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2023年7月1日土曜日

エコ・サイクル・アーキテクチャー,日刊建設工業新聞,19970331

エコ・サイクル・アーキテクチャー,日刊建設工業新聞,19970331


 エコ・サイクル・アーキテクチャー

 PLEA(パッシブ・アンド・ロウ・エナジー・アーキテクチャー)釧路国際会議(一月八日~一〇日)に出席する機会があった。出席するといっても、最終日の最後のシンポジウム「エコロジカルな建築」(司会:小玉祐一郎 問題提起者:ビヨン・ベルグ ヴァリス・ボカルダース 討論者:A.de ヘルデ、J.クック、A.トンバジス、岩村和夫、大野勝彦、野沢正光、布野修司)にコメンテーターとして出席しただけだから、全貌はとても把握するところではない。しかし、登録者数が一二〇〇名にもおよぶ大変な国際会議であり、今更ながらであるが、環境問題への関心の高さを思い知った。幸い天気には恵まれたのであるが、厳冬の釧路に集った多くの参加者の熱気に圧倒された。また、数多くの論文発表に大きな刺激を受けた。

 ベルグ氏はノルウエイの建築家で、生物学者も参加するガイア・グループを組織し、エコ・サイクル・ハウスの実現を目指す。総体的な生態原理に基づいて、住居を自然のサイクルと相互交渉するひとつの過程としてとらえようとしているのであるが、建築材料について絞った提起があった。興味深かったのは、モノマテリアルという概念である。モノマテリアルにも一次、二次が区別され、一次のものは木、藁、土など、要するに生物材料、自然材料である。二次モノマテリアルは、工業材料であるが単一素材からなるもの、鉄、ガラス、コンクリートなどである。厳密な定義については議論が必要であるが、基本はリサイクルが容易かどうかで材料を区分するのである。

 自然の生の材料であること、製造にエネルギーがかからないこと、公害を発生しないこと、フェイス・トゥー・フェイスの関係を基礎としてつくられること、という基本を踏まえて提案された木造住宅のモデルが興味深かった。全て木材を主体とするモノマテリアルでつくられ、手工具だけで組み立てられるのである。

 ヴォカルダー氏は、スウェーデンの建築家、研究者で、エコロジー学校の運動に取り組んでいる。学校施設をエコロジカルに設計計画することにおいて、環境教育をまさに実践しようというのである。いずれも、刺激的な報告であった。

 釧路が会場に選ばれたことが示すように、今回は、寒い地域の「エコロジカルな建築」について考えようということであった。そうした意味では、長年、東南アジアの居住問題を考えている筆者にはシンポジウムの席は、座り心地が悪かった。しかし、環境問題には、国際的な連帯が不可欠であり、南北問題を避けては通れない、というベルグ氏の発言もあって、「湿潤熱帯」では「エコロジカルな建築」の考え方も違うのではないか、といった発言をさせていただいた。高緯度では、ミニマルな建築がいい、というけれど、湿潤熱帯では、気積を大きくして断熱効果を上げるのが一般的である。実際、湿潤熱帯には伝統的民家には巨大な住宅が少なくないのである。小さい建築が少資源につながるというけれど、大きくつくって長く使う手もある。地域によって、エコ・サイクル・ハウスのモデルが違うのはその理念に照らして当然なのである。

 完全木造住宅のモデルはわかりやすいけれど、建材の地域循環はどのような規模において成立するのかも大テーマである。木材資源は日本でも豊富といっていいが、山を手入れする労働力がない。輸入材の方が安い、という現実をどう考えるか。建材をめぐる南北問題をどう考えるか。熱帯降雨林の破壊はどうすればいいのか。シンポジウムの席でいろいろ刺激を受けたのであるが、つい考えるのは東南アジアのことであった。実をいうと、J.シラス(スラバヤ工科大学)をはじめとするインドネシアの仲間たちと湿潤熱帯用のエコ・サイクル・ハウスのモデルを考えようとしているせいでもある。

 二一世紀をむかえて、爆発的な人口問題を抱え、食糧問題、エネルギー問題、資源問題に直面するのは、熱帯を中心とする発展途上地域である。経済発展とともにアセアン・テン地域にも急速にクーラーが普及しつつある。一体地球はどうなるのか、というわけであるが、クーラーを目一杯使う日本人の僕らがエコ・サイクル・ハウスを東南アジ諸国に押しつけるなど不遜の極みである。まず、隗よりはじめよとJ.シラス先生に怒られながら、暑い国のエコ原理を学ぼうと少しづつ勉強をはじめたところである。


 

2023年6月7日水曜日

清渓川「再生」の衝撃,居酒屋ジャーナル2,建築ジャーナル,200608

   清渓川「再生」の衝撃,居酒屋ジャーナル2,建築ジャーナル,200608

 清渓川[再生]の衝撃

 布野修司

 

清渓川[再生]事業は、想像以上に衝撃的であった。

「実際見るまでは?」、と疑心暗鬼であったわけではない。既に日本語で清渓川プロジェクトについての本も出ているし、実際見てきた人の話も聞いていた。小池百合子環境相が絶賛し、伝え聞いた小泉首相が、「東京の日本橋の高速道路もなんとかならないか」と発言、影響は日本にも及んでいる。日本橋界隈のまちづくりをめぐって委員会が立ち上げられているのである。首都の都心から高速道路を撤去するという、その事業がとてつもなく画期的であることは直感を通り越して確信するところであった。しかし、これほどまでに複合的かつ重層的なねらいを持った錬りに錬られた計画とは思わなかったのである。「ソウルの革命」は、決して大袈裟ではない。

 

アジアに学ぶーー都市・建築の再生という課題

日本建築学会の建築計画委員会の委員長に選出されて(200510月)最初の仕事が、委員長担当マターだという2006年度春季研究集会の企画(62日~4日)であった。秋の研究発表大会とは別に、春には建築計画委員会独自に、例年、話題の作品やプロジェクトの行われた地域に出掛けて見学会や講演会、シンポジウムなどを行うのが恒例である。すぐさま思いついたのは、春季研究集会を国外、アジアのどこかで行うことである。この間、アジア建築交流委員会の委員長を務めていて(20012006年)、アジア国際建築交流シンポジウム(ISAIA)への日本人研究者の参加を組織してきており(2002年:第4回重慶大会、2004年:第5回松江大会、2006年:第6回大邱大会)、また、日中韓の三建築学会が発行する英文論文集(JAABE)委員会のフィールド・エディター(日本委員長:2005年~)としても、建築計画委員会のアジアへのフィールドへの参画が必要だと痛切に感じていたからである。

結果として、ソウルにおいて行うことにしたのは、第一に、講師に御願いした朴勇換(火ヘン)教授(韓陽大学)、金泰永教授(清州大学)をはじめ、韓三建准教授(蔚山大学)など韓国の研究者たちとのパイプ(研究交流)があったことが大きい。朴勇換教授は、東京大学の建築計画講座(鈴木成文研究室)の出身で、共に学んだ学友(先輩)である。金泰永教授は、朴重信(滋賀県立大学客員研究員)を通じて、日本人移住漁村に関する共同の調査研究を行ってきた。また、韓三建准教授とは、京都大学で慶州、蔚山の都市形成史について共同研究したことがあり、現在、その弟子である趙聖民君(滋賀県立大学博士後期課程在籍)と一緒に鉄道官舎を核とする旧日本人町の調査研究を展開中である。そして第二に、ソウル周辺で、面白いプロジェクトが陸続と行われているという、このネットワークから得られた情報によるところが大きい。

そして第三に、もちろん、この清渓川の復元再生事業が最大の関心としてあった。琵琶湖の辺(ほとり)にある滋賀県立大学(彦根)の環境科学部に属していることもあり、また、最近、宇治川(京都府)の平等院および塔の島周辺の景観委員会、また、故郷でもある松江(島根県)の、宍道湖と中海を繋ぐ大橋川改修に伴う景観まちづくりにコミットし始めたこともあって、川について学びたいという願望が個人的に強かった。しかし、建築計画委員会であるから、清渓川だけでは企画にならなかったであろう。ソウル市立美術館(旧京城裁判所のコンヴァージョン)、ソウルの森(浄水場の再生)、サンスン財団のリウム博物館(クールハウス、ボッタ、ヌーベル)などのメニューがあって、企画が可能となった。

当初は、安藤正雄、宇野求、松村秀一の各先生の予定を押さえ、十人程度でも密度の濃い研究集会ができればと思っていたのであるが、参加者は50人を超えた。それほど、清渓川[再生]事業についての関心は高かったのだと思う。

 

ソウルと清渓川

最初にソウルを訪れたのは、1976年のことである。当時は戒厳令が布かれ、24時を回ると外出禁止であった。明洞のホテルに泊まっていて、大慌てで帰宅する酔客を目撃したことを思い出す。二度目は、79年、地下鉄で写真を撮って、フィルムを寄こせと警察官にものすごい形相で難詰された。それから30年、何度もソウルを訪れているが、隔世の感がある。

1995年には北朝鮮を訪問(5月)した直後(7月)、空間社のサマー・スクールに出掛けて、スライド・レクチャーをしたりしたこともあるー日本の当局から不審がられて問い合わせを受けた。空間社を金壽恨の死(1987年)後、その跡を継いだ張世洋が呼んでくれたのであるが、彼とは同い年で飲み友達であった。実に惜しいことに、彼も師と同様、釜山でのアジア大会競技場の建設中に、過労死したー。

この1995年は、太平洋戦争後50周年の節目の年であった。前年、旧朝鮮総督府(国立博物館)を爆破解体する、という報道がなされ、その帰趨が注目されていたが、結局、このデ・ラランデによる傑作は、解体されて今はない。「日帝断脈説」という。日本帝国主義が、「大韓民国」の命脈を断つために、風水上の要地(脈)に杭を打ち込むがごとくに建設したと考えられていたのが旧朝鮮総督府である。保存を訴えた日本人研究者もいたが、どんな傑作であれ、壊されるべき建物はある(ポリティカル・コレクトネス)と僕は思っていたし、今でもそう思う。朝鮮総督府建設の際に、柳宗悦と今和二郎がその解体を惜しんだことが救いであったが、そのため移築され難を逃れていた光化門は元の位置に戻され、景福宮周辺はかつての姿を想起させるかたちに復元されている。

清渓川の水源(漢江の水をポンプ・アップする)が置かれたのは、この景福宮とそう離れてはいない。風水上の祖山である北岳山を焦点とする南北軸上、景福宮の南に位置する。そして、その南、西側には徳寿宮、東側向かいにはソウル市役所がある。このソウルの目抜き通りは、李氏朝鮮王朝の太祖が首都と定め、第三代太宗が遷都した時から、ソウルの中心である。市庁舎前広場は、ほんの小さな広場だけれど、ワールド・カップ・サッカー(2002)の時に、パブリック・ビューイングの場所となって以来、ことある毎に数十万人が蝟集する韓国一の国民統合の象徴的場所になった。

清渓川は、北の北岳山、仁王山、漢江を背にする南山、そして東に位置する駱山(駱駝山)から流れる小川を集めて東流する。その名がかつての姿を思わせるが、朝鮮時代初期から、乾期の汚染が酷く、洪水を繰り返すことから、埋立て論があったという。偉いのは、太宗で、河川を埋めるのは自然の摂理に反すると、そうしなかったという。治水、利水の悪戦苦闘があって、清渓川の原型が出来上ったのは、第十代英宗の頃(18世紀半ば)という。

この首都のど真ん中を流れる清渓川が人びとの生活において大きな意味を持ってきたことは言うまでもない。そして、日本統治期、さらに独立後の都市発展の過程で、その意味を失ってきたであろうことも想像に難くない。日本統治時代に、暗渠化の提案がなされ、一部実施されている。また、1958年から1978年にかけて実際暗渠化が行われたのである。清渓川は、上下水道、電気設備他のインフラを収めるトンネルとなるのである。それと並行して(19671976年)建設されたのが清渓高速道路である。清渓川は、ソウルの都市発展の軌跡をものの見事に象徴していたのである。そして、清渓川[再生]事業は、また、ソウルのみならず多くの都市の行方を指し示しているように思える。

以下、研究集会(「韓国における建築計画の現状」朴勇換(ひへん)、「近代化遺産の保存と再生」金泰永、「韓国における都市再生の試みー清渓川復元ー」許火英(ひへん))での、清渓川復元プロジェクトを陣頭指揮した許火英(ひへん)・現ソウル市住宅局長のパワー・ポイントによるプレゼンテーション(Cheong Gye Cheon Restoration Project- a revolution in Seoul -)の要点を記してみたい。プロジェクトの概要は、春季研究集会のために、朴重信、趙聖民および滋賀県立大学の学生諸君によって用意された資料に委ねたい。

 

ソウルの革命―清渓川【再生】事業の目的

許火英(ひへんに英)のプレゼンテーションは、「ソウルの革命」をサブタイトルとする。まさに「革命的」事業である。

何故、復元かについて次の4つの理由があげられる。

1 Paradigm shift of urban management

Development à High quality of life

Functionality and Efficiency

Environmental protection and preservation

Human-oriented and Environment-friendly city

2 Recovery of 600 year-history and culture

Rediscover of Seoul’s historical roots and original look

Cultural space for all citizens

3 Fundamental solution to safety problem

Structures (covering and elevated highway) beyond repair

Deterioration accelerating severe pollution of stream

4 Revitalization of downtown area

Stimulate urban redevelopment of neighborhood around CGC stream, a slum due to dilapidated buildings aged 40-50yrs

機能性や効率ではなく環境保護と保存を唱い、都市管理のパラダイムシフト(1)を第一に掲げるプロジェクトの目的はわかりやすい。これが単なるお題目ではないことは事業内容が充分示している。加えて、600年の歴史的環境、景観を復元する、という目的(2)も、上述のような、ソウルの歴史文化的核心に位置することから明快である。景福宮の復元から連続する事業と言っていい。景福宮から昌徳宮(秘園)の間には、旧漢城の北村がある。約860棟の韓屋が残っている。「冬のソナタ」の撮影地となったことから、日本でもよく知られるようになった。事業に先立って、歴史文化遺跡調査が行われ、かつての石橋など遺構が発掘されてもいる。

一方、実際には、環境再生を目指さざるを得ない直接的な理由があった。

清渓高速道路(南山1号トンネルから馬場洞まで全長5.8km)は、建設後20年を経て、劣化が明らかになり(19911992年調査)、補修が必要となっていたのである。高速道路撤去決定の段階では、一時しのぎの補修、改修ではとても経済的にも物理的にも間に合わない状況であった。加えて、清渓川の汚染、クロム、マンガン、鉛など重金属による汚染が大きくクローズアップされていた。すなわち、安全の問題(3)の理由が発端である。

しかし、だからといって、高速道路の撤去、暗渠の撤廃という、ことにすぐさまつながるわけではない。莫大な損失と過去の失政を認めて、しかも、さらに大きな投資を行う決断は並の政治家にはできないだろう。清渓川復元を公約に掲げて当選した李市長の豪腕がすごい。次期大統領候補の噂もさもありなんである。このプロジェクトが真にねらいとするのが清渓川周辺の町の活性化(4)である。清渓川周辺には、50坪未満の建物が密集しており(6,026棟)、露店も多い(約500店)。清渓川[再生]を都市[再生]へと結びつけられるかどうか、これが今後の展開を含めて、真の評価の鍵となるだろう。

こうして1~4の目的が整理されるが、プロジェクトの実施に当たっては、さらに大きな問題がある。高速道路を撤去することが果たして可能か。交通問題が解決されなければ、絵に描いた餅である。

 ソウル市が採ったのは、迂回道路の新設、駐車場の整備、一方通行システムの導入、曜日毎の運転自粛制、バス、地下鉄など公共交通機関の輸送能力の増強など多岐に亘る。公共交通機関利用、不法駐停車禁止のキャンペーンも展開された。

今回の事業で、清渓川に架かる22の橋のうち、7つは歩行者専用とされた。すなわち、車依存から、歩ける都市への転換という方向も含意されているとみていい。いずれにせよ、清渓川復元は、第5の目的、都心交通システムの再編管理を前提とすることになる。清渓川[再生]事業が可能となったのは、この前提条件をクリアできたからである。どんな都市でもできるというものではおそらくない。

 さらに、清渓川の河川(流域面積61km2、総延長13.7km、幅2085m)としての再生も大きな問題である。清流が蘇るのでなければプロジェクトは台無しである。清渓川は、上述のように、集中豪雨の際には溢れる危険性があり(実際20017月、市庁周辺の中心部が洪水被害を受けている)、逆に干上がる時もある。内水処理の断面を充分考慮し(200年確率で、118mm/時を想定)、自ら水量を確保できない清渓川への用水は、高度に浄水処理を前提として漢江の水(120,000t/日)および地下鉄からの地下水(22,000t/日)が用いられることになった。この条件も、プロジェクトの成否には決定的である。漢江の存在が無ければ、成り立たなかった事業である。都市河川(平均水深40cm)ではあるが、随所にビオトープや湿地、緑地、魚道が配され、自然生態の再生も目指されている。撤去解体工事で発生する残滓物のほとんどもリサイクルされている。

 そして、以上に加えて、5.84㌔にも及ぶ清渓川周辺住民(60,000店舗、200,000人)の合意が必要である。20027月の計画発表から着工(200371日)までに、4000回を超えるヒヤリング、説明会が行われたというが、驚くべき短期間での合意形成である。もちろん、工事中の不便のために駐車場料金を補償したり、融資による支援、移住希望者や露店商への対応など、きめ細かい具体的な対策もとられた。目的というより、合意形成は事業の前提であり、ソウル市民にとって大きな経験となりつつある。市民が一本、一本植樹する「ソウルの森」(20056月開園)が市民参加型の公園として実現しつつあるのも、この経験と無縁ではない。行政当局にとって、真の「住民参加」「市民参加」の実現は最大の目的なのである。それにしても、事業担当者の、この事業にかけたエネルギーは想像を絶する。

 

清渓川[再生]事業の評価

火英・ソウル市住宅局長は、2003年1月から20063月まで、この三年間の事業前後についてのモニタリング(影響評価)結果について報告してくれた。

交通状況は、朝のピーク時で1718km/時、夕方のピーク時で12㎞/時、酷く悪くなってはいないという。流入出台数は、ソウル全体の数字であるが、156万台から127万台に減った(18.6%源)。清渓川高速道路を利用していた車は一日平均102,746台(清渓道路が65,810台)で、10万台の減少以上の効果があったことになる。中心業務地区の地下鉄乗降客は13.7%増えたという。周辺住民からの大きな反発はなく、むしろ、歩行者、商店の顧客は増えているともいう。

交通量が減れば、環境も大きく改善されるのは道理である。大気中の二酸化窒素NO2濃度は、69.7ppb.から46.0 ppb.に減った(34%減)という。水質も100250ppm12ppmBOD)となり、川がまさに蘇った。騒音レヴェルも減少、風の道が創出された。7月の気温は、一日だけの測定であるが、清渓川の街区側(36度)と川辺(28度)で大きく異なり、8度も低くなった。環境改善は、諸指標によるまでもなく、一目瞭然である。大気、水質、騒音、臭い、昼光、風などについての世論調査も8割は改善されたと判断しているという。

自然生態環境も大きく改善されつつある。魚類は、3種から14種に、鳥類は18種に、昆虫は7種から41種に、それぞれ増えたという。生物多様性は、環境評価の大きな指標である。

そして、許火英・ソウル市住宅局長がプロジェクトの効果として掲げたのが以下である。

1 Changes in the urban management paradigm

2 Historic restoration

3 Nature & ecological restoration

4 CBD regeneration

5 Good example of

solving conflicts over a public project

 ほぼ目的に掲げたことを確認するかたちであるが、5にあげるプロジェクト・マネージメント、合意形成についての経験がいい先例になったというのは、プロジェクト担当者の実感でもあり、自負でもある。

 プロジェクトの具体的内容については、様々に評価すべきことがある。ランドスケープ・デザイン、照明デザインなど、様々な議論があるだろう。また、沿線各地区のまちづくりについてはこれからである。残念ながら、今回は全区間について見て回る時間がなかった。

 

 さて、以上が、舌足らずであるが、清渓川[再生]事業の衝撃のいくつかである。事業の最終評価は、もちろん、後世に属すことになる。しかし、現時点で、日本が学ぶべきことは少なくない。

 何よりも評価するのは、事業の総合性である。言うまでもなく、単なるランドスケープ・デザインの先例なのではない。都心の骨格に関わって、インフラストラクチャーも含めた、歴史・文化・環境の総体に関わる事業であることである。清渓川からかつての橋の石材が次々に掘り起こされたことが象徴するように、都市の起源、その発祥の原点に触れる事業である。また、都市の依拠する自然を再発見する事業である。これこそ真の「都市再生」事業というべきである。

 「都市再生」とは名ばかりで、規制緩和による都市「再」開発が喧伝される日本の「都市再生」とは次元が違うと言わざるを得ない。

 また、驚くべき短期間に事業が実施されたことは驚嘆に値する。この強烈なトップダウン方式と合意形成の手法は、大いに研究する必要がある。長い時間をかけて、結局は、理念的にも空間的にも中途半端な結果にしかつながらないのが日本の都市再開発である。

 清渓川という川の特性、その規模や機能、立地などがプロジェクトの「成功」に関わっていることは言うまでもない。大阪や東京など、直接海につながる河川ではおそらくさらに複雑である。交通問題にしても、単純ではないだろう。

しかし、環境再生の試みについては、日本でも、すぐさま直接的に大いに参考になるのではないか。日本の河川、とりわけ都市河川が、その本来的な姿を失って久しい。一方、都市洪水が頻発する。異常気象もさることながら、都市環境そのものが「おかしくなっている」という他ない。各地で河川[再生]の試みが成されているが、単に景観意匠の問題に矮小化されている場合が少なくないのではないか。宇治川、大橋川で考えているのは、河川改修(治水)に絡んだ環境[再生]、さらには都市[再生]への筋道である。問題は、環境[再生]が、清渓川の場合のように、地区の経済活性化にもつながる、という条件が多くの都市の場合見出せないことである。

 

successful project management


2023年3月7日火曜日

パッシブ・アンド・ロ-・エナジ-・ア-キテクチャ-,雑木林の世界91,住宅と木材,199703

 パッシブ・アンド・ロ-・エナジ-・ア-キテクチャ-,雑木林の世界91,住宅と木材,199703

雑木林の世界91

パッシブ・アンド・ロウ・エナジー・アーキテクチャー

布野修司

 PLEA(パッシブ・アンド・ロウ・エナジー・アーキテクチャー)釧路国際会議「持続可能な社会に向けてー北の風土と建築」(主催:日本建築学会 PLEA1997日本実行委員会 実行委員長・小玉祐一郎 於:釧路市観光国際交流センター 一月八日~一〇日)に出席する機会があった。最終日の最後のシンポジウム「エコロジカルな建築」(司会小玉祐一郎 問題提起者:ビヨン・ベルグ ヴァリス・ヴォカルダー 討論者:J.クック(アメリカ)、A.de ヘルデ(ベルギー)、A.トンバジス(ギリシャ)、岩村和夫、大野勝彦、野沢正光、布野修司)にコメンテーターとして出席しただけだから、全貌はとても把握するところではない。しかし、登録者数が一二〇〇名にもおよぶ大変な国際会議であり、今更ながらであるが、環境問題への関心の高さを思い知った。

 OMソーラー協会の全面的バックアップもあり、工務店、地域ビルダーの参加も多かったし、釧路市民の関心も高かったように見える。何よりも、東京からフェリーでワークショップを行いながら参加した若い学生諸君の参加が賑やかであった。幸い天候には恵まれたのであるが、極寒の釧路を吹き飛ばす熱気が会場に溢れていた。また、数多くの論文発表に大きな刺激を受けた。

 PLEAについては、ほとんど知るところがなかったのであるが、第一回(一九八二年)のセントジョージ島(バミューダ)から回を重ねてもう一四回になるという。日本では第八回の奈良(一九八九年)に続いて二回目である。

 ベルグ氏はノルウエイの建築家で、生物学者も参加するガイア・グループを組織し、エコ・サイクル・ハウスの実現を目指す。生態原理に基づき、自然のサイクルと相互交渉する建築がその理念である。

 まず、興味深かったのは、モノマテリアル(単一素材)という概念である。モノマテリアルも一次、二次が区別される。一次モノマテリアルは、木、藁、土など、要するに生物材料、自然材料である。二次モノマテリアルは、工業材料であるが単一素材からなる、鉄、ガラス、コンクリートなどである。その厳密な定義をめぐっては議論が必要なように思えたけれど、要はリサイクルが容易かどうかで材料を区分するのである。

 自然の生の材料であること、製造にエネルギーがかからないこと、公害を発生しないこと、フェイス・トゥー・フェイスの関係を基礎としてつくられること、という基本原理を踏まえて提案された完全木造住宅のモデルが面白い。簡単なジョイントのみでなりたち、手工具だけで組み立てられるのである。塗料の問題が残るが、極単純かつラディカルな発想である。もちろん、木造一系統でいいのか、という疑問も沸いてくる。いわゆるスケルトン、クラディング、インフィルとシステム系統を考えて、リサイクル・システムを考える必要はないか。いずれにしても、日本ではどうも徹底しない。木造住宅といっても、木材の使用率は二五パーセント以下ではないか。

 ヴォカルダー氏は、スウェーデンの建築家、研究者で、エコロジー学校の運動に取り組んでいる。学校施設をエコロジカルに設計計画することにおいて、環境教育をまさに実践しようというのである。身近な環境をまず変えていこうという姿勢には感心させられた。日本でもエコロジー学校はつくられてもいいのである。マニュアルはつくられるけれど、一個一個の積み重ねが日本の場合弱い。二人の問題提起によって彼我の差異を様々感じさせられたのであった。

 釧路が会場に選ばれたことが示すように、今回は、寒い地域の「エコロジカルな建築」について考えようということであった。そうした意味では、長年、東南アジアの居住問題を考えている僕にはシンポジウムの席は、座り心地が悪かった。しかし、環境問題には、国際的な連帯が不可欠であり、南北問題を避けては通れない、というベルグ氏の発言もあって、「湿潤熱帯」では「エコロジカルな建築」の考え方も違うのではないか、といった発言をさせていただいた。

 高緯度では、ミニマルな建築がいい(ベルグ氏)、というけれど、湿潤熱帯では、気積を大きくして断熱効果を上げるのが一般的である。実際、湿潤熱帯には伝統的民家には巨大な住宅が少なくないのである。小さい建築が少資源につながるというけれど、大きくつくって長く使う手もある。地域によって、エコ・サイクル・ハウスのモデルが違うのはその理念に照らして当然なのである。

 建材の地域循環はどのような規模において成立するのかも大テーマである。国際的建材流通をどう考えるか。戦後植林した樹木が育ち、木材資源は日本でも豊富といっていいが、山を手入れする労働力がない。輸入材の方が安い、という現実をどう考えるか。建材をめぐる南北問題をどう考えるか。熱帯降雨林の破壊はどうすればいいのか。シンポジウムの席でいろいろ刺激を受けたのであるが、つい考えるのは東南アジアのことであった。

 実をいうと、小玉祐一郎氏の指導で、J.シラス先生(スラバヤ工科大学)をはじめとするインドネシアの仲間たちと湿潤熱帯用のエコ・サイクル・ハウスのモデルを考えようとしているせいでもある(雑木林の世界75「エコハウス イン スラバヤ」 一九九五年)。小玉祐一郎氏が釧路会議に出席をもとめたのは、「もう少し勉強しろ」という意味だったと、壇上で気がついた次第である。おかげでエコ・サイクル・ハウス・イン・スラバヤは実現に向かって動き出しそうである。

 二一世紀をむかえて、爆発的な人口問題を抱え、食糧問題、エネルギー問題、資源問題に直面するのは、熱帯を中心とする発展途上地域である。経済発展とともに急速にクーラーが普及しつつある。一体地球はどうなるのか、というわけであるが、クーラーを目一杯使う日本人の僕らがエコ・サイクル・ハウスを東南アジ諸国に押しつけるなど身勝手の極みである。まず、隗よりはじめよ、とJ.シラス先生に怒られながら、暑い国のエコ原理について設計しはじめたところだ。

 心強い身方がいる。釧路会議でも一緒だったのであるが、太陽エネルギー研究所の井山武司氏である。彼自身自宅をオートノマス・ハウスとして設計しており、今回はそれを発表したのであるが、熱帯についてはそれ以前に実績がある。バリ島にエコ・ハウスのモデルをすでに建設しているのである。


2023年2月6日月曜日

東南アジアのエコハウス,雑木林の世界60,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199408

 東南アジアのエコハウス,雑木林の世界60,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199408

雑木林の世界60 

東南アジア(湿潤熱帯)のエコハウス(環境共生住宅)

 

                布野修司

 

 今年の連休(五月二日~一〇日)は、かねてから通っているインドネシア・ロンボク島のチャクラヌガラの町を歩いた。応地利明先生(京都大学東南アジア研究センター教授)と二人で、聞き取り調査を行ったのである。聞き取り調査といっても簡単なもので、各戸のカーストを聞くのである。バリ人のヒンドゥー社会にはカーストが存在するのである。簡単といっても、町の全域になるから、歩いたのは一日八キロから一〇キロになろうか。カーストの分布図を作ることによって都市計画の初期の範囲がおよそ確定できるのではないかというのがねらいである。

 チャクラヌガラというのは、本欄でかって触れた(「ロンボク島調査」雑木林の世界  )ことがあるけれど、バリ・カランガセム王国の植民都市で18世紀に建設された。その極めて整然とした格子状パターンの都市がどうしてできたのか、探ってきたのである。また、イスラーム教徒とバリ人(ヒンドゥー教徒)の棲み分けに興味があった。ロンボクは三度目であったが、ひと区切りついた。今年中には報告書を書くことになる。

 東南アジア研究も長くなったのであるが、今年は「重点領域研究」として「地域発展の固有論理」を考える研究会(原洋之助(東京大学東洋文化研究所)座長)がある。この一五年で、東南アジアの各国は目ざましい発展を遂げた。また、遂げつつある。東南アジア全域に、普遍原理としての市場原理が浸透しつつあるようにみえる。そうした中で、地域発展の固有の論理というのがありうるのであろうか。地域性というのは存続しうるであろうか。地域の生態系はどうなっていくのか、等々がテーマである。

 また、新しいテーマとして、エコハウスについて考察・考案しようというプログラムがある。旭硝子財団から研究助成を頂くことになったのである。その目的、構想は以下の如くである。

 まず、東南アジアにおける伝統的な住宅生産技術の変容の実態とその問題点を明らかにしたい。この間の伝統的民家、集落の変化は極めて激しい。伝統的な住宅生産技術は大きく変容してきた。まずはその実態を把握する必要がある。特に焦点を当てるのは、次に挙げる四つである。

 ①工業材料および工業部品の導入とそのインパクト

 ②空気調和技術の導入とそのインパクト

 ③施工技術の変容とインパクト

 ④住宅生産組織の変容

 伝統的な住居集落については、これまでテーマにしてきたのであるが、「地域の生態系に基づく新たな住居システム」を具体的に考察するためにさらにつっこんで調査したいということである。

 また、様々な試みの中から具体的な要素技術を収集し、評価する。当面焦点は絞らず、あらゆる分野にまたがってみてみたい。計画技術、材料技術、施工、設備・環境工学のそれぞれに関して、可能な限り情報収集したい。この十数年で東南アジアも大きく変わりつつあり、AIT(アジア工科大学)、マレーシア工科大学、タイ工業技術研究所、スラバヤ工科大学、また、インフォーマル・グループのビルディング・トゲザー(バンコク)、フリーダム・トゥー・ビルド(マニラ)等々、それぞれに取り組みが重ねられているはずである。

 地域産材利用のその後はどうか、リサイクル技術はどのように展開されているか、パッシヴ・クーリングなどはどうか、雨水利用やバイオガスについてはどうか、まず、現状を把握したい。

 ジョクジャカルタにディアン・デサというグループというか財団がある。彼らは伝統的なコミュニティーや技術、生活の知恵をベースとすることによって、ハウジング活動のみならずトータルに農村コミュニティーに関わっていこうとしている。具体的に、例えば、バンブー・セメントによる雨水収集、バイオ・ガス利用の新しい料理用ストーブに関してのアセスメントなどを試みている。一〇年前に出会ったのであるが、その後の展開はどうか。是非、再び訪問して、その経験に学びたいものである。

 先進諸国の取り組みや日本の過去現在の取り組みについても事例を収集する必要がある。竹筋コンクリートについては、日本に何本もの論文がそんざいしているのである。そうした様々な事例を検討しながら、最終的には、湿潤熱帯におけるエコ・ハウス・モデルを提案できればと思う。また、実際に実験的につくってみたい。

 今のところ、以上のような構想とプログラムだけである。建設省建築研究所の小玉祐一郎先生と工学院大学の遠藤和義先生と研究会を始めたところだ。小玉先生は、環境共生住宅については第一人者といっていいと思う。湿潤熱帯のエコハウスについては、取り組みが遅れているということである。遠藤先生は、これを契機に東南アジアの住宅生産組織についての研究を開始したいという。十年ほど前に全国十地域で住宅生産組織研究を一緒に開始した経緯があり、若い研究者を加えて組織的に十年計画でやっていきたいという。楽しみである。

 フィリピンについては、ルザレスさん(京都大学森田研究室)がピナツボ火山の被災者の応急ハウジングの調査を行う。地域産材利用、廃棄物の再利用に興味がある。また、牧紀夫君(京都大学小林研究室)も、災害復興応急住宅についての研究を開始しており、それを手伝う。バリ、フローレスに続いて、リアウ地震(南スマトラ)、ジャワ津波の調査を行う。

 また、研究室の田中麻里さんは、タイの建設現場の飯場の居住環境についての研究(AIT修士論文)に続いてタイの農村部の調査を計画中である。また、脇田祥尚君たちはスンダのバドゥイを調査する予定である。また、吉井君は、建材流通の問題を修士論文にする予定である。

 それぞれの研究テーマを展開しながらも、ある程度組織的に情報が収集できるのではないかと期待しているところである。

 エコハウスのモデルになるのは、おそらく、伝統的な住居集落のあり方とそれを支えてきた仕組みである。ヴァナキュラーなハウジング・システムである。それに何をどう学ぶかが一貫して問われているのだと思う。