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2024年12月21日土曜日

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,解説、而立書房,1996年10月

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,199610



解説

         

 一九三〇年四月、コルビュジェのアトリエでの満二年の留学を終えて帰国した前川國男は、八月、A・レーモンド設計事務所に入所する。二五歳であった。入所前、「明治製菓」の公開設計競技(コンペ)に一等当選。建築家としてのデビューを果たす。一二月、「第2回新建築思潮講演会」に招かれ、「3+3+3=3×3」と題した講演を行う(『国際建築』 一九三〇年一二月)。前川國男の最初の公的発言の記録である。そして、次の年、「東京帝室博物館」公開コンペに敗れ、最初の文章「敗ければ賊軍」(『国際建築』 一九三一年六月号)が書かれる。「日本趣味」、「東洋趣味」を基調とすることを規定した戦前期の数々のコンペに敢然と近代建築の理念を掲げて戦いを挑み続けた前川國男の「華麗な」軌跡の出発を象徴する文章である。

 前川國男が本格的に建築家としての活動を開始する一九三〇年は日本の近代建築の歴史にとって記憶さるべき年である。まず、近代建築運動史に記憶される、新興建築家連盟の結成、即崩壊という事件がある。また、鉄筋コンクリート造、鉄骨造の構造基準及び共通仕様書が整備されるのが一九三〇年である。近代建築展開の技術的基盤は既に用意されていた。一九三〇年代後半には、「白い家」と呼ばれるフラットルーフの四角い箱型の住宅作品が現れ、日本への近代建築理念の定着が確認されるのであるが、まさにその過程とともに前川は活動を開始したのであった。そしてまた、それは、新興建築家連盟の結成、即崩壊という日本の近代建築運動の挫折あるいは屈折を出発時点において予めはらんだ過程でもあった。

 日本の近代建築運動は、一九二〇年の日本分離派建築会(堀口捨己、石本喜久治、山田守、森田慶一、滝沢真弓)の結成に始まるとされる。前川國男が一五歳の年だ。逓信省の下級技師を中心とする創宇社(山口文象、海老原一郎、竹村新太郎ら)の結成(一九二三年)が続き、メテオール(今井兼二ら)、ラトー(岸田日出刀ら)といった小会派が相次いで結成された。その様々な運動グループの流れを一括して、いわば大同団結しようとしたのが新興建築家連盟である。

  新興建築家連盟の結成の中核となったのは創宇社のグループである。分離派のいわば弟分として出発した創宇社は、当初、展覧会など分離派と同じスタイルで活動を展開するのであるが、やがて、その方向を転換させる。いわゆる、「創宇社の左旋回」である。分離派のメンバーが東京帝国大学出身のエリートであったのに対して、逓信省の下級技師を中心とした創宇社メンバーは、「階級意識に目覚め」、社会主義運動への傾斜を強めるのである。無料診療所、労働者住宅といったテーマのプロジェクトにその意識変化を見ることができるとされる。

 前川國男が東京帝国大学工学部建築学科に入学した一九二五年、治安維持法が公布され、卒業してシベリア鉄道経由でパリへ向かった一九二八年三月、共産党員の大量検挙、三・一五事件が起こっている。騒然とする時代の雰囲気の中で、創宇社は第一回新建築思潮講演会を開く(一九二八年一〇月)。創宇社は、分離派に対して距離をとり、その芸術至上主義を批判する。それを明確に示すのが、谷口吉郎の「分離派建築批判」(一九二八年)である。谷口吉郎は、市浦健、横山不学らとともに前川國男のクラスメイトであった。

 しかし、時代は必ずしも若い世代のものとはならない。一九三〇年一〇月結成された新興建築家連盟は、わずか二ケ月で活動を停止したのである。読売新聞の「建築で「赤宣伝」」の記事(一二月一四日)がきっかけである。こうして、戦前期における日本の建築運動はあえなく幕を閉じたのであった。デザム、建築科学研究会、青年建築家連盟等々小会派の運動は続けられるのであるが、建築界の大きな流れとはならない。また、日本建築工作連盟も組織されるのであるが、翼賛体制のなかで全く質を異にする団体であった。

 そうした過程で、前川國男は、A.レーモンド事務所での仕事の傍ら、設計競技を表現のメディアとして選択する。既に、パリのコルビュジェのもとから、「名古屋市庁舎」のコンペ(一九二九年)に応募していたのであるが、全てのコンペに応募するというのが選びとった方針である。「執務に縛られた」建築家にとって「設計競技は今日のところ唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識が前川にはあった。

 「東京帝室博物館」以降も、「明治製菓銀座店」(一等入選 一九三二年)、「第一相互生命館」(落選 一九三三年)、「東京市庁舎」(三等入選 一九三四年)と続いたコンペへの参加は、A.レーモンドと衝突して独立した一九三五年以降も初志一貫して続けられる。そして、「在盤谷日本文化会館」公開コンペ(一九四三年)において、前川國男ははじめて寝殿造の伝統様式を汲む大屋根を採用するに到る。「東京帝室博物館」以降、日本的な表現、いわゆる「帝冠併合様式」に抵抗し続けてきて、ついに前川は挫折した。「在盤谷日本文化会館」案は、前川國男の転向声明である、というのが一般的な評価である。

 こうして、戦前期における日本の近代建築の歴史は、「日本的なるもの」あるいは日本の伝統様式、「帝冠併合様式」あるいは様式折衷主義に対する果敢な闘争そして挫折という前川國男のコンペの歴史を軸にして、わかりやすい見取り図として既に書かれている。ひとつの神話となっているといってもいい。しかし、その挫折の様相は、前川國男のテキストに即して掘り下げられる必要がある。

 前川國男の二五歳から四〇歳に当たる一五年戦争期は、激動の時代である。前川國男建築設計事務所の設立以降、日中戦争の全面化とともにとともに仕事は大陸で展開されるようになる。「大連市公会堂」公開コンペ(一等、三等入選)が一九三八年、一九三八年八月には上海分室が、一九四二年には奉天分室が開設される。

 一方、この間、丹下健三、浜口ミホ、浜口隆一が入所、戦後建築の出発を用意する人材が入所する。前川國男の引力圏の中で、「大東亜建設記念営造計画」(一九四二年)、「在盤谷日本文化会館」に相次いで一等当選した丹下健三の鮮烈なデビューがあり、浜口隆一の大論文「日本国民建築様式の問題」(一九四四年)書かれた。

 一九四五年、五月二五日、空襲で事務所も自宅も焼失する。設計図や写真等一切の記録を失って前川國男は敗戦を迎えることになる。

 

         

 敗戦直後、結婚。新しい日本の出発とともにプライベートにも新生活が開始された。しかし、とても新婚生活とはいかない。目黒の自宅は、四谷に現事務所ビルが竣工する一九五四年まで、十年、事務所兼用であった。

 戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、建築家としても敗戦に打ちひしがれる余裕など無かった。まずは、戦時中(一九四四年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」(工場生産の木造組立住宅のことであり、プレファブのPRE、前川のM、構造担当の小野薫のO、供給主体であった山陰工業のSをとって、命名された)に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法(トロッケン・モンタージュ・バウ)」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの戦後の先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。

 前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品のひとつと目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは一九四七年のことである。

 一九四七年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の六月である。

 戦後復興期から一九五〇年代にかけての戦後建築の流れについては、いくつかの見取り図が描かれている。わかりやすいのはここでも建築運動の歴史である。戦後まもなく、国土会、日本建築文化連盟、日本民主建築界等のグループが結成され、NAUへと大同団結が行われる。しかし、NAUがレッドパージによって活動を停止すると、小会派に分裂していく・・・。そして、一九六〇年の安保を契機とする「民主主義を守る建築会議」を最後に建築運動の流れは質を変えてしまう。

  興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場は基本に置かれるのである。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった一九四七年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド                             )同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。MID同人は、翌年、雑誌『PLAN』を1号、2号と発行している。創刊の言葉にはその意気込みが示されている。そして、『PLAN』=計画という命名が近代建築家としての計画的理性への期待を示していた。

 もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。一九四七年から一九五一年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。

 建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(一九四八年 前川三等入選)の不明瞭さ(一等当選を出さず審査員が設計する)が示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(一九五六年)の住民の建設参加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、五期会結成(一九五六年六月)に参加することになる。NAU崩壊以後の建築運動のひとつの核は前川の周辺に置かれていたのである。

 しかし、敗戦から五〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。

 一九五二年には、「日本相互銀行本店」が完成する(一九五三年度日本建築学会受賞)。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、一九五四年に竣工する(一九五五年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。この戦後モダニズム建築の傑作の保存をめぐって、建築界を二分する大きな議論が巻き怒ったのは一九九三年から九五年のことである。また、一九五五年、坂倉準三、吉村順三とともに「国際文化会館」を設計する(一九五六年度日本建築学会賞受賞)。さらに、「京都文化会館」(一九六一年度日本建築学会賞受賞)、「東京文化会館」(一九六二年度日本建築学会賞受賞)と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然なのである。

 前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(一九五五年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、一九五九年には、日本建築家協会会長(~一九六二年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。

 

Ⅲ         

 一九六〇年代、前川國男は堂々たるエスタブリッシュメントであった。一九六〇年、前川國男は五五歳である。

 しかし、一方、時代は若い世代のものとなりつつあったとみていい。一九六〇年代、日本の建築界の大きな軸になったのは、丹下健三であり、メタボリズム・グループの建築家たち(菊竹清訓、大高正人、槙文彦、黒川紀章)であった。

 丹下健三の場合、一九四〇年代の二つのコンペ(「大東亜建設記念営造計画」「在盤谷日本文化会館」)に相次いで一等入選し、戦前期に既に鮮烈なデビューを果たしていたのであるが、実質上のデビューは戦後である。「広島ピースセンター」公開コンペ(一九四九年)の一等当選、そして「東京都庁舎」指名コンペ(一九五三年)の一等当選がそのスタートであった。とりわけ、「広島ピースセンター」は戦後建築の出発を象徴する。「大東亜建設記念営造計画」のコンペからわずか七年の年月を経ていないこともその出発の位相を繰り返し考えさせる。A.ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアーが戦後二度と建築の仕事をする機会を与えられなかったことに比べると、彼我の違いは大きい。大東亜共栄圏の建設を記念する建造物と平和を希求する建造物のコンペに同じ建築家が当選するのである。一人の建築家の問題というより、日本建築界全体の脆弱性が指摘されてきたところだ。

 それはともかく、戦後建築をリードしていく役割は若い丹下に移行していったとみていい。建築ジャーナリズムの流れをみると、一九五〇年代後半からは丹下を軸にして展開していく様子がよくわかる。例えば、伝統論争において、縄文か弥生か、民家か数寄屋か、作家主義か調査主義かといった様々なレヴェルのテーマが交錯するのであるが、丹下  白井、丹下  西山、丹下  吉武といった構図のように丹下は常に中心に位置するのである。

 丹下にとって、日本の伝統は決して後ろ向きのものではない。創造すべきものである。日本の伝統建築でも、民家は問題ではない。伊勢や桂のもつ近代的な構成、プロポーションを鉄筋コンクリートで表現すること、新しい技術で近代的な構成原理を表現し、新しい伝統を創り出していくことが丹下の関心である。

 それに対して、前川國男の場合、日本建築の伝統そのものについての意識は薄い。伝統と創造をめぐる普遍原理に関心があり、究極的に日本に近代建築を実現することが最後まで課題であったように見える。ただ、「京都文化会館」、「東京文化会館」から「紀伊国屋書店」、「埼玉会館」(一九六六年)かけて、その作風の変化が見られる。いわゆる「構造の明快性から空間へ」という変化だ。技術的には「打ち込みタイル」の時代が始まる。

 ここでも、丹下が東京都庁舎、香川県庁舎を経て、「代々木国際競技場」や「山梨文化会館」など構造表現主義へと向かうのと対比的である。打ち放しコンクリートの仕上げが難しい。そこで技術的な検討が積み重ねられてきて生み出されたのが「打ち込みタイル」である。技術に対する感覚は全く異なっていると言っていい。

 六〇年代の前川にとって、また、日本の建築界にとって大きなテーマとなったのが、「東京海上火災本社ビル」をめぐる「美観問題」である。一九六五年初頭に依頼を受けた「東京海上火災本社ビル」の設計は、都庁の高度制限によって難航する。そして、当初計画案を変更して(高さを低くして)ようやく竣工したのはようやく一九七四年のことである。

 この「美観論争」には、様々な要素が複雑に絡んでいる。第一に、「東京海上火災本社ビル」が皇居前の丸の内に位置することだ。暗黙の「皇居を覗かれては困る」というコードがあった。第二に、行政指導についての法的な根拠の問題があった。第三に、今日に言う景観問題、高さや色をめぐる問題があった。すなわち、基本的には都市と建築の問題である。建設の、あるいは表現の自由と権力、規制の問題を象徴的に明るみに出したのである。

 この「美観論争」は必ずしも明快な総括がなされているわけではない。今日同じような景観問題が繰り返されているからである。

 近年の京都におけるJR京都駅や京都ホテルの問題のように、景観問題は建築の高さをめぐって争われる。あるいは、超高層建築の是非をめぐって争われる。その原型が「東京海上火災本社ビル」をめぐる問題にある。「高層ビルこそ資本の恣意に対する最大の抑制、そして社会公共に対する最大の配慮にもとづいて計画されたものだ」、なぜなら、「あえて工費上、またいわゆる事業採算上の利点を抑制して」、「敷地面積の三分の二を自由空間として社会公共に役立てる」からである。

 今日の公開空地論である。ここでも、前川國男ははるかに先駆的であったといっていい。しかし、景観問題とはもとより公開空地をとればいいという問題ではない。前川國男の反論にはさらに多くの論点が含まれていた。それにも関わらず、「東京海上火災本社ビル」におけるこの高さに関わるロジックのみが高層ビル擁護の根拠として再生産され続けているのである。

 一九六八年、六三才、前川國男は、日本建築学会大賞の第一回受賞者に選ばれる。「近代建築の発展への貢献」が受賞理由である。戦後建築のリーダーとして当然の評価であった。

 しかし、この頃から、前川の口調にはどこかとまどいや苛立ちが感じられるようになる。受賞の際に書かれた文章は「もう黙っていられない」と題される。「近代建築の発展への貢献」というけれど怪しい、人間環境は悪化の一途をたどっている、よい建築が生まれることはますます難しくなる、建築界には連帯意識が欠如している、といった悲観的なトーンが全体に漂う。基調は、「自由な立場の建築家」の堅持であり、その不易性である。

 前川國男には職能確立のための状況は六〇年代末において厳しくなりつつあるという認識があった。知られるように、六〇年代を通じて建築界で大きな論争が展開される。設計施工分離か一貫かという問題である。建築士法における兼業の禁止規定に関わる歴史的問題だ。その大きな問題が、審査委員長として関わった「箱根国際観光センター」のコンペでも問われた。「設計施工分離」の方針が受け入れられないのである。しかし、興味深いことに、前川は「本来設計施工一貫がよいはず」と書く。今日に至るまで、この問題も掘り下げられていない。

  

Ⅳ         

 一九六八年から一九七〇年代初期にかけて、「戦後」を支えてきた様々な価値が根底から問われる。ひとことでいえば「近代合理主義」批判の様々な運動が展開されたのであった。世界的に巻き起こった学生運動がその象徴だ。前川國男は、日大闘争渦中の自主講座に参加し、理解と共感を示したという。

 その前川國男の「いま最もすぐれた建築家とは、何もつくらない建築家である」(『建築家』 一九七一年春)という名言は時代を象徴する。精神の自由を失った建築家が如何に多いことか。「自由な立場の建築家」の理念を失ってつくることは、前川國男にとって耐え難いことであった。

 苛立ちから絶望へ、文章には悲観的なトーンが目立ち始める。前川國男自身が様々な事件に巻き込まれたことも大きいのであろう。ひとつは一〇年にも及んだ「東京海上火災本社ビル」の問題があった。自発的に高さを削るということで決着したのが一九七〇年九月、竣工は一九七二年である。また、「箱根国立国際会議場」が結局は実現しないという結末も大きなダメージであった。

 しかし、前川國男は、近代建築家としての基本的姿勢を変えることはなかったように思う。「合理主義の幻滅ー近代建築への反省と批判」(一九七四年)は、タイトルだけを読むと、前川の転換を示すように思える。しかし、合理主義を捨てたわけではない。むしろ、「捨てられない合理主義」の立場がそこで宣言されていることは見逃されてはならない。「近代の経済的合理主義よりも次元の一段高い合理主義の論理を見出す「直感力」を鍛えることが一番大切なことだと思われます」という合理主義の位相の理解がポイントである。「直感力」といっても、合理主義に対して「非合理」性を対置しようと言うのではない。「科学的思考」に対する「神話的思考」という言葉も提出されるのであるが、「直感の中にある合理性」を日常的な合理性の感覚というと平たく解釈しすぎるであろうか。少なくとも、産業社会を支える経済合理主義の論理ではなく、社会生活を支える正当性の問題として、合理主義の論理は考えられ続けてきたように見える。

 一九六〇年代末から一九七〇年代にかけて、建築ジャーナリズムは近代建築批判のトーンを強める。『日本近代建築史再考ー虚構の崩壊』(新建築臨時増刊 一九七四年一〇月)、『日本の様式建築』(一九七六年六月)に代表されるような、近代建築史の再読、様式建築の再評価の試みが盛んに展開され出すのである。すぐさま現れてきたのは、装飾や様式を復活しようという流れだ。今振り返れば、皮相なリアクションであった。しかし、そうした趨勢とともに日本の近代建築をリードしてきた前川國男の影は薄くなっていったことは否めない。

 日本における近代建築批判の急先鋒となったのは、例えば、長谷川尭である。その『神殿か獄舎か』(一九七二年)は、建築家の思惟を「神殿志向」と「獄舎志向」に二分し、「神殿志向」の近代建築家を徹底批判する。主要なターゲットは、前川國男であり、丹下健三であった。長谷川尭が評価するのは、豊多摩監獄の設計者である後藤慶二のような建築家である。あるいは商業建築に徹してきた村野藤吾のような建築家である。掬い取ろうとするのは「昭和建築」=近代合理主義の建築に対する「大正建築」である。

人民のために、大衆のために、あるいは人類のためにというスローガンを唱えながら、常に自らを高みにおいて、何ものかのため、究極には国家のために「神殿」をつくり続けるのは欺瞞だ。その舌鋒は、当然のように建築家という理念そのものにも向けられる。プロフェッションとしての、すなわち、神にプロフェス(告白)するものとしての建築家、あるいはフリーランスのアーキテクト、あらゆる権力や資本から自由で自律的な建築家のイメージは幻想ではないか。何処にそんな建築家が存在しているのか。口先だけで綺麗ごとをいう。建築家はそもそも獄舎づくりではないか。

 「獄舎づくり」と「自由な立場の建築家」の間には深く考え続けるべきテーマがある。「獄舎づくり」であることを自覚することは、現実を支配する諸価値をアプリオリに前提することなのか。一方で、「獄舎づくり」の論理はコマーシャリズムの世界に一定の根拠を与えて行ったようにみえるからである。装飾や様式の復活といった、後に、ポストモダン・ヒストリシズムと呼ばれた諸傾向を支持したのはコマーシャリズムなのである。

 一方、七〇年代に入って、日本において近代建築批判を理論的にリードすることになったのは、『建築の解体』(一九七五年)を書いた磯崎新であった。その近代建築批判としての、引用論、手法論、修辞論の展開は、建築を自立した平面に仮構することによって組み立てられている。すなわち、近代建築が前提としてきたテクノロジーとの関係、社会との関係を一旦は切断しようとしたのであった。建築をテクノロジーや社会などあらゆるコンテクストから切り離すことに置いて、古今東西あらゆる建築は等価となる。思い切って単純化して言えば、あらゆる地域のあらゆる時代の建築の断片、建築的記号やイコン、様式や装飾を集めてきて組み合わせる、そうした「分裂症的折衷主義」に理論的根拠を与えたのが磯崎新であった。これまたポストモダン・デザインの跳梁ばっこに根拠を与えたことは否定できないのである。 

 こうして、前川國男は、『神殿か獄舎か』と『建築の解体』という全く対極的な近代建築批判に挟撃されることになる。ただ、『神殿か獄舎か』が上梓された同じ年に、「中絶の建築」が書かれていることは想起されていい。「今日の建築家は新製品新技術の情報洪水の中から取捨選択に忙殺され、しかもその最終選択に確信をもち得ず、ついに一箇の「デザイナー」になり下がって現代の芸術とともに「中絶」の建築への急坂を馳せ下ろうとしている。・・・・「中絶」の建築は「中絶」の都市を生み、「中絶」の都市は、「流民のちまた」として廃棄物としての「人生」の堆積に埋もれていく他はないであろう。」。

 一九八六年六月二六日、前川國男は逝った。享年八一歳。その後まもなく、バブル経済がポストモダニズム建築の徒花が狂い咲こうとは夢にも思えなかったにちがいない。前川國男の死の意味が冷静に問えるようになったのはバブルが弾け散ってしまってからである。

    

2023年8月10日木曜日

近代世界システムと植民都市,都市計画学会賞受賞に当たって,都市計画262,200608

 近代世界システムと植民都市,都市計画学会賞受賞に当たって,都市計画262,200608

植民都市計画研究のための基礎作業

布野修司

 

 研究経緯

 赴任したばかりの東洋大学で磯村英一先生(当時学長)から、いきなり「東洋における居住問題に関する理論的、実証的研究」という課題を与えられて、アジアの地を歩き始めたのは1979年初頭のことである。振り返れば、最初に向かったのがインドネシアであったことが運命であった。インドネシア、殊に、スラバヤという東部ジャワの州都には以降度々通うようになった。経緯は省かざるを得ないが、10年の研究成果を『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』という論文にまとめて、学位(東京大学)を得た(1987年)。そのエッセンスを一般向けにまとめたのが『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)で、光栄なことに日本建築学会賞論文賞を受賞することができた(1991)

 このカンポンkampungというのが曲者であった。OED(オクスフォード英語辞典)によると、コンパウンドcompoundの語源だという。バタヴィアやマラッカの都市内居住地がカンポンと呼ばれていたことから、インドでも用いられだし、アフリカなどひろく大英帝国の植民地で使われるようになったという。大英帝国は、最大時(1930年代)、世界の陸地の1/4を支配した。英国の近代都市計画制度が世界中で多大な影響力をもった理由の大きな部分をこの事実が占める。

 インドネシアの宗主国はオランダである。オランダは、出島を通じて日本とも関係が深い。オランダ植民都市研究を思い立ったのは、インドネシア、カンポン、出島という縁に導かれてのことである。

 

 受賞論文:近代世界システムと植民都市」(京都大学学術出版会、20052月刊行)

受賞論文が対象とするのは、17世紀から18世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。オランダ東インド会社(VOC)、西インド会社(WIC)による植民都市の中で、出島は、長崎の有力商人によって建設されたことといい、オランダ人たちの生活が、江戸参府の機会を除いて、監獄のような小さな空間に封じ込められていたことといい、唯一の例外といっていい。論文は、オランダ植民都市の空間編成を復元しながら、17世紀から18世紀にかけての、世界の都市、交易拠点のつながりと、それぞれの都市が現代の都市へ至る、その変容、転生の過程を活き活きと想起する試みである。

 まず、アフリカ、アジア、南北アメリカの各地につくられたオランダの商館、要塞など植民拠点の全てをリスト・アップした。そして、主として都市形態について類型化を試みた。さらに、臨地調査(フィールド・サーヴェイ)を行った都市を中心にいくつかの都市をとりあげ比較した。比較の視点としているのは、都市建設理念の起源と原型(モデル)、地域空間の固有性によるモデルの変容、近代化過程による転生、<支配―被支配>関係の転移による土着化過程(保全)植民都市空間の現代都市計画上の位置づけ、などである。

 オランダ植民都市を起源とする諸都市はインドネシアなどを除いて、イギリス支配下に入ることによって変容する。そして同様に19世紀末以降、産業化の波を受けてきた。また、独立以降(ポスト・コロニアル)の変容も大きい。論文は、英国植民都市計画そして近代都市計画の系譜以前に、オランダ植民都市の系譜を措定して、その原型、系譜、変容、転生の全過程を明らかにしている。

 まず広く、西欧列強の海外進出を概観(第Ⅰ章)した上で、オランダ植民地拠点の全容を明らかにした(第Ⅱ章)。続いて、植民地建設の技術的基礎となったオランダにおける都市計画および建築のあり方をまとめた上で、オランダ植民都市計画理念と手法を考察し(第Ⅲ章)、オランダ植民都市誌として各都市のモノグラフをもとに、植民都市の変容、転生、保全の様相について考察する(第Ⅳ章)構成をとっている。巻末には、詳細な植民都市関連年表、オランダ植民都市分布図をまとめている。

 

 アジアからの視点

近代植民都市研究は、基本的には<支配←→被支配><ヨーロッパ文明←→土着文化>の二つを拮抗軸とする都市の文化変容の研究である。近代植民都市は、非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配を本質としており、西欧化、近代化を推し進めるメディアとして機能してきた。植民都市の計画は、基本的にヨーロッパの理念、手法に基づいて行われた。西欧的な理念がどのような役割を果たしたのか、どのような摩擦軋轢を起こし、どのように受け入れられていったのか、計画理念の土着化の過程はどのようなものであったのか、さらに計画者と支配者と現地住民の関係はどのようなものであったか等々を明らかにする作業は、これまでほとんど手つかずの状況であった。本論文は、飯塚キヨ氏の『植民都市の空間形成』(1985年)以降の空白を一挙に埋め、ロバート・ホームの『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017月)に呼応するアジア(日本)からの作業として位置づけることができる。

 植民都市の問題は、現代都市を考えるためにも避けては通れない。発展途上地域の大都市は様々な都市問題、住宅問題を抱えているが、その大きな要因は、植民都市としての歴史的形成にあるからである。また、西欧列強によってつくられた植民都市空間、植民都市の中核域をどうするのか、解体するのか、既に自らの伝統として継承するのか、これは、植民都市と地域社会の関係が、在地的な都市=地域関係へと発展・変容していく過程の中で現出する共通の問題でもある。具体的に、歴史的な都市核としての旧植民都市の現況記録と保全は、現下の急激な都市化、再開発が進行するなかで緊急を要する問題である。本論文は、現代都市の問題を大きな問題意識として出発しており、それぞれの都市の現況を記録することにおいて大きな意義を有している。都市問題、住宅問題の解決の方向に向かって歴史的パースペクティブを与える役割を果たし、さらに加えて、世界遺産としての植民都市の位置づけに関しても多大な貢献をなすと確信するところである。

 

アジア都市建築研究

17世紀をオランダ植民都市という切口で輪切りにしてみて、残された作業は少なくない。スペイン、ポルトガルと植民都市計画の歴史を遡行する作業ももちろんであるが、アジアからの作業として、前近代の都市計画の伝統を明らかにする必要がある。大きく、インド、イスラーム、中国の都市計画の伝統が想起されるが、ヒンドゥー都市についてその理念と変容を篤かったのが、『曼荼羅都市』(京都大学学術出版会、2006年)である。また、カトゥマンズ盆地の都市について“Stupa & Swastika”をまとめつつある(2007年出版予定)

この度の受賞は、さらなる作業のために大きな励みとなるものである。心より感謝したい。

 

アジア都市建築研究会は、布野修司を中心として1995年に発足したゆるやかな研究組織体で、20055月までで69回の研究を積み重ねて来た(研究会の内容は、http://agken.com/index.htm)。その主要な成果として、*『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会、学芸出版社,19973月、*『日本当代百名建築師作品選』(布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年 中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 1998)、*『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会、2001)、*『アジア都市建築史』(布野修司+アジア都市建築研究会,昭和堂,2003年)*『世界住居誌』(布野修司編著、昭和堂、2005)などがある。

受賞論文の元になっているのは、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した共同研究(文部科学省・科学研究費助成・基盤研究(A)2)(19992001年度)・課題番号(11691078)・研究代表者(布野修司))である。布野が、報告書をもとに全体を通じて筆を加えて受賞論文の原型となる予稿をつくった。それを各執筆者に回覧し、確認を受けたものを再度布野がまとめたのが受賞論文である。共著者は、魚谷繁礼、青井哲人、R.Van Oers、松本玲子、山根周、応地利明、宇高雄志、山田協太、佐藤圭一、山本直彦である。また、共同研究参加者は、以上に加えて、安藤正雄、杉浦和子、脇田祥尚、黄蘭翔、高橋俊也、高松健一郎、佃真輔、Bambang Farid Feriant、池尻隆史他である。








2023年7月14日金曜日

希望のコミューン 新・都市の論理 分散型自立組織としての都市ネットワーク はじめに

 

希望のコミューン

 

新・都市の論理

分散型自立組織としての都市ネットワーク


はじめに

 

 世界は,いま,大きく転換しつつある。

第一に,世界の歴史の大転換が進行中である。第二次世界大戦後の世界を規定してきた冷戦構造が崩壊(ベルリンの壁崩壊(198911月),ソ連邦の崩壊(199112月))して以降,本格的にグローバリゼーションの時代が到来する。ヘゲモニーを握ったのはアメリカ合衆国であり,世界随一の軍事力を背景にアメリカ合衆国によって世界が主導されていく時代が開始された。アメリカ合衆国のヘゲモニーは,しかし,21世紀に入って,9.112001)の同時多発テロ,イラク戦争(2003)によって揺らぎ始める。そして,リーマンショック(2008)が世界経済に深刻な打撃を与える。その一方で,大きく抬頭してきたのが中国である。北京オリンピック(2008),上海エクスポExpo2010)を成功させ,中国が国内総生産GDPで日本を抜いて世界第2位となったのは2010年である。そして,アメリカ合衆国にアメリカ・ファーストを唱えるD.トランプ政権が誕生すると(20172021),イギリスのブレグジットBrexitなど自国第一主義を唱える経済ナショナリズムが世界各地で顕著になる。また,民主主義(自由主義諸国)vs権威主義(中国,ロシア他)という新たな世界秩序の構図が鮮明に浮上してきた。「一帯一路」vs「自由で開かれたインド・太平洋」という経済圏の囲い込みをめぐる対立構図がそれに重層する。

世界経済のヘゲモニーをめぐる米中の対立構造は,これからの世界史を大きく規定していくことになるが,これに割って入るかのように,ロシア連邦のウクライナ侵攻が開始された(2022224日~)。第三次世界大戦を引き起こしかねないこの暴挙の背景には,プーチン大統領の強大であったソビエト連邦時代さらにはロシア帝国再興の夢があるとされるが,共通に問われているのは世界資本主義の行方である。世界はどこへ向かうのか,今のところ誰にも予測できない。

第二に,ICT(情報伝達技術)革命とインターネット社会の到来,そしてAIの出現がある。インターネットthe Internet(インターネット・プロトコル・スイートTCP/IPTransmission Control Protocol/Internet Protocol)の起源は1960年代に遡るが,インターネットを用いて複数のコンピュータ・ネットワークを相互接続した地球規模の情報通信網の形成が開始されるのは1980年代後半であり,インターネットを基にした世界初のWWWWorld Wide Web)が初めて実装されたのは1990年末である。そして,21世紀に入って,膨大なデータを保持,圧倒的な競走優位な立場に立った巨大なプラットフォーマーGAFAM(グーグル,アマゾン,フェイスブック,アップル,マイクロソフト)が出現する。インターネットが普及し始めた頃のWebWeb1.0,すなわち読むだけのWebの時代,FacebookTwitterが登場して双方向になってきたのがWeb2.0とされる。さらに,オープンAIによるChat GptGenerative Pre-Trained Transformer)が出現(2022),GAFAMが瞬時に追い上げ,あっという間に生成AIが社会に浸透しつつある。

第三は,世界史の転換どころではない。地球環境そのものの危機(転換)がフィードバック不可能な点にまで近づきつつある。「人新世Anthropocene」という言葉が一般的に流布することになったのは,オゾンホール関する研究でノーベル化学賞を受賞した(1995パウル・ヨーゼフ・クルッツェン(19332019)が2000年に用いて以降であるが,46億年の地球の歴史に比すれば瞬時と言っていいホモ・サピエンスの活動が,地球の環境システム全体に影響を及ぼすことは驚くべきことである。

地球環境の危機の起源となるのは産業革命である。世界人口の幾何級数的な増加は産業革命によって引き起こされる。19世紀初頭の世界人口は約10億人と推定されている。それ以後の人口増加率の劇的変化は明瞭である。それでも20億人に達するまで(1927100年以上を要したが,その後の人口増加はすさまじい。グレート・アクセラレーションと呼ばれるのは,化石燃料,とりわけ石油を大量に消費し出した20世紀後半以降である。そして,気候変動による異常気象は連動しており,わずかに思える平均気温の上昇が地球環境全体のバランスを崩し,転換点を超えてしまう恐れがあるということである。転換点とは,最終氷期(ヤンガードリアス期)の終結から現在にいたる1万年(完新世Holocene)とは異なる時代に移行する閾を意味する。仮にIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が目標とする1.5°上昇以下に抑えられたとしても,産業革命以前に戻るには数百年はかかるとされる。

この大転換に際して,国際社会は右往左往,一致した方向を見いだせないでいる。193ヶ国が加盟する国際連合The United Nationsは完全に機能不全に陥ってしまっている。気候変動に関する政府間パネルIPCCIntergovernmental Panel on Climate Change)が国際連合環境計画UNEPと世界気象機関WMOによって設けられたのは1988年,リオ・デ・ジャネイロで「環境と開発に関する国連会議」(地球サミットCOP(締約国会議)1)が開催されたのは1992年であるが,気候変動,地球温暖化問題への各国の対応が遅々として進まないことは,スウェーデンの若き環境活動家グレタ・トゥーンベリ(2003~)が厳しく告発するところである。

本書が問いたいのは,近代の国民(民族)国家Nation Stateシステムに代わる世界システムである。世界共和国への道を見失って,自国第一主義に陥り,国家間の複雑にもつれた関係を解くことができない中で,国民(民族)国家に代わる基礎単位として注目するのは都市である。国家,中央銀行によるコントロールの不安定な枠組を超えて連携する都市ネットワークによる世界システム構築の可能性である。ブロックチェーンの技術を基盤として,仮想通貨,NFT(非代替性トークン Non Fungible Token)によって運営される,中央集権ではない分散型自立組織DAODecentralized Autonomous Organizationのネットワークがそのイメージとなる。

1950年に253600万人であった世界人口は,1989年には523700万人で,50億人を突破したのは198687年とされるが,以降も人口増加はとどまることを知らず,ほぼ約12年毎に10億人増加して,2022年には80億人を超えた。今や人口1000万人を越えるメガシティは38都市(2019[1]に及ぶ。このメガシティを産むのは,「差異」=格差拡大を駆動力とし,安価な労働力,物資を求めて,国境,制度,規制を超えて浸透していく資本主義システムである。分散型自立組織としての都市のネットワークが必要なのは明らかなように思える。

冷戦構造が崩壊して以降,ICT革命が進行,地球温暖化が加速してきた(グレート・アクセラレーション)時代は,ほぼ日本の平成時代(19892019)に重なる。オイルショックによって,高度成長期からの転換を余儀なくされた日本は,低成長かつ安定成長を前提とする社会編成に向かうかに思われた。しかし,19859月の先進5か国 G5 (米英仏独日)蔵相・中央銀行総裁会議における為替ルートの安定化(円高ドル安に誘導)の合意(プラザ合意)によって,高度経済成長期の再来かのような好景気が訪れる。しかし,199014日の大発会から株価の大幅下落が始まる。振り返れば,198612から19912月までの51か月間がバブル経済期(平成バブル,平成景気)であった。以降,日本経済が回復することはない。日本経済の長期低迷期は「失われた30年」と言われる(吉見俊哉(2019))。

この間の日本の国際的地位の低下は覆うべくもない。日本の一人当たり名目GDP(国内総生産)は,1990年代前半にはアメリカ合衆国を抜いて世界一となった。しかし,バブル経済が崩壊した1992年以降,GDPの成長率は,年平均1%前後で推移する。2010年には国内総生産GDPは中国に抜かれて世界第3位になる。それどころか,日本の一人当たり国内総生産は世界28位(国際通貨基金202227位:世界銀行・国際連合2019)にまで低下している。日本企業の弱体化も明らかである。平成元年には,世界の上位50社のうち33社が日本企業であったのに,30年後には35位のトヨタ自動車のみとなっている。

財政破綻 債務残高GDP2倍超の異常,格差拡大,富裕層と貧困層の二分化,行政(官僚)システムの劣化 縦割り行政の硬直化,食糧・エネルギー自給率の過少化など,日本という社会,国家が抱えているクリティカルな問題については,本論で確認するが,本書が焦点を当てる最大のプロブレマティークは,東京一極集中と地方の空洞化である。加えて,日本が世界に先駆けて少子高齢化社会に向かいつつあるということがある。

日本の総人口は,2013年以降,減少に転じた。2070年には8700万人に減少すると推計されている(厚生労働省人口問題研究所20234月)。世界の総人口も21世紀後半には減少に転じることが予測されている。地球が「持たない」ことははっきりしているから,どのようなシナリオになろうとも,一極集中,貧富拡大の資本主義モデルとは異なる社会システムが必要とされていることは明らかであり,日本が世界に先駆けてその社会モデルを実現する大きな意味がある。分散型自立組織としての都市のネットワーク・モデルは,その大きな指針となる。

 



[1] “Demographia World Urban Areas”, 15th Annual Edition, April 2019

2023年3月22日水曜日

布野修司編:建築.まちなみ景観の創造,建築・まちなみ研究会編(座長布野修司),技報堂出版,1994年1月(韓国語訳 出版 技文堂,ソウル,1998年2月)

 『建築・まちなみ景観の創造』(韓国版)への序文

布野修司


 本書が趙容準博士を中心とするグループによって韓国語に翻訳されることを大変うれしく思います。本書が韓国の美しいまちなみ景観の創造のために寄与することを心から願います。

 論文でも述べましたけれど、景観は、本来それぞれの地域で固有な特性をもっています。それぞれ固有の土地(生態環境)に住む人々の生活が景観をつくりあげます。景観はそれぞれの地域の文化の表現だと思います。

 しかし一方、近代化の波が世界を襲い、地域に固有な景観は次第に失われつつあるように思います。寂しいことです。そうした中で、私たちはどのように対処すればいいのか、考えようとしたのが本書です。きっと、韓国でも同じような問題があるのだと思います。

 韓国のいろいろのまちや村を歩いたことがあります。それぞれ独特の景観を感じることができます。一方、日本と比較すると韓国の景観の共通の特徴も感じます。また、日本と似ていると思うような景観もあります。もしかすると、アジアに共通するような特性も議論できるかもしれません。地域毎に固有な景観なのですが、それを受け取る景観感覚(センス・オブ・ランドスケープ)には共通なものがあるのかもしれません。また、風水説は東アジアの景観についての共通の基礎を与えているのかもしれません。さらに、アジアに視野を広げて見る必要もあるでしょう。カオスのような、サラダボールのようなと形容される都市景観は、ヨーロッパとは異なったアジアに共通な特性であるように思います。

 本書は日本のコンテクストについてのみ書かれているのですが、本書の韓国誤訳を機会にもう少し広い視野で景観の問題を考えて見ようと思っています。

 もちろん、大事なのはそれぞれの地域で創造性を豊かな町並みを創り上げていく仕組みです。日本でも様々な試みを展開しようと思っているのですが、韓国でもユニークな取り組みを期待したいと思います。

                                           1996年10月1日

2021年6月16日水曜日

組織事務所の原点・・・産業社会と建築家 東畑謙三の「工場建築」

 布野修司監修:待てしばしはないー東畑謙三の光跡,日刊建設通信新聞社,19995

 

組織事務所の原点・・・産業社会と建築家
東畑謙三の「工場建築」

 

布野修司

 

 はじめに

 一九九八年四月二九日、東畑謙三は逝った。享年九六歳。大往生である。

 五月一三日、西宮市山手会館で東畑建築事務所による社葬が執り行われた。その業績は、親しく師事した、後輩の横尾義貫、佐野正一両先生の心のこもった弔辞に的確に表現されている*[1]。横尾先生が思い出として述べられたのは、京大建築会の草創の頃の『建築学研究』*[2]の発刊、東畑建築事務所の開設、京都大学での教育*[3]、そして日本建築総合試験所の創設*[4]である。加えて、佐野先生が挙げられるのが、大阪大学での教育、日本建築協会での活動*[5]、大阪万国博(一九七〇年)の会場設計についての組織化などである。二人とも口を揃えて、趣味人、愛書家、蔵書家としての東畑謙三にも触れられている。

 本書は、東畑謙三と東畑建築事務所の軌跡をその著作、作品、発言をもとに構成しようとしたものである。本書の企画に当たって新たにインタビューを試みることになっていたのであるが、既に体調を崩されていて、不可能であった。やむを得ず、本書に収録するインタビュー構成(これまでのインタビュー、対談等を再構成したもの)に眼を通して頂くことにしたのであるが、それも叶わなかった。直接お会いすることのないままお別れの時を迎える、それを予感しながらの編集作業であった。

 編集の過程で、多くの資料を収集した。また、多くの人々にインタビューも試みた。さらに、新たに東畑謙三論の執筆を求めた。本稿は、そうした編集作業を通じて得られた資料をもとに、東畑謙三という「建築家」のひとつの像を描き出そうとする試みである。

 

 建築家・東畑謙三

 東畑謙三は一九〇二年に三重県に生まれた。四兄弟の三男で、長兄は著名な農政学者で東京大学教授を務めた東畑精一(一八九九~一九八三年)。次兄、速見敬二も学者である。一橋大学から京都大学に移って学を修め、國學院大学教授を務めた。弟、東畑四郎は、東大法学部を出て、農林事務次官を務めている。学者一家、エリート一家である。東畑謙三に学者の素質があったことは疑いないところである。

 三高に通う頃、京都ではじめての鉄筋コンクリート造の建物、京都大学建築学科本館が建設中であった。仮囲いがとれ、チョコレート色の本館が現れるのをみて面白いと思ったのが、建築を志すあるきっかけになったという。父親に、建築をやりたい、と言ったときのエピソードが面白い。「大学まで行って大工になるのか」と言われたのである。昭和初頭の大学の建築学科への一般の認識がよくわかる。

 三高を出て京都帝国大学の建築学科に入学、一九二六年に卒業する。京都帝国大学に建築学科が設置されたのは一九二〇年のことであり、草創期の京都帝国大学建築学科の昂揚のなかで建築を学んだことになる。東畑は建築学科卒業第四期生である。建築を志すきっかけになったというチョコレート色の本館で学んだ最初の学生のひとりである。

 日比忠彦(構造学)は既に亡かった(一八七三~一九二一年)けれど、武田五一(建築意匠学、建築家 一八七二~一九三八)以下、天沼俊一(建築史学)、藤井厚二(建築環境工学、建築家 一八八八~一九三八)、坂静雄(建築構造学)、森田慶一(建築論、建築家 一八九五~一九八三年)といったそうそうたる教授陣に薫陶を受けた。下宿の前の家の二階でよく勉強していたのが坂助教授だったとか、天沼先生の熱心な授業が面白くてクラス全員が歴史家になろうと思ったとか、分離派のプリンス、森田助教授が建築材料を教えていたのだとか、分離派の集会に行ったら、十人ちょっとしか参会者がなかったとか、様々なエピソードが後年語られている。

 卒業後、大学院に進学。東京の建築学会の『建築雑誌』に対抗する形で発刊された『建築学研究』の編集に携わる。原稿が集まらず、新雑誌紹介欄を設けて、L.コルビュジェ(一八八七~一九六五年)やT.v.ドゥースブルグ(一八八三~一九三一年)を紹介する記事を一人で書いていたという(文献参照)。二年の給費生期間が過ぎると、師である武田五一の命で「東方文化研究所」京都事務所(現京都大学人文研究所)の設計に携わることになる。一九二九年の三月から外務省の嘱託になっている。武田五一の代表作と言われるけれども、実質上は東畑謙三の処女作である。一心不乱に仕事に取り組んだ様は、後年生き生きと振り返られている。

 その後続いて新大阪ホテルの設計で一九三一年から一年大阪市の嘱託を務めた後、独立、事務所開設に至る。一九三二年暮れのことであった。

 以後、事務所の歴史は六〇年の還暦を超えた。現在は三五〇名にのぼる事務所員の数の推移がその発展の歴史を物語っている。東畑謙三建築事務所といえば、戦前にルーツをもつ、代表的な組織事務所のひとつである。

 東畑謙三が事務所を開設した頃、大阪の主な設計事務所としては、安井建築事務所、渡辺節建築事務所、横河建築事務所、松井(喜太郎 一八八三~一九六一年)建築事務所、置塩(章 一八八一~一九六五年)建築事務所などがあった。安井武雄(一八八四~ ● )が片岡事務所から独立したのが一九二四年、村野藤吾(一八九一~一九八四)が渡辺節建築事務所から独立したのが一九二九年である。安井、村野が四〇歳近くでの独立であるのに対して、弱冠三〇歳の独立であった。

 日本を代表する近代建築家と目される前川國男(一九〇五~一九八六)の独立は一九三五年のことである。同じ三〇歳であるが、東畑は三つほど年長であり、一足早いスタートであった。

 

 「工場建築」と「美術建築」

 前川國男の軌跡*[6]と比べると、日本の近代建築の歴史における東畑謙三の位置がくっきり見えてくる。時代と社会に対するスタンスが陰と陽と思えるほど対極的なのである。

 同じようにL.コルビュジェに心酔したといっても直接そのアトリエで学んだ前川とC.R.マッキントッシュ(一八六八~一九二八年)流のアール・ヌーヴォーの作法を身につけた武田五一のもとで学んだ東畑では出発点が違う。前川國男の場合、近代建築の実現という課題が常に意識されており、日本の建築界をリードしていくのだという使命感が鮮明なのであるが、東畑の場合、他をリードし、啓蒙するといった構えはない。書かれた文章から容易にそのスタンスの違いをみることができる。東畑の文章はそう多くないし、限定されたテーマに関するものがほとんどである。

 何よりも二人の建築家を区別するのは「工場建築」である。東畑は「美術建築」という言葉を使う。「芸術としての建築」というより、いわゆる公共建築のことと考えていい。前川が敢然と闘争を挑んだ数々の設計競技(コンペティション)の世界、モニュメンタルな建築の世界が全体として「美術建築」と呼ばれている。それに対して、東畑が選びとったのが「工場建築」の世界である。

 独立のため洋行し、アルバート・カーン(一八六九~一九四二年)の「工場建築」に深く感動して「工場建築」を始めることになったというのが有名なエピソードである。アルバート・カーンは、シカゴやデトロイトでフォードやゼネラル・モーターズの自動車工場を手掛けていた建築家である。もちろん、アルバート・カーンの作品を見た後、初めて「工場建築」を志したということではない。既に決断はなされつつあった。事務所開設の後援者であり、外遊のスポンサーであった義父、岩井勝次郎から「産業的な建築、すなわち工場建築を勉強してこい」と言われているのである。カーンの作品を予めリストして出発したのであった。

 しかし、最初に赴いたのはヨーロッパである。ローマのパラッツォ・ファルネーゼのスケールに感動した話など後年振り返られるところだ。「イタリアルネッサンス建築」*[7]といった記事も書かれている。ヴィトルヴィウスの『建築十書』のイタリア語初版本など、青林文庫のコレクションを思うとき、「西欧建築」への思いは後々まで断ち切り難かったようにも思えるのである。

 彼にはある自負があった。ヨーロッパの新興建築の動向に通じているのは自分だ。身近に接した分離派の先生方も、ペルツィッヒやメンデルゾーンに言及するだけだ。コルビュジェを日本に最初に活字にして紹介したのは自分だ。だから、コルビュジェからアルバート・カーンへの転向には多少のためらいがあったのではないか。しかし、実際に作品を見て、その徹底した合理主義の表現に心底感嘆したのであった。

 考えてみれば、近代建築の理念を具現する上で最も相応しい対象である。P.ベーレンスのAEGタービン工場など近代建築の傑作も多い。しかし、日本の「新興建築家」たちは、「工場建築」を主たる議論の対象とはして来なかった。そうした中で、紡績工場、製鉄工場をはじめとして「工場建築」を数多く手がけた日本の建築家の代表が東畑謙三なのである。

 「工場建築ははっきり答えが出る」

 「工場建築は、それぞれの産業に合った固有のスケールがある」

 書かれた文章は少ない中で、工場建築についての原稿がいくつか残されている*[8]。日本の近代建築の歴史において、「工場建築」を正面きって主題化し、実践した建築家は東畑謙三以外にはいないのではないか。

 

 「建築技師」と「建築家」

  東畑謙三は、自らを「建築技師」あるいは「建築技術者」と呼び、決して「建築家」とは言わなかったのだという。「市井の一介の技術者に過ぎません」というのが口癖だった。前川國男が終生追い求めた「建築家(アーキテクト)」像とその建築家像は対比的である。その建築を学んだ出発点において果たしてどうであったかは別として、フリーランスの建築家、芸術家としての建築家という意識は東畑には少ないのである。もちろん、日本建築家協会*[9]という職能団体との関係はある。建築士事務所協会*[10]が設立された時(一九七六年)は、むしろ日本建築家協会を引き継ぐ立場であったという。しかし、公取問題s*[11]などには関心は薄かったようだ。関西に拠点を置く日本建築協会、そして日本建築総合試験所といった組織がより身近な組織であった。

 いわゆる「建築家」とは違うという、その自己規定は、特にその初期において専ら「工場建築」を選びとって設計してきたことと無縁ではないだろう。 「構成技師」という言葉も使われるが、「建築技術者」という言葉には、エンジニアに徹するというより、産業社会の要求する建築をつくり続けてきたという自負が込められていると言うべきではないかと思う。

 そして、一五年戦争期(一九三一~四五年)における経験が決定的であった。東畑建築事務所は徹底した合理主義システムによって、仕事(体制)の要求に答えたのである。

 戦前から戦中にかけて、軍関係や工場の仕事で忙しい日々を東畑建築事務所は送っている。海軍の仕事は、竹腰健三事務所が横須賀、山下寿郎事務所が横須賀、東畑謙三が舞鶴と佐世保を分担したのである。

 ここでも前川國男をはじめとする一線の近代建築家と東畑は違う。というより、決定的な違いがあるというべきか。軍の仕事をすることは、ファシズム体制に協力することであり、日本の「近代建築家」にとって許すべからざることであった。しかし、専ら「帝冠様式」をめぐって論じられる一五年戦争期の建築のプロブレマティーク(問題構制)の土俵とは違う世界がそこにはある。すなわち、屋根のシンボリズムをめぐって日本精神や大東亜共栄圏の理想が論じられる基底で、戦時体制を建築技術者としてどう生きていくかこそが問われていたのである。

 書かれた近代建築の歴史においては、ほとんどの建築家が仕事がなかったということになっている。確かに、東畑のいう「美術建築」の世界ではそうかもしれない。しかし、戦時体制を支える軍需施設の仕事は体制挙げての課題であった。東畑謙三建築事務所はその課題に忙殺されたのである。

 軍関係の仕事をするのはタブーということで、日本の近代建築の歴史においてほとんど触れられていない。しかし、多くの「建築技師」が戦時体制を支えたのは言うまでもないことであった。基本的には、全ての建築家が戦時体制に巻き込まれたのであって、前川國男も例外でない。東畑謙三の場合、「工場建築」に生きる覚悟の上で懸命に一五年戦争期を生き抜いたのである。

 

 ある野心

 東畑謙三は、もしかすると、人生を間違えたのかもしれない。「清林文庫」の膨大なコレクションを眼にするとついそんな感慨に囚われる。

 建築家としての東畑の出発点には、処女作「東洋文化研究所」(現京都大学人文研究所)がある。北京で起こった団匪事件の賠償として中国から古文書二〇万冊を譲り受けるに当たって、東京と京都の帝国大学のそれぞれに一〇万冊づつ分け、外務省の所轄のもとに研究所を建てて保管することになった。それが「東洋文化研究所」である。そもそも一〇万冊の本を収める研究所がその原点なのである。

 立体書架のアイディアで、京都大学の文学部の諸先生とわたりあったエピソードが残っている。浜田耕作(考古学 一八八一~一九三八)、羽田亨(西域研究)といった碩学との交流は余程刺激的だったようである。中国の陶磁器や彫刻、絵画への傾倒はこの時に始まっているのである。浜田耕作先生には中国の建築の研究をやれと言われたというのであるが、「清林文庫」の貴重本の中には、アジアの建築についての本が目立つ。

 そもそも学者になりたかったのだ。だから、武田五一先生にお願いして大学院に入ったのだ。兄弟も、長兄の東畑精一をはじめ学者を志している。しかし、給費生が二年で切れるという現実があった。そして、「東洋文化研究所」の設計という仕事があった。しかし、建築学者になる夢は消えなかったのではないか。建築学者になる夢が戦後「精林文庫」のコレクションに結実したのではなかったか。

 転機はいくつか考えられる。

 「東洋文化研究所」の設計が実務への興味を呼び起こしたと、東畑はいう。「建築というものは実際やらんとおもしろくない」というのは、全くその通りだろう。しかし、実務ということであれば武田五一のもとでも続けられたであろうし、プロフェッサー・アーキテクトの道もあり得た。

 野心がわいてきたのだと、東畑はいう。

 「崇拝する先生というのは自分らの専門の先生だけではないということです。仕事をやっているうちに見解が広くなったわけです。だから必ずしも武田先生にばかりついて勉強していても、自分の道は開けてこない。なんと申しますか、野心的な思想がわいてきたわけです」。 

 しかし、単純に野心ということでもないと思う。大学院にいても、先の展望が見えなかったのである。武田五一の退官は三二年の一二月三日である。そして、結果として、事務所開設は一二月一三日なのである。三〇歳前にして京都帝国大学に居ても、学者としての展望がないとすればどうするか。洋行(三三年五月)を決める以前に、決断の時期は迫っていた。

 独立への決断の理由は身近にもあった。結婚は誰しも人生の画期となるが、義父となった岩井勝次郎との関係は大きかったと思う。岩井産業株式会社(日商岩井)の創設者であった義父は、東畑の独立を促し、支持するのである。義父無くして「建築技師」東畑謙三はなかった筈だ。

 

 構成の基礎概念

 決断には、さらに設計思想の問題があった。東畑の決断は、大袈裟に言えば、近代建築の理念の日本への受容の過程における、最も正統的な決断だったかもしれない。合理主義の思想を最もよく表現すると考えられたのが「工場建築」だからである。そしてそれは、武田五一のもとを離れることを意味した。

 「東洋文化研究所」は、武田五一の名において設計されたけれど、全ては東畑謙三のものである。処女作であり、代表作ともされる。しかし、東畑の回顧談には誇らしさはなく、むしろ、ほろ苦さが滲む。一方、T.v.ドゥースブルグの「新構成芸術の基礎概念」の翻訳やL.コルビュジェの紹介は誇らしげに語られる。

 東畑には、近代建築の基本的方向が自分なりに見えていた。東畑は海外の雑誌で学んだ合理主義の建築をやりたかったのである。だから、「東洋文化研究所」の仕事を勝手に中国風の建築の設計と考え、とまどい、断ろうともしたのである。文学部の諸先生との協同作業によって、貴重な仕事をやりとげることになるのであるが、結果的に主観的には敗北感の残る仕事となった。「妥協することを学んだ」というのであるが、徹底さを欠いたことを悔いるのである。徹底さとは何か。T.v.ドゥースブルグの「新構成芸術の基礎概念」の実現ではなかったか。

 既に「工場建築」をやるという覚悟の上での洋行ではあったけれど、上述したように、アルバート・カーンのフォードやゼネラル・モータースの大自動車工場工場を直に見たことが決定的であった。

 「合理主義に徹したシカゴの大工場群を見たときは非常に感嘆しました。当時としては斬新な溶接によるラーメン構造、非常に明るい工場の計画、整然と配置された運搬装置等を見て、なるほど義父が言ったとうり、これが建築家として行くべき道だと思い、眼が洗われたような気がしました。」

  日本人建築家が、L.コルビュジェ、W.グロピウス(一八九六~一九五九)、F.L.ライト(一八八三~一九六九)など近代建築の巨匠たちに師事する中で、東畑はアルバート・カーンに帰依したのである。テーラー・システムの工場とともにアメリカの資本主義社会がモデルとして、はっきり意識されたのだと思う。

 

 合理主義と個の表現

 戦後間もなくの混乱期の苦労はともかく戦後もビルブームが起こる頃から順調に仕事があったように思える。日本の戦後社会は急速にアメリカ化していく。東畑が戦前に目指した合理主義の建築の時代がやってきた。工場から事務所ビルへ、作品のウエイトは移って行くけれど、日本の戦後社会を支える仕事が一貫して続けられることになる。

 六〇年代以降、都市再開発の仕事へと業務が拡大していくのも、その基本姿勢から極自然に理解できる。振り返って見ると、東畑謙三の「建築家」としての軌跡には、事務所設立以降全く屈折はないのではないか。彼は、事務所をベースに一貫して合理主義の建築を目指し、実現してきたのである。

 もちろん、その合理主義は与えられた条件のもとでの合理主義である。与えられた枠組みにおいて、目的、手段、過程を明確にすることによって最適の解を求めるのが合理主義であるとすれば、与えられた条件のもとで、というのは当然のことである。ひとつ指摘できるとすれば、東畑は、その与えられた枠組みを問うことはなかったように見えることである。産業合理主義の世界をそのまま受け入れ、「建築技師」としてそれを建築化することを出発点とすることにおいて、屈折することはなかったのである。

 東畑が個の表現にこだわらなかったのもそれ故にである。こうして処女作「東方文化研究所」における当人の屈折を理解できる。われわれは逆にそこに個の表現を見て、東畑謙三という個の臭いをかぎつける。そうした臭いのする作品は、他に、自邸と辰馬考古資料館(一九七六年)、奈良・依水圓寧楽美術館(一九六九年)ぐらいであろうか。

 中国陶器をはじめとする美術への造詣も、もしかすると、個のアイデンティティの表現であったかもしれない。「美術建築」と「工場建築」との間の内なる葛藤が美術品に眼を向けさせたのかもしれないとも思える。もともと美術が好きで建築を選んだのである。

 

  産業社会と組織事務所

 仕事があって組織がありうる、これは組織事務所の基本原理と言うべきであろう。東畑の口癖であったという「チャンスは前髪でつかめ」あるいは「待てしばしはない」という処世訓は、産業社会で生きていく厳しさを指摘するものであろう。

 東畑建築事務所の歴史を見ていて興味深いのは、平行していくつかの組織がつくられていることである。戦後間もなく不二建設が設立され、パネル式の組立住宅の供給が試みられたりしている。また、時代は下るが清林社という不動産部門がつくられている。

 設計施工の分離を前提とする建築家の理念に照らすとき、施工会社の設立は普通発想し得ないことである。しかし、実業界において設計施工の連携ということは自然の発想である。もっとも、東畑の場合、施工会社の経営はなじめず、建築事務所に専念することになる。やはり、美術好きの学者肌なのである。

 清林社は、古今東西の貴重な建築書のコレクションで知られ、東畑謙三の人となりの一側面を物語るのであるが、実質的な機能としては事務所の財産の担保が目的である。事務所員の生活を第一に考える姿勢がそこにある。主宰者の責任は事務所の経営を安定させることにまずあるのである。

 こうして、日本の建築士事務所のふたつの類型が見えてくる。いわゆるアトリエ派と呼ばれる個人事務所の場合、表現が先であって組織はそのためにある。組織事務所の場合、組織を支える社会システムがあって仕事がある。もちろん、二つの類型の間に截然と線が引かれるわけではない。個人事務所から出発して、一定のクライアントを獲得することによって組織事務所に成っていくというのがむしろ一般的である。個人名を冠した組織事務所の大半がそうであった。

 しかし、東畑の場合、最初から時代と社会に身を委ねる基本方針ははっきりしていたようにみえる。といっても、専ら、利潤を追求するということではない。彼に営業という概念はないのである。建築事務所は、技術を持った人を集め、その技術の知恵を提供して報酬を得る。それが経営の基本理念である。

 七〇年大阪万国博におけるまとめ役としての働き、日本建築協会の会長としての仕事、日本総合建築試験所の設立への努力など、その社会への貢献はもちろん事務所を越えて拡がっている。

 

 おわりに

 こうして見ると、今日の組織事務所は随分とその姿を変えてきたと言えるかもしれない。東畑謙三がくっきりとつくってきた組織事務所のあり方に照らせば、その変貌の姿が見えて来るのである。

 戦前期に設立された、個人名を関した建築設計事務所は時代の要求に答え、社会的役割を果たすことにおいて成長してきた。六〇年代の「設計施工一貫か、分離か」という大議論が示すように、ゼネコン(設計部)と肩を並べる一大勢力となったのが一群の大手組織事務所である。

 しかし、そうした建築設計事務所は、既に二代、三代と世代を変えつつある。九六歳という長寿を全うすることにおいて、東畑健三は、その最後の世代代わりを象徴する存在となった。

 組織事務所は、次第に、その創業者の個性、初心を忘れさる。組織が巨大化するとともに別の組織原理が働いてくる。組織の中に個が埋没する、それが一般的な傾向である。

 建築表現にける個と組織の問題は古くて新しい問題である。一般にアトリエ派と組織事務所という対立構図において、その差異が論じられるけれども、組織と個の関係はアトリエ派においても同じように問われる。今日の大手組織事務所の多くもかってはアトリエ事務所だったのである。

 東畑健三の「工場建築」の世界は、単純に個の表現を否定的媒介にして選び取られたものではないだろう。彼には産業社会の行方を読みとる力があった。前髪で時代を掴んだのである。

 組織事務所は何処へ行くのか。はっきりしているのは、建築界が大きな改革を経験しなければならないことである。「待てしばしはない」。時代を一歩先んじてつかんでいるもののみが生き残りうるのである

 

*1 「東畑謙三先生天寿を全うされる」、『建築と社会』、一九九八年七月号

*2 一九二一年四月、教官と在学生の親睦を図るために京大建築会が発足、また、若手の教官と大学院生を中心に建築学研究会がつくられた。一九二七年五月に機関誌「建築学研究」が創刊された。一九三三年二月まで着実に月一回出され、一一輯六八号まで号を重ねた。

*3 科目「建築計画各説」で、一九四七年~一九六二年、京都大学建築学科で非常勤講師を務めた。。

*4 佐野インタビュー註より

*5 佐野インタビュー註より

*6 拙稿「Mr.建築家ー前川國男というラディカリズム」、『建築の前夜 前川國男文集』所収、而立書房、一九九六年。

*7 ●文献リストより 『新建築』

*8 「工場建築の二つの行き方」、『建築と社会』、一九四〇年八月。「工場建築の諸問題」、『建築と社会』、一九六二年九月。

*9 佐野インタビュー註より

*10 佐野インタビュー註より

*11 佐野インタビュー註より



*[1] 「東畑謙三先生天寿を全うされる」、『建築と社会』、一九九八年七月号

*[2] 一九二一年四月、教官と在学生の親睦を図るために京大建築会が発足、また、若手の教官と大学院生を中心に建築学研究会がつくられた。一九二七年五月に機関誌「建築学研究」が創刊された。一九三三年二月まで着実に月一回出され、一一輯六八号まで号を重ねた。

*[3] 科目「建築計画各説」で、一九四七年~一九六二年、京都大学建築学科で非常勤講師を務めた。。

*[4] 佐野インタビュー註より

*[5] 佐野インタビュー註より

*[6] 拙稿「Mr.建築家ー前川國男というラディカリズム」、『建築の前夜 前川國男文集』所収、而立書房、一九九六年。

*[7] ●文献リストより 『新建築』

*[8] 「工場建築の二つの行き方」、『建築と社会』、一九四〇年八月。「工場建築の諸問題」、『建築と社会』、一九六二年九月。

*[9] 佐野インタビュー註より

*[10] 佐野インタビュー註より

*[11] 佐野インタビュー註より