての「建築書」は、どこでも必要であり、どこにでも存在してきたと考えられる。
例えば、インドには古来「シルパ・シャーストラ Silpa Sāstra(諸技芸の書)」と呼ばれる、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群がある。「シルパ Silpa」とは「規範」、「シャーストラ Sāstra」とは「科学」を意味する。最も有名なのは、マウリヤ朝のチャンドラグプタに仕えたカウティリヤが書いたとされる『アルタ・シャーストラ(実利論)』[16]である。これは統治に関わる様々な領域を扱い、理想的な都市計画[17]について記述することで知られる。
「シルパ・シャーストラ」の中で、ヴァストゥーVastu・シャーストラと呼ばれるものが建築に関わる。ヴァストゥーというのは、「建造物」あるいは「居住」を意味する。最も完全なものは『マーナサーラ』Mānasāraであり、他に『マヤマタ』Mayamata、『カサヤパ』Casyapa、『ヴァユガナサ』Vayghanasa、『スチャラディカラ』Scaladhicara、『ヴィスバカラミヤ』Viswacaramiya、『サナテゥチュマラ』Sanatucumara、『サラスバトゥヤム』Saraswatyam、『パンチャラトゥラム』Pancharatramなどがある。
「マーナ mana」は「寸法」また「―サラ sara」は「基準」を意味し、「マーナサーラ」とは「寸法の基準」の意味である[18]。『マーナサーラ』はサンスクリット語で書かれているが、その内容はアチャルヤ P.K.Acharyaの英訳(1934年)によって広く知られる[19]。
全体は70章からなる。まず1章で創造者ブラフマーに対する祈りが捧げられ全体の内容が簡単に触れられ、建築家の資格と寸法体系(2章)、建築の分類(3章)、敷地の選定(4章)、土壌検査(5章)、方位棒の建立(6章)、敷地計画(7章)、供犠供物(8章)と続く。9章は村、10章は都市と城塞、11章から17章は建築各部、18章から30章までは1階建てから12階建ての建築が順次扱われる。31章は宮廷、以下建築類型別の記述が42章まで続く。43章は車でさらに、家具、神像の寸法にまで記述は及んでいる。極めて総合的、体系的である。成立年代は諸説あるが、アチャルヤ
によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものである。
第2章では、建築家の資格、階層(建築家、設計製図師、画家、大工指物師)を述べた上で、寸法の体系を明らかにしている。八進法が用いられ、知覚可能な最小の単位はパラマーヌparama~nu(原子)、その8倍がラタドゥーリratha-dhu~li(車塵、分子)、その8倍がヴァーラーグラva~la~gra(髪の毛)、さらにシラミの卵、シラミ、ヤバyaba(大麦の粒)となって指の幅アングラanguraとなる。このアングラには大中小があり、8ヤバ、7ヤバ、6ヤバの三種がある。
建築にはこのアングラが単位として用いられるが、その12倍をヴィタスティvitasti(スパン:親指と小指の間)とする。さらにその2倍をキシュクkishku、それに1アングラを足したものをパラージャパチャpara~ja~patyaとして肘尺(キュービット)として用いる。すなわち、24アングラもしくは25アングラが肘尺とされるが、26、27アングラのものもあって複雑である。26アングラをダヌール・ムシュティdhanur-mushtiというが、その4倍がダンダdandaで、さらにその8倍がラジュrajjuとなる。キシュクは広く一般的に用いられるが主として車、パラージャパチャは住居、ダヌール・ムシュティは寺院などの建造物に用いられる。距離に用いられるのがダンダである。
配置計画については9章(村)、10章(都市城塞)、32章(寺院伽藍)、36章(住宅)、40章(王宮)に記述されているが、マンダラの配置を用いるのが共通である。そのマンダラのパターンを記述するのが7章である。正方形を順次分割していくパターンがそこで名づけられている。すなわちサカラSakala(1×1=1)、ペチャカPechaka(2×2=4分割)、・・・チャンラカンタChanrakanta(32×32=1024分割)の32種類である。円、正三角形の分割も同様である。
そしてこの分割パターンにミクロコスモスとしての人体、そして神々の布置としての宇宙が重ね合わせられるが、原人プルシャを当てはめたものをヴァストゥ・プルシャ・マンダラという。最も一般的に用いられるのはパラマシャーイカParama-s’a-yika(9×9=81分割)もしくはチャンディタChandita(8×8=64分割)である。
村落計画、都市計画についてはそれぞれ8つのタイプが区別されている。村落について挙げるとダンダカDandaka、サルバトバドラSarvatobhadra、ナンディヤバルタNandya-varta、パドマカPadmaka、スバスティカSvastika、プラスタラPurastara、カルムカKa-rmuka、チャトゥールムカChaturmukhaの8種である。都市および城砦についてはここでは省かざるを得ない。『曼荼羅都市』を参照されたい。
建築の設計については、まず全体の規模、形式を決定し、それをもとに細部の比例関係を決定する方法が述べられている。一般の建築物については1階建てから12階建てまで、それぞれ大、中、小、全部で36の類型が分けられている。そして、幅に対して高さをどうするかに関しては1:1、1:1・1/4、1:1・1/2、1:1:1・3/4、1:2という5種類のプロポーションが用意されている。
興味深いのは、内容は別にして、全体構成が、ヴィトルヴィウスの『建築十書』の構成に極めてよく似ていることである。誰か、しっかり研究して欲しい。
5 営造法式と匠明:木割書の世界
中国にも、もちろん、建築、都市計画に関わる書物がある。中国都城の理念を記す『周礼』「孝工記」[20]はしばしば引かれるところである。この『周礼』「孝工記」をめぐる中国都城に関わる議論はここではおこう[21]。
現存する「建築書」となるとかなり時代は下る。中国最古の建築書とされるのは、北宋の徽宗の宮廷で、国家の営造を司る将作監の職にあった李誡(李明仲)がまとめた『営造方式』(1100)である[22]。
『営造法式』は、全34巻からなり、巻1~2は建築の名称と述語の考証、労働日数の算出法、巻3~15は建築の各部分の施工技法、巻16~28は各工事の積算規定を示し、巻29~34には付図を掲載する。
その基本は、きょう■(肘木)の断面寸法を基準とした8等級の「材」を定め、これをモデュールとした建築の架構を示し、さらに積算方法や労働時間などを詳細に規定するものである。建築の主要な架構を扱う「大木作」のなかの「椽(えん)」(日本でいう垂木)の項をみると、「架」(母屋桁間の水平距離、スパン)を六尺以内とし、椽の長さは傾斜に沿って求めることなど、続けて椽の間隔、扇垂木とする場合の手法などが示されている。『営造法式』は、こうした詳細な規定を多岐の項目にわたって記述し、様々な形式、規模を示しているのである。
中国には、その後、『魯般営造正式』(明代弘治年間(1465-1505)頃)、『工程做法さほう』(1736(乾隆元)年)74巻、『欽定工部則例』(1815(嘉慶20)年)141巻などの「建築書」がまとめられている。
こうした中国の「建築書」の伝統は、当然、朝鮮半島、日本にも伝えられる。もちろん、中国の「建築書」がそのまま伝えられたということではない。広い中国においても、「建築書」がそのまま用いられたとは限らない。木造文化圏における「建築書」の比較は、それ自体大きなテーマである。
日本で知られている最古の「木割書」は、法隆寺大工であった平正隆の書いた『三代巻(さんだいのまき)』(1489年)である。そして最も完備しているとされるのが『匠明』(1608年)である。江戸幕府大棟梁の家柄であった平内(へいのうち)家に代々秘伝書として伝わってきたものである。木割りそのものは、古代から存在してきたと考えられるが、「木割書」が生まれたのは、工匠の頭となる大工職が世襲されるようになってからのことで、室町時代に、大工棟梁の家の秘伝書として成立したとされる。江戸末期に至ると、数多くの木割書がつくられ、木版本も刊行されて、広く流布することになる。
『匠明』は、門記集、社記集、塔記集、堂記集、殿記集の五巻からなる。門(31棟)、社(神社本殿13棟他)、塔(15基)、堂(本堂、鐘楼、方丈等22棟)、殿(主殿、能舞台等諸建物)という建物種別に木割り(各部の寸法)が示されている。指図(平面図、立面図)が示され、その説明がなされる、という記述のスタイルである。
「塔記集」の「三重塔」のところを注釈書によりながら、図面を起こしたことがある。今日では、CADを用いて3G画面が容易につくれる。一週間に一度の演習で半年かかったけれど、ヴァーチャルでも物が建ちあがるのは実に楽しいものである。記述は簡潔であるが、日本の木造建築のつくり方がよくわかる。『営造法式』とやり方が異なるのも面白い。
古今東西、「建築書」の基本にあるのは、寸法、モヂュール(基準寸法)である。石材であれ、煉瓦材であれ、木材であれ、単位となる部材の寸法から全てが組み立てられる。そして、尺にしてもフットfootにしても、そうであるように、寸法の基準は身体寸法である。部材の太さや、長さは、身体寸法をもとに測って、経験上、もつかどうか(倒れるかどうか)の経験を蓄えてきたのである。
建築にとって極めて重要なのが、以上の意味での寸法感覚、スケール(規模)感覚である。スケール感覚を身につけるには、ここでも、ヴァナキュラー建築に学ぶことである。美しいプロポーションというのは、力学的にも理にかなっているからである。また、身の回りのものがどのような寸法なのか、身をもって測るのがいい。
6 パターン・ランゲージ
さて、以上のように、前近代においては、それぞれの地域で「建築書」がつくられ、伝えられてきた。技術的に洗練度の高い地域から低い地域へ技術は流れる。また、民族の興亡、交流が余りない地域で(例えば日本)、技術は洗練される。
しかし、上述のように、産業革命による産業社会の到来によって、建築のあり方、つくり方は一変する。鉄とガラスとコンクリートを主材料とすることにおいて、以前とは、比較にならないほど大規模の建築(大空間、超構想)をつくることができるようになるのである。鉄筋コンクリート(RC)構造は、圧縮に強いセメントと引張りに強い鉄の熱膨張率がたまたまほぼ同じで、付着性が高いという偶然を基にした発明である。最初は、植木鉢とかボートがつくられ、建物に使われだすのは19世紀末のことである[23]。また、高層建築がつくられだすのも19世紀末のシカゴにおいてである[24]。大変革が起こって、わずか百年余りである。この間は、建築技術の発展が大きく建築のあり方を支配することになった。
社会が複雑化し、多様になったことも大きい。全く新たな建築類型も出現してきた。建築をつくる方法もまた大きく変化するのも当然である。
現代の建築理論家として知られるクリストファー・アレグザンダーC.Alexanderは、『形の合成に関するノート』[25]で、この間の事情を図のように、うまく説明する。
すなわち、ヴァナキュラー建築の世界では、かたちFormは、コンテクストContext(文脈、脈絡、前後関係、状況)によって決まり、一定の照合関係が成立してきた。そして、建築家が設計する場合には、建築家がコンテクストを把握することによって形成された心的イメージをかたちに置き換える方法がとられてきた。しかし、現代社会においては、コンテクストが複雑化、多様化しており、それを一人の人間が把握することは困難であり、一定の抽象化が必要になる。また、複雑な用件をまとめあげるには、コンピューターが必要になる。
C.アレグザンダーは、『コミュニティとプライヴァシー』[26]には、住宅を設計する場合が書かれている。住宅の間取りを考えて、条件を挙げてみて欲しい。「台所は食堂に近い方がいい」、「台所は明るく南向きがいい」・・・おそらく、無数の条件や項目を書き上げることができるだろう。中には当然矛盾した条件、項目が含まれる。そうすると優先順位を決める必要がある。数多くの条件を整理して、それをひとつの空間にまとめるのが設計である。C.アレグザンダーは、その整理を行う筋道、プログラムを示したのである。
設計のプロセスを如何に論理化するかが、建築理論の課題である。しかし、全て論理化できるかというと、必ずしも、そうはいかない。設計の決定のプロセスには、当然、様々な価値判断が必要とされるからである。
C.アレグザンダーが『形の合成に関するノート』で示した方法は、当初、条件を書き出せば論理的に設計が出来る、そういうモデルと受け取られたが、彼自身は、住み手や使い手が設計のプロセスに関与するモデル構築にむかう。
ひとつは、「パターン・ランゲージ」と呼ばれる、建築の語彙(ヴォキャブラリー)と辞書を用意する方法である[27]。誰でも、この語彙と辞書を使って設計できるのが理想である。この語彙が果たしてどこでも使えるのか、普遍性を持つのか、という議論はあるが、ヴァナキュラー建築は、地方言語の宝庫である。
また、C.アレグザンダーは『住宅の生産』[28]において、実際の建設も行うこと、現場で設計することの重要性を主張する。そして「アーキテクト・ビルダー」という概念を提出する。
さらに、都市計画についても、『まちづくりの新しい理論』[29]において、住民参加型の、あるいはワークショップ形式の設計計画方法論を展開している。
C.アレグザンダーに一貫するのは、如何に複雑な社会になろうとも、自らが直接関与できる現場から発想すること、決定のプロセスを透明化し、オープンにすることである。
建築理論の系譜といいながら、いささか、簡単に過ぎたであろうか。身近なスケールの家具や住宅についてはわかるけど、超高層など設計できるであろうか、と言われれば、基本はそうかわらない、といいたい。
建築理論の流れを丹念に追いかけるとすれば、さらに何十枚もの紙数がいるであろう。すぐれた建築を生み出す建築家であれば、必ず、それなりに説得力ある理論をもっている。それぞれに、大いに学んで欲しい。
[1]
そもそも「建築」という言葉は、欧米語のArchitecture、の訳語で日本語にはなかった。中国語にもなくて、むしろ、明治の文明開化の時代に日本語による翻訳語が中国語としても用いられるようになった例の一つである。
伊東忠太(1867-1952)という稀代の建築家、建築史家が「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を論ず」()という論文を書いて、「建築」、「建築家」、「建築学」、「建築学科」という言葉が定着することになるが、伊東の論文のタイトルからわかるように、直前は、「造家」という言葉が使われていた。「造船」、「造家」・・・というのは、わかりやすいが、「建築」は、「造家」ではない、「建造物」Buildingと「建築」Architectureは違うと、伊東忠太は、先の論文で主張したである。
それまでは、土木建築工事一般を「普請(ふしん)」、建物に関する工事を「作事(さくじ)」と呼んでいた。
しかし、が、要するに、「建築は芸術であって、単なる工学技術ではない」というのである。この「芸術としての建築」という観念は、「芸術」という観念の成立に関わっている。
そもそも「芸術」とは、と語源を遡ると、西欧語ではアート、アール art(英語、フランス語)、アルテ
arte(イタリア語、スペイン語)、さらにアルス ars(ラテン語)に至る。一方、ドイツ語ではクンスト Kunstといい、技術的能力にかかわる動詞 können(できる)に発し、art や arte の由来するアルス ars は、テクネーtechnéの訳語として用いられる。すなわち語源からみれば、芸術は技術と類縁であり、最広義には技術にふくまれる。
[2]
原広司、『建築に何が可能か』
[3]
山本理顕
[5]
布野修司、『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』、朝日選書、1997年
[6]
J.Wampler、 “All Their Own: Towards Autonomy
in Building Environment”、Oxford University Press、 New York、 1977
[8]
ブリコラージュ
[9]
C.ギアツ
[11]
原研究室
[12]
立本成文、『地域研究の問題と方法 社会文化生態力学の試み』、京都大学学術出版会、1996年
[13]
布野修司監修、『世界住居誌』、昭和堂、2005年
[14]
そもそもArchitecture・・・の語源は、ラテン語のアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)、アルキテクトンArchitechtónである。「始源(根源)の技術」という意味である。すなわち、アーキテクチャーという言葉は、「建築」という分野にとどまらない。原義に遡れば、「コンピューター・アーキテクト」といった言葉が用いられるのは何も不思議はないのである。
[16]
カウティリヤ、『実利論』上下、上村勝彦訳、岩波文庫、1984年。Shamasastry, R., “Arthasastra of
Kautilya”, University of
[17]
布野修司、『曼荼羅都市』、京都大学学術出版会、2006年
[18]
『マーナサーラ』とは作者の名前であるという説もある。
[19]
Acharya, P.K. Architecture of Manasara Vol. I-V.
[20]
『周礼』:しゅらい Zhヾu l° 古くは《周官》ともいった。中国古代の礼書,三礼の一つ。西周王朝の行政組織を記述したものとされ,天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇(だいしこう),冬官大司空の6人の長官に統帥される役人たちの職務が規定されている。これら六つの官は,理念的にはそれぞれ60の官職から成り,合計360という職務は1年の日数に対応するのだとされる。ただ冬官大司空の篇は古く失われ,漢代に替りに〈考工記〉が補われた。伝説的には,周公旦が周代初年に礼を制した際,この書物も編まれたとされるが,内容がそれにそぐわないことは,近人の銭穆〈周官著作年代故〉が詳論するところである。また前漢末の劉垢(りゆうきん)の偽作だとする主張もあるが,おそらくこの書物の主体になる部分は,戦国末期,天下が統一に向かう趨勢の中で,一つの統一国家像を描き出すため,以前からの種々の伝承をまとめて編纂されたものであろう。編纂の中心となったのは斉国の学者たちであったと推定されている。この書物は漢代にすでに〈六国陰謀の書〉と呼ばれ,王裸(おうもう)の新政権や王安石の新法実施などに際し政治的に利用されたほか,六官からなる政治体制は中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えた。(小南
一郎)
[21]
応地利明、「Ⅴ アジアの都城とコスモロジー」、『アジア都市建築史』、昭和堂、2003年
[22] これに先立って、神宗の下で王安石によって財政再建のための支配機構の整理が打ち出され、1068年に将作監に下された命により1091年に完成した建築書250冊も『営造法式』と称するが、同書はあまりにも大部で、広闊で、未整理であったらしく、重ねて李明仲に命がくだったとされる。
[23] 1850年ころに,フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初といわれ,その後,67年に J. モニエが鉄筋コンクリートの部材を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりとされる。フランスで発明された鉄筋コンクリート部材は,その特許がドイツに買い取られて基本的な研究が行われ,80年代の終りには,圧縮をコンクリートで,引張りを鉄筋で受け持つ鉄筋コンクリートばりの理論的計算法が発表された。日本で土木構造物に鉄筋コンクリートが初めて使用されたのは,1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋といわれる。
[24] 鉄道事業の発達とともにアメリカ中西部の商業,工業の中心地として発展し始めていたシカゴでは,急激な人口の集中による都市化が進む一方,1871年に起こった大火によりそれまでの木造による商業施設の大部分が焼失し,復興のための建設ブームを迎えていた。その中で生み出されたのが、シカゴ構造と呼ばれる鉄骨構造の高層建築である。ジェニー William Le Baron Jenney(1832‐1907)やホラバード William Holabird(1854‐1923)ら、シカゴ派と呼ばれる建築技術者らが当時建物の装飾や構造材に補助的に使われていた鋳鉄と,土木分野や工業製品に使われ始めた鋼を柱やはりに使用し始めるのである。また,エレベーターも当時安全装置を備えて実用段階に入り始め、従来4~5階建てであったシカゴの町のスカイラインを一新する高さにまで達することができた。ホームインシュアランス・ビル(1885。12階),リライアンス・ビル(1894。16階)がその先駆である。
[25] Notes on the Synthesis
[26] Community and Privacy
[27] Pattern Language